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帰城し、リザベルの様子を見てから書類をまとめに私室へ戻る。リザベルはあの後風呂でたっぷりと温まって、メイド達とカード遊びや摘み取った花でのブーケ・押し花作りなどをして遊んだ後、疲れ果てて眠ってしまったらしい。それらを話す時の侍女の楽しそうな顔といったら、羨ましいことこの上なかった。
「明日はドレスの下に平民の服を。馬車内で着替えてもらい、下町へ向かう」
そう告げると、侍女は驚いたように目をぱちぱちと瞬いた。
「外出とは聞いておりましたが、まさかお忍びで城下に降りる気ですか!?」
「あぁ。今、対外的には俺とリザベルの婚約はほとんど解消状態にある。そんな中卒業パーティ寸前に仲良く手を繋いで外出でもしたら、リザベルを傷付けたアイツらが気付いてしまうかもしれないだろう?」
侍女は納得しつつも眉尻を下げ、オロオロと視線を彷徨わせた。これはあと、もう一押しだ。
「それに、リザベルは今まで令嬢然とするためにかくあれと行動を制限されていた。雨にすら触れたことのない少女に、見たことのない景色を見せるのは罪だろうか」
侍女は「それを言われると」と小さく呟いた後で大きく息を吐き、了承を示した。
「わかりました。けれどどうか怪我をなさることが御座いませんよう、お気をつけください」
「肝に銘じておく」
1週間もかからず、リザベルは侍女達の心を掴んだらしい。それもそうだろう。社交界でも注目の華が、次期国母候補だった聡明な令嬢が、子供のお遊びでキラキラと目を輝かせ大喜びするのだから。身体中の傷跡を見たのなら尚更だ。薄くなりつつはあるようだが、消えるにはまだ時間がかかる。心の傷は、もっと深く治りようもないところまで来ているのだろう。瞬間的な傷なら克服出来るかもしれないが、基本的に心に付いた傷は治らないのだ。治ったように見えても、それは本人が忘れたか隠したかの2択であり、ふとした拍子に顔を覗かせる。永遠に蝕み続ける消えない傷なのだ。治ることなどない。もっと早く気付いていれば僅かにでも軽くなったかもしれないが、そんな"もしも"は今更考えたところでどうにもならない。
「…はぁ」
自室でペンを走らせながら、息を吐く。リザベルの教育係だったディアンと裁判長がまとめてくれた資料は膨大で、目を通すだけでもかなりの時間がかかる。更に今日訪れたブランフェル侯爵家について、そして新たな報告として上がって来た各家について、王族としての仕事と並行して情報集めを行う。卒業パーティの主催は王城だ。そして今回は卒業生に王族がいるのだから、当然俺にも仕事は回って来る。後は明日に回してそろそろ寝るかと首を回したところで、コンコンコン、と天井からノック音が聞こえた。
「"ルビーとサファイアが望むのは"」
「"若草の心に高鳴りを"」
「入れ」
影かどうかを判断する暗号である。確かルビーとサファイアが同じ石から出来ていると知って、それをリザベルに話した時に思い付いたものだ。とっくに知っていたらしい彼女は相変わらず微笑みを返すだけで、ちっとも楽しそうではなかった。だから彼女の瞳に因んだ若草色に、興奮を宿らせてみたかったという子供心だ。影から暗号を提案された際にこの出来事を思い出し、すんなり決めてしまった。影は驚いていたが、深く追求することはなく了承してくれた。
そんな些細なやり取りの根本も、当たり前となりすぎて忘れてしまっていた。俺の側には、いつでもリザベルがいたのだ。
影は音もなく天井から降りると、目の前で跪き報告を口にする。
「只今よりスレラト侯爵家に忍び込み、昼の調査隊と交代して参ります。ネーガルー公爵家にも既に調査隊を向かわせており、昼の部との交代は抜かりなく」
「あぁ。決して気取られるなよ」
「御意」
帰城してから相談したネーガルー公爵家への調査も始まったようだ。予定を確認したところで、俺はふとあることを思い付く。その提案は影の負担を大きくするものであるが、何となくそうした方が良いような気がした。指を組んだ手に顎を乗せ、にこりと微笑む。
「…なぁ、その調査に俺も同行することは可能か?」
俺の言葉に、影はぱちぱちと目を瞬く。瞬間顔面を真っ青に染めて、ぶんぶんと首を横に振った。
「いけません!我々は特殊な訓練を受けており、道ならざる道も使って向かいます!当然命の危険も伴います!貴方様の護衛を連れて行くことも叶わない中で、共するのは危険すぎます!!」
まぁそんな反応になるだろう。俺が付き人だったらこんな厄介な提案は何としてでも却下する。けれど、今はここで折れるわけにはいかなかった。
「剣術や暗殺者への対処などの術は体に染み付いている。護衛なしで動くことにも慣れている。お前達と同様、私も調査がしたいんだ。それに、現場で証拠を確認して必要情報を一気に集めた方が手っ取り早いだろう?もう日も少ない。出来るうちにやっておくべきだ」
「それはそうですが、御方は尊き身。どうかご自愛下さいませ」
「自愛が故の判断だが。俺はリザベルを守る自分を愛したいが為に、全てを白日の元に晒したいのだ」
「~~っ、殿下に何かあった時に責を問われるのは我々なのですよ!?」
絞り出すように、影は小さな声で叫んだ。
大体の王侯貴族にとって、使用人や民の命など比較の対象にならないほどに軽い。ブランフェル侯爵家が良い例だろう。民や商人などを下賤な者と見下し、道具のように扱う。あそこまで酷くはなくとも、心の何処かで似たような考えを持つ者は少なくない。
けれど、その考えは間違っていると思う。
貴族だって没落すれば平民になるし、そもそも命の重さに比重があってたまるかと思う。これは上であるからこそ抱ける感想かもしれないが、俺は軽々しく民の命を危険に晒したくはないし、自分の為に誰かが命を差し出す結果は許せない。そもそも国とは民あってのものだ。我々王侯貴族を慕い支えてくれる民衆がいてこそ成り立つものだ。土台を軽んじれば、家だって数年で朽ち果てる。国も同じだろう。だから俺は使用人や影、民を軽んじるような発言をしないよう心掛けているし、お忍びで城下に赴いて現地視察だってしている。決して遊びに行っているわけではない。決して。
そんな俺の考えを知っているからこその発言だろう。他の貴族、特にブランフェル侯爵家に同じことを言おうものなら1発で物言わぬ肉塊にされそうだが、俺は一瞬言葉に詰まった。
自分の身は自分で守れると言っても、やはり万が一億が一がある。その際に責任を取れと首を斬られるのは止めた筈の彼らなのだ。では、と適当な紙に文字を綴る。自身の意思で出て行ったことと、影に責任は一切なく有事の際でも彼らへ類を及ぼすことは許さないといった内容を、血判と共に記す。血に滲んだ親指で指紋を残せば、それは簡単に覆すことの出来ない証明となった。それを見て絶句した影に、ひらひらと紙を見せつけながら笑う。
「これで良いか?」
「…っそういう、ことでは………っ!!」
分かっている。けれど譲れなかった。同行出来ない理由が「ついて来られない」とか「足手纏い」とかでないのであれば、この目で見たい。
リザベルの件も、自身の目で見るまで何も気付けなかったのだから。
今の自分の目であれば、何か分かるかもしれない。リザベルに関することに意識を向けられる今なら、何かに気付けるかもしれない。それは人伝では駄目なのだ。俺が自ら赴いて、それらを目に焼き付けてやっと認識出来るものなのだ。俺は歴史に名を残すような賢帝でもなければ、カリスマ溢れる統率者でもない。ある国の王族として生まれただけの一般人なのである。だから分からないことはこの目で見ることでしか判断が出来ないのだ。
多少オブラートに包みながらもそう告げれば、影は不服そうながらも納得したように頷いた。
「…分かりました、お連れ致します。けれど絶対に無理はしないように!貴方様に傷が付くことは、首が飛ぶ以前に私達が嫌なのです!」
素直な心配は、くすぐったい。
その慕ってくれている気持ちが、心の底から嬉しい。
「分かっている。基本的にはお前達に任せるさ」
「お願いしますよ」
影の溜め息を了承と取り、俺は立ち上がる。宵闇に目立たぬ黒く身軽な服にその場で着替え、護身用の短剣や暗器を忍ばせる。目立つ水色の髪を黒髪の鬘で隠せば、あっという間に"影"の完成だ。
「…さては慣れてますね?」
「気のせいだ」
こんな夜中に出る用事など、キッチンで作られているケーキを盗み食いするくらいしかない。あと仕事の息抜きに夜の庭園を散歩したり、壁によじ登って衛兵を後ろから脅かすくらいしかない。そんなことを日がな行なっているわけないではないか。俺は王太子殿下なのだ。決して、あるわけがない。
影は、これ以上の追及は無駄だと判断したらしい。俺を視線で誘導し、屋根裏の道を先導してくれる。
「1度教えたらまた勝手に使いそうで嫌だったんですけど…」
「安心しろ、もう知っている」
「その事実に向き合うのが1番最悪な想定でした」
軽口を叩き合いながら外に出る。
さぁ、スレラト侯爵家は何を見せてくれるだろうか。
夜風に溶けるような黒髪が、しゃらしゃらと音を立てて靡いていた。




