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リザベルの兄がいる部屋の前に辿り着くと、最後に鍵を開けて中に入る。予め向かうと指示を出していたからか、兄は後ろ手で枷に繋がれ部屋の中心に座っていた。最低限の暮らしの為の動きすら出来ない。これはリザベルへの加害を警戒して今さっき施されたものだろう。
彼はいつも俺を見ると、ニコニコと人好きのする笑みを浮かべて接してくれた。妹のことを楽しそうに語り、本当に兄妹仲が良いのだと思っていた。そんなのは彼が作り出した適当な嘘で、リザベルがいつもそれに合わせて振る舞っていただけだった。ボロを出さなかったのは、リザベルが完璧だったからだ。兄を慕い、兄に想われる健気な令嬢の仮面を常に外さなかったからだ。カービネナ侯爵家の兄妹が不仲だと疑う余地など何処にもなかったのだ。
現に今も、この状況にそぐわない明るい声でリザベルを呼び、困惑を訴えている。両親が犯罪者だったから巻き込まれてしまったようだと苦笑いを浮かべる姿は、本当に何の罪も行っていない冤罪の被害者のようだ。リザベルが無事であることを喜ぶその目の奥を注視すれば、全くもって笑っていないことが分かるが。
「リザベルは捕まっていないみたいで安心したよ。無罪だってわかってもらえたんだな」
その視線は俺にチラチラと向けられ、「次は俺の番だよな?」という確認が込められている。そんな不躾な視線をどうでもよさそうに流しながら、俺はリザベルの肩に手を回した。少しだけ自身に引き寄せるように、勿論傷が痛まないよう考慮しながら。つまりは肩を抱き寄せる姿勢。側から見れば婚約者という立場も含めて仲睦まじい男女に思えるだろう。婚約の解消をリザベルの兄が知らない筈はないのだが、婚約者であった時期の方が遥かに長いため、一瞬でそのことは頭から抜けてしまったのだろう。瞳の奥にどす黒い感情が揺らいだ。
「リザベル、君と婚約を結んだ日を昨日のことのように覚えているよ。君は花のように私に笑い掛けてくれたね」
ピクリと兄のこめかみに青筋が立つ。それでも構わずに俺はリザベルの手を取った。白い肌の下に手を滑らせ、指先だけで遊ぶように絡める。勿論力を抜きに抜いて、傷に障らぬよう全力を尽くしている。
「リザベルの笑顔はとても可憐だ。私の隣でいつでも笑みを浮かべて話を聞いてくれた。愛らしく頷く姿なんて特に可愛らしい。あぁ、やはり君を婚約者に選んで良かった」
今更な台詞で、白々しい演技だ。リザベルもディアンも態度には出さないが、きっとそう思っていることだろう。俺自身、同じことを感じている。けれどリザベルは優しく微笑み、ぴったりと寄り添ってくれた。そのしなだれかかるような仕草は男心をくすぐるものだ。心から気を許した愛する者への態度にしか見えない。相変わらず"婚約者"の仕草は身に染み付いているようだった。そんな演技力を利用して悪いが、仲睦まじい姿を見せれば兄はどんどん瞳の奥に炎を灯した。これだけ聞けば、可愛い妹に近付く不埒な輩に怒っているように見えるが、実際はそうでないのだから面倒くさい。
だからこそ、その違いをはっきりさせるために口を開く。
「リザベルが王妃になったら、兄としても、カービネナ侯爵家当主としても、是非彼女を支えてくださいね。臣下として」
リザベルとの地位の差を明確に示した。王妃というこの国の最高権力を手に入れる妹と、王家に準ずることも出来ない侯爵家という地位。位を順に並べて書けば差は少なく感じるが、そこに横たわるものは明確で残酷だ。どう抗おうが努力しようが埋められない。悲しいくらいにはっきりと分たれてしまうのだ。彼にとっては"性別"という、生まれ持ったたった一つの違いによって。
「…そう、ですね」
怒りで手が震えているのか、枷を繋ぐ鎖がチャリチャリと小さな音を立てる。俺は少しだけ避けて、兄の視界から外れた。辛うじて保っていた"良きカービネナ次期当主"の仮面が、リザベルだけを見据えることによってカタカタと揺れ始める。
「お兄様」
いつも口火を切るのはリザベルからだ。幼少期は彼を慕うように、その少し後は兄と仲を戻すために、更にその後はそうしないと罰を受けるからという理由で、その人称を呼んでいた。
いつだったか自分が王太子殿下の婚約者である限り仲直りは無理だと悟ったリザベルは、兄に自ら話し掛けるのをやめた。視界に入っても声を掛けず素通りしようとした。しかしリザベルの体が兄の背とすれ違ったところで、急に後ろから髪を掴まれ床に投げ捨てられた。銀の髪がプチプチと悲鳴を上げ、硬い床に全身の痣が刺激されたのをよく覚えている。感覚の共有まではされていなかったので憶測だが、泣き叫びたくなるような痛みだっただろう。唯一共有された視界が一気に白み、血が出ていないことが不思議な程に頭がふらついていた。
話し掛ける度に不愉快そうな顔をする彼が、どうしてそのようなことをしたのか。わざわざ呼び止めるように髪を引き放るなど、行う必要がない。けれど彼の中には明確な行動理由が存在した。侮辱されたと怒りに瞳を揺らし、激昂しながら叫ばれた内容の中に、よく反映されていた。
"人のこと見下しやがって!"
"お前が俺を無視するなんていい度胸だなぁ!!"
"次期王妃はたかだか侯爵令息なんて興味ないってか!?"
おおかた、そんな内容だった。出世に異常な執着を持つ彼は、リザベルに話し掛けられるのも嫌いなら無視されるのも嫌いなのだ。正に理不尽の権化。子供の癇癪のような当たり方。酷く幼稚で、馬鹿げた主張。それでもリザベルは、幼い頃は本当に仲の良かった兄を見限ることは出来ず、反論もせずその主張を受け入れた。ほとんど壊れていたリザベルにとって、その判断は「相手がそう言ったから」程度のものに過ぎないのかもしれない。けれど、だからこそ今も兄は、リザベルに「お兄様」と呼ばれる度に醜い本心を表すのだ。嫌でもその身分差を思い知らされるから。
リザベルしか視界に映していない彼は、ガシャンっと鎖を大きく鳴らした。手首に枷が食い込むのも厭わず、リザベルに襲い掛かろうと動く。けれど鎖によって引き止められ、リザベルへの距離は数メートルから変わることはない。
そんな兄の獰猛な瞳に見つめられながら、リザベルは予め渡しておいた台本をなぞる。にこりと、社交会で仲睦まじい兄に向けていたあどけない笑顔で、与えられた言葉を紡ぐ。
「私は是非お兄様に支えて欲しいですわ。侯爵家令息のお兄様に、臣下として、王妃として頑張る私を見て欲しいのです」
本来なら不必要な爵位の説明。あえてそれを入れることで皮肉となり、嫌味となる。リザベルにそのつもりがなくとも、それを受けた兄は完全なる侮辱と取った。一瞬で良き兄の仮面を外し、敵意を混ぜた憎悪を実の妹に向ける。
「テメェ!!殿下と茶ァしばいて気に入られた程度の分際で、この俺に臣下に降れと言いやがったな!?何の努力もしてない傀儡の分際で、あんなクソ王子と婚約した程度で、お前みたいな愚図がこの俺を見下すのか!?ふざけんな!!」
血走った目をひん剥いて、汚らしい言葉で罵る。ディアンが思わず足を踏み出したが、それを手で制止して彼の言葉の記録に専念させた。ディアンは意図に気付くと、黙ってその手に握ったペンを紙に走らせる。
「ニコニコ笑っておべっか使って、オウジサマに取り入った気分はどうだ?それとも体を擦り寄せて籠絡でもしたか?良いよなぁ女は!尻振って股開けば、何の努力もせず地位と権力を手に出来るんだからな!」
次々と吐き出される口汚い言葉。その数が十分になったところで、俺は強く手を打った。パンッと乾いた音が響いたことで、捲し立てていた兄はビクッと肩を震わせ動きを止める。やっと王太子殿下がこの場にいることを思い出したのか、自身の言葉を反芻してサッと青褪めた。その姿は、先日カービネナ侯爵夫人の虐待現場を取り押さえた時の顔にそっくりだ。やはり親子である。リザベルだけが、被害者なのだ。
「よくもまぁペラペラと。貴様は己の立場が余程理解出来ないのだな」
吐き捨てるように、冷たく言い放つ。侮蔑の視線を向ければ、彼はまた激昂したように体を動かした。それを冷ややかに見下ろしながら、決定的な言葉を下す。
「貴様の先程の言葉はどれもリザベルへの侮辱。同時に、この私への侮辱だ」
元とはいえ婚約者。更に、その判断基準までもを貶した。直接的にクソ王子とも言い放っていたし、その体を使ったから選ばれたという下世話なことまで叫んでいた。不敬罪でも生温い言葉の数々を、あろうことか本人の前で口にしたのだ。
リザベルを侮辱することは、同時にその選択をした王太子殿下を貶すことと同義である。更に言えば、その直接的判断をしたのは国王だ。国王への反旗と取られても、過言ではない。
その事実にやっと思い至ったのか、今度は顔面蒼白でガタガタと震え出した。赤くなったり青くなったり忙しい顔色だ。その仕事の切り替えを強いられる表情筋を労る気も起きない。
「今一度己の行いを悔い改めよ。貴様の人生は、もうそれ以外をする時間はないだろうからな」
そう一言言い放つと、その場を後にした。これ以上話すことは何もない。次に会うのは、断罪する時だけだ。それがきっと最初で最期の再会となるだろう。
決定的な亀裂が走るように、重厚な扉がバタンと閉じられた。




