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目が覚めて、すぐに体を起こした。馬車の様子を確認しようとしたところで、目の前の光景に驚く。そこは先程まで俺が座っていた昼の馬車内ではなく、朝日が差す天蓋付きのベッドの上だったからだ。気絶して家まで運ばれたのかと周囲を見回すと、調度品一つ見たことがない。金の猫足が付いた白地の家具に、ピンクや黄色など可愛らしい色合いでまとめられた小物が置かれた、少女趣味な部屋だった。誰か令嬢の部屋に連れ込まれてしまったのかと慌ててベッドから退こうとしたところで、その体が動かせないことに気付く。思わず掌に目を向ければ、先程まで見ていたゴツゴツとした大人の男の手ではなく、その半分にも満たない小さくか弱い白い手が自身の肩から伸びていた。肩から垂れる髪は糸のように細く、滑らかな銀色をしている。俺の髪色は明るい水色であり、銀ではない。しかしその髪色の持ち主に心当たりがあって、逸る心臓を抑えながらこの体の主が鏡の前に向かうのを待つ。早く確認したいという俺の気持ちが伝わったわけではないだろうが、ベッドを滑り降りた体は、そのまま真っ直ぐ姿見の前へ向かった。
胸元まで真っ直ぐ伸びた銀色の髪。春の若草を思い起こさせる黄緑色の瞳。真っ白な雪と見紛う程に白い肌。ふくふくとした頬は薔薇色に染まっていて、その背は5歳が妥当な程に小さい。
そう。鏡に写っていたのは、婚約を結んだ当時のリザベル・カービネナ、その人に違いなかった。
何故。何が。一体どうして。
ぐるぐると疑問が渦巻くが、動く度に揺れるのは5歳のリザベルの姿である。突拍子もないことだが、5歳のリザベルの姿に憑依したとしか考えられなかった。
何故、こんなことに───!!
本来の俺、フィルマ・セクルグであれば来週にはリザベルとの婚約解消を発表し、愛しいリリィ・チャルファンとの正式な婚約発表を行う手筈だった。そんな順風満帆な人生に突如訪れた、黒い噂の絶えない令嬢の幼少期に憑依するという謎の出来事。嫌っていたわけではないが、戸惑いしかない。一体どうしたら戻れるんだと焦る俺の耳に、コンコンと控えめなノック音が響いた。
「失礼致します。お嬢様、本日は王城に向かいますからご準備を致しましょう」
メイドらしき女が入って来て、そんなことを告げる。王城に向かうということは、俺に会う予定でもあるのだろうか。リザベルの視界の端に映る卓上カレンダーを確認すると、それはちょうど婚約を結んだ日付を指していた。
なるほど。時間軸は理解した。
そう考えたところで、俺の意思とは関係なく体が動き出す。メイドに動かされたのかと思ったら、リザベルが自分の意思で動いていた。体が勝手に動く感覚が酷く奇妙だが、それは表情にも体にも出ることはない。俺にはどうすることも出来ず、いきなり始まったリザベルの支度を見守る羽目になってしまった。ドレスに着替える時は目を瞑っておきたかったが、体の持ち主がそれを行わなければ憑依している俺も出来ないようで、幼い彼女の着替えを直視することになってしまった。不可抗力とはいえ年齢を考えれば事案なので、墓場まで持っていく秘密とする。
あの日と全く同じ淡い水色のドレスに身を包み、可愛らしく着飾ったリザベルが馬車に揺られてやって来たのは、よく見覚えのある王城だった。国王の右腕である宰相によって連れて来られたその部屋の真ん中で、当時の俺こと5歳のフィルマは国王と王妃に挟まれてちょこんと座っている。リザベルは部屋に入ってすぐ辿々しくも可愛らしい淑女の礼をしてくれて、フィルマも礼を返す。親同士の話を聞き流した後、紙に名前を書けと言われて互いに名前を記した。婚約の調印書だ。文章を理解出来る現在の年齢で読んでも、割と難しい内容が書いてあった。2人とも絶対理解していないだろう。王城勤めの者でさえ間違えそうな難解な文法で、更に難しい言葉が使われている。子供の意思など本気で関係ないのだと改めて感じた。
しかしこれで、フィルマとリザベルは晴れて婚約者となった。けれど2人で更なる交流を深める時間もなく、すぐにその場はお開きとなる。何かを急ぐように帰らされたリザベルは、翌日から王妃教育があるからと早めの就寝を促された。確かにまだ5歳だし、慣れない王城に訪れて疲れているだろう。大人しいリザベルは言われるままに眠ったが、夜に1度目が覚めてしまったようで、水を飲みに起きることになった。家の中だからか安心し切った護衛はリザベルについて行くこともせず見送る。それで護衛が務まるのかと叱りたいところだが、これは過去の話で、ましてやリザベルの家の事情だ。口を挟める立場ではない。そう考えていると、リザベルが急にぴたりと足を止めた。灯りが漏れ出ているそこから、カービネナ侯爵と侯爵夫人の会話が聞こえてくる。
「これで私は未来の王妃のお母さんね」
「気が早いよ。でもきっと、リザベルなら良い王妃様になれるだろうね」
「そうね。私達のリザベルだもの」
ワインを乾杯しながら、2人は嬉しそうに微笑み合う。その姿を見てたリザベルも嬉しそうに笑って、そのまま何事もなく自室へと戻った。彼らの仲睦まじさは俺も知っているところだったので、とても微笑ましく見守った。
しかし、それは長く続かなかった。
リザベルの悲劇は、ここからが始まりだった。