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「…っはぁッ…!!」
目を見開いて飛び起きると、頭に痛みが走り視界がぐらついた。驚きの声を上げる誰かに視線を移すと、常に俺に付き従ってくれている従者だった。何故ここに、と考えたところで体が自由に動くことに気付く。痛みで多少動きに制限が掛かっているが、視界に入って来た大きくゴツゴツとした手には傷一つない。慌てて格好を確認すると、礼服というほど畏まってはいないがきっちりとした服装をしていた。俺の記憶が正しければ、リザベルに婚約解消を申し出る時に着て行ったものだ。
「…リザベルは!?」
反射的に従者に聞くと、彼は困惑した様子で話し出す。
「カービネナ侯爵邸から出て少し離れたところです。リザベル様に婚約解消を申し立てたところでしょう?今からチャルファン男爵邸に向かうところです」
つまり、幼少期のリザベルに憑依する前に帰って来たということだ。馬車がぬかるみにはまり、その揺れの衝撃で気を失って倒れていた、とのことだった。そんな情けない話をされながらも、俺はそんなことを気にしている余裕はなかった。
リザベルと別れた。婚約を解消して、リザベルをあの悪辣な輩のいる屋敷に1人置いて来た。リザベルの母は次期王妃の母親になれることをとても喜んでいたから、それがなくなって怒ることは目に見えている。それに、日付的に今日の0時頃のリザベルはおかしかった。寝る前に鏡を見ることはたまにあったが、いつもはしない怪我の確認をして、苦しみを吐露して、そして自分に向かって微笑んだ。その若草色の瞳が何かの強い決意に満ちていたことだけは、はっきりと覚えている。今にも消えてしまいそうなリザベルに、思わず手を伸ばしてしまったから。
だから、わかる。
今行かなければ、必ず後悔することになると。
「殿下!?」
まだぬかるみから車輪を外す作業をしている従者達を置いて、俺は馬車から飛び降りた。馬車はカービネナ侯爵邸を出てすぐに止まってしまったようで、まだ屋敷は視界に捉えられる。俺は従者の制止も聞かず、必死に走り始めた。王太子として剣術も柔術も習っている。並の衛兵程度の動きなら気絶直後でも出来る。気絶していたからと言って鈍るほど弱い鍛え方はしていない。
俺はただ、リザベルの元へ向かって一直線に走り出した。
カービネナ侯爵邸に着くと門番に止められたが、彼らは俺の顔を見てすぐに跪いた。「通してくれ」と願うと戸惑った様子を見せ、確認してくると言う。その時間も惜しかった俺は、その衛兵達にもリザベルの記憶の中で見覚えがあったから、「通せ」と地を這うような低い声で命じた。震え上がる彼らがまごつきながらも門を開け始めると、人1人分も開かない内から屋敷の中に飛び込んだ。本来であれば許されない杜撰な行いであるが、今だけはありがたい。すれ違う使用人達が、先ほど見送ったばかりの貴人に驚いた顔をする。そんなことに構っている暇はない。衛兵を無視し、先程通された客間の扉を力づくで開け放つ。豪奢な部屋の中で、ソファに座ったままのリザベルを見つけた。その部屋には唯一カービネナ侯爵夫人だけが残っており、手を振り上げているちょうどその時だった。俺は大理石の床を蹴り飛ばし、リザベルを抱き締めるようにしてその間に割り込む。パァンという鋭い音と共に鈍い痛みが頬を張った。
「…なっ…!!?」
突然の乱入者に驚いた夫人が、俺の正体に気付いてみるみる内に青褪める。数拍遅れて入って来た俺の従者達が現状を見て、唖然とした。赤く頬を腫らす俺と、俺に庇われるようにして座り込むリザベル。そして顔面蒼白のカービネナ侯爵夫人。何処の世界に、婚約解消した令嬢を母親から庇う元婚約者がいるのだろうか。我ながら自分の行動のチグハグさに笑いが込み上げるが、そんな暇はない。従者に向かって鋭い声を上げる。
「カービネナ侯爵夫人を拘束せよ!その者は不敬にも我に手を上げた!」
子供のような言い分だが、拘束出来れば何でもいい。リザベルへの虐待は後から証拠を出す。必ず出して処罰する。リザベルへ長年与え続けた苦痛を、身をもって必ず体験してもらう。その為にはまず、拘束しておかなければならない。
「カービネナ侯爵を探せ!奴はこの国では禁忌とされている妾を囲っている可能性がある!見つけ次第拘束し、カービネナ侯爵夫人諸共王宮の貴人牢にぶち込んでおけ!!公爵令息及びカービネナ侯爵邸の使用人、衛兵もだ!1人残らず捕らえよ!鼠1匹逃さず縛り上げろ!!!」
怒鳴りつけるように命令を出すと、俺の激しい感情などほとんど見たことない従者達はかなり怯えた様子で、けれどしっかりと任を熟しに部屋を出た。誰もいなくなった部屋の中で、俺は息を切らす。滅多に叫ばないせいか、激しい感情に苛まれたせいか、それとも苦しい記憶を垣間見たせいか。疲労が襲ってくるが、行動してしまった以上やり通すしかない。
「あ、あの…殿下…?」
リザベルが腕の中でおずおずと問い掛ける。何が何だかわかっていない様子のリザベルに微笑みを返し、頭を撫でる。リザベルはビクッと大きく体を震わせた。触れられることに慣れていない、それどころか暴力に長年晒され続けた者の反応だった。
ゆっくりと体を離し、跪きながら手の平を確認する。抵抗されるかと思ったが、リザベルは呆然と、そして従順に俺の行為に応えた。
見るに耐えない青痣が、びっしりと両手いっぱいについていた。
夢かと思った。
あの憑依時の記憶は全部、夢だったら良かったのに。
けれど何処か、現実だと確信している自分がいた。
だから事実確認もせず、この屋敷の者達を全て捕らえるように命じた。その迅速な判断は間違ってなかったと、痛々しい肌の傷が教えてくれた。
「…すまない。婚約解消を申し出た上で勝手だと思うだろうが、1週間だけ俺に時間をくれ」
「は、はい…?」
染み付いた従順な態度は、こんなに混乱している時でも有効らしい。リザベルが頷いてくれたのを良いことに、俺は膝裏と背中に腕を回して抱き上げた。
「!?」
リザベルが珍しく目を丸く見開くが、俺はその反応よりも傷に障らないかの方が心配だった。痛くないか、と確認するとリザベルは戸惑ったように頷いた。俺はリザベルを姫のように大事に抱えながら部屋を出る。使用人を次々と捕らえている従者達に驚かれたが、そのまま外へ向かった。ぬかるみを抜けた俺の馬車が屋敷内に止められており、俺はリザベルをその中に座らせた。もうこれ以上傷が付くことがないようにと慎重に柔らかいソファへ下ろし、夜風は寒いからとジャケットを掛け、少し待機するよう御者に命じる。リザベルに少しでも悪態をついたら処罰を下すと脅しをかけて、一旦馬車を降りた。
「殿下。侯爵とその妾、侯爵夫人、その息子、並びに使用人、衛兵の全てを捕らえました」
「ではカービネナ侯爵家の馬車を借り、全員王宮の牢へ入れよ。罪状確認は後で俺が直々に行う」
「御意」
「それと、俺はリザベルと共に王宮へ戻る。その後に国王と王妃に謁見の許可を。また、手先の器用な若い女の従者を2人と医者を用意しておけ。両方噂に飲まれず対応出来る、信用に足りる人物であることが最低条件だ」
「御意」
従者は他の従者にそれぞれ指示を出すと、一斉に散らばって命令を遂行し始めた。それを少しだけ監視した後、俺も馬車に乗り込んで王宮へ向かうよう御者に指示を出す。揺れを最小限に抑えるよう強く命じた。
「…」
リザベルは何も聞かなかった。何か声を掛けたかったが、上手い言葉が思いつかない。謝罪の言葉が舌の上を転がるが、こんな状況で中途半端に謝るのは自己満足な気がした。記憶を遡って混乱している部分もあるだろうし、下手に言葉にすると藪蛇になりそうだと残った理性が判断した。
だからこそ俺はその場で沈黙を貫き通し、やるべきことを整理する時間に当てた。謝罪を胸に、俺は1週間のうちに彼らを断罪する、その算段を付け始めた。




