12
「リザベル様!」
今日何度目か分からない声掛けに、俺はうんざりする。リザベルも同様に疲れている様子だったが、それを表面にはおくびにも出さずににこりと笑ってみせた。
「どうかなさいましたか」
「むー、何でいつまで経っても敬語なの?私とリザベル様の仲なのに!」
どんな仲だと言うんだ。俺は思い付く限りでは、婚約者に擦り寄る泥棒猫といった関係性くらいしか言葉に出来ない。少なくとも友人ではないと思う。この頃の当の本人であるフィルマは、確かにリリィに熱を上げているから強くは言えないのだが。
「…これは癖のようなものです。それで、何かご用事でも?」
「あ、そうそう!あのね、さっき友達とクッキーを焼いたの。リザベル様にもお裾分けしようと思って」
「…ありがとうございます」
にこにことクッキーを手渡そうとしたリリィが、リザベルが受け取る直前で急に横に放り投げて後退り、尻餅をついた。ご丁寧に、きゃ、と言う大きな叫び声を上げて。
「大丈夫か!?」
「どうしたの!?」
周りにいた生徒達が、次々とリリィのもとに集まって来る。俺は、またか、とうんざりした。リリィはリザベルと初めて会った日から、まるで自身がリザベルと友人かのように接する。いつの間にか敬語もやめ、リザベルにもやめるよう促す。リザベルが注意しないから見逃されているだけで、本来爵位が上の者に対する態度としては無礼極まりない。上位の者が許可したならまだしも、リザベルはリリィのことを常にチャルファン様と呼んでいる。侯爵令嬢から男爵令嬢と距離を詰める気は微塵もないことが、態度から察される。それなのに周りの者は、いつもリザベルがリリィに許されているような態度を取る。今だって、リリィを助け起こしながらリザベルに敵意に満ちた目を向けている。
先程の尻餅は、側から見ればリザベルがリリィの手を払ったように見えるのだろう。リザベルの手は菓子を受け取ろうとした位置から変わっていないので、少し考えればわかることなのだが、彼らにはそれを考慮するだけの知性もないらしい。こんな出来事が今日の午前中だけで3回目なのだから、うんざりもする。ここ1週間を換算すればもっとだ。
「すみません、大丈夫です。私が勝手に転んだだけで…」
支えてもらいながら立ち上がるリリィの姿は、まるで侯爵令嬢から叩かれたのに庇っているようだった。誰もリリィがわざと転んだなんて気付かない。だからリザベルへの悪意は増幅する。入学当初はあんなにいたリザベルのファンも日に日に減少し、今では視界の端でヒソヒソと怪訝そうに噂話をするようになっていた。手の平返しの早いことで、と舌打ちをしたくなる。けれどこの現状になったのは自分のせいでもあるわけで、一概に彼らを責めることは出来ない。
何も悪くないのは、リザベルただ1人なのだ。
「リリィ?」
元凶が、やって来た。今の俺が最も憎い相手。水色の髪にサファイアのような碧い瞳。この国の王族だけが持つ色味を受け継いだそいつは、間違いなくこの国の第一王子、フィルマ・セクルグだった。困惑した様子でこの騒ぎを見ているその顔が、俺は大嫌いだった。今すぐにでも殴り殺してやりたいくらいに大嫌いだ。婚約者の苦悩にも苦痛にも気付けない、馬鹿な俺なんて大っ嫌いだ!
「フィルマ様!」
仮にも婚約者であるリザベルを差し置いてリリィに声を掛ける俺も俺だが、リザベルの目の前で堂々と俺を呼ぶこの女もこの女である。リリィはフィルマの体に擦り寄り、優しげな笑みを浮かべた。普通に見ればはしたない行為も、事実上の恋人同士と見られていた俺達に注意の声が飛んでくることはない。
注意すべき立場のリザベルが、何も言わないのだから。
困惑した様子のフィルマは、何があったのかと確認しようとして息を呑んだ。そう、フィルマはリザベルの存在に気付いてすらいなかったのだ。目を引く桃色がかった金髪に気を取られ、本来最初に声を掛けるべきリザベルを無視した。傷付いて当然のリザベルは、何も言わずに淑女の礼を行った。
「ご機嫌よう、殿下」
リザベルは、"フィルマ様"と呼んでくれなかった。元々そんなに呼んでくれるタイプでもなかったが、それでも名を呼ぶ時はいつでもフィルマ様と声を掛けてくれていた。ファーストネームを、親しみの証のようにいつだって呼んでくれていた。作り物めいた笑顔ではあったけれど、いつも声は優しく穏やかで。本当の笑顔はもう、13年も前から見せることが出来なくなっていたのだと、今更ながら思い出す。
「…? リザベル…?」
その違いに気付いたのは、当時の俺も同じだった。腕に手を絡めて来るリリィをやんわりと剥がすことも出来ぬまま、呆然と婚約者を見つめる。リザベルはその若草色の瞳を少しだけ細めて、何も感じないかのように婚約者の役割を務め続ける。
「チャルファン様が転んでしまったようでして。私に手作りのクッキーを贈ってくださったのに、地面に落ちてしまって。残念です」
リリィを助けるために飛び込んできた生徒達の足元で、グシャグシャになったクッキーの袋に視線を向ける。ハッと気付いた生徒達は慌てて足を退けるが、破けた袋の隙間から侵入した泥や土に塗れたそれは、食べ物の様相をなしていなかった。それを見たリリィが、静かに涙を零す。ギョッとする彼らの横で、リザベルはその様子を淡々と眺める。その姿が、言葉とは裏腹に全く悲しんでいないように見えたせいか、自分達が台無しにしたことを棚に上げて生徒達はリザベルを罵り始めた。
「リリィを転ばせたのはお前だろう!」
「有り得ない!そんなに殿下の婚約者でいたいの!?」
「お前は王妃に相応しくない!」
「リリィの方が殿下のお隣にはお似合いだわ!」
次々と投げられる言葉に、リリィは不謹慎にも顔を赤く染める。リザベルの呼称に驚いて固まっているフィルマの腕に絡み付き、火照った息を吐いた。祝福を受けた恋人同士のようなやり取りを目の前で見せられて、リザベルの"婚約者"という立場はボロボロだ。それを散々見せつけた後で、たっぷり時間をかけて周囲に理解させた後で、リリィは大きな声で「やめてください!」と叫んだ。
「私はただの男爵令嬢です…フィルマ様には、理知的でお優しいリザベル様がお似合いです」
「…リリィ」
立場は弁えていると言外に告げると、リリィはフィルマから手を離す。本当に弁えていたら顔を赤く染めることなどないし、そんなにべったりくっついたりしないし、そもそも腕を絡めたりしないだろう。客観的に見ると酷すぎる茶番に、傍観者の立場を得た俺は辟易していた。
「すみません、リザベル様。私のせいで…」
謝罪の言葉すらも、リザベルを下に見るものばかり。頬を平手打ちしても許される程の無礼だ。
けれど、リザベルはもうフィルマに期待していない。それどころか、婚約を解消される前提で婚約者のふりをしている。幼い頃から暴力と共に与えられた教育に縋り、その通りに振る舞っている。生きているのは体だけで、心も思考も全て死人同然。生き地獄をただひたすらに歩き続けている。
そんなリザベルにとって、これはもう耐えるものではないのだ。ただそう言われるから返すだけ。振る舞わなければいけないからそこに居るだけ。リザベルの中には怒りも悲しみも湧いてこない。リリィの無礼さなど知ったことではないし、フィルマの馬鹿さ加減など気にする必要もない。
だって、そう教えられたから。
「顔を上げてください」
リザベルが慣習通りそう告げると、リリィはおずおずと顔を上げた。そしてリザベルは、自分の意思ではなくそう教えられたから、手を差し出す。その内側には見るに耐えない青黒い痣があるのだが、2人の様子に気を取られている観衆が気付くことはない。
ただ1人、リリィ・チャルファンを除いて。
リリィは一瞬目を細めると、何を思ったか急にリザベルの手を掴んだ。思い切り握り締めて腕を振る。喜ぶ犬の尻尾のように、力強く縦に振る。か細いリザベルの腕は引きちぎられるように痛み、爪が食い込んだ手の平は泣き叫びたくなるほどの激痛が走った。冷や汗をかきながらも笑顔を浮かべ続けるリザベルは、強迫的なまでに王妃教育の成果を出している。リリィは感極まったでもいうかのようにリザベルを抱き締め、耳元でボソッと呟いた。
「早く消えてよ」
背筋が凍るような、冷淡で冷酷な口調だった。顔面と本音が乖離しているのは、リザベルだけではなかったのだ。リリィはにこにこと笑顔を浮かべながら、リザベルから離れる。ついでとでも言うように、リザベルの手の平を爪先で抉って。
リリィはリザベルの怪我に気付きながら、それを庇わないどころか痛め付けた。リザベルを貶めることを目的として大衆を煽った。あの可愛らしい笑みの影には、どす黒い本音が隠されていたのだ。
少し客観的に見れば分かることに、当時の俺は全く気が付いていなかった。




