森の光と夢の蝶
静かな森を歩く。
陽の光が樹々の間から射し込んで来る。小川のせせらぎ。苔むしてぬかるんだ道を歩く。あの場所までもうすぐだ。私ははやる気持ちを抑えながら転ばないように注意しながら進む。
奇跡の場所へ。
「ええっ?私がお見合い?今日?無理よそんなの」
私はメイド達に髪をセットされながら狼狽えた。
「わがまま言うんじゃありません!あなたもそろそろ考えなければいけない年頃なのよ!」
扇子のようにブワーッと広げた髪型の母がぴしゃりと言う。
「今回の相手はそれはもうすごいんだから!お金持ちで優秀でイケメンなのよ!あんたにはもったいないぐらいだわ」
「あ~それはほんとにもったいないわ。誰か他の人に紹介したらどうかしら」
「ごちゃごちゃ言うんじゃありません。こんな話一生無いんだから。支度を済ませたらさっさと行くわよ」
「はぁい」
窓から外を見ると敷地を囲む鉄の門の前には既に馬車が待機していた。私はせっせとドレスを着せられながら晴れた空を見上げてため息をついた。
「まさか今日お見合いだったとはね」
確かにショッピングにしてはやけに気合いが入ったセットだと思ってたわ。
しかし典型的な箱入り娘の私は見合いの話を断った所でさしてやりたい事もなく、母の言われるがままに家を出た。
唸りを上げて止まった馬車は私を高級レストランへ吐き出してそのまま街の雑踏へ消えて行った。
私を受け取ったレストランのオーナーは私の母に指示された洒落た装飾の椅子に私をセットし、素晴らしい紅茶セットを用意して準備万端。音楽隊が颯爽と現れなにやら穏やかなバロック音楽をかき鳴らし始め、私がぐるぐると目を回しているうちに母が何者かと雑談を始めオーッホッホ!と扇子をぶわーっと広げて話している。母の大きな笑い声が私の右耳から左耳へと貫通しキーンと音を立てた頃、目の前から全然波長の違う優しい声がした。
「クリスティーナさん。どうかしましたか?」
「あ、う?あ、いえ・・・」
目の前の金髪の男性がにこやかに話しかけて来ていた。その碧い瞳に吸い込まれ、私は意識を取り戻してからわずか二秒で恋に落ちた。
アルフリードは貴族の息子で、スクールでは優秀な成績を修め有名な大学を卒業し、大手の貿易会社で働き始めると、早くも頭角を現し始め出世街道を爆速で突き進んで行った。そのうえ見た目も性格も良く、こんなスペックの男に当然世の女性は殺到しているはずなのだが・・・。彼の叔母さんと私の母がたまたまお茶会で仲良くなり、二人が結託して早速うちに縁談を持ち込んで来たのであった。
デートに繰り出すやいなや周囲の女性の目線を引き付ける彼の魅力に私も当然参っていたのだが、マイペースな私は街で素が出てしまい、演劇を見て笑い転げてはハッとして咳払いしたり、アイスクリームを食べれば頬に付いたクリームを指で舐めたりするのもばっちり彼に目撃されてしまった。
が、彼はそんな私になぜか安堵感を見出したらしい。気の毒な男。
「踊ろうよ」
「もちろんよ!」
ある夜の宮廷で開かれたダンスパーティーで、私はアルフリードの手を取って張り切って踊り、案の定彼の足に躓いた。転びそうになった私を彼は優しく抱きとめた。
「大丈夫?」
「うぅん駄目かも」
「そんな事ないだろ?ホラッ!」
「きゃあ!」
彼は右手を私の腰に回すとくるくると回った。
「アハハ!やだもう!」
周りの人達もそんな私達を微笑ましそうに見ていた。
その日、私はホールの中央で改めて彼のプロポーズを受けた。
暗闇の中、ゴロゴロという遠雷の音で私は目を覚ました。寝返りを打つと布団のシーツが衣擦れの音を立て、窓際に立っていたアルフリードが私に気付いた。
「起きてた?」
「ううん、今起きた所」
ポツリポツリと雨が降り出し、アルフリードは音につられて窓の外に視線を移した。
「アル・・・」
「こんな天気では向こうの軍も攻めては来ないだろう」
「そうね」
沈黙が流れる。
「ようやくここまで来た。来年までにあの城を落とせば僕達の勝ちだ。これでギュスターヴ様もついに皇帝となるんだ」
「ええ・・・そうね」
本音は皇帝なんてどうでもいい。彼に戦場に行って欲しくない、一緒にどこか遠い所へ逃げたい。でもそんな事を言って彼を困らせるのも嫌だった。
そんな私の葛藤を見透かすように彼はフッと笑い、ベッドに腰掛けると私の頬に手を添えた。
「大丈夫、心配ないさ。もうすぐこの戦争は終わる。そうしたら二人であの屋敷に帰って静かに暮らそう」
「うん」
私達は小さな寝室で静かに、力強く抱き合った。
森をゆっくりと歩いていると、紫色に輝いた蝶が私のすぐ側を通って前方へと飛んで行く。蝶に目を奪われた私は木の枝に足を取られ転びそうになった。バランスを取り、体勢を立て直した際にジャリッと音がして、前を歩いていた息子が振り返った。
「大丈夫かい母さん?」
「大丈夫よ」
彼にそっくりな息子が私の手を取った。
「もうすぐだよ。ほら」
私が顔を上げると蝶達が前方の開けた場所に向かって飛んで行く。前方にはまばゆい光が溢れている。
小さな二つの国の戦争は私達の勝利で終わった。二年間続き、千五百人が戦死し、敵国の領主の死により決着がついたそのくだらない戦争で、私は最愛の夫を失った。
泣き崩れる私の周りでは勝利に浮かれ、連日酒場や社交場では上から下まで階級を問わずに馬鹿騒ぎして、ギュスターヴ皇帝の誕生を祝った。
しかしそんな日々も長くは続かず、私が彼の息子を産んだ直後にこの国は再び連合国同士の大きな戦争に巻き込まれ、併合と分裂を繰り返し、やがて勝利した側の大国の一つに組み込まれた。
遺族と失業者が溢れ、絶望の中、荒れた大地と瓦礫の世界で私達は精一杯生きた。どんな仕事だって引き受けた。息子を育てるため、生きて行くためになりふり構わなかった。母はそんな私にさえ前を譲らず大股で歩き、労働に明け暮れ誇り高く生きている。
ギュスターヴ帝は大国の傀儡として無念の日々を送ったが、民を愛し、名前も変わってしまったこの国の平穏のために全力を尽くした後、六十三歳でその生涯を閉じた。
ギュスターヴ帝の死後、第一の戦争の終戦の日に奇跡が起き始める。その日は夜明けから陽が沈むまで森の上にオーロラが出るようになり、その前の夜、たった一人にだけ夢の中に紫に輝く蝶が現れる。夢から覚めても蝶は現実に枕元に止まっていて、蝶が導くその先には森があり、中心にはギュスターヴ帝が祀られている石碑がある。
その年、私が蝶に導かれてやって来たその石碑の前には柔らかい光の柱が空まで続いていて、その中には一人の青年が立っていた。
「クリスティーナ」
「アル・・・」
光の中にあの頃のままのアルフリードがいる。
「久しぶり、なのかな」
「アルフリード・・・」
息が乱れて語尾が震える。私は彼の胸に飛び込んだ。温かい。でもそれは陽の光の暖かさに過ぎなかった。
「そうよ。もう二十年も経ってるのよ。私なんかもうおばさんになっちゃったんだから!」
彼は私の涙を指ですくった。
「ごめんね。寂しかった?」
ああ。たった一日だけでもまた彼と逢えた。
狂った世界で私に起きた奇跡。彼の碧い瞳には若い頃の私が映っている。息子は光の中に入った途端に昔の姿に戻った私を見て驚いていた。
「弱音を吐いてる暇なんて無かったわよ。皆生きるのに必死だったんだから。ギュスターヴ帝ももう亡くなったわ。立派な人だった」
「そっか。そうだよね・・・僕はあの時からすぐここに来たから。なんだか変な感じだ」
「それに見て」
私が少し横に動いて後ろを見せると、彼の前には彼そっくりな青年が立っていた。
「あなたの子よ」
息子はお辞儀して、生まれて初めて見る自分と同じくらいの年齢の父親に挨拶した。
「初めましてお父様」
「初めまして」
彼はなんだか照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。
「色々あったんだね」
「うん」
「聞かせてよ。オーロラが消えるまでまだ時間はたっぷりあるから。お母さんは元気?」
「元気よ。昔より今の方が元気なの」
「ええ・・・?」
蝶が私達の空間を優しく囲んでいる。私にはもったいないくらいの奇跡。
でも誰にだって起きる事があるんだわ。
私は今日、森の光と夢の蝶に選ばれた。




