§154 懐柔
夕食の準備のため早めに帰宅する。
ギリギリまで戦ってはまたナズが罪悪感に苛まれる。
ナズが本当にしたい事は、得意な料理と自分の身の回りの世話なのだろう。
これは身請けした時に聞いた。
料理が好きな人は食べて貰う事に自身のアイデンティティを見出す。
それができないと自我に不安を持つのだ。
ナズのメンタルのためにも、時間が取れる際は料理をさせてやりたい。
自分もラーメンを作ったりシーチキンサラダを作ってみたいが、
それは目の前の問題を片付けてからだろう。
そういう意味で言えば、
皆に披露してやりたいと思う気持ちはナズの心情と近しい物がある。
レムゴーレムへの対処は、
大きな失敗は無かったがまだまだ各人不安な面もあった。
ジャーブはギリギリで戦うため、
ハットバットにちょっかいを出された際には大きく乱された。
防御のスキルもあったし装備の方が上回ったため、
重たそうなパンチはジャーブの体で止め切れたが、
これが56層ならばそうは行かないだろう。
アナは盾がメインであり一見すると問題無く捌けていたが、
23層のボスと56層の雑魚では威力が異なるかも知れない。
食らった結果のダメージ算出が違うだけなのか、
そもそも1発の重さが33層分重たいのかハッキリとしない。
こればっかりは34層の雑魚であるホワイトキャタピラーと、
1層のボスのホワイトキャタピラーを比べてみないと判らない。
我々はまだそこに到達していないのだから検証が不可能だ。
ヴィーは・・・うん。
回避に失敗して飛ばされる事が目下の懸念材料だろう。
本人は頑丈だから良いとして、そこに空白地帯ができては拙い。
ナズはリーチ分だけ敵に詰め寄られるので、隊列にズレができてしまう。
こちらの隊列へ合わせると魔物は中列に留まり、
スキルを詠唱される危険が高まる。
逆に魔物の隊列へ合わせるとナズの守る位置だけ凹むので、
付け入るスキを与える事となる。
明日以降はお供としてノンレムゴーレム2体が出た際に、
3匹のゴーレム相手に隊列を維持しながら戦う練習をした方が良さそうだ。
部屋で休んでいると誰かが戸を叩いた音がした。
夕食ができたのだろうか。
無言だ。
多分エミーだろう。
「入って良いぞ?」
扉が開かれ、エミーが紙を渡して来た。
「ああ、エミー。自分は文字が読めないので、こういう物はアナに渡せ。
前にも言ったと思うが、ナズかアナ、2人ともいなければジャーブだ」
(こくり。)
「頂きました。ご苦労様です、エミー」
(ぺこり。)
以前も渡せとは言ったが、その時だけの命令だと思ったらしい。
理由を教えてやる事で次からはナズかアナに渡されるだろう。
そもそも自分は人間語もままならないのだ。
時間ができたらこの世界の言葉をちゃんと覚える必要がある。
初期設定のお陰で多種族と意思疎通はできているが、
それは転移の際に授けられたチートスキルの賜物だ。
地味だが役に立っており、
地味だが却ってそのために混乱を引き起こす。
アナにメモを読んで貰った。
どうせジャミルで、連絡があったと言う事は3点セットが手に入ったのだ。
今日はもうちょっと遅過ぎなので、明日の昼以降取りに行けば宜しい。
時間的に恐らく、今日の最終オークションでセットが揃ったのだろう。
台所からはジュワーッと言う音が聞こえて来た。
何かのソースが焼かれ、そこに肉を置いた音だ。
今日の夕食はステーキ、もしくは焼肉なのだろう。
魚醤があるしニンニクもある。
そのうち焼肉のタレを作ってみても良いかも知れない。
期待は膨らむ一方だ。
一度作ってみせれば再び食卓に乗ると言うのがまた素晴らしい。
流石はナズとエミー、料理慣れしている2人が来てくれて本当に良かった。
夕食に呼ばれるのはもう間も無くなのだろう。
今日は呼ばれるよりも先に、アナと共に食卓へと向かった。
「あっ、ご主人様。丁度良い所にいらっしゃいました。
パーンの肉が切れましたので足りない分はバラを使わせて頂きましたが、
また宜しくお願い致します」
「あ、そうなの?魚はまだあるよな?」
「そうですね、沢山有ります」
沢山あるとはいえ、
ナズのアイテムボックスには2枠程度までしか同じ物を入れていない。
全部で10枠で10個までしか入らないので、
全て魚塗れにする訳にも行かない。
殆どはこちらで預かっている。
まだ白身は1枠こちらに入っているので、在庫は45個以上あるはずだ。
しかしずっと魚も飽きるので肉を取りに行こう。
ひとまず昨日今日で得た豚バラ肉をナズに手渡した。
レムゴーレムのお供に、稀にピッグホッグが現れるので、
当面はこれで凌いで貰う。
ただ雑魚な上に確定で出る豚バラ肉は1個で1食分。
頑張って2人分、それも少量だ。
7人となると7個必要になり、
今14個を渡したがそれは食事2回分にしかならない。
パーンの肉1枚で3人が十分食べられるのとは随分勝手が違うので、
アイテムボックスの効率的には悪い。
明日でいいだろうか、今日の残業にしようか、悩ましい所である。
*
*
*
──庭の手入れを終えると、日は暗くなっていた。
花が咲いている植え込みは定期的に植え替える必要がある。
そのままにして置くと、
萎れたり虫が付いた花は周りの景観を乱すのだ。
雑草だって見付けたら抜いて置かないと、
3日後には酷い事になる。
朝は屋敷の掃除から始まる。
私はこの家の最下位の奴隷では無かったため、
水汲みをしなくても良いのが唯一の救いだ。
この屋敷の主人は実力者であり、
他の有力者とも太い人脈をお持ちだ。
そこに仕える身としては、
奴隷であっても優位な立場にいるのだろう。
現在の待遇で不満を言っては、
もっと待遇が悪い者から恨まれよう。
最底辺の奴隷達はその日暮らしどころか、
客を取らされて路上で生活する奴隷だっていると聞いた。
少なくとも自分は生かされていると言うより、
ちゃんと生きている。
何も望まなければ少なくとも数年は安泰なのだ。
お金持ちの屋敷に仕える奴隷は、大体顔で選ばれる。
家事や護衛をするにしたって練習や訓練で何とかなるのだ。
だから皆、若くて麗しい。
それはつまり、
誰しも年を取れば払い下げられると言う事でもある。
勿論名のある屋敷で働いた奴隷ならば高度な事を任せられるので、
新たな主人には家政婦として選んで頂ける可能性がかなり高い。
中流家庭で、中古の家政奴隷として、
主人が亡くなるまで務める事ができる。
場合に依ってはそこで解放となる事もあるが、
老いて解放されたとしても私達だけでは生活できないため、
後は残された家人の家政婦としてそのまま勤める事になる。
それが私達、家政奴隷の一生だ。
私はそれで十分だった。
シャリア様のような妾なんて言う立場はほんの一握り、
それも超が付く美人なので、目指す方が間違っている。
そこに伸し上ろうとして失敗し、
追いやられる話は何度も耳にした。
私は多くを望まない。
平均的な奴隷よりは多少上の人生で満足している。
私には2つ下の妹がいた。
生まれも奴隷だったので、売られる時も揃えて売られた。
その方が高くなるからなのだとか。
そして買われた先には2人の子息がおり、
私は長男の、妹は次男専属の世話人として従事する事になった。
勿論それだけでは無い。
妹は料理番を、私は屋内の掃除と庭の手入れを任された。
一番奴隷はお妾のシャリア様。
いつでも主人の傍におり、身の回り全てを世話している。
3番奴隷のイェーラ様は買い物と料理を任されている。
以前はエマレットと共に調理を行っていた。
クルアチは私よりも年下で、奴隷としては一番下。
先輩奴隷の小間使いを行っている。
私は4番目の奴隷に当たる。
クルアチに命令する事はできないが、
面倒な事を押し付けられる訳では無いので助かっている。
特にイェーラ様はシャリア様の後を狙っているようで、
いつも当たりが緊い。
以前はその八つ当たりの矛先はエマレットと半分ずつであったが、
妹亡き今は最下位のクルアチ1人に集中する事となった。
しかしシャリア様のご命令もある手前、無茶な事は命令されない。
そこでギリギリ助けられていると言った具合だ。
私は・・・見て見ぬ振りをするしかできないでいた。
クルアチに手を貸す事でイェーラ様の逆燐に触れ、
私にまで面倒な事を押し付けられたくは無い。
2番奴隷のバラブダ様は日中顔を合わせる事が少なく、
どんな方なのかは良く分からない。
知っている事と言えばとても強い冒険者であって、
主人が遠出をする際には護衛として付く事になっている位だ。
***
私達姉妹がこのお屋敷に来て数年、
暫くするとアイザック様が屋敷をお出になられた。
騎士へ就業なさるため戦士となり、経験を積むのだそうだ。
本来は騎士のみが住まう騎士舎で、
特別な計らいで生活を共にされているらしい。
私が伽を要求される事は無くなった。
そこから次男のドラッドが家の中で大きな顔をするようになり、
怪しい連中を家に呼び付けたり、
妹には酷い仕打ちをするようになった。
この町のゴロツキとも親交を深めているようだったし、
妹を連れて娼館へ遊びに行ったりもしていたようだ。
そんなドラッドがゴロツキ共と夜な夜な遊び回っていた先で、
何処かの酒場の女へ手を出そうとして返り討ちにされたと聞いた。
心底ざまあみろと思った。
それ以来、この屋敷は静かになった。
そしてその一件から妹の病気が発覚し、
直ぐに屋敷から追い出された。
どう考えてもドラッドから染されたものだろう。
酒場の娘に殺されなくたってどうせ先行きは短かったのだ。
全てドラッドのせいであり、妹が悪い訳では無い。
でも、私にはどうする事もできなかった。
主人からは払い下げたと聞いたが、
病気の奴隷なんて買う者はいない。
それは私がいる手前の方便であり、妹は処分されたのだと悟った。
他の奴隷たちに病気を染してしまっては大問題だ。
それに妹には悪いが、自分だって病気にはなりたくない。
華の病は醜く、苦しく終える物だと聞いていた。
まるで花が枯れて萎れるように、
人もまた汚い醜態を晒して死ぬのが華の病だ。
そうなる前に枯れ始めた花は抜いて捨てる。
庭仕事をしている私だからこそ、その意味は理解できた。
2人一緒に買われた事へは喜んだが、
2人一緒に処分されなかった事へ安堵した。
私まで殺されなくて良かったと思ってしまったのだった。
妹の事は大事だし、心配もしていた。
しかし奴隷の立場ではどうする事もできない。
ましてや病気ともなると、神様だって無理だ。
病気でボロボロになって死ぬか、苦しまない内に処分されるか、
どちらが妹に取って良かったのか私には判らなかった。
枯れた花を摘み取るように、妹も摘み取られたのだ。
だから。
その時は仕方が無いと言い聞かせて納得した。
私のこれまではそんな感じだ。
・・・そんなある日、猫人族の女が壁越しに声を掛けて来た。
女はアナンタと名乗り、
妹が新たに仕える主人の一番奴隷だと語った。
妹が生きていた。
そして新しい主人の下で生活していた。
それだけで涙が零れそうになった。
しかし他人の奴隷と世間話など、本来あってはならない。
仕事で必要な事を確認するのとは違い、至って私的な内容だ。
なるべく動揺を見せないように、話半分に耳を傾けた。
妹の新しい主人は、私を購入したいのだと提案して来た。
驚いたが、丁重にお断りした。
問題が起きてからでは遅い。
ボルドレック様のお抱え戦闘奴隷のバラブダ様は、
とてもお強いのだと聞いていた。
何かの間違いで相手の主人が殺されたら、
今度こそ本当に妹は死ぬ事となる。
奴隷の中には他人に買取を持ち掛ける者がいると言う。
今の主人に不満がある場合や、駆け落ちなどをする場合だ。
今の主人、ボルドレック様からは、
これまで理不尽な嫌がらせなどを受けた事など無い。
ボルドレック様はその手腕こそ恐れられているが、
お屋敷の中ではごく普通の主人であった。
勿論失態を演じれば厳しい叱責を受ける事になるが、
それはどこの家の奴隷だって同じ事。
特段このお屋敷の奴隷が酷い目に遭っている訳でも無かった。
待遇的には一般的な奴隷より遥かに贅沢をさせて頂いている訳で、
文句を言ったら罰が当たると思う。
決して優しい主人と言う訳では無いが、
意味も無く叱られたり折檻されたりする事は無かった。
妹が世話をしていたドラッドが問題児だっただけだ。
しかし跡取りとして育てられた息子を殺されて以来、
ボルドレック様もお人が変わってしまわれた。
当時は殺した相手を突き止めるために、全力を注がれておられた。
屋敷の中もギスギスした空気が流れ、雰囲気は悪かった。
いや、それまでも雰囲気が良い訳では無かったのだが。
結局の所、愚息ドラッドがやりたい放題であったのと、
それを黙認していたボルドレック様が、
この事態を引き起こしてしまったのだ。
そう思ってはいても、私達が口を挟める訳では無い。
そんなボルドレック様も最近はその悲しみが癒えたのか、
以前よりは暗い雰囲気では無くなったように見受けられた。
そして何日か経った後、再び猫人族の女がやって来た。
妹を連れて。
再会に喜びはしたが、腑に落ちない事も幾つかあった。
何故、ボルドレック様は正直に妹を売却したのだろうか。
何故、妹の新しい主人は病気だと判って妹を買ったのだろうか。
主人らの心情が判らない。
それに私のような下位の奴隷を迎え入れて、
エマレットの新しい主人に何の得があるのだろうか。
久しぶりに会った妹は、髪が整えられて血色も良くなっていた。
新しい主人も金持ちなのだろう、と言う事は見て取れた。
エマレットはいつからか喋らなくなっていた。
ドラッドに相当酷い事をされたのは判る。
それにイェーラ様からの虐めも原因だと思う。
イェーラ様とドラッド、
2人の軋轢に挟まれてエマレットは心を閉ざしたのだ。
柵越しに無言で手を伸ばして来た妹に触れ、
エマレット自身が私を呼んでいるような、そんな気がした。
私を買いたいと申し出た事は元々主人の意向では無く、
妹の気持ちを汲んで動いているのだろうか。
優しい主人に巡り合えて妹は幸せなのだな、そう感じた。
そんな妹の安息を壊してはいけない。
このままお互いの主人に尽くすべきだ。
そう思い、猫人族の女の提案は受けなかった。
妹には元気で、と伝えた。
もうそれだけで私には十分だった。
そして3回目のアナンタの訪問で、事態は大きく動く事になる。
何度来ようと、私は今の均衡を変えない方が良い、
そう考えていた。
しかし、彼女の口から予想外の言葉を耳にした。
ボルドレック様が探しておられた件の酒場の娘は、
奴隷となって妹の主人に仕えていると言うのだ!
目の前が真っ暗になった。
いずれはその酒場の娘を賭けてひと悶着起きそうだ。
向こうの主人もそれを認識している。
主人に危険が迫ると言う事は、
配下である妹にも危険が迫る事になる。
そこで私は初めて、袖にしていた話を真剣に聞く事にした。
あちらの主人は大層腕が立つらしい。
主人自ら決闘の舞台に立ち、
私と酒場の娘を賭け合う算段であるとも聞いた。
そして、万が一の時は妹を解放するのだと言う。
向こうの主人の人となりが判った。
とても優しく、その強さには自信があるのだろう。
たかが奴隷の安全を守るために自ら命を賭けると言うのだ。
以前引き合わされた時、妹はとても良くされているようだった。
有り得無い事が、あちらの主人の下では起こっていた。
私も・・・あちらに行けば何かが変わるのだろうか。
ここに居て、不満が無いと言えば嘘になる。
エマレットを追い詰めたイェーラ様には嫌悪感がある。
しかしそれは表に出す事では無い。
立場上、私たち奴隷は目上の者に逆らう事を許されないのだ。
問題が起きない限り、主人がその待遇を変える事も有り得無い。
私がお世話をしていたアイザック様は、
表立って酷い事をする方では無かったし、真面目で聡明だった。
ボルドレック様も本当は次男のドラッドを騎士として輩出し、
長男のアイザック様に後を継がせたかったのだと思う。
しかしドラッドは騎士に向いていなかった。
多分断られたのだと思う。
アイザック様は悪いお方では無いのだが、
一言で言えば融通が利かない。
いずれはお堅い騎士様になるのだと思う。
アイザック様が騎士団に正式に入隊したならば、
どんどんと出世されて実力者とお成りになるだろう。
その後退役し家に戻られたら、
この家は騎士団幹部に顔が利く大商人として、
政界へ進出して行く事になるのだろう。
そしてアイザック様はボルドレック様の右腕として、
今後ともご活躍される事となるのだ。
お仕えする家が伸し上がって行く事は良い事であるが、
その手法故に周囲からの軋轢は大きくなるはずだ。
私達は今よりももっと窮屈な思いをさせられる事になる。
それにその頃には既に全員払い下げられて、
私はここで生活をしていない。
どのみち妹の現主人との紛擾は避けられない。
それならば・・・。
妹が望んでいる方向に賭けてみるべきでは無いだろうか。
妹は先が短い。
最後位は幸せになって欲しい。
そして、・・・できれば私も。
この窮屈で愛憎渦巻く屋敷から逃げ出したい、そう思った。
そして・・・、アナンタの主人がやって来た。
優しそうな面立ちに、一見すると貧弱・・・と言っては失礼だが、
どう見ても戦闘方面には長けていない、
若い人間族の男性が現れた。
どういう訳か遮蔽コンクリートで覆われているはずの屋敷の壁に、
フィールドウォークを開いてやって来たのだ。
世の中は広い。
私の知らない事が沢山ある。
きっと冒険者より上位のジョブに就かれているのだろう。
これだけ若くして成ったのだから、
その強さは相当な物であるはずだ。
それならばバラブダ様よりは強く、戦闘に自信があるのも頷ける。
この顔立ちの良く実力もある主人に仕えている妹に、
恥ずかしながら嫉妬してしまった。
こんなお方の下で大切にされているのだ。
猫人族の女はこの主人の一番奴隷だと言っていた。
冷静で、落ち着いていて、仕事もできそうだ。
きっと寵愛を受けているのだろう。
私たち奴隷は伽を拒めないが、
こんな方に可愛がって頂けるのであれば本望だ。
私は処女では無いから相手にされないだろうが。
初対面なのだし、相手は裕福な実力者。
失礼が無いように気を付けて、私から挨拶をした。
「お初にお目に掛かります、イルマと申します。
妹がお世話になっていると聞きました。まずは感謝致します」
「君がイルマか」
相手の主人は私の名を知っていた。
この猫人族の女も、初対面の時から私の名を知っていた。
妹は喋れないはずなのに、何故だろうか。
あちらには腕利きの諜報員がいるのだろう。
やはり実力者なのだ。
「この度は私達姉妹のために色々ご計画をして頂いているようで、
本当に申し訳ありません。
妹に代わってお礼を申し上げます」
失礼の無いように、お礼を述べた。
「うん、そんな事より、どうだ?やってくれるか、くれないか。
たとえイルマの協力が無くても、
こちらは近いうちにボルドレックとやり合うつもりだ。
ウチの奴隷が以前ボルドレックの子息を殺してしまったらしく、
その因縁が今でも残っているのだ。
ええと、お前の主人の・・・」
「アイザック様ですね?」
「そう、アイザックがこちらの奴隷を狙っている。
結局の所、いつかは厄介事になるだろう。
であるので、こちらから決闘となるように話を持って行くつもりだ」
驚いた。
ボルドレック様からの糾弾を待つのでは無く、
自らボルドレック様に喧嘩を吹っ掛ける気なのだ。
どれだけ自信があるのだろうか。
仮にバラブダ様が倒されたとしても、
ボルドレック様のお力ならば、
もの凄い戦闘奴隷が呼ばれる事だろう。
それを知っていて、なお仕掛けるおつもりなのだ。
仮にボルドレック様本人が討たれるような事になった場合、
ここに残っては全員死んでしまう。
果たして泥船はどちらだろうか。
「・・・遅かれ早かれ、エマレットにも害が及ぶ事となるのでしょうか?」
「そうだ。協力して貰えるなら、全員が幸せになれる道を約束しよう」
「・・・分かりました。また明日のこの時間にお越し下さい。
この時間帯であれば他の奴隷たちは料理番、
お屋敷の警備をしている者は夜にしか起きません。
庭掃除は私の仕事ですので、ここにいるのは私だけです」
正直に屋敷の事を伝えた。
本来、このような警備に係わる話は極秘事項だ。
数年仕えて来たこの屋敷を、私は今売ろうとしている。
鼓動が速くなり、息苦しかった。
「文字は読めるか?」
突然の質問に驚いた。
大体どんな奴隷であっても、ある程度の読み書きは商館で習う。
その質問の意図する所が読めなかったのだ。
「はい?大丈夫ですが」
「では夕方、ここに作戦のメモを残す。就寝前までに拾ってくれ」
作戦・・・そうだ、私はボルドレック様を売る作戦に乗ったのだ。
もう後には引けない、戻れない。
私はこの屋敷を出ると決めた。
人生で初めて、何かを決めた。
本来奴隷には許されない、選択する権利を与えられたのだ。
そんな決定をした私自身に恐怖さえ覚えたが、
その可能性に賭けてみたいとも思った。
最後に、ずっと言いたかった感謝の言葉を、
手足が震えながらも何とかひねり出した。
「エマレットに会わせて頂き、ありがとうございました」
「では失礼する」
数分の面会だったが、エマレットの新しい主人は、
優しく、強く、そして自信に満ちていた。
──協力して貰えるなら、全員が幸せになれる道を約束しよう
新たな主人が残した言葉を、私は頭の中でずっと繰り返していた。
∽今日の戯言(2021/10/30)
別サイド視点、大好きです。
・異世界40日目(夕方)
ナズ・アナ35日目、ジャ29日目、ヴィ22日目、エミ15日目
パニ5日目、56層同行まであと5日




