事態の収束
1
「つまり、わたくしの身柄が欲しいと言いたいのですか、外交官殿」
テーブルの反対側に座っているハイリザードを見て、わたしは自分が慄いたことに気づいた。
この期に及んでわたしはまだハイリザードたちの野心を過小評価していたとでもいうのか!
「誤解をなさらないでいただきたい、わたくしたちはあくまで今後の混乱に備え、セイカラ王国の重鎮を保護する必要があると考えているだけです。とのことです」
白々しい!
ハイリザードが書いた文書を読み上げる代言者の感情のこもってない声音を聞き、わたしは言葉を発した張本人を、憎しみを込めて睨まずにいられない。
他国の最高権力者を拘束する目的は簡単に推測できる。
傀儡政権を立ち上げ、セイカラ王国を内部から支配しようとする魂胆が透けて見える。
ハイリザードにとって、セイカラ王国の気候はお世辞でも居心地がいいと言えない。
以前にもハイリザードの軍隊が冬の時期で国境を強引に破った事例もあったが、冬が終わるまで待たずとも彼らは勝手に自滅した。
だから、武力行使でセイカラ王国の国土を手に収めたところで何の意味もないと理解したハイリザードたちは講和を持ち込んだが……
(これが目的だったのですか!)
彼らはセイカラ王国が産出する各種の資源に関心を持っているのは最初から知っていた。
通商の目的も資源目当てだと思っていたが、まさか10年ほどの前からこの日を狙っているとは。
何という恐ろしい敵。
部屋の隅で脂汗を垂らしているセアルノ商会の会長責めても詮無い。
騙されたにせよ、知っている上で協力したにせよ、今になって、それが事態に何の影響も及ぼさないだろう。
そのとなりで沈黙を保っているセアルノ商業連合の責任者も、今のところ会話に参加しようとするそぶりを見せない。
完全に国有化されただろう。
「何度も繰り返して言いますが、セイカラ王国において人権が保護されています。ハイリザードでも枢機卿でもその点において変わりはありません」
しかし、譲れない一線さえ守りきればまだ勝機がある。
相手は長期的にセイカラ王国にとどまることはできない。そのため、武力衝突による侵略はほぼ不可能と言える。
主権さえ保っていれば挽回するチャンスはいくらでもあるはずだ。
「お言葉ですが、わたくしたちは教会側が今回の事態を過小評価しているのではと憂慮しております。今回の事態が導火線となり、最悪クーデターに発展する可能性さえ考えられます。セサスシ帝国と致しましてもセイカラ王国との互恵関係を重く捉えており、セイカラ王国の混乱をできる限り回避したいと思っております。とのことです」
(自作自演だというのに、よくもぬけぬけとここまで言えるものですね。その鉄面皮に怒りを通り越して呆れるわ)
「それでは、貴金属の価格維持に尽力していただければと存じます」
「もちろん、最善を尽くす所存ですが、市場が飽和したゆえ、それが極めて困難だと判断しただからこそ、値下げをして市場規模を維持するという苦肉の策を出した次第です。何卒ご理解のほどよろしくお願いいたします。とのことです」
うわべの言葉を並べて、こちらの要望を悉く受け流す。
彼らもわかっているだろう、カンニの原材料を潰した今こそ好機だと。
協力の姿勢こそ見せてくれたが、実際彼らは一切妥協しないだろう。
セイカラ王国が自滅するか、主権を献上するかまでは。
「平行線ですね。繰り返して言いますが、わたくしにはまだ事態を収束させる責務が残っています。申し訳ないですけれども、セサスシ帝国側の申し出を受け入れてはなりません」
「教会の自力による事態の収束がほぼ見込めないだからこそ、わたくしたちは次善の策を提案しているのです。枢機卿を保護し、セサスシ帝国の後見のもとで襲名の儀式を行えば、教会の権威はまだ保つ可能性が残っています。何卒ご再考を。とのことです」
何という茶番でしょう。
拒否の姿勢を何としても崩さないこちらに対して、相手はまだその中身のないテンプレート通りの説得文句を連発し続ける気か。
これ以上会談を続けても意味ない。
「まだ政務が残っていますので、申し訳ないけれど、お引き取りを」
どんな事態に陥ったとしても主権だけは渡さない。
たとえそれは自分が生き延びる唯一の方法だとしても、だ。
セイカラ王国を、父上を裏切ってはならない。
そして何よりわたし自身がそのような姑息な手段を取ることを許さない。
それを受け入れたら、死よりはるかに恐ろしい地獄がわたしを待っていることになるだろう。
後悔と自責という名の地獄が。
「もし、こちらの申し出を受け入れていただければ、セサスシ帝国の法律を参照し、セアルノ商会が保有している債権を廃棄させるのも可能です。とのことです」
「……ようやく化けの皮が剥がれましたね、外交官殿」
その提案は今回のセイカラ王国の苦境はセサスシ帝国の自作自演であることを承認したと等しい。
ハイリザードどもは10年ほどの時間をかけて国の将来を人質として押さえ、法外な釈放金を要求してきた。
主権を取るか、国そのものを取るかと、最悪の二択を投げてきたのだ!
卑劣この上ない所業としか言いようがない。
「はなはだ心外ですが、そのことも加味してご再考をなさってください。とのことです」
(詰み、ですね)
残念ながら、このむごい一手を拒む余地わたしたちにはない。
もしハイリザードどもが、教会がこの提案を蹴ったことを声音高く宣伝したら、教会は民衆から凄まじい非難を受けることになるだろう。
どうして断ったんだ、断らなければこんな辛い思いをしないで済むのに!と。
帝国がその約束を守る確約はないし、仮に守ったとしてもセイカラ王国の主権がハイリザードの手に渡すことになる。
しかし、悲しいかな。わたしたち教会に失望した国民にそれを分からせる能力を持たない。
(どうすれば……!)
元を辿れば事の起因はすべて教会の無能だ。
もし早い段階で侵略者の意図を悟ればここまで追い込まれることはなかった。
自業自得だ。
(教会が崩壊しても、セイカラ王国だけは渡さない!)
父上が犯した過ちの責任は、わたしが取らなければならない。
考えるのだ。
どうやって、セイカラ王国の独立を保てるのかを。
たとえ利用できる材料は自分の死と、教会の終焉しかないだとしても、外敵の手から国を守って見せる!
「……少々、時間をいただけ…」
「猊下!猊下!何卒お助けを!何卒!」
この瞬間、メーティスは壮絶な決意を下したが、良くも悪くも、それがただの徒労に終えた。
なぜなら、アダラエス商会会長ジョンソンが門衛を押しのけて会談に割り込んだのもその時だった。
2
「ちょっ!」
ジョンソンを呼び止めようとしたが、相手の勢いがあまり凄まじく、門衛を務めるニーサが口を半開きにして固まっていた。
「あ!ウートゥル!ついさっきアルレース猊下が来て、もしアダラエス商会の会長とあんたが来たら通してあげてと言われたけどさ。中で結構重要な会談が行われているの。せめて理由を説明してくれない?」
ニーサにとって、実力行使でジョンソンの侵入を阻むのはそんなに難しいことでもなかろう。
しかし、どうやらアルレースの言い付けが足枷になったようだ。
「アルレース猊下からの説明は?」
「それが全くないから戸惑っているのよ、あたしは。それを言った後もすぐにまたどこかに消えてしまって」
「そうですか。誠に残念ですが、私からも何も言えることはありません。ここを通していただけないかな?」
もちろん、この場で一から十まで彼女に説明するのも可能だが、アルレースが職務を放棄した手前、私が馬鹿丁寧に彼の尻拭いをやる義理がいない。
ジョンソンが入った以上、憂慮すべき事態はほぼ確実に回避できたと言えるが、まだ安心できない。
一刻を争うとまだ行かなくとも、私に時間を浪費する余裕がない
「……あんた、なんかキャラ変わってない?なんか威圧感半端ないけど」
「昨日からこうだった。ジョンソンというやつを追い込み時鬼に見えた」
「ウォッカ、その大袈裟な表現は感心できませんな」
はなはだ心外だ。
この二週間で私と一緒に行動してきた彼の英語がすこぶる上達したが、どうやら用法に関してまだ少々偏っているようだ。
発音はまだ訛っているところが残っているが、そこは脳内修正でなんとかカバーできる。
「何があったの?昨日って」
「アルレース猊下から、ハイリザードの高官が、セアルノ商会の会長に随伴してこちらに到着したとお知らせられていただきました。場合によって最悪な状況になりかねないので、計画を前倒ししました」
「私の見立てですと、メーティス猊下が次期枢機卿であられることを知った時の方が、貴殿の反応が激しかったですぞ」
ようやくお出ましか、狸ジジイめ。
彼の人柄を知らなかったとはいえ、あの日で彼を協力相手と選んだことについて私は激しく後悔している。
交渉の間で合計6回も文字通り殺されたことを全く恨まないほど私の心は広くない。
教会の立ち入り禁止のところにあえて侵入し、自分を押さえた衛兵に機密情報を匂わせるそれらしいことを言って高層を釣り出す。後は理由を付けて人払いしてもらい、その高層とやらの前で自殺して舞い戻る。
簡単にまとめると、神しかできない芸当を演じて強引に協力させる。
脳筋としか言いようがないプランだが、短時間で上に繋いで共闘関係を築くにはそれほどの無茶をする必要があった。
しかし、このアルレースという人間はそれだけで納得しなかった。極めて不可解の現象を前に取り乱すならまだ理解できる。しかし、彼はそれを見て、逆に冷静にになってこの現象を考察し始めた。
このアルレースという人間は教会に所属しているにもかかわらず、神をハナから信じていないのだ。
方法は言うにも憚るほどむごい。
グロテスクさを省いて説明すれば、その方法は様々な手段を用いて私を殺すことである。
3回目になって復活できても痛覚はまだ生きていると理解した彼がようやく気が済んで私を意図的に殺すことを辞めたがが、後の交渉は拷問としか呼べない代物だった。
彼は痛みが畏怖に繋がり、相手に畏怖を抱かせることがアドバンテージに繋がると考えているからだ。
安直な三段論法だが、残念ながらその蓋然性に疑問を挟む余地がない。
もし相手が不死の身であれば、それほど簡単に交渉で優勢をとれる手段はほかにあるまい。
極めて合理的な思考だ。
実際、交渉の後半でお互いの情報交換がほとんど終わり、私が提案した計画の必要性を認めた後、彼は前の態度を一転して好々爺になった。
推測になるが、彼の人柄にそこまでの凶暴性は含まれていないだろう。私を拷問する時、彼も心を痛ませていたと感じ取れる。
もちろんそれが心証の向上に繋がるか否かはまた別の話だが。
「もし最初からそれを知っていれば、私も猊下の折檻を受けずに済みますからね」
「そしてその後で激しく後悔するに違いありませんな。この不肖アルレースに頼まなかったことを」
「……」
咄嗟に言い返せないところがまた憎たらしい。
私はエゴの塊であるという事実を再認識させる言葉だった。
「なに、後ろめたいと思う必要がありません。優先順位をつけるのは人として当たり前のことです」
お前だけに言われたくない。合理性の権化め、
「お気遣い、痛み入ります」
考えをおくびにも出さず、軽く一礼をする。
「さて、さすがに私も入るわけには行くまい。貴殿の慮りを台無しにしては忍びませんな。後は任せましたぞ」
いまさら子を慈しむような態度をとっても私の中にあるアルレースという人間の人物像に上方修正を加えることはない。遺恨を抱き続けるのは合理的ではないと頭で理解しているが、気持ちまでそれを納得させるには無理がある。
「任されました」
とはいえ、私も一々彼が言った言葉に反発するほど幼稚な人間になるつもりはない。
利害関係が一致しているであれば、彼との共闘もやぶさかではない。
彼からの資金面の援助がなければ、この計画は根本から破綻しているのもまた事実だ。
今は目下のことに集中しよう。
「ちょっ、どういうこと?二人面識あるの?なにが……」と騒ぐニーサの対応をウォッカに丸投げし、会議室の中に入る。
さあ、仕上げだ。
3
「これはいただけませんな、ジョンソン殿。契約を破ったにとどまらず、礼儀までお忘れになったとは。このわたくしは心が痛まずにいられませんな」
「おのれ!よくもぬけぬけと!」
(……え?)
興奮状態に陥っているジョンソンを落ち着かせることを試みたが、その効果が全く見受けられない。堪忍袋の緒が切れたか、会談の進行を妨げるジョンソンを強制的に叩き出そうとセサスシ帝国側が提案したが、まさにその時だった。
この場に出現するはずのないウートゥルさんが鷹揚にジョンソンの後を追う形で会議室の中に入った。先日と比べ、その姿の洗練さが増したが、自分を導いてくれた恩人とも言える人間の顔を見間違えるはずはない。
しかし、一体どうして?
関与しないと決め込んだはずの彼が、どうしてここにいる?
まさか……!
「ご機嫌麗しゅう、メーティス司教。見苦しいところをお見せして誠に申し訳ございません。どうか、ご安心を」
柔らかい笑みを携えている彼はまず、狼狽を隠さないわたしに、紳士しかりの身ごなしで優雅に一礼した。最後の文脈から外れ一文により、彼の立場がしっかりわたしに伝わった。
(杞憂、ですね)
彼まで敵に回したのかと、一瞬心が折れそうになったが、そんな事はなかった。
よく考えれば、彼は、これ以上に悪化できないくらい最悪な状況に陥っているわたしたちに追い打ちをかけるほど無意味な行動を好む人間ではあるまい。
(彼が味方としてここにいるということは……)
まだ、打開策が残っている!
思えば、自分は事態について善後のことしか考えていなかったほど悲観していた。
この二週間で経験した絶望感が予想以上に自分の心を蝕んでいたようだ。
彼の出現はまさに一筋の光となり、わたしに希望をもたらしてくれた。
(安っぽいね)
自分のチョロさに絶句したが、それについてわたしは意外と疎くに思っていない。
(本当にどうかしているわね)
とはいえ、今はそのような詮無いことを考える余裕はない。
まずは苦境の打開、そして劣勢の挽回だ。
ついさっきまで考えもしなかったことを、今のわたしにとってまるで手が届くように感じる。
この心境の変化の原因はただ彼の到来でしかないとは、
(滑稽としか言いようがないですね)
「……これはこれは、ハイリザードの方もいらしゃるのですか。しがない商人で、ウートゥルと申します。お始めにお目にかかり、恐悦至極に存じます」
さも気づいたばかりと彼はセサスシ帝国側に向き直り、慇懃無礼にも取れる大仰な言い回しで社交辞令を述べた。相変わらず笑顔が絶えないが、その目の奥にうごめいている敵意は、直接それに当たらなかったわたしでも、心臓が鷲掴みられた感覚をさせるほど苛烈なものだ。
その敵意を感じ取ったか、セアルノ商業連合の責任者に当たるハイリザードはうなじの鱗を使って鉤爪を研ぎながら肩を震わせる。さすがに襲い掛かることはないが、臨戦態勢に入ったのは明らかだ。
それに応じて今でも飛びだそうとしているニーサに目線を合わせて、抑止をかける。
外交官も驚いたようで、代言者の耳打ちを聞いた後、音が聞こえないが仕草を見る限りどうやら隅に立っている仲間と意見交換を図っているようだ。
「猊下、彼は何者で、どうしてここにいるのかについてご説明いただけるのでしょうか。とのことです」
1分ほど経ち、内輪の論議がようやく終わったのか、外交官はウートゥルさんにではなくわたしに質問をかけてきた。
わたしも状況を把握できていないことを見抜いて、牽制として聞いただろう。
(困りましたね)
ついさっきウートゥルさんは共闘宣言をしたが、今までわたしは彼からなんらかの打診を受けたというわけではない。彼がこの場にいる原因について全く心当たりがないと言っても過言ではない。
わたしに聞かれてもというのが本心だが、もちろん、それをそのまま彼らに言えるはずがない。
「彼の出身についてそちら側の方が詳しいから、答えても意味ないでしょう。後者についてわたくしも分かりかねますのでノーコメントでさせていただきます」
(手応え、あり……?)
結構杜撰な回答だと思ったが、予想のほかに、それを聞いたセサスシ帝国勢は驚きを隠さず固まったようだ。
見れば、ウートゥルさんも微かだが目を見張った。
これにてウートゥルさんはかつてセアルノに所属していたという推測が証明されたが……
(いささかオーバーリアクションなのでは?)
ついさっきウートゥルさんがこちらに協力の姿勢を見せたのだ。それくらいの情報交換は予想の範囲内のはずだが、セサスシ帝国側は彼がわたしにそれを打ち明けることをハナから想定していないようだ。
実際、彼の口から聞いたことはないが、それはともかくとして……
「それについてわたくしの口から説明した方がわかりやすいでしょう」
その隙を見逃すほど彼はぬるくない。一瞬の空白を突き、ウートゥルさんはこの場の主導権を奪い返した。
「まずはこれをご覧になってください」
懐からいくつの文書を取り出し、彼はわたしに歩み寄ろうとしたが……
「うあああぁぁー!!」
ウートゥルさんが入った後、不気味なほど沈黙を保っていたジョンソン会長は突然ヒストリーの発作を起こした。
涙と鼻水を垂らしながら、おぼつかない足取りでウートゥルさんに襲い掛かり、彼の手に収まっている文書を奪おうとした。
勢いこそ凄まじいが、その精神状態で行った突撃は見苦しい踏み外れによってあっけなく終止符がうたれた。
(これは、一体?)
今回の事態において、もっとも安全なポジションにいるのは他でもないアダラエス商会だ。
その会長であるジョンソンの立ち回りは非常に賢かった。
保険契約を売り捌いたのもさることながら、なりより懸命なのはアダラエス商会がセアルノ商会に融資しなかった事だ。
商業団体群に担保として選ばれたのも原因の一つだが、だからといって保険契約を結んだから投資してはいけないというルールが存在するかというとそうではない。
アダラエス商会は周りが享受している高金利に目が眩むことはなかった。ただひたすらにコツコツと従来の業務に励んでいた。
普通の農産物も取り扱っているが、彼らの主な営業内容はカンナビス、高級酒、高級食材などの貴金属と並ぶ奢侈品の販売だ。
貴金属の出現により衰退を辿ったその代替財である木掘細工などと異なり、補完財である高級農産と畜産の市場は以前より規模が拡大した。そのおかげで、アダラエス商会はこの数年間で多くの利益をあげた。
8億カンニを下らない財産を保有しているはずのアダラエス商会の会長がどうして、こうも取り乱しているだろうか。
不可解なことだ。
(……これは!)
しかし、手元に届かれた資料を粗く目を通した後、その疑問が氷解した。
「そんなに警戒する必要はありませんよ、セサスシ帝国の方。事は簡単で、本来ならこの場に割り込むどころか、猊下を煩わすほどの案件でもなかったのです。まさかジョンソン殿がこうもオーバーリアクションするとは……」
(……この場に割り込ませたのはどうせあなたでしょうに)
書類にのっている、インクがまだ完全に乾いていないジョンソン会長のいびつなサインを見て、心の中で苦笑を漏らす。
彼がもたらしてくれたこの苦境を切り開く材料により、迷走している思考がようやく平常運転に戻れた。
(まさかこの手が……)
それこそ、教会にとってそもそも実行が不可能である禁忌の一手。
価値観によってその本質を卑怯極まりない詐欺と罵る人間もいるだろう。
実際、このような場合でなければ、わたしもその行為について感心できない、
彼が、セイカラ王国のためにその憎まれ役を買って出たのだ。
だからこそ、その心意気を蔑ろにしてはならない!
(落ち着いて……)
まずは前提の確認、そして結果シミュレーションを……
思考をフル回転させなさい、メーティス、
反撃の狼煙をあげる時よ!
4
『御託はいい、要件を述べろ』
(……これくらいでいいか)
芝居かかった仕草と口調で可能の限り時間稼ぎをしたが、肝心のメーティスの状態は私が入室した時と全く変わらない。
焦りの汗をひとつもかかず、ずっと仏頂面のままだ。
私の予想が間違わなければ、ハイリザード達が持っている効果抜群の切り札を切ってしまえば、たとえ鋼の意思を持っている彼女といえども妥協せずにいられない。その切り札とやらはそれほどタチの悪いものだと思うが、どうやら会談はまだその段階にまで進行していないらしい。
とはいえ、彼女のことだ。表面だけ見てもその心境は分かるまい。
この局面において実に頼もしいが、事態の打開策を持ってきた私の出現に少しだけでも安心感を示して欲しいと思っている自分がいることも否定できない。
(どうかしているな)
行動指針・目的と全く関係のない表象を求めようとしているとは、非論理的極まりない欲求だ。
自分の心理だが、まことに理解しがないな。
どうしようもないことはともかくとして……
たとえそれが徒労だとしても、副作用のない慮りをしない理由はない。
これからの主役は彼女だ。頑張ってもらわないと困る。
相手が私と同じく外来者である以上、失敗は許さない。
私の身勝手この上ない汚いエゴが、それを許せないのだ!
「猊下……」
「言葉を交わすことを許します」
「は、ありがたき幸せ。代言者を通らないでわたくしに声、いえ言葉をかけたという事は、これからの会話は非公式的なものと捉えてもよろしいでしょうか、異形の客人」
『結構よ、なんなら……』
「それに及びません、侵入者。何が起こったのを知りたいなら、その報告書を読めばよろしい」
思った通り、この雌のハイリザードは「日」の漢字を書こうとしている。
メーティスにとって見たことのない言語が私に通じる事を利用し、彼女と私の信頼関係を揺さぶり、場の主導権を奪い返そうとしている魂胆が透けて見える。
その応手もいくつあるが、事前にそれを防げればそれで良い。
こちらの身元はどうやら既に相手に特定され、相手もそれを隠す気はサラサラないようだ。
既にディスアドバンテージを被った以上、余計なリスクを抱え込むのはよろしくない。
『乱暴ね』
広い歩幅でハイリザードの前まで歩き、事前に準備した資料を相手の手前に置く。
その皮の下に潜んでいるものがこの手のプロである可能性が高い。
自分が専門家を相手にしても遅れを取らないと思い込むほど私は自惚れしていない。
無意味な会話を慎み、出来る限り隙を相手に見せない。
私はメーティスほどメンタルが強くない。ポーカーフェイスを保っても限界がある。
正確に言えば、私は結構思考をそのまま無意識的に表情に出すタイプだ。この性格はお世辞でも交渉と探り合いに向いているとは言えない。
『……なるほどね』
記号であるリーダーまでわざわざ書くのか、この人は。
ただふざけっているのか、これともこれも揺さぶりの一環か。
『簡単に要約すれば、アダラエス商会があなたと結んだ甲種契約を破ったということね』
(やはりうまい)
その報告書の中に、偽りの内容こそ書かれていないが、いくつか事実の厳重さを誤認させる誘導が意図的に配置されている。
それこそ、暗にアダラエス商会がすでに倒産したことを示唆する文も入っている。
しかし、やはりというべきか、それも高いレベルのメディアリテラシーを持つこの人に通用しないようだ。
「甲種契約についての説明は?」
『ここに来る前に一応神の掟とやらを目に通したわ』『しかし、お互いの認識に齟齬がないと言い切れないわ』『説明してくれないかしら』
ただ要るだけで済むことだというのに、と責めることなかれ。
(虚偽を教えても意味ない。自分は法律専門家ではない。公式の見解を聞きたい)
ただ表面上でも伝いたいことの三つを社交辞令の中に潜らせた。
やはりというべきか、一筋縄ではいかない相手だ
「構いません」
それらを読み取れたか、メーティスは私が頼む前に自ら口を開いた。
「甲種契約とは、神に定められた契約の形の一種で、契約の中でもっとも高い拘束力を持ちます。乙種契約と丙種契約と異なり、結んだ甲種契約に違反しても、違約金に類するものが存在しません。その代わりに、甲種契約に違反した場合、神の掟に基づき、権力機構にその契約の双方の間に介入し、契約完了まで違反者の信用格付けを最低限まで引き下げ、違反者が抱えているあらゆる乙種契約と丙種契約を凍結する義務が生じます」
(実にわかりやすいな)
私に説明させたら一時間もかかるかもしれない。
事が進む前に、一応リアルの概念を用いて整理しようか。
まず、日本に限らず、世界中のほとんどの国において、契約と関わる内容は刑法ではなく民法に存在する。
それは、政府は民間人同士が結んだ契約に能動的に介入する権利を持たないことを意味する。
簡単に言い換えると、契約を破っても犯罪にはならず、刑事責任がそもそも発生しない。
相手が裁判所に訴えない限り、賠償や強制履行さえしなくとも大丈夫だ。
賃貸借契約を例として平たく言うと、債務者が債務不履行になっても、債務者に当たる存在に強制履行を強いる権利を有するのは債権者であって政府や裁判所ではない。
裁判はあくまでその権利を行使するための手段である。
そして、その手段の拘束力も極めて低い。
よく勘違いされることだが、賃貸借契約の不履行、つまり借金を沢山抱えている会社が倒産した原因は、裁判所が強制執行の判決が下したというわけではない。
債務者が会社の場合、強制執行の判決を下すには数多くの手順を踏まなければならない。会社が破産手続きを行うほとんどの場合は、その判決が下された前である。
極論だが、会社側はいかなる債務履行に関する催促を無視しても問題ない。
債権者が折れ、契約を解消するまで粘れば債務そのものがなくなる可能性さえある。
しかし、それにもかかわらず、不渡りが続く会社のほとんどは倒産した。
その原因は信用格付けにある。
平易な表現を用いて説明すれば、皆は契約を違反した人間と契約を結びたくないと言うことだ。
銀行から融資を受けるのはもちろん契約の一種である。また、如何なる取引でも、取引双方が債務者である同時に債権者でもある双務契約に分類される。
全ての経済活動が行えない状況で会社を経営し続ければ、確かに契約不履行になっても強制履行の催促を無視してもよろしい。
できれば、の話だが。
また、特定の場合を除き、契約の内容、方式などに定められた規則がなく、契約双方が勝手に決めてもいい。契約の内容に気に入らないなら、締結前でそれを一蹴してもそれを咎める権利を持つ存在がいない。
これを契約自由の原則と呼ぶ。
極端な場合、契約の内容が民法と抵触しても、契約の方が優先されるほど、契約に対する法律の拘束力が弱い。
契約の分類だが、その分類方法は多岐にわたる。
ここは今の状況と関わりのある諾成契約と要物契約、つまり神の掟における乙種契約と丙種契約を取り上げよう。
諾成契約とは、最初に締結した契約の内容と関係なく、最終的に契約双方が履行した結果に納得さえしていれば、その契約が完了したものと見なす。
日常的な例を挙げると、レストランで食事をとる時、ピザを注文したのになんらかの手違いがあったかハンバーグが持ってこられた。普通の人間ならそれに文句を言ってピザを持って来いと強要する。しかし、「まぁ久々にハンバーグを食べてもいいか」と思って納得する人もいるだろう。その場合、契約の内容に基づき、店側はピザという債務とピザの料金という債権を持ち、客はその逆だが、履行する時債務と債権がハンバーグとその料金に変わった。しかし、それにもかかわらず、もし双方がそれに納得さえしていれば、その契約が無事に完了したことになる。
要物契約は諾成契約の対極である。
世界中のほとんどの国とセイカラ王国において売買は諾成契約に分類されるため誤用になるが、あえて前述した例を用いて説明すれば、ピザと注文した後、店側がピザを提供しない限りその契約が完了しない。ハンバーグを食べて家に帰った後、「あ、やっぱりピザの方がいいな」と思って店に戻る場合、客にピザをもう一度注文する、つまり新たの契約を締結する必要はない。料金を渡しピザをくれと言えば、たとえ店側がもうピザを販売できない状態に陥ったとしても、その店にあらゆる手段を用いてもそれを履行する義務がある。
ヨーロッパ諸国と異なり、日本において貸借契約が要物契約となっている。つまり、100万円の借金を抱えている人間が「50万なら返せるから見逃してくれ」と債権者に泣き付き、債権者がそれに認めて訴訟を辞めても、時効が生きてさえいれば、債権者はいつでも残りの50万を請求する権力を持っている。
だから、債権者が契約を解除しない限り油断してはいけないが、関係ない話はともかくとして……
セイカラ王国において貸借とCDSに相当する保険契約が丙種契約、つまり要物契約に分類されている。だから、神の掟を破らない限り、CDSを購入した商業団体が保険賠償金を踏み倒し、教会が汚い裏技を使ってセアルノ商会に認めさせる方法は存在しない。
そして、問題の甲種契約というと……
『なるほど、刑法が適用される要物契約ということね』『斟酌せずにそれを結ぶ人は馬鹿だわ』
この雌のハイリザードは物分かりがいいが、どうしても無駄の一言が多い。
ジョンソン氏が顔を赤くして震え出したのは言うまでもない。
可哀想に……
(私のせいか)
そういえばそうだった。
『あなたも人が悪いね』『セニスのことを知っているのに空売りさせるなんて』
「言い掛かりをつけても……」
「貴様!知っているのか!最初からおかしいと思った、やはりそうだったのか!」
萎えかけたジョンソン氏はハイリザードの一言でまた元気になり、こちらに食ってかかった。
忙しないお方だ。
おかしいと思ったなら最初はどうして甲種契約を締結したかね。
「落ち着いていただきたい、ジョンソン殿。契約を締結したあの時、私はどうしても大量の新鮮カンナビスを確保したいゆえ、1キログラム160カンニという法外と言っても過言ではない価格設定を甘んじて受け入れました。
一昨年からカンナビスの収穫量は前年比15%ほど増えています。その上カンナビスにかかる税金も先月下げたばかりです。わたくしがそれらを知ったのはつい最近です。普通であれば新鮮カンナビスの相場は1キログラム110カンニまで落ち込むはずですが……
いやはや、世にもわからないものですな。大赤字を覚悟して資金を準備したのにさまか天下のアダラエス商会様がただの40トンのカンナビスも提供できないとは。去年の貴商会の出荷量は確か160トンでしたか」
なるほど、こうも条件を並べれば、アダラエス商会に旨味がある契約に見える。だから私を逃がさないために甲種契約を結んだか。誘導したとは言え、まさか相手側からそれを先に提案されたとは思わなかった。
今になってそれが仇となったが……
「何処のどいつかは知らないがカンナビスを片っ端から買い占めているからだろうが!それもお前だろう!この恥知らずめ!」
甚だ心外だな、カンナビスを血眼で買収しているのは教会であって私ではないだというのに……
まぁ、それを事前に予測できたのもまた事実だが……
セニスという村を襲撃したのは手練なハイリザードだった。彼らは貴金属販売を主軸とし、ハイリザードが立ち上げたセアルノ商業連合と全く無関係と考えにくい。
実際見た光景と図鑑に載せている情報を基づき、セニスに存在する唯一の価値あるものはその大規模なカンナビス畑であると思われる。
奇襲の目的もそれだろう。
セアルノが作り出したサークルは確かに教会とセイカラ王国に多くの恩恵をもたらしたが、その代わりに威力甚大の爆弾をセイカラ王国の市場に埋めたことになる。
その明らかに敵性行為であるセニスの襲撃は爆弾の導火線に火を付ける行為に等しいではないだろうかと私が考えた。
つまり、セイカラ王国において唯一鎮火能力を持つ教会にとって、カンナビスが特別な価値を持ち、それを潰せばハイリザード側が何らかのアドバンテージを得ることになると推測できる。
言い換えると、事件が勃発したあと、一般人がカンナビスを買い求めることが極めて困難になる可能性があるとまで予想したが……
つい先日新鮮なカンナビスがカンニの原材料であることを知った時はまさに寝耳に水だった。
その情報を私にもたらしたアルレースはどうやら私が事前にそれを知っていると勘違いしたが、もちろん、そんなことはない。
それはともかくとして、まずはジョンソン氏の対応をしないと彼が文字通り爆発しそうだ。
「それこそ謂れのない言い掛かりです。私は料金である640万カンニを契約通り前週払ったではありませんか。私がそれ以上の資金力を持っているに見えますか?身辺調査は私が乾燥カンナビスを買い求める時貴商会が勝手に済ませたと思いますが……」
「えいい!貴様、一体どんな手を使ったのだ!」
アルレースの折檻を受け、その代わりに融資してもらったが、それを馬鹿正直にいうつもりはない。
法律上、つまり神の掟に基づき、甲種契約を結ぶ双方の中には教会と直接な関係を持っている存在がいれば、その契約は効力を持たない。
職権濫用を避けるための規制だろう。
アルレースからの援助が露見しても、言い逃れる言い訳をしっかりと用意してあるが、ばれないに越したことはない。
「はて、どんな手と言われましても……」
この茶番をやるのは今日で2回目だ。さすがにこれ以上付き合う気になれない。
「二人とも、見苦しい言い争いをおやめなさい。つい先ウートゥル様が提出していただいた契約書に不備がありません。そして、こちらのアダラエス商会に契約を履行する能力がない旨をしたためた種類にもジョンソン会長のサインが入っています。よって、これにて神の掟その第52条第7項に基づき、アダラエス商会を甲種契約違反に準じて処することを宣言します。ジョンソン会長を下がらせなさい」
支離滅裂な言葉を泣き叫びながら扉のところで控えていたニーサに連れ出されたジョンソン氏を見て、これはさすがにやりすぎたなと微かな罪悪感を覚えた。
「後はしっかり誤解を解きなさい」
「かしこまりました、猊下」
契約不履行を認める書類にサインさせるためジョンソン氏に事の厳重さを誤認させたとはいえ、まさか彼はアダラエス商会が潰れると本気に思っているとは……
認めよう、ここにサインしなければ天罰がくださるとそそのかしたのは調子に乗った結果だ。
すまんよ、ジョンソン氏。
彼に心臓や血圧に関係する持病がないと祈るしかない。
「見苦しいところをお見せしまして誠に申し訳ございませんでした、外交官殿。いよいよ本題にお戻りしますが、わたくしの回答は一貫して拒否です。お引き取りを」
ジョンソン氏が退場した後、メーティスは雌のハイリザードに向かってそうきっぱり言い放った。
『坊やに助けられて強気になったわね』『アダラエス商会にくだした裁定をくつがえすことも……』
「その能力はセサスシ帝国にありません。もう一度言いますが、お引き取りを。外交官殿を下がらせるのはさすがに体裁的によろしくありません」
ここまで来たらもう大丈夫だろう。
彼女もどうやら劣勢挽回の道筋を見えたようだ。
『セアルノ商会を見捨てるのね』
「自分が為したことに責任を負う、それが摂理です」
確かに、これだとセアルノ商会はまず生き残れないだろう。
アダラエス商会が手元にあるCDSを売り捌いたとはいえ、売ったのはあくまで保険料を獲得する権利と有事の際保険賠償金を支払う義務であり、CDSそのものではない。その契約はCDS契約と別物であり、アダラエス商会が持つCDS契約が機能しない状態に陥ったであれば他の商業団体が購入した契約もまた自ずと消滅する。
したがって、アダラエス商会が持つ全ての契約が凍結された事により、セアルノ商会が買ったCDSも全部水の泡に返した。
そのことはセアルノ商会の破滅を意味するが、その代わりに甚大な被害を受けるであろうアダラエス商会からCDSを購入した数多くの商業団体は無傷で済む。
「これなら来月まで持てませんな、はは」
今まで脂汗を垂らして沈黙を保っていたセアルノ商会の会長アルファ氏が諦め気味のつぶやきを漏らした。
その顔は心なしか少し晴れやかになったように見える。
「商業団体が抱える履行不能の丙種契約の債務額が5億カンニに達すれば、債権者は教会に嘆願し、その商業団体の人格を消滅させる権利を有します」
法人格の強制消滅は債務に相当する全財産を没収する強制履行より厳しい裁定だ。しかし、少なくとも私はそれが度を越した制約だと思わない。
そんなに沢山の債務を抱え込んでなお破産手続きを申し込まなければ、その団体に破産以上の不幸が見舞うことになるだろう。
「そうしたら俺が持っている債権も全部おチャラにするというわけかよ」
「ええ、神の掟に基づき、債務の方は教会が最大6割まで任意に引き取りますが、債権の方は全てその時点で強制的に解消します」
つまり、CDSの賠償金を肩代わりする場合、最初から見捨てられた債務不履行になる個人の一部は自己破産せずとも済む。また、教会が債務を引き取る場合、その債務を一括で履行する必要はない。
CDS契約を購入した商業団体と異なり、セアルノ商会に融資した商業団体は債権を直ぐに回収しなくとも経営に大きな支障をきたすことはないからだ。
セアルノ商会の消滅はセイカラ王国にとっての痛手であることは否めないが、不幸中の幸い、セイカラ王国の市場にそれ以上のダメージをかける追い打ちはないはずだ。
これにて、最悪の破局は回避できたとも言える。
レバレッジをやったのはセアルノ商会一軒しかないからこうも事態を綺麗に収束できた。
リスクを嫌う堅実なセイカラ王国の国民性に感謝するほかあるまい。
「そうか、よかったぜ。これならセイカラ王国は崩壊せずに済むな」
アルファ氏の曇り一つもない爽やかな笑顔を見て、私は戸惑わずにいられない。
その崩壊こそ、お前らの目的ではないのか?
どうして、本心からよかったとでも思っているような表情ができるのだ。
『俺たちと関係ない』『勝手にやらせている』
その疑問を読み取ったか、アルファ氏の隣で事態を黙って見守っていったハイリザードがそう答えてくれた。
その言葉をどう取るべきだろうか。
アルファ氏はそもそも外来者ではないか、それとも……
「ーーシャー」
「……は!」
ハイリザードの雌が出したジェスチャーを見て、先から隅で控えている代言者が慌てて元の位置に戻った。
「非常に有意義な会談でした。今後とも両国の良好関係を保てるようよろしくお願いいたします。とのことです」
これ以上粘っても意味がないと悟ったか、相手は退場のサインを出した。
このまま帰らせてもいいが、私のエゴが自分にもう一歩踏み込ませた。
「猊下、お許しを」
「許可します」
ほぼ以心伝心の域に入った簡潔なやりとりでメーティスにあらかじめ断りを入れ、椅子から立ち上がったハイリザードを呼び止める。
(すーはー)
自分を落ち着かせるためまず心の深呼吸をし、
「厚がましいお願いで恐縮だが、会談の議事録を読ませていただけないだろうか?」
瞋恚に燃える心をなんとか鎮まれ、最低限の体裁を守ってハイリザードにそう請求した。
普通ならこれは書記官に言うべき事だが、今ハイリザードの手前の机にまさに半分の議事録が置いてあった。
代言者に音読させた言葉の数々である。
それを読むことで、このハイリザードと代言者の下に潜んでいる人物の上下関係を把握できる。
言いたいことは山ほどあるが、見当違い人物にそれを言ってもどうしようもない。
『これね、いいわ』
断れると思ったが、ハイリザードはその要求をすんなりと通してくれた。
その堂々とした態度が逆に私に苛立たせる。
何も後ろめたい事はないとでも思っているのか、この人は!
(やはり……!)
書かれているものを見て、どうやら私の予測がことごとく当たったようだ。
その内容は私のなんとか強引に落ち着かせた心境を荒ぶらせるに充分なほど人道に悖る。
【お前は自分が何をやっているのかを自覚しているのか?】
怒りのあまりに、粗野な日本語が無意識のうちに口から漏れた。
その言葉に含まれている怒気に突かれ、ハイリザードが狐につままれたような顔をした。
相変わらず表情は読みにくいが、10秒ほど言葉が詰またことからそれを読み取れる。
その自覚なさがまた憎たらしい極まりない。
『あ、もしかしてあなた、AI人権団体でも入っているの?』『やめた方がいいわ、それ。一部のところで邪教に認定されているわ』
見当間違いも甚だしい。
確かに、俺はここの原住民たちの人権を認めている。しかし、俺はその考えを他人に押し付けなければ気が済まないほど独善的な人間になるつもりはない。
それを守るため全力を尽くすのもやぶさかではないが、それを蔑ろにする人間にまで憎しみを抱えているというわけではない。
ここの原住民を守りたいのはあくまで俺自身のエゴだ。
物事に対する解釈は個人の経験に依存しているということをよく心得ているつもりだ。その食い違いの咎を相手に帰属させるのは門違いであることも、だ。
しかし、目の前にいるこの人間とその背後にいるものがやっているのはそんな生ぬるい事ではない。
【理由は知らないが、お前たちは、このセイカラ王国のイデオロギーを認めている。この茶番の杜撰さに二の句が告げないが、少なくとも体裁だけ見ればお前らはしっかりと最低限の手順を踏んでいる】
『あら、あなたの甘い考えと合っていてよかったじゃなくて?』『それともなに?問答無用の方がお好き……』
書き出そうとした言葉を理解した瞬間、俺の瞋恚を抑えていた箍が外れた。
【お前は、お前らは、相手の主権を認めた上で行動したんだ!これは、主権国家への間接侵略にほかならない!それと比べれば、サーバーやプログラムを弄る方が、それができないならテロリズムを起こす方がよっぽど正常性がある!お前らは、どうして、この22世紀になっても、こんな野蛮な真似に走れるんだ!?それとも、間接侵略は武力侵略より文明的だとでも思っているのか?民族自決の結果そのものを歪めるのは、正道だと思っているのか!?】
胸の中に溜まっている汚泥みたいな鬱憤を吐き出すように、ひたすら相手に非難の言葉を浴び続けた。
『思っていれば?』
まるで癇癪を起こした子供のような幼稚な行為だと自覚している。
しかし、それでも、
【許せない。俺にとって、それは見過ごしてはならないことだ】
俺のエゴを通すまで、俺は引かない!
『そう、ごめんね。そんな正義の味方気通りのあなたに朗報よ。』『こうなった以上、近い頃ウチは、NATO(北大西洋条約機構)は一旦手を引くつもりよ』
「は……?」
相手からの嘲笑いや軽蔑が予想され、どうやって反論するかと頭の中で検討していたところ、まさか向こうから先に身を引いた。
一言で言えば、不完全燃焼だ。
『ドラマみたいな展開でも期待しているの?』『今こそ愛している女と国のために極悪に立ち向かう時だ、少年!とでも思っているの?』『かわいいわね、坊や』
相手が雰囲気に飲まれてボロを出すことを期待したが、この人はヒットアップした私と相対したにもかかわらず、冷静を保っている。
さすが姉の進化体である正真正銘の肉食爬虫類、一筋縄にはいかないな。
「茶化すのをやめていただきたい」
相手がこちらに噛み付かない以上、独り相撲をやっても意味がない。
頭をクールダウンして情報収集に取り組もう。
『そんなに警戒しなくてもいいわ』『今すぐじゃないけど』『許可さえ取ればこちらが知っていることを全部あなたに教えてもいいわよ』
またして先手が取られた。
やはり自分と比べてプロの方が一枚上手か。
今回の防戦で相手を制したのは相手側が油断したというより、最初から目標の達成を重く捉えていないからだろう。
こんな箱庭を相手に本気を出すまでもない、か。
それはそれで好ましくない思考方式だが、もう一度感情の制御を取り外しても得られるアドバンテージはゼロに等しいだろう。
とりあえず、素の自分を心の底に戻しておかないと。
それを野放してもデメリットしかない。
「ありがたい申し出だが、その対価はいかほどに?」
相変わらずだが、私がいきなり日本語を叫び出しても、事態の進展を静かに見守っていたメーティスからは何の反応も返さなかった。
持っている情報が少ない彼女にとって、今この状況は難解なもので、私の真意をはかりかねているはずだ。
それでも戸惑い一つも表さないということは、私に説明を要求しない、つまり、今直ぐにその疑念を解消する必要性はないと彼女が思っていることを意味する。
この後、この世界の核心に迫るほど極めて重要な話が出てくるかもしれない。彼女はそれを知る権利を持つが、知ったことで彼女の精神状態に異常をきたす恐れがあるではないだろうかと憂慮した。
だからあえて彼女を試すようなおこがましい真似をしたが、どうやらそれは杞憂で済むようだ。
彼女にも話がわかるように英語に切り替え、視線の妨げにならないようにハイリザードから一歩下がる。
『最初からそれかー』『教え子なのに、先生よりよっぽど賢いわね』
最初に書かれた内容について全く心当たりはないが、無駄の一言が多いこの人だ、読み飛ばしてもいいだろう。
私の意図を読み取れたか、ハイリザードもメーティスに読めるようにいつものスポンジより大きいものを持ち出し、字の大きさを調整した。
『まずはお嬢ちゃんに謝っておくわ』『ごめんなさいね、意地悪ことをして』『坊やが目を覚ましてくれたの』
心にもないことをよくもペラペラと並ぶ。
「本題に入ってください」
当たり前の事だが、どうやらメーティスもこの手のやりとりを疎く思っているようだ。
『二人ともつれないね』『このままだと幸せになれないわ』『離婚原因ランキングの一位を納めたのはなんだと思う?』
「もう一度言いますが、本題に入りなさい」
態度一つも変わらないメーティスを見て、このハイリザードがようやくふざけるのをやめた。
心の中で「からかいがいがないわ」のぼやきを連発しているだろう。
姉と全く同じ人種だ。
『セサスシ帝国の総意を代表できないけど』『少なくとも局面が変化しない限り』『今後わたしたちはセイカラ王国にことを構えるつもりはないわ』
「局面と『あなたたち』についての説明は?」
『後で坊やにお聞きな』『さすがに書きで説明するのは億劫そう』
メーティスは一瞬私に視線を寄せたが、それ以上何か言葉をかける事はなかった。
私が持っている情報もそう多くはないが、最低限の状況整理はできるはずだ。
つまり、彼女の期待に応えるはずだ。
しかし、この世界に関わる構図の一角をなんとか理解できたとはいえ、不明瞭なところはまだ沢山残っている。
果たして私の状況認識は現実と合っているだろうか。それについて少しの心許なさを覚えた。
「了解した。確認だが、局面というのは相手の目的を特定できない状況だな」
『そう、やはり分かっているじゃない』
確かに、俗な言い方で表すと、相手の所在さえわからない状態で勝手に行動したら背後がガラ空きになり、奇襲をくらいかねない。
セイカラ王国への働き掛けはあくまで副業だ。もし相手が舞台に上がったら、明確なイデオロギーと共産主義へのアンチテーゼを抱えているNATOはセイカラ王国に構えるところでなくなるだろう。
真偽のほどは知らないが、少なくとも筋が通っている。
「それで、お前たちがメーティスにこだわる理由はなんだ?間接侵略はあくまで手段であって目的ではないだろう?」
その忌々しい手段を取ることに怒りはまだ残っているが、それを蒸し返しても詮無い。
書くのも面倒になったか、ハイリザードは「直接に彼女に聞け」とジェスチャーで示した。
彼女が答えられないと思っているからお前に聞いたが……
「……」
私に見えるようにメーティスは微かに頷いてくれた。どうやら予想と反して心当たりがあるようだ。
情報交換はまた後ほどでまた行おう。
『それで、ウチはここに手を出さない代わりに、少し協力してもらえないかしら』
これでさよならというわけにはいくまいと分かっているつもりだが、一体どんな無理難題が投げてくるやら……
メーティスの前でそれを頼むのを憚らないということは、少なくとも何か後ろめたい用件でもなさそうだが……
『そう警戒しないで、何も難しいことじゃないわ』『そこのアルファ君の面倒を見てくれる?』
なるほど、お前らはまだ諦めていないか。
セアルノ商会とこの忌々しい信用創造システムを。
「残念ながらそれは承知しかねる。セイカラ王国へのダメージを最低限に抑えるためセアルノ商会の犠牲は必要不可欠だ」
間接侵略の足掛かりを残してたまるか。
『なんか誤解しているらしいけど』『頼みたいのはあくまでアルファという個体よ』
「アルファという……個体?」
この外来者はアルファ氏を原住民のメーティスたちにでも使わなかった軽蔑的な代名詞で呼んだ。
それは一体どういうことだ……?
『実演した方がいいわね』
書き下ろしたや否や、雌のハイリザードはスポンジに書かれた言葉を隅に立っているアルファ氏と私たち両方に読める位置に移動した。
『アルファ君、willはもう済ませた?』
苦笑を漏らすアルファ氏を見て、今の状況がますます読めなくなってきた。
willが名詞である時の常用的な意味は意志だが、どう考えでもこの場合はそれではないだろう。
他の意味といえば……
(遺言か)
それも違うな、彼の面倒を見ろと言われたばかりだ、別れの挨拶はともかく遺言という単語が出てくるはずはない。
「まだだぜ。それをやったらマジで兄貴にぶっ殺されそうで怖いわ」
『それもそうだわ、サトウ、切ってもいいわよ』
しかし、どうやら内輪でしっかり通じているようだ。
隣のメーティスに視線を向けたが、彼女もそれに合わせて微かに首を横に振った。
どうやら英語の読解の問題ではないらしい。
『いいのか』『独断専行』『怒られても知らねぇぞ』
『あら、心配してくれたのね。優しい』
「ーーシャーー」
雌のハイリザードはサトウと呼ばれた雄のハイリザードと謎のやりとりを交わした。
そのサトウというハイリザードも外来者だと予想したが、まさかの同じ日本出身だと思わなかった。
ただのハーフという可能性もあるが、それでも微かな親近感を覚えた。
『切ったぞ』
「「……!」」
私とメーティスの息を飲む声が重なった。
さもありなん、切れと言われてもまさかその単語の意味は物理的に切ると思わなかった。
アルファ氏と自分の首を。
「何を……!」
この場でそれが意味することをもっとも重く捉えているメーティスが珍しく声を荒げた。
目の前に死体が量産されたらさすがに心の中が穏やかにいられないだろう。むしろ、それを見ても取り乱さないところを評価に値する。
(しかし、何のためにこのような真似をしたのだ……?)
アルファ氏も光に包まれているところを見て、どうやら彼が原住民であるというわけでもなさそうだ。
外来者と原住民の相違点を示し、メーティスを揺さぶりたいなら、私を殺した方が手取り早い。
むしろ私を殺せば、この雌のハイリザードを諦めさせたほどの劣勢を挽回する方法さえある。
私の異常性を物理的に示すことで、メーティスの私への不信感を煽ることに成功したら、後のやりようはいくらでもある。
それをやらずに今になってこういう自殺ショーをやる意図は一体?
「冗談にしては笑えないな」
メーティスの前に身を呈して、彼女を庇うような体勢を取る。この体は殺されても痛みで済むが、彼女は生身だ。自棄になって彼女に害を及ぼすような行動を取らせたらこちらが詰んでしまう。
「殺してもいい?」
その前に迅速に動いたのは今までまるで人形のように黙って扉のところに控えていたニーサだった。
まだ健在の雌のハイリザードを押さえる身ごなしは残影が残ったではないかと錯覚させるほどのパフォーマンスを見せ、その手際は見事の一言に尽きる。
1.5倍の身長差を物ともせず、まるで赤ん坊と戯れるようにいとも簡単に相手を拘束できた。
いつもヘラヘラした笑顔をしているニーサだが、今の彼女から感情が抜けたアンドロイドを彷彿させるほどの無機質さが感じる。
信頼と畏怖を同時に抱かせる姿がそこに居る。
ウォッカが、この人外のような女性と対等にやり合っていたとでもいうのか。
「片手を自由にさせても?」
「余裕よ」
メーティスの指示に従い、ニーサは相手が反抗できないように姿勢を変えた後、雌のハイリザードの片手を解放した。
『乱暴ね、離してくれない?』「……ふん!」『関節決めないで!痛いから!』
私が手前に投げかけたスポンジを使って、雌のハイリザードは早速苦情を漏らした。そのせいでさらなる苦痛を受けることになったが……
「説明していただけませんか」
いつも通り落ち着いた口調だが、よく見れば、メーティスの唇が微かに震えている。
二人の死を見たからではないだろう。
「あなたたちは一体、何者なのです?」
綺麗さっぱり消えてしまったハイリザードの死体と、光のオーブになったアルファの死体に恐怖を感じただろう。
これは恐怖を感じせずにいられない状況であるのは私もよく理解している。
なにせ、今のメーティスより、むしろ私の方が取り乱しているかもしれない。
(このアルファというのは、一体なんだ!?)
私にとって、この人の大きさの半分になったアルファだったものがもたらした空恐ろしさは人生の中でも上位も入れる。
普通のGDEユーザーでも、原住民でもないこのアルファが!
『アリサワ君、それを触ってご覧』『何が出てくるのかはお楽しみでね』
「それを素直に……!」
『それともウチと仲良くなりたくないかしら?』『あなたが困ることにはならないだろうけど』『そっちのお嬢ちゃんが困る状況になるかもしれないわ』『まぁ、潔癖なあなたにとっては一緒か』
くだらない脅し文句が書かれたが、その言葉はただの脅しにとどまらないと私がよく理解している。
彼らにとって、それを実行するのは赤ん坊の手をひねるより容易い。
「ウートゥル様、こんな戯言に付き合う必要はありません」
事態はとうに彼女が理解できる域から逸脱しているはずだが、それでも彼女はなお冷静を保っており、その上こちらへの慮りまで見せてくれた。
それを見て、私は放心した。
(なんだ、そういうことか……)
思えば、今回の事件において私の行動は不可解なものだった。
結果的に動機の一貫性が保たれたが、ラティスにいる時、私はまだ黒幕が自分と同じく外来者であることを知らなかった。
それでも、私は行動した。軽くない代償を払い、自分が極端に嫌っている独立した社会への干渉を実行した。
もしセアルノ関連の人間とハイリザードの全員がこの世界の原住民だったら、私は逆に自分がもっとも疎く思っている民族自決を妨げる存在に落ちこぼれてしまう。
自分の理念まで曲げてそれを決行させたのは一体何なのか。
この二週間でずっと悩んできたが、結果が出なかった。
いや、正確に言えば、その結果から目を逸らしたというべきか。
(ウォッカの指摘はあながち的外れというわけではないか)
告解室の中で、メーティスの決意から彼女の人間性をうかがえた瞬間から、私は彼女に惚れたかもしれない。
もちろん男女の情と全く別の意味で、たとえ彼女が男だとしても結果は変わらないと思う。
私の目には、彼女の人格が今まで直接に見てきたと歴史から知ってきたどんな存在よりも輝いているように見えた。
これが一目惚れというものかと今になってようやく私が気づいた。
「私のエゴは潔癖のような上品なものではないのだ。私は人間性というものをなりより好きでね。素晴らしいところも穢らわしいところも含めて、だ。だから私は、人間性の結晶である社会というものを、尊く思っているのだ」
アルファだったものに近づきながら、私は意味のない独り言を漏らす。
「不謹慎な言い方だが、大事に思っている社会そのものが、どこの馬の骨も知らない人間に本質から歪められたら、たとえそれが愛している人間性による行動だとしても、私はその相手を恨まずにいられない。これは私の汚らわしく、矛盾しており、どうしようもないエゴなのさ。しかし、幸か不幸か、私が生まれる時代にそれが発生する余地はないと思った。世界はすでに一つの大きな社会に融合したからだ。15世紀のアメリカ大陸、19世紀のアジア諸国に見舞ったむごい災難はこれから発生しないだろうと考えた。ついて最近まで、そう思っていた」
私は訥々と、自分から見ても支離滅裂な言葉を吐き続けた。
「だから、お前らがここに手を出さないと約束してくれば、私はどんな代償でも甘んじて払う。私はただの一般人で、少なくとも今の段階でお前らに抗う力を持たない。約束というあやふやなものに頼るしかないについて忸怩たる思いを抱いているが、残念ながら今の私はこの状況を覆す術を思い付かない」
これこそまるで遺言みたいな言葉だなと心の中に軽くぼやく。
それほど、私は恐れているのだ。
敵か味方かも知らないこの雌のハイリザードの言われた通り、未知に触れることを。
私の身に何かが起こることを恐れているではない。私の身一つで世界に重大な影響を及ぼすと思うほど私は自惚れていない。
ただ、私と接触したことによって、このアルファ氏だった光のオーブが、何か恐れしいものに変化するではないかという漠然とした危機感が私を苛んでいる。
「ウートゥル様!」
(……あれ?)
幸か不幸か、それに煩わされる時間はそう長くはなかった。
オーブに触れた途端に、そのオーブが人型に変化し始めた、それに伴い、私の視界も段々と暗転する。
(……母さん!)
光のオーブがぼんやりと形を成した人間の顔は私が意識を失う前に見た最後のものだった。
その顔は私の母親、佐々木佐久夜その人のものだ。
第一章本編了