中間報告
1
「……!へい、いらしゃい」
来客を知らせる鈴の音を聞いて、爪を磨くことを一旦やめとおく。
久しぶりの来客をもてなすべく立ち上げようとしたが、
(ちっ、貧乏なガキか)
一切の貴金属も付いていない服を着ている青年の姿を見ると気が萎えた。
服は新調したらしきもので、20歳くらいに見える本人も年に似合わず落ち着いているから、上等な客と見紛ったが、貴金属一個も買えない貧乏人では、うちで羽を伸ばすほどの金を持っているはずがあるまい。
(はぁ……ついてねぇな)
去年、セアノル商会のおすすめでカンナビスバーを開いたが、一年も経たずにこの閑古鳥が鳴くのようなざまになってしまった。
最初こそ首都で最大のカンナビスバーを誇る『バー・オブ・セアノル』を超えるぞと気合を入れたが、最近になってはもう倒産した後のことをばかり考えている。
嫁にも逃げられてしまったが、ネガティブになったのはそのせいじゃない。
もう、金がないんだ。今年のカンナビスを仕入れる金が。
ただでさえ客が来ないんだ。もし去年のお下がりを使い続ければ、あのロクの買い物もしない毎日ここで居眠りをするジジイまでウチを見限ってしまうに違いない。
(クソ!こんな儲からない商売をやらなければ良かった)
カンナビスに関する商品はどれも高く取引されているが、その分原材料の仕入れは困難だ。産量が少ないの上、税金がバッチリ取られてしまう。それこそ、コネがなければ、この産地と遠く離れている王都では入手できないほどだ。
自分は運良くコネを手に入れたが、やはり足元を見られてしまった。
今から思えば、彼らにとって自分はまさにネギを背負ってきた鴨に違いない。
(もうどうでもいいや、どうせ俺の人生もう詰んだ)
今後のことはあえて考えないようにしたが、この貧乏な来客のせいでまた思い出させられた。
「……少々よろしいでしょうか」
「あん?悪いが、お前のようなガキに構える暇なんてないぞ」
今の俺は暇しか持っていないが、その暇をこんな貧乏人の相手に使うより爪を磨くの方がよっぽど有意義だ。
貴族風の言い回しまで使いやがって。よっぽど背伸びしたいだろう。
表情こそ真摯な笑顔を装っているが、その胡散臭い口調のせいで台無しだ。
「そう言わずに、せめて要件だけを聞いていただけないでしょうか」
店主は上流階級しか使わないクソ長い定型文を聞き流して、行動をもって青年を追い返そうとしたが、青年の手元に注意を奪われ、気が変わった。
(100センニ札2枚か、悪くねぇ)
もちろん、享楽的な貴族と比ぶべくもないけど、自分で言うのもなんだが、こんなみすぼらしい店に金を落とす客の中で、100センニ以上を払ってくれる人間は上等な部類に入れる。
(なるほど、パシリか)
見かけよらずに支払う能力を持っているらしいが、その金は青年自前のものであるまい。どこかの商会のお使いだろう。
話を聞くのもやぶさかではないが、手放しに歓迎できない客であることに変わらはない。
大手商会との取引で散々毟り取られたこの身だ。警戒レベルを一段上げた方がいいだろう
「.....どこからだ?」
「アンイランダ港からでございます、旦那」
「それもまた、遠路はるばるご苦労さん」
適当に相槌を打ち、脳内で地図を参照する。
アンイランダ港湾都市といえば、セイカラ王国の首都であるラティスに次ぐ海岸線に位置する大規模な都市で、サラエラン島に面している。
サラエラン島はもともと未開の地だったが、200前の航海技術の革新により、探索が可能となった。
未開拓だけあって、サラエラン島に眠っている資源の量は目を見張るものだった。
それをきっかけに、漁業しか取り柄がなかったアンイランダ市は様々な面において急速な成長を遂げた。
しかし、やはり海を面しているだけあって、海岸線近くとサラエラン島において農業はあまり発達していないらしい。
(内陸しかないカンナビスの産地から遠く離れた、経済が発達している都市から来たのか。なるほど、話が見えてきたな)
「して、何の用だ」
「それにつきましては……」
「前置きはいい、単刀直入に言ってくれ」
親分からどんな訓練を受けたのかは知らないが、上辺だけの口上に付き合うつもりはない。
「……乾燥処理をしたカンナビスを買いたいです」
これでいい、実に分かりやすい。
王都であるラティスでさえ入手困難なカンナビスだ。アンイランダのところはもっと難しいだろう。
この青年がどこに所属しているのかは知らないが、その責任者は実に狡賢い。
収穫したばかりのカンナビスから水分を取り、粉にすれば、もっともいい品質のカンナビス粉を製作できるんだが、半年も経てばその質も普通の乾燥したカンナビスとあまり変わらない。
産地までの路程が1カ月を超えるアンイランダであれば、高品質のカンナビス粉も四半期で売れ切らなければ、その価値はただのお下がりと違わない。
話を聞いたことはあるが、海岸線近くで販売されているカンナビスのほとんどは鮮度が落ちた保存が効く品らしい。
であれば、その下がりのカンナビスがもっとも安い時期はいつだろうか……
(収穫季節である今だな……)
そして商売盛んだところのものよりは、ウチの売り残った不良在庫の方が買い叩かれやすいというわけか。
気に食わないが、一年前の自分よりはよっぽどうまくやっている。
(在庫の処理をしてくれるのはありがたいが、鴨にされるのはまっぴら御免だ)
「悪いが、売りたいのは山々だが、ウチにも在庫もあまり残っていないんだ。再入荷の時期までにまだ時間がかかる。親分にどのような値段で買い取りをしろと言われたかは知らないが、去年の下がりと言えども安く売れないんだ」
精一杯の見栄えを張り、余裕のある表情を作り出す。
鋭い人間なら入店する時点でウチの台所事情をある程度読み取ることができるんだが……
どのくらいの効果があるやら。
「そうでしたか、誠に残念です。ではお暇とさせて……」
「いや、待って!」
クソが!引くのが早すぎる!
こちらが交渉を持ちかけたのに、このガキはそれを言下で断ってやがった!
「売ると限らないが、値段を聞こうじゃないか」
慌てて青年を引き止めたが、店主は自分が咄嗟に口出した言葉によって、二人の優劣関係が確定されたことを忸怩たる思いで理解した。
(まずい!相手に先手を譲ってしまった!)
双方に取引する意思があり、合意を引き出すために交渉を行う場合、先に条件を提示する方が決定的なアドバンテージを保有している。
なぜなら、先手側が最初で提示した条件がどれほど法外なものだとしても、その場において適正価格として強い影響力を持つ。後は頃合いを見て、最後に一回だけ渋々と演じながら譲歩すれば、自分にとって理想的な条件で取引をまとめることができる。
逆に、後手の場合、言い値で取引しない限り、相手が譲歩するまで条件を引き下げて提示し続けるという神経をすり減らす作業を延々とやらなければならない。
だから、「安く売れない」という意志表明を使って「では、望みの値段は」という質問を引き出そうとしたが……
(まんまとやられた)
高い取引意欲を表明して質問を待たずに値段を提示するという手もあったが、その手を取る反動で先手後手に関わらず多数回の譲歩が強いられる。
さもありなん、聞いていないのに勝手に取引内容を言い出すくらい取引したいであれば、合意のために条件を引き下げるのも道理だ。
意表を突いた言動によってこの青年は先手を取ったにとどまらず、相手から取引意欲の表明まで引き出したが、店主である男にその事実を気付くほどの余裕が残っていない。
「1キログラムで30カンニはいかがでしょうか」
(まぁ、先手を取ったから、そのくらいの条件は出てくるか)
新鮮なカンナビスは1キログラム約130カンニで、乾燥したカンナビスの相場は1キログラム90カンニくらいだ。
収穫の季節になると、下がりの方はさらに値引きをし、80カンニで取引されるのが普通である。
今回は店の間の大規模な取引となるため、値段は相場より少し安くなるだろう。こっちが不良在庫を抱えていることも見抜かれたらしく、提示した値段が法外的なものではない分、この青年にまだ良心が残っているとも言える。
とはいえ、様々の追加料金を含め、1キログラムを107.58カンニで仕入れた自分にとっては受け入れがたい値段であることに変わりがない。
「足元を見るのもやりすぎだ、小僧。65カンニっというのはどうだ。相場よりよっぽど安くて大サービスだ」
「相場というものは価格と等価で、商品の価値と関係しないと存じます。違いますか」
(ち、正論を構えやがる)
確かに、売り手の間で在庫調整をする場合、市場で流通している商品の価格ではなく、価値を参照して取引するのはほとんどである。
カンナビスの鮮度を保つのは難しいが、乾燥したものの消費期限は非常に長く、保存方法によって5年にまで届く場合もある。
乾燥したカンナビスしか使わないアンイランドでは、よっぽどのことがない限り、在庫に異常が生じることはまずないだろう。
取引に必要性をあまり感じない青年の上司と違い、男の方は取引を成功させないとそれこそ明日でも店を仕舞って路頭に迷う羽目になるだろう。
収穫の季節で新鮮なカンナビスが簡単に届けるラティスでは下がりのものを進んで買い取る人間はこの青年しかいるまい。
「.....60...いや、50カンニだ。これ以上下げられない」
「上から指示された上限は1キログラム45カンニです」
「……飲んだ。12キロの在庫がある。全部持っていけ、悪魔め」
優位に立つ相手が早々に交渉を終えさせるシンボルをこちらに見せた。いくら粘っても結果は変わらないだろうと男が悟った。
青年の返事も待たずに店の裏手に入れた。
赤字は.....もう計算したくないな。
しかし、アンイランダの相場にはそうなに詳しくないが、確か、70カンニを超えていない筈だ。
税金と足代も計算に入れたら、相手の方もそんなに儲けていないだろう。
逆に青年が不良在庫を買い取ってくれなければ、店を開く為に負った借金を返す目処すら立たない。
それで溜飲を下したというわけではないが、気持ちは少しマシになった。
「ほら、品と……やはり自前の計りを持っているのか。なら自分で確認しておけ。検分は?」
「こちらがやります、五分ほどお待ちしてください」
裏手にある倉庫から帰ってきた男は両手で抱えている袋と計りを机に乗せて、青年の言葉に従って待つことにした。
「11.94キログラムのカンナビスで間違いありません。こちらは対価の540カンニです」
少し時間が経ち、検分を終わらせた青年はそう言いながら、計りをカバンに仕舞った。その代わりに、100カンニ札3枚と20カンニ札2枚を持ち出した。最初からカウンターに置いてある札を合わせて男に渡す。
(変形と....戻り、そして香り。間違いないな)
どうやって作られたのかは知らないが、カンニ札の中心にある図様を揉めば柄が変化し、3秒ほど経てば徐々に元のものに戻る。また、布のような札からカンナビスよりよっぽど上品な香りが微かに催す。
極めて不可解な現象だが、そのおかげで偽札を見破ることはすこぶる簡単だ。
これを再現できる人間は天才に違いあるまい。
目の前の商会の見習いらしきこの青年も、この現象を見て驚きを隠せないようだ。
(まぁ、俺も若いの頃でいくらやっても慣れなかったな)
自分を手玉に取った青年だが、彼に少しだけ親近感が湧いた。
「確かに受け取った、帰ってもいいぞ。っていうか帰れ」
「……そうさせていただきます、それでは」
言うや否や、品をカバンにしまい、青年は踵を返した。
その背姿を見て、無性に腹立った男はせめての反撃を試みた。
「パシリならそのような上品な言い回しを使うでない。聞くだけで苛立つ」
「……これは失礼した、忠告に感謝する」
「ちっ」
出ていこうとする青年に、皮肉のつもりでそう言ったが、どうやら全く通じなかったようだ。
「喰えないやつだ」
完全に負け惜しみとしか聞こえないセリフを吐いたが、男の機嫌はそうなに悪くはない。
さもありなん、カンニを数える時上機嫌でない人はこの世に存在しまい。
2
「ふむ、こんなものか」
借りた宿で三つ目の朝を迎え、私は一旦、自分の行動を簡潔なレポートにまとめた。
この世界に関する情報はまだ足りていないのせいで、内容は極めて杜撰なものとなり、レポートとしての意味は皆無だ。しかし、文字にのせることで、状況整理がすこぶる捗ることは経験則で知っている。それを行うことは無駄ではあるまい。
『まず、睡眠と情報収集に掛かった時間も含め、約92時間の活動の成果で、2039カンニを対価に約51キログラムの乾燥カンナビスを買収した。その過程で、カンナビスバーをはじめとするカンナビスに関わるサービスを提供するコミュニティ9軒に赴き、取引を打診した。その中、合意の上でまとめた取引は5件、どれも相場の半額近くの価格で取引を成功させた。不良在庫を抱えていると思われる店を優先的に取引対象に選んだため、より有利な条件で取引を進めることも可能だった。しかし、それを行えば取引対象との間に禍根を残す恐れがあり、後ほどのフィールドワークに支障をきたす可能性があるため断念した。
図書館で入手した情報によれば、カンナビスは鮮度により、質に格差が生じる。また、湿度が高い場所において鮮度がより劣化しやすいという。その情報から、新鮮なカンナビスが入手困難かつ保管困難のアンイランダ市では、収穫時期と関係なく乾燥カンナビスへの重要が高く、アンイランダの商人であれば乾燥カンナビスを買い溜めても不自然ではないと考えられる。この推測は取引を通じて証明され、取引の進行にポジティブな影響を及ぼした。
入手したカンナビスだが、主たる産地であるセニス村が事故あるいは事件にあったという情報がラティスに届けば、市内で売り捌いても結構な利益が期待できる。しかし、行動の後半で、一部の取引相手が自分の仮の身分と目的をあらかじめ知っていると思われる。その情報から、カンナビス業者間の情報交換は頻繁に行われていると考えられる。この状況でラティスで品を売却することにデメリットが伴う恐れがあると推測できる。
他の売却先として、セニス村から70kmほど離れたアバルス市が挙げられる。
聞き込み調査と文献調査により、気候と地質などの原因で、カンナビスの農作方式は輪作と二期作の二種類に分かれているという。セイカラ王国のカンナビス産地において、輪作のサークルにカンナビスの単作を挟むの場合はほとんどである。そのため、カンナビスの収穫は基本的に一年で一回しかない。しかし、例外として、内陸の国境線の付近だけ、カンナビスの二期作の連作を耐えられる条件が整えている。もちろん、国内もっとも大きな産地であるセニス村もその例から漏れない。
アバルス市は一年間で二回収穫できるカンナビスの産地と隣接しているため、カンナビスの使用量が極めて高く、嗜好品ではなく日用品として居民の生活に溶け込んでいるという。しかし、常に新鮮なカンナビスが市内に届くため、市内に乾燥処理を行ったカンナビスの在庫はほとんど存在ない。
セニス村の事故により、アバルス市における将来二年間のカンナビスの入荷量に大幅な減少が見込みられる。
アバルス市では、新鮮なカンナビスは1キログラム100カンニという比較的に安い相場で取引されている。
カンナビスの摂取に依存性が存在するため、新鮮カンナビスの入荷が見込めない場合、乾燥カンナビスの価格がそれに上回る可能性が高いと推測できる。
これからの課題として、交通手段の確保とさらなる情報収集が挙げられる。
ps.
一年一作を見て、カンナビスの成長サークルが一年と勘違ったことに反省の必要があり。
スムーズなコミュニケーションを図るため敬語は封印されるべし。
取引の過程で行ったコミュニケーションを基づいてこのアプリのAI(この地域の先住民?)についての考察は稿を改めて論じたい』
最後のところに修正を加え、筆を置く。
自分が現実逃避をしていることは自覚している。
姉からの借金を返さなければと言い訳し、私は本来の目的から目を離れようとしている。
もちろん、好奇心がなくなったというわけではない。
ただ、この期に及んで、私はパンドラの箱の蓋をあけることに途轍もない恐怖を覚えた。
人間に見紛うAIの存在に驚いたが、不思議と思わない。
VRに関する技術はもともと政府によって隠避されたものだ。50年前にそれらの技術が民間に公開されたとは言え、核心に迫る部分が公開した内容から取り除かれた可能性も考えられる。いきなり革新的なテクノロジーが出現したとしても、それが未公開の部分だと考えば辻褄が合う。
あまり認めたくはないが、このアプリのAIを考察したい動機の一部に、「豪胆などこのどちら様が真正面からAI技術規制法をぶち破ったやら」という野次馬根性もあった。
しかし、今になって私ようやく自分の勘違いに気づいた。
この人間の皮を被っているものたちは、果たして本当にAIであるだろうか。
(この知性体たちが、自分の手で歴史を紡ぎ、社会を築いたとでも言うのか!それこそありえない!)
デリケートな分野であるため、AIの社会性をテーマにして真剣に研究する人間はいないが、この手の話は学者の間で雑談のダシや酒の肴としてよく挙げられる。
AIの集団に社会らしきものを作らせることはそうなに難しくない。
経済、福祉、文化などの概念をインプットし、それら向上させろと命令するだけで良い。時間が経てば、AIたちが数多な試行錯誤から学習し、精密機械のような無機的な社会らしきものを築くことも可能であろう。社会のジレンマが存在しない社会はさぞ繁栄するに違いない、と。
あるいは、全てのAI個体に細かい指示を出し、適当な役回りを割り付けば、人間社会と類似的な仮想社会を作り出すこともありえる。歴史が存在せず、永遠に進歩しない社会だが、その箱庭を眺める気持ちもさぞ悪くないだろう、と。
しかし、どのような手段を選んだにせよ、その産物は決して人間が築いた社会と同一なものではない。
それが、学者の間にある暗黙の了解だ。
自分も余暇を過ごす時、娯楽としてそれを検証したこともあった。
アルゴリズムと判断材料を基づいて行動するAIは、能動的な社会性を持たないことをよく理解しているつもりだ。
しかし、カンナビスを買い取る過程で垣間見たこの国家の市場システムと人間社会のそれとの相違点を私に指摘させるとすれば、私は無返答を貫くしかないだろう。
わからない。全くわからないのだ。
人間が生み出す市場経済の形の一つとして、違和感を覚えたところが全くないのだ。
まして、これはただの氷山の一角に過ぎない……
まさか、自分は異世界でも迷い込んだのか?
(……!)
気づけば、視野の隅で、血圧の上昇を示すシンボルが点滅し始めた。
普通なら憂慮すべき事態だが、このタイミングで視野に出現した異物が、逆に私に莫大な安心感をもたらした。
自分はまだGDEの中にいる。
ここは仮想的な空間だ。
それ以上もそれ以下もない。
右手の中指と薬指の腹を使ってヒゲをさすりながら、迷走している思考の整理を試みる。
しかし、その前に、私は自分が初めてやったであろう仕草に微かな違和感を抱く。
確かに、この感触に心を落ち着かせる効果があると実感できるが、ヒゲが伸びないよう毎日しっかり管理している自分がその仕草を自然にこなすと思えない。
『いいか、世の中のことならなんもかんも解明できると思うな。ここで学んだことはあくまで世を渡る術にすぎん。大学を卒業したところで、誰もお前に社会を進歩させるなんてご大層なことを期待してやいない。難しいことを考えすぎて目下を疎かにしたら本末転倒もいいところだぞ』
その原因を詮索しようとしたところ、頭の中にヒゲをさすりながら社会学者にあるまじきセリフを自分に吐き出す男の姿が浮かんだ。
師と呼ぶに憚る男だが、まさか今になって彼の言葉を思い浮かぶとは……
「世にもわからないものだ」
口癖まで移したか、これはいよいよ重症だ。
3
「恩師の教えにしたがい、余計なことは考えないようにしておこうか」
皮肉のつもりで言ったが、恩師という言葉は意外と本心からきたもので、そのせいでなんとも言えない複雑な気持ちになった。
これも余計なことか……
「まずは移動手段の確保だな」
やると決めれば有終の美を飾るまでやり遂げる。
二兎を追う者は一兎をも得ず。AI云々のことは金を姉に返した後でまた考えよう。
品を目立たないところに仕舞い、私は宿から出た。
(ここか)
初日で買ったラティスの地図を参照しながら、目的地の方位を確認する。
セイカラ予備軍・交通管理局出張所
物々しい名前だが、手に入れた情報によれば、州をまたがって商売をしたいなら、まず交通管理局に赴いて手続きをしなければならないという。
交通管理局というのはいわゆる入国管理局みたいな役割を担っている。
セイカラ王国は統一した国家だが、国土は内陸、半島、島の三つの部分に分かれており、それぞれの地域に一定の自治権が認められているらしい。
各地の政府は他の地域の内政に干渉することはできず、たとえ首都であるラティスを拠点とする半島政府も例外ではない。
三つの地域もまた10個の州に分かれているが、州の行政機関に地域ほどの自治権がなく、地域の政府の管理下に置かれている。
王国という名を冠しているだけあって、一応王室も存在するらしいが、話を聞いたところ、ここの王室は立憲君主制国家の王室のように実権を持たず、ただのシンボルとして存在しているという。
貴族という名称もあるが、貴族であるかどうかを判断するには明確な標準が存在しない。この国家において、貴金属は古くから尊い象徴とされ、貴金属を沢山身につける上流階級が自ずと貴族と呼ばれるようになったと言われている。
これならただの国家連合なのではと思ったが、どうやらこの三つの地域に等しく政府以上の発言力を持つ集団が存在するようだ。
それが教会である。
カンナビスバーの経営者の意見に過ぎず、真実とズレているところもあるかもしれないが、どの経営者の話の内容もほぼ一致しており、少なくともこれは平民の一般的な認識で間違いないだろう。
教会が持つ権利について彼らもあまり詳しくないが、ただ政府と王室より上の存在であると認識している。
地域をまたがって移動することに伴う事柄全般を管理する交通管理局の責任者、つまり法人も教会だ。
「失礼、少し時間をいただいても?」
宿から出て、5分ほど歩いたところ、全く面識のない人間に呼び止められた。
用件について心あたりは一応あるが……さて、どうしたものか。
「構わないが、私はウートゥルという」
相手の乱反射でもしそうな貴金属を着飾っている姿を見る限り、少なくとも呼び込みの類いではなさそうだ。
こういう場合は先に名乗るに限る。
ウートゥルという名前は冗談半分でついたものだが、他の名前を使って思わぬところでバレる可能性があり、そのせいでペナルティを負う恐れがある。
結構気恥ずかしい名前だが、偽名を使うほど嫌いというわけではない。
「これはご丁寧に。わたくしはアルファと申します。セアルノ商会の会長を務めさせていただいています」
30代前後の貴金属の塊みたいな男性はそう言いながら、目線を大通りの端にある裏道のところに移動させた。
これは長話になりそうだ。
それをあえて断る理由もなく、彼の誘導に従うことにした。
「用件は?」
街の騒音から離れたところ、私の方から先に話を切り出した。
この世界において、上品な言い回しを使うことは教養の象徴とされ、上流階級しか進んで使わない。
上流階級は自分の社会的地位を相手に表明するためいわゆる敬語に当たる言い回しを使い、基本的に同じ階級の間あるいは身分の低い人間と対話する時だけ敬語を喋る。
日本語の敬語の用法と全く逆である。
とはいえ、もともと英語の敬語はあまり得意ではない。私にとってはむしろありがたいルールだ。
「セアルノ商会については?」
「常識程度なら」
セアルノ商会
商会という名こそ冠しているが、今まで手に入れた情報によれば、その実態は商業銀行と投資銀行の融合体みたいなものだ。
主にカンナビス関連のサービスを提供している『バー・オブ・セアルノ』をはじめ、同じセアルノの名を連ねている商業機構もいくつあるが、それらのいわゆる親会社はセアルノ商業連合というコミュニティで、建前上セアルノ商会との間に直接の関係がない。
セアルノ商会とセアルノ商業連合はあくまで並列的な存在で、横のつながりがあっても縦のつながりはない。それぞれの経営者にも血縁関係がないという。
少なくとも表向きはそうなっている。
セアルノ商会の主たる営業内容は個人または団体を対象とする債権の引き受けと債務の処理である。
ちなみに、私と取引をしたカンナビスバーは最初の一軒を取り除き、全部セアルノ商会から多かれ少なかれ借金を借りていると確定している。
最初の一軒は店主と良好な関係を築けなかったせいで聞きそびれたが、他のカンナビスバーと同じ状況に陥っている可能性が高い。
流石セイカラ王国を牛耳るセアルノ商会というべきか、営業範囲もさることながら、独自の情報網も完備しているようだ。
さしずめ、相手にとって私の行動はもう筒抜けになっただろう。
しかし、それが会長自ら出向くほどの用件と思えないが。
「では、単刀直入に言います。ウートゥルさんは弊社の融資を受ける気はないかね」
ふむ、恥ずかしいながら、どうやら私はまた勘違いをしていたようだ。
これは完全に呼び込み営業だ。
会長が呼び込みの第一線で身を張って働いているとは、商売への凄まじい熱意を感じ取れる。
……冗談はともかくとして
「すまないが、ないんだ。お引き取りを」
話はもう終わりだと言わんばかりに、取り付く島がないキョトンとした顔で立ち尽くしたアルファさんをそのまま放置し、私はこの場を離れようとした。
「あ……!少々待ちを!申し訳ない、少し説明不足のようです。そもそも融資というのは……」
もちろんそんなことはわかっている。
その目的も推測できる。
債務者であるカンナビスバーと債権者であるセアルノ商会が結んだ契約の詳細まで知らないが、基本的に債務履行の期限は年を単位としているはずだ。
カンナビスバーが借金を借りる時期は商品を仕入れる時期、つまり今であると予想できる。
したがって、債務履行の期限も迫っているはずだ。
しかし、悲しいかな、不良在庫を抱え、客層も薄いカンナビスバーが黒字を叩き出しているはずがない。私と取引をしたカンナビスバーの店主に債務履行能力があると思えない。
この国の法律に詳しくないが、一般論であれば、債務不履行になる場合、債権者は契約解除と債務の強制履行を行う権限を持つ。
債務の強制履行というのは、行政機関が債務に介入し、債務者の意志を無視して債務者の財産を徴収し、債務を完済できるまでその財産を競売することである。
平たく言うと、金がないなら物で払えとのことだ。
不動産を債権の損失を対価に貰えるなら儲けるが、残念ながらカンナビスバーの店主にはまだ他の財産が残っている。
売り残りの乾燥カンナビスである。
乾燥カンナビスの相場は1キログラム70カンニを上回るが、新鮮なものが届くこの季節においてそれほど価値がなく、わざわざそれを買う人もほとんどいない。
しかし、それでも、競売になる場合、1キログラム60カンニ以上の値段に届くのも不可能ではないだろう。
つまり、もしカンナビスバーの店主が債務不履行になってしまえば、セアルノ商会は乾燥カンナビスをほぼ相場通りの値段で債権を使って買う羽目になるだろう。
もし店主がここまで知恵が回れば、私との取引を断ったはずだ。それはそれでこちらが次のカードを切ればいいの話だが、それはさておき。
結果論だが、この二日間、私は少なくとも4人のセアルノ商会を債権者とする債務者に一部の債務履行能力を与えた。
債務を履行できればそれでよし、できなくとも不動産が手に入れる。
セアルノ商会は私の行動から少なからず利益を得ている筈だ。
あくまで推測だが、このラティスにはまだセアルノ商会への債務を抱えているカンナビスバーが残っているだろう。
私に融資し、それらのカンナビスバーから乾燥カンナビスを買い上げれば、債務者が不良在庫を抱えている店主から私に変化することになる。
アンイランダから来た私に乾燥カンナビスを捌く手段があり、それが債務履行能力の見込みにつながる。
もちろん、私にその話に乗るつもりは毛頭もないが。
それらのカンナビスバーは『バー・オブ・セアルノ』が価格調整を行うため貢いだ贄みたいなもので、債務を回収できなくともセアルノ商業連合の方の利得はその赤字をはるかに上回るだろう。
利益のために、自ら進んで社会の癌になるのもやぶさかではないということか。
この実体経済と金融経済が癒着しているシステムを作ったのはどこの誰さんだ。
是非その腐った顔を拝めていただきたい。
(……!)
アルファさんを無視し、裏道から出ようとしたが、進むべき道は一人の異形に阻まれた。
2メートルを超える巨躯に威圧感が溢れ、身につけている灰色の逆立ちの鱗が刃のように日光を反射する。
蛇のような二つの枝に割れた舌がうかがえる。そのものは爬虫類にしか備えない長細い瞳でこちら睨んでおり、最悪の事に、その煌めいている瞳から知性が感じられる。
ハイリザード。
まさにファンタジー的な存在で、1回目の私を殺した相手でもある。
この二日間、ラティスで何回も出会ったが、どれも遠い目で確認したところにとどまり、コミュニケーションはおろか、視線さえ交わさなかった。
姉を肉食爬虫類と揶揄した事もあったが、本家の前であれにはまだ愛嬌が残っているとさえ思った。
捕食者と知性。
最悪な組み合わせだ。
それを気づいたときが、私が二度目の強制ログインを覚悟した瞬間だった。
(……驚いているのか?)
しかし、慄いて腰が抜けた私と同様に、対面しているハイリザードも何らかの原因で立ち尽くしている。
爬虫類の顔から感情をうかがうことはできないが、なんとなくこの生物は戸惑っているように見える。
(まずい!)
臨戦態勢に入ったか、ハイリザードは鉤爪を使ってうなじの鱗を磨き始めた。
この行為の意味を知らないが、少なくとも友好的な行為ではなさそうだ。
関わることにはならないだろうと高を括ってハイリザードに関する情報の収集を後回しにしたが、それが失敗だったようだ。
せめて即死できるように体の条件反射をあえて抑え込み、姿勢を正す。
一思いに頼む!
「兄貴、そう威張るなって。大事なお客がビビっているじゃないですかい」
「っえ?」
どういうことだ。
この生物はアルファの手下じゃないのか。
相手が取引を断れば、その対象を殺害ないし監禁する。
非常に短絡的で忌むべき思考だが、非法治国家においてその有効性は渋々だが認めるしかない。
だというのに、そのまるでハイリザードを諌めるのようなセリフは一体なんだ。
(皮肉のつもりでそれを言ったとすれば、このアルファという人もいい具合に腐っているな)
どの道、この場において武力を持たない私にできることは何一つもない。
事態の推移を見守るしかない。
見れば、ハイリザードは天然海綿のようなものを持ち出し、鉤爪を使ってそれを弄り始めた。
何を……!あ、そうか、言葉を書いているのか!?
まるでミミズのようなアルファベットだが、なんとか読み取れた。
『引くぞ』
「いや、そういう悪役みたいな捨てセリフはやめていただきたい。これでも商売なんで、イメージは大事なんですよ」
イメージも何も、この異形が出現した時点でそうなものはもう崩壊したぞ、アルファよ。
しかし、ハイリザードと言葉が通じるのか、意外だな……
コミュニケーションさえとればやりようはいくらでもある。
「ーーシャーセァーースサ!」
訂正、全く通じないようだ。
このハイリザードの口を見る限り、この生物はずっと発音し続けているが、聞き取れた音に隙間が空いている。
発した音のほとんどが人間が聞き取れる音域を超えただろう。
少なくともその言葉の意味を汲める人間はいまい。
「いや、わかった、わかりました。どうした、兄貴、機嫌が悪いな」
再び訂正、いるようだ。
アルファよ、君がこんな特技を持っていると思わなかったぞ。
それともなんだ、君は人間の皮を被っているハイリザードとでも言うのかね。
「誠に申し訳ない、先の件に関してもう一度検討していただければと存じます。セアルノ商会へのまたのお越しを心よりお待ちしております。では、先に失礼します」
『邪魔したな』
二人がなんらかの意思疎通を図ったあと、アルファはこちらに向いて長い口上を述べ、兄貴(?)は短い言葉を書いた。
それが終わるや否や、私の反応も待たずに、二人が視野から消えてしまった。
「一体何なのだ」
無意識的に口から漏れた言葉だが、もちろん、その質問に答えてくれる人間はこの場にいない。
4
「兄貴、ちょっと待ってくださいよ、兄貴!どうしたんだい?いきなり現れて。そのナリでの外出は控えてくださいと言ったんじゃないですか」
周りに目もくれず前をすんすん歩くハイリザードを追うべく、アルファは走り出した。
とはいえ、二人の歩幅に大きな差があり、貴金属の摩擦音を漏らしながら走るアルファの移動速度はそれを埋めるほど早くない。
距離が離れるにつれ、アルファの呼び声も段々とヒットアップしていく。さすがにその五月蝿さにもう耐えられないか、ハイリザードがようやく足を止めた。
『外』『推測、相手』『動きあり』
身を翻し、ハイリザードは特注スポンジを使って三回書き込みをした。
事務所なら長文を書けるスポンジが置いてあるが、持ち運べるサイズとなるとどうしても使い勝手が悪く、簡単な意思の疎通も一苦労だ。
「マジっすか!もう中に入ったんですか?」
『ああ』
しかし、それにもかかわらず、アルファはどうやらハイリザードが書いた支離滅裂な単語から、彼が伝えたいことをしっかり汲んだらしい。
「詳細を聞きたいんで、繋げてくれませんかね、兄貴」
『無理だ』
とはいえ、単語しか書けない相手とコミュニケーションを取るのは非効率的極まりないことに変わりはない。
そのため、ダメ元でもっとも効率的な交流手段を提示してみたが、やはり断れた。
理由はわからなくもないが、アルファにはハイリザードがそこまで頑なになる原因を図りかねている。
それをともかくとして……
「もしかして、先の男は相手からの?というか面識あります?」
兄貴のあの男に対する反応が明らかにおかしかった。普通の人間なら気づけないかもしれないが、このハイリザードの半生を文字通り見てきたアルファにとって、彼の感情は手を取るように明白だ。
街を歩いたら、最近ラティスをはしゃぎまわれていた我が社の招き猫の姿を見て、気まぐれで商売の勧誘をしたが、まさか言下で断れると思わなかった。
一筋縄にいかない相手か、それともただ上から命令された事しかやらない朴訥な人間か。
それを図りかねていたところ、我が魂の友が登場したというわけだ。
『相手から』『ではない』
しかし、ハイリザードの弁によればどうやら彼の態度はあの男と関係ないようだ。
『帰る』『詳細』
「ああ、よろしく」
またあの鉤爪で書かれたレポートを読まなければならないのか……
ちょっと気が滅入る。
もう8年も経ったから、少し達筆になってくれてもいいんだぜ?
ミミズみたいな字を一日をかけて読むこっちの身になってくれよ。
『文句は』
「滅相もございません!」
マジでビビった……
ちょっと睨むだけのつもりだったかもしれないが、危うく小便を漏らすところだった。
本当に心臓に悪いぜ。
とはいえ、本家よりいくらマシか。
先住民の方がよっぽどおかない。
『先の男』『構うな』『手に負えない』
「へいへい、わかりました」
ハイリザードが先の男に対する下した評価の根拠について興味がないといえばうそになるが、今それを聞くのをやめた。
単語で説明できることと思えない……
しかし困ったな、対話が途切れてしまった。
ほかの人と歩くなら沈黙を苦としないが、この慮りを知らない兄貴だ。今は歩調を合わせてくれているようだが、話が終わる途端にまたもともとのスピードで歩き出すだろう。
仕方ない、適当でいいから話題を振ろうか。
「しかし、残念だぜ。5年も持たず破局が来るとは。もうちょい頑張ってくれると思ったが」
『予定調和』
「上は成功させる気満々だったぞ」
『夢見』『悪癖』『いつも通り』
「これは手厳しい。まぁ、それで開き直って別の意味でやる気満々になってしまったが……どうですかね」
『関知しない』『データ』『重要』
「さすが兄貴、今日もブレないでクールだぜ」
『大通り』『うるさい』『黙れ』
「お、実は俺も先から思っているんだぜ。通行人がうるさいって。この不肖アルファ、今から黙らせて参ります!って痛っ」
ふざけている貴金属中年の姿を見て、いっそこのアホを気絶させて運ぶかとハイリザードが考えた。
5
「すんなり終わったな」
途中で不可解な一人と一匹のせいで時間をくらったが、手続きは目的地に到着した後滞りなく完了した。
「しかし、本当によくできているな」
手に収めている鉄製のシンボルを眺めながら、手続きの内容を思い返す。
複雑なシステムではないが、抜け穴は意外と見つからない。
他の州に移動したい人間はまず、交通管理局にて登録しなければならない。
登録する際、携帯品の種類、数量と目的地、税金が発生する場合、携帯品の予定販売価格も合わせて申告する義務がある。
護衛と馬車の御者を雇う場合、セイカラ予備軍にて打診し、その決算書も交通管理局に提出すること。
セイカラ予備軍というのは、平たく言えば武力専門の士官学校と警察学校の融合体みたいな組織だ。
サクラメント、聖歌隊、防衛軍などの軍事組織を志望する人間はまずセイカラ予備軍に席を置き、実績を積む。
年一度の採択により、実績のある上位者に研修の機会が与えられ、研修が無事に終了すれば前述した組織に就職できるとマニュアルに書いてある。
姉あたりならいざ知らず、私にとって全く関係ない話だ。
その後、交通管理局は提出した申告書と決算書を基づき、携帯品を査定し、税金と利用料を算出する。算出された料金を払えば、交通管理局は教会の徴を象るシンボルと明細書を手続きしにきた人間に交付する。
このシンボルと明細書を目的地に設置されている関所に提示しない限り、目的地に入ることが叶わない。
ちなみに、関所の検査により明細書と携帯品に齟齬がある場合、犯罪者と認定され、詰所に連行される可能性があると強く釘を刺された。
携帯品に税金が発生し、その税金が100セントを超える場合、セイカラ予備軍の利用が必須となり、最低でも1人の御者を付けることを義務とする。
密輸と脱税への対策だろう。
申告した予定販売価格と大幅に異なる値段で携帯品を販売する場合、その護衛が当地の交通管理局に報告する責任があり、当地の交通管理局は税率に基づいて税金を改めて清算することになる。脱税を防ぐため、護衛という名の監視を付けるというわけか。
ちなみに、認められている販売価格の上限は予定販売価格プラス税金である。
また、販売価格が申告した予定販売価格より低い場合、税金の再清算が発生しない。
これにより、大幅の値下げによる価格操作をある程度防げるだろう。
シンプルだが効果的だ。
しかし、このシステムだとセイカラ予備軍への負担が大きすぎるなのでは?と疑問に思ったが、どうやらこのシステムを利用する人間のほとんどは普通の旅行者かあるいは私のような個人事業主かの二種類しかない。滅多な事が起こらない限り護衛に出られる人がいないのような事態にはならないらしい。
万が一、二日が経っても出発できない場合、セイカラ予備軍の上位組織に当たるセイカラ防衛軍から人員を割いてくれるという。
国にて登録してある商会や商業連合に所属する人間あるいは団体が商業活動を行う場合、交通管理局で手続きをする必要がないが、そのかわりに、セイカラ防衛軍・通商管理局に赴き、より複雑な手順を踏んで商業活動を申告しなければならない。ちなみに、セイカラ防衛軍と呼ばれているが、それを監督する機関は政府ではなく教会であり、仕事内容も国土防衛と全く関係がなく、もっぱら警察活動に勤しんでいるようだ。国境線で身を張って国を守っているのはサクラメントという組織らしい。
そのシステムは私が利用したものとほぼ同じだが、監視の目と規制がより厳しくなる。その代わりに、セイカラ防衛軍の護衛を無料で利用でき、後ろめたいことをやらなければ、総合的に見てかかる金額がより少ないで済む。
税金が発生する物品について、スタッフから「神がもたらした恩恵以外のもの」というふざけた説明を受けたが、それを無視して目録を読んだところ、いわゆる贅沢品がそれに当たることが分かった。
貴金属や高級織物がその筆頭であり、ちなみに、残念ながらカンナビスはそこに含まれている。
つまり、贅沢品以外の商品を別の州に赴いて販売する、あるいは普通に旅をするだけなら、税金を払う必要がなく、セイカラ予備軍の利用料を払うだけでい。
さらに、セイカラ予備軍から馬車を借りない場合、手続きをして交通管理局からシンボルを貰うだけで、一切の料金も払わずに済む。
「最初は国内関税みたいな時代遅れなものだと思ったが、実は奢侈税の類いか」
日本では奢侈税が存在しないが、それに近い意味を持つ個別消費税というものがある。
情報化社会に入り、税金の管理がより簡単になった昨今でも、消費税を脱税することを試みる事業主は後を絶たない。
情報化ところか、工業化すらしていないこの国が奢侈税を実施したところで政府、この場合は教会か、が税収を管理できると思えない。
しかし、納税タイミングを前倒し、取引に監視を付けば、確かにある程度その問題を緩和できる。
実際、脱税する方法として、このシステムを利用せず、関所を避けて移動するか、販売を行う時セイカラ予備軍の人間に何かしら違法的なことをやるかの二つしか思い当たらない。
そのどれも極めて露見しやすい行為で、脱税より重い犯罪を手段としている。
脱税の手段として脱税よりリスクが高いことをやらかすとすれば本末転倒もいいところだ
「しかし、危ういところだったな。この国が実施している奢侈税が直接税の場合、私も知らずの間に立派な脱税者になったというわけか」
その場合、私にカンナビスバーの店主から何らかの証明書を発行してもらい、それを持って税務課のようなところに赴いて納税する義務が生じる。そのことを今まですっかり失念した。
フィールドワーク云々の話はさておき、これからもこの国で行動し続ける場合、やはりセイカラ王国法律を勉強したほうがいい。
(セイカラ王国、か)
いつのまにか、この名称が自然に私の思考に馴染んでしまった。
(私は、このセイカラ王国を、国家だと見なしているのか?)
日本国と、
アメリカ合衆国と、
ソビエト連邦と、
同列で扱っているのか?
(今で考えるべきことじゃないな)
つい先決めたことだ。一日も経たずに破るわけにはいかない。
「さて、どうしたものか」
セイカラ予備軍の受付によれば、馬車や護衛を準備するに時間がかかるため、出発時間は明後日の朝になるようだ。
図書館に憲法の類いは置いてあると思うが……
「やはりこういうことは行政機関の窓口に聞くのは一番手取り早いか」
それより効率的な手段を思い付いた。