現地調査
1
この後もいくつの注意事項を述べたが、どうやらどれも馬の耳に念仏みたいなものだ。
『そういえば圭介、そういう過保護なところあったね』
『あくまで必要なことだと思って言っているのだが』
『はいはい、それで、まだあるの?』
『いや、ひとまずは……』
『じゃもうログインしてもいい?いいよね!』
どうやらもう姉はもう待ち切れないようだ。
前回はもっぱらNPCとプレイヤーの考察しかやっていなかったから、気にしなかったが、思い返してみれば、確かにこの『ザ・ワールド・オブ・ヴァーチャル』のゲームとしてのクオリティもなかなかのものだ。爽快感こそないものの、臨場感は確かに凄かった。世界範囲でブームを巻き起こす可能性は低いが、ハードコアのプレイヤーの間で人気を博せるだろう。だからか、先からどこか心がここにあらずのような姉も、AIに関する説明を聞いたあと、俄然に興味が湧いてきたと言わんばかりにワクワクし始めたようだ。
とはいえ、現時点でネットに上がっているレビューはほとんど不評なもので、ベタテストだからか、新規ログインもできないようになっている。
『脳のメンテナンス中でもログインできるか?』
『あっ、そういえばそのこともあったか!』
どうやらその件について姉はすっかり失念したらしい。
確かに、この元気ぶりは脳の損傷を受けた人間の様子と思えない。私も危うく忘れたところだ。
『まだ一時間残っているのか。もどかしいわね』
『では、私が先に威力偵察に行くとしよう』
『え、それはずるい!』
考えて見れば、姉と同様に私も異形に殺されて強制ログアウトを食らった。しかし、両断された状態でたっぷり一分間苦しんだ姉と違い、私の場合は運良く即死できたため、強制ログアウトによるペナルティは全くない。
確かに、一刻でも早くゲームにログインしたい姉の視点から見れば、これは不正以外の何ものでもないな。
『ちょっと、冗談よ。そんな深刻に考え込まないで。さすがにわたしもそんな子供みたいな考え方をしていないから』
自覚あるのか。
『……ならいい。とりあえず行ってくる』
『無理しないでね』
別れの挨拶を済ませた後、私はGDEから出た。
2
「VR設備を借りたい」
ボーイを適当に捕まって、要望を伝える。
「かしこまりました、少々待ちを……」
程なく、ヘルメットみたいな機械が部屋に送られた。
ヘルメット形になっているとは言え、運算を担う本体は別の部屋にあり、その体積はGDEの半分くらいで、4立方メートルほどある。
片手間で調べてみたが、どうやらこの『ザ・ワールド・オブ・ヴァーチャル』というGDE用ゲームだが、VR設備と互換性があるらしい。
ベッドの上で横になり、VR設備を起動し、『ザ・ワールド・オブ・ヴァーチャル』のホームページを開く。
このまま没入しようと思い、ボーイに四肢に作用する筋弛緩剤をうたせてくれた。
GDEと違い、VR設備は脳によって出したリアルボディに影響を及ぼす電気信号をシャットダウンすることはできない。筋弛緩剤をうたなければ、VR世界で運動すると、リアルボディも勝手に動き出してしまうことになる。
(どうやら新規ができなくなったのは本当らしい)
前と違い、今のホームページには、白い背景と生体認証を行うボタンしか残っていない。
運営終了を匂わせるほどの素朴さだが、ボタンを押したところ、スムーズにログインできた。
自分はそこに無頓着だが、こういう運営の対応について気になる人間もいるだろう。
ホームページを華やかにするにはそこまでの労力がかからないが、利用者の心証を効果的に向上させることはできる。費用対効果に優れた作業で、堅実に利益をあげたいなら確実にやるべきことである。
それさえやらないということは、
(最初から利益みたいなことを考慮していないか)
とはいえ、情報が足りない今、如何なる推測もただの邪推となる。
まずは状況の確認だ。
(ログインできたか)
考え事をしている間、暗転した視野が段々とクリアになり、体も動けるようになった。
まずは周辺の状況を確認する。
(トイレ……なのか?)
真下にある便所を睨んで、私はこれからの展開について検討する。
(光が隙間を縫って入ってくる。これは、日光だな。室外である可能性が高い)
前回の兵士の装いから推測すれば、この世界の社会形態はリアルの産業革命の前のヨーロッパにあたると思ったが、水道が完備している公衆トイレがあれば少し上方修正が必要のようだ。
(ひとまず出よう)
さすがにトイレ個室一個分から得られる情報は限られている。
扉を押して出ようとしたが
(なるほど、これがGDEと旧VR設備との差か)
扉に接触した手に感触はしっかり伝わってきたが、GDEの場合と比べてその不自然さが目立つ。厚い手袋をはめてものを触る時の感覚と近い。
(これなら痛覚も緩和されただろう……)
左手の薬指の関節を思い切り反方向に押し倒す。
(……!)
声こそ出さなかったものの、脂汗を垂らすには充分な痛みだ。
(緩和されているとはいえ、完全にシャットダウンしたというわけではないか)
あくまで体感だが、もしVR設備を使って没入する場合、体が両断されたら、ただの脳損傷では済ませないと思う。
(心不全、最悪停止する可能性もあるな)
VR設備を使う場合の禁止事項と危険は利用規約を読むとき注意したが、改めてそれを実感した。
普通のVR設備用のアプリなら安全を期するため痛覚と触覚両方をシャットダウンしているが、このアプリはその普通という枠に入らないようだ。
(VR設備を使ってこのゲームにログインすることは今後控えておこう)
「兄ちゃん、大丈夫かい、何か悪いものでも食ったかい?」
気が付けば、周囲の通行人はこちらをさりげなく見ている。その表情は基本的に心配と辟易の二種類に分かれる。
さもありなん、トイレから出た人間が突然自傷に走っていれば誰でも気になるだろう。
人間であれば、な。
さて、
(立ち止まって声をかけてくるヒトが一人、自傷行為を気づいたが何の反応も示してくれなかったヒトが二人、立ち止まるこそしないがなんらかの反応を見せたヒトは五人。声をかけた人と自分の間、他のヒトが挟んでいるため、立ち位置がアルゴリズムに組まれた可能性が低い)
実に興味深い反応だ。
それなら、反応の違いを決める要素はなんだ。AIに個体差を付けたではあるまいな。それとも乱数か?
「この世界に来たばかりなんで、ちょっと勝手がわからなくてな」
「何を言ってるんだ、おまえ。本当に大丈夫か?」
プレイヤーである可能性もほぼ潰れた。
やはりここのAIは普通のとひと味違う。
心配している通行人に礼を言って何とか誤魔化した後、一人で街を歩く。
(社会形態は……ヴィクトリア朝あたりか、しかし、工業化は見受けられないな)
建築、服装、路面の清潔度、通行人の健康状態。どれも封建社会の絶頂期であるヴィクトリア朝に勝るこそすれ、劣るところは何一つも見当たらない。
産業革命なしでも文明をここまで発達させられるのか。
それともここに来てようやく都合主義のお出ましか……
今手持ちにある情報でそれを判断するのは早計だな。
(このくらいでいいか)
10分くらいかけて、私は件のトイレを円心とし、半径500メートルの周辺を散策した。
とはいえ、私もただ歩いていたというわけではない。教会や城などの目立つ建築の方位を確認し、城壁までの距離を目算で推測することで現在地の地理をある程度把握できた。
結論から言うと、もし社会形態に関する推測が大きく外れていなければ、今自分が身を置いている都市の規模は一国の首都に相当するはずだ。
実際、通行人との対話でそれを匂わせる話も多い。
国と都市の詳細についてもっと知りたかったが、自分が持っている情報の量が少なすぎるため、対話が長引くと逆に相手に怪しまれる恐れがある。
NPCらしき通行人の判断基準は人間のと違う可能性もある。
人間相手ならいくつの質問で外堀をうめた後、もっと踏み込んで話せるが、AIの場合、なんらかのタブーを口に出した瞬間で、衛兵沙汰になることもありえる。
早い段階でトラブルに陥るのは極力避けたい。
次回ログインするとき、どこに飛ばされるかは予想できないため、この国の地図を買い求めようとしたが、生憎通貨を持っていないため仕方なく断念した。
一応この都市には図書館らしきものがあると分かったが、それも有料で、今の自分では入られない。
金を取得する手段はいくつ思い当たるが、どれもそれなり時間がかかるため、一時間のタイムリミットで情報収集と金稼ぎを並行させるのは困難なため断念した。
(まずは一旦、ログアウトしよう)
1回目のログインはゼニス村の近くで走っている馬車の中、2回目は首都らしき都市にあるトイレの中。規則性が見受けられない。
ログインした後のスタート地点についても検証したい。
やるべきことは山積みだ。
3
「……おかえり」
「ただいま」
4回目のログインの間で、姉が起きたようだ。
予想以上に時間をかけたようだ
「……あ」
「無理しないで」
ベットから立ち上げようとしたが、できなかった。どうやら筋弛緩剤の効果は抜いていないようだ。
「それで、この一時間でなにがわかったの」
「ここで説明してもいいが、まずは、そっちの世界に入ろう。詳細は追い追いで話す。その方が理解しやすいと思う」
口ではそう言っているが、実は私自身も、まだ頭の整理ができていない。
情報量が多すぎるのだ。
「その前に、一度だけ参考にまで聞きたい。『ザ・ワールド・オブ・ヴァーチャル』ともう二度と関わるなと言えば、素直に聞いてくれるのか」
「……圭介は?」
「私は降りない。おこがましいに聞こえるかもしれないが、社会学者の末席を汚す自分は、この不可解の塊を見逃すことができない」
「じゃあ、わたしもやめないわ」
「了解した」
姉の返答は最初からわかっている。彼女の選択を曲げたいとも思わない。
『ザ・ワールド・オブ・ヴァーチャル』
これはただのゲームではない。
このアプリのコンテンツは、世界レベルのプロジェクトを匂わせるほどスペックを見せてくれた。
陰謀論にとらわれるつもりはないが、常識的に考えば、このアプリとかかわるのが明らかに危険だ。
しかし、どうやら自分の中で、好奇心の方がまさったようだ。
本心を言えば、姉にこの泥船に乗らせたくないが、彼女が近くいることでひそかに安心感を覚える自分もいる。
自分も漏れずにエゴの権化だ。人のことを言えまい。
「じゃあ早速、行きましょうか」
問答無用と言わんばかりに、姉は自分をGDEの中に運んでくれた。
いわゆるお姫様抱っこの姿勢で。
恥ずかしい極まりないことだが、これからの冒険に思いを走らせれば、このようなことも些事に過ぎない。
旅の終点に想像もつかないが、この瞬間、私は自分が既存のレールから外れ、新しい道を歩もうとしていることをなんとなく実感できた。
吉と出るか凶と出るか、それこそ神のみぞ知ることだ。
とかっこよく締まりたいが、今自分は法治社会に身を置いているのだ、よっぽどなことが起こらない限り危険はないだろう。フィクションの中なら機密情報を知った人間が呆気なく暗殺されるシーンは少なからずあるが、現実日本においては女性工作員による痴漢冤罪が公安の精一杯だ。それはそれで社会的ダメージが大きいが、暗殺と比べれば一種の愛嬌さえ感じる。
(まぁ、気負い必要はないか)
千里の道も一歩から。
あれこれ考えすぎたところで『ザ・ワールド・オブ・ヴァーチャル』にログインしないと何も始まるまい。
4
「圭介!おまたせ」
ログインして1時間経過した頃、ようやく姉も待ち合わせの場所についたようだ。
4回もログインを繰り返した結果、スタート地点の法則についてある程度見当がついた。
結論から言うと、この4回のどれも、この首都らしき都市の中、NPCの視野の死角となる位置でログインした。
また、前回のログアウト地点と離れる距離も近く、100メートルを超えた例はない。
もちろん、ただ4回の実験でその規則性について断言できるというわけではないが、もし他のところに飛ばされてしまったとしても、一旦ログアウトして、この都市にログインできるまでログインを繰り返せばいい。
とはいえ、それも杞憂なようで、一発で二人ともこの都市にログインできた。
待ち合わせのシンボルに使ったのは教会だ。建物の特徴が分かりやすいの上、通行に制限がかかっていない。
「この都市を見て、本当にびっくりしたわ。これなら圭介の言い分が分かる」
どうやらこの一時間で、姉も結構街を見回したようだ。
姉の表情と仕草を見れば、彼女はこの世界を結構気に入っているようだ。彼女がワクワクしているのは手を取るように分かる。
自分はこのペースについていけるかやら。
「そう言えば、そのアコーディオン、まだ持っているのか?」
よく見れば、姉は前回ログインした時使っていったあのアコーディオンを背負っている。
前回、自分の所有物はログインした時も強制ログアウトした時も一貫してゼロだった。
だから、そのあたりの検証は出来なかったが……
いや、よく考えればあったではないか。
この身につけているローブだ。
裸でこの世界に放り出されることはさすがに想定しなかったため、このローブを失念した。
「このアコーディオンだけじゃないわ、金もちゃんと残っているよ」
死体漁りでもらった盗品か。
この際は倫理観を一旦脇に置き、素直にその逞しさを評価しよう。
「それでね、わたしはこれから仲間を集めて狩りにでも出ようかと思う。圭介はどう?付いてくれば嬉しいわ」
いきなりでそれか。
しかし、プレイヤー視線でこの世界を見れば、もっとも気になるのはバトルコンテンツであることも頷ける。
興味がないと言えばウソになるが、この素振り一回も満足にできない体で姉のペースに付いていけると思えない。
自分が足まといになる光景が目に見える。
「無理しなくてもいいのよ。圭介は昔からこういう荒事にあまり興味がないのも知っているわ。やりたいことをやってもいいよ」
どうやら微妙に勘違いをしているようだが、ここは素直に渡り船に乗ろう。
「そう言ってくれると助かる。私は1カ月の間、この都市を中心にフィールドワークを行うつもりだ。有事の際、現実世界から私を強制ログアウトさせても構わない」
GDEの機能を使って利用者を睡眠状態にし、強制的に現実世界に帰還させることは可能だ。
この世界にいると、連絡を取る手段は乏しいが、ログアウトさえすれば、相手と強引に連絡を取ることができる。
正直、一日くらい置き、二人ともログアウトして情報交換を図りたいが、これ以上姉に言い付けを課するのは得策ではない。
「分かったわ。一緒に遊べないのは残念だけど……あ、そうだ、埋め合わせとしてこの金を全部圭介にあげるわ」
太ばらだ。
気前が良すぎる。
さすが姉、実に漢らしい。
「いや、それには及ばない……」
「いいのよ、見くびらないで。こんな金、一周で直ぐにでも稼げるから」
一応、申し分程度に断ったが、案の定、やめるつもりはないらしい。
ここは素直に好意に甘えることにしよう。
「それならありがたく受け取ろう」
活動資金があるとフィールドワークも捗る。
やはり持つべきものはできる姉だ。
5
別れを告げた後、姉はもう待ち切れないと言わんばかりにダッシュで教会を後にした。
その直前に「頭を冷やさないと……ドラッグ大嫌い!」とぶつぶつ呟いたが、何のことやら……
その後ろ姿を苦笑しながら見送った後、私ひとまずこの都市の図書館に赴いた。
今すぐでもフィールドワークをはじめたいが、その前にやるべきことがある。
(この金を二倍ぐらいにしたあと、利子を含めてまとめて返そうか)
本人は気にしていないかもしれないが、家族だからこそ、借り貸しをはっきりさせる必要がある。
借りのままにすると相手に依存してしまう恐れがある。
健全な関係はギブアンドテーク。
「さて、どうしたものか」
金を稼ぐ方法だが、やはりもっとも堅実的なやり方は労働を対価にし、価値の創造に勤しむことだ。
しかし、せっかく元金がある。そんな時間がかかるやり方より効率的な方法がいくつある。
その代わりに、その過程に価値の創造が伴わない。そのため、社会にとって無意味、あるいは有害な結果を残すことになるが、今の私がそれを慮るつもりはない。
(やはりここは心理学の視座からアプローチするか、それとも……)
社会学全般を齧っている自分だが、やはりもっとも詳しい分野は専攻である社会心理学だ。褒められる行為ではないが、元金さえあれば、心理学的な誘導を行って素人を相手に彼らから財産を奪うことは困難ではない。
社会心理学の倫理にそむくだが、仮想的な社会に対してその行為を行うことに躊躇いを覚えることはない。
しかし、一つ致命的な問題がある。
心理学において、商業と関わる分野である行動経済学だが、それが適用する対象はあくまで人間である。
トールという個体を見れば、この世界のNPCが搭載しているAIは極めて高度なものであることが判明した。とはいえ、それが特例ではないと断言できない。
この世界のAIを総合的に評価するには、フィールドワークの結果をレポートにまとめて改めて考察する必要がある。
残念だが、今はひとまず心理学的なアプローチを見送ろう。
(残るのは、伝統的な経済学的アプローチか)
心理という要素を取り除けば、財産を増やす方法は基本的に二種類しかない。
一つ目はやはり価値の創造だ。
雇用にせよ投資にせよ、とにかく金を他人に払って、時間の経過と伴い、支払った金以上の価値を他人からもらう。
普通の労働よりリスクが高いが、その分成功した時のリターンも大きい。
とはいえ、労働と同じで、その本質は価値創造だから、時間がかかることは避けられない。
元金が人的資本から物的資本にシフトしただけで、労働と大した変わりはない。
もう一つは……
(市場の失敗を利用すること……だな)
市場経済において、価値と価格のバランスは需要と供給によって調整されている。
ある商品の需要が供給を超えると、その商品の希少性が増し、価値が上昇する。価値の上昇に応じて商品の値段、つまり価格も上昇する。価格の上昇に伴い、それに注目した商人たちは利益を求めて供給を増やす。そして、時間が経てば、最終的に供給が逆に需要を超える状態になる。その状態が続けば、商品の希少性がなくなり、価値、そのあと価格もまた元の水準に戻る。
このように、需要と供給がしっかり働いていれば、価値と価格が大幅に変動することはなく、両者が乖離することもない。
しかし、万事に例外がある。
この市場メカニズムが働いているにも関わらず、価値と価格の関係が崩壊する事例もある。
経済学においてこれを市場の失敗と呼ぶ。
市場の失敗が起こるタイミングを予見出来れば、価値が高いが価格が安い商品を買い、価格が高いが価値の低い商品を売れば暴利を得ることはできる。
この国の経済体制は市場経済であることは、露天市場の下見の時で確認済みだ。
(もっとも手取り早いのは情報の非対称性を突くことだな)
市場の失敗を起こす方法はいくつあり、外部不経済もその一つの例であるが、個人レベルの資産しか持たない自分にとって選択肢はそうなに多くない。
情報の非対称性とは、売買双方が保有している情報の量に差がある場合、商品の価値への評価に齟齬が生じる現象である。
簡単な例として、商品の産地、品質、状態を法律に抵触しない範囲で誤魔化し、利益を求める販売者は情報の非対称性を利用する典型である。
ほとんどの場合、買い手と比べ、売り手の方が持っている商品に関する情報の量が多い。そのため価値に対する認識が買い手より正確だ。故に、情報の非対称性を利用できるのは買い取り場合を除き、基本的に売り手である。
しかし、繰り返しになるが万事に例外がある。
この世界に来てまだ一日も立ていないが、自分のようなプレイヤーしか持たない情報はいくつある。
ファンタジー的な移動手段あるいは工業化さえしていないのに長距離通信手段があれば話は別だが……
本格的に調べる前、まず元金の確認を行おう。
(あの露店市場の価格が適正なものだとする。成人一人の一日の食料はおおよそ2カンニと相当する。今手持ちの金額は1855カンニ78セントで、換金できるものもあり、全部換金すれば最終的に2500カンニくらいになるか)
ちなみに、この国では紙幣が普及されている。とはいえ、その貨幣の原材料は不明で、感触は現実世界のそれより柔らかく、微かな香りもする。紙より布の方がしっかりくる。
カンニはこの国の通貨単位で、セントは補助貨幣である。名の通り100セントイコール1カンニだ。
生活費を見る限り、カンニの貨幣価値はドルの約三倍とすれば、今手持ちの財産は7000ドルくらいで、元金としては申し分ない。
(むしろ死体漁りの成果としては異常に多いな、逃避行の最中だからか)
初ログインの時のシチュレーションを思い出す。確かに、あの村が丸ごと燃やされた状況であれば、兵士が持ち運べる全財産を持っていたのも不思議ではない。あまり深く考えないでおこう。
(図鑑…人物…動物…植物と地図は、あったな)
目当ての物を見付け、早速中身を認める。
まずは地図を確認しよう。
この国はどうやらセイカラ王国という。
首都はラティスで、首都を紹介するページにのっている城と教会の手描きの絵画を見れば、今自分がいる都市は首都であることは間違いない。
(ゼニス村は、ここか)
国境に近いところに、ようやく目当ての名前探し出した。
字は小さく、危うく見逃したところだ。
(結構離れているな)
首都であるラティスはもちろん国境から遠く離れている。
残念ながらこの地図に比例尺がのっていないが、国の面積はさすがに書いてある。
セイカラ王国の面積は約500000平方キロメートルで、リアルならフランスに相当する。もちろん、面積単位の綴りは現実世界のと同じとはいえ、相当する大きさも同じと限らないが、今まで見た路標に載っている距離と実際の体感距離を対比したところで、この世界の計量法は現実世界と同じだと見なしてもいい。
ちなみに、セイカラ王国の国土は内陸、半島、島の三つの部分で構成されており、ラティスは内陸と半島の繋ぎ目に位置し、セニス村は内陸側の国境線の近くにある。
面積と地図を使って、ラティスとセニス村との距離を目算し......
(大体1000キロメートルくらい……かな)
馬車を使うなら約二週間の路程だ。
足の速い馬を毎日乗り換え、昼夜休まず走っても最低5日がかかるはずだ。
時間の余裕はまだあるようだ。
あとは植物図鑑の方だ。
荒く目を通したところ、どうやら植物の名前は必ずしも現実世界と同一なものと限らないようだ。全く同じものもあるものの、綴りが微妙に違う、また初見の単語も結構ある。
目録を調べたところ、目当てのものがないという可能性もある。
自分の調べたい植物の名前が現実世界と同じであることを祈るしかない。
でないと全8巻ある植物図鑑を全部調べる羽目になる。
(……よし!あった!)
目録は頭文字順になっており、Cannabisの項目は直ぐに発見した。
(第一巻の154ページか……これだ)
この期に及んで、同じ名前の全く違う植物でしたというオチになるというわけではあるまいな……
(農作、嗜好品、商業価値……それと画像…ではなく乾燥した標本を見る限り、当たりのようだ)
よかった、杞憂だったな。
詳細を見たところ、どうやらこの世界のカンナビスは現実世界とほとんど同様の性質を持っているらしい。
この世界のカンナビスは人間の感覚を活性化させ、感情を激化させる効能を持っており、ある程度の依存性も見受けられるようだ。
しかし、人間の体質に差があるのか、はたまたカンナビスそのものに違いがあるのか、依存性は中毒性に達するまで強くない。また、図鑑に過度な摂取による精神への悪影響に関する記述もないようだ。
(それとも、ただ精錬する手段を持たないだけかか)
カンナビスはセイカラ王国の国民に結構愛用されているらしく、専門のカンナビスバーがあるくらい普及している。
摂取方法だが、乾燥したものを香炉の燃料に使うのが主流だ。そのほかにも、サラダのドレッシング、料理の香辛料として使っている地域もあるらしい。
しかし、カンナビスに含まれている人間を興奮させる物質を化学的に抽出し、それを基づいてなんらかの製品を製作するみたいなことはこの世界では行われていないようだ。
もしその技術が生まれば、中毒性が凄まじいその製品と原材料であるカンナビスも厳重な取り締まりの対象となるだろう。
技術の進歩が逆にその産業を滅ぼす可能性がある。
皮肉極まりない話だ。
(やはり、収穫の時期は今か。主な産地にセニスの名前もあったな)
品種が違うためか、こちらのカンナビスは一年一作のようで、現実世界のカンナビスより成長が遅い。収穫の季節は基本的に春となっている。
図書館の入り口に置いてある三日間の新聞を粗く読んだところ、春の行事に関わる記事は結構ある。実際の季節は体感との間に齟齬がないようだ。
いくら畑が広いとはいえ、成長していない株を燃やしたところでそんな濃厚な匂いは出るまい。
予想通りか。
ちなみに、セニス村に関する内容はもちろんまだ見受けられない。その情報がまだここに届いてない可能性が高い。
他の地図に紹介がのっている都市の名前と特徴を確認した後、私は図鑑を返して、一旦図書館を後にした。
(どうやら条件は整っているようだ)