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GDE使用方法論

 VR通話が断たれたか。

 アプリを開いた瞬間、姉との連絡が途絶えた。

 このアプリは他のアプリと並行して動作できないのか。

 疑問を覚えたが、自分はこの手のことについて社会学範囲でしか知らないため、重く捉えなかった。

 仕様の可能性もある。ワイワイ騒いでこれが普通だよと言われたらさすがに恥ずかしい。

 ガイドは……あったな

 これに従えば、キャラを作り、ゲームを始めることができると思うが、とりあえず置いておこう。

 その前に読まなければならないものがある。

 ……あった

 目当てのものを開く。

『利用規約』

 姉は毎回飛ばしているに違いないが、それは契約を読まずにサインすることに等しい。

 ただゲームのデータの権利云々だけなら私もそこまでこだわるつもりはない。

 しかし、利用者である自分はこのアプリに文字通り命をかけているのだ。

 例え死亡する可能性は極めて低いとしても、ゼロではない。

 死亡しなかった場合としても、心臓停止や短時間の脳死により後遺症を残す危険もある。どのような行為は危険につながるのか、禁止されたことは何なのか。それらを知ることはGDEを利用するにあたって極めて重要なことになる。

 また、挽回できない状況が生じる場合、責任の帰属はどうされるのか、本人あるいは遺族にどのような補償が行われるのか、どの国、あるいはどちらの側の法律を適用するのか。

 その詳細諸々をはっきりさせる必要がある。

 GDEは実用段階に入ったとばいえ、まだまだ不備が沢山ある。それらを補うべく、各国はデータ収集に熱を上げている。

 そのためか、非公式的ではあるが、西にせよ東にせよ、GDE用のアプリに、ある程度の安全性の度外視を許している。

 不謹慎な言い方になるが、むしろ未知の原因による死亡事故を歓迎する面もある。

 今まで姉は無事で済んだが、だからといってこれからの安全も保証されているというわけではない。

 姉の性格上、こういうことに対して無頓着だが、そのかわりに私がしっかりやらなければならない。

『社会を知れ。社会を知ることは「有澤」を守る力となる』

 兄の名言ベストワンだ。

それはともかくとして……

 内容にあまりおかしいところはないか。

 利用規約は全部英語で書かれているが、読むことを苦にしない。

 禁止行為と免責行為をひと通りコピーしようとしたが、やはり他のアプリを立ち上げることが叶わず。仕方なく、その内容を記憶してあとで姉に教えるしかない。

 聞いてくれるかどうかは別の話になるが。

 他の気になる点を挙げるとすれば、このアプリは珍しくも一番きつい国際法が適用されているという。

 戦後、世界は両極化し、冷戦が長く続いた。国際法の執行者でもある国際連合だが、その理由で世界に対する影響力は大仰な名前に相応しいほど大きくない。法の執行はまだできるが、その法律の適用範囲はそう広いものではない。

 現代においては、多国籍企業に関わる事柄のほとんどは北大西洋条約公法か、共和連邦規制かのどちらかが適用されるはずだ。

 まぁ、適用される法律は厳格に越したことはないか。

 結構時間を使ったため、早速キャラ作成に……ふむ。

 利用規約の最後ある一文がこう書かれている。

 すべての権利はユーザーにある(Users all rights reserved) と

 どういうことだ。

 文字通りに解釈すれば、発行者は利益を含めこのアプリの全部を手放したのか。

 解せないが、権利(rights)という言葉が責任(responsibility)ではない限り、大丈夫のはずだ。

 姉に待たせるのはまずい、キャラ作成はサクサクで行こうか。

 まずは、外見からか。

 脳の負荷を減らすため、ルール上現実世界にいる体と同じ性別のキャラしか作成できない。

 余談だが、成年がGDEを利用し、反対の性別の体を操って長時間生活すれば、脳に不可逆的な損害を与える恐れがあることは研究で証明済みだ。

 また、身長、体重と骨組みにある程度のカスタマイズの余地が残されているが、大幅の変更はやはりできない。

 その代わりに、顔の細部、体の肉付けや筋肉のバランスなどの変更に規制が掛かっていない。

 つまり時間さえかければ、結構凝ったキャラを作成することもできるが、

(やはりデフォルトでいい)

 必要不可欠な作業だが、利用規約を読んだせいで、時間のロストが生じた。

 例え時間があっても、そのような面倒くさい作業は御免被る

 デフォルトの場合、基本的にモブの姿が出てくるが、どうせ長く続かないから、どうでもいいか。

 あとは名前を決めればいい。

 次のステップに入ろうとしたが、その前に鏡のようなものが目の前に現れた。

 どうやらキャラの姿がプレビューできるらしい。

(デフォルトとしては悪くないか)

 いわゆるイケメンという枠から外れているが、鏡に写した姿は結構男気がある。

 短く切り揃った髪、ちょっとだけ伸ばしている無精ヒゲ、

 少し釣り上げた目、薄く結んだ口、

 180センチにも届く身長、健康的な脂肪率。

 悪くはないがどこかで見た気がする……

 それは確か、休み期間で家にこもっていた時期でシャワーを浴びた後、蒸気で曇った鏡に映した顔は確かこんな感じだった気がしなくもない……

 メガネをとって、切るのも面倒くさくて清潔感を保つため申し分程度手入れした前髪を後ろにまとめて、ヒゲも剃らない時の有澤圭介

 っていうかこれは自分か!

 にわか信じがたい。

 慌ててデフォルト容姿の説明を見たところ、どうやら使用者の姿をそのままに、ランダムの髪形をセットする形になる。

 GDEでも髪やヒゲなどの情報を読み取ることができない。メガネのような無機物ならなおさらだ。

 確かに、これはいかにもデフォルトであるとも言えなくもないが。

 微妙にプライバシー侵害になっていないか。

 ひと通り探したところ、どうやら作り直しの選択肢もない。利用規約をしっかり読んだが、プライバシーポリシーを丸々飛んだとは、迂闊!

 しかし、今更気にしたところでどうにもならない。どうせ長く遊ばないから実害はないか。

 というより、本人でも一目でわからなかったからギリギリセーフか。

 名前のところだが、デフォルトを選んで本名が出てきたとすれば、姉に悪いが速攻でこのゲームをやめるつもりだ。

 兄に知られたら文字通り首が飛ぶ。

 故に自力で適当に名前をつけようと思った。

 mortal(死ぬ運命をたどる凡人)

 深く考えず、真先に思い浮かんだ自分にぴったりな単語にした。



「お兄ちゃん、怖いよ」

「大丈夫だよ、ボクが付いているから」

 膝に頭を乗っている女の子の頭を撫でながら、レベッカは彼女を安心させるために彼女に微笑んだ。

(しかし、フードを深くかぶっている人間をこうも並べると、たしかにちょっと怖いね)

 微かな揺れを感じる。

 自分は今、なんらかの乗り物の中にいると思う。

 キャラを作成したすぐ、こういう状況に置かれていたから、乗り物に乗った原因は不明だ。

 自分の相対側に3人が並んで座っているが、原理を知らないが、顔はおろか、身長や体型でさえをはっきり判断することができない。

 確かに外はもう暗くなっているから、光線が足りないのも一因だろうけど、それが全部の理由じゃないと断言できる。現に、彼らに触ろうと向こう側に手を伸ばしたところで空気を掴んだ感覚しか帰ってこない。

(まだマッチングができていないプレイヤー枠と言ったところかしら)

 自分が目を覚ました時も、フードをかぶっていた感じがしたし、自分の推測はほぼ確定で当たると断言できる。

 自分より先に目を覚ましたのは左手の隣の女の子とさらに左の隅で座っている中年の男性二人だ。

 蹄を鳴らす音を聞く限り、この乗り物は馬車の類いのようだ。この馬車に乗っているは目覚めた二人とフードがかかっている三人と自分で合計六人いる。

 中年のオッサンが先からずっと無表情で沈黙を保っている。

 試しに声をかけたが無視された。

 ムカつくからそれ以降はこちらからも無視。

 逆に女の子は所在無いげにオドオドしている。軽いスキンシップをとって、膝枕をしてあげたら実にしおらしい姿を見せてくれた。

 いいね、実にそそるね。

 さすがに今は自重するけど、イベントが終わって落ち着いたら食べようかなー

 男性のキャラを作るには無理があるけど、女性の骨組みでも中性的なアバターを作れる。とりあえず胸と尻の脂肪を落として、手足の長さをちょっと調整すれば、それなりに見える。他の細かいところもあるけど、キャラ作りの経験はもう二桁を超えたからすぐにできた。あとで今流行っているイケメン髪形を選択して完成。

 顔は意外と修正がいらない。性徴さえ出なければバレることはないし、鋭い人あるいは人体に詳しい人ならいくら顔を修正したところでバレる時は呆気なくバレる。

 少なくともこのかわいいお嬢さんはまだ気づいてないようだ。

 中身が70歳を越えたおばちゃんである可能性もなくもないが、それを気にしたらキリがない。

 やっぱり獲物を釣るときは女より男の方は勝手が効く。

 あら、どうやらマッチングができたらしい。

 三つのフード姿が青い光を放ち、モザイクが交えながら形を変える。

 その光景がよっぽど怖いのか、女の子は声こそ出していないが泣いているらしい。ノリがいい演技派のようだ。

 太ももところで感じる暖かい感覚、もう最高!

「マジでどうなってやがる!」

 ようやく声を出したと思ったら、まさかのセリフ。

 クール気取りはもうしないの?オッサン

 まぁ、これでようやく彼も自ら話してくれた。バリバリの英語だし、先の時は言葉が通じなかったというわけではなさそうだ。

 ちなみに女の子の方も英語を喋っている。

 とりあえず目の前にいる三人を見ていく。

 右の二人の身長はどうやら自分のアバターより高いらしい。

 このアバターの身長は調整されていない。リアルと同じで168センチだ。

 体感によれば、左の方は185センチぐらいで、対面している人は180くらいかな。

 左の隅で座っている人の身長一番低く、150センチくらいしかない。

 隣の人と40センチくらいの身長差があってちょっとシュールな光景になっている。

「ここ、どこ?」

 一番早くフードをとったのは背が一番低い人。女性アバターのようだ。身長が低いが、顔は膝の上に乗っている子より少し歳上で、少女より女性の方がしっかりくる。

 大人の女性に憧れて、精一杯頑張ってアバターをいじった可愛らしいお嬢ちゃん。

 次に顔をあらわしたのは彼女の隣の人で、朴訥な東欧系の男性アバターを使っている。アバターの外見は必ずしも現実世界の容姿と一致すると限らないけど、雰囲気を感じる限り彼の中身は弟じゃなさそうだ。

(しかし、この顔、結構好みかも。機会があればレシピでも聞こうかな)

 同性を性的な目で見ているとはいえ、自分は男性に不感というわけではない。

 あえて弟にそれを隠しているから、圭介は今になってもそれを気付いていないようだ。

 万事に聡いあの子なのだけど、殊にこの手の事に関して鈍い。最初は気付いているが知らんぶりを演じているでは?と思ったけど、傍観者の目で彼と他の子とのやり取りを見ればそんなことはないと分かる。

 それはそれで都合がいいけど……圭介の将来がちょっと心配。ジャックのような見境のない鼻下長紳士になったら困るけど、この調子だと一生女と無縁になりそう。

 それをさておき

 しかし、これで最後か、もし圭介がこの馬車の中にいないなら流石に落ち込むわ……

 まさか先の男が圭介?と思ってちらっと彼の目を見たが、なんの反応も返さなかった。中性的な姿こそなっているけど、顔はそのままだし、もし見出してくれなかったらちょっと姉としての自信がなくなるわ。

 ……のところ、ようやく最後の人がフードをとってくれた。

(圭介?)

 もちろん一目で彼が自分の弟だと分かった。

 なにせ、彼は顔ところか、顔以外も全く修正を入れていない。

 弟だと分からなかったら今すぐにでも姉をやめる気でいる。しかし、この顔は一時間前のものと同じものかというとそうではない。

 もちろん今の弟のスタイルも結構好き。

 言葉遣いは丁寧で、芯もしっかりしているけど、ちょっと抜けているところがあって大きな子供のような愛しい。

 常に柔らかい笑顔を携え、誰にとっても付き合いやすい好人物。

 しかし、素顔の圭介を知っている自分は、それはあくまで世を渡るためのペルソナに過ぎないとわかっている。

 幼い頃はどちらかというと素の方で自分を接してくれたが、その態度も段々と変わり、再会の時はもう自分から距離を置くようになった。

 自業自得だし、自分を案じる心は相変わらずだとわかっているから仕方ないことと割り切ったが、やはり少しだけ落胆した。

 とはいえ、落胆より、安堵の気持ちの方がはるかに大きい。

 もう二度とあのような間違いを犯さずに済むと。

 しかし、どうやら自分の決意は見た目一つで揺さぶるほど脆いものらしい。

 気持ちが整理できたとはいえ、家族以上に好きだった人の姿を思うくらいならバチ当たらないだろうと、成長した弟の姿を想像した時はあった。

 そのイメージはまさに目の前にいる彼。

(こういう不意打ちは卑怯じゃない!)

 落ち着きましょう、落ち着くのです。

 もう自分はあの時の小娘じゃないんだ。

 伊達で歳を食っているというわけではないんだ。

 落とされる乙女から落とす狼の方に回したんだ。

 これくらい、どうということはないわ!

 しかし、悲しいかな

 素数でも数えているところ、彼はどうやらレベッカの存在を気づいたらしくて、こちらに向いて微かに微笑んだ。

(ヤバイ!)

 なんとか気を立て直しかけたところ、トドメが刺された。

「レベッカ、また会えたな」

 いつもよりちょっと低い声で発された砕けた英語の挨拶はレベッカを一発でノックダウンした。

 彼女に視野の隅でようやく点滅し始めた電子ドラッグ防止システムのシンボルを気付くほどの余裕が、もちろん残っていない。



(さて、どうしたものか)

 姉と全く同じな顔をしているイケメンに名前を呼んで挨拶したところ、理由は分からないが、彼(彼女?)は金魚のごとく口をハクハクした後、凍りついたようになんの反応も示してくれなかった。

 最初の反応を見る限り、この人は自分の姉であることは間違いないはずだが。

 ついさっきまで英語の長文を読んでいたせいで、最初に出た言葉が砕けた英語となったが、姉は礼儀にうるさい人間ではないため、それを気にしていないはずだ。

 もともと本名を呼ぶつもりはなかったが、姉が使っているキャラクター名を調べてみればどうやらレベッカエルという。

 レベッカを男性名にしたものか。

 ちなみに、目立たないが、ここいる全員のローブに名札が付いている。自分の名札にウートゥルと書いてあると確認済みだ。

 英語圏なら姉や兄を名前で呼ぶのは普通で、その反応は呼び方のせいではないだろう。

 しかし、見る瞬間抱きついてくるじゃないかと身構えどころ、こうなってしまったとは、流石に戸惑う。

 街中で平気で襲って来る人が人目を憚っているというわけではあるまい。

 絡まれなくなることで全く寂しいと感じないと言うと嘘になるが、プラスかマイナスかというとやはりプラスの方が大きい。

 普通の姉弟関係に戻すため、ぜひその原因を考察していきたい。

 前提として、

 姉はいつも自分と激しいスキンシップを取りたがっている。

 姉は同性愛者。

 自分の扱いは姉の彼女に対するものと少なからず類似点がある。

 大学の先輩から自分は背が高いのに威圧感がなく、怖いと感じないと評されたことがある。

 現実世界の自分と今の自分との相違点として髪形、ヒゲ、メガネの有無、操っている言語四つが挙げられる。

 なるほど。

 総合的に考えれば、姉はいつも自分を男性として接していないから性愛対象として見ているが、自分が男らしい外見さえしておけば、姉の自分に対する感情の中で、性的な愛の要素が抜けてしまうではないだろうかという仮説が立てられる。

 穴は……ないか。

 もちろん真逆の仮説もあるだが、まずは……

「おい、お前、そこの優男と知り合いか?」

 ふむ、声をかけられたため、検証は一旦置いておこう。

(……電子ドラッグ防止システム?)

 いつの間にか、視野の隅で電子ドラッグ防止システムの動作を知らせるシンボルが点滅し始めた。電子ドラッグを摂取した記憶は全くないが……

 気にしたところで仕方あるまい。実害はから、まず目の前のことに集中しよう。

 改めて、声を発した人物を観察する。

 彼は反対側の斜め右の位置に座っている。アバターを見る限り、四十代の男性のようだが、中身はその限りではない。

 馬車に乗っている他の人間と同様に黒いフード付きのローブを着ている。

 同じ側に座っている二人は他人に聞こえないように囁きのような姿勢で英語を使って会話している。

 辛うじて聞き取れたキーワードと怪しいイントネーションから考えればあの二人もプレイヤーだろう。

 つまり、ほとんど同じ状況の中に置かれた六人に四人が確実にプレイヤーであることが判明した。

 残り二人もプレイヤーであることを前提として物事を進んでもいいか。

 自分に声をかけた男のキャラクター名は……トール(雷神)か。

 隣のイカフライさんとウォッカ(Водка)さんよりネイミングセンスはあるか。

 まぁ、あまり考えずに適当な名前を付けた自分も人のことを言えないが……

(しかし、彼の反応は姉のよりよっぽどわかりやすいな)

 彼は無表情を保っており、声も落ち着いていると聞こえる。できる限りこちらに自然体を見せようとしている努力がうかがえる。

 しかし、よく観察すれば、彼の全身の筋肉がこわばっていることが分かる。軽微だが、一部に痙攣さえ見受けられる。

(高度な緊張状態だな)

 人間が危険を直面する時本能的に防衛姿勢をとるが、彼はそれをあえて抑えようとしているに見える。

 また、彼は左手を膝の上に置いてあるが、右腕の肘を後ろに掛け、右手をさりげなくいつでも行動に移せるところにまで移動させた。

 馬車中に巡らせた視線も、右隣だけに向いたことがない。

(隣の女の子以外の全員に対して敵意を抱いているが、対立したくないといったところか)

 この男性はGDEを使うことは今回が初めで、隣の人と面識があり、臆病な性格をしていると推測できる。

「ああ、実の姉だ」

 ここは相手の警戒を解くため、できる限り真摯に答えた方がいいな。

 彼は驚きを見せたが直ぐに収まった。

 まぁ、あのなりで姉と言ったから驚くのも当然か。

「……記憶はあるのか?」

 ……どうやら驚いたところは違うようだ。

 警戒を解いたところか、逆に敵視されるようになった。

 記憶の喪失か……

 最初に思い当たるのはGDE、あるいはこのアプリの不具合による脳障害だ。

 それなら筋が通る。

 彼の状況を少し調べた後この事態を運営に報告するべきだ。

「……私の記憶に破損はない」

 会話に興味を示さなかった女の子を除いて、他の三人も私の言葉に肯定した。

 まだ最悪の事態になっていない。

「どういうことだ、俺だけなのか?」

「何か覚えていることがあるのか?」

「分からない、分からないんだ、ないか、あるか?……」

 思っているより重症だな。

 記憶の喪失だけではなく、浮き出てくるこめかみの血管と大動脈を見れば、血圧の上昇は異常な域まで達したようだ。我慢しているかもしれないが、さぞ苦しいだろう。

 GDEによる投薬はないのか?これはまずいな。

「レベッカ、今すぐログアウトしてくれ。私は彼にいくつの質問をしたら後を追う。君たちにもログアウトすることを強く推奨する」

 私の言葉で隣の二人は状況を飲み込んでくれたようだが、相手側の女の子はそれを聞いてキョトンとした顔でなにを言っているのか全く理解できていないらしい。

 そして肝心な姉というと、

「レベッカ……レベッカか、えへへ」

 謎の状態に陥っているらしい。

 一刻でも争う事態なのに、呑気なことを!

「てめぇ、先の言葉はどういう意味だ!ログアウト?どこに?そもそもてめぇらが放ったあの光はなにものだ!」

「……光?」

「とぼけんじゃねぇ!」

 しかし、どうやら私の言葉を聞いたら男が激昂したらしい。

 まずいな、相手をさらに刺激したようだ。

 家族の安全を優先したせいで、彼の精神状態を慮らなかった。

 もちろん、このことについて、後ろめたいと思わないが。さて、どうしたものか。

「申し訳ないが、まずは落ち着いて……」

 ドーン!

 突然、大きな衝突音に伴い、馬車が激しく揺れた。

 外から馬の苦しみが滲んだ嘶きが聞こえてくる。

「クソ!今度はなんだ!」

 もともと精神状態が著しく悪化した中年男は、突発した事件で軽いパニック状態に陥ったようだ。

 隣の女の子も怯えているように見える。

 しかし、それと対照的に、残りの三人は、ようやくかと言わんばかりにワクワクしている。

 姉ときたら、さっきの姿がどこやら、目を爛々にし、一瞬で捕食者に豹変した。

「圭介には悪いけど、ここまできたらのこのことログアウトすることはできないわ。せめて最初のイベントを突破しないと!」

 どこまでガチなのかこの人は。

 それところではないのに!

「そうね、やはり、興味、ある」

「拙者も血が踊り出したぞ!」

 日本人らしき女性は訥々と、ソビエト人らしき男性は古英語を操ってそう言い放った。

 どうやらこの人たちを止めるにはもう遅い。

 危険性の高いバグではないと祈るしかないか。

 馬車の外で溢れた英語の掛け声による喧騒を聞きながら、私は能動的に事態を改善することを諦めた。

 


4 

 ハンドルにしがみ付き、ようやく馬車が停止するまで凌げた。

 ガチゲーマーの三人はもう嬉々として外を出たようだ。

 馬車の中に残っているのは隅で膝を抱いて震え慄いている女の子と、こっちの出方をうかがっている中年男と自分だけだ。

「出ないのか?……さっきの女、家族だろう?心配しないのか?」

 剣戟の音が聞こえるようになった後、直ぐに行動に移った三人と逆に、ついさっきまで緊張していた中年男は覚めたように落ち着いた。

(これは、社会的証明を得た反応に近いな)

 馬車の中にいる、正常な思考ができる五人の集団の中、中年男によれば、彼だけ光りを放たなかったようだ。

 周囲を参照し、彼は自分の状態が異常だと感じ、自身の妥当性を疑っていた。外で発生したなんらかの事柄と接触したことにより、彼は自分の存在を社会的証明できたというわけか。

 窓から外を見たが、外にまだ生きている人間は100人ほどおり、なんらかの異形と戦っているようだ。

 多数は鎧を着ている兵士らしき人間だが、50人くらいのローブ姿もいる。

 ローブ姿は兵士から、死体からとった武器を渡され、前線にまで押しだされた。

 とはいえ、血液と内臓により濡れた地面を滑りもせずに走りぬけた人間はあまりいない。兵士の数は著しく消耗しているが、ローブ姿の率はそれをはるかに超える。

 敵と相対し、善戦しているローブ姿もいるが、前線に赴く途中で踏み外れ、姿勢が崩れてしまったところで呆気なく殺されるか、あるいは接敵した瞬間で瞬殺される方が圧倒的に多い。

 大声でなんらかの口上をうそぶいて、いかにもカッコ良さそうな必殺技の名前を叫びながら剣だの槍だのをそれっぽくおどらせた人もいる。その勢いこそすさまじいが、必殺技も予定調和のように異形の身に付いている鱗に無効化された。本人は俄かに信じがたいみたいな顔をしているが、次の瞬間でまた予定調和のように異形にハエのように叩き潰された。

 なんともコメントしがたい光景だ。

 しかし、それを見てなお、ほとんどのローブ姿は全く怯えせず、死を恐れていないようだ。兵士と違い、ローブ姿が死亡したとき、その体は青い光となって消え、死体が残らない。そのためか、死なせた実感も湧かない。

 なるほど、これがGDEユーザーの戦い方か。

 拙いが実に特徴的である。

 まだ一分くらいしか観察していないが、ローブ姿はもう半数くらい消耗したようだ。

 残りのローブ姿はその狂気の進行を見て、腰を抜いて怯えているようだ。

 その恐怖の対象は異形ではなく、光となって消えた仲間の方であるように見える。

 兵士の方でも、厭戦ムードこそになっていないものの、明らかに訝しんでいるようだ。

 その光景から彼が社会的証明を得たというわけか……

 どうやら自分は致命的な勘違いをしていたらしい。

 確認しておこうか。

「……この状況に思い当たる節があるとでも?」

「ああ、人格に関する記憶が全部ぶとんだが、知識はある。自分が生まれた国で罪人の記憶を消して戦争に送り出すという制度がある」

 なるほど、つまり彼にエピソード記憶はないが、意味記憶はまだ残っていると。動作のスムーズさから見れば非陳述記憶全般は無事のようだ。

「その知識は、ついさっき、思い出したばかりなのか」

「……いや、前はただ取り乱しただけだ。光が放てる四人に囲まれて気がおかしくなにしまった。今はもう大丈夫だ」

 しかし、それだとしたら前提が崩れてしまう。

 意味記憶が残っていれば、つまりVR技術に関する知識があれば、彼は自分がGDEを使っていることを認識できたはずだ。

 しかし、それを認識できなかったところか、プレイヤーの異常性を自身の妥当性の証明に回した。

 導き出した答えは……

(AI(人工知能)か、それも極めて高度な)

 彼が今まで見せた反応のどれも実に人間らしい。そのため、状況証拠だけで彼がプレイヤーであると断言してしまった。

(まさか自分が先入観(ステレオタイプ)に捕らえられたとは)

 馬車の中で、オブジェクトのステータスを調査しようとしたが、徒労だった。

 客観的にプレイヤーとNPCを見分ける手段がないため主観的に判断したが、どうやら見誤ったらしい。

 しかし、常識的に考えれば、トールという個体はAIを搭載しているNPCであるという仮説は成り立たない。それより現実的かつ健全な推測もあるが……

 今はひとまず常識を置いておこう。

 極めて主観的な考えだが、私は自分の観察眼にそれなりの自信がある。感情バイアスに囚われている自覚はあるが、それにあえてそれに乗るとしよう。

 ここは素直にVR技術の発展を誇ろう。

 表情や仕草に留まらず、感情による筋肉の動きを忠実に再現でき、あまつさえ人間の心理まで完璧に再現できてしまったとは、脱帽するものだ。

 このレベルの状況判断とフィードバックだけであれば、最近AI もそれなりにできることは知っているが、人間の心理を完璧に再現するまでに届かないと思った。また、表情だけではなく、体全身と感情を物理的に連動させるには膨大な運算スペースを使うはずだ。それらの障害を打ち克ったという訳か。

 所詮VR工学に疎い素人の判断、最先端の技術を侮ったな。

 心理の再現の支えとなるアルゴリズムを知りたくて仕方がない。

 とはいえ、ここで彼に問い詰めたところで返答を返してくるまい。

 彼がAIを搭載したNPCだと分かっていれば、後は彼の指示に従えばいい。多分だが、プレイヤーが出会った最初のNPCである彼のプログラムに、案内役としての機能が含まれているはずだ。

 ここは素直にNPCの指示を従え、他のことについては、姉と一緒に現実世界に帰った後でまた考察しよう。

 やるべきことが決め、彼に声をかけようとしたが、先に彼から声がかかってきた。

「おまえら四人を見て、最初はこっちがおかしくなっているかと思った。そんなことはなかった。おかしいのはおまえらだ。この光景を見れば分かる。おまえらは人間じゃねぇ、人間であってたまるか。見ろ、あの笑いながら自殺しに行くやつら、まさに怪物だ。文字通り、血も涙もない怪物だ!

 ……まぁ、やつら比べて、おまえだけは、まだ理性が残っているようだ」

 しかし、なんだか先から男の様子がおかしい。一旦落ち着いたかと思いきや、今度はだらしい笑い顔で、よだれを垂れながら論理性に欠けるセリフをうそぶいている。

 どうやらなんらかの外因で正常な精神状態でいられなくなっているようだ。

(電子ドラッグか?AIにでも作用するのか?)

 関連性はまだ証明されていないが、ここで私はようやく自分が無視し続けた問題を思い出す。

「理性が残っていっても?ここに残っているのは、どうせあれだろう、本心は俺をも外に連れ出したくて仕方ないだろう?一緒に死にたいだろう?俺は御免だ。御免被りだ!おまえのような怪物の死に様、いや、消え様か?を拝まないと気がすまねぇ!死ぬとしてもそのあとだ!

 大丈夫、安心しな、みんな仲良くあの世に行くさ。いや、おまえらはいけないかもしれないな。今の俺の気分すこぶるいい、なにせ死刑に処された間際にこんな胸糞光景が見られるとは、おもしろれぇ!ああ、ここは天国だ、天国なんだ!」

 多幸感に包まれているように、男が自分の体を自らで抱きしめた。

 早口で言葉をマシンガンのように休まず吐き続けているが、その内容は支離滅裂で、ロジカル性は著しく低下している。

 外を見れば、ごく一部のローブ姿を除けば、全員漏れなくこの男のような状態になっている。

(この匂いか)

 ログインした後直ぐに、周囲に馴染みのない匂いが漂いていることに気づいた。火事による煙の中に安っぽい香水を放り込んだような匂いで、好ましくないと思ったが、実害がなさそうだから、一旦放置した。

(これが電子ドラッグとやらの正体というわけか)

 先からずっとログアウトを試みているが、脳は活躍状態にあるため、ログアウトは禁止されているというメッセージが出てきた。

 脳への損害を避けるため、脳が十秒の間、非活躍状態を保て続かなければ、GDEからログアウトできないということは知識として知っているが、どうやらこの非活躍状態の判定は思いのほかに厳しい。

 この匂いが発生する原因となる物資は脳を強制的に活躍状態にさせる効果があるというわけか。

 プレイヤー(自分)がまだ正常にいられるのはGDEの機能による恩恵か。

 確か、電子ドラッグの取り締まりの補強として、脳に直接に不自然な多幸感を与える電気運動は補助脳によって中和されているという。

「死ね!人間もトカゲも全部死ね!はは……はははは!」

(これはもうダメだな)

 完全にイった男を馬車の中に放置して、私は外を出た。

 


5 

 外に出た途端、匂いの濃さは著しく増加した。

 馬車の中ではあまり実感できなかったが、自分は先から常に興奮と鎮静化のサークルにとらわれているようだ。

 行動に支障をきたすとまで行かないが、軽い嘔吐感を覚えた。

(まずは状況確認だ)

 ローブ姿が自殺しに行く隙を突き、兵士たちは陣を組み直し、異形に対して善戦している。しかし、最初は拮抗していた兵士と異形だが、この匂いにより兵士たちの連携が段々と崩れ、異形に抑えられるようになった。

 全滅も時間の問題だ。

 生きているローブ姿もどれも正常な様子ではなく、中にも自傷に走った人間もいる。

 彼らは全部NPCであるというわけか。

(姉は……もう強制的にログアウトされたのか?)

 死という言葉をあえて避け、姉の姿を探したところ、意外と直ぐに見つかった。

(今に及んで、死体漁りか。タフな人間だ)

 この劣勢はもう挽回できないと諦め、火事場泥棒に走ったのか。

 リアルなら注意喚起の一つでもするところだが、この世界ならこれが普通かもしれない。

 兵士の死体から鮮やかな手際で、金になりそうな持ち運べるものを毟り取っている姉の姿は慣れているというより、もう達人の域に入ったとしか言いようがない。

 姉が知らずの間に死体漁りのプロになったとは、なんとも言えない気分だ。

 こちらに気づいたか、姉は一旦作業を中断してこっちに向いて微笑んで、手を振る。

 血と肉片と内臓に塗られた顔と手で。

 相手は姉じゃなかったら腰が抜けて直ぐにでも逃げ出す自信がある。

 地味に怖い。

「レベッカ、これからどうする?」

 この中性的な姿を姉さんと呼ぶのはさすがに違和感がある。キャラ名は本名に近いため、本名を呼ぶことにした。

「……ああ、圭介、来たの?えっとね、逃げたいところだけど、どこに逃げれいいのかよくわからないのよ」

「たしかに……」

 改めて周辺を見た。

 いま、自分の後ろに6台の馬車が止まっている。とはいえ、馬は全部絶命しており、馬車の損傷も激しい。もう使いものにはなれないだろう。

 さらに後ろ、つまり馬車が通った道をさかのぼり、そう遠くないところには村らしきものが見える。だが、その村の全体は、何者かの手によって燃やされたようで、火事の勢いに衰えが見えない。路傍の道標によれば、村の名前はゼニス村という。

(なるほど、この忌々しい匂いはあの畑から発したものか)

 村周辺の可燃物は全て延焼され、村の隣で盛り上がっている炎は規則的な四角形を呈している。作物はもう見受けられないが、掘りなどがまだ辛うじて形を保っており、畑の幅広さがうかがえる。

(ドラッグの原材料となる作物……アサのようなものか)

 その栽培を収入源とする村といったところか。

「さすがにあの村にまで戻ったところでどうにもならないか」

「そうなのよ、とは言ってもあのトカゲちゃんたちを突破することもできなさそうだし、後ろ以外の逃げ道も全部塞がれているし」

 その異形たちだが、姉に言われてみれば確かにトカゲに似ていなくもない。

 とはいえ、現実世界のトカゲよりはるかに大きく、背の高さは2メートルくらいあり、二足歩行もできる。異形の間である種の音を合図として連携を取っており、その知能の高さがうかがえる。

 敵対的な姿勢をとっているが、こちらを積極的に攻めてくることはない。しかし、異形たちが組んでいる陣形を見る限り、自分たちを見逃してくれるというわけでもなさそうだ。

「あー懐かしい、アコーディオンだ!」

 見れば、姉は兵士の死体の上に置いてある楽器に目をつけた。

 確かに、形はアコーディオンに似ている。

 よく見れば、生きている兵士の中にもなんらかの楽器を持っており、演奏している人間がいる。もちろん、どう見ても娯楽や気休めなどの理由で演奏しているというわけではない。その脂汗を垂らしている表情は一種の壮絶感さえ漂っている。なんとなくだが、あれはいわゆる吟遊詩人というものだろう。

 その他にも雷なり氷なり炎なりを飛ばしている兵士もいるが、そのエフェクトはどれも微妙なもので、ゲームならそれくらいできて当たり前かと思って今まで無視した。あの極めて高度なAIと比べてみれば少し芸がないに見える。

 やはり、ほとんどの演算スペースをAIに割いたのか。

「よし、ピアノ式鍵盤だし、そっちと同じ音が出る。いけるね」

 いつのまにか、姉は死体からアコーディオンを剥いて、それに付いている血糊をとったあと背に帯をつけた。

 その後は音階を一通り試したところ、満足げに頷いた。

 楽しいそうな表情を見る限り、奮戦している兵士たちに加勢に行こうと思っていなさそうだ。

 アコーディオンがある!弾きたい!じゃ弾こう!みたいなシンプルな三段論法によって支えられている行動に違いない。

 実に姉らしい。

 詳しいことはあまり知らないが、ピアノ式鍵盤のアコーディオンの演奏方法はほとんどピアノと同じで、ピアノの簡単verみたいな位置付けになる。

 私がまだ小学生だった頃、姉は結構アコーディオンを弾いてくれた。

 しかし、姉が二十歳くらいになった時、段々とアコーディオンを弾かないようになり、ピアノ一筋になった。

 本人からアコーディオンは嫌いじゃないと聞かれたが、では、なぜやめたのかと聞いたら適当な理由で誤魔化された。

 今になって思えば、理由はなんとなくわかった。

 ……さすがに胸のあたりがきついから弾きたくないと直接に弟に言えないか。

 しかし、今の姉のアバターなら大丈夫だろう。

 多分、同性の目を引くため作ったキャラだが、意外なところでサプライズがあったというわけか。

 姉は場にそぐわないくらいウキウキしているが、私も隣で行われているどうでもいい戦いより姉の演奏を聴きたいと思っているから、姉のことを言えないか。

「久しぶりだし、最初の一曲はこれにしようか」

 迷いのない手つきで、姉は演奏をはじめた。音楽は好きで、特に姉の演奏を非常に好ましく思っているが、私自身が音楽に関する知識を多く持っているというわけではない。

 姉の練習やコンサートを聞く時も、演奏された曲に対する認識は、なんとなく聞いたことはあるが、曲名までは知らないという感覚にとどまっている。

 知識がなくとも音楽を自分なりに楽しめるため、その知識を学ぼうとも思わない。

 ゆえに、今回の曲も知っているような知らないものになるだろうと思ったが、

(……?)

 いつのまにか、一筋の涙が頬を伝って流れた。

(これは……まいったな)

 幼い頃、私に家に帰る時は家族にただいまを言うべきという習慣を知らなかった。教えてくれなかった。

 学校の友人からそれを聞き、家に帰る時、試しに義母さんに言った。

 ただいま戻りましたと。

 義母さんに、「ここはおまえの家じゃない(You don't belong here)!」と、叱られた。

 試しに兄に言った。

 兄に、何も言わずに後ろめたい表情で避けられた。

 試しに姉に言おうとした。

 言えなかった。

 姉に練習の邪魔をしないでと言われるのが怖かった。

 また拒絶されるのが怖かった。

 しかし、それは杞憂だった。

 ある日、私はようやく、自分が家に帰り、姉の練習ルームを通る時、姉は必ず練習中の曲をやめ、とある曲に切り替えることを気づいた。

 ピアニストとしての姉はいつも凛としおり、彼女が演奏する曲からほとばしる激情に人間の心を簡単に揺さぶる力がある。

 しかしその曲のイメージだけは違った。

 それを聞くとき、母に抱かれるような安心感のようなものに包まれた。

 私は最初、その曲のタイトルを知らなかった。

 偶然、とあるコンサートで同じ調べの曲を聴いた時までは。

 手元にあるコンサートプログラムを読み終わった後、私は久しぶりに泣いたと覚えている。

 嬉しかった。

 この家にまだ自分の居場所があるとわかったことが。

『おかえりなさい』と言ってくれる人がいることが。

 自分の守るべきものが見えたことが。

 アントニン(Antonín)ドヴォルザーク(Dvořák)『From the New World』 第2楽章 Largo

 またの名は『家路』

 それが今、姉が演奏している曲のタイトルだ。

(久しぶりは……そういう意味か)

 ここでようやく、自分がまだ真先に言うべき言葉を言わなかったことに気づいた。

ただいま(I'm home)

おかえり(welcome)なさい(back)

 やはりこの姉には、かなわないな。

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