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はじめに

「短い間でしたが、お世話になりました」

 いつも人で溢れかえる狭い研究室はずだが、今日は馴染みのある姿が誰も見受けられない。

 無人の部屋に挨拶とは、我ながら酔狂なことをするだな。

 この研究室に何か特別な思い入れがあるというわけではない。

 この研究室の主人に散々こき使われ、単位の取得についても渋られたこともあったため、むしろ好ましくない記憶の方が多い。

 幸か不幸か、自分の苗字には少し謂れがあり、幼い頃から、詳しい事情を知らない周囲から特別扱いされてきた。

 単位制の高校を早期卒業したこともあり、大学に入学した時は、他の学友より少し若かった。

 それらのせいか、周りから、多少の便利を図ってくれた。

 それを辞退しても意味がないことは経験則で知っているため、素直にその好意に甘えることにした。

 実際、その好意がなければ、平凡な自分がわずか二年で大学を卒業することはできなかった。

 トップクラスの私立大学に合格できたのはいいが、奨学金とバイトの給料だけで四年分の学費を賄うのは無理だ。

 貯金はもう底が見えてきて、もし今年で卒業できなかったら、中退をせざるを得ない羽目になるだろう。

 それを知ってか知らずか、ここを巣食っている人間は、バイトと称して院生の仕事を自分に丸投げした。

 雑務全般からデータの収集、授業の助手までやらせた。

 挙句に給料はこの地域の最低賃金。追加単位もなし。

 鬼畜の一言に尽きる所業である。

 あの人は教授に昇職してから5年も経ったはずだが、院生(雑用係)一人も捕まえなかったのも頷ける。

 しかし、彼も伊達で十年心理学の研究をやっているというわけではないらしく、こちらの我慢の限界をよく見極めている。ムチの比率が圧倒的に高い

 が、アメもしっかりと与えてくれた。

 彼は自分が行き詰まった時適切な助言を行い、研究で出した成果も正当に評価してくれた。

 学生に強制労働を課すことは人間としてあるまじき行為であるとはいえ、教授らしい仕事も怠慢せずにしっかりやっているため、そのくらいなら許してもやぶさかではないと、いつも事務所にパワハラを訴える一歩手前で思い止まらせた。

 実際、彼から学んだものはこの大学でもっとも多かったのも否定できない。細かいところも細かくないところも全部含めて目を瞑れば、教職を携わる人間として、彼はしっかりと使命を果たした……とも言えなくもないか。

 と感傷に浸っていたところ、

「なんだ、まだいるのか」

 水を差された。

「ええ、最後の挨拶をしようかと思いまして……」

 相変わらず空気を読もうとしない人だなと心の中で軽くぼやきながら翻す。噂をすればなんとやら……

 ここでお互い見なかったことにすれば良かったのだが…… また一悶着ありそうだ。

「おはようございます、佐藤教授」

 一瞬で愛想笑いの仮面を装着し、おじぎ。

「まだこの胡散臭い笑顔を拝む機会があるとは、世にもわからんものだ」

 明らかに手入れしていない無精ひげを片手でさすりながら、ボタンが取れたスーツを着崩れている中年男がこっちに近づいて来る。

 つい先まで思い走らせた人物はまさに目の前にいる。

「今日はどのようなご用件で?」

 いつもの悪口をスルーし、面をあげて相手の顔を見る。

 一刻も口から離れることのない電子タバコの向きを変え、死んだ魚のような目の焦点を自分の顔に置く。だらしない極まりない男だが、これでも一部の女性学友の間で絶賛の人気を誇る。残念ながら男性の自分には全くわからないが。

「教授の前で慇懃無礼な態度をとっている教え子の様子を見に来たのさ」

「はて、私はつい先、自分がここにいることが、さも予想外だと示唆するセリフを教授の口から聞こえたのですけれども……」

「はぁ……会話のキャッチボールもできんのか」

「ただの意趣返しです、気をなさらず」

「売り言葉に買い言葉、まぁ、いつものことだ、今更気にしたところでどうにもならんか」

 佐藤教授が「はぁ」とまた重いため息一つを吐いて、まだ生産性のない応酬を続ける気かと思いきや、いつも自然体で立っている教授が珍しくも姿勢を正した。

「んで、本当に進学しないでいいのか、おまえ。まだ二年の余裕もあるだろう」

 さて、どうやら今年もまた大学院生を確保できなかったらしい。

 ご愁傷様です

「……冬休みで研究室にいらっしゃる理由が私めの勧誘とは、光栄の至りです」

「抜かせ、誰がおまえのような問題児に構うか。高校の先生ではないんだぞ。やることは山ほどある」

 それはそうだろう、手伝う人がいないから。

「では、先生の邪魔にならないように謹んで辞退させていただきます」

 いつものやりとりで、安定感と一抹の寂しみを覚えた。

 年齢差は二倍以上あり、一方通行の思いだが、心のどこかで私は彼を朋友と思っている。

 もちろん腐れ縁や悪友の類いだが。

 こちらの事情を一切関知しないと言わんばかりに、彼は等身大の自分を接してくれた。もちろん、ひどい仕打ちの方が多かったが、それでも彼と喋っている時、自分がもっともリラックスしていると感じたのもまた事実だ。

 私も結構毒されているな。

 とはいえ、自分はノーマル、相手も同性だから、マゾヒズムに発展する可能性はないか。

 ……一応留意しておこう。

 それをともかくとして、いくら自分が彼を友と思っているとしても、相手はこのような不良学生とすぐでも縁を切ることを切望しているだろう。意趣返しとはいえ、彼に対する自分の言行の酷さは自覚している。

 気恥ずかしいが、その言行を許してくれた彼にも少なからず感謝している。

 それはそれでいいのだが……

「……ちっ、気に食わん小僧だ」

 って、なんなだその顔は。

 雑務係がなくなるだけで、まるで女房が家出をしたような顔するではない、気持ち悪い極まりない。

 相変わらず眉をひそめるようなセリフだが、中で滲んでいる残念さは簡単に聞き取れる。

 これが演技だとすれば脱帽するものだが……

 よそう、自分が相手の話術にとらわれているということにしておこう。

 その方が精神衛生によっぽどいい。

「あなたほどではありませんよ」と軽くぼやき、私はまたおじぎする。

 だいたい大学生に対してとはいえこのようなタメ口をきく教授自体の存在について検討する余地があるでは

「では、そろそろ迎えが来ますので、これにて失礼致します。二年間、お世話になりました」

 もちろんそんなことはおくびにも出らない。対話を断ち切ろうと別れの挨拶を告げる。

「単位と卒論に問題がないとはいえ、二年で卒業するってさすがに早ぇじゃねぇか。実家に帰ったらもう親の後釡に座るだろう。おまえはそれでいいのか、口を出すべきところじゃねぇのは分かっているんだが……」

 いつも飄々している教授としては珍しく湿っぽいセリフを吐く。

「家業を継ぐなんてとんでもありません……」

 言いたいことはわかるが、答える気がないので揚げ足を取って論点をすり替える。

「いや、そこは言葉の綾というか」

「……まぁ、それはともかく、一年の自由時間を融通してくれるらしいんです」

「そういうことを言いたいというわけではないんだが、まぁお前が言いたくないなら詮索はせん……しかし、一年か、二十歳にもなったばかり小僧にとって短いやら長いやら」

 そういいながら、微かな安堵な色が教授の顔に広がった。とは言えそれも一瞬で消え、またあの無気力な表情に戻った。

 なるほど、これがこの男が女にモテる原因か。

「それを言っても仕方ねぇか、とにかく達者でな」

「ええ、機会があれば酒でも飲みに行きましょう」

 ジェスチャーを作り、もう二度と会わないだろう相手に対してそういいながら、私は踵を返したが……

「有澤圭介、卒業おめでとう」

 いきなりの不意打ちだ。

 背後から、別人じゃないかと疑うほど真剣な声が聞こえた。

 止まりそうな足に活を入れ、私は聞こえなかったと言わんばかりに何の反応を示さず、この場から離れた。

「本当にお世話になりました」

 この短い対話の中で、私が唯一感情をこもったこの呟き

 も、きっと相手に伝わることはないだろう。



「さて……」

 先ほどの全く生産性のないやりとりを頭から追い出すべく、思考転換をする。

 ポケットからスマホを持ち出して、待ち合わせの場所を再確認する。

 パスワードを入力した途端、色々なニュースアプリからプッシュされた新聞が相次ぐに殺到する。

 どの新聞の見出しも同一のキーワードが含まれている。

 22世紀

(もう二ヶ月が過ぎたのにまだ各新聞社のネタが尽きていない、と。一生懸命やっているんだな、西も東も)

 暇つぶしにもってこい、内容はだいたい予想できるが、他のやりたいことも浮かばない。

 地図アプリを確認した後、新聞を読みながら待ち合わせの場所に赴く。

(まずは西からにしようか)

 二択から適当に選べ、英語圏の新聞社のニュースアプリを開く。

 戦後、アメリカを主軸として、資本主義国家は連合を組み、市場経済を基礎に社会を発達させた。

 それに対して、資本主義と異なるイデオロギーを抱いている共産主義国家群は、ソビエト連邦を盟主とし、計画経済を礎とする社会を築いた。両陣営の社会構造は完全に異なるため、最近こそなりを潜めたが、長い時間に渡って「冷戦」と呼ばれるほど情熱的に睨み合いっていた。

(しかし、相変わらず負け惜しみが多い)

 西側のニュースの内容こそが新世紀に対する展望だが、そのどれも今世紀が達成できなかった課題であり、うわべで並べていた希望に満ちた言葉に色濃い焦りが見え透けている。

(経済に優れているが、プロパカンダにおいては相手に一歩及ばずといったところか)

 自分は絵にかいた餅で飢えをしのぐことは到底できないと思っているが、西側の人間にとって手に届かない梅こそ魅力的に見えるのかね。

 宇宙を舞台にした第一ラウンドにおいて、西側は結構いい線に行っていたが、マスコミの報道と世論だけ見れば東の圧勝である。それが東側の勝手な思い込みではなく、万国共通の認識であることを見る限り、西側の報道の自陣営からの受けもあまりよろしくないようだ。

 とはいえ、それも150年前のことで、専門外だから詳細にはあまり詳しくない。

 いちおう最低限の知識を持っているが、少し整理しておこうか。

 前回までのあらすじ

 戦争はイヤだが、領土がほしい

 まるでタダをこねる赤ん坊のように二人の巨人は50年も渡って背丈を競っていた。

 月にも、火星にも、どこまでにでも手を伸ばそうとしていた。

 しかし、それは叶わなかった。

 他の技術の停滞を犠牲に、すべて資源を宇宙開発に叩き込んだ末、他の惑星を殖民地化することは論理的に不可能であるという虚しい結論だけが残された。

 まさにこの時、絶望にとらわれていた世界に、一筋の光をもたらしたのは21世紀初頭で生まれたVR(バーチャル・リアリティ)技術だった。

 もともとはもっぱら娯楽目的で研究された分野であり、そこまで発達していなかった

 が、電子脳の可能性を検討する研究を嚆矢に、国家レベルのプロジェクトにまで格上げした。

 現実世界が無理なら仮想世界。

 ほとんど現実逃避のような発想だが、研究の進行と伴い、意外と成功の可能性が秘めていることが判明した。

 少なくともあの憎たらしい暗い空よりは。

 そして、宇宙開発によりもたらした資源枯渇と環境汚染が及ぼした悪影響は人間の予想を超え、地球の破滅がカウントダウンに入り、第二ラウンドの賞品は殖民地の権利から生存の権利に変わった。

 その事実を重く受け止め、チキンレースに終止符を打たんと、和解のしるしとして両陣営は協力で最後の国際宇宙ステーション『месть(リベンジ) チャレンジャー』を打ち上げた。それが六十年にも渡った宇宙開発競争の最後の一ページに飾った。

 めでたし、めでたし。

 っといったところか

 省略した詳細は沢山あったから、こういう御伽噺のような形になったが、細部まで語れば丸一日も足りないため割愛するしかあるまい。

(しかし、第二ラウンドか…… それも直に終わりそうだな)

 東側の新聞を読み、その巧みな構成に舌を巻く。

 22世紀のスケジュールについて一切言及せず、ただ愚直に研究の成果を並べていた。

 失敗を頑なに隠避し、将来についても一言も語らない。

 プロパガンダとしてシンプルだが、絶大な効果を誇る。

 取得している成果は拮抗しているはずだが、この二つの記事を読み比べてみれば、東側がリードしているとしか思えない。とはいえ、この僅か一記事分の成果は100年というスケールに見合うかどうかはまた別の話だ。

 ボトルネックを突破出来ずに四苦八苦している技術者の姿が目に見える。

 経済特区に身を置いているだからこそ分かる。

 第二ラウンドもまた痛み分けで終了するだろうと。

 人間は何も学習していないと。

「なんてことにはならないか」

 この100年間、世界の進歩は遅々であり、VR技術以外は皆無と言っても過言ではない。しかし、幸か不幸か、VR技術の開発は他のどの分野の研究よりも再生不可能資源の消費量がはるかに少なく、環境に及ぼす悪影響も軽微である。世界が停滞しているが、その分だけ寿命が伸ばされた。

 最近、人類の手による地球の破滅はもうありえないという意見も環境学者からあげられた。

 世界の終わった後を備えた研究が逆に世界の終わりそのものを回避した。

 皮肉極まりない話だが、グローバル化こそしていないものの、第一ラウンドの末まで意味のない足の引っ張り合いを我先にやっていた2名様も、今更相手を強く干渉しようと思わないらしい。

 国際貿易はまるでドラッグのようで、その恩恵を一度でも受けたら依存性が末永くまで付き纏う。それを手放す勇気は今の西側にも東側にもないようだ。



「……圭介!」

 いつのまにか、もう待ち合わせの場所に着いたらしい。

「圭介、もう、歩きスマホはやめなさいと前いったじゃない」

 もう子供じゃないからこういうセリフは控えていただきたい……

 傍観者の目からみれば微笑ましい光景かもしれないが、当事者としては恥ずかしい極まりない。スマホを片付け、姿勢を正そうとしていたが、早めなヒールの音を聞き、途中でやめた。

 とりあえず手が変なところを触らないように注意しておこう……

 何故ここにいるのかは知らないが、両腕を広げ、こちらに迫らんとする肉食爬虫類への対応はこの10年で心得ている。

 何を隠そう、その極意はされるがままにしろと、これ以上もこれ以下もない。

「やはり抱き心地はいいな、圭介は」

 それを言うならまず離してくれませんかね。

 せめて背後で爬虫類を彷彿させる手を止めていただければ幸いです。

「もむもあーもむむ」

「え?何?聞こえないー」

 だから、離せって

「聞―こーえーなーいー」

 もういい。

 いつもの如く、嵐の通過まで凌ごう。

「満足満足ー」

 この姿勢を一分間しか維持していないが、5時間延々とデータ分析をやるより神経をすり減らした感じがする。

「おはようございます、姉さん」

 離してくれた瞬間、この肉食爬虫類から距離を置くべく三歩下がる。

 餌はもうやったが、何かの気まぐれでまたそのような奇行に走ったら身がもたない。

 なぜなのかは知らないが、通行者が羨ましい眼差しを寄せているのだが……

 俎上の魚のどこに嫉妬する要素があるのかね。

 改めて、目の前の女性を見る。

 流れるような金髪に芸術品ごとく整えた顔。

 なるほど、世間の一般的な審美観からみれば、確かに姉の容姿は美しい女性という枠組に当てはまるだろう。

 オシャレな水色のパンツスーツを着こなしている体も黄金比の体現としか思えないほどバランスが取れているが、煽情的に見えない。

 さもありなん、彫刻を鑑賞する時劣情を催す人間はいるまい。

 とはいえ、たしかに容姿だけ見れば紛うなき美女と言えなくもないが、妖しい光を煌めかせながらこちらをうかがう目はまさに捕食者のそれ。姉の前であれば、常に蛇に睨まれた蛙の心情を実感できる。

 身をもって、だ。

 姉との付き合いは生まれた時点から始まったが、この20年間で彼女に刻まれた記憶は畏怖の一色に彩られた。

 心を温めるエピソードもあったが、やはり襲撃される場面の方がはるかに多かった。

 彼女の奇行は愛情からくるものだと理解しているが、それを受け入れられるか否かはまた別の話だ。

 幼い頃はまだそうなに抵抗を感じたというわけではなかったが、とある事故をきっかけに、自分の体が姉の愛情表現を生理的に拒否するようになった。

 これでも自分は結構姉を慕っているから、この苦手意識を克服するため、できれば姉と普通の姉弟のような関係になりたい。

 姉から見ればこれが普通の姉弟関係だとすればどうしようもないが……

「ところで、どうして姉さんがここに?」

「圭介を迎えに来たに決まっているじゃない」

「はぁ、左様ですか……」

 迎えに来たのはベンさんあたりではない理由を聞きたかったんだが、予想通り素直に答えてくれないらしい。しかし、詮索はよそう。自ら墓を掘る間抜けになりたくない。

「ベンならいるよ、車のなかに」

 珍しくこちらの意図を汲んでくれたか、姉は説明を補足してくれた。

 姉の言葉につれ、後ろに泊まっている車の運転座席を見る。

 一人の五十代の男性がこちらに向かって手を振っている。動き幅こそ愛嬌を感じさせるほど大きいが、顔に一切の感情が見受けられず、彼をしらない人間であればそのバランスが取れていない表情にドン引きするだろう。

 相変わらずやらなんとやら……

「さぁ、乗りましょう。飛行機の離陸時間にまだ余裕があるとはいえ、早いに越したことはないし……まぁ、間に合わなかったらそれはそれでいいし、ホテルのシングルルームも予約してあるし……」

 言葉の行間から滲み出す凄まじい寒気に耐えられず、私は慄いた。

 傍観者であれば大歓迎だが、食料としてこの肉食爬虫類の捕食シーンに立ち会うのはまっぴら御免だ。

「ベンさん、最速運転でお願いします」

 運転手にありたけの敬意を払い、願い事をした。

 ベンさんの運転は相変わらず安定している。

 揺れも音も一つもないところが憎たらしいと思うくらいだ。

 そのせいで、私はこの肉食爬虫類と二人きりで密室に入ってしまったような感覚にとらわれたが……

「そういえば、姉さん、イギリスでのコンサートはどうでしたか」

 隣で爛々とした眼差しで舐め回するように自分を睨んでいる生物をとにかく抑えるべしと私は話題を振った。

 自分の目に映す姉の態度はある程度誇張されており、感覚の半分はトラウマによる被害妄想と言えなくもないが……

 頭で理解しているつもりだがなかなかこの苦手意識をなくすことはできない。

 もう半分は正真正銘の生存本能による警告であるためだ。

「まぁまぁかな、可もなく不可もなしといったところかしら」

 コメントにくい返答だな

「そうですか」

 そのせいで月並みの相槌しか出てこない。

 話題を繋ぎ止めるため言葉を重ねようとしたが、

「まぁ最後のコンサートになるかもしれないし、もっといい出来栄えにしても良くない?とも思わなくもないけどね」

 淡々と、姉が先に言いだし始めた。

 手、目、足、口調

 姉の身振りを一瞬で観察したところ、言葉に反して悔いはあまり残っていないようだ。

「しかし、残念でしたね、もう姉さんのピアノが聴けなくなるなんて」

 冷静に、社交辞令に聞こえるようにさりげなく言い添える。

 本心を建前の中に隠す。

 姉は何事に対しても適当だったが、彼女を育つ環境はそれを許している。

 頭の出来が悪いというわけではないが、姉は義務教育が終わった後すぐに学校をやめた。近年はVR開発の副産物みたいなゲームに夢中しており、徹夜で遊ぶ姿を一緒に暮らしていた頃で頻繁に見たが、どのゲームも長く続かない。

 長くとも一か月、短ければ1日ですぐやめる。たとえゲームでもそのスタイルは変わらないようだ。

 自分はそれをどうこう言える立場にはいないが、やはり家族として彼女の未来が心配だ。

 器用な人で、何をやってもそれなりにできる。でもどれも真面目にやるつもりはないようで、ピアニストをやめた後、無職で一生を終えさせる気が満々だ。家からの小遣いは普通のサラリーマンの賃金を優に超えているから家計は大丈夫だろうと思うが、この様子で将来、結婚相手を捕まえるかどうかはまた別の話だ。頃合いを見て見合い相手を頻繁に連れて来た兄まで諦めたか、最近はもう姉に構えていないようだ。

 現に、今年で24歳になる姉で、立派ないいところのご令嬢だというのに、未だに婚約すらしていない。

 余談だが、姉が持っている彼女の数はまた別の話だ。

 しかし、理由は知らないが、このような姉でもピアノの演奏に限って真面目に取り込んでいる。

 それも情熱が感じさせるほどだ。毎日の練習が欠かさないのはもちろん、指図されることを嫌う姉は、ピアノを上達させるためどのような厳しい指導も甘んじて受けてきた。

 その上で、素人の見解ではあるが、姉が持っている音楽に関する才能は天才と呼べるほどのものだと思う。

 7歳の時、知らない部屋の中から流れ出した調べに聞き惚れて、涙を流しながら扉を開いたところ、まさか捕食者と遭遇することになると思わなかった。

 それをきっかけに、私のこころの中にある姉のイメージが大幅に上方修正された。

 ピアニストとしての一面だけ切り取ったら、自分は姉に恋心を抱いていると言っても憚らない。

 日頃の行いがそれを台無しにしたが、そのお陰で禁忌に手を出さないで済んだと言えなくもない。

 それを狙ってやっている可能性も一応検討したが、姉が彼女の女性の恋人たちに対する態度を見れば、あれは素に違いあるまい。

 自分が彼女枠に入れられたことに忸怩たる思いを抱いているが……

「大丈夫だわ。圭介一人だけのためのコンサート、いつでも開けるわよ」

「ありがとうございます。楽しみにしています」

 もちろん、姉の演奏をまた聞けるのは嬉しい。

 しかし、それより、それを世界に聞かせて、認めさせてやりたい。

 血が滲むほどの努力を注ぎ込んだピアノを呆気なくやめてしまったことに対して、私は本人より落ち込んでいる自負がある。

 しかし、私はその気持ちをありのままで姉に伝うことを躊躇っている。

 本人がやりたくないことを強制したくない。

 姉がピアニストの道を進むことで幸福感を得る人間は私だけかもしれない。

 そのために姉の意志を曲げてしまえば必ずいつか後悔することになるだとう。

「あの世界はね、やはり面食いなのよ。テクニックより見栄えってところもある。才能のない人間は顔さえよけらばそこそこ売れるけど、逆にいくら才能を持って余していても不細工くんだったら交響楽団に行くしかないのよ。金儲けのためにやっているというわけではないのに、身不相応な金をもらって……」

 先よりちょっと重い口調で姉は心情を吐露する。

 やはりピアノを辞めるには深い原因があるようだ。

「姉さんに才能がないとは思いませんよ」

「まぁね、伸び代はあるかな。師匠にも褒められたわ、才能めちゃあるって。金になるから手を離したくないという気持ちもあったと思うけど、全部が全部お世辞というわけではないと思うわ」

 そこで姉として珍しく言葉が詰まり、ちょっと弱気になった表情で沈黙を保っていた。気持ちを整理している時は下手に相槌を打たないようにしておこう。

 カウンセリングをするならここで相手の目を真直ぐ見るなり、スキンシップをとるなりで落ち着かせる方がいいかもしれないが、調子を乗る姿が目に見えるからやめておこう。

 この肉食爬虫類もカウンセリングが必要のようなヤワな人間でもあるまい。

 しかし、前々から少しだけ聞いたことあったが、姉は自分の容姿にコンプレックスを抱いているらしい。

 この破天荒な姉だが、黙ってさえいれば異性に限らず、世の中の全ての人間を簡単に骨抜きにしてしまう外見を持っている。多少の誇張も含まれているかもしれないが、少なくとも私はそう思っている。

 しかし、それが逆に仇となり、自分の努力と才能が蔑ろされてしまった原因となったようだ。

 私にとっては無縁な悩みだが、察するに余りある。

 その悩みをある程度解消するノウハウはいちおう持っているが、家族を思うこそ、自益のため彼女の生きる道を曲げることを厭う。

「ただね、競っていたライバルたちに段々と嫌われるようになってね。顔だけがいいアマって。おかしいでしょう、前日まで認め合っている相手がコンサート一回で、こうも手のひらを返すのは。確かに同じ努力をしているのに収入に差がつくのは理不尽だと思うわ。けどそれをわたしのせいにする方がよっぽど理不尽じゃない……!」

 言葉は段々とヒットアップし、涙声まで交えてきた。よく見れば目も潤っており、普段の姉から想像できないほど弱々しい姿がそこにいる。

 やばい、どうしよう、まさか姉の心の中にこんなにストレスが溜まっているとは。これは本格的になんとかしなければ、男が廃る。

 ……ということにはならないか。

「ほどほどにしませんか、姉さん。騙されているベンさんがかわいそうです」

 前から鼻をすする音が聞こえてきた。さすがにもう姉のイタズラに付き合えない。

「ムっ」

 先のしおらしい姿がどこやら、演技だとバレた途端、姉は演技をやめた。

「これでもcmを出演したこともあって、演技にそこそこの自信があるけどな」

 いつも通り、能天気な姉がそこにいる。

「やはりギャップが大きすぎたのがいけないかな。これから圭介の前で弱いキャラを作らないと」

「本人の前でそれを言ったら台無しなのでは?」

「あっ、それもそうか」

 何がおかしいやらと声を上げて笑い出した姉を尻目に捉え、私は溜め息を一つ吐いた。

 もちろん演技を見破ったのはギャップ云々が原因ではない。

 先入観で家族の抱いているコンプレックスを見逃すほどの間抜けになるつもりはない。

 髪をかきあげる動作は実に様になっている。軽く俯いた視線も遅くながらさまよっている。他も様々あるが、指から腕、腕から肩に伝わるように、不安をアピールする動作が広がっていく。

 しかし、本当に不安に陥っている人間の仕草はランダムであり、ある部位に集中し、複数回繰り返す傾向がある。

 姉のような、不安を表す仕草を思い付く次第で相手に見せるやり方は、自分が不安に陥っていると相手に見せようとするための典型的な演技である。

 他の判断材料もあったが、初歩的なところで見破られたとは、姉は大根役者であることにもはや疑う余地がない。

 それを一から教える気はないが。

「そういえば圭介の専攻は心理学だったっけ。道理で騙されないわけよ」

「社会心理学ですよ、社会学の研究に主眼を置き、臨床心理学はかじった程度です」

「へぇ、なるほど」

 全く分かっていないの「なるほど」だな。

「まぁ、その話はひとまず置いといて、オーストラリアに到着した後のスケジュールを組まないと」

「そうですね、実家に帰ったら……」

 ふむ、どうやら行き先に対し、私と姉が異なる認識を抱いているようだ。

 反射的に返事をしたせいで、途中で言葉が詰まってしまった。

 我ながら迂闊した!

「やった、一本取った!」

 案の定わいわい騒いでいる姉を視野から追い出して、思考に耽る。

 もちろん、私たちの実家はオーストラリアなんて遠いところではない。今いるところから飛行機を使わずとも新幹線をのれば3時間程度で行ける。

 お義母様の実家もイギリスあたりで、オーストリアならまだしも、日本よりオーストリラアへの距離が遠い。

 大学を卒業したら実家に帰って来いと兄に言われたこともあり、ここでオーストラリアが出てくる理由は全く見当がつかない。

 ピアニストとしてのけじめをつけるため音楽の都と呼ばれているオーストリアに旅を出ようとするならまだわかるが……

 仕方ない、わからないことは素直に聞くとしよう。

「参考までお聞きとしますが、この件に関して父上と兄上の了承を得ていますか、わたくしに拒否権がございますか、また、オーストリアへ赴くご用件と致しましては少しだけ教えていただければ幸いです」

「……調子を乗ってごめんなさい」

 ドン引きされた。

 甚だ心外だ、極めてフレンドリーで行こうつもりだったが。

「よろしい、では、返答をお願いします」

「もちろんジャックは知っているわ、父さんの方は私も1年近く会っていないから連絡していないけど。まぁ、あの人も一々こういう細かいことに口を出すタイプじゃないと思う。チケットも買ったし今更やめるのはもったいないし、というかわたしは許さないわよ」

 姉が許さないか。

 つまり拒否権皆無だな。

 しかし、まさか兄が許してくれたとは。

 正直言って意外だ。

 幼い頃から、姉と同じく、母から西洋系の血を濃く受け付いた兄が「有澤の男児、鍛えられるべし」のような言葉を日本語で口酸っぱく言ってくれた。

 側目から見ればなかなかシュールな光景に違いないが、本人はいたって真剣だということを私はよく知っている。

 そのせいで辛い思いをしてきたが、それが憎いと思わない。

 実際、彼に助けを求めれば、最低限の援助はしてくれるはずだが、援助を受ける毎に、自分が一歩、姉に近づいてしまうではないかという疑念がある。

 古臭い思想かもしれないが、女ならいざ知らず、男であれば家から自立し、身を張って家族を守る必要があると思う。

 兄はその下地を整えてくれた。

 足を止まる時は叱咤激励してくれて、迷っている時は進むべき道を示してくれた。

 私が物心をついた時父はもう50歳を超えていた。

 妻に対して後ろめたい思いをしているからか、私にあまり会ってくれなかった。記憶が間違っていなければ、父と最後に面会を行ったのは5年前まで遡る。

 その代わりに、29歳という若齢で取締役社長に就任し、8年間で有澤電子工業にさらなる成長をもたらした兄は、家族として私にカッコイイ背中を見せてくれた。

 兄が愛人の子であることを理由に私を疎遠しないことに感謝こそすれ、その厳格な教導を恨んだことは一度もない。

 しかし、厳父のような兄だが、どうして姉のわがままを許しただろう……

 てっきり実家に帰ったら直ぐにでも身内ver.の研修コースが始まると思ったが……

 まさか、なんらかの試練が現地にて待ち構えているというベターな展開になるというわけではあるまいな。

「……ちなみに、行く理由は?」

「そんなこと決まっているじゃない」

 恐る恐る聞く私に対して、さも当然のように姉は私に向いて最高な笑顔を披露してくれる。

 申し訳ございません、全くわかりかねます。

 何卒ご教示をお願いします。

「新婚旅行よ」

 ……なるほど、つまり何も決まっていないとおっしゃる。

 予想の斜めに行く爆弾発言だが、それについて真面目に考えるのも馬鹿馬鹿しいと思い、どうせ逃れないからもう全部を姉に委ねようと私が決めた。



「お嬢様がこちらに着いたのは5時間ほど前になりますけれども、前を持って連絡出来ず、まことに申し訳ございません……」

 空港に着くまで、私は延々とベンさんの謝罪を聞く羽目になった。

 姉の行動力を知らないというわけでもないから、事自体にあまり驚きがない。

 強いて言えば、姉も私と同じでインドア派の人間で、記憶が正しければ旅行全般を疎く思っているはずだと、少し疑問を覚えただけだ。だから「ベンさんは何の落ち度もありませんよと」と彼に伝えたが、どうやら本人はそう思ってないようだ。

 彼の融通がきかないところは今に始まったことではないと知っているから、空港に着くまで放置することにした。

 しかし、オーストラリアか……

 百年前までは自然が溢れていた島国だったが、東側と西側の和解をきっかけに様変わりした国に思いを走らせる。

 航海技術の発達により、世界の果てと言われてきた極東が逆に二人の巨人の繋げ目となった。

 経済的に優れているという理由により、和解後に増えつつある国際貿易はほとんど水路により行われた。その結果、日本とメキシコがその窓口となり、中立的な経済特区として成長を遂げた。

 そのおかげで、日本は世界中で自由度がもっとも高い国家の一つとなった。

 日本の街を歩けば、様々な人種が見受けられる。ほかの地域だと想像もつかないシチュエーションだが、会話の双方がロシア語と英語それぞれ使ってコミュニケーションをとる光景も日本においてはそう珍しくもない。オーストラリアも経済特区との間に類似点が見受けられるが、地理的な要素より、経済的な機能は前述した国より劣っている。

 その代わりに、もともと旅行産業を財源にしたこともあり、その延長線で政府のポリシーによりオーストラリアは自ら西側と東側のサブカルチャーの受け皿となった。

 政府側も経験とノウハウを持っており、五十年前からリゾート地として「実在する天国」と呼ばれるほど世界中に名を轟かした。

 いかにも資本主義的で享楽的な国だが、意外と東側からの受けも悪くない。

 娯楽の内訳として、伝統的な自然・人文観光の他に、国によって法律で取り締まられている風俗やギャンブルなどのサービスも盛んで行われている。今まで自ら進んで試そうと思わなかったが、それらに全く興味がないといえば嘘になる。

 とはいえ、まさかと思うが、そこで姉と一緒で娼館巡りをする羽目になるではあるまいな。

 姉は同性愛者であることは知っている。

 性的指向はあくまで個人の自由であり、性同一性障害に発展しない限り姉の行為を批評するつもりはない。しかし、売春が厳しく規制されている日本とイギリスでは、ノーマルの業者はともかく、そこまでマニアチックの相手を探すのも一苦労だろう。

 もちろん、オーストラリアならいると思うが、それが姉の目的か。

 そもそも、女性二人はどうやって行為に及ぼすだろう。商売として成り立てるのか。

 ……実に興味深い。

「圭介もこういういやらしい顔ができるんだ。ちょっと意外」

 ……!思考をいとも簡単に顔に出すとは、我ながら未熟なことだ。

 一つ咳払いをして、ポーカーフェイスに換装する。

 もちろん、つい先の思考はあくまで学術的な好奇心によるものであり、後ろめたいところは皆無であるとはっきり断言できる。

「何を考えているかしら」

 飛行機の中で、窓際の席に座っている姉がこちらの顔を覗く。

 つい先まで眠っているはずだが、いつのまにか起きたか。

 ちなみにベンさんはもう本社の方に帰ったので、私の味方になってくれる人間はこの場にいない。

「なんでもありませんよ」

 咄嗟に言い訳が出てこないところがまた憎たらしい。

「ふん……」

 妖しい光でも放っているのかと思わせるほど、姉の目が捕食者のそれに変えていく。

 心の中で舌なめずりしながら目の前で隙を見せた間抜けな獲物をどうやって料理するかを考えているに違いない。

 考えていることをそのまま全部顔に出すことを憚らない姉だが、彼女に敵えると全く思わない。

 悲しいかな、力関係が歴然としている。

 これまた一悶着がありそうだなとぼんやり考えながら、対策を練っているところ、

『……まもなく到着します……現地の温度は24度……』

 思わぬ(機内アナ)ところ(ウンス)から救いの手が出現した。

 この渡り船にのらない手はない。

「そういえば、スケジュールに関する打ち合わせはまだでしたね」

 自然なタイミングでそれを切り出し、話題転換を図る。

「……スケジュールなら、もうほとんど決めたわ」

 少し残念が残っているようだが、どうやら姉が引き下げてくれた。

 しかし、エスコートありか。男としての甲斐性が疑われるが、インドア派の私にとって実に有難い話だ。

 今日で初めてポジティブな話を聞いた気がする。

「それはとても助かりますね、ちなみに初日どこに行きます?やはり定番のシドニー・オペラハウスからですか」

 知らずに、心の中でちょっとワクワクしてきた。

 しかし、姉の顔を見た瞬間、その生まれたばかりの小さな熱はすぐに凍り付いた。

「何を言っているの、この子は」みたいな表情をしないでください、お願いしますから。

 嫌な予感しかしない!

「違うわ。初日も何も、ずっとホテルから出る気は無いわよ、わたしは」

 本気に不思議を思っている姉を視野から追い出し、また一つ重い溜息を吐く。

 その溜息は今日の何度目かと数える気さえなくなった。

 さすがに我が姉、予想の斜め上を行くのは十八番だ。



「到着っと」

 入国手続きをサクサク進めて、いかにもその手順に慣れている姉のお陰で半時間もかからずに空港から出られた。

 その後、姉はまだ戸惑っている自分の都合を慮らず、適当にタクシーを捕まえ、運転手に滑らかな英語で目的地を告げた。

 その過程は地図アプリおろか、スマホさえ一回も使わなかった。

 そのスムーズさに段々と疑問を覚えてきたが、私にそれを聞く気力が残っていない。この状態は飛行機が着陸してから姉が予約しているらしきこの高級ホテルのホールに入った今まで続いた。

 姉を見た瞬間、カウンターの後ろで凛として立っている受付嬢が一瞬、驚きでもとれる態度を見せたが、すぐに姉を構えずになんらかの作業に取り掛かった。

 オーストラリアの観光産業に詳しくはないが、建物の外見とホールにいる他の客の身なりから見れば、このホテルは最上級に分類されるものであることは間違いないだろう。

 このような場所で働いている受付係が、初対面の客に失礼でも取れる不自然な対応を見せるとは、いかがなものか。

 流石にこれはクレームを入れるべき事態だと思い、私は前に一歩進んだが、姉が先に口を開けた。

【いつも通り予約していないけど、どう?取れる?】

 一瞬、自分の英語力がゼロじゃないかと思った。

 これは由々しき事態だ。こんなに簡単な日常会話の内容を聞き間違いとは。

 これは改めて自分の英語力の見直しをしなければならないな。

 幸いここはオーストラリアだ、環境としては申し分ない。

 流石に姉でも、こんな高級なホテルを予約なしでチェックインできると思わないだろう。

 常識的にありえない。

「もちろん、用意してありますよ、有澤様。こちらの方は同伴者ですよね、ダブルルームでよろしいでしょうか」

 どうやら違った。

 ダメなのは英語力ではなく常識の方らしい。

 いかにも西洋人らしい外見をしている金髪の受付嬢は私を慮り、滑らかな日本語を披露してくれた。

 この場にいる常識人の誰かがおかしいと言ってくれないかね。

 物事に対して常に斜に構える態度をとれば周りの顰蹙を買いかねない。

 特に私に対して、姉は自分に振り回される頼りない弟という役を求めていると思われる節がある。

 だからわざわざ自ら論理的な思考を放棄し、姉のノリについていこうとしたが、さすがにストレスが溜まるまで付き合うつもりはない。

 状況の把握に取り掛かるとしよう。

【ダブルルーム使ったことはないけど、二つある?】

【もちろん、備えております】

【ならいいか、んじゃ支払いはいつもどおりで】

【はい、かしこまりました。名義は個人でよろしいでしょうか?】

【それで】

 淡々と、いかにも慣れた段取りでチェックインを進める二人。

 私の意思は無視されたが、強引に会話に割り込む気にもならない。

 このやり取りを見れば段々話が見えてきたが、受付嬢の最初の態度についてまだ違和感が残っている。

 その戸惑いが混ざっている驚きを見る限り、この受付嬢は姉と面識がないはずだが……

「じゃ先に色々の片付けを済ませるから、圭介はここでちょっと待っていて」

 普段なら手助けを申し出るところだが、これ幸いと「いってらっしゃい」と姉を送り出し、姉が話を聞こえない場所まで離れたところで、先の受付嬢に声をかけた。

【私は有澤圭介という、うちの姉と結構会えるか?】

【ええ……いいえ、わたくしはレベッカ・有澤様と会うのは今日で初めてになります】

 受付嬢は説明不足と思っているらしくて、言葉を重ねようとしているが、その表情から大体の事情をある程度汲むことができた。

 会える機会はあるが、会ったことはない。

 つまり、このホテルで頻繁に姉を見かけるが、彼女の担当をした経験は無いといったところか。先の手際を見れば姉に便宜を図れと上から指示を受けたことは簡単に推測できる。

 その恩恵を受けたことはないが、有澤という苗字は世界範囲である程度通用できるのは知っている。

 しかし、この件は合意の上とはいえ、経営側が客を差別しているという事実に変わりはない。

 経営側の口からそれをはっきり言わせるのはさすがに気が引く。また、この対話を聞いている他の客の不快を買いかねない。

【そうか、仕事の邪魔をしたな】

 会話を続ける気がないと言わんばかりに、彼女に軽く会釈し、カウンターから離れた。

 短いやり取りだが、有澤電子工業の影響力を再認識させるには十分だ。



 荷物を全てボーイに丸投げ、姉はまるで我が家を歩くように、与えられた部屋の前に到着した。

 後ろでついてきた私は歩きながらこのホテルのガイドブックを読んでいる。

(なるほど、GDE(General Diving Equipment)付きか。道理で姉がここを通っているわけだ)

 VR技術は国家レベルの機密ではあったが、五十年前、西側と東側は合意の上で、データを取るために最先端の技術をもろとも社会に提供し、民間企業の協力を呼びかけた。

 それを境に、VRが一つの産業として発足し、そして瞬く間で世界に普及した。

 あの時代で流通していた民間企業の落伍的な VR設備は、利用者に視覚・聴覚の情報をインプットしかできず、VR設備と呼ぶこともおこがましいほどの代物だった。

 しかし、情報の開陳により、VR設備の動作原理が一新された。

 五感にとどまらず、バランス感や痛覚などの感覚も含め、人間が外界から得られるすべての情報のシンクロを、脳との電信号の交信を直接に行うことにより実現させた。しかし、そのシンクロはあくまで簡易的なものであり、現実と全く同じ体験を得るまで届かない。感覚のクオリティが落ちるのはもちろん、場合によって忠実に再現できない可能性もある。また、VR設備を使ってVRに没入する期間では、排泄と食事を能動的に行うことができず、体の運動もできない。

 そのゆえ、VR設備を使って長時間没入することは不可能である。

 しかし、公開された研究成果はそれだけにとどまらない。

 General(全方位的) Diving(没入) Equipment(設備)

 ヘルメットのような従来のVR 設備と異なり、GDEは人間全体を覆う棺のような形をしている。

 GDEの主な機能として

 自動化システムによる排泄の代行、

 輸液による栄養素の補充と内臓のメンテナンス、

 マッサージをはじめとする物理的な手段による筋肉の活性化、

 補助脳による感覚の補完、

 完璧なALS(二次救命処置)が含まれているCPR(心肺蘇生法)の実行

 が挙げられる。

 その結果、利用者は半永久的に、現実世界と全く同じ感覚で仮装世界を生きることが可能となった。

 結果だけ見れば、人類の生存圏の拡大を目的とするVR開発はもう成功したとも言えなくもないが、このGDEに幾つ致命的な弱点がある。

 まず一つ目は量産の困難さである。

 GDEが世に出て、生産に取り掛かったもう四十年近く過ぎた。しかし、データによれば、全世界の範囲においてもGDEの台数は未だに一万台を超えていないという。もっともデリケートな部分はやはり補助脳であり、一台毎に様々なテストと修正をこまめにやらないと完成できないらしい。現時点では、GDEがVR設備のように普及することは不可能と言っても過言ではない。

 二つ目はメンテナンスと管理の複雑さだ。

 自動化こそしているが、約500台のGDEを動かすには常勤の千人が必要とされるという。例え200年後、技術の革新によりGDEが普及できたとしても、それをフル運転させるのは現実的ではない。

 最後は利用者の安全を確保できないところだ。

 補完される感覚に痛覚が含まれている。度を過ぎた痛覚は簡単に心臓停止あるいは脳死を招く。そちらへの対応は万全といってもいいが、やはり事故を完全に回避することはできない。数こそ公表されていないが、実用化された GDEによって命を落す人間は少なからずいる。

 国家レベルの支援もあり、データ収集を主眼に置いているだからこそ、GDEはギリギリでセレブの玩具の枠に納めるが、中流階級には一生、GDEを使う機会が訪れないだろう。

 我が社(とは言ってもまだ入社できていないが)の管理下にある1074台のGDEも東京を拠点にして運営しているが、どうやら姉の辞書にはまだ外聞という言葉がかろうじて残っているらしい。

 日本の誉とも言える会社の会長の娘、代表取締役の妹が自社にこもってGDE廃人になったという話が外に出てしまえばさすがに締まりが悪い。

 医学研究とVR開発に主眼を置く我が社のGDE管理方針と違い、オーストラリアにあるGDE設備はほとんど娯楽のため使われている。そのため、ここに浸っている金持ちは沢山おり、姉一人が増えたところで噂にもなりにくい。

 木を隠すなら森の中といったところか

 なんにせよ、この時点でようやく話の全容が見えてきた。コミュニケーションにとってもっとも大きな障害となるのは事前に持っている情報量の格差だが、どうやら姉はそれを解消するつもりはサラサラないようだ。

 それはともかくとして。

「何がぼーとしての、早く行くわよ」

 見れば、姉はまるで子供のようにはしゃいでいて、もう没入の準備ができていた。

 よく考えてみれば、私と姉はこの二年間、VR通話以外はあんまり交流しなかった。

 GDEは。安全性テストのモニターのバイトをやった時使ったことがあったが、正直に言えば記憶に苦痛しか残っていなかった。そのため、GDEに対して軽いトラウマを抱いている。

 しかし、今回はあくまでユーザーとして使うことになるだろう。

 二年の空白時間の埋め合わせとして、家族と時間を共有できるチャンスがあるのは好ましいことだ。

「はいはい、わかりました」

 時に姉のわがままに付き合ってあげるのも悪くない。そう思いながら、私もルームの中に入った。

『何をすればいい?』

 GDEの中で、姉からVR通話が掛かってきた。

『前のやつはもう飽きたし、新しいものにしょうかな、圭介から何か要望は?』

『……私に聞かれましても』

『あっ、そうか、ごめんなさい。圭介はこの手のことに疎いよね……これはどう?リリース日は今日だって』

『どれどれ』

 姉から送られたウエブを見る。

『ザ・ワールド・オブ・バーチャル』?

 そのまんまか。

 ネーミングセンスは壊滅的としか言いようがないな。詳細について一応、目を通したが、どれも月並みな言葉で、特筆すべきところはない。

 ゲームとして分類されたが、ゲームの種類や遊び方については乗っていない。

 運営側のやる気は全く感じない。

 GDE用のアプリだが、そのほとんどは娯楽用である。

 旅行、グルメから風俗まで、基本的に第三産業を網羅している。

 さもありなん、そんな金を払って安全性テストでもさせたらデータ収集ところじゃなくなる。年間利用者数は年間ゼロでもおかしくない。

 一応どのGDEにも各種のテストのアプリが付いているが、それを開く酔狂な客はさすがにいないだろう。

 しかし、GDE専用のアプリを開発するには莫大な資金がいる。

 全部の感覚を完璧に再現させるのはやはり民間企業にとってハードルが高い。

 固定なデータによる実現はほぼ不可能であり、例えソロプレイのアプリでも、マザーサバーに繋がらなければ動作できない。

 現存のGDE用のアプリのほとんどは、VR設備用アプリの体験版くらいのコンテンツしか持たない。それでも政府からの支援なしでは完成できなかったという。

 もちろん、姉の性格も一因ではあるが、お世辞でもコンテンツ豊かとは言えないアプリを長く遊び続かないのも理解できる。

 姉によれば、このようにリリースしたばかりのアプリを遊び尽くし、あとでVR設備用アプリに切り替えるのがGDE付きのリゾート地を利用する人間の普通のやり方だ。

 GDEとVR設備は一方的な互換性があり、ほとんどのVR設備用アプリはGDE環境でも問題なく動作できる。

 補助脳の機能を活かせず、ゲーム体験はVR設備と全く同じだが、排泄介助などの機能はまだ使えるから普通のVR設備より遥かに優れているというのが姉の弁。

 トイレくらい自力で行けよと思ったが。もちろんそれを言葉に出さない。

『説明を読むのも面倒だし、おっぱじめとするか』

 どうやら姉は早速ゲームモードに入ったらしく、言葉遣いも一層荒くなってきた。

『はいはい』

 スイッチが入った姉に待たせて彼女の機嫌を害するメリットはないな。


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