#7 ロシア2日目その3
―1―
信号待ちしているとレギーナが話しかけてきた。
「そういえばお前、ロシア語上手いな。勉強したのか」
相変わらずレギーナは名前を呼んでくれない。
ユウタは前もって決めていた嘘をつく。
「うん。旅行前に勉強しておいたんだ」
「お前の国……中国だっけ」
「ううん。日本だよ」
「日本の学校ってロシア語の勉強とかしてるのか」
「してない。母さんと一緒に勉強したんだ」
「ふーん」
アンヌの事を出すと、興味なさそうな返事をするレギーナ。
何か話題を作ろうと、自分の家族のことを話してみる。
「僕は母さんと二人で暮らしてるんだよ」
「親父は?」
レギーナの言葉には棘があるように感じられた。
「父さんは……遠くに行ってて会えないんだ」
父であるダンは消息不明だが、死んでいるとは言えなかった。
行ってしまうと、父の存在がもっと遠くに感じてしまいそうだったから。
少し強い風が吹いてきた。
「ふうん。親父なんていない方が幸せだよ」
レギーナは額を覆う前髪を押さえつけながら冷たく言い放った。
暫く二人は無言で歩く。
(もう少ししてこのままだったら、ポリーナさんの家に戻ろうって提案しよう)
下を向いて歩いていると、頭をぶつける。
「痛っ、ゴメン……どうしたの?」
前を歩いていたレギーナが立ち止まり、ある一点を見つめている。
視線を追うと、向こうから歩道を歩いてくる小さな存在を見つけた。
「子猫だ」
淡い灰色と白の毛色の子猫が前から歩いてくる。顔にくっつくようにヒゲが後ろを向いているのが見えた。
子猫は首を左右に巡らせ何かを探しているようだ。
立ち止まったままのレギーナの前で止まった子猫は、上を向き助けを求めるようにか細く鳴いた。
ユウタが動き出す前にレギーナがしゃがみこむ。
そして、サバトラの子猫を抱き抱えた。
「お前迷子か?」
訪ねるレギーナの目尻は垂れ、とても柔らかな表情になっている。
抱き抱えられたサバトラは、全身を震わせ、何かを訴えるように鳴き続ける。
「そうか。親とはぐれたんだな」
「猫の言葉がわかるの?」
ユウタが質問するとレギーナはサバトラを見たまま首を振る。
「いや。でも小さいし、今にも泣きそうな顔してるから、多分そうだと思う」
立ち上がったレギーナはサバトラを抱き抱え、歩道の端に移動する。
「車道に出て万が一事故に巻き込まれたら大変だ。ここで少し待とうか」
ユウタにではなく子猫に話しかけたようだ。
レギーナに抱かれたサバトラは、震えも収まり、いつのまにか鳴き止んでいた。
後ろを向いていたヒゲも前を向き、抱きかかえてくれる人間に対して興味津々のようだ。
ユウタはそんなレギーナを見て確信を持って質問する。
「猫好きなの?」
「ん。動物全般好きだけど、猫は格別。見てるだけで嫌な事を忘れさせてくれる」
「それ、僕も分かるよ」
やっと会話のきっかけが掴めたと思うユウタ。
レギーナの隣にしゃがみサバトラの頭を撫でる。
撫でるたびに耳がピョコピョコと跳ねるのがとても可愛い。
「お前も猫好きなのか?」
レギーナがユウタの方を見て質問してくる。
「うん。三毛猫と一緒に暮らしてる。とっても仲良いんだ」
テレパシーで会話できることは伏せておく。
「へえー。いいなぁ」
サバトラが鳴いた。先ほどの弱々しい感じはなく、まるで「自分のこと構って」と言っているようだ。
鳴きながらキトンブルーの瞳でレギーナを見つめながら頭を擦り付けてくる。
「大分気に入られたみたいだね」
「……ああ」
返事するレギーナはとても嬉しそうな笑顔を見せる。
「もし、この子の親が現れなかったらどうするの?」
「そうだな――うわ、くすぐったいって」
ユウタの心配をよそに、子猫はレギーナに甘えていた。
「こら。こっちはお前の心配してるんだぞ」
目線を合わせて注意するも、猫は「遊ぼうよ」と言うように鳴き声をあげる。
「まったく……」
怒る気になれないのだろう。レギーナはもう一度抱き抱えた。
「何の話だっけ……そう、もし親猫が現れなかったら、保護してくれる場所に預けるしかないか」
「君が飼えばいいんじゃない?」
レギーナの顔が明らかに曇る。その曇りは猫という太陽でも晴れそうになかった。
そう苦しそうに言葉を吐き出す。
「家は、駄目だ。バァバ動物苦手なんだ……」
自分のせいで苦しい思いをさせてしまったが、どう慰めていいのか分からない。
それを救ってくれたのは、サバトラだった。
レギーナの頰をペロペロと舐める。
「お前、慰めてくれるのかよ。迷子のくせに」
再び笑顔になったレギーナは子猫を抱きしめる。
そんな時、気品溢れる鳴き声が聞こえてきた。
二人は声の方を見る。
声の主は白い毛色に黄色の瞳のしなやかな体躯の猫だ。
気づいたサバトラが、嬉しそうに鳴き声をあげ、レギーナの手から抜け出そうとする。
「おい暴れるなって。落ちたら危ない」
「あの綺麗な猫がお母さんかな?」
「子猫の嬉しそうな反応から見るに、そうみたいだな」
レギーナは抱えていたサバトラの子猫を下ろしてあげる。
自由になった子猫は、迷子の時とは想像もできないほどの勢いで駆け出すと、白い猫の周りをクルクルと回る。
白猫は子猫の動きを見極め、余裕の動きで子猫を咥えた。
捕まったサバトラは、一瞬にして大人しくなる。
親猫は子猫を降ろして二人の前にやって来ると、感謝を表すように鳴く。
サバトラはレギーナの足に擦り寄る。
「もう親とはぐれるなよ」
子猫は返事するように鳴くと、白い親猫と共に去っていった。
ユウタは親子猫に向かって大きく手を振る。
「バイバーイ」
白猫は手を振り返すよう尻尾を振りながら、建物の陰に入っていった。
「レギーナ良かったね。二匹とも再会できて」
「ああ。親子離れ離れなんて最悪だからな」
子猫が無事に親猫と合流したのを確認してから、ユウタは謝る。
「さっきはごめん。なんか嫌な事を聞いちゃったみたいで」
「ん? 気にしてないよ。それよりも行くところ決めた。モスクワ動物園に行くぞ」
「動物園?」
「ああ。マヌルネコ見に行こうぜ」
ユウタはピンと来ない。
「マヌルネコって猫なの?」
振り向きざまにレギーナが大声を発した。
「はあっ⁈ お前知らないのかよ」
「う、うん」
レギーナは自らのオーパスを取り出し、検索した画像を眼前に突きつける。
「これが、マヌルネコ」
オーパスの液晶に映るのは、長い毛並みで丸っこいフワフワ座布団のような灰色の猫だった。
「どうだ! 可愛いだろ! これが、これがマヌルたんだ!!」
その叫びは必殺技を出せそうな勢いだった。
背後に燃え上がる炎が見えたのは気のせいだろう。
「可愛いけど、機嫌悪そうだね」
液晶に映るマヌルネコは、ふてぶてしい顔をしてこちらを睨みつけているのだ。
「バカ。機嫌悪いんじゃないんだよ。こういう顔なの。この丸っこいボディとジト目のギャップが超可愛いんじゃないかー」
(この猫のジト目、レギーナが睨みつける時の表情に似てるかも)
レギーナはオーパスを抱きしめるような勢いで、熱弁する。
「早く会いにいくぞ……ん、もうこんな時間か、よし先にお昼食べに行こう。ほら早く」
レギーナはユウタの手を使んで、急かすように引っ張る。
その表情はとても明るくて、見ていると、嫌な事を忘れさせてくれる。
「わっ、引っ張らないでよ」
(マヌル『たん』って言ったよね。本当に好きなんだろうなぁ。僕も早く会ってみたくなってきた)
――2――
お昼を食べに、レギーナがよく行くファストフード店へ向かうことになった。
名前を聞いたら、日本にもあるお店で、ユウタもよく行くところだった。
聞くとロシアにしかないメニューもあるそうなので、それを頼もうと決める。
お店が見えてきたところで、急に呼び止められる。
「おい、レギーナじゃないか。何してるんだよ!」
前を歩いていたレギーナが大きく身体を震わせて止まった。
ユウタは声の主の方を見る。
一つか二つ年上に見える三人組の男子だ。
ユウタにとって見知らぬ三人なので、レギーナの知り合いだろうか。
「君の知り合い?」
当のレギーナは三人の方を見ずに顔を下げたまま固まっている。
「お前は離れてろ」
逃げれないと悟ったのか、レギーナはそう言ってユウタをその場に残して三人の方へ歩いていく。
その足取りはまるで足首に鉄球がくくりつけられているように重々しかった。
三人組の中央にあるリーダー格の男子が話しかける。
「レギーナ。返事しろよな」
他の二人はニヤニヤしていて、レギーナの味方をしてくれそうにない。
それどころか逃げれないように左右に広がった。
「悪い……」
レギーナは目線を下げたまま謝った。
「あの外人は誰だ。知り合いか?」
ユウタの方に視線を向けた事に気付いたレギーナが慌てて言い繕う。
「違う。今さっき会ったんだ。道に迷ったって話しかけられただけだ」
「あっそ」
リーダーはユウタから興味を無くしたようだ。
「それよりさぁ。最近学校来ないじゃん」
レギーナは視線を下げたまま答える。
「……ちょっと体調が悪くて、中々具合が良くならないんだ」
大きな塊を無理やり吐き出すような声で返事をした。
「へえ。具合悪いのに外歩いていいんだ」
苦しい言い訳をしてしまった事でレギーナの頭がさらに下がる。
「ちょっとした気分転換だよ!」
「気分転換は大事だよな。でも体調不良か。俺はてっきりあの事件のせいかと思ってたよ」
レギーナの身体がまた大きく震えた。
少し離れた場所にいるユウタは、聞いてはいけないと思いながらも耳を傾ける。
「みんな知ってるんだぜ。お前の親父がお前に暴力振るってた事をな」
「それは、嘘だ」
レギーナの反論は弱々しく、真実だと認めているようなものだった。
「いいや。ニュースにはなってないが、捕まったところ見た生徒がいるんだよ。ネットにも拡散してるから生徒全員知ってるぜ」
左手で額を抑えたまま、レギーナは何も言えない。
後ろから見ているユウタには、彼の背中が小刻みに震えているのが見えた。
「親父に暴力振るわれて誰に助けてもらったんだ? 当ててやるよ。ママに助けてもらったんだろう?」
ここで始めてレギーナの母親の事が出て来た。
「お前のママは子離れができてないからな。昔、いじめられてたお前を助けるために乗り込んできた事は今も有名な話だもんなぁ!」
リーダーが笑うと、取り巻きも煽るように笑い出した。
関わりになるとトラブルに巻き込まれてしまう。
それが分かっていても、ユウタは見て見ぬ振りはできない。
レギーナの元に向かうために、左足を一歩踏み出した。
その間もレギーナを虐め続けていたリーダーが近づいてくるユウタに気付いたようだ。
「なんだ? あの外人こっちに近づいてくるな」
レギーナは慌てた様子で声を荒げる。
「あいつは関係ない! ほっといてやってくれ」
「あんな弱そうなやつ何にも出来ねえよ。そうだいいこと思いついた」
リーダーは自分のポケットからオーパスを取り出して、液晶に指を滑らせていく。
レギーナも、相手の意図が分からないようだ。
「何してるんだよ?」
「お前の恥ずかしい写真を見せてやるぜ」
レギーナの頰に恥ずかしさと怒りの混じった赤が差し込まれる。
「やめろ! それを見せるな」
動こうとしたレギーナ。だが取り巻きに取り押さえられる。
「あの外人がどんな顔するか見ものだな。おい、こっち来いよ」
レギーナを虐めていた男子がユウタを手招きする。
「呼ばれてる?」
ユウタは自分を指差しながらレギーナの所へ近づく。
レギーナを指差しながらユウタに話しかける
「あんたレギーナの知り合いなのか?」
「はい」
何が起きてもいいように身構える。
「違うって――」
「お前は黙ってろ。そうか、じゃあこの写真見て感想教えてくれ」
ニヤニヤと笑うリーダーが持つオーパスに一人の少女が写し出される。
白黒のエプロンドレス姿で、金色の髪のショートカットを飾るのは白いフリル付きのカチューシャ。
目の前にいたら思わず抱きしめてしまいそうだ。
(どこかで見たことある?)
その少女は床にしゃがみこんで、恥ずかしそうに顔を赤らめ、眉は下がり、切れ長のグレーの瞳には涙が滲んでいた。
「この女の子……レギーナ?」
「よく分かったな」
リーダーはオーパスをスクロールさせ、いろんな角度から取られた女装姿のレギーナを見せてくる。
「こいつ女みたいな名前に、こんな見た目だろ。だから去年の卒業式に着させたんだよ。おかしいだろ男が女の服着て似合うんだぜ」
レギーナを虐めていた三人が大笑いする。
それがレギーナの怒りの導火線に火をつけてしまった。
「うあああ!」
周りが萎縮するほどの叫びを上げて、リーダー格の少年に向かって殴りかかる。
「駄目!」
レギーナの拳が殴ったのは、咄嗟に前に立ったユウタの左頬だった。
「あっ」
「殴るのはやめて。お願いだから」
レギーナは拳を下ろす。
ユウタはそれを見て頷き、リーダーの方に振り返った。
「レギーナを虐めないでください。それに……」
写真を見て、率直な感想を叫ぶ。
「それに、この姿おかしくなんてない。とても可愛くて、似合ってます」
レギーナの顔がみるみる真っ赤になっていく。
「お、お前何言って……」
リーダーはユウタの一言を受けて、眉を寄せて一歩引いた。
「な、なんだこいつ。変な奴」
リーダー達は理解できなかったのか、顔を見合わせている。
ユウタは今がチャンスと感じ、レギーナの手を引いて駆け出す。
「逃げよう」
出遅れたリーダー達は手を伸ばしたまま追いかけようとしたが、入れ替わりにやって来た警察官に捕まった。
ユウタとレギーナは一目散にポリーナの家に戻る。
家に着いた時には涼しい気温の中でも二人共汗だくになっていた。
――3――
レギーナの手を引いたまま集合住宅の階段を一気に登り、ドアを開けると後ろ手で勢いよく閉めた。
追われていないことが分かっていても、一刻も早く安全な場所に逃げたかったのだ。
二人して何度も深呼吸して肺に酸素を取り込んでいく。
扉を閉めた音に気付いたのか、エプロン姿のアンヌが顔を見せる。
「お帰りなさい……二人ともどうしたの⁈」
帰ってきた二人が汗だくな姿を見て血相を変えた。
レギーナが返事しないので、ユウタが代わりに答える。
「ちょっと、色々あって」
「色々って何……ほっぺ腫れてるじゃない。誰かに殴られたの?」
「ああ、これは……」
「今冷やすもの持ってくるからね!」
アンヌは理由を聞くまえにリビングに行ってしまった。
リビングから声が聞こえてくる。恐らくポリーナも一緒にいるのだろう。
レギーナが掴まれていた手を引っ張ってきた。
「手、離してくれ」
ユウタはずっと手を掴んだままだったことを思い出し、慌てて離す。
「ごめん!」
レギーナは何も言わずに俯いたまま歩き自室に入っていってしまった。
入れ違いに、ポリーナとタオルを持ったアンヌがやってきた。
先に話しかけてきたのはポリーナだ。
「ユ、ユウタ君。何があったの? レギィは無事なの?」
「はい。彼は部屋に戻ってます」
「一体何が……」
ポリーナはレギーナの部屋に向かおうとする。
「ポリーナさん。その、少し混乱してるみたいなんです。だからあんまり問い詰めないであげてください」
両手を胸の前で組みポリーナは、何があったのか察したようだ。
「……分かったわ」
ユウタの側にいるアンヌがポリーナの方を向く。
「ユウタの事は私に任せて」
頷いたポリーナはレギーナの部屋の前に立つと腕を動かす。ノックしていいか迷っているようだった。
部屋に戻ると、アンヌに冷えたタオルを手渡される。
「これ、頰に当てなさい」
「ありがとう」
赤くなった頰に当てると、冷たさによって痛みと熱が引いていった。
「少し楽になったよ。ありがとう母さん」
心配そうに見つめていたアンヌはその言葉に安心したのか、胸に手を当てながら隣に腰掛ける。
「もう心配させないで。お母さん犯罪か何かに巻き込まれたかと思ったわ」
アンヌに頭を撫でられると、気のせいかタオルを当てるよりも痛みが引いていく気がした。
「大丈夫だよ。悪い奴に絡まれても、僕なら簡単にぶっ飛ばせるもん」
冗談を言って場を和ませるつもりが、アンヌは今にも泣きそうな表情のままだ。
「あ……心配かけてごめんなさい」
「謝らなくていいわ。でも何があったか話してくれる?」
アンヌに髪を撫でられるたびに、ユウタの心も落ち着いていく。
ユウタは一部始終をアンヌに話した。
「そんな事が、じゃあレギーナ君を守るために前に出たのね」
「うん。だからレギーナの事は責めないで」
「責めたりなんてしないわ……んん」
そこまで言ったところでアンヌが近づいてきた。
「な、何、母さん?」
密着するほど近づかれて、体温が上がってくる。
アンヌは立ち上がると、部屋の扉に手をかけてから笑顔で振り返る。
「お風呂沸かしてもらうから入ってきなさい」
アンヌが部屋を出てからユウタは自分の臭いを確認する。
ちょっと鼻につく臭いがして、絡まれた時よりも嫌な気分になった。
―4―
お風呂が沸いた事をアンヌから知らされ、ユウタは着替えとバスタオルを持って浴室へ向かった。
廊下を挟んだところにある浴室のドアを開ける。
トイレとバスルームが一緒になった部屋で、仕切りによって区切られていた。
「濡らさないように気をつけないと。ってどこで脱いだらいいんだろう?」
脱衣所は見当たらないので、トイレで服を脱ぐ。
タオルで前を隠しながら仕切りを外すと、熱気が全身を覆い尽くす。
浴槽の大きさは人一人が入れるほどの大きさだ。
身体を洗う前に、湯気の立つお湯を見て抗えなくなり、爪先を湯船に浸けてみる。
ちょっと熱いと思ったが、それも一瞬の事。
ユウタはゆっくりと全身を浸からせる。
「ああ〜〜気持ちいい〜」
誰もいない事をいいことに、細胞が活性化していく心地よさを声に出して表現する。
熱っついお湯に浸かっていると、さっきの嫌な出来事も一緒に溶け出していくような感覚になった。
手でお湯を掬って顔を洗っていると、あることに気づく。
「どこで身体洗えばいいんだ?」
石鹸が置かれているのでこれを使うのだろうが、浴室はほぼ浴槽に占領されていて、身体を洗うスペースがない。
浴槽から出て洗おうと思っても、仕切りが邪魔だし、トイレも水浸しになってしまうだろう。
「オーパスで検索……部屋に置いてきちゃった。誰かに聞いておけばよかったなー」
その声が聞こえたのか、バスルームの扉がノックされた。
無防備な格好なため、少し警戒しながら返事する。
「誰?」
聞こえてきたのはいつも聞く安心できる声だった。
「お母さんよ。入るわね」
返事を待たずにアンヌは入ってきた。
何かを小脇に抱えたアンヌのシルエットが仕切りに映る。
「お湯加減はどう?」
ユウタは無意識に前かがみになって返事する。
「うん。ちょうどいいよ」
「よかったわ」
アンヌは出て行かない。何をするかと思ったら衣摺れの音が聞こえてきた。
「えっと、母さん何してるの? もしかしてトイレとか。だったら僕出るよ!」
浴槽から上がると同時に仕切りが開かれた。
バスタオルを身体に巻いたアンヌと目が合う。
「お風呂一緒に入りましょう」
「うん? ええっ⁈」
想像していなかった提案を聞いて、前を隠すことも忘れてしまった。
「ほら。少し詰めて……はぁ気持ちいい。何突っ立ってるの風邪ひくわよ」
「うん……じゃなくて何で入ってくるの⁈」
「何でって。母子だからおかしくないでしょ。それに小さい頃は一緒に入ってたじゃない」
アンヌは『何かおかしな事ある?』と言いたげに首を傾げた。
「そんな小さい頃の事覚えてないよ!」
「いいからら入りなさい。本当に風邪引いちゃうから」
アンヌに両肩を抑えられ、くるっと半回転されて座らされてしまう。
一人入ればきつい浴槽に母子で入る。
お湯の熱さ以上に、どうしてもアンヌの温もりと柔らかさを感じてしまい気が気でない。
アンヌは浴室傍に置かれた石鹸を手に取る。
「もう身体洗ったの?」
「ま、まだだけど、洗うところなくて」
「やっぱり知らないのね。ロシアではこの中で洗うのよ」
アンヌは浴槽に入ったまま泡だてた石鹸で身体を洗い出す。
「母さん。お湯が泡まみれになっちゃうけど」
「大丈夫。お湯は入るたびに入れ替えるみたいなの」
アンヌが身体を洗い終えると、まるで入浴剤を入れたように浴槽が泡まみれになった。
全身を洗い終えたのかユウタの背後でアンヌの動きが止まる。
背中に視線を感じた。直後に背中に泡に包まれたしなやかな感触を感じた。
「うひゃっ!」
驚いて浴槽のお湯が跳ねて仕切りに飛んでいく。
「な、な、な、何するの母さん!」
驚くユウタと違い、アンヌは落ち着いているようだ。
「せっかく一緒に入ったんだから、小さい頃みたいに洗ってあげるわ」
アンヌの瞳に映るユウタの姿はとても幼く見えた。
抗えないと観念したユウタはもう一度お湯に浸かって背中を向ける。
「じゃあ、背中、お願いします」
それだけなのに、アンヌの返事はとても嬉しそうな声音だ。
「はーい」
アンヌが泡だてた石鹸を両手で広げ背中を洗っていく。
「まだまだ可愛いのに、こう触るとしっかり筋肉ついてるのね。逞しくなって」
ユウタは恥ずかしくって返事する余裕もなかった。
その間に背中で動いていた手が止まる。
「背中終わり。はい、こっち向いて」
理由はなんとなく察しがついているが、聞かずにいられない。
「何で?」
「前も洗ってあげるわ」
アンヌは石鹸を手に持ち新たな泡を作っていく。
「いやいや。大丈夫! 背中だけでいい。自分で洗うから」
背中ならまだしも、流石に前を洗ってもらうのは見えてはいけないものが見えてしまう。
ユウタはアンヌから石鹸を奪い取る。
「僕洗えるから大丈夫。ありがとう」
アンヌが行動する前に石鹸を身体に塗りたくるように素早く洗う。
「もう、お母さんに任せてくれてもいいのに……」
背中から聞こえるアンヌの声は拗ねているようだった。
身体を洗い終えたユウタは、アンヌの視線を背中に受けながら頭を洗おうとする。
「あっ」
しかし、いつもは使わない石鹸が手から滑って浴槽の中へ沈んでいった。
拾おうとしたら、先にアンヌに拾われてしまった。
「頭洗うんでしょ。洗わせて、いいでしょ、ね?」
その母の頼みは断りきれなかった。
「じゃあ、お願い」
それを聞いたアンヌの表情が晴れ渡る。頰が赤いのはお湯のせいだけだろうか。
鼻歌交じりのアンヌは石鹸を泡立て、ユウタの頭を優しく洗い始める。
「ふ〜ん、ふふ〜ん。ふん、ふふ〜ん」
母のしなやかな指が頭皮を撫でるように動き、上から下に向かって気持ち良さの波が降りていく。
「はぁ〜」
思わず声が漏れてしまった。
アンヌは指を動かしながら尋ねてくる。
「気持ちいい?」
「うん。とっても良い気分」
何だか恥ずかしさも何処かへ行ってしまった。
髪を洗いながらアンヌが口を開く。
「ユウタは偉い」
「偉い?」
「ええ。レギーナ君を助けたじゃない」
「当たり前のことだよ。母さんに言われた通り変身もしなかったし」
それは以前イジメの現場に介入した時、変身して助けた事をアンヌに話した事があった。
『母さん。僕変身して、いじめられている子を助けてきたよ』
誇らしく言うと、アンヌは顔を曇らせる。
『僕、悪い事した?』
『ううん。悪い事なんてしてないわ。けれど気をつけて欲しいの』
アンヌはユウタの両肩に手を置く。
『ユウタの力はとても強力なのは分かるわね? だからこそ無闇に力を使っては駄目。貴方の力は簡単に命を奪えるのだから』
母の言いたい事が分かって、ユウタはその言葉を心に刻みつけて頷いた。
意識が現実に戻ると、アンヌが何度も褒めてくれていた。
「そうね。偉い、偉いわ」
アンヌは髪を洗う手を止め、ユウタの頬を撫でる。
「母さん。もう痛くないから」
「分かってます。けれど、心配させないでね。お母さん本当に心臓破裂しちゃうから」
「うん。気をつけるよ」
ユウタは改めて決意を固める。
「母さん。僕頑張るから応援しててね」
「もちろん。ずっと応援してるからね」
髪を洗い終えると同時に、アンヌに後ろから抱きしめられる。
「だわっ母さん!」
「いいから」
お風呂に上がった時、別の意味でのぼせてしまうユウタであった。




