その5
中途半端に残ったキャベツの中心部、冷凍保存を施していた豚肉の細切れ、野菜室の奥に転がっていたニンニク、半分にカットされて放置してあったニンジン、トドメは本当に微妙な量しか残っていない焼肉のタレ。
買い物をすっかり忘れていた僕は、冷蔵庫の中にあるものだけで夕飯を作ることになった。幸運なことに豚とキャベツの炒め物がちょうど出来そうな具材がゴロゴロと冷蔵庫の中に転がっており、未知の余り物料理の探索という冒険はしなくてもよさそうだ。
キャベツと豚肉炒めの他には、非常食として溜めこんでおいた冷凍食品から餃子をチョイスし、これまた冷蔵庫から発掘したタクアンを添えて、買いだめしておいたインスタントみそ汁に増殖ワカメちゃんを投入、勿論主食は白米だ。新規購入せずとも冷蔵庫の中身だけで一回くらいなら結構まともな食事が仕上がるのか。
お客さんであるレシルには手伝いをさせずにちゃぶ台の前に座らせて待っていてもらっている。
彼女が現在通っているというエルトニア王国立魔法騎士学園では食事についてどうなっているかは知らないが、国の中でも大きな貴族に入るフォルガント家の娘として入学しているレシルのことだ、十中八九自炊はしていないだろう。先ほどから妙に視線を感じるのも、もしかしたら彼女にとって食事が目の前で作られているのが珍しいからかもしれない。
『あーっと、ワンバウンドボール。またもフォアボールです!! これでツーアウトながら満塁のピンチ!! 内野手がマウンドに――』
「また初回炎上の流れかよ。レシルー、机の上にある直方体の物体の、十二個同じようなボタンが並んでいる中のどれでも良いから押してくれないかな」
「うん。分かったー」
ラジオがてらに着けていたテレビの野球中継では、試合開始から間もないにもかかわらず焦げ臭い展開となっているようだ。幸いリモコンの使い方を間違えなかったレシルのおかげで大参事の現場の目撃だけは回避できそうだ。威勢のいい実況アナウンサーの声がプツリと立ち消え、淡々とニュースを解説していく落ち着いた声に切り替わる。
「兄さんっていつも自分で食事を作っているの?」
「なるたけ作るようにはしているよ。外で食べてばかりだとお金がかかるしね」
「そっか……昔は使用人たちが食事を作ってくれてたし、兄さんが料理をしているのをみるのは初めてかもしれないな」
庶子とは言えども貴族の系譜の僕たちだ。衣食住に困ることなく育った幼少期においては、確かに自炊をした経験は無い。精々が野外に飛び出したときに釣った川魚をたき火で焼いたりした程度か。
そんな僕が今では余り物で夕飯を作れるまで成長したのだ。食べている物のグレードは間違いなくダウンしているが、これが現代を生き抜いていく術なのだから僕は全く恥じるつもりは無い。
「あんまり期待はしないようにね。間に合わせの物しか作れないから」
「ううん、兄さんが作った料理だからすごい楽しみだよ!!」
全く嬉しいことを言ってくれる。人に自分が作った料理を食べて貰えるなんてそうそうある機会じゃないから、僕自身楽しみでもある。
加熱したフライパンの上で焼いている冷凍餃子が香ばしい匂いを漂わせ始めた。コイツらを皿にのせて、前もって沸かしてあるお湯をインスタントみそ汁の具を入れたお椀に流し込めば、今日の夕飯は出来上がりだ。少し多めに作っていることだし明日の夕飯にも転用できるだろう。
「そろそろ出来上がるからねー」
「兄さん手慣れている……」
いくら生まれてから十数年間使用人に頼ってばかりの生活をしていたとは言え、そんな状態からでも数年一人暮らしを続けていれば嫌でも家事のスキルは上昇していく。料理を作る際も死んだ待ち時間というのが段々と減って来ているのが自覚できる。
餃子を適当に並べた皿を持ち上げ、お腹を空かせている妹の元へと持って行こう。そんな時だった。
――ピンポーン
来訪者の存在を告げる鐘の音、なんて言ったら格好いいかもしれない。我がアパートのドアチャイムは年代物のせいかどこかくぐもった怪しい音色を持っているため、移り住んだ当初は来訪者がベルを鳴らすたびに驚いたりもしていたものだ。
普段だったら居留守の一つでも使おうかと思う所だが、今日に限って言えば僕は機嫌が良い。なんたってレシルと再会できたうえに、その間に作ってしまったわだかまりも解消できたのだから。
「え!? な、なに今の音!?」
「なあに、ただの呼び鈴だから怖がることは無いよ。誰が来たのかちょっと確認してくる」
普通のベルの音ならばまだしも、鳴り終わりで音階が半オクターブ下がる不気味な響き方をするから、初めて聞くならばこれぐらいの反応は想定の内だ。手に持った餃子の皿をちゃぶ台に置くと僕は玄関の方へ引き返した。時間は既に六時半近く、新聞の勧誘にすると少々時間がずれすぎているような気がする。果たしていったい誰だろうか。
「はーい、どちら様ですかー?」
「あ、レイ? ちょっとお願いがあるんだけど、開けて貰っていい?」
誰かと思ったら、先ほど一緒に帰るという選択を回避した藤沢さんじゃないか。扉に掛けた手が、思わず凍りついたように止まる。
「え、ええとどうしたんだい? こんな時間に訪ねて来るなんて」
「それがさ、急にウチの炊飯器が壊れちゃってね。お米炊こうとしてもうんともすんとも言わなくて……今度埋め合わせするから、今夜はそっちで一緒に食べてもいいかしら」
ご飯はたくさん炊いてある。主菜も余り物を一掃したために大目に作ってある。味噌汁もインスタントだからお湯を沸かせばそれで終わる。しかし彼女を僕の部屋に入れてしまえば、レシルと鉢合わせをすることになってしまう。
川崎さんに言われたことを思い出す。今日言われた情報を漏えいさせてはならない。その約束は、レシルと藤沢さんがかち合っただけで簡単に破り捨ててしまうことになりかねない。
「あ、あはは……じ、実は僕は今日もう外で食べてきちゃったんだ」
「そう……なら炊飯器だけ使わせて貰っていいかしら? 夕飯が食パンっていうのは避けたいし……あとなんでドアを閉めたままなの?」
「えーとだね……ちょっと僕の所も炊飯器がぶっ壊れててさ」
「……もしかして、今日のこと、まだ許して貰えてていないの?」
なんとか言い訳をつけて彼女にこの部屋への進入を諦めて貰えないか苦心していた僕の耳に、急にトーンを下げた藤沢さんの声が届いた。
「……叱られた時に自分の認識の甘さに気付かされたわ。特殊な力を持っている以上、一層科学者倫理に気を使わなければならないことも分かった。でも、まだ私の考えに甘さが」
「ああ、もうっ」
この子は存外に長く引きずるタイプの人間なのか。後ろを見て玄関からは妹の姿が死角になって見えないことを確認すると、僕は仕方が無く扉を開け放った。そこには案の定、僕が扉を開けたのを驚いた様にして見つめる藤沢さんの姿があった。
「さっきも言ったでしょ。失敗から学ぶことが重要だって。それに僕は一度説教を終えた後にネチネチ嫌味を言う性格じゃありません!!」
「レイ……うん、そうよね……良かった」
また叱られるのではないかと思っていたのか強張った表情の藤沢さんは、ヤケクソになって放ったフォローによって安心させれたようだ。それにしても根に持つ性格だと言われたような気がして心外である。
一転して僕が不満げな顔になり、藤沢さんが安心したように笑う。ひとまず解決といったところか、ちょっぴりの小競り合いもここまでかなと思った僕は、再度扉の取っ手に手を掛けた。
「まあそういう訳だから、今日はごめんね。おやすみ」
「……ちょっと待って」
後少しで扉が閉まるかなという所で、藤沢さんがガシリとドアノブを掴んで阻止した。鼻をスンスンと鳴らして顔を段々と剣呑な物へと変えていく様子を見て、思わず口から変な声が出てしまう。
「ヒィッ!? ど、どうかしたのかな?」
「アンタさっきは外で食べてきたって言ったわよね。でも何だか妙に香ばしい匂いがしないかしら」
冷や汗を流しながらなんとかドアを閉めようとするが、扉と玄関の間に身を乗り込まれては僕の腕力が貧弱であろうとなかろうと、もはや扉を閉めることは叶わない。
玄関の近くに台所があり、そのすぐ奥にはリビングがあるという間取りが原因だ。夕飯の炒め物や餃子の匂いが玄関でもはっきりと分かるくらい漂ってきている。胡散臭そうに此方をみる藤沢さんに果たしてどう言い訳をしたものか。冷や汗を垂らしながら考えている僕の背後で、更に最悪な音が響いた。
「兄さん!! ご飯冷めちゃうよ!!」
「あっ」
思わず後ろを振り返ると、リビングから顔を出して不満げな声を漏らす我が妹の姿。自分の顔から血が引いていくのがびっくりするぐらい感じ取れた。ギギギとぎこちなく首を後ろにやれば、妹の姿をばっちりと目撃しちゃった藤沢さんがいましたとさ。
「ねえレイ。ちょっと話を聞かせて貰えるかしら」
「あれ? 兄さん、お客さんってこの人?」
川崎さん、先に謝っておきます。あなたとの約束、どうやらその日の内に破ることになりそうです。
* * *
直径が僕の身長にも満たない、一人暮らしには手ごろなサイズの丸ちゃぶ台。普段は一人でこのちゃぶ台で食事を摘まみながらテレビをぼんやりと見るといった夕飯タイムを満喫しているが、今日に関しては大分様相が異なる。
僕の右斜め前では銀髪の髪の少女が少し不満げな様子でキャベツをフォークでつつき、左斜め前には赤紫色の髪の後輩が隣に座る少女と僕を見比べて何かを言いたそうな顔を浮かべている。このどんよりとした空気に耐えられなくなってチャンネルを野球中継に戻したテレビをわき目で見ていたら、鋭い目で僕を見据える藤沢さんがリモコンを引っ掴み電源ボタンを押して消してしまった。
「レイ、この女の子ってどちら様?」
「え、ええとねえ……田舎から東京に遊びに来た妹がウチに泊まりたいって言ってさあ」
「へぇ。正直に妹さんと認めたのは感心するわね。ところでその田舎ってどこかしら」
僕は間違ったことは言っていない。そう言えば藤沢さんには、僕には双子の妹が居るという話をしたことがあったか。そんな彼女に馬鹿正直にレシルを妹と言ってしまうなんてなんたる不覚。しかし良く似た他人ですよと言ったところで彼女は絶対に納得しないだろうな。流石の僕も翻訳魔法を介してだが日本語を流暢に話す僕によく似た銀髪少女を、さっきそこで意気投合した赤の他人ですと言い張る豪胆な精神は持ち合わせていない。
「ねえねえ!! 僕と兄さんの夕食会にいきなり混じってきて、結局君は誰なのさ?」
「あなたはレイの妹さんね。まだ自己紹介が済んでいなかったわ。私はあなたのお兄さんと同じ学校で勉強している藤沢レナといいます」
僕に向けていた胡散臭いものを見るような顔つきから一転して急に柔らかい笑顔を浮かべる藤沢さんに、レシルは調子を崩されたように困った顔で首を傾げた。
「ええと、ボクは……レシルっていいます」
フルネームではなく敢えてニックネームをチョイスしてくるあたり、多分彼女も川崎さんから言われた約束を守ろうとしているのだろう。少し表情を硬くしたレシルの顔を覗き込んだ藤沢さんは、小さく笑顔を浮かべた。コイツ絶対悪巧みしていやがる。
「レシルちゃんね。多分私はあなたと同じ国の出身よ。故郷ではヘレナ・ヴィクトリウス・エルトニアと名乗っていたわ」
「……えっ!? ヴ、ヴィクトリウス・エルトニアって……あわわわわ」
まずレシルはいたずらっ気に笑う藤沢さんの顔を見つめ、次に特徴的な赤紫色の髪の毛を見つめて目を見開き、最後に僕の方へ助けを求めるような視線を向けてきた。流石に現役のエルトニア人、しかも貴族社会にもまれて育って現住所は王都な彼女だ。名前を聞かされたら一発で藤沢さんが王族の一人だと分かるよね。
「に、兄さん!? なんで殿下がこんなところにいるのさ!!」
「どうしてって……炊飯器が故障してしょうがなく来たんだろ」
「いやそうじゃなくって!! てか、彼女ってボク達がまだ小さかったころに行方不明になった……」
「あら、よく知っているじゃない。8年前まで王女として振る舞っていたのも今じゃ良い思い出よ」
ターゲットが我が妹へと移った事だしチャンスかもしれない。手をするするとリモコンへと伸ばし、あと数センチで野球中継をつけることが出来るとこまで来た。そして手が触れるか触れないかという所で、慌てふためくレシルを見ていたずらっ気に笑っていた藤沢さんが瞬時に僕へ鋭い視線を飛ばした。
美人さんが怒ると怖いというのは本当のようで、鋭く睨まれると思わず委縮してしまい手をすごすごと引っ込める。僕の方が精神的には年上のはずなのに、なんだか逆らっちゃいけない雰囲気を感じる。
「まだアンタへの話は終わってないからテレビは禁止。王族についても知っているし、そもそもアンタの妹さんだし。彼女どう考えてもエルトニア人じゃない」
「ええと、これには深い訳があってだね……」
さて、一体どう話したものか。馬鹿正直に本当のことを話してしまい、川崎さんとの約束をいきなり破るか。それともレシルも別経路で東京へと流れ着いたと嘘を話すか。
多分後者を選択しても、上手く話せば疑念は残るかもしれないが真実を隠し通せるだろう。彼女がレシル関連で知っている情報はあくまでも「僕に妹がいる」のと「僕が妹をエルトニアに残して此方の世界に来た」くらいだ。僕が転移した後に彼女が何かに巻き込まれてこっちに漂流してきたと言っても、藤沢さんにはそれを嘘と断言する証拠もない。
「カ、カワサキさんから聞いてないよ……行方不明になった殿下がトウキョウに来ているなんて……」
「レシルちゃん、川崎さんってどなたかしら」
「ええと、ガイムショウってところの役人さんで……ってウソウソ!! 今のは忘れて下さい!!」
動転していた妹は、ぶつぶつと漏らしていた独り言に目敏く気が付いた藤沢さんに、あろうことかとんでもなく重要な情報を漏らしてしまった。知らない知らないとブンブン頭を振るレシルの姿に藤沢さんは少々の罪悪感を感じたのか、優しく彼女の頭を撫で始めた。その一方で僕はどんどん逃げ道が塞がれていく状況に目が回り始めた。
「ええと、彼女は僕に遅れること三年でこっちに辿りついて……」
「その言い訳は通用しないわ。どうせレシルちゃんも私たちと同じ経路を辿って来たとか言おうとしていたんでしょ。でも彼女は外務省と繋がりがあると漏らしてしまった。ただの戸籍も怪しい漂流者が、何で外務省なんかと関わりを持つのよ」
外務省が関わってきているということは、つまりレシルの存在が外交上の取扱いになっていることと同義である。パッと思いつく言い訳がもはや見つからず、正直もう手詰まりだ。降参と言わんばかりに僕は両手を上げた。
「あーあ駄目だもう隠しきれなーい。一応言っておくよ。妹の件に関しては完全に機密事項だ。僕個人が秘密だと喚いている訳じゃなくて、外務省の役人に直々に言われたんだ」
「……私が無遠慮に言いふらすように見える? それに、予想だけどその事情は多分私も無関係とは言えないんじゃないかしら」
「たしかにそうさ。無関係どころか、君の人生の今後に関わる話しかもしれない。良いか、絶対に言いふらすなよ」
「分かってるっての」
結局こうなってしまったか。なんとか誤魔化せないかなと思っていたが、エルトニアに居るはずのレシルが東京にいるという案件に外務省が関与していると知られたからには、もはやエルトニアと日本に極秘の外交ルートが築かれていると予想させるには十分すぎる。
責任を転嫁するならば、このアパートの周りを巡回しているSPさんが藤沢さんが部屋に侵入してくるのを阻止しなかったことだ。本当に情報を漏えいさせたくないのならば、僕の部屋を訪れようとする人間を片っ端から排除をするべきだった。大分むちゃくちゃな理論なのは自覚をしているが、藤沢さんにばれてしまったのは完全に僕のせいとは言い切れないはずである。
「……ことの始まりを話す前に、まずは身近な所から。来年から僕らは大月キャンパスに異動だったよね」
「ええ。でもそれがレシルちゃんと何の関係があるのよ」
「聞いて驚け。大月に作られてんのはあくまで玄関口で、実際の異動先は国立東都工科大学リーヴェル校だ」
どうしようどうしようと口から漏らしながら死んだ目で頭を抱える妹の背中をポンポンと叩きつつ、藤沢さんにそんなことを言い放った。最初こそ彼女は意味の分からないといった顔をしていたが、僕が言った内容を理解するや否や、結構なお点前の顔芸を披露しながら驚愕の叫び声を上げた。