その6
「ヘ、ヘレナ姉様……今、何と仰られたのですか?」
これまでになく震えた声色で、ライル殿下が藤沢さんへ聞き返す。別に藤沢さんの声が小さくて聞き取りにくいからだとか、言った内容が煩雑過ぎたとか、そういうわけではない。今しがたの彼女の発言内容は、彼をここまでうろたえさせるほどの意味を持っている。
王位継承権の破棄、それは王家という一族に許された最上級の特権を捨てることに他ならない。自分の記憶の限りでは古今東西でそのような権利を破棄するに至った例は数あれど、どれも事情は特殊なものだ。何か良からぬことを企んで強制的に王位継承権をはく奪されたり、はたまた他の国に婿入りするか何かで国から離れたり等々、権利を捨てる背後にはその人自身以上の大きな思惑が働いている。それを考えると藤沢さんの自分の意志で王位継承権を捨てると宣言する行為は、前例から見れば特異に尽きる。
「ヘレナ。自ら王位の継承権を捨てるということは、エルトニアの名をも放棄することになる。君は王家という身分を捨てようとしているんだ。その意味を分かっているか?」
そしてやはりと言うべきか。ライル殿下がそんな空前の宣言を前にしてうろたえる様子を隠せずにいるのとはまるで対照的で、ライア王女はさも当然といった風に藤沢さんの意志を淡々と確認している。藤沢さんをめぐる一連の事柄の背後に川崎さんが関わっているという疑念を持った今では、ライア王女も全てを前々から把握をしていたのではという予想が浮かぶのは当然だ。
「私は、それを理解したうえで宣言しました。王女としての全ての地位が消えてなくなることは覚悟の上です」
藤沢さんは、よどみなくそう言い放った。言葉の意味を理解していないなんてとんでもない。彼女は全てを分かったうえで、それを良しとして地位を捨てようとしている。エルトニアという王政国家において、王家の持つ権力は計り知れない。国そのものを司る王や王妃は勿論のこと、例え王とならなくても一族の血を引く人間の多くは国の要職に就任している。事実、ライア王女は外交の要として日本との関係を取りまとめる地位に居るのだ。藤沢さんの行動は、つまりはそのような約束された地位全てを無いものにするということだ。普通の王族であれば、まず行動の選択肢にも上がるはずはない。
だけどエルトニアでの特権など日本で暮らす分にはチリ紙の切れ端よりも役に立たない。
「……これが、君の決着だというのか」
確かに、藤沢レナの決断としては紛れも無く妥当だ。しかしヘレナ・ヴィクトリウス。エルトニアの決断としてみたら到底まともな判断とは言い難い。それを考えると、彼女の宣言からはエルトニアの国そのものとの繋がりさえも無かったことにしようとしている雰囲気すらも感じてしまう。
「ええ。これが私なりのけじめ、そして私という現状に向き合った結果よ」
彼女はどこか吹っ切れたような、それなのに何故か憂いも垣間見える表情を浮かべていた。何かを成し遂げたその脇で、何かを失ったかのような様相。
エルトニアという国の存在そのものが、ずっと彼女が心のどこかで抱えていて、それでいながら解決というアウトプットに持ってこれなかった一つの問題だった。行き来出来ないと信じていた世界がつながり、そして彼女の帰還をただ願う実の弟に追い込まれ、彼女は答えを出すことを強いられてきた。その決着が、これなのか。
「……一体何が、何が貴女をそこまでさせる!? それほどまでにエルトニアに、そしてこの王家に嫌気がさしたか!?」
たまらずといった様子でライル殿下が叫ぶ。ようやく戻ってきた肉親が自分たちを拒絶したようなものだ。藤沢さんがエルトニア王女に返り咲くことをたぶん誰よりも待ち望んできた彼にとってみれば、彼女の宣言は計り知れない喪失と絶望をもたらしていることは想像に容易い。
「ならば何故ッ、姉さんはこのエルトニアへ帰ってきた!? 貴女が二ホン国から離れなければ全てが平穏でいられたというのに!! この私が姉さんの恨みを買ってまで足掻くことも、そして無意味に希望を抱くことも無かった!!」
決壊したダムの如く、藤沢さんへ言葉が浴びせられる。理論も何もなく、全てはライル殿下の感情の内が雨あられと叫びへと変わった結果だ。そもそもの切っ掛け、エルトニアという国に首を振る一方でエルトニアへ帰るという行動。果たしてその理由は何か。彼の叫び声を前に俯いていた藤沢さんが、俄かに顔を上げた。
「……耐えられなかった。一度は喪失した故郷を、見て見ぬふりをするのは」
ライル殿下の声とは比べにもならない小さな声が、不思議とこの広い部屋を支配したような錯覚を見る。無言のまま成り行きを事務的に見つめるライア王女、未だ吐き出し切れていないであろう激情を喉元にため込み藤沢さんを見つめるライル殿下、そして決して短くない付き合いの中でベールに包まれない本音を初めて聞くことになる僕の前で、彼女は再び口を開く。
「日本どころか地球全体で見たってエルトニアなんて国は無い。逆立ちしようが何をしようが、帰れないってことなのよ。どうしようも無い疎外感は同郷のレイと出会って乗り切ることは出来た。でも故郷に思いを馳せることはあっても、もはや帰ろうなんて気すらも起きやしなかった」
炭鉱の閉山に伴い故郷の街が廃れたと、前世の頃に父親がしみじみと言っていた。遊び慣れた公園や学校は今や写真の中にしか存在しない。今更赴いたところで廃墟しか無いんだ、と。でも彼女には、廃墟を見返すことすら出来やしなかった。彼女だけがいない街がいつも通りの日常を送っていることだけが分かり、それ以外は全く手も届かない。自分だけが切り離された疎外感、それは僕自身も経験したことだ。
「でも日本はエルトニアと繋がってしまった――それを一度知ったら、見て見ない振りなんか出来なかった!! 母様や父様、そしてライルだって、忘れられるわけなんて無い!! 帰りたくなるに、決まっているじゃない……」
僕にとってエルトニアの大地で日本から流れ着いた物の存在を知ってから帰還することが現実味を帯びたように、彼女もエルトニアキャンパスの存在を聞かされてから帰りたいという純粋な願いが再び日の目を見たのだろう。僕も世界から切り離された疎外感を味わったのだから分かる。例え蜘蛛の糸のようなふとしたら見失いかねない細いものでも、元の世界への繋がりを意識したら帰りたいという欲望はどうやっても無視することは出来ないのだ。
「……そして私は私の出自を呪った。ただの街娘ならば迷うことも無かったのに、偶然王家の生まれというだけで国への帰還は持つ意味合いが天と地ほども違う。十年ぶりに行方不明の王女が現れたなんて、どうにかすれば今の生活全てが吹き飛ぶような途轍もない話よ。身分を明かして帰還するということは、つまりは今の生活全てを諦めるということだった」
王女の帰還とは、つまり王家への復帰を意味する。良くも悪くも日本という国で自由に生きてきた彼女を、再び王家という頑丈で煌びやかな敷地の中に戻すということだ。もう、ただの異国風な大学生の藤沢レナではいられなくなる。
「貴族社会から外れて育った私でも分かる。行方不明になった王女が戻ったら色んな混乱を招く。そしてそれ以上に、後ろ楯の無い私が政治の良い駒にされるのは目に見えていた」
例えば隣国との友好関係維持のため嫁がされたりね、と藤沢さんは達観を苦笑いに交えながら付け加えた。そんなのは嫌だと言葉の裏側にはっきりと見えている。王族ならばあってしかりという風潮も、今の藤沢さんにはまるで合致しない。日本という国で過ごした十年間が、彼女の価値観を王政時代から近代的な物へと作り替えたのだ。
「結局エルトニアに戻るという選択をしながら、私は身分を伏せていた。どっち付かずの姿勢のままライルにも向き合えることなく、出口と壁一枚隔てたモラトリアムの中でだらだらと過ぎる日々。どんどん、一歩を踏み出すための足が重くなっていった」
今まで僕は、彼女が内心にそこまでの葛藤を抱えているなんて気がつくことも出来ていなかった。成り行きとはいえ妹や実家の問題に精算をつけていく僕を、目に見えない鎖に縛られた彼女はどのような視線で見ていたのだろうか。
「……でも、そんな日々はもうお終いにする。今日という日は色んな方面を巻き込んだ大変な物だけど、でも私にとっては天啓だったのかもしれない。一歩を踏み出すことすらも恐れていたのに、今はこうして王宮に立っている。人質に取られたレイを取り戻すんだという使命感が、モラトリアムの壁をこんなにも簡単に打ち破るなんてね」
確かに彼女は、何かを成し遂げる傍らで何かを失うことになる。でも取捨選択なんて世の中の誰にも訪れるものだ。二者択一のどちらを選ぶのが正解だなんて、結局のところその人自身がどう思うかによって決まってくるし、そしてどちらを捨てようが絶対に僅かばかりでも心残りというものは存在する。そして今の藤沢さんは、こうやって独白をする中で心の整理というものが同時進行で成されていったのだろう。最初に見せていたような憂いを帯びた表情は、不思議と穏やかなものへと変化を遂げていた。
「私は、エルトニア王族のヘレナ・ヴィクトリウス・エルトニアではなく、藤沢レナとしての人生を選択する。王女としての権威と権利、そしてエルトニアという名前、その全てを放棄します」
これは周囲の圧力に屈して苦肉の策でひねり出した解答なんかじゃない。自分自身にとって最も重要なことは何かを理解した上で選択をしたのだろう。放棄という言葉には、王女という地位を捨てるという意味以上に、藤沢レナという人生を選んだという意思があるのだ。捨てると選ぶ、両者は結果的には同じことかもしれない。でも藤沢さんは、捨てることになる過去よりも選ぶことになる未来を見据えている。
「姉、さん……じゃあ、この俺が今までやってきたことは、全て無駄だったと――」
「――違うわ。人の話は最後まで聞きなさいって、散々昔から言ってたでしょうに」
決して激しくはないけど到底揺るぎようは無い藤沢さんの決意の表明に、それを目の前で受けていたライル殿下が力のない笑みを浮かべる。エルトニア王家の地位を捨てることを選択した藤沢さんは、もはや彼の望みの通りにはならない。全ての行動が無に帰したと首を垂れようとしたところを、藤沢さんが背を伸ばして彼の頭を胸に抱く。
「確かにアンタのやり様に思うところが無かった訳じゃない。むしろ沢山怒るべきところがあるわ。でも、ライルはそれだけ私の帰還を願ってくれたということよ」
頭ひとつ分以上の身長差がある藤沢さんの胸のなかに、すっぽりとライル殿下の頭が収まる。その赤紫色の髪の毛に、藤沢さんの手が添えられた。
「あなたが私のを表舞台に出そうと色々動いていた時、そのプレッシャーに押し潰されそうになりながらも、あなたが本気で探してくれていたことに少しだけ救われた気がした。本当はもう誰もが私のことなんて忘れていて、自分だけが馬鹿みたいにエルトニアと日本の間で立ち往生していたわけじゃなかったんだって」
「……でも姉さんは結局エルトニアを選ばなかったじゃないか。俺の行動は、姉さんの決断を変えることは出来なかったんだ」
抱きすくめられた姿勢のまま、ライル殿下の小さな声が響く。結果ありきでみたら、確かに彼が望んだものとは異なり藤沢さんはエルトニア王家への復帰を拒んだ。しかし彼女の言い分を信じるならば、結末に向けた心の持ち方は全然異なる。
「あなたがいなかったら、私は本当の意味で帰る場所を失ってた。エルトニアか日本か、散々悩み抜いた結末が自身の原点の消失だったら、私は耐えられなかった。エルトニアの大地にいること自体が苦痛だったかもしれない」
彼の行動は、ある意味ではエルトニアにおける藤沢さんの原点を保証するものであった。少なくとも彼だけは、ヘレナ・ヴィクトリウス・エルトニアとして彼女の帰還を待ち望んでいた。こう言っては何だけど、ライア王女を含めた彼以外の王族は、藤沢さんの帰還についてライル殿下ほどの真剣さは無かったと言って間違いはない。その一点に関してのみは、彼の行動は藤沢さんの支えになったと言って間違いはない。
「……私を忘れないでくれてありがとう。そしてあなたの期待を裏切るような自分勝手な決断をしてしまって、ごめんなさい」
藤沢さんの抱擁から、ライル殿下が顔を上げる。赤紫色の前髪が目元に被さり、その表情を伺い知ることは出来ない。両肩に置かれた藤沢さんの手を掴んでゆっくりと下ろす。決して乱暴な様子ではなく、むしろ腫れ物を扱うかのように慎重そうにも見えた。
「……私は、まだ全部を受け入れられたわけじゃありません。少なくとも、今日はもう貴女の顔は見たくない」
「もう私は逃げないわ。また、別の日に会えるかしら」
その問いかけに彼は答えなかった。数分前までの激昂が嘘のように、ひどく落ち着いた様子で彼はこちらに振り向いた。その顔には、少なくとも張り付いたような笑顔や隠しきれないような憤怒のどちらもまるで浮かんではいない。
「……ラスティレイ・フォルガント、お前とダイガクには迷惑を掛けた。後日、私は二ホン国の大使を通じて正式な謝罪の手続きを取る」
今まで僕達が受けた仕打ちの割には随分と淡々とした謝罪だ。しかし今までの彼の様子からして、こういう形式的な謝罪をするだけでもかなりの前進であると感じてしまう。そして背中を向けた彼は一度立ち止まり、「すまなかった」と僕にだけ聞こえる声で言い残し、焼け落ちた扉の残骸を踏みしめて出ていった。
彼の姿が廊下に消えていってようやく、この嵐のような出来事がようやく一段落したのだと実感をした。だがもちろん、今度は不在にしてしまったファンタスティック・アカデミーへ早急に戻らなければならない。一応平塚先生には、色々誤魔化しておいてねとは口頭で伝えてはいるものの、こっちの用が済んだならば不在にしている理由も無い。丁度時間的には多分そろそろ開会のあいさつが始まる頃だろうから、僕の代理で入っている誰かに後で謝罪なりなんなりをした後に、シレッと座長を引き受ければ良いだろう。
「さて、私もライルや奴の名を良いことに好き勝手やらかした連中の処断を行わなければならん。その前にヘレナ。私からも少しだけ言うことがある」
帰りの足はどうしたものかと少し考えていたところで、今までの経過を特に口出しするわけでも無く黙って眺めていたライア王女が口を開いた。その藤沢さんと言えば、何かを言いたそうに僕の顔をちらちらと見ていたところ、話しかけられた瞬間まるでライア王女の存在を忘れていたんじゃねえだろうなってくらいにビクっと肩を震わせた。
「君がエルトニアの名前を捨てること、私は承諾した。ライルもあの様子だが恐らく日が経てば飲み込むだろう。だがな、長兄や父上は果たしてその限りかは正直怪しい」
「父上と兄上、ですか……」
藤沢さんの声が少しばかり強張る。父上とはこのエルトニアを統べる国王その人であり、彼女たちの兄とは現状では恐らく王位継承権第一位である第一王子のことだろう。どちらもこの国に転生してから名前を聞いたことしかない、まさに雲の上の存在だ。そんな人物の話を切り出された藤沢さんの表情は、さっきまでとは一転して固く強張って見えた。彼女がいくら王家の名前を捨てると宣言しようが、彼らがそれを認めなければすべては無意味に終わる。
「既に分かってはいたようだが、後ろ盾のないヘレナは外交の良い駒だ。同じ女でも私のような好き勝手は難しいだろう。年齢的にも、すぐにどこぞの家に嫁がせるなんて可能性は捨てきれんよ」
ふと手がギュッと握られる。いつぞや川崎さんからライル殿下関連の話を受けた時も、藤沢さんはこうして人の手を握ってきた。彼女にとって対処の難しいものを前にしたとき、近場に居る僕の手をにぎにぎとするのはもう癖なんだろうか。案の定追い詰められたような難しい顔を浮かべる彼女と、それを間近で見せられたからとりあえず一緒に真剣そうな表情を浮かべる僕。その両者を前にして、ライア王女はそう難しいことじゃないよと前置きをした上で少しだけ口端を上げた。
「要は、そういう政治の駒にはなれないと明確に示せばいい。幸いヘレナはその条件を満たしているようだしな。多少のゴタゴタはあるだろうが、そこは私がうまい具合に納得させてやるさ」
僕と藤沢さん両者を見つめ、心配ないさと太鼓判を押すライア王女。その自信は一体何処からくるのだろうか。それに藤沢さんがその実政治の駒にはなれないという根拠は何だろうか。何か知ってるかいと彼女に目配せをしてみると、さっぱり分からないわと言わんばかりに藤沢さんは困惑した様子で首を振る。
「……ええと、姉様。その条件とは一体――」
「いや、よく考えれば分かるだろう。既に一人の男に操を捧げた娘を、一体何処の誰が別の家に嫁がせるものか。あの人たちもわざわざ仲を引き裂いてどうこうだなんて考えはしないさ」
ライア王女の発言内容は、一度聞いただけでは理解が出来なかった。頭の中で言ったことをリピートして、そこで初めて言わんとしていることを分かったような気がした。つまり彼女は、藤沢さんには将来を誓った相手が既にいるからそういう政治の駒には全く使えませんよということを言っているのだ。しかし操を捧げるだなんて、男の僕がいる所なんかじゃなかなか言わない方が良い内容である。端的に言えばデリカシーに欠けている。ただ彼女にそんな相手が居るのかとか、なんでそれをライア王女が知っているのかを藤沢さんに尋ねようとして――びっくりするくらい顔を真っ赤にしてあたふたしている姿が目に入って思わず首を傾げた。
「な、ななっ――操って……っ!! ね、姉様!! まだそういう関係じゃっ」
「なんだ、まだ違うのか。ただその感じだともはや時間の問題にも見えるがな。とりあえず私はそういうつもりで説得をするから、問題が拗れる前に嘘を真にしておくことだ」
すぐさま顔を上げて何やら言葉になりきれていないぶつ切りの反論をあれやこれや漏らすものの、ライア王女は軽い様子でいなして背中を向ける。そのままさっぱり話についていけない僕を藤沢さん共々部屋に残し、最後に彼女は振り返った。
「では後の処理は全て引き受ける。君たちはダイガクの方へと戻りなさい。二ホン国の兵士は相変わらず正門前に待機をしているようだから、早めに吉報を伝えてやると良い――それとヘレナ。頑張れよ」
結局終始淡々とした様子で、川崎さんとの関係もよく分からないままに、部屋の外にライア王女の姿は消えていった。さっきまで部屋の外に待機をしていた衛士たちの姿もいなくなり、いつの間にかこの広い部屋の中には僕と藤沢さんだけしか残っていなかった。
「……僕らも帰ろっか。後の処理は、上がやってくれるさ」
「あっ……えっと」
なぜかフリーズしている彼女の手を引いてみると、そこでようやく藤沢さんはハッとした様子でこちらに顔を向けた。さっきの状態からまだ顔が紅く、なんだかソワソワとしながら僕の顔を見たり視線を外したりと忙し気だ。どう見たって普段の彼女と比較すると浮足立ったように見えてしまう。そこでようやく、彼女にフォローを入れてなかったということに気が付いた。
「大丈夫だよ。僕は君のプライベートには立ち入らない。藤沢さんとそのお相手のことは、平塚先生をはじめ誰にも絶対に漏らさないから安心してね」
「……そうだ、レイはそういうのだった……私だけが馬鹿みたい」
そういうのとはご挨拶な。せっかく親切心から声を掛けてあげたというのに、藤沢さんはぼそりとそう呟いた。みるみるうちに彼女の顔の赤みは引いていき、そしてジトっとした目でこちらを睨みつけてくる。元通りと言えばそうかもしれないけど、ただの一言でここまで普段のちょっとご機嫌斜めな藤沢さんになるというのは正直予想外だった。何か地雷に近しい何かを踏んだのかもしれないが、これ以上踏み込むと更なる地雷原に突入しそうだからやめた方が吉だろう。
「それと、まだ私たちには大きな問題が残っているの。レイの不在を良いことに、ライルの名の元に報告会を邪魔しようと企んでいる連中がいる。レシルちゃんをあなたの代理にして誤魔化そうとしているけど、早く戻るに越したことは無いわ」
彼女はやや険しい顔つきでそう言うと、僕の手を引いて歩き始めた。手から伝わる彼女の手の温かさからは、さっきまでのすがるようなものじゃなく、明確に僕を引っ張って行ってやろうという意思を感じる。その頼もしさに不思議と笑顔が浮かぶ傍らで、最後に残された仕事に再び気合を入れていく。
「……それと全部が終わったら、レイに言いたいことがある。絶対に、逃げないでね」
「これから同じところに行くんだろ。逃げる場所も余地も無いでしょうに」
冗談めかして言ってみれば、彼女もそうねと小さく笑みを浮かべた。煤と化した扉の破片を踏み越えながら、僕らは最後の戦いへと挑む。ファンタスティック・アカデミー。これを成功させるためにエルトニアやうちの大学の面々、そして一連の問題の裏側で動く川崎さん、各所のメンバーが多くの時間を費やしてきたのだ。そう簡単に邪魔をさせるわけにはいかない。




