その3
自由の効かない手首と足首が痺れ、無理矢理に曲げた首も鈍痛を訴えかける。人の歩く音や何かしらの機械の動く音もない静かだった空間には、時おり風が窓ガラスを叩く無機質な響きだけが聞こえていた。人けがないとはまさにこの事を言うのだろう。まるで時が停滞したような空間にて、身動きできない僕に出来ることは、ただこの一連の事態を引き起こした元凶を見つめることだけだ。
第二王女が戻ってくる。そう言い切った彼は、妄執と確信の真ん中でただただ彼女がここに来ることを待ち望んでいるのだ。にわかに聞こえてきた、日本という異物を除けばこの世界ではまず鳴り響くことのない羽音が、彼の望むべく結末が間違いなく近づいていることを示している。これでは彼の思うがままだ、そう叫ぼうにも伝えるべき相手は今ここにはいない。未だ両手足の自由を奪われ、そして縛り付けられた椅子と共に横倒しにされた現状では、何かしらの行動を起こすこともままならない。唯一出来るのは、腕時計のように偽装された小型発信器を作動させること。しかし作動させたが最後、この部屋に目掛けて機動隊員が駆けつける代物であるこれは、もはや背水の策だ。
否応にも鋭敏になった聴覚が、ヘリコプターと思われる羽音が段々と小さくなるのを感じとる。高々僕一人の輸送と護衛に機動隊を持ち出した時から川崎さんのともすれば不可解とも言える本気度は感じてはいた。そしてその上王都リーヴェル上空にヘリコプターを飛ばすだなんて、本気を通り越してエルトニアへの立派な示威行為に他ならない。そのヘリの音がだんだんと遠ざかっていくということは、彼らの任務である何かの輸送が完了したのだろう。こんな面倒な事柄に、わざわざヘリを召喚してまで速やかに送り届けたいような人員なんて、僕にはたったの一人しか思いつかない。
「不思議なものだな。あれだけ焦がれたものなのに、いざ目の前にしても実感も湧かない」
彼もどうやら感じ取ったのだろう。僕があの手この手を尽くして矢面に立たないようにしてきた藤沢さんが、エルトニア宮殿に来てしまったことを。覚悟を決めたのか、それとも何かに迫られたような切羽詰まった行動なのか、それは僕には分からない。しかし唯一の事実として、事はライル殿下の望みに沿うように進んでいる。
果たして彼女は、衛士の人たちに両脇を固められながら連行されてくるのか、それとも形だけは自由な風なのだろうか。なんたって、ここはこの国において最高の警備態勢を誇る地だ。たとえ藤沢さんであろうと厳重な監視下での対応になるのだろう。だが、そんなことを考えていた僕は、彼女の事を何も分かってはいなかったのだ。
「……来たか。どうした、不満そうだな。その視線の鋭さなんか、まるでお前の妹のようじゃないか。仮にも元国民だろう。王女の凱旋くらい笑顔で見届けたらどうだ」
部屋の外から聞こえる幾つかの足音を耳にしたライル殿下は、その笑みを深いものにした。未だ横倒れで何もできやしない僕を嘲るようにゆっくりとそう話す。決して大きな音とは言えないその足音が止まるのに、そう時間は掛からなかった。
「では見せてやろう。彼女こそが、このエルトニア王国の正統な第二王女、ヘレナ――」
『――おかしいわね。鍵でもかかってんのかしら、開かないわ』
扉に近づき、高らかにそう宣言しようとした彼を、その扉の外から聞こえてきた思わず気が抜けてしまうような言葉が遮った。確かに彼が第三者の介入を嫌ったのか、荘厳な扉には取っ手に止め棒が差し込んである。その扉が外側から軽く押されているようだけど、棒が邪魔をして少し動いたところで止まってしまっているようだ。だから開かないことは確かに事実ではある。だけど、それを何の気なしに君が指摘をするかなぁ。
部屋の中に微妙な空気が広がった。外から聞こえてきた声は、散々話題になっていた藤沢さんに間違いはない。ないのだけれども、その雰囲気があからさまに予想をしていたものとは大分様相が違っているのだ。何時かは向き合わなければならない己の過去と否応にも向き合わされている決戦前夜のようには到底思えず、むしろ普段の軽い様子を空見させるほどだ。ライル殿下としても、やや予想していたものとは違っていたのだろうか。怪訝そうな様子を見せつつも、とりあえずということでその止め棒を取り除こうと動いた時だった。
『まぁ電子ロックとかの破損したら不味い代物でも無いでしょう。ちゃっちゃと開けるか』
小さくても頑丈そうな扉の取っ手や止め棒のことだ、腕で押したところでどうにかなるようなものでもない。なのにさも何の障害すらも感じませんよと言わんばかりに壊すやら開けると宣った外からの声の主に、疑問に思う以上にとても嫌な予感が過る。腕で押しても開かないし、体全体でタックルしたところでたかが知れている。そんな堅牢な扉をどうにかするには、力に頼っても仕方がないのだ。ならばどうするか。正解は多分一つだけ。
『扉の目の前の誰かさん。そこにいると危ないから離れていなさい――喰らい尽くせ、ブレイズッ、サーペント!!』
ライル殿下が扉の前から飛び退くのと、巨大な扉の至るところをいくつもの楔状の炎塊がぶち抜いたのはほとんど同時だった。楔に続いて噴出した紅の鎖たちが、サーペントという文言に負けぬ勢いで蠢きながら重厚なはずの扉に四方八方から絡み付く。器用なことに少しの火炎で簡単に焦げ跡が付きそうな絨毯には掠りもせずに、未だ枠にはまったままの重厚な木製の扉だけが炎に蝕まれる異様な光景だ。
高々ただの止め棒で開かないようにされていただけなのに幾多もの炎の鎖に貪られている扉のなれの果て。驚いた様子でありながらも、全ての炎が掠りもしていないライル殿下。加えて、そんな突発的な情報量の多すぎる空間から物理的に目をそらすことが出来ない僕。理解が追い付かないとは、まさにこのことだ。そしてそんなことをやらかしてくれた張本人は、ボロボロと崩れ落ちた扉の外からこちらを見据えていた。
「ああ、いた。案外探し人もすぐに見つかるものね」
彼女が軽く腕を振るうとともにいくつかに寸断された扉の破片に燻っていた炎が立ち消えた。瞬間的な鎮火、でも藤沢さん本人はむしろ爆発炎上一歩手前という雰囲気だ。再会しての第一歩を思い切りくじかれたライル殿下を剣呑に見つめ、そしてその後方で椅子と一緒に倒れたままの僕へと視線を向ける。
「……レイには後でたくさん言いたいことがあるから」
逃げるなよと釘をさされたのだろうけど、たとえ逃げたくともこんな状況じゃ動くことすらままならん。そう視線で訴えかけたのが功を奏したか、藤沢さんが僕の方へ向けて小さく手を払うと共に、その手の先から細長い炎の鎖が真っ先に向かってきた。一瞬だけ身構えるも、その鎖はつい先ほどとても値段の高そうな重厚な扉を消し炭にしたものよりもずっと規模が小さい。器用なことに、その炎鎖は足首と手首を固定していた革紐のみを焼き切った。
あれほどエルトニア王家に関わることを危惧してというのにいこの変貌とは、何かがあったのではないか。それに、いつの間にこんなレベルの魔法を扱えるようになったんだ。聞きたいことはたくさんあるけど、今はそれどころじゃない。久方ぶりに自由になった体を起こし、そして互いを見つめあうライル殿下と藤沢さんへ目を向けた。
「……随分と閃烈な帰還だ、ヘレナ姉様。後ろの衛兵達が目を白黒とさせていますよ。やはり貴女の本当の姿は、何も変わってはいない」
「能書きは必要ないわ。私はただ私のやるべきことを果たしに来ただけ。まずは、アンタが不当に拘束していた被害者を引き渡して貰おうか」
口調は穏やかながらも、その顔には念願の望みを得たという満面の笑みを湛える殿下。それとは対照的に、淡々とした話口で一見して感情が読み取りにくい藤沢さん。なるほど、確かにこの大部屋のそとでこちらを伺う衛士の人たちもさぞ居心地が悪いだろう。多分急に現れた第二王女を名乗る人物に振り回され、まさかの宮殿内部で放火の現行犯、おまけに第二王子へのこの不遜とも取れる攻勢だ。
「そうだ、貴女の本質は何も変わっていない。我が強く勢いのあった童の頃のままから。自分のやりたいことばかりをかまかけて、肝心の自身がおかれた状況を何も分かってはいない」
投げ入れられた彼の挑発に対して、藤沢さんは外見上逆鱗に触れられたような様子はない。一見すれば、流石は元第二王女、簡単な挑発には乗せられず大物らしく振る舞っているように見える。しかし彼女が本当にこの状況を、見たままの淡々とした感情で俯瞰しているのだろうか。
「そうね、アンタと私で認識に隔たりがあるか確認しましょうか。私は紛れもなくこの国の第二王女で、行方不明になってから都合十一年ぶりの帰国。この数ヶ月は日本の学校に所属してたけど、正式に身元を明かしたのは今日が初めてよ」
「……そこまで分かっておいてそれですか。この国において王族の直系が持つ意味を知らないとは言わせない。この私と王位継承権が入れ替わるのだ。そして貴女という才能の原石を取りこぼしたエルトニア家が、再び姉上と合間見えた。貴女にとっても我々にとっても、重大な転機となるべきだ」
なんとなく、僕には藤沢さんが自然体ではないように見えてならなかった。条件が違えば雰囲気がまるっきし変わるというのは、妹という実例を身近に見てきた。彼女は正反対ともいえる甘えん坊な内面と冷徹な令嬢という外面を持ちながらも、良くも悪くもそれらのどちらもが彼女の自然体なのだ。どちらを振舞うにせよ、彼女の行動や態度にどこも不自然な箇所は存在しないのだ。
しかし藤沢さんの普段のちょっと生意気で活気ある姿に、今の彼女が放つ平坦でシニカルな態度はどうにも重ならない。これが藤沢さんの王女としての本当の姿と言われればそれまでだけど、自身の勘はそこに不自然さを見出だしている。
「それもそれ。私は、私の今の状況全てに決着を付けに来た。でもその前に、どうしてもやらなきゃいけないことがある」
ならばなにか。これが自然体ではないとすれば、虚勢や演技なのだろうか。彼女がこの部屋に突入してきた時から感じていた、どこか彼女の人となりに重ならない不遜な態度。確かに普段の自分自身を覆い隠すには、自分を大きく見せるというのは納得だ。でもその割には一見淡々としながらも、行動の端端から剣呑な雰囲気がにじみ出ている。そしてふと、彼女の右手に目をやった。
「貴女が最低限それらを理解しているようならば、私も安心だ。それで、ヘレナ姉様がご自身の帰還をこの王宮に布告するよりも前にやらなければならないこととは一体何ですか?」
「……レイ、ちょっと離れてて。ライル、アンタの熱意については嫌というほど伝わったわ――」
彼女の右手はきつく握りしめられているどころか、力が入りすぎて震えていた。その上、よく見たら噴火寸前のように細かな火花が彼女の握りこぶしの中から溢れ出ている始末だ。妙にゆっくりとした話口、そしてこの空間において完全な非戦闘員の僕に離れろと通告する。途轍もなく嫌な予感に駆られた僕は、情けないと自覚をしながらも藤沢さんへ強く頷いて部屋の出口近くへと早足で向かう。あの彼女の様子、あれはどう見たって不遜や冷静とは程遠い。
「――そこに直れ愚弟ッ!! よくもまぁ、今まで散々好き勝手やらかしてくれたわね!!」
聞いたことのないほどに声を荒げ、見たこともないほどに表情が歪み金色の瞳が見開かれる。急激に巻き起こる熱波と共に赤紫色の長髪が激しくたなびき、そして両腕にからドアをぶち抜いた時とは比較にならない荒縄のような紅炎が吹き出す。同一人物であることを認めることが困難なくらいに、まるで修羅か何かのような姿で殿下へ怒鳴り声を叩きつける様子を見てようやく理解をした。怒りに駆られると普段は明るいのに急に大人しく見えるような人が時折居る。今まで彼女が本気で怒る場面に遭遇したことが無いから知らなかったけど、どうやら彼女はそういう類の人間だったようだ。
さっきから感じていた違和感の答えが、十分離れていたはずの僕の場所まで顔を覆うほどの熱波として投げつけられる。この部屋に入った瞬間から、端的に言って彼女は完全に切れていたのだろう。その爆炎に包まれた腕を振りかぶった藤沢さんは、あろうことかライル殿下に向かって殴りかかったた。




