その5
ソースの染みた豚肉の衣焼きに刺さったフォークを持つ手が震える。そしてそれを口に持っていこうとする腕の筋肉までもが異様に硬直した。簡単なことのはずだ。それを口に運び、歯で咀嚼し、飲み込めばいい。何を迷う必要があるんだ。
しかしそんな簡単な一連の作業に向けた第一歩を、己の左手はなかなか踏み出そうとすらしない。ただ皿の上空数センチメートルでフォークに刺されて静止する衣焼きの一切れからは、食べ初めてそこそそ時間がたつにもかかわらず未だにほどよく揚げられた香ばしい匂いが漂ってくる。それが鼻腔に入って刺激するは、食欲などではなく打倒すべき最後の試練への覚悟だった。
自然と水の入ったコップへと伸びる右手を、強靭な精神力で押しとどめた。この状況下における水は、回復薬などではなく己の寿命を縮める愚策に過ぎないのだ。ゴクリと唾を呑み込み、意を決して口の寸前までフォークをやる。口を開き、後は噛みしめれば良いだけなのだ。笑えてしまうくらい、いつもよりもすべての感覚が鋭敏であった。眼前の一切れの肉片から漂う香り、体温と同じくらいに温まったフォークの持ち手、油分とソースで煌めく衣焼きの表面。これらを前にして込み上げてくるのは、唾液ではなく拒絶感なのだ。
嗚呼、この一歩が遠い。仮に首の下と上で感覚を完全に切り分けられたらこんな思いなどしなくて済んだものを。唇が衣焼きに触れて、もう後戻りなど出来はしな――
「そんなに多かったか? 昔から俺自身あまり食う方じゃなかったが、少食に磨きがかかってないか」
「僕の食の細さは概ね見た目相応だよ。昔の僕ら自身はおろか、下手すりゃ藤沢さんより胃が小さいまである」
そろそろ現実逃避をやめよう。いくら頭のなかで考え事をぐるぐる回そうが、満腹感は消えることなんて無いのだから。
本日の昼食は、予定通り平塚先生と一緒に街の一角で取ることになった。場所は学生街の南側にある、宿屋付随の酒場兼食堂である。平日は混雑でなかなか入るのが難しいそうだが、週末の今日は特に並ぶこともなく机にたどり着けた。
店のスタイルはシンプルだ。飾った感じのない木造の内装の店内で、腕っぷしの強そうな女将と若いウェイターの女性達が賑やかげに店を切り盛りしていく。そして肝心の料理は、おしゃれさよりも豪快さを売りにした、お得な価格設定でかなりの量が食べられる、育ち盛りの学生にとっては非常に魅力的なものだった。事実、僕たち以外にも学生と思われる若い客が数名料理に舌鼓をうっている。
「お前の妹さんは見た目はそっくりだが結構な量を食べていた気がするけどな」
「……むしろ彼女が年相応の、育ち盛りの食べ盛りだからね。僕はほら、燃費が良いんだよ」
女子というものは何故そこまで小食アピールをするのだろうかと前世の頃に疑問に思ったことがあるが、今ならばその理由が良くわかる。あのアピールは、大抵嘘偽りのない本心だ。自信の胃袋のキャパが落ちて満腹感がすぐに訪れるからこそ身にしみる。腹八分目から全埋まりまで、本当にあっという間なのである。
女将の押しメニューである豚肉の衣焼き定食は、少な目で頼んだというのに皿への盛り付けは多少なりとも立体的なものであった。それだけでも冷や汗が浮かんだが、一口食べて嫌な予感は実感へと昇華した。味が濃い、そして噛みしめた歯の間から滴り落ちるジューシーな油と甘辛いソース。よく言えば豪快な、悪く言えば大味な料理だ。前世の頃だったらおいしく食べていたであろう料理であるが、悲しきかな。現状の僕の消化器系統はこの料理に対して相性がよろしくはなかった。
「……ごちそうさまでした」
目の前の料理から逃避しようと意識を他に飛ばしていたから、食べるスピードの落ちていく自分に向けられる視線は感じ取っていた。コイツまさか残すんじゃねェだろうなとカウンターの内側から鋭い視線を飛ばす女将さんや、興味深そうにこっちを観察するウェイターのお姉さん。
だが辛うじて、残すなんてことは無くてすべてを腹の中に収めることが出来た。重さを感じさせる胃袋に口内へ残ったままのタレの風味。しかし飲み込んでしまえばもうこちらの勝ちだ。僕へ向けられていた視線は散っていくことだろう。
「……改めて思うが、本当に食うのが遅いな。藤沢の方がよほど健啖だ」
「それ本人の前では絶対に言わないように。彼女、案外そういうの気にするから」
以前に平塚先生へレシルの対人会話練習をお願いしたときの話だった。僕は藤沢さんに対してたまにからかいの言葉をかけることが有った。しかしその時の、藤沢さんは僕よりも量を食べるのではないか、という文言は彼女の地雷を踏みぬいたらしい。一瞬口調が変わり、こちらにもんのすごく鋭い視線を向けてきたのは今でもよく覚えている。彼女への食関連のいじりは、間違いなく自殺行為だ。今だって、彼女がこの場所にいないから口にしているに過ぎないのである。
そんな彼女の話をしていると、そういえばと平塚先生が何かを思い出したように口を開いた。
「藤沢って言えば、今週なんか元気が無かったな。事情は知らんが、適度にフォローしてやれよ。この閉鎖空間じゃ小さなことが切っ掛けで色々なリズムが崩れかねんぞ」
「……それ、もしかしたら週の頭に川崎さんから言われた話が原因かもしれない」
エルトニア王室の一部から秘密裏に出された王女捜索依頼についてかいつまんで説明してみると、彼はほりの深い表情をややゆがめて眉間を揉んだ。平塚先生は、僕や藤沢さんの秘密について把握をしている数少ない人間の一人である。無論藤沢さんの生まれがエルトニアの王家であることも知っている。唯一となってしまった直属の学生一人が、ただでさえハードな状況下で研究生活を営んでいるというのに、更に妙な状況へと引きづりこまれつつあるのだ。彼としても頭が痛くなるような話なのだろう。
エルトニア政府はヘレナ・ヴィクトリウス・エルトニアの行方を捜している。それを川崎さんから知らされてからというものの、この一週間藤沢さんはぎこちなく毎日を過ごしているように見える。黒いかつらをつける頻度を増やす等の細かな行動の徹底ならばまだしも、彼女の精神的な側面にも影を落としているのは間違いなかった。川崎さんに身分を明かすかどうか問われたときの藤沢さんは、これまであまり見たことがないくらいに動揺していた。エルトニアに移ってくる前に僕と互いに愚痴を言い合っていたときよりも、現状の方がよほど問題が近場に迫っているのだからだろう。
無論、ほとんど毎日顔を合わせている以上、そんな彼女の様子にはすぐに気が付いた。だがそれとなく悩みを相談するように促してみてもはぐらかされてしまったのだ。週末の今日とかは絶好の気分転換だから学生街の探索に誘おうとも思ったが、誘うよりも先に先約で彼女は東京に行ってしまった。ならばせめて、久々の都会で気分を発散させてくれるのを願うばかりである。
「どうにも色々ときな臭いな。藤沢の一件といい、浜松先生の件といい、最近あまり治安がよろしくないぞ」
「……浜松先生って、なにかあったの?」
「そっか、レイは教授会には出てないから知らんのか。数日前、浜松先生が学生同士数人のいざこざに遭遇したんだとさ。それもウチの学部生と、相手側は騎士学園の生徒だった」
我らが国立東都工科大学のリーヴェルキャンパスとエルトニア王立騎士学園は同じ敷地内にあるのだから、その組み合わせそのものについては不思議なものではない。なんたって一番のご近所さんだし、顔を合わせることも多いのだ。
「別に殴り合いのけんかとかではなく、あくまで言い争いの域は出てなかったそうだ。浜松先生が何事かと近づいたら有耶無耶になったというから大事というわけじゃないんだが……ただ言い争いの内容を断片的に聞いた限りでは、科学技術の危険性がどうのこうの言っていたらしい」
それを聞いて思わず眉をひそめた。大学計画への反対派とは、恐らくライル殿下が率いる一派か、もしくはそれに影響された集団なのだろう。そんなものが貴族社会の中に留まらず、まだ若い学生にまで染み出してきているというのだ。ただでさえご近所のエルトニア王立騎士学園にそんなものが広がり出しているのは頭が痛い。渦中の人物であるライル殿下が学生として所属をしている以上、彼の派閥にそのような考え方が蔓延していくのは時間の問題だったのだろう。
一人の職員として考えれば今後の大学運営に影を落としそうな一件に悩みが深まる。そしてラスティレイ・フォルガント一個人としては、このままいけば一層レシルの立場が不安定なものになるのではと頭が痛くなる。そもそもから言って彼女は間違いなく派閥というものを、形成はおろか属してもいないだろう。それにこれまでの出来事から考えるに、彼女自身あまりライル殿下とは良好な関係はとってはいないはずだ。更に言ってしまえば彼女の兄である僕が、件の大学計画における日本側の関係者なのだ。彼女の立場を考えたら、あまり良い状況とは思えない。
「予想はしていたとはいえ、大学計画をよく思わない人間が騎士学園側に増えてきたっていうのは大変だね。川崎さんもそれ関連で報告会の運営に妨害がいくつか入ったって言ってたよ。それに、妹のことを考えるとこの状況からなんとか脱したいけど……」
「……あと二週間を切ったんだ。お前の実家の有力貴族を巻き込んだ報告会で、良くも悪くも状況は変わるだろうさ」
平塚先生の言う通り、状況のターニングポイントは報告会以外には無いだろう。ライル殿下を擁する反対派がそのまま広がっていくのか、それともフォルガント公をトップとする報告会の参加者一派が、科学技術の有用性をエルトニアの貴族社会に浸透させてくれるのか。大学計画が始動してから初めての転換期は、もうあと少しなのだ。
「さてと、そろそろ腹も落ち着いてきたから出るか」
「……そうだね。んじゃ帰りますか――」
席を立ち上がろうと腰を浮かせたその時に、僕らが座る机に三人の若者が近寄ってくる姿が見えた。彼らは、僕らが店に入った時に先客として食事をしていた集団だ。少々がたいのいい二人の後方に控えるは、恰幅の良い丸顔の青年だった。妙に笑顔を帯びた彼らの表情に、底知れぬ嫌な予感が沸き起こる。
「やあ、少し時間を頂いてもいいかい?」
机を包囲しようとする三人組を無視して立ち上がろうとする平塚先生を、彼らの中での代表格であろう恰幅の良い青年が呼び止めた。敢えて気が付かないふりをしていたであろう平塚先生も、直接呼び止められてしまったのならば反応するしかない。メガネの奥に控える彼の視線が鋭くなり、それが僕の方にも向けられる。誰だこいつらはとでも思っているのだろうが、僕としても全く見覚えのない面々だ。知らぬと少しだけ首を振って返すと、彼はため息一つと共に青年へと向かい合った。
「……なにかご用でしょうか。我々は急いでいるんで手短にお願いします」
「そ、そうかい。ぼくらはエルトニア騎士学園の学生だよ。君たちは二ホン国の研究者で間違いはないかい?」
平塚先生の、身内の人間でも思わず怖さを感じるほどの冷たい返答に対して、青年側も少しだけだじろいだようだ。その中で彼が言った自己紹介に対して、僕はなるべく表情を変えないように意識をしつつ内心で舌打ちをした。まさかとは思うが彼らが先ほどまで話していたような騎士学園の中に広がる反大学派閥の人間じゃあるまいなと。
「ええ、我々は確かに大学の研究者ですが」
「それは良かった。せっかくの騎士学園のご近所なんだ。君たちについて色々と知っておこうと思ってね」
浮かべられた薄い笑顔を何処まで信用できるのかは分からないが、言葉の表面だけ掬えば僕たち日本の研究者について知りたいということだろう。一見して友好そうな言葉でも、平塚先生はその一切の興味を抱いてなさそうな無表情を崩さずに言った。
「それについてはちょうど二週間後に良い機会があります。うちの大学は今度研究紹介を行いますので、そちらに伺ってもらえれば色々分かることでしょう」
そう言いながら再度立ち上がろうとした平塚先生を、連れ添いの二人の学生たちが通路を塞ぐ形で邪魔をした。仕方がなく再び椅子に腰を下ろした彼は、不自然なほどに顔を歪めるも睨むもしていない。表情こそに変化は無いが、平塚礼二という人間があまり外面に変化がないような形で怒ることをよく知っている身としては、不自然に無表情へ固定された彼の顔面を察するにかなりイライラしているであろうことは読み取れた。教員としても研究者としても忙しい身分で、何故こうもアポイントもとらぬ連中に時間を割かなければならないのか。たぶんこんなことを考えているに違いない。
言い放たれた対象でもある青年も、平塚先生の言葉を真正面から受けてこめかみがひくひくと動いていた。確かに平塚先生の返答については取り付く島もない有様であり、いざ自分がそんな対応をされたとしてもいい気分はしないはずだ。それでも表情自体は最低限笑顔を保てている辺り、彼も年齢の割には自制心があるようだ。
「……あの、先生はちょっと予定が詰まっているのでまた後日でよろしいでしょうか。うちの事務の人に言ってもらえれば、こちらも余裕をもって時間を作れますし――」
「君のような一介の学生には話を聞いてはいないよ。ぼくはこう見えてもレザニア侯爵家の子息だ。文化の違いもあるだろうが、貴族階級の人間に対しては最低限礼節を重んじるのがこの国のルールだ」
仲介に入ろうとした僕を遮るようにして、彼は物事を分かりやすく教えるがごとく妙に落ち着いた様子で話した。彼の家名自体に聞き覚えは無いが、侯爵家ということはどこかの六大家の分家なのだろう。文化の相違というのであれば、確かに平塚先生のような純粋の現代日本人は貴族社会については全く明るくはないのだ。この国における一般的な知識としては、彼の言う通り貴族階級に対しては丁寧に接しろというのは間違いではない。
一見すれば、無知な庶民に対して親切に説明をする貴族様という図式だ。だけどなんだか胡散臭いし、それに己と同年代に見える僕について、話は聞かずに切り捨てるという行動にはこちらとしてももちろん良い気はしない。
「そもそもぼくも時間を割いて君たちニホン人の実態を聞こうとしているんだ。君らの国から流入する安全かどうかも分からない代物に、レザニア侯爵家は危機感を抱いている。同じ考えを持っている人間が、王都だけでもどれだけいるのか君たちは分かるのかい?」
彼としても、わざわざ時間を使ってやっているのだというスタンスなのだろう。だがそんなご高閲な考えならば飯を食べたついでで絡んでくるのはいかがなものかと思う。そしてようやく確信した。彼やそれに付き従う二人の青年たちは、間違いなく大学計画の反対派なのだろう。上手く流せればいいのだろうが、下手な対応をすれば僕らの風評を汚しかねない。
「……一つだけ訂正を。彼は一介の学生ではありません。優秀な研究者であり、そしてれっきとした教員です」
ここまできて表情一つ変えない平塚先生は流石だと思う。その上こちらのフォローまで回るのだから、かなりの豪胆さだ。しかしそんな感情の浮き沈みを感じさせない風を見せながら、彼はそれとなく自信の首もとに触れた。単に首もとを掻いているだけに見えるその行為は、よく見てみれば小さなネックレス――翻訳魔法の効果をもつ魔石を外しているようだ。
『おい、こうすりゃ連中には通じないんだろ。面倒な状況だがここは俺に任せとけ。レイよりは俺の方が感情が表情に出にくい』
『……ありがとうね。エルトニア人じゃなきゃ分からない話をふられたら、フォローに回るよ』
『そうしてくれ。食後のついでに国を憂うなど、とんだ笑い草だ』
翻訳魔法を無効かした上で、更に言語すらもあえて英語を用いて話し掛けてくるあたり、平塚先生は徹底していた。急に意味の通じない言葉を喋りだす平塚先生を、青年たちは怪訝そうな表情で見つめる。
この手の面倒な事柄は避けて進もうとする平塚先生から考えれば意外な行動だが、それを引き受けるだなんて珍しいことだった。その根底は、僕に対する親切心だけではないだろう。口調や表情は何一つ変わらないというのに、やはり発言内容から考えて彼も腹に据えかねていたようだ。
「失敬、翻訳魔法のネックレスが外れていたようです。せっかく貴殿方のような識者が話を伺いに来ていただいたのですから、短めにはなりますがご質問にお答えしましょう。ただ――」
どこか慌てた風を装い首とものネックレスを直す様子を見せつけた平塚先生は、先程とは一転して妙に柔らかげな雰囲気を纏いながら青年側へと向き直った。あまりの様子の変化に僕らを取り囲む青年たちだけではなく、身内の僕でさえも違和感を覚えるほどだ。というか違和感で留まらない、鳥肌すらも立った。この人、多分結構本気で苛ついている。
「まずは場所を変えましょうか。そろそろ女将さんにどやされます」
確かに背後を振り向いてみれば、食べ終わったのだから出ていけと険しい表情を浮かべた女将の姿が目に入った。しかしそれ以上に、態度を急変させてともすれば獰猛とも見えてしまう笑顔の平塚先生の方が、よほど僕の目には脅威に写った。自分自身が苛苛とする様子を客観的に眺めるのは、思っていたよりも心臓に悪いのかもしれない。




