第一話「学術都市のアカデミー!!」 その1
乱雑に積み上げられたようにも見える紙束。しかしこれらは皆種類ごとに纏められており、尚且つちょっとやそっとの衝撃を与えても紙が土砂崩れを起こすようなことは無い。
そんな山に囲まれた盆地のような机の中心部には、特価で買った機種遅れも甚だしいノートパソコンが鎮座している。ノートというには大型のわがままボディ、排熱がしっかりできていないことを指し示す妙な熱っぽい素肌。最近サポートの終了したOSよりも一段階だけ新しいソフトウェアで動くアホの子というこのポンコツが我が愛用のPCである。
脇に置かれたマウスパッドの上には何故かマウスではなくコーヒーカップが居座り、半ば限界を迎えつつある愛機はタイピングしてからワンテンポ置いて画面に文字を映す始末だ。そろそろ乗り換え時なのかもしれない。
「礼ちゃん、先生が呼んでたよ」
愛しのPCの遅い反応に苛つきつつあった僕の後ろから声が響いた。
イヤホンを耳から外して振り返ると、背の高い青年がこちらを見下ろしていた。ゼミの同期である彼は何故かいつも僕をちゃん付けで呼んでくる。気にくわないが言っても止めないので今は放置している。
「これ今度の勉強会のレジュメ? 相変わらず細かく書くなあ」
「まあドクターだから細かすぎるくらいが丁度いいんじゃないかな」
彼はパソコンの画面を覗き込みながら渋い顔を浮かべている。僕の次週には彼が勉強会の発表者の筈だから、そろそろ準備に取り掛からなければまずいと思っているのだろう。
「今先生は教授室にいるんだよね?」
「そうそう。話し合いをしたいとかですぐ来てくれだってさ」
同期の言うように、時折こうやって先生はそこらへんの学生を捕まえて人を呼ぶことがある。ならばしょうがない。長時間椅子に座っていたため、立ち上がると軽い眩暈と一緒にこった部分が軽い痛みを訴えてくる。
小さく伸びをして頭を振り、呼びに来てくれた同期に目線を向ける。僕よりも頭一つ分大きな身長を見せつけられて少々苛立ちが湧きたつが、グッと飲み込んで我慢した。
「ありがとう。じゃあちょっと行ってくる」
最後にパソコンを閉じるのも忘れない。軽く礼を済ませると、僕は学生室の出口に向けて歩き出した。
先生こと我がゼミのナンバー2に座る准教授の部屋は、廊下に出てから右に曲がるとすぐに辿りつける場所に存在している。ちなみにナンバー1はラボのあるこのフロアで一番良い部屋に住まうボスこと老齢の教授だ。廊下を歩きながら時代を感じるすすぼけたベージュ色の壁を眺め、この現代日本に戻ってこれてはや4年もの歳月が過ぎたのかと感傷に浸った。
当初この日本に戻ってこれた自分が対面したのは、懐かしの故郷の光景だけではなかった。換金するために持ってきた貴金属や宝石も、大手の質屋に持って行ったところで最初に身元の証明書の提示を求められたため断念した。やや胡散臭い質屋で売りさばこうにも、銀髪白人肌という見た目のせいでなかなかお金と交換してもらえず、やっとの思いでお金を手に入れた時は嬉しさで思わず涙を流した程だ。
質屋で奮闘した後は手に入れたお金で列車を駆使し、なんとか生前暮らしていた実家へと戻ってきた。家の見た目は全く変化せず、表札には自分の名前が書いてあったため懐かしさで胸を痛めながらインターホンを押した僕は、駆け値無しに人生で最大の驚きをすることになった。
「失礼します」
扉のマグネットで先生が部屋に居ることを確認して軽く扉を叩く。了承の言葉は特に返ってこないが、いつもの事なので何ら気にすることは無い。
「おお、来たか。とりあえず椅子を持ってこい」
「分かりました」
部屋の奥に置かれた大きな机。僕のちんけな愛機とは比べにもならないほど立派な梨印のデスクトップパソコン。そして僕の机と大差ない積み上げられた書類。
そんな机の前で作業をしている彼は、Tシャツにジーパンを組み合わせたまるで学生の一人と見紛うくらい非常にラフな格好に身を包んでいる。大きな銀縁眼鏡を掛けて某16代合衆国大統領のように立派な顎髭を蓄えた姿は、准教授にしては若い30歳後半という実際の年齢よりも彼を大物に仕立て上げるのに一役買っている。
「今度の論文投稿に関する話ですよね」
「そうだが……今は俺達しか居ないんだから、口調を崩しても良いぞ? むしろお前の敬語とかちょっと寒気がするから勘弁してほしい」
「……分かったよ。"平塚"先生」
そんな彼の名前は平塚礼二。この国立東都工科大学で若くして准教授まで上り詰めた、いわゆる期待のエースである。
そして部屋の隅から引っ張り出してきた椅子に座る僕の名前は、異世界じゃラスティレイ・フォルガント、現代日本では平塚礼二。この国立東都工科大学院で16歳という異例の若さで現在博士号取得を目指している、銀髪真っ白肌ブルーな瞳の色物である。先生と僕、同姓同名漢字まで一致という事実以上に、もっとびっくりする繋がりがあったりする。
「いくら姿が違うからって内面がまるっきり"自分自身"の人間に敬語で話しかけられるって結構ゾワってするぜ?」
「もう4年半も経つんだからいい加減慣れりゃ良いのに」
あきれた調子で返してみても、彼は相変わらず苦々しい表情を浮かべていた。
「そんなこと言ったって自分自身だ。胸に手を当ててみて考えろ」
「……前言撤回。僕もそんな境遇になったら寒気を感じるかもしれないな」
フランクな口調で会話を弾ませる片や16歳の異国風の少年と、片や40手前の大物っぽい見た目の中年親父。僕たちは見た目こそまるで違うが、実のところ同一人物なのだ。
震える手でインターホンを押し、12年ぶりの再開となる両親に何と話をしようものかと考えを張り巡らせていたあの時。開いた扉の先に居たのは、結構な歳になっているはずの両親のどちらでもなく、どこか見覚えのある顔で怪訝そうに此方を観察する若い男だった。
見覚えはあるが誰かははっきりと分からない男を前にして、僕は非常に焦ったものだ。混乱しながら「平塚さんのお宅ですか」とどこかの業者みたいなことを口走る僕に若い男は大層警戒した様子で「そうですが、何の御用ですか」と全力で排除に掛かる始末だ。「僕は12年前に死んだ平塚礼二です。両親に合わせて下さい」と直球を投げつければ「本物の平塚礼二を前にして勝手に殺したうえに名前を騙るたぁいい度胸だな」と鋭く打ち返す。「そもそもアンタは誰ですか」と異議を唱えれば「お前こそ俺の名前を騙ってるがどこのどいつだ」と逆に問い詰められた。
新手のオレオレ詐欺と確信した彼と、なんとしてでも目の前の男を突破して両親に先立った事を謝ろうとする僕の押し問答は更に加熱した。
思いつく限り生前の思い出を片端から列挙していく僕を前にして、男は段々と表情を真っ青にした。そしてパソコンの暗証番号など僕以外知らないはずの情報もペラペラと口から出すと、彼は真っ青な顔はそのままに僕の胸倉を引っ掴んだ。後から聞いてみたところどうやらハッキングを仕掛けられたものだと思ったらしい。
そして加速する言い合いの中で僕は目の前の人間がどうにも生前の自身の姿に似ているということに気が付き、男の方も出回る訳が無い自身の私生活について重箱の隅をつつくかのごとく語る僕に違和感を感じ始めていた。
両者が疲れ始めたせいで戦場は玄関口からリビングルームへと移行し、何故か彼は僕にも煎茶を注いで渡してくれた。部屋の間取りは記憶の通りで安心感を得る一方で、色んな場所に置いてあったはずの両親の所有物がリビングに見当たらないという事実に少しの焦燥感が湧き始める。
恐る恐る両親について聞いてみると、ひたすらに僕を拒み続けていた様子から一変して、彼はやや苦々しい表情を浮かべつつ両親が田舎で第二の人生を歩んでいることを告白してくれた。これに僕が心底ほっとした様子を浮かべたことが引き金となり、彼と僕による腹を割った話し合いがようやく幕を開けたのだ。
「これからかなり粗探しする感じになるが許せよ。さて論文に軽く目を通したけど、まず考察の項で少しだけ怪しい部分がある」
「ええと、どこらへん?」
平塚礼二という本名を持つ僕の主張は、12年前に通り魔に背中を刺されて死んでしまい、その後この日本とは全く異なる大地で新たな生を受けたという突拍子もないと言われても仕方のない物。一方で自分こそが本物の平塚礼二だと言い張る彼は、確かに12年前に通り魔の襲撃に遭遇して背中を刺されたが、懸命の治療の結果意識不明の重体から奇跡的に回復したと主張した。
同じ存在を名乗る人間が2人も存在する。そんな状況は普通に考えてあり得る話ではなく、互いが相手を偽物だと信じるのが自然だろう。だがその時、煎茶を飲んで一息をついた僕の頭はどちらの主張も正しいのではないかという発想へと至ったのだ。つまり僕も彼も双方が"平塚礼二"という人間に違いないのではないかと。
二つの主張を組み合わせるのならば、そもそも僕がファンタジーな世界に転生した際に、一度死んでからという前提が違っていることとなる。ならば僕という人格は、事件によって生死の境をさまよった平塚礼二という魂の片割れなのではないか。その考えへと至った僕は思わず頭を抱えた。生まれてから12年間ずっと信じ続けてきた常識のようなものが崩れるのは、想像以上に心へのダメージが大きかったのだ。
「断言できるところはきちんと断言した方が良い。それとこの論理はもう少し参照文献の補強が欲しいな」
「やっぱり当たり障りの無いようにってのは連続しちゃいけないか」
僕の魂は事件によって生死を彷徨った貴方の魂の片割れだと言ったものの、想像通り男は信じてくれるどころかかわいそうな物を見る表情で此方を見るだけだった。
だが彼の目の前で湯呑に残ったお茶をポケットから取り出したなけなしの魔石を用いて瞬時に凍らせてみたり、子供のころに田舎の雑木林でカブトムシを取りに行ったことを筆頭に昔懐かしの話で盛り上がっていく内に、段々と彼は僕が自分自身と同じ記憶を抱えている異世界の人間だという認識を抱いていった。
日も傾き始めて互いに信頼が築かれ始めたころには、話題はお互いの近況報告へと移行していた。通り魔事件で意識を失った僕がとある王国の有名貴族の妾の子として生まれ、その世界では魔法という物が普通に存在し、双子の妹が居るという話をすると彼は大層興味深そうに聞き入った。一方の僕も、無事に通り魔事件から復帰した"平塚礼二"が熱心に研究へ勤しみ、博士号を取るだけに留まらず30前半なのに来年から准教授として大学に勤める予定と聞いて度胆を抜かされた。
そして原理はともかく何故此方の世界へ戻ろうかと思ったのかを問われて、生前続けていた研究をもう一度行いたいからだと答えた時、彼は少し驚いたような顔を浮かべ、その後遭遇してから初めて見せる優しげな笑顔を僕へと向けてきた。「その願い、俺なら手助けしてやることが出来るぞ」という手を差し伸べるような言葉と共に。
「追々発表練習は行うとして……まあ今のところは三年卒業に向けて順調だな」
「上手くいけば17歳で博士号かあ。なんか言葉に出してみると日本じゃ考えられない快挙だね」
「本当にすごい話さ。ある意味で自分自身の快挙なのにもの凄い嫉妬が湧くほどだ」
衣食住が欠けている僕に、生活が軌道に乗るまではそれらの援助をする。そして平塚礼二が現在所属している大学院の入試を受けられるように紹介状を書く。更には戸籍すらままならない僕の宙ぶらりんな状況を何とかする。一度その気になったら突っ走るタイプの彼は、言ってしまえば記憶の繋がり以外は全くの他人とも取れる僕に対してその全てを有言実行してくれたのだ。
「まあそう言うなって……"父さん"」
「おいいくら養子縁組結んだからってその呼び方だけは本当に止めろ」
准教授と同姓同名で義理とは言えども父子の関係。現代日本にきて戸籍もクソも無かった僕が早一か月後には強力なバックグラウンドを持つに至れたのは、幸運以外の何物でも無いと今でも思い出すたびに感じている。
ところで論文を書く場合、著者名に「Hiratsuka R.」が並ぶことに成りかねないが怪しく見られはしないだろうか。少なくとも自分なら思わず二度見をするだろうから不安である。
* * *
時刻は12時。いわゆるお昼時というやつであり、今からキャンパス内の学食へ赴こうとすればもれなくわんさかと集まる学部生の波に揉まれることとなる。普段ならばグッと堪えて人足の遠のく13時以降に向かおうかと考える所だが、週末の今日という日にはそんな甘えは許されない。奨学金を人質に取られた僕は、学部生の実験授業にアシスタントとして就くことを半ば強制されている。その実験授業が午後の一コマ目から入っているおかげで、時間を外した食事に赴くとなるともれなく授業の時間からも外れてしまうのだ。
三週連続で我々のラボが担当する実験が続いているのは少々やりすぎなのではないかと思うこともあるが、アシスタントとしての業務は別に嫌いではない。昔こんなのやったなあと生前の記憶を思い出しながら、毎度学部生が四苦八苦している実験をサポートするのは案外面白いものだ。外人ですよと言わんばかりの見た目のせいで初回こそは質問されることは少なかったものの、適応力に富んだ学生たちは日本語が通じると分かるや否や積極的に僕に話しかけてくれたのも一因かもしれない。
「カツ丼と味噌汁お願いします」
「あいよー」
おばちゃんの威勢のいい返しを聴いてふと思う。最近になってようやく衆人の視線に晒されながらも堂々とカツ丼を注文することが可能な豪胆さが身についた気がする。
しかし見た目のおかげでどうにも注目されることが多い。最初は自分が自意識過剰なだけだと信じて心の平穏を保っていたが、指を差されて内緒話に花を咲かせる者共を何度も見かければどうしようもない。まあ流石は東京でもトップクラスの大学と言ったところか、勝手にスマートフォンで写真を撮り始めるようなモラルに欠けた学生が現れない辺りしっかりした教育を受けているのは分かる。
「カツ丼と味噌汁、合計で478円だよ」
「RAMOSでお願いします」
混雑したレジで時間を掛けないようサッと多機能磁気カードを取り出せる程度には、僕は周囲に配慮を配れていると思う。財布をバリバリ言わすでもなく軽く機械にかざすその一振りで決着がつく辺り、もっと皆もRAMOSを切符以外の方法に使うべきだ。
そんなこんなで会計を終え、次の試練は椅子の確保だ。長机が並べてあるこの空間には大量の学生で賑わっており、結構な割合で友達と食事に来ているような集団が纏まって座っている。一番混み合う正午近い時間にまとまって空いているスペースは少なく、僕のような一人で食事に訪れる客はそうした集団の間に作られた空席に座ることが多い。
なんとか空いてる席を見つけて腰を下ろし、両手を合わせてカツ丼に箸をつけようとしたその時。軽く肩を叩かれて何事かと思い振り返ると、髪の毛を茶色に染めた若い男が、チャラそうな見た目に反して申し訳なさそうな顔を此方へと向けていた。
「あの……すんません。1つ左にずれて貰っても良いすか?」
「……構いませんよ」
どうやら僕の座った席の隣には、サークルか何かの集団が座っているようだ。見ればお盆に定食を乗せた状態で立ち尽くす女子の姿があり、どうやら集団に混じって座りたいのだろう。直接隣に座っている訳ではない彼がわざわざ言いに来る辺り、この集団内でのまとめ役か、もしくは後輩でパシリをやらされているかのどちらかだろう。
割りばしを割った後に退けと言われたため一瞬ムッとした表情を浮かべてしまったが、彼が苦労人ポジションに収まっているような気がしてならないため、ここは快く譲ってあげることにする。
「あ、ありがとうございます!!」
「いえいえ、お気になさらず」
お盆を持ち上げて隣の空席へとずれ込む僕に、彼は三回ほど頭を下げてくれた。そしてどいた席に例の女子が座るのかなと思いきや青年が集団の真ん中付近の椅子から自分のお盆を空席へと移し、新たに空いたスペースに女子が何のためらいもなく腰かけて、軽く青年に礼を済ませるのも束の間にすぐに集団の面々と雑談を始めてしまった。あまりにも鮮やかに行われた一連の下種い動きに思わず僕も目を見開いてしまう程だ。
「……君も大変だね」
「アハハ……まあ頑張るッス」
あまりにも女子贔屓というかなんというか。この集団は崩れる時は一瞬だろうなと思いながらぼそりと青年に話しかけると、彼は軽く苦笑いを浮かべていた。
まあこの青年もグッと耐え忍んでいればいつかは大物になるだろう。なんたって日本語どころか英語も通じるか分からないような見た目の銀髪真っ白肌ブルー目の色物に、失礼を承知の上で退いて下さいと頼み込む程の豪胆さがあるのだから。少なくとも通り魔に刺される直前の僕には不可能な芸当だ。そしてどう見ても自身より年下で身長も平均よりは低い僕に敬語を使ってきたのも高得点だ。頑張れ青年、負けるな青年よ。
さあ食事再開だ、ともう一度割りばしを手に取った僕の前に、ドカッと腰かける音が響いた。
まあ空いている席も少ないことだし、がさつに座るのは少々いただけないが小さなスペースに人が詰まっていくのは別に不思議なことでもない。特に気にするそぶりも見せずにカツ丼へ箸の先端を付けようとしたその時、前に座ったと思われる人影は腕を伸ばして僕の頭を小突いた。
「ちょっと無視しないでよ」
人様の食事を邪魔したのはどこのどいつだと顔を上げて確認してみたら、目の前に居たのは肩ほどまで伸ばした光沢を放つ赤紫色の髪を揺らしながら不満げな表情を浮かべた美人さんだった。
「出たなマンガン。君が居ると目立つから向こうの方で食事を取ってもらえるとありがたい」
「マンガン言うな!! 目立つっていったらアンタの銀髪も相当なモンでしょ」
赤紫色と銀色。この日本では真夏や真冬の有明に行かなきゃ早々見つからない組み合わせが成立してしまったおかげで、食堂内の注目度が急激に上昇した気がしてならない。隣の苦労人青年君も呆気に取られた様子で僕と彼女を交互に見渡している。
重金属を髪の毛に取り込んでいる疑惑があるこの少女は、我がゼミの新入学部生であり、同時に信じられない話だがなんと僕と同郷の人間である。




