その2
「皆さん飲み物は行き渡りましたね? それではただ今より、今年度最後のイベント、早川・平塚研究室追いコンを始めさせていただきます!!」
大学の最寄駅から数駅の少々大きな街の一角、この研究室でうちあげをやる際にはよく利用している飲み屋で、ラボの面々が一斉にグラスを持ち上げた。総勢20人強のメンバーは誰も彼も笑顔を浮かべており、来年度で修士2年になる学生が音頭を取ってグラスを高く掲げた。
「卒業される先輩方、そして大月の地へ出征される平塚先生と藤沢さん!! 皆さんのこれからの成功をお祈りして、乾杯!!」
彼の合図と共に全員が乾杯と大声で祝いながら近場のメンバーとグラスをうち付けた。僕も両隣や前に座るラボ面とグラスを鳴らし、そのまま一気にグラスの中身を飲み干した。
「よっ、平塚さんいい飲みっぷり!!」
「ぷっはあ!! ソフトドリンクだからこそ出来る芸当だから絶対に真似しちゃいけないからね!!」
机にグラスをうち付けた直後、一気飲みをした反動で喉の奥からショウガの匂いを纏った炭酸ガスがげっぷとして出てきた。周囲がグラスの中にアルコール類を注いでいる中で、僕は未成年ということでジンジャーエールをたのんでいる。僕の言葉に曖昧に頷きながらも後輩は結構な勢いでビールを飲んでいき、あれよという間に空になったグラスを片手にピッチャーへ手を伸ばした。
乾杯の合図が終了したのを確認したのか、店員さんが目の前の鍋に火をかけて、コースメニューであるサラダの盛り合わせが机の真ん中へ置かれた。すると直後に後輩の一人が僕の皿にサラダを取り分けてくれた。
「おお、ありがとう」
「いえいえ。そういえば先輩は卒業もするし大月遠征もするしで二重の意味でのお祝いですね」
「そう言えばそうだったね。でも憂鬱だよ、もうすぐ東京の地から足を洗わなきゃならないなんてね」
今は3月の初週であり、来週から研究室にある平塚グループの実験器具や装置が搬出される。普段ならばこのゼミの追いコンは月末の卒業式近くに執り行うはずだったが、今年に関しては准教授の異動というイベントがあるために月の前半に前倒しになった形だ。
本拠地のおんぼろアパートの一室は既に家具があらかた纏められており、予定では来週末に執り行われる引っ越し作業に向けての準備は順調に進んでいる。いざ片付け作業を進めていくと、およそ5年間過ごした部屋は元の殺風景でボロッちい風景から随分と自分が住みやすいように手を加えていたのだと実感をさせられた。
「4月からはラボも人が少なくなりますよね。今年は博士課程に進む先輩いないし、それに加えて平塚先生も異動だし、寂しくなるなあ」
「その代わりに新しい助教さんが来るそうじゃないか。それに順調に行けば来年頃には米原先生が准教授に昇進するんじゃないかな」
次年度からはこのラボにおける教授職の人間がボスこと早川教授だけになる。この5年間平塚先生が加わり順調に回っていた研究室の運営だが、多分ベテランの早川先生のことだから再度一人教授のラボになっても上手くやっていけるだろう。それに米原先生というやり手の助教もいることだから、これからもこの研究室は安泰な気がする。
グループは違えど、早川教授や米原先生にはかなりお世話になった。基本的に僕は平塚先生の元で指導を受けたり研究活動を続けてきたが、彼らに貰ったアドバイスは数多くに上る。最近では助教としての心構えを米原先生からたくさん聞くことが出来たし、このラボを出てからも頭は上がらないだろう。
「僕だってこの研究室とのつながりが切れた訳じゃないよ。研究内容が大きく様変わりするわけじゃないし、学会発表で会うかもね」
「そん時は俺もちゃんとした発表が出来るように精進していきます!!」
「その意気だ、頑張るんだよ。お兄さんとの約束だからね」
酒が回ってきたのか、全体的に赤らんできた顔で後輩は豪快に宣言をした。飲み会の席の口約束であるが、彼が宣言以上の成長を遂げてくれるのを切に願うばかりだ。
まだ飲み会は始まったばかりだが、机の各地で賑やかな会話がなされている。こうやって仲良く接することもあれば、時には発表会練習の場で厳しく叱ることもある。ただの子供じみた馴れ合いではなく、しっかりとした絆を作り上げてきた仲間だ。今まで送り出す側に立ったことはあるが、送り出される側に立ったことは前世の高校の時にまでさかのぼる。立場が逆転するだけでセンチメンタルに思う気持ちが一層強くなる、この感覚を思い知らされるのは久しぶりの話だ。
ポリポリとサラダを頬張りながら、後輩と色々な話に花を咲かせていく。やれ今後の学生生活だ、彼女を作りたい、はたまた俺は先輩よりも年も身長も高いんじゃないか等々。最後の話題に関してはチョップを入れておいたが、こう生意気な会話もこれからは交わす機会が無くなると思うと、不思議と全てを許せるような気がしてくる。そんな僕たちの後ろに忍び寄る影が居るのに、全く気が付くことはなかった。
「君たち楽しんでるかな?」
「あ、小田原さんどうもです」
今年で卒業する同期こと小田原が、ニヤニヤしながら僕たちの後ろに控えていた。グラスを差し出してきたため、とりあえず僕と後輩も飲み物を注ぎ直して3人でグラスを鳴らし合わせた。
「ちょっと礼ちゃん借りて良いかな? 向こうの方で先生方がお待ちかねだ」
「どうぞどうぞ、持って行っちゃって良いですよ」
「僕は物じゃないぞ」
一応苦言を呈すが、酒が回りつつある後輩からははいはいと軽くいなされ、同期に至ってはこれ見よがしに高い身長差をいかして人の頭をわしゃわしゃと撫でてくる。
そしてそんな光景を離れた席から腹を抱えて眺めている人間がいた。早川教授の近くに座りながら人を指差してげらげらと笑っているのは平塚先生だ。この野郎、いっそのこと羞恥心を投げ捨ててこの場でパパと連呼してやろうか。
「はいはい、礼ちゃん行くよー」
「手を引くな手を。酒なんて入りようがないんだから普通に歩けるよ」
ラボ面が座る後ろをひょいひょいと歩いて奥の机へと向かっていく。途中で周囲を見渡してみれば、藤沢さんが他の女生徒たちに混じって会話に花を咲かせている。彼女達にとっても、今日が最後の語り合いの場だ。後悔が残らないようにしっかりと今日という日を楽しんでほしい。
「早川先生、礼ちゃんを連れてきました!!」
「来たか。まあ座んなさい」
そうしてやって来た長机の奥の一角。平塚先生と早川教授が向かい合って座り、そしてまた都合のいいことに平塚先生の隣には空席が出来ている。僕をここまで連れてきた同期は、入れ替わりということなのか僕がいままで座っていた席に腰かけてしまった。ニコニコと楽しそうに微笑む老齢のボスは、その席に座った僕にグラスを突き出した。
「改めて博士号取得おめでとう。17歳で博士号取得は、当然私の研究室じゃ最年少記録だ」
「ありがとうございます。僕もここまで順調に来れて、自分のことながら結構驚いてますよ」
グラスを打ち付けあい、互いに中身をあおる。朗らかに笑うこの壮年の男性が、長年東都工科大学で教鞭を振るうこの研究室の主こと早川教授だ。昔の思い出と比べてしわが増えて髪の毛もかなり白くなっている彼には、本当に長くお世話になった。
「君を見ていると、昔平塚君がまだ学生だったころを思い出すよ。ああ、現在准教授の彼のほうだ」
「本当に紛らわしいですよね。まあ彼は僕よりも出世コースを歩んでいますから、これからが大いに期待できますよ」
早川教授に賛同の意を示す平塚先生は、僕を見て笑いながら茶々を入れた。確かに卒業後に即助教というのは、最近の研究者事情を考えればかなり恵まれているといっても過言ではないかもしれない。しかしたとえ自分自身からとはいえ、こう褒められるとどうにも背中がむず痒くなる。
「この5年間、見た目は全然異なっているにもかかわらず君が平塚君に重なることが多かった。名前が一緒ということもあるんだが、学生時代の彼と似ているところも多かったからね。彼がこのラボに准教授として戻ってきたときに入学し、そして彼の異動に合わせて着いて行く。君たちはかなり巡りあわせが良い」
早川先生が昔を思い出すように、僕も二回目の大学院生活の中で前世の学生時代を思い出すことが多々あった。もう15年以上前になるのか、まだ僕が学部3年だったころに研究室見学を始めたとき、色々と回った中でピンと来た研究室の名前が早川研であった。当時はまだ准教授だった早川教授のもとで教えを受け、段々と研究テーマへの興味が強くなっていった。生憎僕は研究室に入ってから2年後にエルトニアに転生してしまったが、それでもまたこうして同じ場所で学べたのは非常に貴重な経験だと思う。
「今後は君も助教に昇格だから、平塚先生というと完全に混ざってしまうな」
「あはは……新キャンパスじゃどう呼んで貰ったらいいですかね」
フォルガントの姓を名乗れなくなった今、果たしてどう呼び分けて貰うかは結構な問題だ。リーヴェルキャンパスでも平塚先生とタッグを組んで活動を行う以上、呼び分けの方法は考えておいた方が良いだろう。何も知らない人の目には、平塚姓の教員が2人もいる研究室というのは少々異様に映るかもしれない。
「まあそれはコイツと一緒に追々考えていきますよ。銀髪版とか髭版とか色々ありますからね。ところでレイ、あの衣装は着てこなかったんだな」
はてあの衣装とは一体何のことかな。ひらひらシャツやチェックなスカートなんて僕は知らないよ。素知らぬ顔で首を傾げてやると、平塚先生は苦笑いをしながら注ぎ足されたビールをあおった。
「良い性格してるな。この感じじゃ向こうに行っても乗り越えて行けそうだ」
「お褒めいただきありがとうございます、父さん」
「おうその呼び名だけは止めろ」
横に座る平塚先生からすぐに頭を小突かれて制裁されてしまった。色々と言い返してやりたいところだが、周囲に人がいる以上対等な口調であーだこーだ言うのは避けた方が良いだろう。
そうこうしている内に、どうやら鍋の方が仕上がったようだ。蓋の隙間から時折細かな泡が出ては消えていき、それに伴って海鮮類の独特の香りが漂い始める。乾杯を終えてから口に含んだものがサラダしかなく、中途半端に胃に物が入った状態でのこの匂いは、口の中に唾液を充満させるのには十分すぎる破壊力を持っている。
「少々失礼します。お鍋の蓋を開けますね」
「あ、お願いします」
タイミングを見計らったように、僕たち三人の真ん中に置かれた鍋を覆う蓋を店員さんが取り外してくれた。一気に良い香りを含んだ湯気が舞い上がり、白煙の向こう側に見える赤くなった海老の甲殻やひたひたになった菜っ葉が食欲を駆り立てる。
鍋の蓋のかわりに店員さんは机に人数分の取り皿を残して去って行った。僕は全員分を取りそろえようと皿に手を伸ばしたが、それよりも一歩早く早川先生が取り上げてしまった。
「今日は私が送り出す側だ。遠慮せずに座っていなさい」
「あ、ありがとうございます……」
壮年の教授にこんなことを言われてしまったら大人しく座っているしかない。海老が丸ごと一尾取り分けて貰えて、モクモクと湯気を立てる小皿が目の前に置かれた。平塚先生は自分の皿を掴んだまま早川教授がお玉を手放すタイミングを虎視眈々と狙っていたが、そんな努力も無言で手を差し出す教授の前には無駄であった。
「ほら、君も貸しなさい」
「い、いえ……本当に恐縮です」
結局ラボのトップに皿を取り分けて貰うという非情に恐縮な状態となった僕と平塚先生は、苦笑いを浮かべながら視線を交わした。今日は確かに祝われる立場とはいえ、前世と今世の双方でお世話になった恩師に鍋を取り分けて貰うのはかなり緊張する。
「君はこれから困難が増えるだろう。博士から助教、求められるものも一段と大きくなるはずだ。開いて間もない研究室は運営していくのも一苦労だよ」
お玉を鍋の隣に置きながら、早川教授がゆっくりと話し始めた。僕が前世で早川研究室に配属された時は、まだ開設されて間もない研究室だった。国立の研究所から准教授として招かれてまだ三年ほどだったか、学生数は少なく予算も十分とは言えないところだった。生憎僕という人格は小さな早川研究室が段々と存在感を増していく黎明期を知らないが、ここまで来るのに相当な苦労があったに違いない。
「特に一緒に行くことになる学生が藤沢くんしかいないのだから、初期は助教の君も雑用に追われることがある。その序盤をしっかりと乗り越えていけるかがまず第一歩だ」
「思えばこの研究室もよく序盤を乗り切りましたね。研究テーマは当時から他にも強い研究室があったし、僕が研究室史上一番目の博士課程でしたよね」
「当時は君にも大変な思いをさせてしまったね。君が一度ポスドクでここを離れてから、かなり頼っていたことがあったと実感したよ。君は平塚君に負担を強いるんじゃないよ?」
こうして前世の僕と前世の恩師が杯を交わしながら過去の話に花を咲かせているのを見ていると、なんで自分がその中に加われないのだろうと不満に思うこともある。もし通り魔に刺されなかったら、そもそもラスティレイ・フォルガントなんて人間は存在せず、僕が平塚先生としてこの研究室で活動をしていたのかもしれないのに。
僕の知らない気苦労があり、僕の知らない成功もあるんだろう。二人の楽しげな様子を見て、僕は少しだけ嫉妬をしてしまった。
* * *
司会担当の後輩が会計を行っている間に、ラボ面達と共に僕は飲み屋の外へ出てきた。このナリだからだろうか、忘年会や追いコンに参加をした後に集団で帰り道を歩いていると、駅前の交番近くで見回りをしている巡査に声を掛けられたことは少なくない。年齢もまだ二十歳には達していないし酒を自主的に控えていたため毎度事無きを得ているが、こっちの見た目が銀髪白人ブルーアイなんて色物なんだからいい加減覚えりゃいいのにとは思う。
三月初旬の夜は、日中の心地よい暖かさが消えてしまって少々肌寒い空気が蔓延している。周囲のメンバーはこの寒さを見越して上着を持ってきている者が多かったが、その一方でここまで冷えると考慮をしていなかったのか少々寒そうにしている人間も少なからず存在した。
「藤沢さん。上着忘れたの?」
「……うん。天気予報みて今夜は暖かいでしょうって聞いていたんだけど、外れちゃったわね」
苦笑いを浮かべながらポリポリと頬をかく彼女は、半袖とは言わないが薄手の七分袖カーディガンのために少々寒そうに見える。アルコールを摂取した後ということもあり、白い頬がほんのりと赤らんでいる。この状態では普段以上に寒さというのは体にダメージとなるわけだし、大月出征前最後の一週間で一人風邪を引いた状態というのは笑えない。
「しょうがないね。はい、これでも着て」
「え、それじゃあレイが寒いでしょ?」
自分が羽織っていた麻の上着をやれやれといった調子で差し出すと、藤沢さんは困ったような様子で首を振った。そんな中でふと強めの風が飲み屋前の通りを吹き抜けていき、もろに冷気にあてられた彼女が小さく体を震わせた。
「ほら言わんこっちゃない。酒飲んで血管広がってんだから、寒さは普段以上に気をつけなきゃ。僕は禁酒してるから気にしなくても平気だよ」
「……ありがと」
少々恥ずかしそうな様子で僕の手から上着を受け取ったのを見届けて、僕はホッと一息をついた。脇を見れば飲み会の最中藤沢さんと仲良さ気に話していた女学生が面白いものを見るような目つきで此方を伺っており、何事だと見返せばすぐに視線をそっぽに向けられた。
「それでは流れ解散とします。今日は皆さんお集まりいただいてありがとうございました」
会計を終わらせてきた後輩が飲み屋から出てきたのを合図に、集団がぞろぞろと駅前を目指して歩き始めた。狙ったわけではないが藤沢さんは僕の隣を付かず離れずの距離を保ちながら歩いている。特に話すネタも無いため黙っているが、互いに近くを歩いていながら双方口を閉ざしたままなんてのは少々恥ずかしい。わき目でチラリと視線を動かして、彼女の方も此方を伺っているのを見ると思わず顔ごと反らしてしまった。
「おーふたーりさん。金属色の髪の君たちが並んでいると夜景に映えるねえ」
「……夜景っていってもそんな大したものじゃないだろ。それで何の用かな?」
後ろから小走りで近づいてきた同期が、僕の肩を小突いてきた。いつものようにいたずらっ気な笑顔を浮かべた彼は、僕の隣を押し黙って歩く藤沢さんの上着に目をつけたのか、再度ニヨニヨな笑みを絶やさず僕に向き直った。
「おお、礼ちゃんもやるじゃん」
「うっさい。琴葉さんに学位審査公聴会で君が汗ぐっしょりだったのをチクってやろうか」
「それだけは止めろよな!! ええとだね、この後の二次会に君たちも来るかなってのを聞きに来たんだ」
二次会、恐らくは全員さらに酒をあおりながらカラオケにでも入るのだろう。酒が飲めない体で出席するのも皆の士気を下げてしまうのではないかと思い、普段ならば二次会への出席は遠慮してそのまま家路につくのがお約束だ。この一年は何故か藤沢さんも僕に着いて帰ることが多かったが、ラボ面のみんなとはっ茶けられるのも今回が最後なのを思うと、士気がどうとか関係なく出席をしたくなった。
「藤沢さん、多分これがみんなと騒げる最後の機会だ。僕は行くけど君はどうするのかな?」
「……小田原さん、私も行きます」
「よっしゃ、ウチが誇る二次元コンビが双方出席とは盛り上がるな!!」
二次元言うな、という僕の渾身の叫びにも彼はひらひらと手を振って相手にせず、恐らく二次会の幹事に僕たちの出席を伝えに行くのだろう、前の方に小走りで向かっていった。思わず僕は藤沢さんと目を合わし、互いに苦笑を浮かべながら歩くペースを上げた。