居酒屋八郎、物思い猫
ご高説をべらべらと並べたてる嫌味な人間も、偉い学者の先生様も、聖人なんぞといわれる人間も、酒を前にすれば皆揃って形無しだ。
酒の隣に旨い食い物でもあれば、その陥落速度はもっと早くなる。
つまり居酒屋とは、人間を駄目にする魔窟のような場所である。
梅雨の晴れ間に、夕日がちらつく。
赤く湿った日差しが下って道を染め上げ、やがてそれは古ぼけた商店街の看板に当たって跳ねあがる。
『あけぼの通り』と書かれた赤錆た看板の向こうに広がるのは、でこぼこのアスファルトにすっかり年をとった商店通り。
道沿いにぶら下がる店舗の看板はどれも古びて文字は欠け、それでも音を立てながら白く輝くのだ。シャッター通りとまではいかないが、それでも店はずいぶんと減ってきた。
そんな少ない店の中でたった一件だけ、ひどく繁盛している店がある。
それは通りのちょうど真ん中あたり、シャッターとシャッターの間に挟まれた場所。
紺色の暖簾は脂の染みた重苦しいもので、外に置かれた四角い看板には「居酒屋 八郎」などと書かれている。
八郎は隠居した元店主の、そのまた爺さんの名前だそうだ。いずれにせよ古い話だ。
外のアスファルトと地続きのような店内には、カウンターと円テーブルが2つだけ。壊れかけて今にも振り落ちてきそうな巨大なエアコン、雑誌で補強された壊れかけの丸い椅子。
そして、カウンターの一番奥にある丸い椅子の上に、私はいつも寝転んでいる。
「おっチビ坊は今日も寝てんのかい」
一人の男が暖簾を潜るなり、躊躇もせずに私の隣に腰を落とす。どすん、という大仰な音と同時に私の体がぐらぐらと揺れる。
男はまだ飲んでもないくせに赤ら顔だ。年のせいか最近は酒の匂いでも酔っぱらうのだと軽口を叩いている。肝臓だかなんだかの値もずいぶん悪くなったとグチもいう。
ならば酒なぞ止めればいい。だというのにこの男は、律儀にも三日に一回は酒を飲みに店に通う。
「もうチビってサイズじゃないけどね」
カウンターからひょうひょうと顔を覗かせたのは、店の現店主である。髭面の凶悪な顔だが目は優しい。私は彼がまだほんのガキの時分からよく知っている。
「毛艶がいい。そりゃそうだ。この店の旨いもん食って20年だ」
22年だ。と、私は片目をあけて抗議する……聞こえるわけもない。私は赤ん坊の頃からこの居酒屋で飼われている一匹の雄猫だ。
懐かしき子猫時代の記憶は遠い。
川でおぼれかけているところを、前の店主にあたる爺さんが救ってくれたのだ。まだ目も開かない時代、私は母猫に捨てられたか、カラスにでもさらわれて落ちたのだろう。
私は母も兄弟も知らずに育った。しかし悲しいことはない。猫というものは楽天的にできている。
あの頃に考えていたことといえば飯と遊ぶことばかりだった。
人の言葉が理解できるようになったのは10の年を越えてからだろうか。人はこちらの言葉を理解しないというのに、なぜか私ばかりが人の言葉を理解したのだ。
それが不思議でおもしろく、人の後ろをついて回っては人間観察を繰り返した。
数年で人間の身勝手さに怒って家出をしてはメスと遊んで店に戻ることを繰り返した。ひどい放蕩息子もあったものである。
15を超える頃には人間の面白味をしり、20を超えた今はこうして居酒屋で毎日繰り広げられる与太話に耳を傾けている。
「猫ってのは糖尿や通風にならねえのがうらやましい」
無遠慮に、男が私の背を撫でた。せっかく舌できれいに整えていたというのに、その一撃で台無しだ。
「チビが神経質に体をなめ回してやがる。おまえも爺さんなのによくやるぜ」
ゆっくりと毛を整えていると、やがてカウンターの奥から干物のような爺さんがふるえながら顔を出す。
「チビは猫又だよ、やっさん。この猫はできる猫だって、あたしゃ拾ったときからそう確信してたよ」
ふがふがと歯のない口で爺さんは私を褒めたたえる。彼は引退をした、かつての主だ。
「あたしゃね、この猫の太い鳴き声に心惹かれたんだ。まだ、こぉんなチビのときに川で溺れててね。あたしは真冬の川にどぼんと飛び込んでさ、助けたんだよ。でもこの子は怯えも震えもしてなかった。開いてない目であたしのことをしっかと睨み付けてね、ああこれは大物だってすぐにわかったよ」
「はいはい、爺さんはいつも猫のことになると饒舌だ。ちゃんと座っておかなきゃ、また腰をやるぜ」
「あたしも年だが、チビを残しては逝かないよ。競争してんだ、ふたりでねえ」
私は耳をたて、爺さんを片目で見上げる。骨ガラか干物のようななりである。
これでも爺さんも昔は喧嘩っ早く、毎日毎日血塗れになっていた。だというのに、酒のつまみを作らせれば、右に出るものはいなかった。近所のヤクザも悪ガキどもも、爺さんの味にほだされて、やがてこの街には悪い男が居なくなった。
この男も今では大概ぼろぼろである。性格もずいぶん丸くなった。
私か、爺さんか。どちらが先にこの世よりおさらばするか、我慢大会だ。
彼はいつも眠くなるまで店の隅っこに座り込んで過ごす。だから私も負けじと、同じように座り込む。
「はいよ、おまたせ」
「きたきた」
店主は爺さんに膝掛けなぞをかけてやり、そしてカウンター越しに小皿とビールの瓶を差し出す。それを受け取って、赤ら顔で丸顔のこの男は……やっさんは、嬉しそうに笑うのだ。
「キュウリを昆布で締めたのと、新ショウガの甘酢和え。いいねえ、旬だねえ」
やっさんはこれ以上もない喜び顔で舌なめずりをすると、小皿にたんまり盛り上がったキュウリとショウガをひょいひょい口に放り込む。待ちきれないようにビールをコップにそそぎ入れ、こぼれそうになる泡ごとその黄金色の液体を飲み干す。
猫には色なぞ見えないとはバカにしたもので、猫も年をとればそれなりに、色を理解するのである。
赤い夕日に溶けるビールの色は、馬鹿らしいくらい綺麗な色だった。
「ああ。うまいうまい、いくらでも飲める……お。いらっしゃい……ああ。久しぶりだねえ」
一口飲んだだけですでに酔客の体で、やっさんは入り口の向こうに手を振り上げる。酔っぱらいの癖にやけにめざとい……暖簾の向こうに、新規の客が立っていた。
「……いいですか、入っても」
ひどく細い体の男だ。その顔をみて、主も私も思わず頭をあげる。
「あ。いらっしゃい、どうぞどうぞ」
彼は少し前まで毎日店に通っていた男である。
あの頃は羽振りもよかったのか、店の連中に奢る日もあった。
しかし店に足を運ぶことは週に一度になり、月に一度になり、最近は半年ほども顔を見せてない。
笑っても困ったような顔になる男だ。眉が細く、いつも八の字を描いている。だから八郎なんて店に惹かれるのだろう。と、いつか爺が語ったことがある。
「ここ座りなよ。ああ~、いい、いい。酒の注文はあとにしなって。最初のは俺の瓶のを分けてやる。さあさあ、ほれ、泡だらけだけど最初だからいいだろ……こぼれるまえに、すすって、すすって」
やっさんは楽しそうに男を引きずり込むと、ビールがこぼれるのも構わずにグラスにそそぐ。こんな客が多いせいで灰色の床はいつも湿って、酒の香りがする。
やっさんが椅子に乗せた尻をこちらに向けるものだから、私自慢の毛並みが乱れて仕方がない。両手をそろえてやっさんの尻を押すが、彼はちっとも構わない。
「すみません、こんな……あ、せめて何か食べ物だけでも……」
久方ぶりのその男は、青い顔でひどく恐縮して主をみあげる。主も慣れたもので、はいよ。といいながらなにやら奥でつまみの用意をはじめる。
まだ宵にも早いこの時間、ふいに涼しい風が吹き抜けた。
「いい風だねえ」
爺さんがふがふがと、また何かつぶやく。
「今日みたいな梅雨の合間をさ、弥涼暮月ってんだ。こう、涼しい風がふいっと吹く。穏やかで酒のうまい夕暮れだよ……」
爺さんの言うとおり、昼間の暑さを忘れるくらい心地のいい風が吹いている。
やっさんは赤い顔で風を受けて笑う。男の顔ばかりが青白い。しかしカウンターの奥から景気のいい炒め物の音と青い香りが漂って彼の顔にも赤みが差した。
「これはピーマンの炒め物?」
「そうそう。赤いウインナーと炒めて、塩こしょう。それだけ。ピーマンは、ちょっとしゃっきりしたくらいのが旨いからね」
「うれしいなあ。私、ピーマン大好きで。赤いウインナーも懐かしいですね」
主が出したのは、脂が香る炒め物。そして小皿に盛られたインゲンの煮物だった。すでに煮尽くされてそれはクタクタと崩れている。
隣で脂をまとって輝くピーマンと悲しい対比である。
私はテーブルを横目で見るだけで、あとはまた丸くなった。ピーマンだのインゲンだの青い野菜の旨さは私には理解不能である。
「ピーマンもうまいけど、俺はインゲンに惹かれるなあ……インゲンのくたくたとこう……茶色になってるのも俺は好きだね」
皿の上につみあがった細長いインゲンを、やっさんが箸で摘んでうっとりと見上げた。くったりと頭を垂れるそれは、きしきしと不思議な音をたてて彼の喉に吸い込まれていく。
やっさんは酒くさい息を吐き出して、箸を鳴らす。
「ああ、ビールもいいがこれは焼酎だよ大将」
「やっさん。駄目だよ、酒減らしてるんだろう。焼酎ならいっぱいしか出さないからね」
「じゃあついでに、この兄ちゃんにも出してあげて」
「いや、私は」
「いいのいいの。俺が一人で飲みたくないだけなんだ」
やっさんはにやにや笑う。その笑い顔に、店主はあきれ顔で焼酎の蓋をあける。大きなグラスの中には、たっぷりの氷に透明の液体。そこに刺さった一本のキュウリの切れ端。
やっさんはキュウリを乱雑にまぜて齧り付く。その一滴が私の背に降り注ぐ。
「インゲンもいいけど、そろそろシシトウもうまいでしょ。俺さ、シシトウがくったりするのが好きでね……あんなにもパンパンに膨れたやつも、煮汁で煮込めばあんなにぺっしゃんこになって。膨らんだまま揚がったやつより、クタクタに潰れたほうが、なんかこう、妙にうまいんだよなあ」
「くたびれ……ですか」
意地の悪い顔で笑うやっさんのことを、男が不意に真剣な目でみた。彼は焼酎のグラスを両手でつかんだまま、動かない。
「人間も、くたびれた方が旨味が出れば、いいのですが……」
歯の奥を噛みしめるような、苦みが彼の顔に一瞬青みを走らせる。
やっさんはそれに気づいたか、どうか。
「まあまあ。しけた面してねえでさ、辛いこともこう、酒でぱぁっと忘れて」
やっさんは、男の肩をつかむなり無理矢理グラスをあわせる。棚に置かれたテレビから、わっと歓声が上がる。野球の中継だ。
主もやっさんも男も、みんなそろってそれを見上げた。
その瞬間、テレビの中に何やら文字が走る。私にしてみれば流れる文字はただの固まりにしか見えないが、それを見てやっさんが口を尖らせた。
「ああ丁度いい時に速報だ。選手の顔がかくれちまう……ああ。またこのニュースか。どっかの株が下がって、えらく揉めてるみたいだね」
やっさんの言葉を受けて男が何か口を開きかけたが、そっと唇を閉ざす。その瞬間を私はみた。
床に飛び降りて私は彼の膝に、長い尾を巻き付ける。男ははっと、息をのんで私をみる。
彼は私の黄金の目を見つめて、やがて言葉を飲み込むように酒を一口にあおった。
やっさんはすでに酔客の体となり、指先でインゲンをつまんでは旨そうに食っている。
「なあ、おやっさん、今日はお客さん、くるかねえ」
「そうだね。梅雨の晴れ間だ。ビールも冷酒も旨いから、人も集まって来るんじゃないかな」
「湿った日のビールは格別だが、焼酎のこう……きゅっと強いのを喉で飲むのもまた旨い……旨いねえ」
うっとりと呟くやっさんの言葉の通り、その日店は満員御礼となった。
居酒屋八郎が開くのは夕方16時から。だいたいこの時刻から人が来ることは滅多にない。18時が回る頃に混み始め、20時頃は満員だ。そして21時頃には酔客たちが席を立ち、22時にはしっかり閉まる。
そんな開店すぐの16時に、珍しく客がきたのは、梅雨明け宣言もまだな曇り空の日である。
「雨、持ちそうねえ」
週に3回、通いで店に来る女……百合恵が暖簾を差し掛けながら忙しそうに空を見上げている。
年かさだが、妙に愛嬌があって私へのブラッシングが巧い。
この店にたどり着くまでは、つらい人生だったと、いつか酔った彼女が呟いたことがある。私の背に降ってくる涙の粒の数はもう覚えていないが、撫でるようなブラッシングのリズムはいまだに覚えている。
「ここ最近はカラッ梅雨ね。降らないなら降らないでいいんだけど、暑くっていやになっちゃう」
ぶつぶつ呟きながら、百合恵はエプロンを身につけた……その時、彼女がかけたばかりの暖簾が揺れる。
「あいてますか」
「あらっ。今ちょうど開けたところよ、どうぞどうぞ」
暖簾のむこう一人の男が店に顔を覗かせる。彼はまっすぐ私の隣に向かって、そして礼儀正しく言うのだ。
「おちびさん、お隣、いいですか」
私はうつ伏せのまま、目だけをちらりとあげた。
昨日、やっさんとグラスを合わせたあの男である。彼は相変わらず八の字眉で、暖簾の向こうに立っている。
「顔色が悪いけど大丈夫?」
百合恵が太った体を折り曲げて、男の顔を覗き見る。
男ははっと目をあけて、自然な恰好で百合恵の目線を避けた。額に浮かんだ汗を、彼は拭う。
「ええ、暑くって……多分夏ばてです」
「気をつけなきゃ。まだ夏にもなってないんだから」
あれほど通っていても、誰も男の本名も過去もしらない。
居酒屋とはそういうものなのだ。と、今は骨ガラのような先代が語ったことがある。
居酒屋は人を堕落させる魔窟だ。
せめて店内にいる間だけでも、人を堕落できるようにしなければならない。店にいる間、人間はつらいことも過去もなにもかも忘れられるのだ。
猫には理解のできない世界だ。私からみれば、この店はいつも小汚く、いつもうるさく、そしていつも美味しい香りが漂っている。
「今日は何か美味しいものを……」
「うちは、なんだって美味しいけどね。そうだね今日は魚がいいよ」
「適当に」
主が男の前に冷えた瓶ビールをおくと、百合恵がかいがいしくカップに注ぐ。
グラスの半分ほども泡になったそれを姿勢良くすすった男の前に、やがて湯気をあげた香ばしいものが置かれた。
「鮎の塩焼き。小さいから頭からいけるよ。味付けは塩だけ。それと大きなアサリが手に入ったから、アサリとたっぷりのネギでヌタ」
「嬉しいなあ。どっちも好物だ」
若干、青白い顔をしていた男がほほえむ。机に置かれたのは虹色に輝く一匹の鮎だ。
小降りだが頭までしっかりと焼かれていて、体には輝くように塩がまぶされている。好物の香りに私は思わず声をあげる。主はちらりと私をみただけで構わないし、百合恵は私をなだめるように頭を軽くたたいてくる始末。
男はほんの少し申し訳なさそうな顔をして、鮎を頭からばりばりと口に放り込む。
粗塩が口の隅っこにこびりついているままに、男はそれをビールで流し込んだ。
「ああ。うまい……」
もう一皿は、大きなアサリの身が真っ青なネギと一緒に和えられたヌタである。
ヌタは主の得意料理で、その味は爺さんを超えたと豪語していた。
味の秘密を彼は誰にも語らない。メニューにも載せていない。彼がこれを出すときは、客が落ち込んで見える時だけである。
「夏らしくていいでしょ」
人を見ていないようで、この店の主は案外人をよくみている。
酸っぱいものに私はあまり興味がない。立ち上がろうとして再び寝転がる。その合間に、私はふと動きを止めた。
「ああ。美味しいなあ……」
大きなアサリをネギに絡めてかみしめた男の目に、うっすら何かが光ったのである。
それはまだ残る昼の日差しが反射しただけかもしれない。それでも妙に気にかかり、私は思わず男の膝に手をおく。
「チビさん、ヌタは駄目ですよ。酸っぱいものは猫の体に悪い」
男は相変わらず穏やかそうに笑う。その目に涙は見えない。しかし先日からの彼の顔つきや言動が妙に心に引っかかる……猫に「心」があるのかどうかは分からないが。
カウンター席に置かれた扇風機が風を巻き上げ、男の髪をなでる。ふわりと見えたその首筋に、青紫のシミが浮かんでいる。
私は妙にそれが気にかかり、にゃあと鳴く。鳴いて百合恵をみる、男をみる。主をみる。しかし誰も私の声を理解しない。
こんな時に気が付くのだ。私は所詮、猫である。
「あら、あら、雨だ」
男ビールを飲み干したあと、静かに席を立って店を出た。彼が去った直後、生ぬるく酸っぱい香りが空気を覆い、次の瞬間には雨が降る。
「降ってきちゃったわねえ」
「気を抜いたらすぐ雨だ」
「あの人、傘持ってなかったけど……大丈夫かしら……」
主と百合恵が並んで外をみる。空は一瞬で黒くなり、厚い雲の合間から、大きな粒の雨が降る。
でこぼこのアスファルトに、あっという間に雨がたまって光る。
息をつく間もなく、それは白煙をあげる雨となった。
私は湿気を嫌うように身を起こすが、鼻先に見慣れぬものを見つけて一声鳴いた。
「あら、なにかしらこれ」
百合恵は私の声に気が付き、先ほどまで男の座っていたカウンターをみる。そこには白い皿に小さなグラス、まだ表面に汗をかいているビールの瓶。その瓶の下に、小さく折り畳まれた白い紙。
「……店長……」
それを開いて目を通すなり、百合恵の顔が真っ青になった。
唇が震え、膝が震える。彼女の指から紙が落ち、あわてて百合恵はそれを拾い上げる。
私の目の前をその文面がすぎていったが、私には人間の文字はよめない。ただ、ひどく震えて薄い文字がそこにみえた。
「店長! 店長!」
そして舌足らずな声で、彼女は叫ぶ。奥で眠りこけていた爺さんが、目を見開いて肩を振るわせる。
瓶を片づけていた主が驚いたように振り返る。百合恵は紙を振り回し、取り乱したように店長の元へ駆けつける。
私はそんな百合恵の足下を、ゆうゆうとすり抜けて外へ飛び出した。
数カ月ぶりに出た外は、雨臭い空気に包まれている。
「……」
男は存外、すぐに見つかった。
雨はまだやむ気配もない。
豪雨だったのは一瞬で、今の雨足は強くもないが弱くもない。嫌な雨だ。
じとじととした雨が、私の毛の奥深くまで入り込む。不機嫌そうに尾を振り回せば、水の滴が周囲に散る。
そして、まるで消え入りそうに震える影の隣に立った。
「……ちびさん」
男は傘も差さず、駅のそばに立っている。改札ホームを震える瞳で見つめているのだ。幾度も足を踏み入れようとしては、躊躇するように止まる。それを先ほどから繰り返している。
あと5分足らずで特急がここを通過する。と、アナウンスが流れている。
頭から足先まで濡れそぼっているにも関わらず、通り過ぎていく人は誰も彼をみない。
幽霊のような姿だ。いや、幽霊になろうとしているのか。
私はゆっくりと尾をたてて男に近づく。男は雨簾越しに私をみて目を見開く。
顔も目も手もぜんぶぜんぶ、水まみれだ。
「……なんでここに」
男は傘どころか荷物ひとつもっていない。さきほど店に金を払うときも、無造作に折り畳んだ札をポケットから取り出したのである。そして、釣り銭を用意する主に構わず店を出たのだ。
今でこそ耄碌した爺だが、かつて私に語ったことがある。数千円を超える釣り銭を受け取らずに店を出る客は、2種類しかない。
相当に気前がいいか、死ぬつもりかどちらかだ、と。
「……」
にゃあ。と私は鳴いてみせる。年のせいで声はすっかり出ない。口を開けるばかりだ。毛並みはすっかり衰えて、爪の力も弱くなった。
しかし、名前に似ずに大きな腕には、人を一人この世に残すくらいの力は残っている。
「ちびさん」
男は私をみる。私も男をみる。
雨の中、見つめ合う。
私が思い出していたのは、私を子猫の時代にすくい上げた爺さんの言葉である。
爺さんが言ったのだ。それは遙か遠い記憶なので、おそらくまだ私は子猫の時代。川から救い出された時の記憶だろう。
『人に救われた猫ならば、いつか人を救うこともあるだろう。それが俺にゃ誇らしく、今から楽しみで仕方がない』
なんとも曇りがかった灰色の、甘くて苦い記憶だろうか。
「……」
「……」
雨の降りしきる駅の前、人間が忙しそうに行き来する道の真ん中で私と男は見つめ合う。
スーツ姿の男が、舌打ちをして私たちの前を通り過ぎていく。
「ちびさん……」
私は男の革靴に丸い手を置いた。
これでも往年は、多くの雌猫に惚れられた手である。
多くの雄猫を倒した手である。
それが今、人間の男を救っているのは不思議な話である。
「……」
男はしばし私を見つめたあと、諦めたように私を抱き上げる。
「案外軽いんですね、ちびさん。みんなが心配してるだろうから、帰りましょうか」
私を抱く男の手はがくがくと震えている。しかししっかりとした足取りで私たちは八郎の暖簾をくぐる。
男と私をみた百合恵はわっと泣いて男の胸をたたき、主はほうっと安堵の表情でどこかへ電話をかけ、相変わらず眠ったような爺さんは「ちびは猫又だよ。あたしゃ拾った時からできる猫だとわかっていた」などと寝言をぬかし、テレビからはまた野球の歓声があがっている。
「すみません。一日に二回も……店長、なにか暖かいものは」
百合恵の差し出したタオルで私の体を拭きながら、男が笑う。
先ほどまでの陰鬱な空気が消えた。私は欠伸をもらして、いつもの席に飛び乗る。
「ちょうど湯豆腐があがったところだけどね」
主は何ごともなかったような顔で、深皿を差し出した。その上には、醤油の茶色にそまった豆腐が一丁。
この店では、ぐつぐつ茶色に煮込まれたこの豆腐を湯豆腐と呼ぶ。
上からはたっぷりのネギとショウガのみじん切り、それにミョウガを薄く切ったもの。
猫の身からすれば口にするのは遠慮したいところだ。しかし香りは嫌いではない。
「ああ。雨がやんだ。梅雨なのに、なんていうあっと言う間の通り雨」
エプロンの隅で涙を拭いた百合恵は、男の残した紙を握りつぶしてゴミ捨て場に押し込む。
そして男に暖めた日本酒を差し出した。
百合恵が言うとおり、暖簾の向こうはすっかり雨上がりだ。屋根を伝って一滴二滴、雨の滴が地面に跳ねている。その滴も夕日の色に染まっていた。
男は日本酒の注がれた小さな杯を口に運び、ふるえる手で豆腐の角を崩す。ほろりと崩れた茶色の豆腐から白い湯気があがる。
男は何も語らずに、一口。二口。噛みしめて、彼は涙を指先で拭う。
「温かいですね」
「雨冷えには、これが一番だよ。温まってきたら、次は梅の入った焼酎を出すよ、前に随分気に入ってたみたいだから」
男はふと、目を丸くする。主の語る「前に」は男が足繁く通っていた頃の話だろう。
確かにあのころ、この男はやけに好んで真っ赤な梅の入った焼酎ばかり飲んでいた。
懐かしむように、彼の目が緩む。
「よく覚えてますね」
「名前なんて知らなくても、客のことはいつも見てるしいつも覚えてる。俺はいつもそうだよ」
男は温かい豆腐を、酒で流し込む。酒の味に重ねるように豆腐を口に含んだ。
そして男はぼんやりと、暖簾の向こうを見つめる。
「今日も……混みますかねえ」
「混むと思うよ。梅雨の雨上がりの湿っぽい時には、ビールがよくでるんだ……ほら来た……はい、いらっしゃい」
主はひょいっと顔を上げて暖簾の向こうに手を振る。
雨上がりの空は白い看板に惹かれるように一人二人。
私は店が混もうが席が埋まろうが気にもせず、背に注がれた酔客からの酒を丁寧に舐めて拭い落とす。鼻につんとつき刺す酒の香りは、いつまでも慣れないものだ。
そんな私に構うこともなく、店に来る男たちから何かが香る。キュウリの青さにショウガの甘さ、豆の香りに冷えたグラスの露の香り。
それはまもなく訪れる夏の香りだった。