背けたい現実
「疲れた…」
小島ひかりはそう呟いて無機質に薄く光るスマートフォンの画面に目を落とした。
小田急線経堂駅、終電間際。
平日なので、構内は人影もまばらだ。
今日はひかりの入社記念日で、ちょっとしたお祝い会が開かれた。
お祝いと言っても、いつもの居酒屋で飲んだだけだ。
女子の仲良しグループは、社会人になっても存在する。
ありがた迷惑もいいところだったが、断ると後々何かと面倒なので、適当に嬉しがってはしゃいでやり過ごした。
福井から上京して七年目なので、今の仕事も七年続けたことになる。
飽きやすい自分にしてみればよく続いていると思う。
仕事も、東京での一人暮らしも。
こんな都会の真ん中で、たった一人で終電近い電車を待っている自分を、田舎の無人駅で電車を待っていた高校生の頃の自分は、想像すらしていなかった。
上京して東京に住んで、憧れの仕事に就いて。
それなりにおしゃれな格好をして、おしゃれなお店で食事をして、中身はすっからかんだけど着飾った男たちに声をかけられて。
何だか、全部他人事だ。
一つも現実味がない。
忙しさだけが頭の中でメリーゴーランドのように回っている。
ひかりはその中の、ハリボテの馬の上に乗って、無表情な顔でただただそれが止まるのを待っている。
期待もせず、嘆きもせず、これが当たり前と自然に受け入れて、唯、いつか誰かが止めてくれると淡い期待を寄せて。
無表情なひかりの手を引いて、メリーゴーランドから降ろしてくれる王子様が現れるのを、他力本願に待っているのだ。
ただいま隣駅で発生した車両トラブルのため電車が遅れております。大変ご迷惑をお掛けしますが到着までもう暫くお待ちください。
構内アナウンスが鳴り響いた。
「もう、勘弁してよ」
一刻も早くメイクを落としてベッドに潜りこみたいのに。
乗り遅れると思って、トイレも我慢して駅まで走ってきたのに。
不意に故郷の、あの無人駅の景色が頭をよぎった。
電車の本数が少ないから、トイレ我慢してよく走ったっけ。
これじゃあ高校生の頃と何も変わらない。
ひかりは何だか可笑しくなってクスっと笑うと、踵を返してトイレに向かった。
2つある個室のうちの1つが閉まっていた。
私いつもこっち、使ってるんだけどなあ。
無意味な独占力を刺激されながら、空いてる個室に入る。
もー
隣から微かに、唸るような声が聞こえた。
ひかりは便器にすわり、スマートフォンを見ながらなんとなく耳を傾ける。
もー、もー
気分でも悪いのだろうか。
酔ってでもいるのだろう。
そんなになるほど飲むからだよ。
ひかりは用を済ませて、スカートを整えて個室を出る。
目の前に牛の顔があった。
「きゃあ!」
ひかりは思い切り後ろに飛び跳ねて、そのまま便器の上に座る格好になった。
ドアの向こうに、牛が立っていた。牛が二本足で立って、ひかりを見下ろしている。
目で確認したものを頭が必死で否定している。
ひかりは混乱する頭をなんとか立て直して対象を見直す。
体は人間だ。
素足に赤いヒールを履いている。
薄汚れた真っ赤なロングコート。
ひどく荒れた手には紙袋を下げている。
そして腰まであるボサボサの髪。
髪?髪の毛があるの?
恐る恐る顔を確認すると、牛の顔だと思ったそれは、よくあるパーティ用か何かの、牛の顔をしたゴム製のマスクだった。
牛のマスクを被った女だ。
「な、何」
「もー」
耳障りに甲高い、子供のような声だった。
マスクの下からなので、声が曇って聞こえる。
「え?」
「もー、もー」
女はずっと、マスクの下で牛の鳴き真似をしていたのだ。
「もー、もー、もー」
「何なんですか!人を呼びますよ!」
ひかりは叫びたかったが、擦れてしまってほとんど声にならなかった。
時間が経てば経つほど、目の前の怪しいモノはどんどん人間味を帯びてくる。よく見ると爪には不器用に赤いマニキュアが塗られていて、マスクの下からフーフーといった息遣いも聞こえてくる。
ひかりはそれが心底怖かった。
一刻も早くここから出たかったが、牛マスクの女が個室の入り口を塞ぐように立っているので出ようにも出れない。
女は、もっていた紙袋の中に手を突っ込んで、かき回すように乱暴に何かを探し出した。
サイズオーバーなのか、牛のマスクが手の動きに合わせて小刻みに揺れる。
「そこをどいてください」
震える喉からねじり出すようにして声を出した。
頬を何かが伝ったのを感じて、ひかりは自分が泣いていることに気づいた。
紙袋から何かを見つけた女は、掴んだ手をそのまま牛のマスクの口の部分に突っ込んだ。
ぶちゃぼりばきゅぼり…
食べている。
シーンとしたトイレの中で気色の悪い咀嚼音だけが響き渡る。
女は牛の口に突っ込んだ手を引き抜いた。
マスクと首の境目から、赤い液体が垂れたきた。
引き抜いた手が血だらけだ。
指の間に、ネズミのしっぽのようなものが挟まっていた。
ひかりは思わずその場で吐いた。
何でこんな目にあわなきゃいけないの!
激しい感情が湧き上がる。
「何なのよあんた!変態!あっち行けよ馬鹿野郎!」
ひかりは泣きながら子供のように叫んだ。
女はごくんと喉を鳴らして一息つくと、仕切り直すかのようにまた「もー」と鳴き出した。
お待たせいたしました。間も無く電車が到着します。
アナウンスの声が聞こえた。
ひかりは意を決して牛女に体当たりをして、そのままトイレを飛び出した。
少しでも早くこの場から遠ざかりたい。
ホームにはちょうど電車が到着したところだった。
ひかりは電車入り口付近にいたサラリーマン風の男を押しのけて、我先に電車に飛び乗った。
訝しむ男をよそに、ひかりは自分が来た道を見ながら、早く早くと叫んだ。
早く早く!
早くドアを閉めて!
早くしないとあいつが…
ひかりの視線の先の階段から、赤いハイヒールが降りてくるのが見えた。
来た!
ひかりは泣きながら叫ぶ。
「早く閉めてよお!」
さすがにおかしいと思ったのか、男がひかりに「大丈夫ですか」と声をかけた。
牛マスクの女はこちらに向かって歩いてくる。
ひかりは声をかける男を無視して電車を降り、女とは反対の位置にある出口に向かって走った。
その瞬間ドアが閉まり、電車が発車した。
電車と並走するようにひかりは走る。
後ろからついてくる牛マスクは、不器用に、小刻みに走っている。
電車はひかりをすぐに追い抜いていった。
ひかりは後ろを振り返る。
牛マスクの女は走るのをやめていた。
その瞬間。
大きな衝突音。
あまりの大きさに、ひかりはその場にへたり込んだ。
かすかに聞こえる悲鳴。
ホームに残っていた人々が一斉に音の方を見た。
ひかりが乗るはずだった電車は、駅のすぐ側にある踏切に進入した乗用車と衝突、脱線して転倒した。
深夜の住宅街が騒然とする。
駅員たちが騒ぎ出す。
ひかりは何が起こったのかわからず呆然とした。
視界の左隅に、赤いコートが映る。
ひかりはゆっくりと首をそちらに向けた。
牛マスクの女がひかりの隣に立って、事故現場の方を見つめていた。
「もー、もー、もー」
少女のような高い声。
「何なのよあんた」
ひかりが呟く。
ゴム製の瞳は無感情だ。
「何なのよ!」
女はひかりの声を無視して、来た方向に振り返るとゆっくりと歩き出した。
何人かとすれ違うのだが、誰も女を振り返らない。
ひかりは遠ざかる女を見つめながら、その場で気絶した。
気を失うその瞬間まで、もー、もーと鳴く甲高い声がひかりの鼓膜を震わせていた。