混沌の渦に集う者たち
あたりには黒煙がたなびき、崩れた粗末な小屋の間を、鎖につながれた奴隷たちが、重い足取りで歩いていく。
二年ぶりに帰ってきた酷暑を生き延びた彼らであったが、その後に待っていたのはさらなる生き地獄であった。
死んだ奴隷たちの補充はなく、少ない人数でこれまで以上の労働を強いられる。
ただでさえ長くもない睡眠時間はさらに削られ、半死半生の体で働く彼らに、限界が訪れるのは早かった。
ゾンではあらゆる産業で奴隷たちが生産の主軸となっている。
労働力の減少はそのまま生産性の低下につながり、収益の減少という結果に陥る。
それは当たり前のことであり、その当たり前を受け入れることが出来ないゾン人たちは、ただでさえ減少した奴隷を、利益維持のために消費し、その人数をさらに減少させていった。
不足している奴隷を補うために、ゾン各地で奴隷の奪い合いが始まり、奴隷目当ての野盗があふれかえった。
これまではゾン軍治安部隊の目を避けて人里離れたアジトに身を潜めていた野盗たちも、今では堂々と町の酒場に繰り出し、昼間から酒を飲みながら、それぞれの成果を自慢し合う。
これまでは単なる犯罪者でしかなかった彼らも、今では非合法の商人と化していた。
ゾンの奴隷市場は事実上崩壊し、裏取引が横行して正規の手順で奴隷が市場に出ることは、皆無の状況となっていた。
国王アリラヒムはこの緊急事態に、裏取引に対する罰則を厳格化し、これを破った者は身分を問わず厳罰に処する旨を、国内にとどまらず、西方諸国にまで通達した。
国力の差から従属国扱いされてきた近隣の西方諸国がこれに反発、ゾン西部は一気にその緊張の度合いを高めた。
アリラヒムがメティルイゼット王子を大将とする軍を西部国境へと派遣することで抑止力としたため、ギリギリのところで衝突は回避されたが、緊張状態は依然として続いていた。
国内では貴族同士の小競り合いが頻発し、アリラヒムの許可を得ない軍事行動が頻発するようになった。
アリラヒムはその調停にも乗り出さなくてはならず、国内情勢に対してはもはや応急処置程度の対応しか出来ないでいた。
中央が混乱を極める中、ゾン東部は直実にその足場固めが進んでいた。
ザバッシュの口利きで奴隷を入手することが出来た東部貴族は、当然のことながらザバッシュに感謝した。
そんな東部貴族の中で唯一奴隷を入手することが出来なかったシヴァス家のクシュユスフは、一度は兵を起こし、ビルゴンへと向かおうとしたが、ザバッシュを筆頭とした東部貴族が手に入れた奴隷の数が五万にも上るという情報を入手すると慌てて引き返し、自領の守りを固めた。
ゾンの歩兵は奴隷が基本だ。
五万の奴隷は労働力であると同時に戦力でもある。
シヴァス家もゾン屈指の大貴族ではあるが、さすがに歩兵だけで五万もの戦力を敵に回せるほどの戦力は保有していなかった。
ちなみに入手した奴隷の数をクシュユスフが知り得たのは、サルヒグレゲンの助言を容れたザバッシュが意図的にシヴァス家に流したためである。
戦えば確実に勝利出来ただろうが、シヴァス家の背後には王家が控えている。
混乱はしていてもそれはあくまで貴族同士の小競り合いでしかなく、その敵意はバラバラな方向にしか向いていない。
今戦端を開けば、ゾン国軍は総力を挙げてザバッシュ討伐にのり出すだろう。
東部はまだ奴隷不足の不安から解消されたに過ぎず、東部として一つにまとまったわけではない。
正面からぶつかり合うにはその戦力はまだ整ってはいなかった。
東部はまず産業の立て直しに注力した。
秘密裏にクライツベルヘン家との取引に成功したザバッシュは、これまでゾン中央へと向いていた経済網を、東のヴォオスへと向けた。
これに他の東部貴族も追従し、奴隷以外の商品がゾン東部とヴォオス間で行き来することになった。
クライツベルヘン家を仲介とし、ゾン東部とヴォオス間の関税が期間限定ではあるが減税されることになり、商人の動きはにわかに活性化された。
加えてヴォオス側の減税処置が、東部に属する商人にのみ発行される新しい通行手形を所持する者のみと限定されたことで、中央を拠点としていた商人たちが東部に流れ込み、東部の産業は一気に活性化された。
次第にゾンは二極化が進み、東部は安定し、反対に中央はその秩序を失っていった――。
◆
ゾンの西方。国境を挟んだジャイラグルブ国に、ゾンの密偵であるジェウデトの姿はあった。
実質ゾンの従属国であるジャイラグルブは今、ここ百年なかった異様な敵意に包まれていた。
それは、本来対抗しようのないゾン相手に、戦の機運が盛り上がっているからだ。
ゾンによる奴隷取引の一方的な統制は、ゾン同様産業の根本を奴隷で賄うジャイラグルブにとっては死活問題であった。
ゾンのように酷暑の影響で奴隷を失うことはなかったが、その前の終わらない冬の影響で大きく国力を削いでいる。
経済支援と引き換えに、統制への協力を求めてくるのならまだ受け入れようもあったが、ただ一方的に通達し、これに従えとあっては、さすがのジャイラグルブも二つ返事で従うわけにはいかない。
加えてゾンの国内情勢が大きく二分しようをしているという情報が入り、ジャイラグルブ人はこれまでになく好戦的になっていた。
「簡単に踊ってくれるねえ。扱いやすくていいよ」
ゾンの国内情勢に関する情報を流した張本人であるジェウデトが、あまりにもあっさりと意のままに行動してくれるジャイラグルブの人々を見て、蔑みの笑みを浮かべる。
「ジェウデト様。荷が届きました」
「よーしっ! 派手に売っぱらってこいっ!」
部下の報告に、ジェウデトが指示を出す。
命令された部下たちは、無駄な言葉は一言も発さず、ジェウデトの指示に従う。そして、ものの数分で市場の中央で奴隷の競売を始めていた。
奴隷の売買を統制するために派遣されていたゾン軍の兵士が血相を変えて駆けつけてくる。
「この競売の主催者は誰だっ! 許可なく奴隷の取引を行うことが禁止されていることを知らのかっ!」
隊長と思しき男が唾を飛ばして怒鳴り散らす。
「ここはジャイラグルブだ! ゾンの兵士に指図される筋合いはないぞ! さっさと国に帰れ!」
どこか嘘くさい声で野次を飛ばしたのはジェウデトであった。
言葉と同時に石まで投げつける。
石は見事に隊長の額に命中し、隊長は額を押さえてうずくまった。
指の隙間から血がしたたり落ちる。
「た、助けてくれ……」
そこに、競売に掛けられていた奴隷から、救いを求める言葉が届く。
反射的に視線を送った隊長は、そこに捕らわれているのが同国人であることに気が付く。
ゾンにもゾン人の奴隷は存在する。大概が借金のカタに売り飛ばされた者で、その理由はそれぞれだが、扱われ方は他の人種の奴隷と差はない。一週間と立たずに薄汚れ、疲弊しきる。
奴隷の人種は肌色が大きく異なる南方奴隷でもない限り見分けがつきにくいのだが、隊長が一目で気づけたのは、そのゾン人たちが元々奴隷であった者たちではなく、明らかについ最近まで一般生活を過ごしていたゾン人たちであったからだ。
額の痛みも忘れて隊長は奴隷たちを食い入るように見つめる。
その意味するところを理解した瞬間、隊長は石を投げつけられた痛みをはるかに上回る怒りによって激発した。
ゾンに対して、奴隷狩りが行われたのだ――。
「この場にいる者は全員捕らえろっ! 逆らう奴は殺して構わんっ!」
怒りに燃える隊長が、兵士たちに命令する。
自身は捕らわれの身となった同国人を助けるべく競売の舞台に突進する。
その場を素早く離れていたジェウデトは、自身が投じた一石で、場の混乱が拡大するのを、他人事のように眺めていた。
「誰かー! 助けてくれー! ゾン軍の横暴から、みんなを守ってくれー!」
再びジェウデトが嘘くさい叫びをあげる。
振りかざされるゾン軍兵士の剣に怯え、逃げ惑っていた人々の間から、傭兵たちが飛び出してくる。
「控えろゾン兵っ! これ以上狼藉を働くつもりならば、我ら義によってジャイラグルブにお見方するっ!」
颯爽と現れた美貌の剣士が、逃げ遅れた子供に振り下ろされた剣を弾きながら叫ぶ。
その声に続くように現れた傭兵たちが、そこかしこでゾン兵たちと剣を交える。
「女子供はこの場から離れろ。足手まといなる。男たちは武器を取れ。この国は俺たちの国なんだぞ。助けてもらうばかりでいいのか!」
少しだけ真剣みを帯びたジェウデトの言葉に、男たちだけでなく、逃げるように促された女子供たちまで足元の石を拾い、ゾンの兵士たちの背中に投げつける。
ジャイラグルブの治安兵たちが駆けつけた時は、すでにゾンの兵士たちは全員倒れていた。
場は興奮と殺気に満ち、本来であれば取り締まるべきジャイラグルブ治安兵たちも、迂闊に手を出すことが出来ず、遠巻きに眺めるしかなかった。
下手に手を出そうものなら、民衆の敵意が今度は自分たちに向けられることになる。
「お疲れさん」
ジェウデトは興奮する民衆の中からすり抜けて来たアデルラールに労いの言葉を懸けた。
その美貌ゆえに人の注目を集めがちなアデルラールであるが、本人がその気になればいくらでもその存在感を消すことが出来る。興奮した民衆の前から姿を消すなど造作もないことだった。
「つまらん小芝居に付き合わせるな」
げんなりとした様子でアデルラールが文句を言う。
「またまた。ノリノリだったじゃない。「お見方するっ!」の時なんて悲鳴の色がガラッと変わったほどだったからね」
ジェウデトのからかいの言葉を肯定するように、興奮する民衆の中から、姿を消したアデルラールを探す女性たちの声が聞こえてくる。
「手ぐらい振ってあげたら?」
「馬鹿か。ここで無用に目立つと、今後動きにくくなるだろう」
優れた容姿は秘密裏に行動するには不向きだ。暴動を扇動しているジェウデトにとっても、足がつくのは好ましくない。何と言ってもたった今犠牲なったのは、ゾン軍の正規兵なのだ。
「じゃあ、ずらかるとしますか。お~い。奴隷共連れて来い。次の街に行くぞ」
「まだやるのか?」
アデルラールがうんざりしたように尋ねる。
「やるよ~。って言っても、俺とアデちゃんはエディルマティヤに戻るけどね。やることは同じだし、後は部下とベルトラン君たちで十分でしょ」
ジェウデトの言葉に、アデルラールの表情からうんざりした色が消える。
代わりに近くで聞いていたジェウデトの私設兵団の副団長を務めるベルトランがげんなりとした表情を浮かべた。
「それにしても、今王都に戻ってやることがあるのか?」
面倒事を回避出来たと喜びかけたアデルラールが、不信感も露にジェウデトに尋ねる。
ジェウデトの計画ではすでに王都で打てる手は尽くしている。だからこそ、ジャイラグルブなどという小国の小都市などに出向いて来たのだ。
厄介事が待っているのであれば、残った方が楽かもしれない。
「いや~、面倒な相手が動き出したみたいでさ。手駒も手強いのを揃えているから、アデちゃんには真面目に俺の護衛をお願いしようと思ってね」
顔はにやけているが、目が珍しく真剣みを帯びている。
これはかなりの大物だなとアデルラールは見当をつけた。
「まあ、アデちゃんの出番が来るような無茶はしないつもりだから、あんまり気にしないで。あくまで今回は万が一のための処置だから」
「その手強い手駒というのはどいつだ?」
アデルラールの目が好戦的な光を帯びる。
「う~ん。何とも言えないけど、陸路伝いに大きく動くことはないだろうから、おそらく海路を通じてちょっかいを掛けてくるだろうねえ。そうなると、<海王>シルヴァ辺りが出張ってくるかもしれないかな~」
ジェウデトの答えに、アデルラールが珍しく、面倒くさい以外の感情を表情に浮かべる。
嬉しそうに微笑むアデルラールの笑みは、明らかに肉食獣の笑みだった。
「あんまり期待しないでよ。あっちの動きはさすがのおじさんも掴み切れないんだから」
ジェウデトの言い訳は、明らかにアデルラールの耳には届いていなかった。ジェウデトはため息をつきつつも、それなりに切れる人間が送り込まれるであろうことを疑ってはいなかった。
「さて、どう動くべきか。まあ、あちらさん次第だな」
ジェウデトの呟きは周囲の喧騒に飲まれ、アデルラールだけでなく、誰の耳にも届かなかった――。
◆
「早かったね、カーシュ」
ゾン東部での活動から帰還したカーシュナーに対し、王都エディルマティヤで売買の総指揮を執っていたチェルソーが笑みを向ける。
「東部のまとまりが思ったよりも早くてね。見切りをつけて戻って来たんだ」
チェルソーの笑みに、カーシュナーも笑みで答える。
旅の汚れで真っ黒になっているが、その翠玉の瞳に疲れは見られない。
「順調かい?」
「この状況を順調と言っていいのか疑問だけど、うちとは関連のない商人たちの取り引きも、物価の高騰で裏取引が横行して不満がさらに膨らみ、事故、事件が頻発しているよ」
カーシュナーの問いかけに、チェルソーが苦笑を浮かべながら答える。
「それはすこぶる順調だ」
順調という言葉とは正反対の状況に、カーシュナーが満足げにうなずく。
その笑みはもはや悪人にしか見えない。
被害を受けているゾン人からすれば、カーシュナーのしていることは間違いなく言語道断の悪行でしかない。その笑みが黒くなるのも当然であった。
「ただ、油断出来ない相手がいよいよ動き出してきたよ」
「クロクスか」
それまで黒かったカーシュナーの笑みが、いつものニヤリ笑いに変わる。
「配下の商人や密偵たちが、ここにきてかなりの人数エディルマティヤに入っている。全員補足しているって言いたいところだけど、ゾンはもともとクロクスの商業網が発達している都市だからね。密偵の質は負けてはいなくても、数は向こうの方が勝っているのは確実だから、甘く見ない方がいいだろうね」
チェルソーの言葉にカーシュナーは真顔でうなずいた。
「ヴォオスから追い出されたとは言え、クロクスの商業網は大陸中の経済網と複雑に絡み合っている。陸路はヴォオス軍が目を光らせているから多少は動きにくいだろうけど、エディルマティヤはアスイー河で海と繋がっているからね。その影響力は今も絶大だ」
「クロクスの居場所はまだわからないの?」
「ミクニか、その周辺国だろうとは思うんだけど、おそらく常に移動し続けているんだろう。実家もヴォオス軍も、なかなか尻尾を掴めないんだよね。うちで独自に探すには東の情報網がまだまだ弱いからね」
「東も開拓したいよね」
カーシュナーの答えに、チェルソーが悔しそうにため息をつく。
「そうしたいけど、今は後回し。ゾンでクロクスの後手に回らないことが先決」
「慢心するつもりはないけど、ゾンに限ればうちの方がクロクスよりも深く広く情報網を張り巡らせている。僕としてはむしろ向こうの動きを利用したいと思っているよ」
珍しく強気な発言をするチェルソーに、カーシュナーは頼もしげな視線を向けた。
チェルソーはカーシュナーと出会う以前にハウデンで母親と生き別れになっている。
母と二人、貧困と暴力を振るう父親から逃げ出すためにある商船に密航したのだが、ハウデン近郊で見つかってしまい、チェルソーはたった一人、異国の港であるハウデンに捨てられ、母親はそのまま連れ去られてしまった。
ブルーノに拾われ、何とか生き延びていたチェルソーであったが、正直母親のことは諦めていた。
どこに連れていかれたのかもわからない母親の消息を追うのは、幼いチェルソーには不可能だったからだ。
だが、カーシュナーと出会い、生活が一変し、厳しくも充実した日々を送っていたある日、カーシュナーが一人の疲れ切った女性を連れて来た。
生き別れになったチェルソーの母親だ。
チェルソーの母であるアリーチェは、我が子と引き離された上に船員たちの嬲りものにされ、挙句にラトゥの娼婦街に売り飛ばされていたのだ。
諦めていたまさかの再開に、母と二人涙を流して抱き合ったが、事の真相を聞いたチェルソーは、再会の喜びを吹き飛ばすほどの怒りで脳が焼き切れるのではないかと思った。
復讐心に憑りつかれたチェルソーであったが、自分たちが乗り込んだ商船の持ち主のことは何も知らなかった。それどころか、辛かった過去はすでに風化し、母を傷つけ自分を孤独と絶望の淵に追いやった船員たちの顔も思い出せなかった。
悔しさに身を引き裂かれそうな思いをしているチェルソーに、カーシュナーは母親のことだけを考えろと言ってくれた。
そして、
「復讐はすでに果たされている」
と、その翠玉の瞳の奥に自分と同等の怒りをみなぎらせて告げてきた。
チェルソーにとって怒りとは炎を連想させるものであったが、カーシュナーの怒りは凍り付くほどの冷たさに満ちていた。
その冷たさに触れた瞬間、チェルソーの中の怒りは不意に緩んだ。
カーシュナーは母を探し出す過程で、自分と母をさらなる不幸の底に突き落とした商人とその手下たちを見つけ出し、然るべき処置をとっていたのだ。
一瞬、それは自分の役目だという思いが胸によぎったが、疲れ切った母の横顔と、記憶よりもずっと小さなその背中を目にしたとき、自分が真っ先にすべきことに思い至った。
母親のことだけを考えろ。
カーシュナーはチェルソーに、母親のことだけに集中出来るように、復讐心の元を断っていたのだ。
怒りの波が落ち着くと、チェルソーは改めて思った。
自分に出来る程度の復讐より、間違いなくカーシュナーが下した処断の方がはるかに厳しいものであったはずだと。
そう思うと、何をしたのか語ろうとしないカーシュナーの翠玉の瞳が余計に冷たく輝いて見えた。
チェルソー自身が人生そのものを救い上げてもらった。
諦めた母をも救い出してもらった。
そして母は今、安全なクライツベルヘンで、不自由のない暮らしを送っている。
カーシュナーに対し、チェルソーは恩しかなかった。
返しきれない恩義に少しでも報いようと働いている。
だがそのせいで自分を殺し、物事のすべてをカーシュナーにとって有益か否かで考える癖がついてしまっている。
自分の視点で考えることも重要だ。
カーシュナーはチェルソーが示した自信が素直に嬉しかった。
「クロクスの件はひとまず置いておくとして、エディルマティヤの混乱は周辺の領地に、現状どれくらいの影響を与えてるかな?」
クロクスの動向は重要だが、同様にゾン中央の崩しも重要だ。カーシュナーは話の方向を修正した。
「一度襲撃を仕掛けただけで、中央貴族は自身が所有する奴隷を守るために神経質になってきている。その流れで、東部以外のゾンの各地で奴隷襲撃を目的とした野盗が大胆に動くようになってる。特に西部の方は動くが大きくて、国王の許可もなく兵を動かす貴族が続出して殺気立っているよ」
チェルソーの報告に、カーシュナーは眉をしかめた。
「少し流れが早過ぎる気がする。俺たちが仕掛けたのは中央だ。情報が早い分現時点で中央が乱れるのは納得出来る。だが、西部はそうじゃない。本来であれば中央の流れを受けて崩れるのが自然だ。西部の流れは下手をすればこちらとほぼ同時進行している。気になるな」
カーシュナーの言葉にチェルソーがうなずく。
「西部の密偵の数を増やそうか?」
「……いや、現状のままでいい。状況がこちらの望む形で展開している限りは放置しても構わないだろう。ただし、密偵には西部の状況の推移を中心に探らせてくれ。こちらの意図から展開が外れるようであれば、その時人材を投入する。こちらは西部の状況の早さに合わせて計画を修正しつつ中央を撹乱する」
カーシュナーの指示に、チェルソーが顔をしかめる。
「西部の流れに合わせるとなると、貴族の奴隷への襲撃を何か所も同時に行わないと、西部の流れに置いていかれることになる。さすがに兵数だけでなく、指揮官も足りないよ」
襲撃に関連性を持たせないようにするためには、広く展開する必要がある。
総指揮をカーシュナーが執るとして、出来ることは全体の大きな流れを操作することだ。
離れた各現場で、状況に合わせて臨機応変に指揮を執る指揮官が必要になる。
「手が足りないのなら、巻き込むだけさ」
チェルソーの懸念に、カーシュナーはニヤリと笑って答えた――。
◆
「やっぱり海はいいな」
そう言って船縁に背をあずけて大きく背伸びをしたのは、不敗の傭兵で知られる男、<海王>シルヴァであった。
波は穏やかで、風に恵まれたシルヴァの船は、海面を滑るように移動している。
クライツベルヘン家やゾンの商人たちが所有する大型船とはまた少し異なる特徴を有したその船は、東の大国ミクニ製の大型船であった。
クロクスに雇われているシルヴァは、ゾンの経済網に大きな混乱が生じたことに対応するために送り込まれた商人兼密偵部隊の、実戦部隊を指揮するために同行している。
シルヴァにもクロクスに雇われる以前から従えていた傭兵団の部下たちがいるが、全員が一か所にまとまっているといささか目立つため、いくつかの船に分乗し、後からゾンに向かうことになっている。
シルヴァが船尾に視線を向けると、そこには船尾の船縁でカモメに囲まれた一人の青年が座り込んでいた。
戦士としては少し小柄で、まるで少女と見紛う美貌の持ち主である青年は、その素性を知らぬ者が見れば、カモメたちと戯れる姿から、純真な少年と勘違いしただろう。
シルヴァが近づくと、カモメたちは一斉に飛び立った。
飛び去る背中に、
「またね~」
と手を振る青年の姿は、どう見ても戦士のそれではなかったが、不思議なことに腰に佩いた剣は自然とその場に収まっている。
「悪い。邪魔しちまったな」
「いえ、彼らもそろそろ狩りに戻らなければいけない頃合でしたから、丁度いいきっかけでした」
青年は、シルヴァの巨体を前にしても微塵も怯まず笑みを浮かべた。
「ってことは、俺が来なきゃあ、あいつらいつまでもここにたむろしていたってことか?」
「はい。おしゃべりが尽きそうにありませんでしたから」
まともな人間であれば眉をしかめそうなことを平気で口にする。
「尻を叩かれなきゃあ、まともに働かねえなんて、俺の部下共みてえだな」
だが、シルヴァは青年の言葉を素直に受け取り大笑いする。
「それよりイジドール。船は初めてなんだろ? よく船酔いしねえな」
「船酔いって何ですか?」
イジドールの返答に、シルヴァが一瞬詰まる。
「……そうか。初めて船に乗って、そのうえで船酔いしなかった奴には感覚がわからねえか。まあ、簡単に言やあ、船の揺れのせいで悪酔いしたときみてえに気持ち悪くなることだ」
「すみません。悪酔いというのがわかりません」
「えっ! いや、悪酔いはわかるだろ。酒飲んで酔っ払った時に、無茶苦茶気持ち悪くなることあるだろ。あれだよ」
シルヴァの説明に、イジドールは困った表情を浮かべた。
「すみません。その酔うという感覚がわからないんです。私はお酒を飲んでも皆さんのように性格が変わったりしないものですから」
「お前、酒に酔わねえのかっ! なんだそりゃっ! すげえなっ!」
そう言うとシルヴァはまた大笑いし、イジドールの肩を叩いた。
シルヴァの言葉に何と答えればいいのかわからないイジドールは、ただ困ったように笑う。
「シルヴァさん。あそこは何ですか?」
話を逸らすつもりではなかったが、長く続いた海岸線に変化が現れ出したため、イジドールは疑問を素直に口にした。
言われて振り返ったシルヴァは、舳先の向こう側の景色に大きな河口が現れ、そこに往来する船が集まる姿を見た。
「あそこが大河アスイーの海の玄関口だ。あれを遡った先に、目的地であるゾンの王都エディルマティヤがある」
「そうなんですか。エディルマティヤは初めてです」
「この季節のエディルマティヤは最高だぜ。過ごしやすいし飯も酒も女も美味い。と言いたいところなんだが、どうも今はそうでもねえらしい。せっかくいい時期にエディルマティヤに行くってのに、お前ついてないな」
「仕方ないですよ。それに、任務で来ているのですから、贅沢は言えません」
「優等生かっ!」
イジドールの模範的な回答に、シルヴァはツッコミと共に手刀をイジドールの脇腹に突っ込んだ。
少女のように柔和なその顔とは裏腹に、突っ込んだ指先に伝わる固い手応えに、シルヴァは心の中で感嘆の口笛を吹きならした。
「ゾンで真面目過ぎると尻の毛まで抜かれるぞ。もっと小狡くなれ」
「は、はい。善処します」
返って来たイジドールの固い答えに、シルヴァは、
(こりゃあ、無理だな)
と内心で諦めた。
混沌を加速させるゾンの中心地に、役者が揃いつつある。
クロクス派の到着が、事態を好転させる可能性はない。
混沌の渦に呑まれたゾンの行く先を決める舵は、まだ誰の手の内にもなかった――。
◆
とある村の片隅で、それはぼろ雑巾のような有様で転がっていた。
身に着けているものは粗末な腰布のみで、その足には鎖がつながれている。
その背は鞭で打たれたのだろう。皮膚が裂けて血まみれになっている。
「……このままで、……済むと、……思うな…よ」
朦朧とした意識の中で呟かれた言葉が、今では用いられることのない、忘れ去られた言語、古代ベルデ語であったことを、呟いた当人を含め、誰も知ることはなかった――。




