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ヴォオス戦記  作者: 南波 四十一
ヴォオス戦記・乱
94/152

王都エディルマティヤ

 季節は冬に近づき、列国が再び終わることのない冬に閉じ込められるのではないかと不安を抱いているころ、灼熱の国ゾンは、突如回復して国土を灼熱で焼き尽くした太陽が、ようやくその勢いを弱め、過ごしやすくなってきたことに胸をなで下ろしていた。


 終わらない冬の影響は、ゾン中央から南部を常春の国にしていた。

 寿命すら蝕むであろうその酷暑から解放された二年間は、国王から奴隷に至るまで、まるで天上界に招かれたかのようであった。

 もっとも、酷使されることに変わりはない奴隷たちは、自分たちの境遇が幸せなどとは微塵も思わなかったが、この二年間の奴隷の死亡人数が、例年と比較すると三割近くも少なかっのは、間違いなく和らいだ気温のおかげだ。


 二年という歳月は、過ぎてしまえば短いようで、やはり長い。

 終わらない冬によって快適な気候に馴らされてしまった身体は、二年ぶりに帰って来た殺人的猛暑に打ちのめされ、体調を崩してバタバタと倒れる者が続出した。


 かしずかれる立場でしかない支配者層すら体調を崩し、高齢者や身体の弱い者の中には命を落とす者もいた。

 これが一般層になると状況はさらに悪化し、死者数はそれほどではなかったが、体調を崩す者の数が飛躍的に多くなった。

 そしてこれが奴隷層になると、全員が体調を崩し、次々と死んでいった。

 一般層での体調不良者の仕事も負担させられ、例年以上に労働環境が悪化したことが、死者数の増加に拍車をかけたのだ。


 海外輸出向けはもとより、国内流通用の奴隷までもが不足し、ゾンの経済圏は流通が停滞し、苛立ちから感情がささくれ立ち、人間関係は険悪化の一途を辿っている。

 これらはまだ問題になるほど表面化はしていないが、先見の妙がある者たちは、早々にゾンに見切りをつけ、ヴォオスや他の国に拠点を移し始めていた。


「まだ奴隷船は戻らんのか?」

 若かりし頃は獅子を思わせる精悍な風貌だったゾン国王アリラヒムは、昔日の面影を厚い脂肪の奥にしまい込み、今では午睡をむさぼる牛のごとき風体へと成り果てていた。

 腰が痛いと言い、玉座には座らず、絹張りの寝椅子に埋まるように身を横たえながら政務に励んでいる。

 ゾンにおいて肥満は富の象徴であり、戦場から退いた王族貴族は、せっせとその身を肥やすために無理をしてでも食事に励んでいる。

 誰もかつて戦場を駆けたころの引き締まった肉体の自分を思い出し、懐かしむことなどない。

 食べて寝て、ただゴロゴロするために戦場で戦い、富と名声を勝ち取り、今を楽しんでいるのだ。

 顔周りの脂肪が厚いおかげで、目、鼻、口が顔の中央に集まってしまっているように錯覚させる顔をしかめて、アリラヒムは宰相のヤズベッシュに問い質す。


「まだ奴隷船は戻りません。陛下」

 ただだらしなく寝転がっているだけのアリラヒムの身体の中で、一か所だけ往年の鋭さを失っていない眼光に怯えながら、宰相のヤズベッシュは国王の眼光を避け、足元の毛足の長い最高級の絨毯の模様を一心に見つめながら答える。


「情報は?」

「申し訳ありません。未だ何も報告は入っておりません」

 感情を表に出すゾン人は、面白ければ笑い、腹が立てば怒鳴り散らす。

 だが、国王アリラヒムは、怒りの度合いが深ければ深いほど、その声は冷たく響くようになる。

 怒鳴られている内はまだ問題ないと知っているヤズベッシュは、アリラヒムの声の温度が徐々に下がり始めたことに焦りを覚え始めていた。


 ゾンに四季はない。

 厳密に言えばヴォオスとの国境周辺の北東部と、ルオ・リシタとの国境周辺の北西部には四季が存在するが、ゾンにとってはどちらも文化の僻地のような場所であり、中央から南部にかけてをゾン人はゾンと認識している。

 他国において秋の終わりから春先にあたる期間がもっとも過ごしやすく、こと農業に関しては最盛期となる。

 一年の仕事の大半をこの期間内に終わらせなくてはならないため、奴隷の需要が最も高まる時期でもある。


 ゾンは厳しい階級社会であるが、同時に拝金主義者の集団でもある。

 厳然とそびえる階級の壁も、金次第でいくらでも越えていくことが出来る。

 そのため、法的には国王に絶対的な権力が集中しているにもかかわらず、実際の支配構造は国王を中心とした王族派と、有力貴族を中心とした貴族派。そして大陸を股に掛けて活躍する商人たちを中心とした商人派の三勢力によってゾンは支配されている。


 当然ではあるが貴族は王族を敬い、商人は王族貴族を敬う。

 力関係も王族がもっとも強く、次に貴族、その下が商人勢力となる。

 これはゾンに限らず、どこの国でも当たり前の構造なのだが、他国とゾンで違うのは、たとえ国王であっても、商人に対して配慮を欠くことが出来ない点だ。


 ゾンも他国同様税収によって国庫を潤している。

 だが、意外なことにゾンにおける税率は他国に比べてかなり低い。

 ゾン人の気質が権力を背景にした一方的な支配を受け入れないからだ。


 元々ゾンも南方民族の地同様、いくつもの部族に分かれ、それぞれの部族ごとにゾンという土地を支配していた。

 部族同士の争いは絶えず、状況は南方民族の地よりもはるかに凄惨で、何より混沌としていた。

 そのゾンが統一されたのは、皮肉なことに<神にして全世界の王>魔神ラタトスによる絶対的な支配によるものであった。

 

 ヴォオスと違い国土すべてを支配されていたわけではないが、支配圏外に散在する中小部族たちも、これまでのように他部族との抗争が不可能な状況に陥っていた。

 それはラタトスが、軍事行動のすべてを敵対行為とみなし、兵を差し向けたからだ。

 支配する意思がない派兵は部族を完全に攻め滅ぼした。

 軍という発想を持たない武装集団でしかなかったゾンの部族は、最後の一人まで殺しつくすその冷徹な意志に震え上がり、武力抗争による問題の解決を放棄した。


 その結果問題解決のために話し合いが行われるようになり、それはやがて部族間の交流へと発展し、交流は文化と流通の成長へとつながった。そしてそれは、最終的にはゾンの商人気質の根幹となった。

 ラタトスによる支配が終わると、支配圏外で力を蓄えていた中小部族は一丸となり、ラタトスの支配下にあった中央から東部にかけての同族たちを吸収し、現在のゾン国の土台を完成させた。


 だが、もともと部族単位で分かれていたこともあり、ゾン人は互いに対する対抗心が強く、現王朝が元は中規模程度の部族であったことから、現大貴族である元大部族からの反発も強い。

 何よりゾンが一国にまとまる過程で英雄は誕生しておらず、ラタトスの支配はヴォオスの建国王であるウィレアム一世による討伐のおかげでしかないことが、ゾンが一国として強固にまとまりきれなかった原因であった。

 

 ゾンの東部貴族たちの中には、必要な時に見て見ぬふりをするだけで何もしなかった王家に対する根強い反感が今も残っている。

 ヴォオスとの関係が悪化する以前は、東部貴族は自国の王家よりもヴォオス王家寄りの考えをしていた。

 関係悪化後はさすがに同種族寄りの考え方に変わったが、それもゾン王家が対応を誤らなかったからである。


 その対応こそが、経済市場の規制緩和であった。

 対抗心は商売に対する情熱に代わり、王家が高圧的に出るのではなく、懐柔策に出たことにより、東部貴族もその自尊心が満たされ、経済の発展と共にゾンは国としての安定を増していった。

 この辺りは早くから文化水準を上げ、より高度な政治的判断を下せるようになっていた王家が、水準が低く、思考が武辺寄りであった大貴族たちを上手く手玉に取ったとも言えた。


 また、規制の緩和は貴族だけに留まらず、その下の階層の人々にまで及んだ。

 その結果、経済の発展により商才に富んだ者たちはゾンを飛び出し、大陸中に富を求めて旅立って行った。

 これによりゾンの経済はさらに加速し、その国力は大国ヴォオスに対抗出来るまでに成長する。

 

 ゾン王家の思考の柔軟さは奴隷解放を成し遂げたヴォオス三賢王にも匹敵し、自身の目先の利益を抑えたことで、最終的には莫大な富を王家にもたらすことに成功した。

 もっとも、王家は常に市場を監視し、必要に応じて管理、干渉を行はなくてはならないのだが、ゾン王家にとってはそれ自体が巨大な遊戯に等しく、現在もその地位を見事に守っている。

 

 貴族勢力を抑えるためだけでも商人勢力は必要であり、より多くの富をゾンに集めるという意味では、商人勢力は王家にとってなくてはならない存在となっている。

 市場における勢力の均衡を保つことが、ゾンの国力と王家の優位を保つことになるので、王家は意味もなくその権威を振りかざすわけにはいかない。


 だからと言って王家が貴族や商人に対して弱腰かと言えば、そんなことはまったくない。

 むしろ貴族勢力と商人勢力を活かすことにより、両勢力を上回る利益を上げている王家に対し、貴族も商人も畏怖を覚えているのだ。


 奴隷の仕入れに関して、ゾンは南方民族の地以外に規制を設けていない。

 逆に南方民族の地における奴隷狩りの権利は、王家が独占している。

 これは権力による抑えつけではなく、単に南方民族の地における奴隷狩りを、王家が独力で開拓したからだ。

 これにより王家は、ゾンの奴隷市場を牛耳ることになり、同時に大陸の奴隷市場において、圧倒的優位に立っていた。


 それはゾン王家に莫大な富をもたすものなのだが、奴隷の供給が切れた時に生じる不満と批判が、王家に集中してしまうという問題もあった。

 問題として念頭には置かれていても、これまで一度として起こらなかった問題が、今現在生じようとしている。

 対応を誤れば、批判はもちろんのことだが、ゾンとゾンによる奴隷供給に依存している国々で、深刻な経済の停滞が引き起こされる。

 

 物流が滞り、労働力の減少が生産力の低下に直結する。

 その結果、あらゆる物資が大陸規模で不足する。

 物資の不足は価格の高騰につながり、これまで以上に貧富の差を浮き彫りにする。

 富める者はより栄え、貧しい者はより困窮する。

 それは治安の悪化を招き、社会情勢を不安定にさせ、さらに経済を停滞さることになり、大陸を負の連鎖にからめ取ることになる。


 それだけは絶対に避けねばならない。

 終わらない冬が大陸にもたらした被害は甚大だ。

 ゾンの他数国だけがその被害をまぬがれた現状は、ゾンの覇権拡大の好機である。

 大貴族の一角であるザバッシュが、トカッド城塞陥落後から不審な動きを見せいてる現状、これ以上の国内情勢の悪化は、百年に一度もない好機を逃すことになる。


 ことにヴォオスは、ルオ・リシタ、エストバ、イェ・ソンの三国に、ほぼ同時に攻め込まれ、からくもこれを撃退して見せたが、当然無傷というわけにはいかない。

 むしろ攻め滅ぼされなかったのが不思議なくらいだ。

 この時ゾンが動かなかったことを、近隣国はもとより、国内貴族などもザバッシュの動きを警戒してのものと考えていたようだが、実情は少し違った。

 三国による同時進行に際し、リードリットすら知らない戦略の一部が、ゾンに対して向けられていたのだ。


 ルオ・リシタ、エストバ、イェ・ソンによる侵攻に対し、ヴォオス軍は全力で対処し、五大家も足並みを合わせた。

 常識で考えれば撃退不可能な近隣三国による同時進行を撃退出来たのは、ヴォオス軍の力も大きいが、五大家の力が決定的であったことは間違いない。

 その力は他貴族とは一線を画し、小国並みの力を有すると謳われてきたが、そんな言葉すらも不足であると感じさせるほど、五大家の力は強大であった。

 ルオ・リシタ、エストバ、イェ・ソンの三国は、ヴォオス一国に攻め入ったつもりでいただろうが、戦力的にはヴォオスに五大家を加えた六国並の戦力に戦いを挑んだ様なものだったのだ。

 

 そしてこの戦いに、唯一参戦していなかった五大家がいた。

 西の五大家ザーセンである。

 ゾンの動きに対しては、もともとミデンブルク城塞に十分な戦力が置かれていた。

 そして、それを補う形でクライツベルヘン家が残存戦力を置いていた。

 その上でザーセンは、ゾン侵攻に備えて待ち構えていたのだ。


 ここからは情報戦であった。

 ゾンの密偵たちは、ヴォオスの窮状を探り出すと本国に伝え、侵攻を待った。

 だが、ゾンは多くの情報を得ながら、他の三国の侵攻を利用して、ヴォオスに攻め入ろうとはしなかった。


 密偵たちが入手した情報に間違いはなかった。

 正確で詳しい情報は、ゾンの王宮にいながら、まるでヴォオスの戦場を俯瞰しているかのように鮮明に戦況を見て取ることが出来た。

 多くの将軍たちがいきり立ち、国王アリラヒムに対し侵攻すべきだと主張した。

 だが意外なことに、本来であれば誰よりも侵攻すべきであると主張するはずのメティルイゼット王子が、この時だけは慎重論を口にした。


 曰く、戦況が見え過ぎていると――。


 三国から同時に攻め込まれているヴォオスにとって、もっとも回避したい事態がゾンの介入だ。

 本来三国でも手に余るというのに、ここにゾンが加われば、隣接する全ての国と戦端を開くことになる。

 まともな神経の持ち主であれば、それだけで絶望し、戦う前から逃げ出すだろう。

 そうなれば、ギリギリで保たれている三国との戦線の士気にも大きく影響する。

 それは間違いなく、勝敗の行方を左右することになる。

 であれば、ヴォオスはどうするか?

 ゾンの介入を阻止するため、徹底して情報封鎖を行うはずだ。


 今回の三国の侵攻は、すべて同じ理由からその端を発している。

 絶望的なまでの食糧不足だ。

 ルオ・リシタ、エストバ、イェ・ソンの三国が、もし同盟を結んだ上で同時進行して入れば、むしろヴォオスは現状よりもいくらか楽に戦えただろう。

 

 ルオ・リシタと他の二国間には、北の魔境とヴォオス本土が横たわっている。

 情報の交換がそもそも難しい。

 そしてエストバとイェ・ソンに至っては、根本的に不仲だ。

 万が一連携を図ろうとしたとしても上手くは行かず、それはそのままヴォオス軍にとっての隙となり、三国間に楔を打ち込むことで同盟を崩し、力ではなく知略でもって三国を撤退に追い込むことが出来ただろう。


 だが、人間が生きていく上での根幹となる食料を奪うために侵攻して来た三国は、戦略上の有利不利など関係なく、食料を奪い取る以外の道が存在しなかったため、どれほどの犠牲を払うことになろうとヴォオスに攻め込まざるを得なかった。

 そんな三国と違い、逆にゾンは終わらない冬の恩恵によって豊富な食料があり、無理に犠牲を払ってまで攻め込む必要は無かった。

 また、大陸情勢のあまりの異様さに、軍備の拡大もためらわれたため、国力は増加したが戦力は増強されてはいない状況だった。


 隙を見せさえしなければ、ゾンが無理な軍事行動に出るような状況ではないことは、ヴォオスも理解していたはずだ。

 それにもかかわらず、ここまで詳細にヴォオスの国内状況が流れてくるのは確かに怪しい。

 だが、そう思わせることでゾンに侵攻を思いとどまらせようというヴォオスの計略の可能性もある。


 メティルイゼット王子の意見をきっかけに、ゾン軍の意見は大きく割れた。

 最終的に血の気の多い将軍の一人が、メティルイゼットの意見は、先の大侵攻でライドバッハの戦術に敗れたことが原因で、必要以上にヴォオスを恐れているに過ぎないと言い放ったことをきっかけに、メティルイゼット王子が激発し、その将軍の首を一刀のもとに切り飛ばしてしまったことで軍議は中断となり、メティルイゼット王子は退出を命じられ、残った将軍たちは軍議の間に残った血の匂いに、改めてメティルイゼット王子の即断速攻と、何より激しい気性を思い知った。


 結局戦好きのメティルイゼット王子が、あえて侵攻を思いとどまるべきだという意見を口にしたことの意味を各将軍が考慮し、三国同時進行には組せず、充実している国力を軍備拡張に向けるということで意見の一致を見た。

 余談であるが、軍議では慎重論を口にしたメティルイゼット王子は、あえて最後まで侵攻すべきと主張し続けてという偽情報を流した。

 その人柄を知る者たちは疑いなく信じ、軍議の場にいた者たちは、メティルイゼット王子がライドバッハを恐れるどころか、何が何でも大侵攻時の雪辱を果たさんと望んでいることを知った。

 

 メティルイゼット王子はかつての大侵攻時に、ヴォオス南国境の要、ミデンブルク城塞を陥落させた。

 その後その性格と、神速と恐れられる用兵をライドバッハに逆用され、ヴォオス深くに引き込まれ、敗北に追い込まれることになった。

 最終的に敗れはしたが、この時多くのヴォオス人を奴隷として連れ帰ったことでメティルイゼット王子の面目は保たれたが、自身の長所をも利用されての敗北は、メティルイゼット王子の矜持を大いに傷つけた。


 メティルイゼット王子は雪辱を果たすために、自身の人物像をライドバッハに誤らせるべく偽情報を流したのだ。

 それは小さいことかもしれなかったが、ヴォオス史上最高の知恵者とまで称されるライドバッハに本気で勝とうとするのであれば、出来ることは何でもやらなければならないという覚悟の表れでもあった。


 こうしてゾンによるヴォオス侵攻は無くなり、ヴォオスの危機は未然に防がれたかに思われたが、本当に危機を脱したのはヴォオスではなく、攻め込まなかったゾンの方であった。

 もしこの時ゾンが侵攻を決意していたら、ゾン軍は壊滅的な打撃を受けることになっていた。

 メティルイゼット王子の読み通り、ゾンに情報が流れたのはザーセン家当主レイブランドによる情報操作の結果であり、その意図はゾンに挙兵させ、ヴォオスに攻め込ませて壊滅させることにあった。


 ゾンの戦力の充実は、説明されるまでもなくレイブランドも理解していた。

 全戦力をつぎ込まれたら、先に攻め込んで来た三国を合わせた以上の脅威となる。

 だが、それにもかかわらずレイブランドには確かな勝算があった。

 古代帝国ベルデの遺産。大地下通路である。


 ザーセンは大陸西部を横断するス・トラプ山脈の東の終わりにその領地を構えていた。

 そして、ス・トラプ山脈の地下には、迷路のように張り巡らされた地下通路が広がっている。

 それはかつてルオ・リシタの王子であるゲラルジーが利用し、ヴォオス西部に攻め込み、同じ地下通路を使ってライドバッハがルオ・リシタを襲撃した地下通路だ。


 ライドバッハはこの地下通路の一部の地図を手に入れたが、ザーセン家は驚いたことに地下通路の全地図を所有していた。

 ザーセン家がその気になれば、ス・トラプ山脈に隣接する全ての国に奇襲を仕掛けることが出来る。

 もっとも、そんな無駄な事をするつもりはザーセン家にはなく、地下には地上を追われた魔物も住み着いているので、利用するためではなく封印管理することがザーセン家の主な務めとなっていた。


 この地下通路を利用すれば、ザーセンは好きな時にゾン軍に奇襲をかけることが出来る。

 大軍の食糧輸送部隊を直接襲撃し、長い補給路を寸断することが出来る。

 また、地下通路に誘い込み、罠にかけることも出来れば、出兵で手薄になったゾンの要衝に攻め込むことも出来る。

 地下通路の情報を持たないゾン軍には対抗する術がなく、ヴォオスで長く足止めを受ければ、ゾンの大軍はこれから訪れる冬のただ中に捕らわれることになる。

 そうなればゾン軍はザーセンが手を下さなくても、その巨大さ故に自滅することになる。

 軍の規模が大きければ大きいほど食料消費は早く、それでいて供給の目途は立たない。

 食料の奪い合いが始まり、もはや軍としての形を留めることは不可能になるだろう。


 このザーセンの策略を見抜いたわけではないが、それでも好機の陰に潜む死の臭いを嗅ぎ取ったメティルイゼットの戦に対する嗅覚の鋭さは見事であり、それはレイブランドも認めないわけにはいかなかった。

 だが、結果として残ったのはゾンによるヴォオス侵攻の断念だ。

 メティルイゼットも見事であったが、判断がどちらに転がろうとけして負けることはないだけの戦略を施したレイブランドが一枚上手だったと言えるだろう。


 こうしてゾンは壊滅の危機をそうとは知らぬ間に回避したのだが、戦とは異なる危機が持ち上がり始めている。

 そして、危機感はあってもその原因となるものの情報が一切入ってこないことで、正確な認識が行えず、対応も大きく後れを取っていた。


 国王アリラヒムが苛立ち、宰相ヤズベッシュが怯えている間に、二人の懸念を大きく超えてゾンの経済は狂い始めていた――。









 ゾンの王都エディルマティヤは、アスイー河を起点として発展した都市で、大陸隊商路と海からの物資が直接大河を渡って運び込まれるため、陸と海の商業路が交差する商業の重要拠点となっている。

 多種多様な人種が入り混じるその様は、海路と通じていることもあり、ヴォオスの王都ベルフィストをも上回る。

 ベルフィストが厳格に区画整理されているのに対し、エディルマティヤは無秩序に広がった感があり、活気というより混沌が満ち溢れている。


 真っ直ぐに長く続く通りは少なく、交通の便も良くないため、通りのあちこちで怒鳴り声が交差する。

 やかましくもあるが、それすらも賑わいの一部と化していたエディルマティヤであったが、その賑わいにもひび割れが生じ始め、生じた隙間からは抑えきれない苛立ちと不満が漏れ出ていた。


 その傾向が特に激しいのが奴隷市場であった。

 ここ数か月は異常なほど買い手が集まり、奴隷市場は天井知らずに跳ね上がっていく価格に熱狂した。

 普段は奴隷を扱わない商人たちも、この機を逃すまいと所有している奴隷を市場に流し、熱狂が生み出す利益に群がった。

 商品ではない奴隷を手放すということは労働力の減少を意味するが、需要が無限に続くことはない。

 群がった商人たちも、売り手市場の限界が近づきつつあると見込んでの参入だ。

 一時的に労働力が減少しても、ここで上げた利益で買い戻せば済む話だ。

  

 時期的には奴隷狩りに出るにはまだ南方民族に地は暑過ぎるが、それでも王家が奴隷狩り部隊の派遣を決定したという噂が広がりだしている。

 供給が追い付いてくることが確実となれば、買い控えも出てくる。

 間違いなく最後となるであろう儲け話は、商人に慎重さよりも大胆さを求め、見返りに利益を提供した。


 そこまでは良かった。

 誰もが膨れ上がった懐に大満足し、多少の不便や不利益など気にも留めなかった。

 だが、いくら日が経っても新たな奴隷が市場に流れてくることはなく、もはや市場は売り手市場などではなく、売る奴隷のいない単なる商人の寄合所と化していた。


 こうなると多少の不便不利益どころの話では済まなくなる。

 商品の出荷も受け取りも滞り、生産もままならなくなってくる。

 熱狂が冷めると思考が落ち着き、視野も元に戻る。

 人々はこの時になってようやく気が付いた。

 自分たちが奴隷市場の異常加熱に熱狂している間に、日持ちのする食料品に加えて普段は当たり前に溢れ過ぎていて気にも留めない日用品などが、自分たちの日常から姿を消していたことに――。


 人々は不安がいつの間にか自分の隣に忍び寄り、馴れ馴れしく肩を抱いてくるのを感じた。

 商売に聡いゾン人たちは既に理解している。

 このままの状況が続けば、これから先に恐ろしい物価の上昇が待っていることを――。


 不安が不満を呼び、不安はやがて苛立ちとなって他人へと向けられていく。

 ゾンの市場経済はいまだに崩れる気配は見せないが、人々はその日が来ることを恐れ、日々を過ごすことになった。

 そしてその日は、一人の男の到着によりもたらされるのであった――。









 エディルマティヤに到着したカーシュナーは、南方民族の地へと向かう前に立ち寄った時と明らかに空気が変わっていることにニヤリと笑った。

 最近お気に入りのクリストヴァンを参考にした商人に変装したカーシュナーは、ダーンだけを連れて王都エディルマティヤに現れていた。

 ミランたちがこの場にいないのは、王都エディルマティヤに奴隷以外の南方民族が存在しないため、モランと三姉妹の存在が目立ち過ぎるためであった。


 モランは奴隷の振りをしてついていくと言い張ったが、カーシュナーが頑として応じなかったため残ることになり、三姉妹はそもそも奴隷の振り自体出来ないので問題外であった。

 カーシュナーがたとえ振りであろうとモランに鎖を掛けることを嫌ったことが一番大きな理由ではあるが、モランはその見事な体格で、三姉妹はその美貌で、奴隷商人たちから無用な注目を集め、想定外の問題を呼び込む可能性が極めて高かったことが、エディルマティヤ行から外された理由の一つでもあった。


 ミランとイヴァンは、前回立ち寄った際も同様の理由でモランがエディルマティヤに入れなかったため、お目付け役としてモランと共に残ったので、今回も共に残ることになった。

 モランに対するお目付け役という名目は、取って付けた言い訳でしかないが、三姉妹に対しては本当にお目付け役が必要だという理由もある。

 三姉妹は一人が暴走すると三人共に暴走する傾向が強い。

 それだけ姉妹の結束が強いのだろうが、ティオ辺りの暴走に、ラ二の頭の回転が加わると手に負えないことになる。

 モラン一人ではとても処理しきれないのだ。


 カーシュナーはニヤリ笑いを収めると、成功者特有の傲慢な笑みを顔に貼り付け、まるで自分の庭でも歩くような気安さで歩き出した。

 目指すはエディルマティヤに構える事務所だ。


 ヴォオスでは秋も終わりに差し掛かるこの時期も、ゾンではようやく酷暑が過ぎ去り、殺人的な暑さから解放される時期であった。

 日差しの下ではまだまだ暑さが厳しいが、日陰に入ると暑さはだいぶ和らぎ過ごしやすくなる。

 日差しと人ごみで人々が汗ばむ中、カーシュナーとダーンは暑さなどまるで感じていいないかのような足取りで、雑踏をかき分け進んで行く。

 南方民族の地を横断することに比べれば、この程度の暑さはどうということもない。


 目当ての建物へ辿り着くと、二人はするりと裏口の階段へと回り、二階へ上がって行く。

 一階は耳の遠い老夫婦が暮らしており、一日中大声で喧嘩をしているので近隣住民から煙たがられている。

 まともな神経をしている人間であれば、まず間違いなく借りようなどとは思わない物件だが、他人の耳を気にせず会話をするには格好の物件であった。


 二階の扉を潜るとそこにはチェルソーがおり、二人を笑顔で迎えてくれた。

 ハウデンの危険区域で出会ってから十年以上の歳月が流れている。

 バルトアルトに見出され、密偵の訓練を積み、その後はカーシュナーの元に身を寄せた。

 今ではカーシュナーの商業網を取り仕切る右腕的存在となっている。


 同じようにカーシュナーと常に行動を共にしているダーンとの付き合いも十年以上になる。

 気心が知れるという意味では、今ではダーンの方がチェルソーとの交流は深いだろう。

 共にカーシュナーのために苦労が絶えない立場であるため、自然と引き寄せられたのだ。

 カーシュナーとダーンも笑顔で応え、互いの無事を確認する。

 

「仕込みは上々みたいだね」

 挨拶抜きでカーシュナーが本題に入る。

 奴隷の買い付けから食料品、日用品に至るまで、カーシュナーはこれまでの商業活動で築き上げた全財産を投入し、買い占めを行っていた。

「ゾン人はお金に関してはとことん素直だからね。現金を目の前に積めば何も考えずに協力してくれるから簡単だったよ」

 答えるチェルソーも、南方民族の地での成果を尋ねたりはせず、エディルマティヤにおける活動のみ答える。

 互いにやるべきことは必ずやり遂げる。

 その信頼関係が阿吽の呼吸となって、カーシュナーの計画を恐ろしい速さで押し進めるのだ。


「ゾン軍のその後の動きは?」

「先に派遣した二軍に関する情報が全くないおかげで判断が難しいらしくて、アリラヒムは奴隷狩り部隊の派遣の検討の前に、当面必要とされる王家の事業に必要な奴隷の調達を優先させるみたい」

「貴族や商人たちが不満を漏らすでしょうね」

 チェルソーの報告にダーンが顔をしかめた。

 そもそも奴隷売買に関する問題なので嫌悪感しか存在しないのだが、市場経済を無視して自分の利益を最優先するアリラヒムのやり方は人の上に立つ者のすることではないため、ダーンにとっては二重の嫌悪となるのだ。

 

「いや、そうとも限らないよ。実はアリラヒムは今季限りと限定して、南方民族の地での奴隷狩りの権利を一般に売り出すって噂があるんだ」

「ほう!」

 カーシュナーが感心したように声を上げる。


「奴隷狩りを行える期限だけを切り、後はすべて落札者の裁量次第ってことにすれば、市場は相当盛り上がるだろうな」

 カーシュナーの目が商人の色を帯びる。

「参加は出来ないよ。お金ないから」

「だよね~」

 チェルソーのツッコミに、カーシュナーは大きなため息をついた。

 そもそも現状を作り出すために、カーシュナーはこれまで稼いだ財産を投入して市場を商品不足の状態にしたのだ。一人の商人が一国の経済を麻痺させようとしている状況で、金銭的な余裕などあるはずがない。


「実際にアリラヒムはやるでしょうか?」

 ダーンが尋ねる。

「間違いなくやるね。軍船二十隻。将兵二万。これだけの規模の兵士が一兵も帰って来ないとなれば、仮に情報が何もないとしてもきな臭いにおいを嗅ぎ取るだろう。対応するにも情報が無ければさらに多くの軍船と将兵を失いかねない。かといって何もしなければ奴隷不足の現状、最大の奴隷供給元であるアリラヒムに批判が集中する。批判自体は気にも留めないだろうけど、貴族や商人たちとの駆け引きを遊びと考えているアリラヒムが余計な失点を犯すはずがない。消息不明の兵士たちの調査と、不足している奴隷狩りにもなり、仮に失敗してもそれは落札者の責任になる。単なる責任回避として見ただけでも十分なうえに、これまで王家で独占してた南方民族の地での奴隷狩りとなれば娯楽性も高い。落札者の中で誰が一番多くの奴隷を捕えることが出来るかで賭けも成立するだろうから、アリラヒムの評価はむしろ上がるだろうね」

 答えるカーシュナーは素直に感心していた。 


「ですが、それでも奴隷が手に入らないとなれば、市場はさらに混乱する」

「混乱で済めばいいけど、暴動に発展するんじゃないかな?」

 奴隷狩り部隊がなぜ戻らないかを知るダーンとチェルソーには、お祭り騒ぎの後の殺伐とした空気が容易に想像出来る。

 私設船団による海上攻撃。これを潜り抜けても南方民族の地には一万もの軍が迎撃のために控えている。

 ゾン正規軍が貴族や商人の私兵部隊に代わったところで、結果が変わることない。

 むしろ土地勘のない兵士たちなら、カーシュナーたちが介入しなくても放置しておけば勝手に自滅しかねない。


「それまで待ってもかまわないけど、混乱を広範囲に広げるために外側を切り崩しておこう」

「手筈は整ってるよ」

 カーシュナーの言葉にチェルソーがうなずく。


「……本当にいいの?」

 うなずいてから躊躇いがちにチェルソーが尋ねる。

「かまわない」

 チェルソーの問いに、カーシュナーは即答した。


「これまで買い付けはずっと僕たちがしてきた。実際の取引きも僕たちがするんだから、カーシュは外れていてもいいんじゃないかな。市場操作と破壊は僕たちだけでも十分出来るよ」

 カーシュナーはこれまで買い取るという形で奴隷を開放し、ゾン国内で教育と訓練を行っていた。

 奴隷制度の撤廃を目指すカーシュナーが奴隷を購入するという事実は、事実の片側だけを見れば矛盾した行動だ。理由はどうあれ、それは奴隷商人を利する行為であり、奴隷市場を回す一助となる。


 だが、カーシュナーが欲しいのは奴隷制度の撤廃という結果であって、奴隷制度を拒絶し続けたという清廉潔白な過程ではない。目的達成のためであれば、忌避すべき奴隷制度もあえて利用する。

 目的達成の日までどれほど奴隷商人たちが肥え太ろうが、最終的にはすべてを奪い取られるのだ。

 カーシュナーにとって過程とは、気に留めるようなものではなく、ことにゾンでは物事を円滑に回す方法として現金が大きくものをいうので、こだわっていては何も成し得ないのだ。


 そのことをよく知っているチェルソーであったが、それでも安易に踏み越えられない、いや、カーシュナーに踏み越えさせたくない一線があった。


 奴隷を売るという行為だ――。


 買うという行為には、奴隷制度を肯定する側面があるが、同時に金銭で簡単に奴隷を開放することが出来るという利点がある。

 表面上奴隷売買に加担していても、その結果は奴隷解放につながる。

 だが売るという行為は、その根底にどのような理由があろうと、売られる奴隷にとっては理由にならない。買い取り先で奴隷として苦役に従事し、場合よっては命を落とすことになるだろう。

 その事実を理解してたうえで奴隷を売るということは、一切の言い訳が許されないことを意味する。

 カーシュナーはこれまで、奴隷を買うことはあっても売ることはなかった。

 チェルソーはこの一線をカーシュナーに越えさせたくなかったのだ。

 ダーンにはチェルソーの気持ちがよくわかるので、黙ってカーシュナーの答えを待つ。

 もっとも、確認を取るチェルソーも、答えを待つダーンも、カーシュナーが何と答えるか、その答えをすでに知っていた。


「チェルソーにはここエディルマティヤでの現場の指揮に集中してもらいたい。そうなれば全体の指揮を執る者が必要になってくる。それは俺の役目だ」

 チェルソーの気遣いを理解しながら、その提案を一蹴する。


 確かにチェルソーたちだけでも市場の混乱からの破壊は可能だろう。

 だが、カーシュナーの目的はそこで終わりではない。

 それはまだ足掛かりに過ぎず、そこからゾンという国そのものの解体に着手しなくてはならないのだ。

 南方民族の地同様、これまでの歴史の中で築き上げられた理不尽な秩序は、けして変わることはない。

 根が深すぎて表面上の変化などすぐに飲み込まれてしまう。

 根だけでなく、土台そのものを破壊しない限り、新たな秩序がこの地に根付くことはないのだ。


 商人としての判断であればチェルソーは完璧にこなして見せるだろう。

 貴族相手の駆け引きでも、一歩も引けを取らないと言い切れる。

 だが、国家規模の政治的判断となれば、さすがのチェルソーでも手に余る。

 そもそもそんな判断は並みの王族貴族にも扱えるような案件ではない。

 奴隷市場と国としての在り方が密接に絡み合っているゾンという国で、どちらか一方だけを変えるというのは、不可能な問題なのである。


「俺は奴隷を売る」

 誤解のしようのない言葉を、カーシュナーは断言する。

 そこにある覚悟に、チェルソーはそれ以上言葉を挟まず、ただうなずいた。

 ダーンも言葉を発しない。これまで同様自分は常にカーシュナーの隣に在り続けるだけだと心に決める。


 ゾン崩壊が、この日から始まった――。

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