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ヴォオス戦記  作者: 南波 四十一
ヴォオス戦記・乱
85/152

逃走!

 デボラの警告に、カルラの剣が下がると同時に、カーシュナーの足が蹴り上げられる。

 これを予測していたデボラはあっさりと回避すると、首輪の付け根を掴んでカーシュナーを引きずり上げた。

 後ろ手に拘束されているカーシュナーは首吊り状態となり、息が出来なくなる。


「元気の良い坊やだこと。長くはもたない……」

 苦痛によりカーシュナーの動きを封じたデボラが、カルラに向き直った瞬間、デボラのみぞおちに激痛が走る。

 カーシュナーが窒息の恐怖と苦痛を無視して、さらに攻撃に出たのだ。

 虚を突かれたデボラは、カーシュナー同様息が詰まり、秀麗な顔を苦痛に歪める。

 いかに大女といえども、急所は鍛えることが出来ない。

 ましてカーシュナーの肉体は並の子供など比較にならないほど徹底的に鍛え上げられている。

 自身の体重で喉を圧迫され、苦痛で視界が真っ暗になる中、その喉を起点に放たれた後ろ蹴りは、蹴るというよりつま先を刺すようにデボラのみぞおちを抉ったのだ。


 一瞬カーシュナーの首輪を掴む手の力がゆるみ、宙吊りの状態から解放されたが、直後にデボラの手は首輪に繫がったロープを掴み、カーシュナー引き寄せた。

 そして、捕らえるのではなく、その長くしなやかな脚を振り抜き、カーシュナーを蹴り飛ばした。

 怒りの形相でカルラが飛び込むも、デボラは一瞬早くカーシュナーの首筋に、カーシュナーから奪った短剣を突きつけた。

 倒れるカーシュナーに視線を釘づけにするカルラの剣は、振り上げた態勢で止まり、振り下ろされることはなかった。


「よくもやりやがったなっ!」

 そこに怒声を響かせラズが割り込んでくる。

 直後にラズの拳がうなり、カルラの顔面で弾ける。

 いくらカルラが鍛え上げているとはいえ、自分をはるかに上回る大男に無抵抗で殴りつけられては、地に這うしかなかった。

 鼻血をぼたぼたと垂らしながら、さらに殴りつけようとしたラズの目の前でデボラの鞭が鳴る。


「人の獲物に横から手を出さないでもらえるかしら」

「うるせえっ!」

 デボラの警告を無視してラズがカルラを蹴りつけようとした次の瞬間、デボラの鞭が凄まじい勢いで振り下ろされた。


 斬られるとも、殴られるとも違う。

 削り取られる鞭の凄まじい一撃が、ラズの肩から上腕を舐め、悲鳴と共にその巨体を弾き飛ばす。

 その明らかに一線を越えた一撃に、ラズの部下たちが放っていた殺気の向きが変わる。


「てめえ……」

 片膝をつきながら、皮膚をはぎ取られた傷口を抑えてラズが睨み上げる。

「一回殴らせてあげたでしょう。それで満足しなさい」

「ふざけんなよ。ぶっ殺されてえのかっ!」


 ラズが吠えた直後――。

 その股間の真下に鞭が飛び、丈夫なはずの石畳の表面が弾け飛ぶ。

 金槌でも振り下ろしたというのならまだわかるが、革製の鞭でそれをやってのけるデボラの膂力は、明らかにラズを上回っている。

 先程の一撃も、デボラにとっては本気ではなく、あくまで調教用の一撃だっということだ。


 エクレムの部下の中ではずば抜けた実力の持ち主とは言っても、ラズはあくまでならず者だ。

 根本的な部分が戦士ではない。

 身体に刻まれた痛みと恐怖に対し、本能が力の優劣を悟ってしまったラズは抵抗出来なかった。

 両目に浮かべていた怒りが揺らぐ。

 そして、その揺らぎを見逃すデボラではない。

 言葉にも行動にも移されなかったが、組織の中で曖昧になっていた序列が、今明確になる。

 デボラに対して向けられていたラズの手下たちの殺気が消えた。

 

「この坊やの番でもしていてちょうだい」

 デボラは容赦のない蹴りを叩きこまれて白目をむくカーシュナーをラズの足元に投げた。

 意識のないカーシュナーが、糸の切れた操り人形のように、受け身も取らずに転がる。

 力なくグニャリと曲がるカーシュナーの姿は、はたから見ればすでに事切れているようにしか見えない。


「立ちなさい」

 興味の対象をカーシュナーからカルラに移したデボラが、言葉と共に鞭で地面を一打ちする。

 カーシュナーを押さえられているカルラは、デボラに従うしかなく、瞳にだけ反抗の意思を宿しながら、黙って立ち上がった。


 本来であればけして従えることの出来ない者を、屈辱にまみれながらも自分に従うしかない状況に追い込む快感に、デボラは欲望むき出しで浸る。

 カルラは狩る側の獣と一緒だ。

 例え鎖に繋ごうとも、どんな懐柔も受け付けず、死の瞬間まで牙をむき、叛逆の意思を貫き通す。

 けして飼い慣らせれることのない気高い獣。


 だが、獣にはない高い知性が、牙を向く獣の魂を抑えつけ、屈辱を受け入れさせる。

 ラズの揺らぎなどデボラには片手間の調教に過ぎず、ろくに感じもしないが、戦いの意志をその両目にみなぎらせながら、それでいて一歩も前に進むことが出来ないでいるカルラを見下ろすのは、あふれて噴き上がらんばかりの快感をデボラにもたらした。


 デボラの手首がひるがえり、カルラの頬で弾ける。

 表面だけを削る一撃にカルラの頬に血の花が咲き、一度溜まってからゆっくりと紅のしずくが顎に伝って石畳に落ちる。

 その血をまるで舐め取るように舌なめずりするデボラは、まるで絶頂を迎えたかのように呼吸を荒くする。

 それでいてけして迂闊にカルラの間合いには入らない。

 狂っているようでいて、まるで別人格が脳内でデボラを制御しているかと思わせるほど冷静でもある。


 デボラ配下の調教師たちは当たり前のこととして構えているが、異常性ばかりに目を取られていたラズとその部下たちは、初めて自分たちの組織に新たに混ざり込んだ異質な存在の怖さ(、、)を理解したのであった。


「あぶないわ~。ついやり過ぎてしまうところだったわ。あなた本当に良い目をしている。くり抜いてずっと舌の上で転がし続けていたいくらい」

 おぞましい台詞セリフを子供が菓子でも欲しがるかのように嬉しそうに口にするデボラに、ラズはその言葉が例えではなく、本気で言っているのだと本能的に理解した。

 間違いなく最後には、この大女は女騎士の目玉をくり抜いてしゃぶっているに違いない。


 怖気おぞけに震えながら、ラズは無意識にデボラの言いつけを守り、カーシュナーを引きずり上げた。どういうわけか頭頂部の髪の毛が切り取られているが、どうせ大女が戯れに切ったのだろうと気に留めず、後頭部の髪の毛を鷲掴みにしている。

 死んだようにピクリとも動かないので耳を近づけて見ると、まさしく虫の息をいった細い呼吸が確認出来た。


 再びデボラの手首がひるがえり、カルラの身体を捉える。

 おいそれと壊してしまってはもったいないと、服の上からでもはっきり鍛え具合のわかる頑丈な部分を打ちすえていく。

 肉体をいたぶることが目的でない。

 誇り高い騎士が、まるで奴隷のように鞭打たれているという屈辱を与え、それをじっくりと味あわせるために、デボラは鞭を振るっているのだ。


 一振りごとに興奮が高ぶり、それはすぐに狂気の領域へと達する。

 加減をしているとはいえ、その一撃は肌を裂き、皮膚をむしり、血をしぶかせる。

 常人であればのたうち回るほどの激痛に、カルラは不動の姿勢で耐えてみせる。

 だが、カルラの抵抗が強ければ強いほど、耐えれば耐えるほど、それはデボラをより高く、それでいて深い絶頂へと誘うことにしかならない。

 このすべてが、デボラには自慰行為でしかないのだ。


 鞭が風を切る音。鞭が肌を引き裂く音。

 この二つだけが延々繰り返され、デボラの狂気に呑まれていたラズたちに時間的焦りを覚えさせる。

 そしてついにデボラが絶頂の喘ぎを叫ぶに至り、焦りは苛立ちに変わった。

 今自分たちは絶対の優位にある。だが、それは所詮局地的なものでしかない。

 エクレムにいくら力があり、ハウデン都督であるエルモントの権力があるとはいえ、それすらも絶対ではない。

 ここはハウデンではあるが、クライツベルヘンでもあるのだ。

 デボラよりもはるかに前からこの土地に住み着いているラズたちはその意味をよく理解していた。


 絶頂を迎えたデボラが放心したようにようやく動きを止める。

 全身が小刻みに痙攣しているのがわかる。

 快感に浸っているのだ。

 羞恥も何もあったものではない。

 多くの意味でいっている(、、、、、)デボラの顔は、美しくはあっても嫌悪を感じさせる類のものであった。


 正視に耐えかねたラズが視線を外し、

「いいかげんにしろっ!」

 と口を開こうとした瞬間、それは起こった。


 大きな手で鷲掴みにしていたカーシュナーが突如回転し、頭皮さえも引き裂きながら自身の頭髪をむしり、脱出したのだ。

「ブルーノッ!」

 それまで息を潜めていたブルーノが、カーシュナーの行動に即座に反応して取り付き、一瞬で後ろ手に縛っていたロープを切ってカーシュナーを解放する。


 あまりに一瞬の出来事過ぎて呆気にとられていたラズが、慌てて腰の大剣に手を伸ばす。

 だが、その手は空を掴んだだけで、肝心の馴染んだ柄の感触を手の平に伝えなかった。

 腰を見下ろすと、そこには空の鞘が吊り下げられているだけで、愛用の大剣は消え失せていた。

 理解が追いつかないラズなど歯牙にもかけず、カーシュナーとブルーノはさっさと逃走にかかる。

 カルラも一瞬の遅滞もなくその後に続く。

  

 すべての出来事が一瞬で、しかも同時に進行したため、誰も的確な対応が出来ない。

 指揮を執るべきデボラに至っては、いって(、、、)しまった直後とあり、まだ帰って(、、、)来てすらいない。


 血まみれのカルラの前にカーシュナーが出る。

 その隣にはブルーノが、得意のナイフをしまい込み、ガイオから受け取った剣を手にして走る。

「無理をさせたね」

 振り向かず、カーシュナーがカルラに謝罪の言葉をかける。


「この程度、傷の内にも入りません」

 全身血まみれのカルラであったが、精神的にはこんなものを傷と認めることなど出来なかった。

 デボラの狂気を、カルラはどのような理由であろうと受け入れることは出来ない。

 カルラにとってはどんな理由であっても、それはけして認めてはいけないものだからだ。


 デボラにとんでもない蹴りを叩きこまれた直後、実はカーシュナーはカルラに対して指言葉で指示を出していた。

 機会を待てと――。

 自分自身が危機的状況下にあるというのに、ここで待てという指示を出せるカーシュナーの冷静さに、カルラは頭に昇っていた血が一気に下がり、冷静になれた。


 カーシュナーの正体を見破られたうえでその身柄を押さえられてしまった以上カルラに打てる手はない。カーシュナーを見捨てることが出来るのであればまだ打つ手もあるが、そもそもそれが出来ないから飛び出してしまったのだ。

 カーシュナーに考えがあるというのであれば、カルラはどんなことにも耐えるつもりでいた。

 

 腹芸には自信がない。

 カルラはカーシュナーの足をこれ以上引っ張らないために、デボラに対する怒りと憎しみだけをその瞳に込めて、状況の変化を待った。

 デボラの狂態にはその狂気にさらされているカルラですら怒りと憎しみを萎えさせられかけた。

 真っ向から向き合うことが愚かに思えるほど、デボラという人間の本質はカルラにとって異常過ぎたのだ。


 全身を血に染めながら、カルラは待った。

 そしてその時は来た。

 デボラの意識がカルラには理解出来ない次元に飛んだ瞬間、カーシュナーが行動を起こしたのだ。

 それが意識を失った振りであると知っているカルラの目から見ても、カーシュナーの演技は真に迫っていた。

 何度か本当に意識を失ってしまったのではないかという疑念が頭をよぎったほどだ。

 その瞬間、捕らえていたラズの意識からは完全にカーシュナーの存在が消えていた。

 その一瞬の隙を突き、カーシュナーは自らの頭皮を裂きながら頭髪をむしり取り、己の身だけでなく、カルラの自由まで取り戻してくれたのだ。

 

「ここは任せてくれ」

 新たな鮮血に首筋を濡らしながら、前を走るカーシュナーが振り向かずに言葉をかけてくる。

「はいっ!」

 カルラは反射的に答えていた。

 声の高さも、小さな後ろ姿も、まぎれもなく少年のものだ。

 だが、その言葉は間違いなくクライツベルヘン家をその小さな背中に背負った男の言葉であった。


 反射的に従ってしまったカルラは、こんな状況下であるにもかかわらず、思わず頬がゆるんでしまう。

 デボラがどれ程自分を従えようと鞭を振るおうが、微塵も心は揺らがなかったというのに、カーシュナーはその小さな背中だけで自分を従えてしまった。

 自分がクライツベルヘン家の騎士であり、ここ数か月の関わりでカーシュナーに傾倒していたということもあるが、その事実を差し引いても、カーシュナーには人の上に立つ者としての器があった。

 事実出会ったばかりのはずのブルーノが、阿吽の呼吸でカーシュナーに従っている。


「逃がすなっ!」

 ラズの部下たちが口々に叫び、三人の進路を塞ごうとするが、デボラの狂態に心を萎えさせられた直後とあって動き出しが鈍く、士気などないも同然であった。

 カーシュナーという少年をこの場で理解していたのは、侵入してきたところを捕らえたデボラのみであり、それ以外のならず者たちがカーシュナーを侮るのは当然のことであった。

 だが、この侮りが致命的な対応の遅れとなる。


 クライツベルヘン家の子息であるカーシュナーには、金塊の山ほどの価値がある。

 加えて、下手に殺そうものなら、クライツベルヘン家の追手が地の果てまでも追いかけて来るであろうことも同時に予想出来た。

 自然ならず者たちの攻撃の手はゆるいものになる。


 カーシュナーはまるで魔法のようにラズから拝借した大剣を振るい、囲みこもうとするならず者たちの足を剥ぎ払った。

 大の大人でも振り回されかねない大剣を、カーシュナーは見事に操っている。そして大人と子供の体格差を逆に利用し、恐ろしく低い体勢でならず者たちのふところに潜り込むと、膝から下を狙って攻め込んだのだ。


 膝を割られ、脛を砕かれ、ならず者たちが悲鳴を上げる。

 運の悪い者は足首を斬り飛ばされ、のたうち回る。

 ならず者たちの意識が足元に向かうと同時に、今度はブルーノが大剣を振り回す。

 こちらはさすがにカーシュナーのように上手く制御出来ず、ブルーノ自身も振り回されてしまっているが、始めから敵を倒すのではなく、牽制目的に振るっているので、十分その目的は果たせている。


 甘い認識で近づいたならず者たちとって、カーシュナーは長い牙を持った獣も同然であった。

 その素早さに追いつける者は一人もおらず、その攻撃の鋭さと容赦のなさは、すでに一人前の剣士の領域にある。

 ようやくどことも知れない次元に飛んでいたデボラが帰って来た時には、もはやその鞭が届く範囲から完全に脱出した後だった。


「何やってんだい。このグズ共があっ!!」

 それまで被っていたあからさまに嘘くさい貴婦人の仮面を脱ぎ捨てたデボラが怒りを爆発させる。

 ぼろぼろの女騎士一人に、子供二人。

 そんなたった三人を止めることも出来ない男たちに、デボラが自分の痴態を棚に上げて怒り狂うのも無理もない話であった。


 怒りのまま鞭を振り回しつつ、デボラが三人を追う。

 振り回す鞭に巻き込まれたならず者たちが悲鳴を上げるが、見向きもしない。

 その長い脚を最大限に生かして追跡する。

 先にカーシュナーたちを追っていたならず者たちを追い抜き、三人の背後に迫る。

 恐るべき速度だ。


 だが、三人が脇道に飛び込むと同時に、その脇道が火の海と化す。

 炎はあっという間に燃え広がり、他の脇道まで炎の壁で埋め尽くした。

 さすがのデボラも慌てて足を止める。

 揺れる炎の壁の向う側へ、四つの影が消えていくのを、デボラの高い視線が捉えたが、どうすることも出来なかった――。









「でかした。チェルソーッ!!」

 隣を走る少年の頭を、ブルーノがぐりぐりとかき回す。

「い、痛いよブルーノッ!」

 悲鳴を上げつつも、チェルソーの声は嬉しそうだ。


 三人をデボラの追撃から救ったのはチェルソーの機転だった。

 カルラが飛び出し、ブルーノがその後を追った直後、チェルソーは現状から自分に出来ることが何かないかと思考を巡らせた。

 自分も飛び出すのは論外だ。足手まといにしかならない。

 チェルソーに出来ることといえば、カルラとブルーノが救出に成功するのを信じて祈ることだけだ。


 だが、ここでただ祈るだけで終わらないのがチェルソーの凄さだった。

 成功したとしたら、今度は治安部隊だけでなく、エクレムの手下たちからも徹底的に追われることになる。

 逃げ切らなくては意味がない。

 チェルソーの思考はその時点で、祈るのではなく、どう逃げ切るかに全力を傾けていた。

 

 策はすぐに浮かんだ。

 幸いなことに、この場所は船に火をつけるために油を盗んだ倉庫の近くだった。

 チェルソーは即座に倉庫に向かい、台車まで盗んで油を大量に運び出した。

 そして素早く逃げ道を計算すると、逃げ道に通じる小道にまで油を撒き、逃走に備えたのだ。

 その努力は無駄にならず、四人全員での無事脱出につながったのであった。


「カ、カルラさん。大丈夫ですか?」

 全身血まみれのカルラに、若干引き気味にチェルソーが尋ねる。

「心配してくれてありがとう。見た目はひどいだろうが、傷そのものは深くない。そのうち出血も止まるはずだ」

「チェルソー。この辺で強い酒ってあったか?」

 ブルーノが尋ねる。

 だが、チェルソーは答える代わりに背負っていたずだ袋から素焼きの酒壺を取り出してみせた。

「さすが。わかってんなあ~」

 ブルーノはそう言うとチェルソーの頭を再びかき回した。


「姐さん。この辺りの汚さを舐めちゃいけねえ。そんな状態でほったらかしにしてると速攻で病気になるぜ」

 そう言ってチェルソーから受け取った酒壺を渡した。

「何から何まですまない」

 カルラは受け取ると酒壺の栓を抜き、頭から中身を被った。

 全身に襲い来る激痛に、カルラは走りながらすくみ上る。


「これれひとあんしんらね……」

「……そ、そうらな」

「……へ、へりゅほ~。このはけっへ……」

「ストゥリピースだね」


「これで一安心だね……」

「……そ、そうだな」

「……チ、チェルソー。この酒って……」

「ストゥリピースだね」

 以上が先程の会話の解説となる。

 ちなみに一人解説が不要であったのがカーシュナーで、ストゥリピースは大陸一強い酒である。


「ちょっと急ごうか。ここだとまだ火の粉が飛んでくるから」

 そう言ってカーシュナーが三人を促すが、早くも三人とも足元があやしくなっている。

「カルラ頑張って。ここまで来て火だるまになりたくないでしょ?」

「……わ、わかっへいるのれふが、へ、へがまはっへ」

「まったく。緊張感がないな~」

 カーシュナーがわざと呆れ返るが、その声には言葉とは違い緊張の色は見られない。

 状況に油断しているのではなく、胆が据わっているのだ。

 ちなみにカルラは「……わ、わかっているのですが、め、目が回って」と言っている。


 十歳の子供にはありえない胆力を発揮し、カーシュナーは無事三人を安全と思われる場所まで導いたのであった――。









 そこは倒壊した廃墟が連なる一角に、偶然出来た小さな空間であった。

 周囲が瓦礫によって囲まれているので、ここにこの場所があることを知らない限り、火を焚いても気づかれることない。


「みんな。ありがとう」

 三人の頭が少ししっかりすると、カーシュナーはまず三人に頭を下げた。

「ごめんっ! オイラがドジったから……」

 酒精で鈍っていた頭の働きが正常に戻ったチェルソーが、カーシュナーの言葉を遮るようにカーシュナーの目の前に両膝をつく。

 自分の失態からカーシュナーを窮地に追い込んでしまったことをずっと気に病んでいたチェルソーは、なんと謝ればいいかずっと考えてたのだが、言葉が詰まり、ただカーシュナーの傷だらけの姿を見上げることしか出来なかった。


「チェルソーが無事で良かった」

 それだけ言うとカーシュナーはやさしく微笑んだ。

「……ごめん。オイラ、オイラ……」

 後は言葉にならなかった。

 そんなチェルソーを、カーシュナーはそっと抱きしめた。 

 チェルソーはカーシュナーのやさしさにしがみつくと、僅かな間だけ激しく泣いた。そして、無理矢理自分を抑えて心を鎮める。

 幼くとも甘えが許されない状況であると理解しているからだ。


「まだ何も終わっていない。」

 チェルソーが落ち着くと、カーシュナーは誰にともなく語った。

「この危険区域から脱出してください」

 カーシュナーの意図を悟ったカルラが、先回りして脱出を促す。


「彼らを見捨てるわけにはいかない」

「それは私たちクライツベルヘン騎士団の仕事です。あなた様が御身を危険にさらしてまでなさるようなことではありません。どうかご自重ください」

 カーシュナーの言葉は人として当然の言葉だ。

 そしてカルラの言葉は、騎士として、臣下として、何より大人として当然の言葉だった。

 この場でうなずくべきはカーシュナーだ。

 だが、カーシュナーはゆっくりと首を横に振った。


「私はクライツベルヘン家が末子、カーシュナーだ。領民の窮状を見過ごすわけにはいかない」

 そこにはどれほどその姿が汚れようと、曇ることのない輝きを宿した魂があった。

「……あ、後を任せることは、けして彼らの窮状を見過ごすことではありません」

 その輝きに、カルラは一瞬心を奪われ、慌てて説得を続けた。


「確かにその通りだ」

 不意に様子が変わったカーシュナーに、ブルーノもチェルソーも呆気にとられる。

 見た目は間違いなく子供なのだが、その存在感はハウデンの旧貴族など足元にも及ばない程大きい。

 クライツベルヘンであるという意味を、その存在感だけでカーシュナーは雄弁に語っていた。


「聞いてくれ、カルラ。私は意地を張っているわけではない。捕らえられていた間、私は彼らの窮状と、彼らを取り巻く環境がどういうものなのか、身をもって経験した」

 カーシュナーの言葉にカルラは青ざめる。

 先程の大女たちが捕らえた人々にどのような仕打ちを施していたか、その一端なりともチェルソーから聞いていたカルラは、カーシュナーのその幼い身体が汚されてしまうのではないかと恐れていた。

 そしてその恐れは現実となってカルラに襲い掛かって来た。

 腹の底が破れてしまったかのような喪失感が訪れ、己の無力さに己自身を呪い殺してやりたくなる。


「いや、まるですべてを経験したかのような言い方は少し大袈裟だったな。糞尿まみれにされた後、海に投げ込まれ、棒で窒息寸前まで何度も沈められただけだしな」

「大袈裟どころではありませんっ!!」    

 思わず叫んだカルラの頭を、カーシュナーがラズの大剣の腹で殴る。

「状況をわきまえろ。騎士カルラ。それでもクライツベルヘンの騎士か」

 頭に上った血を急降下させられたカルラであったが、それでもその身を焦がす憤りは治まることはなかった。


「状況が理解出来ないのなら、私ではなく、お主がここから去れ。足手まといだ」

 自分の中の怒りを制御しきれないでいるカルラに対し、カーシュナーは容赦のない言葉を投げつけた。

 言葉の厳しさ以上に、その声の冷たさに思わずハッとさせられたカルラは、カーシュナーの翠玉の瞳を真正面からのぞき込む。

 そこには過酷な責め苦を味あわされたとは思えないほど静かない光があった。


「糞尿にまみれるなど、単なる汚れだ。海に叩き込まれて窒息されられかけたのも、連中にとっては洗濯をしていたようなものだ。汚れは海に流れ落ち、苦しみもすでに去った。身体の傷など、どれもかすり傷にすぎない。三日もすればふさがるだろう。心を汚され、傷つけられることを考えれば、比べるようなことですらない」

 カルラが見つめる視線の先で、カーシュナーの静かな瞳に霜が降り、見つめるカルラの心まで凍てつかせるほどの冷たさを帯びる。

 それはけして十歳の子供が持ちえるような冷たさではない。

 カーシュナーが見たものは、少年にこれほどの冷たい怒りを植え付けるほど惨たらしいものだったのだ。


「彼らの心は限界に達している。これ以上の苦痛は、心を閉ざすことでなんとか保たれている正気を崩壊させることになるだろう。ここで座して騎士団の到着を待つような時間はない。船を用意される前に、彼らを救出する」

 冷たさを冷静さに変え、カーシュナーは言い放った。

 カルラ自身も基本的な考えは一緒だ。ただ、カーシュナーの身をこれ以上危険にさらしたくないだけなのだ。

 さすがのカルラもこれ以上の問答は無意味と悟る。

 幼くともカーシュナーは、やはりクライツベルヘン家の男なのだ。

 それに、時間がないことに対する焦りはカルラにもある。


「では、いかがいたしますか?」

 カルラが諦めのため息を一つ着いた後に尋ねる。

「頭を潰す」

 早くも現実的な行動に頭を切り替えたカーシュナーが答える。


「連中がここでどれほどの勢力であろうと、素人(、、)であることに変わりはない。だが、やはり数は脅威だ。まともに相手をしていては、こちらが追い込まれることになる」

 カーシュナーの言葉にカルラがうなずく。

 仮にもここハウデンの裏の顔とも言える犯罪組織であるエクレムの配下たちも、正規の訓練を受けたカーシュナーとカルラの前ではただのならず者にすぎない。

 だが、だからこそならず者たちは群れを作り、数の力を頼りにする。


 数の力は侮れない。

 いくらカルラの腕が立つと言っても、先程のように不意を衝いての一点突破では、助けられるのはせいぜい二、三人が限界だ。それも、助けた相手が自力で逃走出来るのが前提の話だ。

 仮に全員を助けることが出来たとしても、今度は守る手が足りなさすぎる。

 助け出した後で殺されては意味がない。


「だがその数も、統率者を欠けば機能しなくなる。特にラズという男と、デボラという名の大女の統率力はたいしたものだ。だがその反面、この両者の下には二人に代わるだけの力量の持ち主がいない。良くも悪くも二人の命令に忠実で、独自の判断力に欠ける。奴らをすべて倒すことは出来ないが、ラズとデボラの二人を倒すことが出来れば、組織力を崩すことは出来る」

 もっとも、それは敵の首領であるエクレムが戻るまでの間でしかない。

 状況を決するためには、短時間の内にラズとデボラの二人を確実に倒す必要がある。

 

「二人はどうする? ここから先は仲間のための戦いじゃない。二人が危ない目に遭う必要なんてない戦いだ」

 それまでのクライツベルヘン家の子息の顔から、カーシュナー個人の顔に戻る。口調まで元に戻っている。

 その変化は劇的で、ブルーノとチェルソーはカーシュナーが本当は二人いるのではないかという錯覚に捉われかけるほどだった。


「……ただ者じゃねえとは思っていたけど、まさかあのクライツベルヘン家のお坊ちゃんだったとはな」

 問われた事には答えず、ブルーノが先程から受けまくっている衝撃に対する素直な感想を口にした。

「……どっちがほんとの君なの?」

 チェルソーもすぐには呑み込めず思ったままの疑問を口にする。


「こっちだね。さっきのはカルラがちょっと面倒臭い感じになっちゃったから、家の威光を使って抑えつけただけ」

 チェルソーの疑問に、カーシュナーはあっけらかんと答えた。

 そのあまりの物言いに、カルラはひどく傷づいた顔をし、ブルーノとチェルソーはそんなカルラを気の毒そうに眺めた。

 だが、同時にいかにもこの少年らしいとも思った。

 とても子供の範疇になど収まらない。だからといって大人でもない。

 この規格外な雰囲気こそ、いつの間にか自分たちを魅了してしまった少年の、らしさ(、、、)だった。


「なら答えは一つだ。俺らも戦う。お前はさっき、もう仲間のための戦いじゃねえって言ったが、お前がまだやる気なら、それは俺らの戦いだ。俺らは今でも、勝手にお前を仲間だと思っているぜ」

 ブルーノの隣でチェルソーが真剣な表情で何度もうなずく。

「助かるよ。実は二人をかなり当てにしていたんだ」

 ブルーノ言葉に、カーシュナーが満面の笑みを浮かべる。

 つい先程カルラに対して見せた冷たさを知っているだけに、その笑顔の破壊力は凄まじかった。

 ブルーノもチェルソーも、思わず頬を赤らめもじもじしてしまう。


 私の時と違い過ぎるっ!!


 カルラは心の中で絶叫していた。

 そして、二人に対して嫉妬している自分に動揺する。


「それじゃあ、三人とも力を貸してくれ。この四人でやる」

 空気を変えたカーシュナーの言葉に、三人も表情を引き締める。

 直後にカーシュナーは三人に気取られないように暗闇の一角に視線を向けた。

 その口元がニヤリと笑う。

 後々カーシュナーを象徴することになる悪い笑みだ。


 闇の奥に身を潜めていた男は、腕に鳥肌が立つのを感じた。

 

(怖い、怖い。これだからクライツベルヘン家の連中は……)


 闇の奥からカーシュナーたちの行動を観察していた男は心の中で冷汗を拭う。

 実際には身動きどころかまばたきすらもしていない。

 カーシュナーの視線が、勘を頼りに向けられたものであることを見抜いているからだ。

 もっとも、ここで視線を外しでもすれば、その勘は確信に変わることも確かだ。


(視線に対する感度はエクレムの手下の大女にも引けを取らないか。こちらの意図もどうやら薄っすらと察しているようだし、末恐ろしい坊ちゃんだ)


 男は闇に同化したまま、心の内で口角を吊り上げる。

 その笑みはカーシュナーの笑みと同質のものであった。


 男はカーシュナーが背を向けた後も身じろぎひとつしなかった。

 この時すでに、カーシュナーの冷たく厳しい視線が別の暗闇に向けられていたことも知らずに――。

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