カルラと少年たち
今回はグロくないので安心してお読みください。
ただし、戦闘描写はご容赦ください。
ヴォオス戦記は基本戦いの物語ですので。
カルラは走っていた。
カーシュナーの行き先の見当はまったくない。
だが、それでも走っていた。
カーシュナーがどこにいるかではなく、どこにいてほしくないかを考えて。
カルラはここハウデンで何事かが進行中であることを確信していた。
そして、全体的に治安の良いハウデンで、大規模な犯行が可能な組織が潜伏可能な場所は、ハウデンの住民たちから危険区域と呼ばれて警戒されている区域しかないと考えていた。
仮に、カーシュナーの目的地が危険区域以外の場所であれば、カーシュナーはおそらく自分たちに協力を求めてくれたとカルラは考えている。
ほんの数か月ではあるが、その小さな背中を追い、見事に撒かれ、本気でその行動を観察し、思考を測り、結果心底感服させられたカーシュナーという少年のことを、カルラは少しは理解出来たと思っている。
その理解から、カルラは危険区域へと向かい、それが無駄足に終わったとしても、それ以外の場所でなら、カーシュナーが窮地に陥るようなことはないと割り切っていた。
ハウデンは港湾都市だ。
ヴォオスを海から切り離す断崖に、張り付くように扇形に広がっている。
南に面した海岸線のすべてが港として整備されており、大きく分けて海洋商人たちが利用する一般商業区、漁業権を持つ地元漁師たちが利用する水産業区、クライツベルヘン軍が指揮する海軍区の三つに分かれている。
どの港にも海の男を目当てに酒場が設けられており、港に眠りの夜は訪れない。
ハウデンの底辺とも言える危険区域も例外ではなく、安酒を提供する違法酒場が軒を連ね、通りには酔っ払いがあふれている。
初めて足を踏み入れたカルラは、その汚さと悪臭に思わず顔をしかめた。
その様子を目ざとく見とがめた酔っ払いがカルラにからむ。
「汚くて臭くて、も~しわけありませんねえ。騎士の旦那」
そう言って酔っ払いは臭い息を吐きかけてくる。
整った身なりに帯剣しているカルラは騎士以外の何者にも見ないが、それだけに知らなければ女性には見えない。
なまじ顔立ちも整い、鍛え上げてはいても女性特有の顎の線の柔らかさなどもあることから、男として見た場合、非常に美々しい騎士に見える。
「すまない。お主を侮辱するつもりではなかったのだ」
「お高くとまった騎士風情が、こんなとこまででしゃばって来て、人のこと見下してんじゃねえぞぉっ! こらぁっ!」
なだめようとしたカルラに、酔っ払いは態度を豹変させて怒鳴りつけた。
カーシュナーのことで頭がいっぱいのカルラの対応は、男には適当にあしらおうとしているように映ったのだ。
「なんだぁ。喧嘩か~?」
そこに仲間と思われる男たちがさらに三人からんでくる。
四人の男に四方を囲まれたカルラは、苛立ちを表情に出した。
良くも悪くも正直なカルラの性格は、こういった時、問題に直結しやすい。
「なめてんじゃねえ……」
始めにからんだ男がカルラの苛立ちを敏感に察し、ブチ切れるが、行動に移すという意味においてはカルラの方がはるかに早かった。
男の言葉途中にいきなり金的を蹴りあげ黙らせる。
蹴られた男の腰が浮き上がるほどの威力の蹴りに、男は悲鳴すら上げられず、下腹部を襲う激痛に、呑んだばかりの酒を派手に吐き出し痙攣する。
「てめえ、喧嘩でいきなり金玉狙うたあ、卑怯だぞっ!」
「かまわねえ、ぶっ殺せっ!」
仲間の男たちが、カルラに襲い掛かろうとしたが、カルラは剣に手を掛けることすらせず、背後の男に後ろ蹴りを入れ、左から掴みかかってきた男の胸ぐらを掴むと体重を使って振り回し、右手にいた男に投げつける。
絡まり合って倒れた二人は互いに罵り合いながら立ち上がろうとしたが、上になっていた方の男がカルラに後頭部を踏み抜かれ、下になっていた男は踏み抜かれた男の額が顎にめり込み、二人同時に叩きのめされる。
他の三人よりも被害の小さかった背後にいた男が逃げ出そうとしたが、カルラは足を払って引っくり返した。
「人を探している。十歳の少年で、渡来人の血を引いていて、金髪をしている。見かけなかったか?」
逃げられないように足首を踏みつけられてる男は、自分を見下ろすカルラの眼光の鋭さに怯えた。
足首に体重が掛けられ、男は悲鳴を上げる。
「み、見てねえっ! 見てねえが、なんかガキがエリアンの手下たちに追われてるって話は聞いたっ!」
このままでは足を折られると思った男は、酔いの吹き飛んだ頭で必死に情報を検索し、いつ誰から聞いたのかもわからない情報を引っ張り出す。
「どこでだ」
情報を提供すれば許されると思っていた男は、さらに鬼気迫る表情になったカルラに震え上がる。
下手な受け答えをすれば、腰の剣で首を刎ねられかねない程の殺気だ。
「わ、わからねえっ! まだ捕まっていねえなら、そこら中を逃げ回ってるはずだ。ただ、エリアンのシマはもっと奥の方だから、この辺にはたぶんいねえ。頼む。勘弁してくれえっ!」
男はそう言うと、対して中味のない財布を取り出して差し出した。
これ以上提供出来る情報はないという意味だ。
もし財布に加えてカルラから土下座を強要されていたら、男は喜んで額を汚い路地にこすりつけたことだろう。
「邪魔をした」
そう言うとカルラは男の財布を無視し、代わりに銀貨を一枚投げ与えて走り去った。
全く当てのない状況では、男の情報は十分行動の指針になる。
なにより、いくら売られた喧嘩であったとはいえ、少々短気が過ぎたと反省していたからだ。
財布どころか命まで取られるのではないかと恐怖していた男は、走り去るカルラの背中を安堵と共に見送った。
その背中が雑踏に紛れると、男はカルラから受け取った銀貨を握りしめ、痛む腹を押さえながら立ち上がる。
金的を蹴り上げられた仲間と、額と顎から流血して伸びている仲間を一瞥すると、予定外の収入を得た男は恐怖と痛みを忘れるために、一人酒場へと戻っていった。
ここはそういう場所なのだ。
奥と言われたが、カーシュナーのようにハウデンの地形を頭に入れてはいないカルラは、とりあえず酒場が立ち並ぶ一角を抜け、人気の少ない方へと進んで行った。
いまさらだが、この危険区域の地形と情報を仕入れていないかった自分の迂闊さを呪う。
警戒しつつ進んで行くと、不意に男たちの怒声がカルラの耳に届いた。
明らかに何者かを追い、複数で追い込んでいる様子だ。
カルラは気配を消すと素早くそちらの方向へと向かう。
追いついてみるとそこでは二人の少年たちがいかにも荒事慣れしている男たちに囲まれていた。
ちらりと見ただけでも骨格からカーシュナーではないとわかる。
今は別の面倒事に関わっているような余裕はない。
だが、カルラの足はその場から離れようとしなかった。
「手こずらせやがってっ! ふざけんなよ、クソガキ共がっ!」
男の一人が追いつめた少年たちに怒声を浴びせる。
全員肩で息をしていることから、相当長く少年たちの逃走は続いていたようだ。
「ぶっ殺していいんでしたっけ?」
少し抜けた調子で別の男が尋ねる。
抜けているのは頭だけでなく、感情も抜け落ち、人間らしさが感じ取れない。
子供を殺すということに何も感じていない声だ。
組織間の抗争を避けるため、この危険区域では暗黙のうちに殺しはご法度となっっている。
もっとも、それは構成員同士に限った話であり、それ以外の人間には適用されていないのだが、犯罪組織の人間すべてが人を平気で殺せるごろつきばかりではない。
そんな人間しかいない組織に出来ることと言えば強盗ぐらいしかなく、そんな組織はさすがのハウデン都督府も放置しない。
暴力はあくまで最終手段であり、堅気や役人などと渡りをつける、いかにも一般人といった風情の構成員の方が多い。
そういった構成員を間違って殺してしまうと、組織同士で話をつけるのが非常に難しくなる。
少年たちを包囲した男は、そのことを気にかけたのだ。
人でなしのろくでなしも、自身の保身は考えるのだ。
「命令は逃がすなだ。捕らえろとは言われていねえ。こんなゴミ漁りのドブネズミ共なんざあ、皆殺しにしちまえっ!」
男たちの中で一番格上と思われる男が、少年たちに唾を吐きかけながらニヤリと笑う。
汚い笑いだ。
余計なことに巻き込まれている余裕はない。
わかってはいたが、カルラの中の騎士道精神は、現実を是として受け入れなかった。
この子供たちの命も、カーシュナーの命も同じ命だ。
たとえそれが理想論であり、現実には浮浪児とクライツベルヘン家の子息の命の価値に大きな差があるとしても、ここでこの命を見捨てるということは、自らの意志で騎士の道から外れることに他ならない。
カルラにとって、騎士とは職業ではなく在り方だ。
それは、誰に蔑まされようと、自分自身に誇れる生き方を譲らないということだ。
クライツベルヘン家の騎士ならば、ここで目の前の子供たちを見捨てるという冷徹さは、けしてとがめられるものではない。
そこに生じる自責の念と向き合い、しっかりと受け入れ、生涯持ち続ける覚悟があれば――。
カルラにそんな覚悟はない。
カルラに言わせれば、それは覚悟ではなく言い訳だ。
カルラにあるのは、愚直なまでに騎士道を歩み続ける覚悟だけだ。
クライツベルヘン家の騎士としては失格とも言えるその覚悟を、クライツベルヘン家は良しとし、敢えてカーシュナーにつけている。
カルラにはその意味は理解出来ていないが、カルラがここで考えを変えるような人間ではないことが、クライツベルヘン家にとって重要なことであり、カルラはその期待を裏切らない一徹者であった。
カルラは後のことなど考えず、身を潜めた場所から迷わず飛び出して行った。
「その子たちを解放しろっ!」
鋭く放たれたカルラの言葉に、男たちは別組織から襲撃を受けたと思い、慌てて振り向いた。
だが、相手がカルラ一人だとわかると、途端に強気になる。
「なんだてめえ、俺らを誰だと思ってんだっ! 邪魔するならどこの組織の者だろうとぶち殺すぞっ!」
組織同士での殺しが御法度の危険区域で、脅しではないこの恫喝は、彼らが所属する組織の本気度をうかがわせた。
だが、この区域の組織のことに詳しくないカルラには、その重要性が理解出来ていない。
「もう一度だけ言う。その子たちを解放しろ」
「わからねえ奴だな。ここで俺らに逆らうってことは、エリアンさんに逆らうってことなんだぞっ!」
「エリアン? 知らんな」
カルラは挑発するためではなく、素直に答える。だが、それは相手にとっては挑発以外のなにものでもなかった。
「よそ者かっ! なら構わねえっ! 容赦なくぶっ殺せっ!」
少年たちを追い詰めていた男たちは五人。
その全員が一斉に襲い掛かる。
先程の喧嘩とは違い、カルラは即座に剣を抜いた。
一歩踏み込み、左端の男に斬りつける。
喧嘩慣れしている者たちと、正規の剣術を身につけた者との違いがここではっきりとした差を見せつける。
男はカルラの踏み込みに対処出来ず、自分から剣の軌道に飛び込んでしまい、左肩から右脇腹まで、切り裂かれ、内臓を撒き散らして倒れた。
男の仲間たちがその死に様に怯えたのに対して、カルラは斬った次の瞬間にはその男のことなど意識から締め出している。返す刀で右隣の男の首を切り裂き、そのまま倒した男に体当たりを喰らわすと、残りの三人にぶつけていく。
一瞬とはいえ怯えから足を止めてしまった男たちは、仲間の死体に抱きすくめられるようになぎ倒される。
普段のカルラであればここで一旦攻撃の手を止めて降伏勧告するところだが、今回は容赦なく追撃し、突きの三連撃で残りの男たちにもとどめを刺す。
子供たちを見捨てない選択こそしたが、そこはカルラもクライツベルヘン家の騎士である。
生きている価値などないと見切った者たちに対する冷徹さはしっかりと持ち合わせていた。
「大丈夫か、君たち?」
カルラは倒した男の衣服で剣の血糊を拭うと、怯えて固まっている子供たちに問いかけた。
子供たちもこの危険区域の御法度は心得ている。
それだけに微塵の迷いもなく男たちを殺したカルラがこの辺りの者ではないことは即座に分かった。
そして、その腕前が非常に優れていることも――。
「助けて騎士様っ! みんなが、仲間が殺されちゃうっ!」
この危険区域に組織の人間に逆らってまで人助けをしようなどというお人好しは一人も存在しない。
そんな人間はとうの昔に殺されている。
安全な逃げ場所もなければ、守ってくれる大人もいない彼らは、命がけで逃げ続け、相手が諦めてくれるのを辛抱強く待つしか手段がなかった。
逃げきれずに追い詰められれば、死あるのみだ。
そこへ、絶対にないと思われていた救いの手が差し伸べられた。
子供たちは自分たちの幸運を感謝する前に、仲間たちのためにその手にすがりついていた。
「他にも追われている子供たちがいるのか?」
カルラの問いに、子供たちは目に涙を浮かべてうなずく。
先程まで命の危機に直面しても泣いていなかった少年たちが浮かべた涙に、カルラは仲間への思いの強さを見る。
「わかった。場所はどこだ?」
カルラが答えると、子供たちはカルラの手を取り走り出そうとする。
「待て。君たちはどこか安全な場所に避難しなさい。仲間たちは私が助けるから」
「絶対無理っ! みんなあいつらを撒くために迷路みたいな場所を走っているはずだから、俺たちじゃなきゃ見つけられないよっ!」
「それに、避難出来る場所なんて俺たちにはないからっ!」
二人はカルラの忠告をあっさりと退けた。
戦う力こそないが、この危険区域で生き延びてきた彼らは、並の大人以上の胆力がある。
「わかった。案内してくれ」
当人たちはそれが当たり前と考えているが、子供の口から避難出来る場所なんてないと聞かされると、大人として胸につまされるものがある。
カルラは問答の無駄を悟り、彼らに従った。
だが、それでも言わずにはおれなかった。
「危険だと感じたら二人だけでも逃げるんだぞ」
この言葉に対し、子供たちはその年齢の子供が決して浮かべることのない苦い笑みを、汚れた頬に浮かべた。
「皆と一緒じゃなきゃ意味ないよ。俺たち二人だけじゃあ、すぐ飢え死にしちゃうもん」
「その前に多分殺されるよ」
「あ、そうかっ!」
そう言って二人は笑った。
だが、カルラはとてもではないが笑えなかった。
こんな酷い言葉のやり取りが当たり前になってしまっている彼らの日常に、騎士である前に人として憤る。
その怒りは、ハウデン都督府に統治を一任している、主であるはずのクライツベルヘン家に対しても向けられる。
完全なるクライツベルヘン家の統治下であれば、彼らの様な子供を保護もせずに放置するなどあり得ないからだ。
「君たち、今日この辺りで普段は見かけない十歳くらいの金髪の少年を見かけなかったか?」
子供たちの苦境に憤りつつも、カルラは主目的を忘れてはいなかった。
カルラの問いに、子供たちは目を見交わして驚く。
「金髪じゃなかったけど、とんでもない子なら見かけたよっ!」
一人の子供が興奮しながら説明する。
「とんでもない子?」
さすがにそれではわからないカルラが問い返す。
だが、なんとなく嫌な予感がする。
「チェルソーが見つけた奴なんだけど、とにかく普通じゃなかったっ! 俺たちより大きい仲間たちをたった一人でぼこぼこにした上に、俺たちの中で一番大きいブルーノまでやっつけちゃったんだよっ! ナイフを持っていたのに全然ビビらないでっ!」
「十歳くらいの少年が?」
「うんっ!」
二人は大きくうなずいた。
金髪ではないというが、よく考えたらカーシュナーがあの目立つ頭のままでこんなところに来るはずがない。
髪は炭か煤でも使って黒く汚して目立たなくするくらいのことはしているはずだ。
その上で刃物を前にして怯えず、自分よりも大きな少年を倒す十歳の少年となると、ハウデンどころかクライツベルヘン中を探しても一人しかいないだろう。
「いたっ! こっちっ!」
さらに聞き出そうとしたところで、子供たちが仲間を発見する。
まだ距離はあるだろうが、注意して聞き耳を立てると、たしかに複数の男たちが誰かを追っている気配が確認出来た。
子供たちの耳の良さに舌を巻きつつ、カルラは彼らの前に出た。
無秩序に立ち並んだあばら家が、迷路のように入り組んでいる危険区域の袋小路に、五人の子供たちが追いつめられている。
どうやら別々に逃げていた二組の子供たちを追いこんだようで、追手の数は十人もいた。
子供たちは先程カルラが助けた子供たちよりもさらに幼い子供たちばかりだった。
「手間取らせやがってっ! せっかくの酒、全部吐いちまったじゃねえかっ!」
一際苛立っている男が子供たち向かって怒鳴り散らす。
「酒ぐらいなんだっ! こっちは女口説いている最中だったんだぞっ!」
別の男が苛立ちを叩きつける。
「安心しろ。どうせ口説けやしなかったさ」
別の男の台詞に、他の仲間たちが馬鹿笑いする。
「うるせえっ!」
笑い者にされた男は、その怒りを子供たちに向けた。
「全部俺が殺してもいいよなっ! なあっ!」
血走った目をぎょろりと向いて、男は仲間たちをねめつけた。
「ふざけんなっ! 俺には酒の恨みがあるんだぞっ!」
「酒くらいおごってやらあっ! お前はすっこんでろっ!」
その一言で割り込んできた男はあっさりと引き下がった。
この男たちにとって、子供の命など一杯の酒ほどの価値もないのだ。
「ザクッてやってやるからなっ! こう、何回も、ザクザクって感じでっ!」
男は手にしたナイフを嬉しそうに上下に振りながら、臭い息を子供たちに吐きかけた。
逃げ場を失くした子供たちは、身を寄せ合い震えている。
それでも、小さいながらに自分よりも年少の子供たちを内側にいれてかばう姿は、追い詰め、囲い込んで喚き散らす男たちよりもはるかに大人な行動だった。
カルラは全力で向かっているが、とても間に合う距離ではない。
大声を上げて注意を引きつけようかと考えたが、人数差から不意を衝かなければいくらカルラといえども手に余る。
それに、下手に刺激すると男たちが焦りから一斉に子供たちに襲い掛からないとも限らない。
油断しているからこそ時間をかけて嬲り、すぐに殺さず遊んでいるのだ。
カルラが判断に迷ったほんのわずかな間に、事態は急変した。
子供たちにナイフを向けてい男に、十代半ばとみられる少年が不意に現れ、斬りつけたのだ。
ザクザク言っていた男は少年によって自分の頬をザックリと切り裂かれ、悲鳴を上げてのたうち回る。
「ブルーノか。あの倉庫に忍び込むなんざあ、ずいぶん舐めた真似してくれたと思っていたが、ここまでやったら舐めてましたじゃあ、すまねえぞ。先々使えそうだと思ってこれまで目こぼししてきてやったが、真っ向から刃物向けて来たとあっちゃあそうもいかねえ」
男たちの中から一歩踏み出した大柄な男が、仲間に斬りつけた少年の正体に気づき、圧力をかける。
それまで怒鳴り散らしていた連中も十分殺気立っていたが、男の放つ静かな殺気は、それ自体が殺傷能力を持つかのように鋭かった。
子供たちを背にして向かい合っていたブルーノは、無意識に一歩退き、背後の子供にぶつかったことで初めて自分が気圧されていることに気が付いた。
腹の底に力を込め、下げた一歩を元の位置へと戻す。
それだけでブルーノは疲労感に襲われるのを感じた。
「俺はお前のことは買ってんだ。つまんねえ意地張らねえで、俺の下につけ。悪い様にはしねえ」
「ふ、ふざけんなよ。ガイオ、てめえっ! そのガキは俺の顔に斬りつけやがったんだぞっ! それに、ガキどもは皆殺しのはずだろうがっ!」
ガイオの言葉に、ブルーノに頬を切り裂かれた男が食ってかかる。
「命令は逃がすなだ。誰が皆殺しにしろなんて言った。てめえの腐った脳みそで、勝手に命令変えんじゃねえ」
ガイオは這いつくばったまま自分を睨み上げる男を、何の感情も映さない目で見降ろした。
男がさらに何か言おうとした瞬間、ガイオの足が飛び、男の頭部が大きくのけ反る。
「たとえ不意を衝かれようが、ろくに飯も食ってねえガキにやられるようなボンクラが、粋がってんじゃねえぞ」
ガイオは怒声を上げるでもなく、ただ容赦なく男を蹴り続けた。
最初の蹴りで意識が朦朧としていた男だったが、あばらが折れるほど何度も腹を蹴りつけられ、気絶も出来ずに悲鳴を上げる。
目の前のブルーノを無視して男を蹴り続けたガイオであったが、呻く男の首根っこを踏みつけると、何事もなかったかのようにブルーノに視線を戻した。
「な、ブルーノ。ここはとにかく俺の下につけ。ここで生きるには強い力の下につくしかねえことはよくわかってるだろ?」
容赦なく仲間のはずの男を痛めつけ、やさしいとすら思えるような声で口説いてくる。
暴力と無縁の生活を送っている者であれば、ガイオのやり口に陥落していただろう。
だが、ブルーノはガイオの腹が読めない程うぶではない。
目の前で男が半殺しにされたのは、単に自分をビビらせようとしての演出でしかなく、ガイオの誘い通り、その下につくということが、奴隷になるも同然のことだということもわかっている。
だが、ブルーノは当面の危機を潜り抜けるために、一時的にでもここはガイオの言葉に従おうかと考えた。
飛び出してはみたものの、この人数が相手ではとてもではないがブルーノに勝ち目などない。ましてやどんな手段を使おうと、ガイオには敵わない。
「上には俺がきっちりと渡りをつけてやる。だからお前は、そのガキどもを始末しろ」
ガイオが付け加えた言葉で、ブルーノの考えは一瞬で吹き飛ばされてしまった。
ガイオの言葉に従い、子供たち共々この場をしのぎ切ろうと考えたのだが、そんな甘い考えは裏の世界では許されなかった。
だがそれは、裏を返せばガイオが本気でブルーノを欲しがっている証拠でもある。
本気で自分の下につくのなら、今の仲間を切り捨て、その本気度を示せと言っているのだ。
ガイオの本気に、ブルーノの腹は決まった。
「笑わせるな。あんたにしてみれば、俺らなんて何の価値もねえただのガキかもしれねえが、俺にとっては一人一人が大事な仲間だ。俺は仲間を裏切らねえ。あんたと一緒にするな」
ブルーノはガイオの過去を知らない。
だが、言われたガイオには痛烈な皮肉となった。
過去に仲間を切り捨て、裏切った結果、ガイオは今ここにいる。
「立派な覚悟だな。まるでクライツベルヘン軍の騎士様みてえだ。ハウデン都督府の騎士連中よりはるかに騎士道の真ん中にいるんじゃねえか? たいしたもんだ」
感情のこもらないその言葉に、ブルーノは全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。
先程の殺気など比べ物にならない、これから自分が殺させる映像が、頭の中で何度も繰り返され、意識をいっぱいに占めるほどの強烈な殺気が、ガイオの全身から放たれる。
ガイオの仲間であるはずの残りの男たちも、半殺しにされた男の件もあり、無意識にガイオから距離を取っている。
「騎士道なんか知るか。そんな腹の足しにもならねえものなんざ、俺たちには関係ねえ。親がいなけりゃ頼れる大人もいねえ俺たちにとって、こいつらは単なる仲間じゃあねえ。家族だ。間違いをやらかしゃあ、拳骨も飛ぶが、どんな間違いがあろうと、家族に刃物を向けるなんてことはしねえ。歳が上のもんは、下のもんを守る。それが俺たちの決まりだ」
ガイオの殺気を前に、ブルーノはビビるのではなく、逆に腹を据えていた。
「格好いいな。俺もそんな台詞一回でいいから言ってみたかったぜ。だが、どうやって守る。お前に家族は守れねえぞ」
そう言ってガイオは一歩踏み出した。
ブルーノはその場に立ち続けるだけで精一杯だった。
「うるせえっ! そんなことあんたに言われなくたってわかってらあっ! 守れねえなら、せめて一緒に死んでやるだけだっ!」
ブルーノが腹を据えたのは、万に一つも生き残れる可能性はないと判断したからだ。
「よく言った」
そんなブルーノの覚悟を、ガイオは鼻で笑う。
「よく言ったっ! 少年っ!」
だが、まるでガイオの言葉を皮肉るかのように、同じ台詞をまったく異なる意味でカルラが叫んだ。
言葉と同時に二つの悲鳴が上がり、カルラの接近に全く気付いていなかった追手の男二人が血の尾を引きながら倒れる。
カルラはさらに一呼吸の間に三人斬り伏せ、あっという間に敵戦力を半減させた。
「ありがとうっ! 君の勇気が仲間と君自身を救ったぞっ!」
慌てて逃げ散る残りの男たちを無視すると、カルラはブルーノに感謝と賞賛を送った。
もしブルーノが飛び込んでいなかったら、カルラは子供たちの内何人かを犠牲にして確実に不意を衝くか、全員を救うために、最悪返り討ちに遭う覚悟で敵の注意を引きつけるかの二択を迫られるところだったのだ。
だが、ブルーノが飛び込み、時間を稼いでくれたおかげで、カルラは敵の不意を衝き、その戦力を大幅に削ぐことが出来た。
「ほう。たいしたもんだ。ただ者じゃねえな。この辺りで迷わず人を斬るってことは、よそ者か。それも、ハウデン都督府に仕える人間じゃあねえってことだな」
仲間が五人も殺されたにもかかわらず、ガイオはまったく慌てるそぶりも見せず、いきなり乱入して来た敵の見極めを始めた。
全く予想していなかった助けが来たことに、ブルーノは思考が一時停止するほど驚いたが、ガイオからの殺気が逸れると反射的に逃げにようとした。
固まる子供たちを促し、ガイオの注意が逸れている隙に袋小路からの脱出を図る。
だが、まるで背中に目があるかのように、あばら家に身体をこすりつけるようにガイオの脇をすり抜けようとしたブルーノの鼻先に、ガイオが抜いた大剣の切っ先がつきつけられた。
「甘く見るなよ。ブルーノ。俺の誘いを、腹括って断ったんだ。逃げるなんて選択肢はねえぞ。生きるか死ぬか、それだけだ」
ブルーノの方を見もせずに告げられた言葉に、ブルーノは歯噛みしつつも引き下がる。
ここで強行突破しようとしても、自分ではなく子供たちを狙われたらどうすることも出来ない。
ガイオの言葉に従うつもりはないが、無理をするのは今ではないと判断出来るだけの冷静さが、ブルーノに戻りつつあった。
ブルーノが引き下がったことで、ガイオがカルラに集中する。
カルラも、一目見た瞬間から、ガイオのことをただ者ではないと判断していた。
先程斬り伏せた者たちとは、根本的に体格が違う。
単に身体が大きいとかの問題ではなく、造りそのものが違うのだ。
危険区域に来て早々からんで来た男たちも、自分の足下ですでに冷たくなりつつある男たちも、荒事には慣れているようだが、戦い勝つための修練を積んだ身体ではない。
痩せているようで腹回りの肉だけはだぶつき、まったく健康的な体つきをしていない。
男たちの戦闘力は、単に人を傷つけることに対するためらいがあるかないかの違いでしかない。
他人を殴ることに慣れただけの素人なのだ。
その慣れも、自分よりも弱い者、女子供に老人といった人たちを嬲ることで身につけたものにすぎない。
そんなものはカルラのように修練を積んでいる人間の前では何の役にも立たない。
せいぜいが不意を衝ければ少しは役に立つ程度のものでしかないのだ。
だが、今自分と対峙している男は違う。
揺らぐことなく真っ直ぐ立ち、気負うことなく冷静にカルラを観察している。
剣は重い。
特にガイオが何気なく手にしている大剣は、本来であれば両手でしっかりと握って振るうものだ。
片手で持てば身体の軸がずれる。
だが、ガイオはそんな様子もなく、ごく自然に真っ直ぐに立っている。
それだけでガイオの体幹の強靭さがわかる。
腕や肩、胸板から腰回り、腿やふくらはぎの形からも、日々剣を振っていることがわかる身体つきだ。
思わぬところでとんだ伏兵に出会ったカルラは、今自分を取り巻く状況の全てを意識の中から消し去り、まず目の前の強敵を倒すために意識を集中させた。
ガイオの実力を見極めるためにも慎重に行動したいところではあったが、カルラは即座に動いた。
この男たちが所属する組織の組織力を把握していないカルラは、敵の増援を意識しないわけにはいかなかったからだ。
せっかくこの場の戦力を目の前の男だけにまで削っても、増援が到着してしまっては、子供たちの安全を確保出来なくなってしまう。
現状でも安全を確保してやれたとはとても言えない状況だ。
カルラに待つ時間はなかった。
踏み込み、胸を狙って牽制の突きを放つ。
その攻撃を、ガイオは大剣で下からすくい上げるように跳ね除けると、返す刀で大上段から、袈裟切りではなく、唐竹割りを放つ。
守りと攻めの間に一瞬の遅滞もない攻防一体の技であったが、カルラ自身が牽制のつもりでわずかに遠い間合いから打ち込みでいたため、ガイオの大剣は空を割っただけで、カルラの身体を捉えることは出来なかった。
思い切り振り抜いたにもかかわず、ガイオの大剣は地を打つことなく寸前で止められている。
剣を自在に操ることが出来なければ不可能な芸当だ。
ガイオはそのままの姿勢で、間合いを取り直すカルラを見上げた。
見返すカルラの目は、戦いに没頭した者だけが持つ、静かで暗く、光を宿さない冷たい鉛玉のような色をしていた。
ガイオはその目を見て、まるで快感を覚えたかのような顔で笑った。
そして、先程までは無造作にだらりと下げていた大剣を中段に構え、ジリジリと間合いを詰めてくる。
この男、元騎士か――。
そのどっしりとした正攻法の攻めから、カルラはガイオの素性を推測した。
その空気はけしてたたき上げの傭兵が纏うことは叶わない、正式な剣術を修めた者だけが持ちうる空気だった。
ほとんど動いていないように見えるわずかな間合いの差の攻防が続く。
ガイオはカルラが先手を取ろうとした理由を正確に見抜いていた。
だからこうして柄にもなく正攻法に出て時間を稼ぎ、余裕のない相手の焦りを誘おうとしている。
だが、余裕こそないが、そこに焦りどころか微塵の揺らぎも見せないカルラを前にし、逆にガイオの方に微かな焦りが生まれる。
今のカルラは騎士の理想像の様なたたずまいを見せている。
焦らず、揺らがず、冷静に立つ。
自分がどこに、どう立つべきか悟った者のたたずまいだ。
それは騎士道から外れてしまったことに対して劣等感を持つガイオには、嫉妬を覚えるほどの見事さであった。
ガイオに肉体的な揺らぎはなかった。
だが、精神的に揺らぎ始めてしまっていた。
待つべき間合いでガイオは攻めに転じた。
大剣を小枝でも振るかのように軽々と振り回し、カルラに襲い掛かる。
剣の嵐を右に左に弾いて捌くが、受けただけでカルラの手には痺れが走るほどの威力だった。
長く打ち合うのは不利と見たカルラは大きく飛び退り、ガイオとの間に距離を取る。
その跳躍力に、さすがのガイオも意表を突かれ攻撃の間合いを外されてしまう。
直後にガイオは舌打ちを漏らす。
そして、それを掻き消すかのような絶叫が、ブルーノの喉からほとばしる。
「あぶねえっ!」
ガイオが舌打ちを漏らしたのは、追い詰めていたはずのカルラを攻めきれず、間合いから逃がしてしまったことに対する苛立ちからではなく、逃げ散った残りの男たちがこそこそと動き回り、カルラに背後から斬りつけようとしたからだ。
この戦いは、カルラとガイオの一対一の試合ではない。
カルラが彼らの殺しの現場に飛び込んで来たのだ。
そもそもカルラ自身最初に奇襲をかけ、彼らを背後から斬り伏せている。
彼らの行動を卑怯呼ばわり出来る者はこの場に一人もいなかった。
背後から斬りつけられたカルラ自身、卑怯だなどと思っていない。
これは騎士の名誉を掛けた正々堂々たる正面からの戦いではなく、殺し合いだ。
だからカルラも躊躇なく背後から奇襲を仕掛けたのだ。
せっかくの戦いが、なんともつまらない終わり方をしたと苛立ち、舌打ちを漏らしたガイオの判断は早計に過ぎた。
カルラは確かに戦うことにのみ集中していた。この時のカルラの頭の中には、カーシュナーの行方を捜すことすらなかった。
だがそれは、ガイオとの戦いにのみ集中していたことを意味するわけではなかった。
その証拠に、カルラは逃げ散って以降の男たちの行動にも意識を割いていたのだ。
ガイオに対して距離を取りたかったのはもちろんだが、逃げ散った連中が万が一にも子供たちを人質に取ろうと動く可能性をカルラは意識の隅に置いていた。
ガイオに集中するために、カルラは不確定要素となっていた残りの男たちを排除するために、敢えて隙を見せ、自分に近づくように仕向けたのだ。
カルラの背中に斬りかかった男は、カルラが背後に突き出した剣先に自ら飛び込むことになり、腹を切り裂かられて崩れ落ちた。
突いた剣を捻りながら抜き、その傷口を大きく広げてとどめとしつつ、不意を打つつもりが逆に不意を衝かれ、驚愕する残り二人の男を斬り捨てる。
一人は下から喉笛を切り裂き、その勢いのまま振り抜いた剣で、最後の一人の顔面を叩き割る。
それはブルーノがあげた絶叫の反響が消え去る前の、まさに一瞬の出来事であった。
「すげえ……」
ブルーノが無意識に呟く。
カルラの攻撃は、素人の目から見てもそのすごさが伝わるものであった。
誰もがカルラが斬られると思ったところからの一瞬の逆転劇だ。驚かないわけがない。
だが、ガイオの実力であれば、その一瞬を隙として衝くことは不可能ではなかった。
にもかかわらず、ガイオは攻め込まなかった。
勝負がついたと早合点した時点で一瞬気持ちが切れてしまったこともあるが、ガイオもブルーノ同様カルラの動きに引き込まれていたのだ。
三人の男を倒したカルラが、その血に濡れた剣先を改めてガイオに向ける。
直後、殺気ですら生易しく感じるほどの、百度の戦を戦い抜いた者だけが纏うと言われる<百戦の気>がガイオに叩きつけられる。
まるで意思が物質化したかのような重圧が、ガイオの全身にのしかかる。
ガイオはその重さに、むしろ歓喜を覚えていた。
本物だ――。
「俺も戦場を渡り歩いたが、あんたみたいな圧かけてくる奴は初めてだ。生まれた時からの英才教育の賜物か? 貴族の坊ちゃんは本当に恵まれてるな」
カルラが流浪の戦士などではなく、正規の騎士であることを見抜いていたガイオは、その力量から、カルラを有力貴族の子弟と推測したのだ。
その言葉に皮肉がこもったのは、ガイオ自身は貴族を父に持っていたが、母がその妾でしかなかったため、ろくな支援を受けられず、苦労した過去があったからだ。
「何を勘違いしているのか知らんが、私は平民の子だ」
「馬鹿にするな。平民が騎士になんてなれるわけねえだろ。その剣捌き、我流で身につくもんじゃねえことくらいお見通しだ」
皮肉の意味がわからなかったカルラが、怪訝そうに眉をしかめて言葉を返したのに対し、ガイオはカルラの言葉をまともに受け取らなかった。
「それを言うなら、貴様も騎士だろうがっ!」
斬り込みつつカルラは反論した。
「元騎士だよっ!」
踏み込みの鋭さに、ガイオは受けに徹する。
力任せの打ち合いであれば対抗出来るが、速度重視のカルラの攻めは、半端な攻め気を残しての受けでは危険と判断したからだ。
「騎士に『元』など存在しない。一度その道を歩み始めたら、たとえその称号を失おうと生涯騎士だ。騎士であるかないかを決めるのは、己にしか見えない騎士の道に刻まれる、自身が残した足跡に、恥じる心があるかないかだっ!」
「ご立派なご高説、痛み入りますってかっ!」
カルラの真っ直ぐな言葉に、ガイオは言葉そのものを薙ぎ払うかのように、大振りの横薙ぎを返した。
カルラはその一撃を受けつつ、ガイオの力を利用して最小限の力で回避する。
そして、直後に自らの大振りの力に拘束されているガイオの脇腹に突きを入れた。
「ぐおっ!!」
苦痛に呻きつつ、ガイオは返す刀でもう一度横薙ぎを放ち、間合いの内側に入ったカルラを追い出す。
深追いの危険性を知るカルラは、ガイオの反撃を大きく距離を取ることで確実に回避した。
両者は再び睨み合う。
だが、勝敗はもはや決したも同然であった。
手応えからガイオの傷が致命傷にまでは至っていないとカルラは理解していた。
そして、傷を受けたガイオも、致命傷でこそないが、目の前の難敵に相対するには、受けた傷が深すぎることを理解していた。
「俺もあんたみたいに真っ直ぐに生きられたら、こんなごみ溜めみたいな港町で、こんな醜態さらさないで済んだんだろうがな。生まれに恵まれなかった奴は、どんなに望もうと、真っ直ぐには生きられねえんだよ。まあ、こんな話、お坊ちゃんにはわからねえか……」
脇腹の傷を押さえながら、ガイオはその目に憎しみではなく、羨望と嫉妬を混ぜ合わせた暗い光を湛えてカルラを見返していた。
「わからん奴だな。そもそも私は女だ。お坊ちゃんなどではない」
あくまで自分のことを有力な貴族の子息か何かと勘違いしているガイオに、カルラは煩わしげに言葉を返した。
カルラとしては、何気なく発したつもりの言葉であったが、ガイオに与えた衝撃は、下手をすれば脇腹への一撃以上だったかもしれない。
カルラの言葉はガイオの目から思い込みを拭い去り、ありのままのカルラの姿をその目に映した。
髪は短く、並の男よりも大きな体格に、男装を身につけているが、よく観察すればカルラが女性であることはすぐにわかった。
むしろ一度気づいてしまうと、二度と男には見えない。
なぜ今の今まで気づかなかったのかと愕然とすると同時に、ガイオはその答えに辿り着いた。
女騎士どころか、女剣士ですら、ガイオの生まれ故郷ではあり得ない存在だったため、剣を手にして自分の前に立った相手が女性かもしれないなどと露ほども考えなかったのだ。
「……じゃあ、平民出ってのも本当なのか?」
「この場でそんな嘘をつくことにどんな意味がある?」
ガイオの問いに、カルラは戦いの最中ではあったが、若干呆れた声で返した。
カルラの答えに、ガイオは何の言葉も返さない。
その言葉に嘘がないと、自分でもわかってしまったからだ。
「……ふざけんじゃねえぞ。ふざけんじゃねえっ!!」
ガイオが一転して怒声を放つ。
「この世の中はなぁ! 生まれがすべてなんだよっ! どこの誰を親に持つかで、生まれた瞬間にそいつの人生は決まるんだっ! 平民出の女が、騎士だと? ふざけんじゃねえっ!」
自身のこれまでの人生のすべてを否定するかのようなカルラの存在を、ガイオは全力で否定した。
「貴様の言葉は確かに事実かもしれない。だが、それがこの世の全てでもない。私は真剣に騎士を目指し、その道を歩み続けて今ここにいる。貴様がどれ程否定しようと、この事実は変わらない」
荒れるガイオとは正反対に、カルラはあくまでも自分らしくガイオに応えた。
「目指しただけでなれるほど、騎士の位は安かぁねえんだよっ! 俺が騎士になるためにどれだけ苦労したと思ってるっ! 自分の息子であるはずのこの俺を、妾の産んだ子供だからって、まるで物乞いでも見るような目で見下すクソ親父に、それでも頭下げて後見人になってもらって、やっとの思いで手に入れたんだっ! 騎士の誇りだぁっ! 矜持だぁっ! そんなもん、始めから騎士道になんざ転がってねえんだよっ!」
「なるほど、お主の国ではそうだったのだろう。だが、私を騎士に叙勲してくれたクライツベルヘンでは、騎士になるための試験があり、その試験を突破した者だけが騎士となれる。そして、試験資格は望む者全員に与えられる。たとえ平民であろうと、女の身であろうと、そして、異国人であろうとな。貴様の中に、これまでの歩みを悔やむ気持ちがあるのなら、罪を償い、クライツベルヘンでの再起を考えるのも一つの方法だぞ」
「ハハッ! クライツベルヘンの騎士様かっ! どうりで腕が立つわけだ。ありがてえお薦めだが、やり直すには俺の人生は落としきれねえ汚れで薄汚く染まっちまってる。引き返したくても、俺は騎士道からとっくの昔に外れちまって、帰り道なんざわかりゃしねえ。今さらやり直しなんてきかねえんだよ」
ガイオはそう言うと、自分自身を嘲笑うかのようにくちびるを歪めた。
「騎士道とは常に歩み進めて造り上げていくものだ。過去に戻ってやり直すものではない」
「うるせえっ!」
救いの道を示そうとしたカルラの言葉を、ガイオは怒声で遮った。
「これまでの歩みが俺の人生だ。どんなに否定しようが、捨てようが、俺はその土台にしか立てねえんだ。言葉なんかで俺を否定させねえ。否定したきゃあ剣で語れっ!」
そう言うとガイオは、脇腹の傷口を押さえていた手から血を拭うと、再び大剣を構えた。
カルラは自分がクライツベルヘンに生まれたことがどれほど幸運なことか理解していた。
故に、ガイオのように階級社会の悪弊によって道を歪められてしまい、道を誤らなければならなかった者たちに対し、本当の意味での救いとなる言葉を持ち合わせていないことも理解していた。
それを持つ者には、持たざる者の本当の苦悩を知ることは叶わないからだ。
そしてカルラはガイオに対し、身構えた。
勝敗を決するほどの傷を負いながら、それでも戦うことを望むガイオに対し、カルラが応えてやれるものは剣しかない。
怪我の影響でこれまでの様には動けないガイオに対し、待ちの戦いを仕掛けるつもりは毛頭ない。
カルラは自身の攻撃を待つガイオに対し、間合いに入った瞬間仕掛けた。
矢のような勢いで正面から飛び込んで行く。
これに対し、ガイオは大剣を振り上げ、残るすべての力を振り絞って振り下ろした。
カルラはガイオの大剣の腹を自分の剣で擦るようぬに払いつつ、その斬撃の脇を紙一重の差ですり抜けた。
そして、すり抜け様に体を返すと、ガイオの左背中から脇腹までを一閃する。
鮮血があふれ、ガイオは自身が作り出したばかりの真新しい鮮血の溜まりに膝を落とした。
だが、意地がそうさせるのか、ガイオは前のめりに倒れないよう、大剣を杖代わりにしてもたれ、上体を支える。
「まあ、こんなもんだろ……」
その呟きには、まるで重い荷物をようやく下ろしたかのような安堵がにじんでいた。
ガイオは生きているのが不思議なほどの重傷の中、剣帯を外すとこれまでずっと自分の戦いを支えてくれた大剣を鞘に納めた。
そしてその大剣をブルーノに放る。
反射的に受け止めたブルーノが驚きに目を見張る。
「……ブルーノ。お前はドブネズミかもしれねえが、俺は人でなしのクソ野郎だ。そんな俺でも、そこの姉ちゃんはやり直せるとかぬかしやがった。まあ、俺はさすがに無理そうだから、代わりにお前が挑戦してみろ。お前なら何かを変えられるんじゃねえか? そいつは餞別にくれてやる。いらなきゃ金に換えて飯でも食え。あばよ……」
そう言い残すと、ガイオは糸が切れたかのようにどさりと倒れた。
その命が尽きたことは、確認しなくてもわかった。
ガイオの大剣を受け取ったブルーノはしばしの逡巡の後、ガイオの大剣を身につけた。
「礼は言わねえ。だが、こいつだけはもらっておく」
けして相容れることはなかっただろうが、それでも自分を見込んでくれた男に、ブルーノは小さく呟いた。
決着がついたことを察したのだろう。カルラが先に助けた子供たちが駆け寄ってくる。
「お前らっ! 無事だったのかっ!」
ブルーノは二人に駆け寄り抱きしめた。
「そこの騎士様に助けてもらったんだっ!」
「そんでお願いしてこっちにも助けに来てもらったんだよっ!」
興奮した二人が同時にしゃべり出す。
「他のみんなは大丈夫?」
そして、慌てて尋ねる。
仲間たちが二、三人に分かれて逃げ散ったことを思い出したのだ。
「残りはお前たちだけだっ! 他のみんなはもう集めたっ!」
「さすがブルーノっ!」
二人は踊り出さんばかりに喜んだ。
「助けてくれたこと、礼を言う。でも、なんで何の関係もない俺たちみたいなのを助けてくれたんだ?」
感謝しつつもブルーノは素直に喜べなかった。
これまで善意というものとあまりに無縁であったため、何らかの代価を求められるのではないかと考えたのだ。
それ次第では助かったとは言えない状況になる。
「大人が子供を不当な暴力から守るのは当然だ」
カルラは嘘偽りなく答えたのだが、ブルーノはむしろ疑わしげな視線を向けただけだった。
「一つ尋ねていいか? どうやら追われていた子供たちが揃っているようだが、その中に今日いきなり現れた十歳くらいの少年がいなかったか? おそらくとても子供とは思えないような、大人以上に大人びた少年なのだが」
カルラの説明に、ブルーノは一切表情を変えなかった。
どう考えてもカーシュナーのことを言っているのだろうと思ったが、たとえ命の恩人でも、安易に大人を信用するわけにはいかない。
「あんたとそいつはどういう関係なんだ?」
「私はそのお方をお守りする立場にある者だ」
ブルーノの問いに、カルラは即答する。
その答えにブルーノは、あいつやっぱりただ者じゃなかったかと苦笑しかける。
だが、カルラに表情を見せたくなかったので、ブルーノは疑わしげな表情を維持した。
「そんな立場のあんたが、なんで今そいつと一緒じゃないんだ?」
ブルーノの言葉に、カルラは何とも情けない表情になる。
「……無様な話なのだが、撒かれてしまったのだ」
そう言って肩を落とすカルラの姿に、あいつが相手じゃ無理もないと思いつつ、ブルーノはカルラの嘘のつけない人柄を見抜いた。
普段であれば格好のカモなのだが、こういう状況では裏切りを心配せずにすむのでありがたい。
「あんたが言うようなガキに心当たりがある。だが、ここでこれ以上もたつくのははまずい。場所を変えさせてくれ」
助けてもらった恩もあったが、ブルーノはカルラの人柄を信じることにした。
それに、たとえこの騎士が自分を騙そうとしたとしても、腕こそ立つがこんな善良過ぎるお人好しに手玉に取られるほど、自分はうぶではないという、若干見下し気味の確信がブルーノにはあった。
ガイオを倒したことで再びカルラの中にカーシュナーに対する焦りが戻って来たが、ブルーノの言葉通り、ここに長居する危険性はよくわかる。
カルラは焦りを押さえつつ、素直にブルーノに従った。
カルラたちがこの場を後にし、完全にその気配が遠ざかった時、一人の男が起き上がった。
全員倒されたかに思われていたが、一人だけ忘れ去られていた男がいた。
ガイオに半殺しにされた男だ。
「クライツベルヘンの騎士だと……。冗談じゃねえ」
男は死んだように息を潜め、聞き耳を立てながら成り行きを見守っていたのだ。
起き上がった男は、血が混じって真っ赤になった唾をガイオの死体に吐きかけると、その場を後にする。
本当ならガイオの死体をぐちゃぐちゃになるまで蹴り飛ばしてやりたいところだったが、ブルーノに切り裂かれた頬の傷と、ガイオに折られたあばらはどちらも傷が深く、唾を吐くので精一杯だった。
男は傷ついた身体を引きずりつつ、ブルーノたちが去った方向とは異なる方へと向かう。
医者に直行したかったが、その前にどうしても報告しなくてはいけない重要な情報があったからだ。
クライツベルヘンに動き有り――。
カルラの存在は、ろくでなしのクソ野郎にさえ、自分の身以上に組織のことを考えさせるほど重要な情報だったのだ。
◆
「ここに人を寄越すなと言っておいただろう」
ハウデンの中でも中央付近に存在する商館の一室で、館の主が不機嫌そうに眉をしかめる。
「申し訳ありません。ですが、どうしてもお耳にお入れしたい情報がございまして」
主の不機嫌と向き合わなければならない男が、身を縮めて報告する。
「今日はこのハウデンの都督殿を主賓に向かえて宴を開いているんだぞ。邪魔をしない程度のことも出来んのか」
見下しつつもそこまで部下たちが無能ではないと理解している主は、何らかの問題が生じたことを悟っていた。
悟れるだけの頭脳と鋭敏な感覚が備わっているが故に、苛立たずにはおれない。
「申し訳ありません」
報告を持って来た男は深く低頭する以外何も出来なかった。
現ハウデン都督エルモントは、主にとって最も重要な顧客だ。
いや、協力者といってもいいだろう。
クライツベルヘン家が長くハウデンの内政に干渉しなかったのは、ひとえに今は無きハウデン王家への敬意からに他ならず、法で定められた絶対的な権利などではない。
その行政処理能力に問題が生じれば、即座にハウデンの管理はクライツベルヘンへと移行してしまう。
そうならないために、今日までハウデンを管理してきたハウデン都督たちは、役人には珍しく非常に勤勉に働いて来た。
現ハウデン都督エルモントもその例に漏れず、勤勉で有能な官僚であった。
だが、有能であるが故に、余計なことに意識を割く余裕が出来てしまい、この商館の主と関わりを持つことになってしまっている。
今夜もその繋がりを維持するための接待に、主は努めていた。
特に今夜はこれまで以上に深くエルモントを引き入れた直後の宴とあって、その重要性は単なる享楽の枠に収まらないものになっている。
主の事情を理解しているだけに、男は報告を上げることが非常に気の重い作業であったが、それでも伝えないわけにはいかないので、間を置かずに報告を開始する。
その報告は、倉庫に侵入者があったこと、その侵入者の仲間を追っていた配下の者たちが、クライツベルヘンの騎士によって討たれたという驚愕の内容だった。
男は主の怒声を覚悟していたが、予想外なことに、主から返って来たのは沈黙であった。
報告は以上だが、だからといって勝手に帰るわけにもいかない。
長い沈黙に耐えきれず、男はちらりと主の様子をうかがう。
そして後悔する。
そこには冷たい殺意を纏った主の視線があったからだ。
主は男を放置し、立ち上がる。
ここハウデンではエリアンとして知られる、ゾン生まれ、ゾン育ちのヴォオス人エクレムは、その鋭敏な感覚から、クライツベルヘンという名に、その噂以上の危険を感じ取っていた――。




