発見!
今回の話にはぐろい内容が含まれております。
一応描写がリアルになり過ぎないよう注意したつもりですが、あくまで南波の主観による判断ですので、苦手な方は後半部分はお読みにならないようご注意ください。
古い家屋が倒壊した跡だろう。
みすぼらしい家屋が肩を寄せ合うように密集したその場所に、不意に小さな空間が現れる。
カーシュナーはその中央に進み出ながら、自分のうかつさに腹を立てていた。
騒ぎになるのはカーシュナーを囲んだ少年たち以上に、カーシュナーにとって厄介だ。
パウリーンをさらおうとした連中のことを探り出すまでは、存在に気づかれるわけにはいかない。
邪魔をしたクソガキと思われている限りは警戒されないが、アジトの近くまで近づいたことが知られれば、子供といえども警戒はまぬがれない。
包囲に気づいた時にはすでに何事もなく脱出出来る時期は逸しており、騒ぎを避けるため、少年たちに促されるままついて行かざるを得なくなっていた。
追跡していた男は完全に見失ってしまった。
だが、連中の拠点が近いことはすでに確認出来た。
この近辺で百人近い人間を収容しておける倉庫の位置はすでに頭の中の地図で確認済みだ。
あとはこの失態を素早く片付けて戻るだけだ。
「アニキ! チェルソーが言った通り、このガキがうろついていましたぜ」
カーシュナーの背中を突き飛ばし、前へと押しやりながら、後ろにいた少年が前方の暗闇に声を掛ける。
そこらへんに大量発生しているごろつきを真似たのか、それともこんな場所で暮らしているため口調が移ってしまったのか、まだ声変りしていない高い声で、三下のならずもののような口を利く。
「ごくろう」
そう言って暗がりから出て来たのは、周囲の子供たちより一回り以上大きな少年だった。
年齢も五つくらい上だろう。
背後に立つ少年と違い、その声はすでに声変りし、大人へとさしかかりつつあることがうかがえる。
並の少年であれば彼らが醸し出す雰囲気に萎縮させられていただろう。
だが、カーシュナーの目には無理に大人の真似事をし、必死に自分たちの力を誇示しようとしている真実の姿しか映らない。
「無駄だと思うけど一度だけ警告する。俺の邪魔をするな。今ならなかったことにする」
少年たちに囲まれて怯えるどころか、平然と立つカーシュナーが放った言葉は、彼らにとっては挑発にしかならなかった。
「いきがるなよっ! 小僧っ!」
子供たちを率いているであろう少年が凄みを利かせる。
周りの少年たちもその声に励まされたのか、一斉にいきり立つ。
背後にいた少年が、カーシュナーを押さえ付けようと肩に手を掛ける。
だが、まるで地面に根を張る樹に手を掛けたかのように、カーシュナーの身体はビクともしなかった。
カーシュナーは背後の少年に振り向きもせず、無造作に裏拳を顔面にめり込ませて黙らせた。
殴られた少年は悲鳴を上げるとぼたぼたと鼻血をこぼしながらその場に座り込む。
「てめぇっ! 卑怯だぞっ!」
どう考えても大勢でたった一人を取り囲んでいる彼らの方が卑怯なのだが、彼らには不意を衝かれて仲間が殴り倒されたという事実しか見えてはいない。
一人が叫んだのを合図に、少年たちは一斉にカーシュナーへと襲い掛かった。
いきり立つ少年たちとは対照的に、カーシュナーは一切の感情を表に出さず、無表情で立っている。
それを怯えと捉えた少年たちがさらに勢いづく。
だがその勢いは、一瞬で断ち切られることになる。
カーシュナーの背後には、裏拳で黙らせた少年の他に、もう一人いた。
体格は他の少年たちに比べると大柄だが、気質が争いごとに向かないのだろう。
咄嗟にカーシュナーに襲い掛かるのではなく、うずくまった仲間に駆け寄っていた。
カーシュナーは迷わずその少年の首筋に手刀を落とすと意識を奪い、その間に近づいて来た周囲の少年たちに向き直る。
十人以上に囲まれているというのに、慌てるでもなく、ゆるりと一歩前へ出る。
過酷な環境の中で生き延びようとしている子供たちだけあり、カーシュナーが普段一緒に遊んでいる近所の子供たちとは比較にならない程荒事慣れしている。
だが、喧嘩で怯まない事と人を殺す前提で技術を学ぶことは天と地ほども違う。
少年たちは手を伸ばし、まずはカーシュナーを捕まえようとする。
カーシュナーの背中には短剣が隠されているが、抜くつもりなはい。
もしカーシュナーに抜くつもりがあれば、少年たちは両腕を失っていただろう。
踏み込むと同時に伸びてくる手を払い、払った手をそのまま伸ばす。
殴るのではなく、まるで軽く押すように掌打を鼻に叩き込み、鼻血を噴かせる。
間を置かずに前蹴りを叩きこみ、他の少年たちにぶつけると、後は作業的に同様の攻撃を繰り返し、あっという間に襲い掛かって来た少年たちを鼻血まみれにしてしまった。
彼らは一般的なハウデンの住民にとっては十分危険な存在と言えるだろう。
だが、この危険区域には大陸を股にかける犯罪組織が根を下ろしている。
この危険区域において、彼らは最下層に位置する弱者であった。
それ故、生き延びるために、逆らってはいけない相手を見極める目はしっかりと養われている。
血を流した時点で、復讐よりも身の安全に意識が切り替わってしまうのだ。
彼らの心理を見抜いていたカーシュナーは、大きな怪我を負わせて戦闘能力を奪うのではなく、頭にのぼった血を鼻から抜いてやることで、冷静に力の差を測らせ、心を折ることで彼らの戦う意思を奪おうとしたのだ。
「てめぇ……」
彼らを束ねる少年は、カーシュナーの実力を理解したうえで、錆びだらけのナイフを取り出した。
ここで退くわけにはいかない。
子供ばかりの集まりであろうと、組織である以上、上に立つ者にはおいそれとは捨てられない面子がある。
彼らの要はこの少年だ。
一人一人ではとても生き残れないこの過酷な環境で彼らが生き残るには、群れるしかない。
少年は、この幼稚とも言える群れを壊されるわけにはいかなかったのだ。
「抜いたね」
カーシュナーが少年の錆びたナイフを見つめながら呟く。
「見りゃあ、わかんだろ。なんだ。ビビったのか?」
少年が威嚇するように身体の前で大きくナイフを振る。
それ自体は幼稚な行動だったが、その動きはナイフという殺傷能力を持った武器を手にしていることに、気負いも怯えも感じさせなかった。
威嚇のためのナイフではなく、これまで彼が生き残るための武器として振るわれていたことがわかる。
けして侮ってはいけないと、カーシュナーは見極めた。
「じゃあ、これは殺し合いだね」
凄むでもなく、カーシュナーはまるで新しい遊びの決まり事でも確認するかのような気安さで、普通の子供なら決して口にしない台詞呟いた。
次の瞬間、カーシュナーは翠玉のように美しい瞳を、真っ直ぐ少年の瞳に据えた。
相変わらずその表情に変化はない。
だが、その瞳から発せられる気配は一変した。
幼いころにハウデンに捨てられ、今日まで危ない橋を渡って生き残ってきた。
当然切った張ったの暴力沙汰も経験済みだ。
だが、これまで殺しをしたことはなかった。
やればやり返される。
治安の悪い危険区域ではあるが、ならず者たちにはならず者たちなりの暗黙の了解がある。
報復を恐れるようなならず者などいないが、殺って殺られてが繰り返されると、大きな抗争となる。
ハウデン都督府が動く程度ならばどうということもないが、騒ぎを大きくし過ぎるとクライツベルヘン家が動く可能性がある。
この危険区域でならず者たちが幅を利かせていられるのは、ひとえにクライツベルヘン家がハウデンの統治を旧ハウデン王家の重臣たちに一任しているからに他ならない。
クライツベルヘン家がハウデンの統治に乗り出したが最後、ここ危険区域は、文字通り人から建物まで一掃されかねない。
これが他の貴族であれば、所詮は日の当たる場所で、生まれながらの特権にあぐらをかいているだけの考えの甘い連中と侮ることが出来たが、闇に根を張る彼ら以上に、この世の闇に精通しているクライツベルヘン家が相手ではそうはいかない。
彼らはクライツベルヘン家の表の力以上に、裏の力を恐れているのだ。
少年たちも、面と向かって教えられなくても、本当の意味で怒らせてはならない存在があることを理解していた。
どこで誰が誰とつながっているか知れないこの危険区域で、安易な殺人はそれこそ自分たちの首を絞めることになる。
脅しや暴力は効果的に使えてこそ意味がある。
逆に、意味のない殺しほど危険なものはない。
一線を超えないことが、ここでの暗黙の了解なのだ。
それ故、少年はまだ出会ったことがなかった。
本物の殺気に――。
闇に溶け込んだカーシュナーの瞳は、光を宿していなかった。
そこには敵意も憎悪も存在しない。
ただ事実としての殺意だけがある。
間違っても子供の目ではなかった。
目的のための手段として、殺人をいとわない者だけが持つ、硝子玉のような冷たい目だ。
少年の背後にいたさらに幼い子供たちが、うっかりカーシュナーの目を見てしまい、悲鳴も上げられずにすくみ上る。
少年自身も初めて触れる本物の殺気に怯えていたが、そこに周囲の恐怖まで伝わってしまい、恐慌状態に陥ってしまう。
恐怖から逃れるために、少年は悲鳴のような雄たけびを上げながら、カーシュナーに斬りかかっていった。
ナイフは剣と違い、殺傷能力が劣る。
斬りつけたところで致命傷を与えるのは難しい。
斬るのではなく、突く武器なのだ。
それを振り回してしまった時点で、カーシュナーに対し、少年に勝ち目はなかった。
カーシュナーは背中の短剣に伸ばしかけた手を止めると、少年が振り抜いた腕の袖を取り、力の流れそって一瞬だけ体重を掛け、少年の体勢を崩した。
即座に背後に回り、今度は腰のあたりを掴んで体重を掛け、さらに揺さぶりをかける。
背中を取られた恐怖から、少年は慌てて振り向くが、崩れた態勢からでは素早く振り返ることは出来ず、振り向いたい時には完全にカーシュナーを見失っていた。
それでも、倒れ込まずに何とか踏みとどまっただけでも運動能力の高さがうかがい知れる。
少年にはカーシュナーが忽然と姿を消したようにしか見えなかったが、そのことに驚く間もなく、ナイフを持った手首を不意に襲った痛みに思わず悲鳴をあげた。
犬にでも咬みつかれたのかと慌てたが、自分の手首を襲った痛みが、カーシュナーに手首を取られただけだと気づき、反射的に手を引く。
どう見ても十歳程度にしか見えない少年の握力ではない。
得体の知れない恐怖は、少年から思考力を奪っていた。
少年の反応を予測していたカーシュナーは、少年の引く動作に合わせて飛び込み、パウリーンをさらおうとした商人にしたように、少年の手首を決めながら回転し、見事に少年を引き倒す。
もし武術の試合のようにきれいに投げようとしていたら、少年はその運動能力から回避することが出来たかも知れない。
だが、カーシュナーは少年に反撃の隙を一切与えないために、最小限の動きで倒したのだ。
そこには少年に対する侮りは一切なく、当然引き倒したからといってその攻撃がやむこともない。
カーシュナーは引き倒した少年の腕をまるで自分の腕であるかのように操り、その手に握られたナイフの先端を、持ち主の顔面へと向けた。
ナイフを手にしている本人も、周囲の少年たちも、カーシュナーの意図を見誤りはしない。
少年は自分へと向いているナイフを何とか手放そうとするが、恐怖によって固められたその指は、本人の意に反して固く握られたまま一向に開かない。
カーシュナーは最後に少年の拳に体重を掛け、叩きつけた。
一連の動作に、一瞬のためらいもない。
硬直し、悲鳴も上げられない少年たちの耳に、ナイフの先端が刺し貫く鈍い音だけが響く。
一瞬の間の後、カーシュナーの目が、周囲の少年たちを捉えた。
大型の肉食獣を前にしたかのように、少年たちの恐怖が一気に頂点に達する。
少年たちが本能的に逃げ出そうとする直前、
「誰も動くな」
カーシュナーの感情のこもらない声が少年たちを縛った。
「まだ殺る?」
周囲の少年たちが自分の言葉に従ったことを確認すると、カーシュナーは自分の真下にある顔に問いかけた。
問われた少年は、どうして自分が生きているのか理解出来ず、咄嗟に周囲を確認しようと首を振ったが、その頬が錆びたナイフの冷たい感触を確かめると、一瞬で状況を理解した。
カーシュナーはナイフの先端が少年の顔面に埋まる直前に、その軌道を逸らしたのだ。
その動きはあまりに速く、何よりギリギリの見切りで行われたので、文字通り目の前にいた少年にもわからなかったのである。
「……ま、まいった」
少年は無意識に降伏の言葉を口にしていた。
自分を見下ろす顔には一片の甘さもうかがえない。
殺せなかったのではない。
ただこの一回限りにおいて、情けを掛けられたにすぎないのだ。
その証拠に、少年のナイフに掛けられたその手から、力が抜ける気配はない。
少年の反応次第でいつでもその首を切り裂ける体勢を維持している。
少年の降伏に嘘がないと見極めたのだろう。
カーシュナーはようやく少年を解放した。
ナイフは取り上げず、少年の手に握らせたままにしている。
「どうして俺に目をつけた?」
カーシュナーは解放した少年に尋ねた。
危険区域に足を踏み入れたときから少年たちに囲まれるまで、カーシュナーに特別な注意を向けた者はいなかった。カーシュナーの身につけた技術はそれほど優れたものだったのだ。
それだけに少年たちに目をつけられたことは予想外であり、純粋に何故そうなったのかという疑問がカーシュナーにはあった。
「……俺はブルーノ。この辺りのガキ共をまとめている。お前を見つけたのはうちのチェルソーだ」
ブルーノはそう言うと、一人の少年を手招いた。
恐る恐る近づいてくるチェルソーは、少年というより、まだ幼児と言った方がいいくらい小柄な少年だった。
年齢はそれでも八歳で、カーシュナーより二歳年下なのだが、生まれた時から栄養状態が悪かったせいで実際の年齢よりもはるかに幼く見える。
カーシュナーは興味深げにチェルソーを見つめた。
先程までの殺気が嘘のような、年相応の好奇心が瞳に込められている。
「どうして俺に目をつけたの? いや、どうして俺に気づいたの?」
カーシュナーの問いかけに、チェルソーは怯えながらも素直に応える。
「すごくきれいに動いていたから……」
小声で尻すぼみな言葉であったが、カーシュナーはチェルソーが言わんとしていることを理解した。
カーシュナーの無駄なく計算された動きは、それ故に無駄で無秩序な動きの中では際立ってしまったのだ。
もっとも、それも全体的な動きを把握し、その中に紛れ込むわずかな違いを拾い出せるだけの観察力があって初めて気付ける程度の違いでしかない。
カーシュナーは己の未熟さを知ると同時に、チェルソーの優秀さも理解した。
「き、君が、おいらがこんな風に動けたらってずっと思っていたすごくきれいな動きで大人たちの間をすり抜けていたから、つい見惚れちゃって、それでみんなに教えたら、君がスリをしているんじゃないかって話になって、シマを荒らされたってみんな怒りだしちゃって、それでこんなことになって……。ご、ごめんなさいっ!」
言葉が足りなかったと思ったチェルソーが、なんとかカーシュナーに許してもらおうと必死に説明し、頭を下げる。
「大丈夫。ブルーノと話はついた。そうだよね?」
言外にそうでないならという意味を含めて問いかける。
ブルーノは慌ててうなずいた。
「さっきので手打ちだ。俺たちはもうお前には逆らわない」
「俺もチェルソーたちともめるつもりはないし、シマを荒らすつもりもないよ。この辺りに来たのは初めてでさ、ブルーノたちのことを知らなかったんだ。知っていれば筋を通したんだけど、時間がなくて余裕がなかった」
そう言ってカーシュナーは笑った。
その言葉に嘘がないことが伝わる笑顔に、場の空気が落ち着きを取り戻す。
「……お前何者だ? お前みたいなのがこの区域にいれば、俺たちが知らないはずがない」
ブルーノが、それこそ先に言ってくれよと言わんばかりの表情で尋ねる。知っていれば絶対に手を出したりしなかったからだ。
「ごめん。秘密。知ろうとしないで。それが君たちのためだから」
脅すわけでもなく、ごく当たり前のことの様に告げられたカーシュナーの答えに、ブルーノは思わず生唾を飲み込み、うなずいた。
「じゃあ、行くよ。騒がせて悪かったね」
そう言うとカーシュナーは踵を返した。
「待ってっ!」
そんなカーシュナーを、チェルソーは慌てて引き止めた。
「誰かを探してたんだよね? しかも見つけて後をつけようとしていたところをおいらたちに邪魔された。そうでしょ?」
カーシュナーは苦笑を浮かべながらうなずいた。
そのことを一言も責めようとしなったカーシュナーを、ブルーノは何とも言えない表情で見つめた。
「おいら、君が後をつけようとしていた男知ってるよ」
思わぬ情報にカーシュナーも目を見張る。
「誰だ?」
ブルーノが尋ねる。
「ゾンの商人でよく宝石を裏取引していた奴がいたでしょ? あいつの部下だよ」
チェルソーの言葉に、ブルーノは大きくうなずいた。
「エリアンか? そういやこの先は連中の縄張りだったな」
「それに、あいつらここ最近変な動きしていなかった?」
「言われてみりゃあ、確かにそうだ。やけに大荷物ばっかり運んでいやがった。おまけに妙にピリピリしやがって、いい迷惑だぜっ!」
チェルソーに問われていろいろと思い出したのだろう。ブルーノが苛立ちをあらわにする。
「一番奥の倉庫群かな?」
カーシュナーに問いに、ブルーノが驚く。
丁度思い描いていた場所だったからだ。
「ここは初めてじゃなかったか?」
ブルーノが不審げに問いかける。
たとえハウデンの住民だったとしても、危険区域として避けられているこの区域の土地勘はない。ましてブルーノすら簡単には近づけないよな区域の奥はなおさらだ。
「ハウデンの地図はここに入っている。もっとも、この区域は地図情報とはだいぶ食い違うみたいだけどね。それでもどこに何があるのかくらいは高台から確認している。人目を避けて大荷物を運び込めるとすれば限られるからね」
とんでもないことをさらりと言ってのけるカーシュナーに、ブルーノもチェルソーも言葉が出てこなかった。
「教えてほしいんだけど、この周辺には他にも大きな倉庫がある。そこはそのエリアンという商人と関わりはないの?」
カーシュナーの問いに、ブルーノも自分の頭の中の地図を確認する。
「エリアンの持ち物だ。もっとも、名義は別の商人だろうけどな」
「知ってる。かつての持ち主はハウデンでも名うての商人だったみたいだけど、今の名義人はその孫で、祖父の残した遺産で働きもしないで遊んで暮らしているよ」
「そいつの家教えてくれ」
ブルーノが剣呑な空気を醸しながら頼む。
「どうするの?」
これに対し、カーシュナーは面白そうに問い返す。
「押し入みかけてやるっ!」
「じゃあ、今度屋敷の図面付きで教えてあげるよ」
ブルーノの物騒な答えに対し、カーシュナーはより悪質な答えを返した。
まさかそんな答えが返って来るとは思っていなかったブルーノは、思わず吹き出した。
「一番奥の倉庫群以外の倉庫で、人が頻繁に出入りしている倉庫はある?」
カーシュナーの問いに、ブルーノが周囲の少年たちに問いかける。
ブルーノたちは組織として見ればこの危険区域の中では最弱だ。
大人たちはそもそも組織とすらみなしていない。
当然縄張りなどなく、それぞれの組織の縄張りの境を渡り歩いてわずかな食料を手に入れて生きている。
一定のシマを持たない反面、その行動範囲は危険区域全体に及ぶ。
深い情報はさすがに手に入らないが、その反面、人の動きや危険区域全体の空気の流れのようなものにはもっとも詳しかった。
ブルーノの問いかけに、少年たちは自分たちそれぞれの情報を報告する。
「なるほど。倉庫はすべて使われてはいるけれど、奥の倉庫群だけは見張りがいて近づけなかったってことだね」
カーシュナーは情報を要約すると大きくうなずいた。そして、この偶然の出会いに感謝する。
手がかりとなる男を見失い、大幅に時間を無駄にしたと考えていたが、ブルーノたちのおかげで逆に目的地を絞り込むことが出来たのだ。
「助かったよ。一つ借りておく」
そう言うと、カーシュナーは目的の倉庫群へと向かった――。
◆
「なんでここにいるの?」
カーシュナーは隣で倉庫の様子をうかがうブルーノに冷たく問いかけた。
「協力するぜ。兄弟」
視線の冷たさに若干怯みながらも、ブルーノは親指を立ててみせた。
「四人目の兄がいたとは初耳だね」
カーシュナーには三人の異母兄がいるが、そんな事情はブルーノの知るところではない。
「何言ってんだ。兄貴はお前だろ」
「いや、どう見てもブルーノの方が年上でしょ。俺十歳だよ」
「やっぱりそうか。見た目は子供だけど、実はもう大人なんじゃねえかと思ってたんだけどな。そうか~。十歳か~。俺の四つ下かよ……」
十四歳のブルーノにとって、十歳のカーシュナーに圧倒された衝撃はなかなか抜けるものではない。
成長が止まってしまうという奇病を患った男を知っていたので、もしかしたらと考えていたのだが、改めて年齢を確認すると、また違った衝撃が襲ってきたのだ。
「お前は俺に勝った。だからお前の方が兄貴分だ」
「なるほど」
どうやら義兄弟的なことを言いたいのだろうが、理屈が無茶苦茶で筋が通っていない。だが、ブルーノの中ではそれで成立してしまっているようだ。
こんなところで言い争っているわけにはいかないカーシュナーは、とりあえず納得しておく。
「これ以上は近づけねえぜ」
ブルーノが別角度からの説得を試みようとしていたカーシュナーの機先を制する。
痛いところを衝かれたカーシュナーは、返す言葉がない。
事実どうやって近づくかで悩んでいたところなのだ。
「この辺りのことは俺に任せろって」
そう言うとブルーノは再び親指を立てた。
「気持ちはありがいた。でも危険だ」
「ここで生きてりゃ毎日が危険だよ」
「だとしても、自分から首を突っ込むことはない。チェルソーたちにはブルーノが必要だ。いなくなったら彼らも生き延びられなくなる」
「そうだな」
カーシュナーの指摘に、ブルーノは肩をすくめる。
「わかっているなら……」
「だから、なんとかしなけりゃいけねえんだっ!」
声こそしっかりと押さえられているが、その感情には抑えきれない憤りがあった。
「このままじゃいけねえんだよ。この区域はクソだ。だがな、それでも何とか生きて来れた。今まではな。それがここにきて、急にエリアンの力が増して、この区域の組織の勢力図が歪んじまった。俺らは組織同士の力の均衡の隙間を縫って生きている。このままじゃ次の冬を超えられねえチビ共が出かねねえ。なんとかエリアンの力を削がなきゃならねえんだ」
それまでの空気が一変し、ブルーノの表情が険しくなる。
おそらくそれは、ずっとブルーノの心にのしかかっていた重圧なのだろう。
周囲に仲間たちがいない自分一人の状況で、自分がその力を認めたカーシュナーの前だからこそ出せたブルーノの本当の姿なのだ。
「大丈夫。ここは必ず変わる。このままなんてことは絶対ない」
張りつめたブルーノの横顔を見つめながら、カーシュナーはまるで誓言するかのようにいった。
クライツベルヘン家はこの区域の現状をけして放置しない。
当面の問題を解決次第、自分で直接父に陳情し、ブルーノたちを救うつもりだ。
「そうあってほしいもんだ。だがな、いつ、誰がやってくれるんだ? ハウデン都督府の連中が急に正義感にでも目覚めてくれることに賭けるか? そんな賭けには銅貨一枚だって賭けられねえぜ」
ブルーノは苦笑いと共に応えた。
カーシュナーの事情を知らないブルーノには、自分を励まそうとして言ってくれているようにしか聞こえないのだ。
「仮にハウデン都督府の連中が動いてくれたとしても、それが三年後や五年後じゃ意味がねえんだ。その時には俺も含めて全員飢えと病で死んじまってる。今じゃなきゃ駄目なんだ」
ブルーノが抱えている重圧は、絶望の入り口につながっている。それも簡単に人の心を引きずり込むだけの力が常に掛かった状態でだ。
実際なんとか状況に抗おうと方法を模索しているブルーノの目には、絶望の色がちらついている。
希望の糸口すらつかめない状況下であることを考えれば、むしろ絶望に呑まれずに踏み止まっているブルーノの精神力は賞賛に値する。
その精神力の源が、自分よりも幼い子供たちを守るためだという事実を知った今ではなおさらだ。
「それにな。どんなに惨めで無様だろと、俺たちは俺たちなりに生きて来たんだ。命の手綱を誰かに預けたことはことは一度もねえし、これからもねえ。当てにならねえ他人にすがりついて、なんとかしてくれなんて泣きつくくらいなら、俺は今日までしぶとく生き抜いてきた自分自身の力を当てにして行動する」
ブルーノは、自分たちのこれまでの生き方を誇りたくて語ったわけではない。
生き残る唯一の手段が、自分と仲間たちの力だけしかなかったという事実を語ったにすぎない。
ブルーノたちにとって仲間以外は自分たちを食い物にしようとしているだけの存在にすぎなかったのだ。
ブルーノの真意を理解したうえで、それでもカーシュナーはブルーノの言葉に感銘を受けた。
親切な誰かが背中を押してくれるかもしれない。
裕福な誰かが手を差し伸べてくれるかもしれない。
だが、それでも自分自身を前へと進ませるのは自分の足だ。
カーシュナーには想像することも出来ない生き地獄を今日まで生き抜き、絶望に捕らわれつつも、それでも自分の力で自分たちの境遇を変えようと状況に抗おうとしている。
前へと進もうとするその意志は、現状がどれ程惨めで無様であろうと、気高いものなのだとカーシュナーは理解していた。
「それならもう止めない。受ける恩に何を返せるか約束出来ないけど、それでも手を貸してくれるかい?」「馬鹿言うな。俺らにはねえものを持っているお前に、俺たちは賭けてえんだ。手を借りるのはむしろこっちの方だし、そもそも俺たちにはお前の邪魔をしちまった借りがある」
これ以上貸し借りの話はなしだ。
言葉にせずともお互いの気持ちは通じ合った。
カーシュナーは巻き込むことの危険性を承知の上で、ブルーノたちを受け入れた。
ブルーノに導かれるまま、カーシュナーは目星をつけていた倉庫をあとにした。
あのまま身を隠していても近づきようがなかったので問題ないが、今はとにかく自分の推測が正しいかどうかの確認を急ぎたかった。
向かった先はこの倉庫群のごみ溜めだった。
もちろんハウデンが公式に定めた廃棄場などではない。
始めに誰かがここに捨て、それを正すのではなく口実に皆がごみを捨て始めた結果、ごみ溜めになった場所だ。
倉庫群の一角ではあるのだが、ごみ溜めに隣接する倉庫はもはや廃墟と化し、悪臭もあって利用されてはいない。
壁の一部は崩れ、そこからごみがなだれ込み、もはや倉庫自体も大きなゴミと化している。
足の踏み場もないような有様だが、実は身体の小さな子供たちにだけ利用出来る通路が存在する。
ブルーノたちは自分たちを弱者の地位に甘んじさせている幼さを逆手に取り、しぶとく生きているのだ。
「ついて来て」
チェルソーがカーシュナーに手招きする。
「すまねえが、俺はついて行けねえ。チェルソー、後は頼むぞ」
大人と比較すれば十分小柄なブルーノではあったが、それでもこれからカーシュナーを案内しようとしている通路を通るには大き過ぎる。
気持ち的には同行したいが、自分に出来ることと出来ない事の区別はついている。
孤児たちの集まりではあるが、それでも一つの組織を取り仕切り、全員を飢え死にさせないように立ち回って来たブルーノは、仲間たちの誰にどんな仕事を任せられるか把握していた。
カーシュナーはブルーノの冷静な判断を改めて評価した。
自分を囲み、襲い掛かって来た時の無秩序な動きから、彼らの能力を低く見積もっていたのだが、その判断は早過ぎたようだ。
ブルーノとチェルソー以外の少年たちも、けして人目を引かないようにさり気なく周囲に散りつつ警戒している。
もっとも弱い立場にある彼らは、争いごとを徹底的に回避してきた。そのため戦いに慣れることがなかった。
カーシュナーの前に醜態をさらしこそしたが、カーシュナーの実力を始めから承知していれば、そもそも彼らはカーシュナーに手出しなどしなかったし、あの醜態も起こりえなかったのだ。
神経を張り巡らし、警戒網を敷くことに関しては、彼らはこの危険区域で一番であった。
ブルーノにひとつうなずくと、カーシュナーはチェルソーの後に続いた。
それは大きなゴミを巧みに組み合わせて作り上げた小さな通路であり、十歳のカーシュナーでも、中腰にならなければ進むことは出来ない。
その低く狭い通路を、チェルソーはまるで鼠のようにするすると抜けていく。
カーシュナーと比べてもさらに小柄であるため移動しやすいということもあるが、それを差し引いてもその身ごなしは見事なもので、つまずきもしなければ、ところどころに飛び出している釘や先のとがった板切れなどに衣服を引っ掛けもしない。
当然足音も一切立てない。
生き残りをかけた生活の中で自然と身につけたのだろう。
クライツベルヘン家の密偵として十分な素質だ。
密偵を統括しているベルトアルトに紹介すれば、自分自身で指導するに違いない。
だが、カーシュナーは苦労して生きてきた分、穏やかにすごしてほしいと思う。
後日必ずこの苦境から救い出してみせると、カーシュナーは目の前を進む小さな背中に誓った。
チェルソーの小さな手が、カーシュナーに止まるように指示を出してくる。
事前に合図等の打ち合わせはなかったが、意思疎通に問題はない。
二人とも幼いながらも隠密行動に秀でた者同士、相通ずるものがあるのだ。
チュルソーは目的の倉庫の隣の倉庫に辿り着くと、外壁に寄り掛かるように積み上がったゴミの山の一部を素早く積み替えていった。すると、這うようにして進まなければならない大きさの入り口が現れた。
驚いたことに、その通路は倉庫の外壁の中へと通じているようだった。
どうやらただの倉庫ではないようだ。
防音目的で外壁が二重構造になっているらしく、子供ならどうにかすり抜けられるだけの隙間が存在する。
だが、目的の倉庫はここではない。
先程偵察したかぎり、こちらの倉庫に見張りは立っていなかった。
真っ暗闇の中をチェルソーに手を引かれながら、カーシュナーは身体を横にして進んで行く。
不意にチェルソーの手が強くカーシュナーの手を握り、動きを止める。
ここまで物音一つ立てずに進んで来たが、カーシュナーはさらに警戒を強め、耳を澄ました。
「ったくよう! あいつらばっかり良い思いしやがって、やってらんねえんだよっ!」
カーシュナーの耳が、悪態を吐きつつ近づいてくる二つの足音を捉える。
「声がでけえぞ、馬鹿っ!」
悪態を吐く男を、もう一人の男がたしなめる。
足音はさらに近づき、すぐ近くで止まった。
そして何やらもぞもぞとしている気配が伝わって来たが、すぐにその正体が判明する。
倉庫の壁を打つ水音と共に、カーシュナーの鼻孔が悪臭を捉えたからだ。
悪態を吐いた男が、小便を垂れ流しながらまだ不満を口にする。
「べつに毎晩やらせろって言ってんじゃねえんだ。あれだけいるんだ、一回くれえいいじゃねえか」
たしなめても聞かない男にため息をつきつつ、もう一人の男が急に意地の悪い声を出した。
「本当は、お前も調教されてえんじゃねえのか?」
「ふざけんなっ!」
「俺が連中に一言お前が不満に思っているって教えてやりゃあ、連中すぐにその気になるぜ」
そう言って男は下卑た笑いを漏らした。
「てめえっ! もし余計なこと言ってみろ……」
「ただじゃおかねえってか? その時はお前なんか内股のへっぴり腰でしか歩けなくなってるんだ。屁でもねえっ! っていうか、お前の方が屁え出っ放しか?」
告げ口をちらつかされて怒る男の言葉を遮って、もう一人の男が嘲笑う。
「ありゃ、普通じゃねえ。係わらねえに限る。特に俺らみたいな新入りは、下手すりゃ他の新入り連中への見せしめに使い捨てにされかねねえ。古株のラズでさえ連中とは距離を置いてんだ。尻の穴が大事なら、これ以上つまらねえ口を利くな」
「…………」
それまで不満を口にしていた男も、もう一人の男から真面目に忠告され、黙り込む。
「わかったよ」
用を足すとともに、男はぼやくように呟いた。
「ここで生き残るにゃあ、エリアンの下につくしかねえんだ。よそに行ってもいずれはエリアンの勢力に呑み込まれちまう。今この段階で組織に入れただけでも儲けもんなんだ。我慢しろ」
「……そうだな」
男はもう一人の男の言葉に無理やり自分を納得させると戻っていった。
ラズという名前を耳にしたカーシュナーは、同時に商人を痛めつけていた男の顔を思い出す。
これでほぼ間違いなく、パウリーンを狙った人さらいと、エリアンの組織はつながった。
パウリーンの両親の手がかりも見つかるはずだ。
チェルソーが再び手を引き歩き出す。
荒れた手の平からチェルソーの緊張が伝わる。
それでいて、進む足取りに迷いはない。
自分のように徹底した訓練を受けたわけでもない少年が、これだけの度胸を身につけるのに、どれだけの修羅場を潜る必要があるのだろうかと考える。
チェルソーの優秀さが、そのまま生活の苦しさを表していた。
かすかな明かりがさし込む場所があり、文字通り這いずり出す。
出口には生暖かい水たまりが広がっており、その中を這い進まなくてはならない。
鼻を刺す悪臭が水たまりの正体を明確に伝えて来るが、チェルソーは躊躇なく進んで行く。
その姿を感心しつつ眺めながら、カーシュナーも眉ひとつしかめることなく後に続く。
そこはすでに目的の倉庫脇の通路で、二人が姿を現した場所には、立小便禁止の看板が転がっていた。
ここまで来るとごみの数はぐっと減ったが、代わりに悪臭が立ち込めている。
おかげで見張りも滅多に寄り付かないが、立小便をした程度でここまで悪臭が溜まるはずがない。
暗がりの中で目を凝らすと、すぐ近くに汚物の小山が出来ている。
それでいてそれほど地面に広がっていないところを見ると、比較的最近出来たに違いない。
ここ最近雨はまったく降っていない。多く見積もっても三週間は経っていないはずだ。
それ以前から積まれていれば、雨に流されてもっと通路全体に広がっているはずだ。
期間と量から、カーシュナーはかなりの人数がこの倉庫にいると判断する。
足跡が残るのを警戒し、チェルソーは汚物の山近くを避けて目的の倉庫へと近づく。
そしてここでも壁板を外すと、小さな入口を出現させた。
カーシュナーを呼び寄せると二人は再び壁の中へと入って行った。
隣の倉庫の壁は反対側まで通り抜けることが出来たが、この倉庫は構造が若干異なるようで、倉庫の中の物置のような部屋へとつながっていた。
物置へと抜けた途端、苦痛に満ちた悲鳴が響き、二人はぎくりと身をすくめる。
「ここから倉庫の中に入り込めるんだけど、エリアンのブツは宝石なんかの足がつきやすい高価なものが多くて手が出せなかったから、くわしくないんだ」
チェルソーが申し訳なさそうに言う。
「ここまでで十分だ。これ以上は危険過ぎる。チェルソーは引き返してくれ」
カーシュナーの言葉に、チェルソーは首を横に振った。
「同じ道順じゃ引き返せないんだ。万が一見つかって追われた時の用心のために罠が仕掛けてあるから」
チェルソーの言葉に、カーシュナーは素直に感心する。
ブルーノたちは浮浪児の集まりではあるが、よく考えられ、対策されている。
チェルソーが優秀なのは持って生まれたものもあるだろうが、対策に基づきしっかりと練習した成果だろう。
誰も気づいていないが、彼らは間違いなく一つの組織と言えるだけの力を有している。
もしエリアンという男が勢力を拡大したりせず、ただ時間だけが流れていたら、五年後にはこの危険区域はブルーノたちの勢力下に収まったかもしれない。
「わかった。でも案内はここまででいい。チェルソーはこの物置で待機していてくれ。もし俺が戻る前に騒ぎが起きたら、俺を待たずに逃げてくれ。俺はここへは戻らないから」
万が一見つかった場合、カーシュナーはチェルソーを巻き込まないことを第一に考えていた。
反論しかけたチェルソーだったが、暗がりの中で微かに光るカーシュナーの眼光は、有無を言わせないだけの力に満ちていた。
何より、それが自分を思っての言葉であるとチェルソーは理解していた。
「ここまでありがとう。行ってくる」
「気を付けて」
カーシュナーは物置の扉をそっと開けると周囲をうかがい、何とか身体が抜けるだけの隙間を作ると、影に溶け込むように出ていった。
残されたチェルソーは、その動きに感嘆のため息を漏らしたのであった。
悲鳴は断続的だが、カーシュナーの優れた聴覚は、無数のうめき声を捉えていた。
それだけでこの倉庫内にどれだけの人間がいるのかはわからないが、十人や二十人では利かない数の人間が不当に捕らえられていることは確かだ。
気がかりなのは、外の警戒が厳しかったのに対し、中に見張りの姿がないことだ。
内部の状況を探りたいカーシュナーとしては好都合だが、捕らえている者たちの脱走を警戒するのであれば、中にこそ見張りが必要なはずだ。
それがいないということは、捕らえられている者たちが自力で脱走を図れない状態にある可能性が高い。
先程から耳に刺さる悲鳴からも、間違いないだろう。
カーシュナーは怒りを覚えつつも、冷静に倉庫内の状況を確認していく。
もともとは倉庫群に並ぶ他の倉庫と同様のものだったよだが、おそらくそれを貴重品の保管庫に改造し、それをさらに人を閉じ込めるための牢獄のような構造に改造したようだ。
それもごく最近改造したらしく、改造箇所は資材がまだ新しいため一目で区別がついた。
造りはだいぶ簡略化されており、手抜きというより長期使用を目的としていないことがわかる。
人が捕らえられている場所は最近改造した場所のはずだ。
カーシュナーは探索範囲を新規改造箇所に絞り込んだ。
改造費を惜しんだわけではないが、子供が侵入してくることを前提としての改造ではなかったため、簡単に侵入可能箇所を発見することが出来た。
迷わず潜りん込んだカーシュナーは、そこで初めて人の狂気に触れることになる。
悲鳴の正体は、様々な方法で凌辱される人々の、心が壊されていく苦鳴であった。
幼くともカーシュナーは大貴族の子息だ。
戦に関することは戦術、戦略に留まらず、戦闘中の兵士たちの精神状態や、戦後処理など、多岐にわたる教育を受けている。
その中には戦後に起こった略奪や、敗戦地の住民に対する暴行、強姦など、通常の教育では伏せられる戦の真実もあった。
人の獣性を、カーシュナーは知識としてだが理解していた。
だが、目の前で繰り広げられているものは、戦の興奮に酔い、欲望のままに殺し、奪い、犯すといった獣じみた蛮行などではなく、人間性を否定し、自我を破壊し、人を人以下の存在へと貶めるための、計算された凌辱であった。
侵されているのは女だけではない。
男も同様に犯され続けている。
外で偶然耳にした二人の男の会話の意味がようやく理解出来た。
糞尿を無理矢理口の中に流し込まれ、吐き出した吐しゃ物に顔を押しつけられ踏みにじる。
水も食料も与えない。
死なないように与えられるのは自分たちが吐き出し垂れ流した汚物のみだ。
凌辱が終わると自分たちの汚物を自分の手で片付けさせられ、別の者が凌辱させる様を眺めさせられる。
口は何やら特殊な器具で閉じられないようにされており、その中の数人は、他の人たちが凌辱させる様を見ることを拒んだのであろう。器具を使って目まで無理矢理開かされている。
大半の者たちがすでに生気を感じさせない暗い瞳で、何の反応も見せずに凌辱させる人々を眺めている。
今凌辱されている人々は、壊れることが出来ずに苦しんでいる者たちだけだ。
そしてその中に、カーシュナーはパウリーンの両親の姿を見出した。
ハウデンでも評判の美男美女の二人は、それ故にか執拗に責められ続けている。
妻を目の前で侵され続けるさまを、四人がかりで抑えつけられて無理矢理見せつけられるユリウスは、今も気も狂わんばかりの叫びをあげ、何とか妻を助けようともがいている。
五人がかりでかわるがわる犯され続けているマリーアも、夫にこれ以上の苦しみを与えまいと、助けを求める視線を向けまいと、懸命に耐えていた。
そんなマリーアの気持ちを踏みにじるために、男たちはマリーアの顔をわざわざユリウスの目の前に押さえ付けて嬲り続ける。
そんな妻の姿にどうすることも出来ないユリウスは、怒りと無念のあまり、血の涙を流す。
その悪魔の宴の様な光景に、知識は十分でも、精神的な備えが出来ていなかったカーシュナーの心は、衝撃のあまり千々に乱れ、思考は停止していた。
行動しなくてはいけない。
推測は裏付けられた。
これ以上この人たちに苦痛を味あわせてはいけない。
ハウデン都督府ではなく、クライツベルヘン家の力を動かさなくてはならない。
だが、身体は麻痺したかのように動かず、その目は凄惨な光景から離れようとしなかった。
不意に、嘔吐する音が背後から聞こえてくる。
それまでの呪縛から解き放たれたカーシュナーは咄嗟に振り向いた。
その手は背中の短剣に伸びていたが、背後でうずくまる相手の正体に気づくと、柄を取る前に止まった。
それは、物置で待っているはずのチェルソーだった。
「何で来たっ!」
問いつつ答えはわかっていた。
自分の戻りが遅すぎたからだ。
「ごめん。どうしても心配で……」
口元を拭いながら振り向いたチェルソーの目が、恐怖に見開かれる。
次の瞬間、カーシュナーは頭皮に激しい痛みを感じると同時に宙吊りにされていた。
直後にチェルソーも同じ運命を辿る。
「あらあら、鼠が二匹も紛れ込んだようね」
二人を捕らえたのは、二メートルに近い長身を持つ大女だった。
カーシュナーは自分を捕らえた相手の正体に驚くと同時に、一瞬とはいえチェルソーに気を取られ、警戒を怠ったことを悔やんだ。
チェルソーに気づいた時点で逃げ出していれば、二人とも脱出出来た可能性があったが、こうなってはもはや二人一緒の脱出は不可能だ。
カーシュナーとチェルソーを捕らえた大女はすでに、二人とも逃げることは不可能と考えているようだが、カーシュナーの能力と、相手の油断があれば、まだどちらか一人は逃げ延びれる可能性があった。
どちらが逃げるか――。
考えるまでもなく、カーシュナーは行動で答えを出した。
頭皮の激痛を無視し、素早く背中の短剣を引き抜くと、カーシュナーは大女の手首に斬りつけた。
もちろんチェルソーを捕らえている方の手首だ。
予想外の抵抗であったにもかかわらず、大女はチェルソーを釣り上げたまま、手首への斬撃をかわしてみせた。
だが、カーシュナーの狙いは始めから大女の手首などではなく、捕らえらえたチェルソーの髪の毛だった。
まるで藁の束でも切り捨てたかのような音が響き、チェルソーが床に落ちる。
「逃げろっ!!」
カーシュナーの叫びに、チェルソーは痛みとは異なる涙を流しながらその言葉に従った。
大女はチェルソーを再び捕らえようとしたが、カーシュナーが今度は自分の頭髪を切り捨てて拘束から脱出してしまったため、咄嗟に判断に迷い、チェルソーを取り逃がしてしまう。
「あらあら、予想外に鋭い牙を持った鼠みたいね」
自分とチェルソーの間に立ち塞がるカーシュナーを見下ろし、大女は嗤った。そして、大きな拳の中に残ったカーシュナーの汚れた髪の毛を、無造作に投げ捨てる。
秀麗とも言える顔に満面に笑みを浮かべているのに、その目はまったく笑っていない。
カーシュナーはまるで底なしの井戸でものぞき込んだかのような不気味さを覚えた。
当然騒ぎは他の者たちに聞きつけられ、チェルソーは別の者たちに追われていった。
自分もすでに囲まれ、逃げ道はなかった。
一瞬カーシュナーの冷静な部分が投降を考えた。だが、目の前の連中の所業に対する怒りが、投降ではなく抵抗を選択させた。
それに、少しでも長くこの連中を自分に引きつけていれば、それだけチェルソーを追う者の数が少なくなる。それはチェルソーの脱出の可能性が高まることを意味する。
「お前たち手を出さなくていいわよ。ただ、逃がさないようにだけ気を付けて。間違ってもこの鼠に隙を突かれて取り逃がしたら、わかってるわね?」
カーシュナーを囲んだ者たちが包囲の輪を狭めようとすると、大女はそれを制止し、今度は酷薄な笑みを周囲の男たちに向けた。
緊張と、それ以上の恐怖が、周囲の者たちの間に走るのをカーシュナーは感じた。
どうやら目の前の大女は、この狂気の集団の中でも飛び抜けた狂気の持ち主のようだ。
カーシュナーは短剣を構えもせず、まるで散歩でもするかのような無造作な足取りで大女との間合いを詰めた。
これには周囲を囲む者たちも意表を突かれ、一瞬呆気にとられる。
相対する大女も、まるで道化師のように大きく目を見張っている。
次の瞬間、カーシュナーは地を這うような低い姿勢で大女の足元に飛び込むと一気に跳ね上がり、その喉元に短剣を突き入れた。
「デボラ様っ!」
カーシュナーの動きのあまりの鋭さに、周囲の者たちが思わず叫ぶ。
獲ったっ!
カーシュナーはそう思った次の瞬間、意識を失っていた。
完全に意表をついて放たれたはずのカーシュナーの一撃を、デボラは紙一重の見切りでかわしつつ、その長い腕を使ってカーシュナーの首筋に手刀を叩きこんでいたのだ。
「罠も仕掛けていないのに、ずいぶんと面白い鼠が飛び込んで来たものねえ」
頭頂部が短くなってしまったカーシュナーの頭を掴むのを諦めたデボラは、代わりに襟首を掴むと吊るし上げ、意識を失くしたカーシュナーの顔を覗き込んだ。
その顔は実に楽しそうに笑っていたが、その目はやはり一切の感情を映してはいなかった――。




