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ヴォオス戦記  作者: 南波 四十一
ヴォオス戦記・乱
80/152

捜索

 カーシュナーは現在、市井しせいの暮らしを経験するため、ハウデンで身分を伏せて生活している。

 このことはハウデンを統括管理するハウデン都督のエルモント侯爵も知らされていない。 

 クライツベルヘン家はハウデンの行政管理に口を挟むことはないが、それはあくまで問題が生じない限りであって、何か事が生じれば即座に介入する。


 任せることと放置することは一見似て見えるが、この違いをはき違えるようなことは、クライツベルヘン家に限っては絶対にありえない。

 その行政管理能力に穴はなく、周知徹底されている。

 ハウデンの管理が元ハウデン国の重鎮の子孫たちに任されているのは、ひとえに今は亡きハウデン王家に対するクライツベルヘン家の友誼からくる温情でしかなく、かなりの目こぼしをしてもらっていることを、都督のエルモント侯爵以下、都督府に勤める役人は全員理解していった。


 今このハウデンでカーシュナーが生活していることを知れば、彼らはカーシュナーの身に間違いが起こらないよう手を尽くすだろう。

 だがそれでは、作られ、管理された環境に身を置くことにしかならず、真の意味で市井の暮らしを学ぶことにはならない。

 暮らしに溶け込むことが重要であり、ハウデン都督府がとるであろう配慮は邪魔にしかならない。


 とは言え、クライツベルヘン家の子息であるカーシュナーをまったく無防備に放置するわけではない。

 その周辺には護衛を任された者がさりげなく配置されている。

 その中の一人、女騎士カルラは、着任早々護衛役であることをカーシュナーに見抜かれ、いいように出し抜かれていた。


 護衛対象に対して秘密裏に行う要人警護で、対象からその素性を見抜かれた時点でカルラは、本来であれば任務に失敗したとしてカーシュナーの警護から外されるのが当然なのだが、何事においても変則的なクライツベルヘン家は、カルラに任務を継続させていた。


 そもそもカルラは騎士である。

 隠密行動は不向きだ。

 だが、クライツベルヘン家の性質上、騎士といえども脳みそが筋肉で出来ているような単細胞では許されない。

 カルラは見抜かれたうえで、カーシュナーの観察眼を上回ることを求められたのだ。


 カルラは平民あがりの騎士で、しかも女だ。

 これは実力主義で鳴るヴォオス軍においても異例のことだ。

 はっきり言ってヴォオス軍では過去に例はない。

 ヴォオス国内に女騎士は存在するが、すべて私兵を抱える上級貴族の、後継ぎの男児に恵まれなかった家の子女が、爵位を継ぎ、有事の際には兵を率いれるようにと形式上騎士と認められているにすぎない。


 だが五大家の、特にクライツベルヘン家では、才能のある者には広く機会が与えられる。

 機会を与えるというより、むしろ積極的に才能ある者を見つけ出し、クライツベルヘン家がその才能を生かせるよう職を斡旋して回るほど、クライツベルヘン家は才能の発掘に貪欲だった。


 カルラの家系は代々騎士叙勲を目指し、選考会が開催されると必ず参加していた。

 普段鍬を振るい、泥にまみれて暮らしていても、その志は微塵も揺るがず、騎士の道を目指していた。

 心ない者たちは諦めることを知らないカルラの先祖たちを嘲笑った。

 一徹者いってつもので不器用な彼らは、騎士の水準が高いクライツベルヘンでは通用しない。

 選考会を取り仕切る者たちの中には彼らの志に好感を持ち、個人としては騎士見習いとして採用してやりたいと思うのだが、採点に一切の私情を挟まない冷徹さもまたクライツベルヘンの特色だったため、選考者たちは心を鬼にして彼らを切り捨てて来た。


 カルラの父は、先祖代々の悲願に初めて手を掛けた人だった。

 これまでずっと落選して来た選考会をついに突破し、騎士見習いとなったのだ。

 だが、結果としてカルラの父は騎士にはなれなかった。

 訓練中の事故で片足を失うほどの大けがを負い、騎士の道を断念せざるを得なかったのだ。

 家族の誰もが落胆し、友人知人たちは声を掛けることさえ出来なかった。


 治療を終え、いざカルラの父が帰郷することになると、村中が重苦しい空気に包まれた。

 家族ですら声を掛けられない程の落胆振りだったのだ。

 当人の落ち込み様は想像することすら出来なかった。

 

 だが、帰って来たカルラの父は、義足の足を引きずり、杖にすがりながら、それでも胸を張って帰って来た。

 そこには微塵の落胆も悲嘆の影もなく、騎士への道が閉ざされたにもかかわらず、それでも尽きることのない志がその胸にはあった。

 村人たちは、志を持つということの意味を初めて理解した。

 カルラの父を、祖父を、挑み続けた彼らの先祖たちを嘲笑ってきた人々も、胸を打たれた。


 母の腕に抱かれていた幼いカルラは、その時の父の姿を鮮明に覚えている。

 父は今も元気に故郷で暮らしている。

 今では村の相談役を務め、とても義足とは思えない程精力的に働いている。

 だが、父を思い出すとき、真っ先に思い浮かべる姿は、道半ばで夢を断たれた直後に見せた、胸を張り、堂々と帰って来た時の姿だった。


 それはカルラにとって騎士道を歩む原点であり、騎士にはなれなかった父の姿が、カルラにとっての騎士の理想像だった。

 カルラ自身はこの日、父から一族の志を受け継いだと思っている。

 その日からカルラの努力の日々は始まり、そして見事に、一族の悲願であった騎士叙勲を、女の身で果たした。

 それは並大抵の努力で成し遂げられることではなく、その並はずれた努力は、騎士となった今でも続いていた。


 強さを求めて努力を続ける騎士は大勢いる。

 だが、カルラは向上し続けるために努力を続けている。

 現状の自分を良しとせず、他者の優れているところを見習い、どうすれば自分も向上出来るかを考える。

 この、目標のための向上心ではなく、向上心そのものが努力の原動力となっているカルラの精神性を高く評価したクライツベルヘン家は、カルラ自身のさらなる向上と、その影響をカーシュナーがどのように受けるかという実験的な意図をもって警護の任務をカルラに与えていた。


 期待されたから努力する。

 そういった思考を持たないカルラは、あくまで与えられた任務を遂行するため、カーシュナーに気取られない方法を考え、技術を磨いて行った。

 だが、カルラの隠密行動の腕前が向上すると、今度はカーシュナーの洞察力が向上する。

 場合によってはカルラが考案した技術を逆用され、行方をくらまされることすらあった。


 カーシュナーの理解力と応用力のあまりの高さにカルラは舌を巻いたが、諦めるということを知らない彼女の家系の血がさらなる努力を促し、カーシュナーとカルラはいつしかあまりにも高度すぎるかくれんぼと鬼ごっこを展開するようになった。

 真面目なカルラはあくまで任務としてカーシュナーを見守り続けたが、天井知らずの才能を持つ少年との会話のないやり取りを、心の中では密かに楽しみ、その将来を想像して任務中であるにもかかわらず、ついつい頬をゆるめてしまうのだった。


 この日カルラは非番であった。

 本人的には休みなど不要であり、専属でカーシュナーの警護に当たりたいと考えているのだが、人材の酷使を嫌うクライツベルヘン家では、カルラの考えは通らない。

 もっとも、クライツベルヘン家に限らず、有事の際には無休で任務に当たるのが当たり前だ。

 休めるときにしっかりと心身の調整を行っておくのも任務の内なのである。

 

 非番であったため、カルラはこの日のカーシュナーの行動を把握していなかった。

 カーシュナーが見抜いた渡来人とその子孫たちの行方不明者が続出しているという事実と、この日のカーシュナーの警護担当が、カーシュナーの行動のあまりの早さについて行けず、全員が最終的にはその行方を見失っていたという異常事態も知らなかった。


 大騒ぎとなったが、結局何食わぬ顔でカーシュナーが帰って来たため、大事と考えられなかったが、この日の警護にカルラが加わっていたら、いつもの追いかけっことは考えなかっただろう。

 だが、現実にはこの日カルラは警護に当たってはおらず、カーシュナーが無事帰宅したことで、この日の警護は一応終了と判断されてしまった。

 夜番の見張りがつくことにはなっているが、まだ十歳のカーシュナーが夜の街へとくり出すなどということはないため、実質的な警護は昼までなのだ。


 カルラは出過ぎた真似になるので普段は行わないが、今日だけは夜番に差し入れを持って行った。

 目的は今日一日のカーシュナーの様子を聞くためだ。

 カーシュナーがハウデンで市井の暮らしを学んでいることは、ハウデン都督府にも伏せられているため、カルラを含めた警護兵たちの公式の詰所は存在しない。

 有事の際には集まることになっている酒場が存在しているが、普段は無駄な注目を避けるため、誰も近づくことはない。

 非番のカルラがカーシュナーの様子を知ろうと思ったら、直接今日の警護担当を捕まえるしかないのだ。


 差し入れに感謝した夜番は、自分が知りえる今日一日のカーシュナーの行動をカルラに話して聞かせた。

 夜番といっても不審者がカーシュナーの暮らす老夫婦の家に近づかないかを監視しているだけであり、そもそもその必要がない治安の良い地区を選定しているので余裕があるのだ。

 それでも夜番の目もカルラの目も、警戒を怠ることは一切ない。


 話を聞き、カルラは違和感を覚えた。

 今日はパウリーンが泊まりに来ているという。

 カーシュナーとパウリーンは仲が良いが、これまでお互いの家に泊まるということはなかった。

 パウリーンの両親が仕入れの関係でここ一週間ほど留守にしていることは知っていたが、パウリーンは両親が家を留守にするときは、いつも隣の住人宅に預けられている。

 確か昨日までは隣家に泊まっていたはずだ。

 

 何故急に今日泊まることのになったのだろうか?

 カーシュナーを見失ってしまった警護兵たちは、運悪く商人とカーシュナーのやり取りを見逃してており、当然夜番からその事実が伝わることはなかった。

 カルラは夜番に別れを告げると、この辺りの住人が通う酒場へと向かった。

 そしてそこで、パウリーンにからんだ人さらい騒動があったことを初めて知ったのであった。


 話を聞く限りでは、助けを求める大声が聞こえたので慌てて表に出たが、誰もその人さらいの姿を見た者はなく、憔悴しきったパウリーンからはたいしたことは聞き出せなかったため、大人たちはそれほど深刻な事態とは受け取らなかったらしい。

 もともと治安の良い場所であり、子供の話でもあるので、まともに相手をしなかったのも無理もなかった。


 だが、今日が集会日であり、普段と異なり町中の大人たちが集会所に集まっていたことを考えると、カルラはこの人さらい騒動を軽く考えることは出来なかった。

 何よりパウリーンの家から集会所まで届く大声など、カーシュナー以外に出せるはずがない。

 カーシュナーが人さらいと断じたのだ。

 仮に間違いであったとしても、まったく何もなかったはずがない。何よりパウリーンが隣家にではなくカーシュナーの家にいることの説明がこれでつく。


 カーシュナーの面倒を見ている老夫婦はただの老人ではない。

 引退したクライツベルヘン家の元密偵だ。

 それに警戒心が薄いとはいえ夜番もいる。この区画では最も安全な場所と言えるだろう。


 パウリーンを狙った人さらいは実在したのだ。

 その上でカーシュナーは何食わぬ顔で帰って来た。

 カルラは内心の焦りを押し殺すと、人目を引かないように注意しながら全速でカーシュナーの家へと戻った。


 夜番を説得すると、カルラは規則違反と承知でカーシュナーの家を訪問した。

 普段真面目なカルラにはありえない行動であるが、必要であれば守るべきはずの規則を無視出来るまでにその柔軟性は鍛えられていた。


 子供と老人だけの家の夜は早い。

 すでに就寝の時間であったが、カルラの独特の扉を鳴らす音に、玄関扉はすぐに開かれた。

 クライツベルヘンの密偵の間で使用される打音の一種だったからだ。

 カルラは顔を出した主人に対して細かい説明を省き、ただカーシュナーがちゃんと床に就いているかを確認したいと頼んだ。


 主人は内心の思いは一切表には出さず、何も言わずに一歩後退すると、カルラを通した。

 音もなく扉を閉ざすと、素早くカーシュナーの寝室へと案内する。

 中の様子をうかがい、起きている気配がないことを確認すると、そっと扉を開けた。

 日中祖父と孫として接するときは微塵の遠慮も見せないが、今は祖父ではなく、そばに仕える密偵として行動している。カーシュナーに対する配慮を欠くことはない。


 カーシュナーは静かに眠っていた。

 もっとも、窓からの星明りで寝台のふくらみがぼんやり確認出来るだけなので顔など確認のしようもない。

 主人が窓を指さす。

 そこにはしっかりと錠がおりた窓があった。


 部屋の入り口から出ていれば、主人はカーシュナーの行動を把握出来る。たとえ音もなく忍び出たとしても、主人の目を盗むのは不可能だ。

 カーシュナーの部屋の扉は屋根裏で老夫婦の寝室とつながっており、扉が開けば即座に知ることが出来るのだ。

 このあたりは老いたりとはいえ元クライツベルヘン家の密偵である。

 主人が把握していない以上、カーシュナーが部屋の扉を開けていないことは確実だ。


 そうなると残る手段は窓からということになるのだが、そもそもカーシュナーの部屋は二階にあり、窓の外には伝って降りられるような木などもない。

 飛び降りれば出られないこともないが、いくら剣術や武術で鍛え上げているとはいえ、子供には危険な高さだ。

 仮に無事に飛び降りたとしても、夜番に気取られずに済ますことは出来ない。

 窓が閉まっている以前に、窓から外に出ること自体が困難なのだ。

  

 主人の目が納得したかと問いかけてくる。

 カルラも自分の考え過ぎと納得した。

 カーシュナーは自分たち警護の人間の目を簡単にくらませるほど頭の回転が速い子供だ。

 受けた教育はすでに王都の王立学院に入学出来るほどだ。

 その判断力はすでに子供のものではない。

 事態が自分の手に余るものと判断し、手を引いてくれたのだろう。

 そう考え、カルラは自分の根拠のない不安を無理に解消した。

 

 そしてカルラはそっと扉を閉ざす。

 だが、把手とってを握る手が、放そうとしない。

 不安を押し退けた代わりに、カーシュナーらしからぬ行動に対する疑念が湧き出してくる。

 人さらい騒動は確かにあった。

 直後のカーシュナーの足取りがつかめていないが、どう考えても犯人を追跡していたとしか考えられない。


 何故パウリーンがさらわれそうになったのか、その理由がわからない。

 パウリーンの家はまだ駆けだしの商人の家だ。営利目的で誘拐しても、用意出来る身代金などたかが知れている。

 美少女であるパウリーンに対するいたずら目的の可能性もあるが、この地区はそもそもそう言った輩が簡単に入り込めるような場所ではない。だからカーシュナーもここに暮らしているのだ。

 少なくとも、この辺りをうろついていても人目につかないだけの身なりをしていたはずだ。


 年に一度の特別な集会があった今日という日に騒ぎが起きたことから、突発的な犯行ではなく、計画的な犯行の可能性が高い。

 目的がわからない以上、一度の撃退でパウリーンの安全が保障される可能性はない。

 であれば、カーシュナーの性格と能力を考え合わせれば、その背後関係を探り出し、完璧な対策を立てようと考えるはずだ。

 

 では、追跡に失敗し、情報を得られなかったのか?

 そうだとすれば、現在のカーシュナーの行動は問題の放棄に他ならない。

 自身の力及ばず、問題解決の糸口が見つけられないのだとしたら、カーシュナーは事の次第を余さず老夫婦に伝え、助力を乞うはずだ。

 年頃の男子のように、自分の能力不足を恥じ、その事実を隠ぺいするために、問題まで隠すような未熟な精神性とカーシュナーは無縁だからだ。


 そうしなかったということは、何らかの情報をカーシュナーは得たのだ。

 その上で何事もなかったかのように振る舞っている。


 カルラは閉ざしたはずの扉を再び開いた。

 そこには主人のような配慮はない。

 もはや物音を立てまいとする気遣いすらもない。


 大股にカーシュナーの室内に踏み込んだカルラは、容赦なくカーシュナーの寝台に歩み寄り、その上掛けをめくった。

 カルラを止めようと後から踏み込んだ主人が、呻き声をあげて硬直する。

 二人の視線の先にあったのは、カーシュナーの寝姿などではなく、簡単に丸められたただの毛布だった。

「こ、これはいったい……」

 主人は無意識に呟いた。その後の言葉は続かなかった。


 カルラは窓に駆け寄った。

 掛け金は確かに下りている。

 呆然とする主人に目だけで見落としの可能性を尋ねる。

 我に返った主人は首を横に振る。

 入り口の仕掛けは、見落とす見落とさないという次元のものではないのだ。扉を開ければ、その事実は密偵とは無縁のただの老人でも確実に知ることが出来る。


 主人は手燭に明かりを灯すと、カルラの隣に行き、窓を細かく観察した。

 先程は驚きの呻きを発したが、今度は感嘆のあまり呻く。

「……これは外から掛け金が下ろされておる」

 そう言うと主人は掛け金の縁を照らした。

 そこには微かにこすれたような跡が見て取れる。


「侵入者か?」

 カルラの問いに主人は首を振る。

 カルラ自身も自分の問いを信じていない。何者かが侵入し、カーシュナーをさらったにしては、あまりにも痕跡がなさ過ぎる。

 仮に侵入者があったとすれば、カーシュナーは必ず何かしらの痕跡を残そうとするはずだ。

 同年代の子供はおろか、並の大人さえも及ばない程カーシュナーの頭脳と胆力は抜きん出ている。

 カーシュナー自身が痕跡を極力消して行動したと見る方がはるかに説得力がある。


 主人は窓を開けると周辺を観察した。

 何も変わったところは見られないが、かつて優秀な密偵だった主人の目は、ひさしの裏に残された小さな痕跡を見逃さなかった。


「どうやらここから庇に取り付き、逆上がりの要領で屋根の上へ抜け出たみたいだ」

 主人の声は苦り切っていたが、その表情に感嘆の念が浮かぶのを抑えることは出来なかった。

 主人の横から庇の裏を眺めていたカルラには、主人が見つけた痕跡すら確認出来ない。

「掛け金はどうやって下ろしたのでしょうか?」

 今はそれどころではないとわかっているのだが、カルラは尋ねずにいられなかった。


「専用の道具があれば、窓の隙間から通して掛け金を掛けることは可能です。ですが、そんな道具はまともな暮らしをしている限り絶対に手に入りません。お目に掛かることすら出来んでしょう。おそらく窓と掛け金の構造から、カーシュナー様がご自分で考案され、作成されたのでしょう」

 主人の説明に、カルラは言葉もなかった。


「それだけじゃない。こんなまともな足場もない場所で外から掛け金を下ろすには、相当な力が必要になる。いくら体が軽いとはいえ、並大抵のことじゃない。それに、ただ道具があれば出来るというものでもない。そもそも道具を扱う繊細な技術がなくては話にならん。カーシュナー様はすでに一線級の密偵としての技量をお持ちだ」

 主人は自分の言葉に思わずため息をついた。

 話を聞いたカルラもため息をつく。

 カーシュナーの優秀さは近くで見守る者にとっては我がことのように誇らしが、優秀過ぎて手を焼かされるのはさすがに勘弁してほしい。

 カルラは声には出さずに気合を入れ直すと、気持ちを切り替えた。


「状況がまだ正確につかめておりません。各所への連絡はこちらで致しますので、カーシュナー様の御帰りを待ちつつ、パウリーンの護衛をお願いいたします」

 カルラの言葉に主人はうなずいた。

 そこには昼間の優しげなおじいさんはもういない。

 影に潜り闇に潜んだ腕利きの密偵の鋭い眼差しがある。

 カルラも小さくうなずくと、老夫婦の家を後にした。


 表に出るとすかさず夜番が近づいてくる。

 主人がカーシュナーの痕跡を探すために窓の外に出した明かりを確認していたからだ。

 カルラの報告を受け、夜番も一声唸った。

 近づく者を警戒していたのだから、出ていく者に対する注意力が欠けるのは仕方のないことなのだが、それでもカーシュナーが抜け出したことを見落としたことを後悔せずにはおれないのだ。


「戻られる可能性もある。引き続き夜番を頼む」

「老夫婦に任せても大丈夫じゃないか?」

 カルラの言葉に、自身もカーシュナーの捜索に向かいたい夜番が提案する。

「ただ戻られるだけならいいだろうが、もし万が一追われて逃げ戻られた時、お主がおらねばお二人には荷が重い。ここの守りを頼む」

 夜番にも言いたいことはあったが、カルラが指摘した可能性が否定出来ないと自分でも思ってしまったため、カルラの言葉に従う。


 カルラは夜番と分かれると、緊急時の集合場所である酒場へと急いだ。

 カーシュナーの警護の任務に就いたばかりのころは、走ればガチャガチャと騒がしい音を立てていたが、今では地を蹴る音も、剣帯で激しく踊り、騒音をまき散らしていた剣も、まったく音を立てない。

 足には裏地に柔らかい鹿皮を張った長靴をはき、剣は柄頭に手を置いただけで見事に制御している。

 格段の成長だが、今はそれを実感するような余裕はない。


 確証はないが、カルラはカーシュナーが抱え込んだ問題が、非常に緊急性の高いものだと考えていた。

 何故ならカーシュナーが単独行動を取ったからだ。

 腕に覚えのある少年が、自分の力を過信して無謀な行動に出てしまうことはある。

 部屋から脱出した手口だけでも、多少腕に自信があるなどという次元ではない。

 対抗しようにも、並の密偵では翻弄されて終わりだろう。


 だが、カーシュナーは過信するような少年ではない。

 年相応の子供っぽさを有しながら、その小さな体の中には物事を俯瞰ふかんで見れる冷静な大人の部分が備わっている。

 それは年齢を重ねただけの大人にはけして備わらない要素だ。


 カーシュナーが警護兵を振り切っていた数時間の間に、何らかの情報を掴んだことは間違いない。

 そして、自分一人で出来ることの限界を、カーシュナーはしっかりと理解している。

 それでも敢えて一人で動いたということは、報告を上げて協力を求めれば、危険を理由に行動を妨げられると判断したということだ。


 危険性だけであれば、カーシュナーはあっさりと一歩退き、自分たちに事態を預けてくれただろう。

 だが、そうしなかったということは、危険性以上に時間的猶予がないのだと考えられる。

 自分の安全を確保するために採られるであろう対策に割かれる時間が致命的な遅れになると判断したのだ。


 すべてはカルラの推測に過ぎない。

だが、この数ヶ月で理解したカーシュナーという少年は、クライツベルヘン家の人間らしく、抜け目がなくてしたたかで、遊び心にあふれ、けして素直ではない。

 だが、その根底にある理不尽を嫌う反骨の魂は、大きな力に対して強い反発を生む反面、弱者に対するやさしさを持っている。


 クライツベルヘン家の気質を見事に体現している少年だ。


 その彼が無茶な行動に出たということは、容易なことではないはずだ。

 カルラは勘でしかない自身の推測を信じていた。

 出来れば自分の勘違いで済んでほしい。

 カルラはそう願いつつ、全力で走るのであった――。









 自室の窓の内側の掛け金まで下ろして部屋を抜け出したカーシュナーは、目立つ金髪を黒く染め、再び危険区域へとやって来ていた。

 直接来るのは初めてだが、ハウデンの詳細な地図は頭の中にあり、日が落ちる前に高台から眺めて平面的な地図情報に立体的な補正を行っていたので、夜でも道を見失うことはない。


 一般的な家庭ではすでに夕食を終え、ゆっくりと家族の団欒だんらんのひと時を愉しんでいるであろうこの時間に、治安の悪いこの区域では、安酒を求めて徘徊するハウデンの下級層の男たちや、寄港中の船乗りたちがあふれている。

 危険区域と呼ばれているが、表向きは歓楽街である。

 そうでなければ、いくらクライツベルヘン家がハウデンの管理に対して寛容であったとしても、治安調査に乗り出してくる。

 その上で現ハウデン都督府に管理能力なしとみなされれば、これまでのような寛容さは失われ、旧ハウデン王家の重臣たちは、ハウデン統治の中心から排除され、その実力に見合った職にしか就けなくなってしまう。

 ヴォオス最大の貴族でありながら、王族、貴族の特権意識に対して最も批判的なクライツベルヘン家の怖さを、旧ハウデン貴族たちは理解していた。


 とは言え、ハウデンの一般的な住民たちが危険区域と呼び、自主的に立ち入りを敬遠しているだけあり、他の区域と比較するとその犯罪率は高い。

 もっとも、その大半が物取りで、それ以外は安酒に酔った男たちが起こす喧嘩騒ぎが絶えないだけだ。

 頻繁に殺人が起きるような、他国の危険区域ほど悪質ではない。


  それでも、少年がたった一人で出歩いていい様な場所ではない。

 カーシュナーは危険区域へ入ってすぐ、すえた臭いのする泥を、衣服や顔、頭髪に塗りつけ、浮浪児のような姿になっていた。

 敢えて嫌な臭いのする泥を使ったのは、この区域に溶け込むためだ。

 汚すだけなら清潔な泥でもいい。

 夜の暗がりに溶け込んでいるのだからなおさらだ。


 だが、人の五感は侮れない。

 見た目をごまかすことは出来ても、日常にはない臭いを持ち込めば、警戒心の強い人間はおろか、単なる酔っ払いでも気づきかねない。

 カーシュナーは一瞬もためらわず、鼻が曲がりそうな臭いを放つ泥を全身にすり込んでいた。


 隙なく行動しているカーシュナーであったが、危険区域の実情を目の当たりにし、少なからぬ衝撃を受けていた。

 おそらく病を患っているのだろう。

 まるでぼろ布のような衣服に身を包み、それ以上にぼろぼろになった人々が、狭い通りに捨てられたごみのように転がっていたのだ。


 彼らは病を理由に船を下ろされた元船乗りであったり、船賃が払えなくて身ぐるみ剥がれてハウデンに捨てられた者たちだった。

 よそ者の彼らに、この地で頼れるような友人、知人など存在しない。

 物乞いに身を落とし、食うや食わずの生活を送るしかないのだ。


 この区域のことは、地図上のことならすべて頭に入っていた。

 だが、地図の上にはそこに暮らす人々の姿など載ってはいない。

 高台から俯瞰して見たことはあったが、その目線はどこまでも上からのものであり、地べたを這うように暮らす人々の惨めさを捉えることは出来なかった。

  

 カーシュナーのこれまでの暮らしはけして楽なものではなかった。

 クライツベルヘン家の子息として、国内外に通じる大陸規模の教養を学び、剣術、武術を学び、クライツベルヘン家独自の密偵技術の習得まで行わなければならない。

 求められる努力の質はもちろん、一級の才能がなければ身につくことはない。

 肉体的にも精神的にも想像を絶する重圧が掛けられる。

 大人でも音を上げるほどの圧力が、もの心ついたころからずっとだ。

 気持ちの弱い者であれば、良くて逃げ出すか、悪くすれば自殺しかねない。


 だが、そのすべてが自身の向上のための苦しみだ。

 重圧の中にも充足感がある。

 楽ではないが、そこに惨めさなど欠片も存在しない。

 何より、飢えることがない。


 カーシュナーは知識としてしか知らなかった貧困を、初めて肌で感じていた。

 彼らは、何をどうすればいいのかがわからない。

 何かをしようにも、その手には何もなければ、誰の助けも受けられない。

 絶望の中に囚われ、出口すら見えず、ただ途方にくれるしかない。

 

 これは個人の力で改善出来るようなことではない。

 為政者の力が必要な案件だ。

 彼らは現状銅貨一枚の利益も生み出さない存在かもしれない。

 無価値なもの(、、)、あるいは損益にしかならないもの(、、)かもしれない。

 放っておけばそのうち死に、改善など必要ない、腐りかけの肉の塊に変じるだろう。


 そんなもの(、、)のために、高貴な身分の者が何故(わずら)わされなくてはならないのか。

 ハウデンを治める者たちは、怒りと共にそう吐き捨てるだろう。

 現実に目を向ける気持ちがあれば、この現状は目に映るし、現状を正しく理解出来れば、改善のための対策も打てる。

 だが、為政者たちが彼らに向ける視線には侮蔑の曇りがあり、その目が現実を捉えることはない。

 カーシュナーは長く捨て置かれている目の前の現実に、ハウデン都督府に対する嫌悪と、激しい怒りを覚えた。


 それまで知ることのなかった新たな現実と出会ったカーシュナーであったが、それでもその足が止まることはなかった。

 頭の中では様々な事柄が怒りと共に回転しているが、それとは別に、その耳はしっかりと周囲から情報を拾い上げている。

 その結果、この区域はどうやら、カーシュナーが得ていた情報以上に複雑な構造をしていることがわかった。


 歓楽街として機能していることは間違いない。

 だが、その顧客の半数以上がハウデンの住人ではなく、海運業に関わる外国人が占めている。

 区域内の住居のほとんども、名義上はハウデン住民のものになっているが、実際に住んでいるのは海運業に関わる外国人ばかりで、ハウデンにおけるある種の治外法権と化していた。


 表向きは凶悪犯罪などはなく、興味本位で近づきさえしなければ問題はない。

 また、身元の確認の困難な外国人がハウデン中に散らばるよりも、特定の区域に固まっている方が、ハウデン全体の治安維持が容易になる。

 何より住民たちにとって、不審人物が近隣をうろつかないという事実は大きい。

 おそらくハウデン都督府は、この区域の潜在的危険性を承知の上で、全体的な治安維持を選び放置しているのだろう。

 

 カーシュナーはより慎重に行動する必要性を覚えた。

 こういう場所は組織犯罪の拠点にうってつけだ。

 目的の男たち以外にも、この区域を拠点としているならずの者たちが潜伏している可能性が高い。

 無関係な事件になど巻き込まれたら、捜索どころではなくなってしまう。


 カーシュナーは自分の推測が正しければ、少なくとも数十人。下手をすれば百人近い人数が捕らえられていると考えている。

 これだけの人数を閉じ込めておける場所は限られてくる。

 人数を小分けにして捕らえている可能性もあるが、監視のための人員が必要になり、人が増えるほど情報の漏えいの危険性が高くなる。

 ハウデン都督府がいくら無能でも、クライツベルヘン家の目はごまかせない。

 大き過ぎる動きがあれば捉えられる可能性がある。

 最小限の人員で百人近い人間を監視しようとすれば、おそらくどこかの倉庫にひとまとめに捕らえているに違いない。

 カーシュナーは事前に目星をつけた倉庫をしらみつぶしにしていった。


 カーシュナーの小さな身体は、大人では通り抜けることが出来ないような隙間を簡単に潜り抜けることが出来る。

 何より大人に警戒感を与えない。

 身を伏せることが出来るところでは一切人目に触れることなく行動する。

 だがその反面、身を隠せそうもないところでは堂々と姿をさらした。

 スリか物乞いにしか見えないカーシュナーを気に留めるような者はなく、カーシュナーは周囲の人々の意識に引っかかる前に、再び物陰へと滑り込んでいた。


 捜索を続ける中、カーシュナーはついに目的の顔を発見した。

 商人の男をシメていたラズという男の部下だ。

 どうやら交代で食事に出ているらしく、カーシュナーの記憶にはない男と、膨らんだ腹を満足そうに叩きながら、爪楊枝で歯の隙間の掃除をしている。

 かなり油断したその様子に、カーシュナーはアジトが近いと予想する。


 カーシュナーが顔を認識している人数はたかが知れている。

 アジトが近いとなれば、知らぬ間に縄張りの中に踏み込んでしまう可能性がある。

 発見した男と周囲の人々の関係性に注意を向け、仲間とそうではない者とを見分けることに集中する。

 目顔だけであいさつする人間がちらほら観察される。

 カーシュナーは警戒を強めた。


 だが、その警戒がカーシュナーを思わぬ落とし穴に誘い込む。

 近づき過ぎないように発見した男と異なる路地に踏み込んだとき、カーシュナーは自分が囲まれていることに気が付いた。


 子供のカーシュナーは、大人たちを警戒するため視線が上へ偏り過ぎていた。

 同じ高さの視線。

 この区域に住み着いた子供たちに発見されていたのであった――。 

 ようやく連載を再開出来ましたが、あまりにも間が空き過ぎてしまったため、なかなか気づいてもらえないかと思っていたのですが、お読みいただけてよかったです(ホッ)


 一応何事もなければこのカーシュナーの過去編とも言うべきお話が終わるまでは、週一の土曜投降が出来ると思いますので、のぞいていただければ幸いです。

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