三国同時侵攻決着! (その2)
ヴォオス軍左翼は、イェ・ソン軍右翼との最初の衝突でこれを切り裂いた。
そして、まるで噛み砕き、呑み込むようにイェ・ソン軍を消化しながら、確実にその戦力差を覆していた。
左翼を率いるオリオンは、右翼を率いたジィズベルトのように、全体の指揮は取らず、始めから最前線にその身を置いていた。
切り裂き、分断しさえすれば、各千騎長とその配下の騎士たちの戦術理解度であれば、指示などなくともさらに細かく分断して各個撃破出来る。
そして、それ以降の指示は、戦場全体を見ているエルフェニウスが的確に出し、兵を操ってくれるはずだ。
オリオンはその背中をエルフェニウスに託し、選び抜いたわずか千騎のみ引き連れ、突破したイェ・ソン軍右翼の後方から、イェ・ソン軍の本陣を目指していた。
後詰の部隊がオリオンの部隊に気づいて襲い掛かるが、先頭を走るオリオンを止めることが出来ないため、部隊全体の馬足を鈍らせることすら出来なかった。
その後さらにもう一部隊を退け、さらに別の部隊に遭遇した時、敵部隊の後方から飛び出し、オリオンの部隊の側面に襲い掛かった部隊があった。
ツァガーンロー率いる狼部隊だ。
狼たちはオリオンたちではなく、その乗馬に狙いをつけて襲い掛かる。
これにはさすがに選りすぐりの騎士たちも狼狽する。
だが、狼狽を見せたのはヴォオス軍側だけではなかった。
予想外の狼部隊の出現に、驚きを見せたのはイェ・ソン軍の後詰の部隊も同様であった。
もしここで狼部隊とイェ・ソン軍の騎兵部隊が連携を見せていれば、オリオンは撤退を余儀なくされただろう。
それほどに狼部隊は騎兵部隊にとって脅威だった。
だが、イェ・ソン軍騎馬部隊は狼部隊が姿を現すと、怒りも露わに馬首を返してしまったのである。
後詰の部隊が不運にも遊牧の民であり、終わらない冬の最中に野生の狼による被害に苦しめられた部族の騎兵で編成されていたからだ。
もっとも、仮にこの場に残ったとしても、日頃狼に馴らされていない馬では、本能的な恐怖により恐慌状態に陥ってしまい、ヴォオス軍同様まともに制御出来なかったはずなので、ツァガーンローは味方の行動をまったく意に介さなかった。
むしろ足手まといでしかない自軍の騎兵部隊が退いたことで、ツァガーンローは戦いの場を広く使い、馬よりはるかに高い機動性を生かしてオリオンの部隊を翻弄した。
ツァガーンローの目的はオリオンたちの脚となっている馬だ。
当たり前のことだが、騎兵部隊は馬がいて初めてその真価を発揮する。
乗馬を失くした騎士など単なる歩兵に過ぎない。
まして敵陣深くに踏み込んだ状態で馬を失えば、攻めることも退くことも出来なくなり、孤立して各個撃破されて終わりだ。
にもかかわらず、あっさりと騎兵の命とも言える馬を放棄し、地上に降り立った者がいた。
オリオンだ――。
ツァガーンローは基本本隊から離れたさらに後方で狼たちと共に、サルヒグレゲンを守るために待機している。
そのため、イェ・ソン軍の背後を衝くために現れたヴォオス軍に対し、サルヒグレゲンを守る意味で対応しただけで、前線には一度も出ていない。
それ故、単騎特攻をかけたオリオンの実力を、ツァガーンローは情報でしか理解しておらず、また、その情報があまりにも荒唐無稽であったため、失態をごまかしたいがためのでまかせだと思い、真面目に受け止めていなかった。
だが、ツァガーンローは自分が被害者の立場に立って初めて荒唐無稽と思われた情報が、一切の誇張のない真実だったと思い知らされた。
地上に降り立ったオリオンに、狼たちは一斉に群がった。
狼の敏捷性は人間を上回る。
優れた騎士ならば、二、三頭を一度に相手取ることは出来るかもしれないが、十頭以上の複数の狼に囲まれてしまったら、本来対応しきれない。
だがオリオンは二刀の内の一本を逆手に構え、前後左右のあらゆる角度から、脚を、腕を、背中を、首を狙って襲い掛かってくる狼たちを、すべて一撃で倒してしまったのだ。
背後から襲い来る狼に目を向けることは一度もなく、まるで激しく踊るように回転しながら急所を一撃で切り裂き仕留める。
仲間を殺され怒り狂った狼たちが次々と襲い掛かるが、オリオンを仕留めるどころか慌てさせることすら出来ずに返り討ちに遭う。
そうしてツァガーンローが怒り狂った狼たちを再び制御下に収めるまでのごく短い間に、オリオンの周囲には三十頭以上の屍が転がることになった。
「人間業ではないな」
ツァガーンローは先に遭遇したシヴァのことを思い出しながら呟いていた。
(これ程の男が、二人もいるのか……。)
シヴァに続き、オリオンと遭遇したツァガーンローは、その常軌を逸した実力に対し、戦慄を覚えるとともに、あまりにも現実離れしてるため、呆れ返っていた。
それでいてツァガーンローは、無意識内にオリオンに対して一歩前へと踏み出す。
オリオンの周囲を囲んでいた狼たちが、冷静さを取り戻すと同時にオリオンの強さに対して本能的な恐怖を覚え、じりじりと後退したのとは対照的な動きだった。
呆れるほどの戦慄を覚えはしたが、それでもツァガーンローの精神は、恐怖に呑まれてはいなかったのだ。
一瞬サルヒグレゲンのもとへと戻るべきかと迷う。
だが、戻ったところでこの男はいずれツァガーンローの主であるサルヒグレゲンのもとに辿り着くだろう。
サルヒグレゲンもイェ・ソン軍幹部の武将たちに引けを取らないだけの武勇の持ち主ではあるが、この男と戦っては命はない。
ここで止めるべきだ。
ツァガーンローの中でオリオンと戦う口実が成立する。
本能は目の前の化け物じみた男と剣を交えたがっていた。
だが、サルヒグレゲンを守ることが第一の使命であるツァガーンローの理性が、本能に優先順位の第一位を許さなかったのだ。
この男をサルヒグレゲンに近づけてはいけない。
万が一サルヒグレゲンのすぐそばでこの男と戦い、敗れるようなことがあれば、サルヒグレゲンが逃げ切る時間的余裕はない。
だが、ここで戦い敗れれば、ツァガーンローの主はこの戦いそのものに見切りをつけ、戦場を離脱してくれるかもしれない。
そもそも、ツァガーンローにここで敗れるつもりはなかった。
全ては理性を説得するための言い訳に過ぎない。
それだけツァガーンローは自身の技量に自信があり、それはけして過信ではなかった。
狼たちの指揮を仲間に託し、ツァガーンローも馬を降りる。
そして狼たちの屍の中央に立つオリオンに歩み寄った。
ツァガーンローの行動は当然オリオンも察知している。
纏う百戦の気から、これまで相対して来たイェ・ソン軍幹部にまったく劣らない実力の持ち主たということがわかる。あるいはそれ以上か。
オリオンは素早く部下たちの狼に対する対応を確認した。
配下の騎士たちの約半数がオリオンに倣って下馬して狼に対処し、残りの半数が仲間の馬を管理しながら長槍で襲い掛かってくる狼たちを牽制していた。
指揮の必要を感じなかったオリオンは、意識をツァガーンロー一人に集中させた。
ツァガーンローは立ち止まるとオリオンを待った。
今オリオンがいる位置で戦いになると、狼たちの屍を踏みつけながら戦わなければならないからだ。
ツァガーンローの心情を察したオリオンが、狼たちの屍と避けながら歩み寄る。
それはオリオンが狼たちを単なる畜生と蔑まず、気高く戦った戦士として認めていたからに他ならない。
オリオンには、意味もなく戦士の屍を辱めるような下劣な趣味はなかった。
オリオンの意志はツァガーンローにも伝わった。
敵ながら技量だけでなく、品格も備わったオリオンという一人の人間に、ツァガーンローは素直に敬意を抱いた。
イェ・ソン軍にツァガーンローが敬意を抱くような人物は、国王のシイングドルジを含めて一人もいない。
敬うのはただ一人、主のサルヒグレゲンのみであった。
ツァガーンローは抜き放った双剣の一本を、オリオンに向けるのではなく、胸元に引き寄せると剣の腹を正面に向け、目の前で構えた。
オリオンが狼たちの亡骸に対して示してくれた配慮に対し、礼をもって応えたのだ。
これに対し、オリオンも同じく礼を返す。
そこには戦いを前に何を甘いことをなどという嘲りは微塵も存在しない。
ここで嘲笑うのは、戦いを私欲のために用い、殺人を愉しむ者たちだ。
戦い、人を殺す。
結果は同じであり、同じ結果に対して問われる罪が変わることはない。
だが、嗤う者には歯止めがなく、嗤わない者には歯止めがある。
前者はいたずらに弱者を虐げ、後者はむしろ無用な暴力を忌避する。
オリオンは目の前に現れた特殊なイェ・ソン軍の武将に対し、好感を覚えた。
これまで対して来たイェ・ソン軍の武将とは根本的に異なる。
他の武将にも卑劣な部分は見られなかったが、皆我が強く、弱者に対し無慈悲な部分が見られた。
死んだ部下(この場合は狼だが)を顧みたのは目の前の将だけだった。
「我が名はツァガーンロー。王族であらせられるサルヒグレゲン様に仕える者だ。我が主のため、ここでお主を討つ」
「我が名はオリオン。左翼をあずかるヴォオス軍の将軍だ。お主の主に興味はないが、国王の首は取らねばならん。ここは通らせてもらうぞ」
互いの名乗りが終わり、ツァガーンローが礼を解く。
オリオンも礼を解き、二人は互いに双剣を構えた。
次の瞬間、ツァガーンローはふらりと倒れたかと思うと、超低空軌道で地を這うようにオリオンとの間合いを詰めた。
まるで二足歩行の狼のごとき俊敏さで間合いを詰めたツァガーンローが双剣を薙ぐ。
オリオンは素早く飛び退いたが、驚くほど広いその攻撃範囲から逃れることは出来なかった。
左の脛当てが切り裂かれ、その下の皮膚も浅く切り裂かれる。
動きを阻害するような傷ではなかったが、三大将軍に加え、エルスバアトルまで加わった包囲攻撃でもまともな攻撃は受けなかったオリオンに、ツァガーンローは手傷を負わせたのだ。
それだけでツァガーンローの実力が知れるというものだ。
ツァガーンローは攻撃後剣を握ったまま両手をつき、狼そのもの動きでオリオンを追撃する。
普通の人間がツァガーンローと同じ動きをすれば、地面と接することになる指がボロボロになってしまうが、ツァガーンローの指にはまるで肉球のようなたこが出来ており、何の痛みも覚えなかった。
両足を薙ぎ払う攻撃が再びオリオンを襲う。
だが、今度は下がりつつ剣で攻撃を捌いたオリオンを捉えることは出来なかった。
ツァガーンローとしては足元を薙ぐ攻撃を、上へ飛んでかわすように仕向けたのだが、オリオンはその危険性を瞬時に見抜き、上ではなく後方に飛ぶことで回避した。
もし上へ飛んでいたら、ツァガーンローはさらに踏み込んでオリオンの真下に入り、身体を反転させて空中でかわすことの出来ないオリオンを股間から真っ二つにしていただろう。
ツァガーンローはこの変則的すぎる戦い方のせいもあり、余計にイェ・ソン軍ではその実力を正しく評価されなかったのだ。
だが、イェ・ソン軍での評価など求めないツァガーンローは、周囲の目など歯牙にもかけずその強さを磨いた。
そしてその実力は、ここまで個人としてイェ・ソン軍をまったく寄せつけなかったオリオンに肉薄する域に達していた。
ツァガーンローは休まずオリオンを攻め立てた。
今度は剣を振り回さず、恐ろしい速さで左右の突きをオリオンの脚元目掛けて繰り出してくる。
ツァガーンローの頭はオリオンの膝元くらいの位置にある。
その低く無理のある体勢を、踏み込んでいる片足だけで支え、小揺るぎもしない。
尋常ならざる足腰と体幹の強さがあって初めて出来る芸当だ。
オリオンも無理に受けようとはせず、さらに後退を続けながら両手の剣でツァガーンローの攻撃を捌き続ける。
不意にツァガーンローが水面に飛び込むかのように身を躍らせる。
足首を狙って一気に間合いを詰めて来たのだ。
虚を衝かれたオリオンは剣での防御が間に合わず、上体を残して足だけ後方にずらし、回避する。
だが、ツァガーンローの真の狙いは足首への攻撃ではなかった。
地面に潜れない以上、ツァガーンローは飛び込んだ勢いを受け止めなければ顔面から地面へ激突することになる。
そんなことになれば飛び込んだ勢いから頸椎を痛めかねない。
当然ツァガーンローにそんなつもりはない。
足首への斬撃は牽制で、オリオンが足首を引いた直後に手を着き、急停止して生まれた反動を利用し、オリオンに浴びせ蹴りを放っていく。
ツァガーンローのそれはもはや剣術ではなく、ミクニで盛んな武術と遜色なかった。
上体をおよがせた体勢にあるオリオンに回避する術はないかに見えた。
軌道は見事にオリオンの頭頂部を捉えている。
まともに入ればいかにオリオンといえども脳震盪は避けられない。
戦いの最中に意識を失えば、その一撃が致命傷でなくとも結果は同じだ。
オリオンの脳天を、ツァガーンローの踵が捉える寸前、オリオンは首を捻って直撃を回避する。
それ自体はツァガーンローも織り込み済みで、頭頂部への一撃を回避されたことに対して微塵の動揺も示さず、そのままオリオンの肩口目掛けて、踵で斬り落とそうとするかのような勢いで振り下ろした。
入ればオリオンの鎖骨は砕かれていただろう。
だが、オリオンは振り下ろされるツァガーンローの踵に速度をピタリと合わせ、つま先だけを軸に上体を捻り、ツァガーンローの一撃に手助けされるかのように身体を回転させて力を逃がし、見事に回避してみせたのであった。
これには攻撃を放ったツァガーンローも驚きを隠せなかった。
だが、のんきに驚いている隙を、オリオンは与えてはくれなかった。
回避のために身体を回転させた勢いを無駄にすることなく、そのまま斬撃を放ってきたのだ。
慌てて後方に飛び退って回避したツァガーンローは、自分の思い込みを修正した。
目の前の男は、将軍職にあるようだが、どうやらまともなヴォオス軍人ではないようだ。
剣を振って将軍にまでのし上がった男が、初見で自分の動きについて来るのは不可能だ。
体術に相当の時間を割いた者でなければ、少なくとも最後の浴びせ蹴りは入っていた。
それを目の前の男は回避するどころか直後に反撃に転じて来た。
始めから甘く見ていたわけではないが、ツァガーンローの警戒心は最大にまで引き上げられた。
斬撃をかわされたオリオンも、無理な体勢から強引に攻撃を放ったため、さすがに追撃は敵わず、ツァガーンロー同様距離を取って体勢を立て直した。
二人は右回りに円を描きつつ、徐々に距離を詰めていく。
これまで積極的に攻勢に出ていたツァガーンローであったが、オリオンがまともな剣士ではないとわかったため、かえってその手の内が読めなくなり、飛び込めなくなっていた。
両者の間合いが詰まる直前、不意に一頭の巨大な狼が、背後からオリオンに襲い掛かった。
「待てっ!」
ツァガーンローの口から咄嗟に制止の言葉が飛び出したが、一瞬遅かった。
宙に身を躍らせてしまった狼は、そのままオリオンの首筋に飛びかかっていく。
もちろん狼の不意打ちに気がついていたオリオンが、その攻撃を受けることはない。
振り返りもせず、後方に鋭い肘打ちを放つ。
その視線はツァガーンローを捉えたままだ。
肘は下から、狼の牙がオリオンの首筋に届く寸前喉に突き込まれた。
鈍い音と共に喉が潰れ、狼は悲鳴を上げることすら出来ずに大地に投げ出される。
ツァガーンローの冷静さは失われてはいなかった。
だが、それでも意思とは無関係に身体がオリオンへと向かう。
その不用意な動きを見逃すオリオンではなかった。
一瞬で間合いを詰めると二本の剣を雄牛の角のように構え、ツァガーンローの胸目掛けて突き出す。
大抵の相手であれば、この一撃で胸を貫かれ、勝敗は決していただろう。
だが、ツァガーンローは背中が地面と平行になるまで上体を逸らし、何とか回避してみせる。
それでも完全にはかわしきることが出来ず、オリオンの刃は皮鎧を切り裂き、ツァガーンローの胸に二筋の鮮血を走らせた。
ツァガーンローは回避する動作をそのまま攻撃に転じ、後方にそのままトンボを切りつつ、下からつま先でオリオンの喉を狙って右脚を蹴りあげた。
この動きを読んでいたオリオンは、首の一振りでかわすとその足を鋭く斬りつけた。
咄嗟に軌道を変えて脚を引いたおかけで斬りおとされはしなかったが、それでもツァガーンローはふくらはぎを深く切り裂かれてしまった。
片足だけでさらにもう一回転後方宙返りを行い、間合いを取ったツァガーンローは態勢を整えると、オリオンの追撃を迎え撃った。
両者の間に斬撃は存在しなかった。
左右の手に握られた剣先が、互いの急所を狙って恐るべき正確さと速さで繰り出される。
刺突の応酬だ。
互いの攻撃があまりに速過ぎて、剣を振って相手に斬りつける隙すらないのだ。
回避が間に合わず、傷を負った両者の間に血煙が舞う。
それでも両者の攻撃は止まらなかった。
手を止めた方が負ける。
二人は一度間合いを取り、戦いを仕切り直すことが出来ないほどその距離を詰めていた。
だが、互角の攻防も長くは続かなかった。
右のふくらはぎを切り裂かれたツァガーンローは踏ん張りが利かない上に、オリオンよりもはるかに多く血を流しているため、体力が続かない。
冷静にツァガーンローが間近に迫った死を受け入れようとした時、不意にオリオンが体勢を崩した。
オリオンに喉を潰された狼が、呼吸もままならないというのに、いつの間にかオリオンの背後に迫り、その足に喰らいついたのであった。
ツァガーンローの攻撃を捌きつつ、オリオンが狼に剣を振り上げる。
「待ってくれっ!」
逆転の好機であるにもかかわらず、ツァガーンローは攻撃の手を止め、オリオンに懇願していた。
それで手を止めるようなオリオンではないが、この時だけは別だった。
自分の足に牙を立てる狼が、身重の身体であることが一目で見て取れたからだ。
オリオンの中にためらいが生まれる。
その隙を、ツァガーンローは衝かなかった。
オリオンが振り上げた剣を引くと、ツァガーンローが狼に飛びついてその牙を引き剥がす。
ツァガーンローは腰に下げた袋から何かの粉末を取り出すと、それを無理矢理狼の鼻づらにこすりつけた。
嫌がり力なく首を振った狼であったが、すぐにその身体から力が失われ、意識を失う。
強力な催眠効果のある薬を使ったのだ。
「すまん。戦いに水を差した」
頭までは下げないが、戦いの最中にツァガーンローは謝罪の言葉を口にした。
「何故連れて来た?」
オリオンが身重の狼に視線をやりながら尋ねる。
「故郷に置いて来たはずだった」
ツァガーンローに答える義理はないが、情けを掛けてもらった借りを返そうとでも思ったのか、素直に答える。
「我が部族の戦士は成人と同時に一頭の狼と特別な絆を結ぶ。この狼と俺は、親兄弟の絆よりも強い絆で結ばれている。この狼がこの戦場に現れたのは今この瞬間だ。俺を追ってたった一頭でここまで来てしまったようだ」
そう言うとツァガーンローは一つため息をついた。
「要らぬ話をした。ケリをつけよう」
そう言うとツァガーンローは双剣を構えた。
オリオンに否はない。
両者は再び激突し、激しく斬撃と刺突を応酬し合った。
足を止めて斬り合っては勝機がないと判断したツァガーンローが間合いを広げつつ、攻撃の選択肢を増やすが、その増え方はオリオンの方がはるかに多彩だった。
両者の二本の突きが同時に咬み合い、跳ねあがる。
二本の剣が宙に舞い、ツァガーンローは剣を失っていた。
自分と目の前の男との差はほんの僅かだった。
だが、それはけして埋めようのない差でもあった。
ツァガーンローはその事実を素直に受け入れられた。
それだけの強さが目の前の男にはあり、人生の最後にこれほどの男と剣を交えることが出来たことが誇らしくすらあった。
オリオンの跳ね上げられた剣がその軌道を変える。
ツァガーンローは死をもたらす二本の刃を、無駄にかわそうとはせず、堂々と受け入れた。
自然と目が閉じられ、最後の痛みを待ち受ける。
だが、ツァガーンローに痛みは訪れなかった。
代わりにその耳に、オリオンの剣を受け止める激しい金属音が飛び込んでくる。
目を開けたツァガーンローの目に飛び込んで来たのは、守るべき主であるはずのサルヒグレゲンの背中だった。
「サルヒグレゲン様っ!」
ツァガーンローが思わず悲鳴のような叫びを上げる。
その叫びで相手の正体を悟ったオリオンが、一度距離を取り、様子をうかがう。
「何故このようなところにっ!」
一度覚悟した死を、絆を結んだ狼によって救われ、その上で受け入れた二度目の死を、今度はこの場にいるはずのない主によって救われたツァガーンローは完全に混乱していた。
何をどうしていいのかわならなくなり、意味もなく周囲を見回す。
オリオンと対峙していたサルヒグレゲンが、あっさりと構えていた剣を投げ捨て、両手を上げる。
「サルヒグレゲン様っ!」
あまりに予想外過ぎる出来事に、ツァガーンローはただ主の名を呼ぶばかりだった。
「何度も呼ぶな。ちゃんと聞こえている」
混乱するツァガーンローをからかうように、サルヒグレゲンが言葉を返す。
「ヴォオス軍の将軍よ。私はイェ・ソンの王族サルヒグレゲン。お主に投降を申し入れる」
「サルヒグレゲン様っ!」
「しつこい」
サルヒグレゲンが上げていた片方の手でツァガーンローの頭に手刀を入れる。
鈍い音がするほどの勢いで叩き込まれた手刀に、ツァガーンローが頭を抱える。
ツッコミのような間で繰り出されたが、その威力から察するに、さすがに三回目はイラッときたようだ。
「条件など出せる立場ではないのだが、この者たちには今すぐ手を引かせるゆえ、見逃してやってはもらえぬだろうか」
「何を仰られるのですかっ!」
ようやく混乱から解放されたツァガーンローがサルヒグレゲンを背に庇いながら抗議する。
「ツァガーンロー。一日遅かったのだ。イェ・ソンがヴォオスとの戦に勝つには、昨日の内に勝負を決めてしまわねばならなかった」
「……数では我が軍がまだ勝っております。諦めるには早過ぎます」
サルヒグレゲンの言葉を、ツァガーンローが否定する。
だが、言葉を返すのが一拍遅れた時点で、その言葉をツァガーンロー自身も信じていないことが、サルヒグレゲンには筒抜けだった。
「最後にこの戦場に現れたヴォオス軍の将。あの男が加わった時点で、戦いの均衡はイェ・ソンからヴォオスに傾いたのだ。目の前のこの将軍一人でも手に負えぬのに、それが二人だ。実際に戦ったお前の方が、本当はよくわかっているはずだ」
「それでも、サルヒグレゲン様の身柄を引き渡す理由にはなりませんっ! 我ら全員が命を懸けて盾となれば、サルヒグレゲン様が撤退する時間ぐらいは稼げますっ!」
サルヒグレゲンはツァガーンローの言葉にため息をついた。
「逃げてどこへ行けというのだ」
「…………」
言葉ほど深刻さを感じさせない声で、サルヒグレゲンはツァガーンローの言葉を封じた。
サルヒグレゲンだけに限らない。この戦に加わったイェ・ソン人に、負けて帰れる場所は存在しない。
そのことを理解しているが故に、ツァガーンローは何も言うことが出来なくなってしまったのだ。
「逃げて行く当てがないのは我々も一緒です。ならばせめて最後までお供させてください」
「お前たちは故郷へ帰れる」
「帰ってどうしろと仰るのですかっ! サルヒグレゲン様の庇護を失った我が部族に、未来などありません……」
遊牧民が大多数を占めるイェ・ソンにおいて、狼を使った狩猟を生業とするツァガーンローの部族は、迫害の対象となっていた。
それをサルヒグレゲンの一族が庇護することで今日まで永らえて来たのだが、もし庇護がなければツァガーンローの一族は、とうの昔に他部族によって滅ぼされていた。
そしてこの場でサルヒグレゲンを失うということは、遠くない未来にツァガーンローの部族が滅ぼされることを意味する。
「ツァガーンローよ。私もあっさりと諦めたわけではない。それなりに状況に応じて策を巡らし、イェ・ソン軍を勝たせようとした。だが、敵軍師の粘りは私の想像以上だった。そして決定的な結果をもたらす増援の到着までヴォオス軍を維持し続けた。イェ・ソンはこの地で滅びる。イェ・ソン軍がではなくイェ・ソン国がだ」
サルヒグレゲンの言葉に、ツァガーンローが青ざめる。
「だからこそ、お前たちは故郷に帰れるし。滅ぼされることもないのだ」
一瞬その言葉の意味が理解出来なかったツァガーンローであったが、次の瞬間にはサルヒグレゲンの真意を理解した。
それと同時にその考えの深さと冷徹さに、改めて主の偉大さを思い知らされる。
「勝ってハウデンベルク地方を奪えれば一番良かったのだがな。駄目であれば人減らしに徹するのみだ。この地でイェ・ソンの戦士たちは死に、部族の守り手であり、何より働き手である男たちを失うことになる部族は滅びるだろう。そして国を形作っていた多くの部族を失うことになるイェ・ソンは、これまでのイェ・ソンの形を維持出来なくなる。イェ・ソンは滅びるが、その分食料を奪い合う必要はなくなり、ごく一部の部族だけは生き残れる。私はお前たちが生き延びられればそれで十分だ」
この言葉には部外者でもあるはずのオリオンも驚かされた。
サルヒグレゲンは始めから勝つための方策と、敗れた時の方策を用意していた。
そして、その敗れた時のための方策が、国が滅びるほどの規模で行う口減らしだったのだ。
これほどの覚悟を持ってこの戦に臨んでいたイェ・ソン人は、間違いなくサルヒグレゲン一人だったはずだ。
「なればこそ、サルヒグレゲン様は生き延びるべきですっ! 生きてイェ・ソンを再興してくださいっ!」
「お前たちの部族を敵視し、迫害するイェ・ソンをか?」
サルヒグレゲンが返した皮肉はあまりに辛辣すぎた。
ツァガーンローはサルヒグレゲンに翻意を促すために言葉を探したが、イェ・ソンという国の厳しい環境が、サルヒグレゲンの皮肉の正しさを改めてツァガーンローに思い知らせただけであった。
「それに、私はもうイェ・ソンに帰りたくないのだ。イェ・ソンの空気は私には合わん。誰が悪いわけではなく、その厳しい自然環境から形成される国の在り様であることはわかっている。だが、それでも私はイェ・ソンの旧態依然とした生活に固執し、変化を嫌うその気質が嫌いなのだ」
だからこそ、あなた様は我が部族を擁護してくださったのですと、ツァガーンローは心の中で呟いた。
それを言葉にしなかったのは、サルヒグレゲンがそれを望んではいないとわかっていたからだ。
「オリオンといったな。ヴォオスの将軍よ」
ツァガーンローはオリオンに話しかけると、サルヒグレゲン同様双剣を投げ捨てた。
「俺も投降する。部族の者たちにも今すぐ手を引かせる。俺の命で仲間たちを見逃してはもらえまいか」
「いいだろう」
オリオンは即答すると自身も剣を鞘に納める。
ツァガーンローは懐から小さな笛を取り出すと吹き鳴らした。
その音はオリオンの聴覚をもってしても聞き取ることの出来ないものであったが、ヴォオス騎士たちと戦っていた狼たちは、即座に反応した。
戦場に散っていた仲間の一人が慌てて駆けつけ、状況を把握出来ずに狼狽する。
ツァガーンローが手短に状況を説明すると仲間の男は対応を渋ったが、サルヒグレゲンに頭を下げられると、まるで罰を受けたかのように慌てて言いつけに従った。
その反応だけでも、サルヒグレゲンが部族の者たちに心から敬わられていたことがわかる。
狼たちが退いたことで騎士の一人がオリオンに向かって来たが、オリオンは身振りで新手の騎兵隊が現れたことを示し、そちらに対処するよう指示を出して追い払う。
その行動を怪訝に思ったサルヒグレゲンであったが、余計なことは言わず、黙ってオリオンの対応を待った。
「お主らの申し出はわかった。だが、それでいいのか? 投降したからといって命が保障されるわけではない。ヴォオスは一方的に侵略を受け、ハウデンベルク城塞を陥落され、犠牲者も多く出している。王族である以上戦争責任の追及は避けられんぞ」
「だからこそだ。誰かが責任を取らねば、この戦は終わらん。明確な終わりを示さねば、ヴォオスは王都まで復讐のために攻め込み、残り僅かなイェ・ソン人たちを根絶やしにしてしまうだろう」
イェ・ソンという国をすでに諦め、はるか以前の、神々の時代のころのように、部族単位でイェ・ソン人を残したいサルヒグレゲンにとって、最も避けたいのがヴォオスの逆襲であった。
だが、この地で壊滅的打撃をイェ・ソンに与えれば、終わらない冬からの復興に当てたい費用を戦費に当ててまでイェ・ソンに攻め込むことはなくなるとサルヒグレゲンは見ている。
終わらない冬によって国力が干からびたイェ・ソンから奪える物などない。損得勘定を働かせられるくらいにまでヴォオス人たちの溜飲を下げることが出来れば、サルヒグレゲンの目的は達せられる。
「なるほど。だが、それなら国王の首一つで済む話だ」
「そうかもしれん。だが、事実私はここにいる。責任を負わずに済ますことは出来まい」
サルヒグレゲンの言葉に、オリオンはうなずいた。
そのことはツァガーンローも理解しているようで、サルヒグレゲンに殉じて死ぬ覚悟は出来ているようだ。
サルヒグレゲンとしてはツァガーンローの命も自分の命で贖いたいところなのだが、これ以上言っても聞き入れはしないと悟り、諦めている。
「取引しないか?」
オリオンから予想外の提案を受け、サルヒグレゲンは眉をしかめた。
「お主らをこの場で処分したことにする。代わりに名も身分も捨て、お主らの力を貸してはもらえんだろうか?」
「王族であるサルヒグレゲン様に身分を捨てろというのかっ!」
オリオンの提案にツァガーンローが怒りを示す。
「その身分故に、お主の主は死なねばならんのだ」
「…………っ!」
ツァガーンローは言い返したかったが、事実の前には返す言葉はみつからなかった。
「面白い提案だが、そんな真似が許されるのか? いくらヴォオス軍の将軍でも、そんな勝手が通るとは思えんが?」
ツァガーンローと違い、とうの昔に腹を括っているサルヒグレゲンは、むしろオリオンの提案を面白がっていた。
「確かに勝手は通らん。だが、馬鹿正直に通す必要もない。お主がイェ・ソンの王族でなくなれば、そもそも無理に通さなくてはならないような勝手は生じないことになる」
不機嫌なまま固まってしまったかのようなその表情を微塵も崩さず、オリオンが屁理屈としか言いようがないことを言い放つ。
ツァガーンローは呆気に取られ、サルヒグレゲンは腹を抱えて笑い出す。
「お主、まともな軍人ではないな」
本気で笑ったのか、目じりに溜まった涙を拭いながら、サルヒグレゲンが言う。
「この戦が初陣だ」
オリオンの答えに一瞬冗談かとサルヒグレゲンは疑ったが、その不機嫌な顔がどこまでも真面目だったため、その言葉が真実なのだと一拍遅れて理解した。
そして再び笑い出す。
「初陣で大戦に自軍を勝たせるか。我らで止められるような男ではなかったわけだ」
サルヒグレゲンは笑うが、逆にツァガーンローは不機嫌に黙り込んだ。
どれ程の実力者であろうと、初陣の者に敗れたのだ。腕に覚えがある分余計に腹立たしいのだろう。
「だが、いくら身分を捨てるとはいえ、さすがに昨日の今日でヴォオス軍に加わるわけにはいくまい。こちらがかまわなくとも、そちらの仲間たちが我らの存在を受け入れはすまい」
今回のイェ・ソン軍の侵攻で家族や戦友を失った者たちは大勢いる。いくら身分をごまかそう、イェ・ソン人の特徴をごまかすことは出来ない。特にサルヒグレゲンは王族特有の独特な秀麗さがある。
今日の恨みを忘れろと言ったところで、おいそれと受け入れられるものではない。
「その心配はない。お主らにはゾンに向かい、ある男の助けになってもらいたい」
「ゾンっ!」
「なるほど」
イェ・ソンとは真逆に位置する国名を出されたツァガーンローが驚きの声を上げるの対し、サルヒグレゲンはむしろオリオンの言葉に納得を示した。
今回の侵攻があったからといって、ヴォオスが国内からイェ・ソン人を追放するようなことはないだろう。
北の大陸隊商路はイェ・ソンを横断している。
大陸隊商路の交差点であるヴォオスがその閉鎖につながりかねないイェ・ソン人追放を行うわけがないのだ。
だが、前述のとおり両国の存亡に関わるほどの大戦を演じた直後では、いかにヴォオスが広かろうと、イェ・ソン人として目立つ風貌の二人が身を置ける場所はない。
他国へと送ろうというオリオンの考えはむしろ当然と言えた。
「私に何をさせたい? 陛下ほどの価値はなくとも、私の身柄はお主にとって大きな手柄となるはずだ。それを捨ててまで私を生かすほどのことなのか?」
自分の命がかかっているにもかかわらず、サルヒグレゲンは疑問を口にせずにはおれなかった。
これによってオリオンが考えを変えることになれば、サルヒグレゲンは間違いなく公開処刑させることになるだろう。
だが、そんなことはとうの昔に覚悟し、受け入れたことだ。
生き延びられる可能性が出て来たからといって、その覚悟が揺らぐことはない。
「これまでの大陸全土の常識を変えようとしている男がいる。その手始めとして、その男はゾンを変えようと画策している」
「ゾンを変える? ヴォオスはゾンを征服しようとでもしているのか?」
ツァガーンローが訝しげに尋ねる。
ヴォオスとゾンの確執は隠しようもなく知れ渡っている。
ヴォオス人がゾンで何がしかの企みを進行していると聞けば、戦を連想するのはごく自然な発想だった。
「いや、ヴォオスは一切関与していない。あくまでその男個人の計画だ。だが、多くの者たちがこの男を支援しようと動いているのは事実だ」
「お主もその一人というところか?」
サルヒグレゲンが尋ねる。
オリオンはその問いに、素直にうなずいた。
「ならばお主自身が手を貸せばよかろう」
ツァガーンローが他意なく尋ねる。オリオンの実力は戦ったばかりの自分が一番よくわかっている。サルヒグレゲンの身柄という大手柄を迷いなく捨てられるほどその男に肩入れしているのなら、自分自身がその男のもとへ駆けつければいいと単純に考えたのだ。
オリオンにとってのその男という存在が、ツァガーンローにとってのサルヒグレゲンに当たるのであれば、ツァガーンローは部族すらも捨てて駆けつけるからだ。
「そうしたいのは山々なのだが、奴にはヴォオスの守りを託されている。奴の目的の土台となるのがヴォオスだ。その土台が揺らいでは、目的遂行どころではなくなってしまう。そう言われてはヴォオスを放り出して奴のもとへ合流することも出来ん。正直な話、ヴォオスのことなど俺にとっては奴を支援するついでみたいなものだ」
「……さすがにそれは言い過ぎではないか?」
イェ・ソン人であるツァガーンローの方が、オリオンの考え方に眉をひそめる。
冗談ではなく本気で言っているのがはっきりと伝わってくるからだ。
「お主ほどの男にそこまで言わせるその男の目的とは何だ?」
サルヒグレゲンの瞳に、隠し切れない好奇心の光が宿る。
「この地上から奴隷制度を失くすことだ」
「出来るわけがないっ!」
オリオンの言葉に、反射的に声を上げたのはツァガーンローであった。
ツァガーンローの反応はごく当たり前のものであり、オリオンも気を悪くした様子はない。
「なるほど。だからゾンなのか」
ここでもサルヒグレゲンは的確な洞察力を示した。
表面上は冷静に見えるが、サルヒグレゲンは内心でその無謀な試みを面白いと感じている。
「大陸の奴隷市場に大きな影響力を持つゾンを攻略しない事には、その無謀な目的は一歩たりとも前へは進まないだろう」
目的自体が無謀の極みなのだが、その無謀を敢えて実現しようと策を練るのであれば、サルヒグレゲンもまずゾンの攻略から着手する。
「その男は正気なのか?」
サルヒグレゲンは敢えてそう尋ねた。
「正気なわけがなかろう。まともな人間はそんないばらの道を行こうとはしない」
オリオンの回答は聞きようによってはただの批判にしか聞こえない。表情が常に不機嫌に見えるので余計にそう聞こえる。だが、その意図をサルヒグレゲンが聞き違えることはなかった。
「だからこそ、お主のような変わった男が助けになると考えたのだ」
「貴様っ! サルヒグレゲン様に対して変わった男とは何だっ!」
オリオンの物言いにツァガーンローが腹を立てる。
「配下の者を身を挺して助けるような王族が、変わり者でなければ、他になんだというのだ?」
あまりに率直過ぎるオリオンの問いかけに、ツァガーンローが言い返そうとするが、それを遮るようにサルヒグレゲンは笑った。
「確かに。部下を身を挺して助ける王族など、王族とは言えんな」
そう言って再び笑い出す。
「だが、少し違うな。ツァガーンローは私のために働いてくれてはいるが、部下ではない」
これに対して戸惑ったのはオリオンではなく、ツァガーンローの方であった。
「彼は私の数少ない友人だ。たとえ王族であろうと、友を助けるのは当然だ」
この言葉にツァガーンローは言葉もなく立ち尽くし、オリオンはニヤリと笑った。
「そろそろ答えを聞こう。俺にはまだシイングドルジの首を取るという仕事が残っている」
さりげなく大胆なことを言いながら、オリオンは回答を求めた。
「もし断ったら?」
「これは俺の個人的な提案に過ぎない。断るのであれば、ヴォオス軍の将軍として、先程の取引に応じるだけだ。もっとも、その男にお主を置いて故郷に帰るつもりはないようだがな」
「当然だ」
ツァガーンローが胸を張って答える。
サルヒグレゲンは苦笑するしかなかった。
「引き受けよう。せっかくすべてのしがらみが断たれるのだ。イェ・ソンから出られることはむしろありがたい。それに、この頭の固い友人を救うためには、死ぬわけにはいかないからな」
そう言ってサルヒグレゲンはツァガーンローの頭に手刀を入れた。
今までにないサルヒグレゲンの気安い対応にどう反応すればいいのかわからないツァガーンローが柄にもなくおろおろする。
「では交渉成立だ。お主らの命は俺が保証する。それと、撤退するお主の部族にはけして追手は出さない。どこか適当な場所に隠れていてくれ。お主ら二人、これ以後ここで死んだことになるのだからな。ヴォオスを出るまでは不用意な動きは慎んでくれ」
「わかった」
戦いに敗れ、死を覚悟したツァガーンローからすれば、これは破格の条件だ。何よりサルヒグレゲンの命が助かる。
故郷のことは気になるが、サルヒグレゲンだけにすべてを背負わせて故郷に帰ったりすれば、無事を喜ばれるどころか部族中の怒りを買い、ツァガーンローは部族から追放されてしまうだろう。
これからは他部族に怯える必要がなくなるのだ。
故郷のことは仲間たちに任せ、自分は誠心誠意サルヒグレゲンに仕えるだけであった。
「お主はこのまま我らが逃亡するとは考えないのか?」
サルヒグレゲンの問いかけに、ツァガーンローが驚きを示す。
死を受け入れたおかげでオリオンが提示した条件が特別に思え、その可能性を失念していたからだ。
本気なのかと主の顔色をうかがう。
「その時はその時だ。本来お主に投降に際し条件を提示する権利はない。そしてその条件はヴォオス軍人としては受け入れられないものだ。あくまで俺個人の譲歩として受け入れたにすぎん。それを反故にするというのであればヴォオス軍の将として当前の対応をするだけだ」
そう言うとオリオンは軍馬を指笛で呼び寄せ、ひらりとその背に跨った。そして、サルヒグレゲンの反応を待たずに部下たちの後を追う。
そもそも戦はまだ決着を見ていないのだ。
「陛下の下にはジャンチブウゲがいるっ! 奴は識者であると同時に呪術師でもあるっ! 何をしてくるかわからんっ! けして油断するなっ!」
急速に遠ざかるオリオンの背中に、サルヒグレゲンはそれだけ忠告した。
了解の印にオリオンが軽く片手を上げる。
事の重大さがわかっているのか怪しい反応であったが、忠告を受けてなお後れを取るようであればそれはオリオン自身の責任だ。
その時は取り引きはなかったことになり、サルヒグレゲンとツァガーンローは何の制約もなく解放されることになる。
もっとも、そんなことには万に一つもならないことを、サルヒグレゲンは直感で理解していた。
「つまり、裏切るのなら部族諸共滅ぼしてやるということか。どうする、ツァガーンロー?」
いきなり話題を変えて、サルヒグレゲンがいたずら小僧のような笑みを浮かべて尋ねる。
オリオンが最後に残した言葉の意図を、サルヒグレゲンは正確に理解していた。
「裏切りには死を。あの男なら必ずそうするでしょう。取引だけを聞けば甘い男のように思えますが、あの男からは武人とは違う厳しさが感じられます。裏切りは我々の命だけでなく、故郷の仲間たちの命まで失う危険性が極めて高いでしょう」
問いかけに答えるツァガーンローの顔は、サルヒグレゲンとは対照的に真剣に引き締められていた。
報復に際し一切の容赦を示さないオリオンの姿が幻視出来たからだ。
「その通り。そんなつまらない真似をするくらいなら、始めから奴との取り引きを断り、大人しく死んでいればいいのだ。そうすれば、部族の者たちは救われたはずだ。あの男を裏切るということは、すべてを失うことを意味する」
少しだけサルヒグレゲンも表情を引き締めてうなずく。
「あれだけの男に見込まれたゾンにいるという男は一体どのような男なのでしょうか?」
ツァガーンローは好奇心ではなく警戒心を示しながら尋ねた。
「一言で言うなら、大うつけだろう」
サルヒグレゲンの答えに、ツァガーンローが困ったように顔をしかめる。大うつけにサルヒグレゲンの将来を託すわけにはいかないからだ。
「だが、この私が力を貸すに相応しい男であれば、これまで窮屈で不愉快でしかなかった私の人生も、少しは面白味のあるものに変わるかもしれん」
そう言ってサルヒグレゲンは、これまでツァガーンローが一度も見たことのない表情で笑った。
それは、皮肉の要素が一切含まれない、まるで純粋な少年のような、明日を夢見る者だけが持つ笑顔であった。
ツァガーンローは敗れたことでサルヒグレゲンがイェ・ソンという楔から解放されたことに皮肉を感じるとともに、素直な喜びでもって主の笑顔を見つめたのであった――。
あと一話って言ったじゃん!
終わってないじゃん!
銀〇のパクリじゃん!
と思われた方、それは早とちりです。
ちゃんと終わったのですが、ちょ~っと長くなり過ぎてしまい、読んでくださる皆様に負担をかけてしまうので、切れそうなところで話を分けさせていただいた次第であります。
切ったついでに若干文章を修正しておりますので、(その3)の方は修正が終わり次第投稿いたします。
今日中には投稿いたしますので、少しお待ちください。
では、(その3)のあとがきでっ!




