逆転劇!
ワイデルウォメルの野での初戦を終えたヴォオス軍の本陣では、軍師を務めるエルフェニウスが、今日の戦果を受け、ため息をついた。
五千もの兵を一戦でもって失ったイェ・ソン軍がその結果に表情を曇らせるのはわかるが、五千もの兵力を奪ったヴォオス軍側も表情を曇らせるのは、危険な兆候であった。
「イェ・ソン軍にこれ程良将が揃っているとはな……」
眉をしかめてエルフェニウスが呟く。
当初の計算では、今回の策でイェ・ソン軍左翼を五千削れれば上出来と考えていた。
それを踏まえれば十分な戦果だったと言えるのだが、イェ・ソン軍左翼の崩れ方は、エルフェニウスが狙った以上の崩れ方だったのだ。
グユククルクが犯した失策は、本来であれば左翼の約半数である一万もの兵士が、致命的打撃を被りかねない程のものであった。
帰還したグユククルクをダグワボルドが容赦なく処断しようとしたのもうなずけるだけの失策だったのだが、その失策が左翼のもう一人の将、バトゥスレンによって半分の被害に抑えられてしまったのだ。
せめてグユククルクだけでも討てていれば十分な戦果と言えたのだが、明日以降もグユククルクという勇猛な武将の脅威は続くことになってしまった。
このあたりも、サルヒグレゲンの存在がエルフェニウスの足を引いたと言えた。
サルヒグレゲンがいなければ、取り逃がしたグユククルクを、イェ・ソン軍が始末してくれたからだ。
「私が奴を逃がしてしまった。すまない」
そう言ってジィズベルトが頭を下げる。
「いや、それはジィズベルト卿の責任ではない。むしろ的確な判断だった」
ジィズベルトの謝罪に対し、エルフェニウスは首を横に振った。
「あのままグユククルクを討つことにこだわり、乱戦を解かずに戦いを維持していたら、イェ・ソン兵を五千討つ代わりに、ヴォオス兵を五千失うことになっていたはずだ」
もしそうなっていたら、エルフェニウスの策はイェ・ソン軍ではなく、ヴォオス軍の寿命を削ることにしかならなかっただろう。
被害が同数でも、被害率を計算するための分母が根本的に異なる。
数で倍するイェ・ソン軍と同数の被害ということは、被害率で言えば倍の被害を出したということになるからだ。
「良将に率いられた軍は、個人の実力以上の働きをみせる。ただでさえ数で倍するイェ・ソン軍に、兵を生かす指揮を執られては、状況の変えようがない」
戦果を素直に喜べないのはアウグステインも同様だった。
イェ・ソンを力で手に入れた国王シイングドルジと、その右腕で、イェ・ソン最強を謳われるトルイゾリグを負傷で欠く状況でこの揺るぎなさだ。
ボルストヴァルト軍は今日一日よく耐えたが、アウグステインには、有効な攻略の糸口が見い出せないでいた。
「大きく崩す必要はありません。今日の仕掛けはワイデルウォメルの野が戦術を駆使しやすい土地であるという印象を、イェ・ソン軍に強く植えるけることが目的でもありました。固く守り、時間を稼ぐことが我々にとって重要なのです。むしろ敵兵力を大きく削ぎ過ぎることは、ある意味イェ・ソン軍を助けることにもなります」
「食糧だな」
エルフェニウスの言葉に答えたのは、オリオンであった。
イェ・ソン軍はそもそも食料危機を脱するためにヴォオスに侵攻した。
老いた軍馬五万頭を潰し、食料に変えたが、十万もの兵を長く養うことは出来ない。
イェ・ソン軍は五千の兵士を失ったが、五千人分の食糧負担が軽減したと見ることも出来るのだ。
「こちらは兵数が不足し、向うは食料が不足している。そうだな。正面からの戦いに勝つ必要はない。徹底的に守り抜いて、イェ・ソン人共が干上がるのを待つしかないな」
「ですが、それはイェ・ソン軍も承知しております。明日からの攻撃は熾烈さを増すことでしょう」
エルフェニウスの言葉に、アウグステインがうなずく。
「正面からの圧力であれば、我らボルストヴァルト軍が受け止めてみせる。問題は……」
「イェ・ソン軍が予想外の攻撃を仕掛けてきた場合でしょう。ですが、ここはワイデルウォメルの野です。イェ・ソン軍が策を巡らせることを止めることは出来ませんが、こちらの策を止める手立てもありません。向こうが余計なことを考えている暇がない状況に追い込んでやれば、何の問題もありません」
アウグステインは言葉を濁して後をエルフェニウスに引き継ぎ、受けたエルフェニウスはしっかりとそれに答えてみせた。
「今度は何をすればいい?」
ジィズベルトが問いかける。
「今度は……」
問われたエルフェニウスは即座に次の策の説明に入ったのであった――。
◆
一夜明けたヴォオス軍の布陣は、昨夜とは異なるものとなっていた。
この日も朝霧に包まれ、イェ・ソン軍は霧が晴れるまで行動を制限されたのに対し、ワイデルウォメルの野を把握しているヴォオス増援軍は、イェ・ソン軍をボルストヴァルト軍に任せ、濃い霧の中を泳ぐように移動していた。
霧が晴れると同時に驚くほど近くまで接近していたボルストヴァルト軍を発見したイェ・ソン軍は慌てた。
ただそこにいるだけではなく、すでに走り出し、突撃態勢に入りつつあったのだ。
軍馬と騎士を合わせると、倍以上に質量が異なるボルストヴァルト軍の突撃である。
まともに受けきれるような防御力は、イェ・ソン軍の重装騎兵にはない。
慌ててイェ・ソン軍も軍馬を走らせるが、統率を欠いた迎撃は、むしろ被害を拡大させただけだった。
先手を取ったボルストヴァルト軍であったが、その後のイェ・ソン軍の対応は冷静だった。
イェ・ソン軍らしからぬ守りの姿勢に、最初の突撃で得た勢いも徐々に吸収されてしまう。
ボルストヴァルト軍がイェ・ソン軍の反撃に神経を張り詰める。
だが、意外なことに、余力があるにもかかわらず、イェ・ソン軍は反撃に出ては来なかった。
昨日とは逆に、今日はイェ・ソン軍が膠着状態を狙ってきたのだ。
アウグステインはイェ・ソン軍をしっかりと受け止めつつ、敵の策士が動いたことを悟った。
昨日のままであれば、イェ・ソン軍は間違いなく今日も重装騎兵による力押しで攻めて来ただろう。
これまで大陸最強とも謳われてきたその破壊力に、イェ・ソン軍は絶対の自信を持っていた。
その自信を正面からぶつかり揺るがしたボルストヴァルト軍が目の前にいるのだ。イェ・ソン人の性格を考えれば、退くことは出来ないはずだ。
だがイェ・ソン軍はその矜持を捨て、ボルストヴァルト軍の封じ込めに出て来た。
それは戦いの主役の座を、軽装騎兵に譲ったことを意味する。
何の策もなしにそんな真似をするなどあり得なかった。
サルヒグレゲンは昨夜の発言とは裏腹に、重装騎兵の指揮をダグワボルドに一任していた。
ただし、ボルストヴァルト軍の封じ込めが最低限の条件となっている。
それ以上に状況を好転させることが出来た場合に限り、状況に応じた判断が許されている。
これまでのダグワボルドであれば、何が何でもボルストヴァルト軍を追い込み、自分の実力をサルヒグレゲンに見せつけようとしただろう。だが、今回はボルストヴァルト軍の封じ込めに集中し、それ以上余計なことはしようとしなかった。
昨日ダグワボルドはサルヒグレゲンに泳がされた。
確かに指摘の通り、不慣れな地形であるにもかかわらず、正面から正直に攻め過ぎたかもしれない。
だが、数で倍するイェ・ソン軍は、策を弄するよりも数の利を最大限に生かすべきなのだ。
敵の伏兵がダグワボルドの予想を超えた位置から現れ、左翼を崩されたのはまぎれもない事実ではあったが、この地に関して知識がないのはサルヒグレゲンも同様だ。
事実を盾に反論を封じられてしまったが、仮に昨日サルヒグレゲンが全体の指揮を執っていたとして、はたしてヴォオス軍の伏兵を見抜き、防ぐことが出来たかはあやしいところだ。
指揮権を持って行ったのだ。
その実力が口先だけではないと証明してもらおうと、ダグワボルドは考えていた。
今日はダダグワボルドがサルヒグレゲンを泳がす番だった。
その上で、サルヒグレゲンが得意の舌先で自身の失態を責任転換出来ないように、ダグワボルドは必要とされたことをこなし、それ以外のことは一切行わないように指揮を執っているのだ。
両軍の主力である重装騎兵同士の戦いが膠着状態に陥ったことで、勝敗は軽装騎兵同士の戦いにゆだねられた。
そして昨日と打って変わって、今日はまだ一度も姿を見せていないヴォオス増援軍は、エルフェニウスの指示により、イェ・ソン軍を襲撃するべくワイデルウォメルの野の複雑な地形を辿っていた。
この日エルフェニウスの採った戦術は、これといって奇をてらったものではなかった。
地の利がある以上、機動力を生かした奇襲攻撃が最も有効だからだ。
だがエルフェニウスの目論見は、サルヒグレゲンがここまで温存してきたある戦力によって、完全に裏目に出ることになる。
「ツァガーンロー。今日から働いてもらうよ」
サルヒグレゲンの言葉に、直属の部下であるツァガーンローは無言で頭を下げた。
そこにはイェ・ソン軍幹部たちの様な反発はない。
むしろその目には、絶対的な忠誠心が宿っている。
サルヒグレゲンはその目が少し苦手だった。
「ヴォオス軍はこの地へイェ・ソン軍を引きずり込んだことで、多くの戦術を駆使出来る条件を整えた。だが、一見多岐にわたる可能性があるようでいて、ヴォオス軍に採れる手段は一つしかない。伏兵による奇襲だ」
サルヒグレゲンは、イェ・ソン軍幹たちに見せるものとは全く異なる態度でツァガーンローに語り掛ける。
そのひたむきな視線に耐えられないため横を向いて語っているが、ツァガーンローはその態度が自分を軽んじてのものでないことを理解しており、その理解がサルヒグレゲンにはどうにもむず痒い思いをさせた。
「本来は防ぎようのない厄介な戦術だが、奇襲部隊の位置がわかれば、むしろ各個撃破の好機となる」
ツァガーンローは理解の印に小さくうなずく。
口が利けないわけではないが、ツァガーンローの部族はイェ・ソン人の大半が遊牧を主たる生業としているのに対し、狩猟を主な生業としている。
その行動に音はなく、必然的に会話も必要最低限なものとなる。
そもそもサルヒグレゲンが一切の追従を求めない性格もあり、ツァガーンローは言葉にする必要がないかぎり、無言を貫いていた。
「普通はわからない。だが、私たちにはわかる」
王族であるサルヒグレゲンは、配下の部族であるツァガーンローたちに対して命令をためらうことはない。
だが、他の王族にはありえないことだが、サルヒグレゲンはツァガーンローたちを道具ではなく、手足として扱う。
その頭は当然サルヒグレゲンであり、手足の多少の傷など意に介さないが、手足を失うなどの重傷を負えば、いかに頭部が無事であろうと、頭部が発揮し得る機能を十全に活かしきることは出来なくなる。
そして、場合によっては手足の傷がもとで死に至ることもある。
それは頭であるサルヒグレゲンの死をも意味する。
取り換えの効く道具ではなく、あくまで自身の延長としてツァガーンローたちを見なすサルヒグレゲンに対し、ツァガーンローが忠誠心を抱くのは不思議なことではなかった。
「私たちにしか出来ない狩りを始めようじゃないか」
そう言うとサルヒグレゲンはニヤリと笑った――。
◆
ヴォオス軍千騎長グンラードは、配下の騎兵千騎を引き連れ、イェ・ソン軍右翼の側面を衝ける位置を目指して進んでいた。
瓦礫の多い、道とは呼べない隘路を慎重に進み、崖の隙間を抜けて小さな森の中に出る。
隊が半分ほど抜けると、不意に崖上からイェ・ソン軍が姿を現し、崖に岩を落として隊を分断する。
そして分断されたヴォオス軍に対し、一斉に矢の雨を降らせた。
グンラード率いるヴォオス軍千騎は、ただの一騎も本隊へと帰ることはなかった。
グンラード隊以外にも他に三隊が待ち伏せに遭い、奇襲を仕掛けるどころか逆に奇襲を掛けられ、撤退を余儀なくされていた。
エルフェニウスは戦術の根本となっているワイデルウォメルの野に関する情報量の差に間違いがあったかと考えた。
<北の魔境>でのイェ・ソン軍に対する判断が間違いであったことは、イェ・ソン軍の策士が魔物の特性を利用し、ヴォオス軍を狩り出すために利用したことで証明されている。
それを踏まえると、イェ・ソン軍がワイデルウォメルの野に関する詳細な情報を所持している可能性がある。
もしそうであれば、このまま同じ戦術にこだわっていると被害が大きくなり、全体の士気も低下してしまう。
エルフェニウスは大きな決断を迫られていた。
そこにオリオンからの遣わされた使者が帰還し、エルフェニウスにお土産を渡す。
「これは……」
あまりに予想外のオリオンの土産に、エルフェニウスは言葉を失ってしまう。
エルフェニウスの前にあるのは、一頭の狼の死体だった。
「オリオン将軍が捉えたのですが、この狼はイェ・ソン兵に従っていたそうです」
「なにっ!」
使者として送られた兵士の説明に対し、エルフェニウスは驚きの声を上げた。
神話時代、狼は神の使いとされ、人間社会において尊い存在とされてきた。
その狼も、神話時代の終わりと共に野生化し、地域差もあるが、魔物と同様の扱いを受けるようになった。
幾度かの衝突の後、人間と狼は互いの領域を定め、住み分けるようになり、衝突することはなくなったが、両者の境で暮らす人間と狼の間では、未だに小さな衝突が繰り返されている。
人間と狼は相容れない存在同士のはずであった。
「オリオン将軍の推測によりますと、イェ・ソン人は狼を家畜化することに成功し、その能力を狩猟などに利用しているのではないかと仰っておられました」
「なるほど。狼は人間など足元にも及ばない嗅覚と聴覚を持っている。我々が地の利を生かして奇襲を掛けてくることを読むのはさほど難しくはない。もし狼の能力を利用出来るのであれば、われわれの奇襲を逆手に取ることも可能なはずだ」
エルフェニウスは奇襲が見抜かれた予想外な理由に思わず唸った。
だが、次の瞬間には対応策が脳内で構築され始める。
奇襲以降の策と、イェ・ソン軍の予想外の対応策が融合し、一つの結論に達する。
結果、エルフェニウスは奇襲攻撃をそのまま続けたのであった――。
◆
「忌々しいっ!」
そう言ってダグワボルドが地面に唾を吐く。
イェ・ソンの遊牧民にとって、野生の狼は羊を襲う魔物以外の何ものでもない。
被害が大きければ、それで飢え死にする家族も出てくる。
それも終わらない冬の被害を受ける前の、比較的平均的な生活を送れていたころの話だ。
実際にツァガーンローの一族の狼が他部族の家畜を襲ったことは一度もなかったが、それでもイェ・ソン人の大半がツァガーンローの一族を敵視していた。
反感以外の感情を抱いていないサルヒグレゲンを、ツァガーンローの一族が助け、成果を上げる。
戦いにおいて、結果がすべてであり、昨日大きな被害を受けたヴォオス軍の奇襲を防ぐことが出来ているのだから、本来であれば喜ぶべきところなのだが、心情的にはサルヒグレゲンの勝利は、自分が負ける以上にダグワボルドを苛立たせた。
「ヴォオスの重装騎兵が退いていくぞ」
同僚の機嫌を無視して、パンツァグバータルは戦況の変化を伝えた。
「ここに重装騎兵だけを寄越したということは、ヴォオス軍は軽装騎兵で勝つつもりでいたのだろう。その手が封じられては、ここで戦線を維持しても消耗するだけだ。よほどの馬鹿が指揮官でない限り、撤退する」
同僚の言葉に、ダグワボルドが不機嫌に答える。
だが、機嫌とは別に、冷静に戦況が見えている同僚に、パンツァグバータルは安心しつつ、問いかけた。
「追撃を掛けなくていいのか?」
「この戦況の変化は、奴の手柄であって、俺の手柄ではない。であれば勝手に兵を動かすことは出来ん。このまま一定の距離を保つだけだ」
ダグワボルドはサルヒグレゲンからの命令を盾に、追撃を放棄したのであった。
「その方がいいだろう。ヴォオス軍の軍師のことだ。奇襲を狼に阻まれ、狙いをこちらに変えた可能性もある。下手に追撃して敵の罠にでもかかろうものなら、何を言われるか知れんからな」
パンツァグバータルが軽口のつもりで口にした言葉に、ダグワボルドは思い切り顔をしかめた。
自分の失態をねちねちと責めるサルヒグレゲンの顔が目に浮かんだからだ。
「気分が悪くなるような話をするな」
ダグワボルドが憮然として吐き捨て、パンツァグバータルはただ肩をすくめた。
この日重装騎兵同士の戦いは終始イェ・ソン軍側の優位の内に進み、ボルストヴァルト軍は固く守りつつ、徐々に後退するにとどまった。
だが、ヴォオス増援軍の受けた被害は大きかった。
特にグンラードが率いた部隊が全滅したのは大きな痛手であった。
他の部隊もグンラードの部隊同様イェ・ソン軍の狼によって位置を特定されてしまい、逆に奇襲を受けることになったが、被害を出しつつもなんとか撤退に成功していた。
グンラードは出世欲の強い男であった。
他の部隊が慎重に行動していたのに対し、功に焦ったグンラードは不用意にイェ・ソン軍に近づき過ぎたのだ。
正面からの突撃などでは十分な破壊力と指揮能力を見せる千騎長であったが、奇襲などの隠密行動には不向きな性格であったのだ。
そのことがわからないエルフェニウスではなかったが、地形的な問題と、奇襲という策の性質上千騎以上の兵を動かすことが出来なかった。
他に任せられる人材がいればグンラードを温存することも出来たのだが、今のヴォオス軍は兵数もだが、その兵を指揮出来る人材が不足している。
グンラードを出さざるを得なかったのだ。
そして翌日も大きな展開もないまま、ヴォオス軍はジリジリとワイデルウォメルの野の奥へと追い込まれていった――。
◆
「ご苦労であった」
サルヒグレゲンのおかげでヴォオス軍が予定外の苦戦を強いられている裏で、サルヒグレゲン自身も予定外の事態に陥っていた。
国王シイングドルジが現場の指揮に復帰したのだ。
右腕であるトルイゾリグも、高熱から脱し、共に戦線に復帰を果たす。
ここまでイェ・ソン軍を優位のまま導いて来たサルヒグレゲンであったが、たった一言でいきなりお払い箱となったのである。
「叔父上、申し上げたいことが……」
「いらん」
サルヒグレゲンがこれまでの経緯も含めて進言しようとしたが、シイングドルジはまともに聞きもしないで退けた。
「貴様の戦術は貴様以外に理解出来ん。聞くだけ時間の無駄だ」
少な過ぎる言葉に対して付け足された言葉も、まるで取り付く島もないものであった。
もはや見向きもしない国王に丁重に頭を下げると、サルヒグレゲンは自身の天幕へと引き返した。
その背中をダグワボルドを中心としたイェ・ソン軍幹部たちが嘲笑いながら見送る。
「……短い天下だったね」
自虐的というにはあまりに軽い言葉だった。
従うツァガーンローも、これといった不満を見せてはいない。
イェ・ソン軍幹部たちは皆優れた軍人だ。決して口に出すことはないだろうが、サルヒグレゲンがヴォオス軍の奇襲をことごとく防いでくれたからこそ、優位を保ち続けていられたことは理解している。
その上であの態度である。
もっと怒りを露わにしてもおかしくないのだが、主も部下もまるで気に留めていない。
「このまま出番がないまま終わればいいけど、次に出番が回ってくるときは、手遅れかもしれないな」
そう言ってサルヒグレゲンは笑う。
冗談めかして口にしているが、それが恐ろしいほど正確な未来予測であることを、ツァガーンローは知っていた――。
◆
不意にイェ・ソン軍の戦法が変わった。
いかにもイェ・ソン軍らしい重装騎兵を中心とした力押しに切り替わったのだ。
将兵共に異様なまでに士気が高く、攻めに勢いがある。
数で勝るのだ。
力押しは本来正しい戦法である。
この急激な変化に、エルフェニウスはイェ・ソン軍の中枢で、権力の移動があったのだろうと見透かした。
<北の魔境>外縁部での最初の奇襲により、シイングドルジとトルイゾリグが重傷を負った。
その直後に森に火が放たれ、<北の魔境>から予想外の襲撃を受けることになった。
エルフェニウスはこの変化を、シイングドルジの負傷を受けて台頭したであろう人物の策と考えていた。
その後ワイデルウォメルの野での初戦でエルフェニウスの誘いに乗り、正面からぶつかって来たイェソン軍の指揮は、別の人物が執っていたと考えている。
そしてさらにその後、イェソン軍の指揮は変わった。
これにより、エルフェニウスはイェ・ソン軍幹部の中に、イェ・ソン人らしからぬ思考の持ち主がいるのではないかと考えた。
そして、その人物は非常に身分が高く、それでいて実質的な権力は持ち合わせていないとみなしていた。
そうでなければこれほどイェ・ソン軍の性格が変わるわけがないのだ。
そしてここにきてのさらなる急変は、エルフェニウスに一つの答えを与えていた。
シイングドルジの復活である。
エルフェニウスの洞察は完璧であり、それ故状況はヴォオス軍にとって危機的状況と言えた。
だがエルフェニウスにとって、ここでのシイングドルジの復活はむしろ歓迎すべき事態であった。
ヴォオス軍はここまで奇襲を封じられながらジリジリと後退してきた。
その動きは、イェ・ソン軍の目にはなす術なく後退する以外に手がないように映った。
事実手を変えるべき状況で、エルフェニウスはそれをせず、被害を最小限に止めるよう最善を尽くしただけであった。
だがそれも、すべてはエルフェニウスの策によるものであった。
いよいよその策を発動させようとした矢先のシイングドルジの復活である。
ここでイェ・ソン軍の勢いを阻むことが出来れば、シイングドルジの復活でさらに勢いづいた分、余計に大きな精神的痛手を与えることが出来る。
全面攻勢に出て来たイェ・ソン軍に押され、ヴォオス軍はさらに後退を重ねた。
そしてワイデルウォメルの野の地形がもっとも狭まる地点に差し掛かった時、ワイデルウォメルの野に張り出した崖の上から、ヴォオス軍の投石器による攻撃が開始された。
エルフェニウスはサルヒグレゲンの策により、奇襲攻撃が阻まれた時点で、イェ・ソン軍迎撃の核を、この地点に定めていたのだ。
ヴォオス軍が撤退を重ねたのは、この地点にイェ・ソン軍を誘い込むためであり、イェ・ソン軍は進軍の勢いが付きすぎてしまっていたため、警戒を抱く前にこの地点まで攻め進んでしまったのである。
突如崖上から投石器のロープが大気を打つ音が戦場に響き渡る。
そして投石器から発射されたあるものが、イェ・ソン軍の食料の上に降り注いだ。
それは戦死し、腐敗したイェ・ソン兵の死体だった。
ハウデンベルク城塞に対して『腐毒の呪印』が用いられたことから着想を得たエルフェニウスは、イェ・ソン兵の死体に『腐敗の呪印』を刻み、死体の腐敗を加速させ、イェソン軍の食料に対して細菌攻撃を仕掛けたのある。
馬の糞尿を腹の中に仕込まれたイェ・ソン兵の死体は、食糧に命中するとバラバラに飛び散り、病原菌をばらまいた。
もしこれが通常通り石や岩による攻撃を受けただけであれば、イェ・ソン兵は泥や砂利で汚れた食料を平気で口にしただろう。
だが、さすがに病原菌で汚染されては口に出来ない。
イェソン軍はシイングドルジの復活による大攻勢から一転、兵糧攻めに苦しめられることになった。
「今すぐ洗い流せっ!」
トルイゾリグの指示が飛ぶ。
大事な食料だ。兵士たちも言われるまでもなく必死に手持ちの水で洗い流そうとするが、さらなる追撃ですべてが無意味となる。
「トルイゾリグっ! 少し戻った峡谷の奥に水源があるっ! そこまで食料を戻せっ!」
ダグワボルドの助言に、トルイゾリグはすぐさま食料を後退させた。
ここでトルイゾリグは気づかなくてはいけなかった。
兵糧攻めを考えるのであれば、水源も潰されていて当然であるという事実にだ。
だが水源は潰されもせず、そのままになっており、イェ・ソン軍に発見されている。
汚染された食料を洗い流すために、イェソン軍は慌てて食料を峡谷に運び込んだ。
そして食糧が峡谷の奥へと姿を消すと、ヴォオス軍の投石器はその角度を変え、今度はイェ・ソン兵の死体などではなく、その名にふさわしい岩石を、峡谷目掛けて飛ばし始めた。
飛来した岩石はイェ・ソン軍にではなく、峡谷の壁に激突する。
そして岩肌を突き崩し、大量の土砂となってイェ・ソン軍の上に降り注いでいった。
次々と降り注ぐ投石によって峡谷は打ち崩され、イェ・ソン軍と食料を生き埋めにしていく。
その光景は戦場にあるイェ・ソン兵たちの心を容赦なくへし折るものであった。
「まあ、そうなるだろうね」
サルヒグレゲンの呟きを聞いたのは、ツァガーンローただ一人であった。
そして、誰も自分に注目していないことを確認すると、サルヒグレゲンはイェ・ソン軍から離脱していった。
ここまで守りに徹していたヴォオス軍が、一気に攻勢をかける。
勢いを失ったイェ・ソン軍と、ようやく反撃に転じることが出来るようになったヴォオス軍。
攻守は完全に入れ替わり、先ほどまでとは全く逆の光景がワイデルウォメルの野に出現する。
「ここで勝負を決めるっ! 死力を尽くせっ!」
エルフェニウスが珍しく檄を飛ばす。
ヴォオス軍とイェ・ソン軍の戦いの結末は、始めからイェ・ソン軍の勝利に大きく傾いていた。
この結末を覆せるとしたら、ここしかない。
エルフェニウスの脳内には、まだいくつもの戦術が日の目を見る日を待っているが、そのすべてが逆転ではなく延命のための手段でしかなかった。
この戦力差を覆す機会はここしかない。
「敵に後退を許すなっ! 態勢を立て直されたら終わりと思えっ!」
エルフェニウスの言葉に背中を押され、ヴォオス軍の猛攻は続いた。
イェ・ソン軍の重装騎兵が突き崩されて分断し、即座に殲滅されていく。
騎兵単体の実力ではイェ・ソン軍はヴォオス軍に引けを取らないが、集団戦闘技術の差は歴然だった。
イェ・ソン軍の中央が割れ、真っ二つに分断されかかる。
ここを突破出来ればイェ・ソン軍の中枢は目の前だ。
「貴様ら不甲斐ないぞっ! それでもイェ・ソンの男かっ!」
ダグワボルドが味方の兵士をなぎ倒して前に出る。
「食料を奪われたくらいでうろたえるなっ! ヴォオス軍を返り討ちにして、奴らの食糧を奪うぞっ!」
パンツァグバータルも味方を鼓舞しながらダグワドルジに続く。
破れかけていたイェ・ソン軍中央の底が、再び厚みを取り戻し始める。
総崩れとなりかけていた各所で、イェ・ソン軍幹部が奮起し、徐々に形成を盛り返す。
ヴォオス軍に焦りが生まれ、逆にイェ・ソン軍が冷静さを取り戻し始めたその時、イェ・ソン軍後方に、エルフェニウスが放っていた別動隊が現れた。
ただでさえ数で劣るにもかかわらず、エルフェニウスはここに勝機を懸け、戦場を大きく迂回させて別部隊を派遣していたのだ。
手薄のイェ・ソン軍本陣にヴォオス軍が迫る。
ヴォオス軍の反撃に対抗するために後方の戦力を一気に投入したその裏を衝かれたのだ。
イザーク千騎長率いる別動隊は、手薄になったイェ・ソン軍後方を一気に駆け抜けた。
本陣には手負いのシイングドルジが僅かばかりの兵に守られているだけだ。
ここでシイングドルジの首を取ることが出来れば、ヴォオス軍は再び勢力を盛り返すことが出来るだろう。
事実、ヴォオス軍に生まれかけていた焦りはイェ・ソン軍に移り、優秀なイェソン軍幹部たちにも支えきれなくなっている。
シイングドルジももはやここまでと悟ったのだろう。
無様に逃げ出すような真似はせず、一人でも多くのヴォオス人を道連れにしてやろうと身構える。
エルフェニウスはこの瞬間勝利を確信した。
イェ・ソン軍は強力だ。
その規模もそうだが、特に武将の質の高さが問題だった。
今もイェ・ソン軍が崩れきらないのは、各所で将たちが支えているからだ。
だが、その武将たちも一枚岩ではない。
もともと個の意識が高いイェ・ソン人が一つにまとまるには、強力な指導者が必要だった。
ここまでの規模のイェ・ソン軍が完全に機能してきたのは、シイングドルジという強力な指導者がいたからこそだ。
イェ・ソン軍の要であるシイングドルジが一度倒れた時は、その復讐のために団結することが出来たが、二度目は怒りではなく失望を生み、イェ・ソン軍の結束に亀裂を生じさせるだろう。
そうなればこの一戦で討伐がかなわなかったとしても、続く戦いで必ずイェ・ソン軍を殲滅出来る自信がエルフェニウスにはあった。
だが、勝利が確定する寸前、イザークの部隊に側面から全く予想外の攻撃が仕掛けられる。
狼の群れの襲撃である。
もちろん体格ではるかに劣る狼に、そう簡単に馬を倒すことは出来ない。
一頭だけならまだしも、狼の群れをはるかに上回る騎馬集団となれば尚更だ。
だが、狼たちは馬と並走し、激しく吠え立て、馬たちの混乱を誘っていく。
隙を見ては足元を潜り、後ろ脚を一瞬だけ攻撃すると反撃される前に離れていく。
不意を衝いての急襲を、不意打ちで混乱されてしまったイザーク千騎長は、狼たちを退けるために足を止めてしまった。
この判断の誤りが、エルフェニウスの手から勝利をこぼれ落とさせる。
イザークはたった一騎になろうとも、足を止めてはいけなかったのだ。
シイングドルジさえ討てれば結果は定まっていた。
だが、足を止めてしまったがためにシイングドルジに逃げる隙を与えてしまい、シイングドルジもその隙を逃さず兵士たちの壁の向こうへと何とか逃げ込むことが出来た。
逆転を繰り返したこの戦いの、最後の逆転劇をものにしたイェ・ソン軍の戦意が一気に沸騰する。
本陣付近で上がった大歓声に、エルフェニウスはイザークが率いた別部隊による急襲が失敗に終わったことを悟った。
「……撤退っ! 撤退するっ!」
無念を噛みしめて、エルフェニウスが撤退を指示する。
だが、勝負があまりにもギリギリまで拮抗してしまったため、ヴォオス軍はイェ・ソン軍に深く食い込んでしまっており、容易に撤退することは出来なかった。
狼に阻まれたイザークが、その主であるツァガーンローによって一刀のもとに斬り捨てられる。
逆襲に転じたイェ・ソン軍の猛攻により、被害はそれだけにとどまらず、さらに拡大していく。
エルフェニウスは無駄と知りつつ悔やんでいた。
イザークは任務に忠実で辛抱強く、指揮能力の高い千騎長であったが、不測の事態に対する対応能力の低さが唯一の欠点だった。
だが、この複雑なワイデルウォメルの野の地形をよく理解し、敵本陣に急襲をかける間を正確に測れる千騎長はイザークしかいなかったのだ。
エルフェニウスはここでも将の差を思い知らされることになったのであった。
逆転劇は終わった。
そしてこの戦いも終わった。
食料を奪われたイェ・ソン軍はこの戦いですべてを終わらせようと考え、ヴォオス軍は何としても撤退し、もう一度イェ・ソン軍の足を止めようと考えていた。
だが、この地での逆転劇はまだ終わっていなかった。
イザークの部隊が殲滅され、無人となったはずのイェ・ソン軍後方から、騎馬の集団が近づきつつあったのだ。
その先頭を駆ける軍馬に跨るのは、黒衣に身を包み、片目を布で覆った不敵な笑みを口元にたたえる男であった――。
遅くなってすみません!
仕事が馬鹿みたいに押してしっちゃかめっちゃかです!
時間が欲しい~!
まともに寝たい~!




