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ヴォオス戦記  作者: 南波 四十一
ヴォオス戦記・乱
72/152

<ワイデルウォメルの野>

 サルヒグレゲンの策により、<北の魔境>外縁部から引きずり出されたヴォオス軍は、魔物の群れによってイェ・ソン軍と分断されたことを利用し、南西へと移動を続けていた。

 東へと移動しても開けた平地が続くだけで、戦術的展開が難しいことと、万が一イェ・ソン軍がヴォオス軍の討伐を諦め、抑えに回った場合、倍以上の兵力を有するイェ・ソン軍に、約五万もの遊兵を生むことになる。


 イェ・ソン軍の侵攻を足止めするはずのヴォオス軍が、逆にイェ・ソン軍によって足止めされ、五万ものイェ・ソン兵によってヴォオス国内を荒らされては、他の戦場の防衛戦まで破綻しかねない。

 ヴォオス軍は常にイェ・ソン軍の侵攻を阻む位置に存在し続けなくてはならないのだ。


 そのためにエルフェニウスが目をつけたのは<ワイデルウォメルの野>であった。

 王都ベルフィストにあるクライツベルヘン家の敷地に存在する非自然的地形、<神々の足跡>と同様、神々の時代に大地に刻まれた、神の痕跡である。

 その大きさはクライツベルヘン家の敷地に存在する<神々の足跡>をはるかに上回り、一部の人間を除いて、複雑な地形の土地としか認識されていない。

 エルフェニウスはこの土地の由来を承知していたが、彼にとって重要なのは、あくまでワイデルウォメルの野が複雑な地形であるということであり、この地で何としてもイェ・ソン軍を食い止めるという事実のみであった。


 ボルストヴァルト軍を中核に、増援軍を両翼に配置する。

 これはイェ・ソン軍の布陣を小型化したものでしかないが、奇策に走ってボルストヴァルト軍の特性を殺すよりも、生かすことを優先した結果であった。

 もっとも、これを正直にイェ・ソン軍に当てては勝ち目などない。

 半数に満たない数でイェ・ソン軍を抑えようとするなら、地形を生かした戦術で数の不利を跳ね返す必要がある。


 敵の思わぬ策により、<北の魔境>から追い出されるはめになったエルフェニウスであったが、イェ・ソン軍を<北の魔境>にはりつけにしておくことなど出来ないと始めから承知していた。

 出来れば<北の魔境>で時間を稼ぎ、敵兵力を削った上でワイデルウォメルの野へと戦場を移す予定だったので、戦術はすでに練り上げられていた。


 問題は、見事にエルフェニウスの裏をかいてくれた敵策士の存在だった。

 <北の魔境>に関する知識は、ヴォオス軍のごく一部の者しか知らないはずだった。

 だが敵の策士はエルフェニウスのその思い込みを衝いて来た。

 敵はエルフェニウスの想像以上にヴォオスに関する知識を有している可能性がある。

 何をどの程度まで知っているのかを探るためにも、次の行動は重要だった。

 ヴォオス軍の動きに対し、イェ・ソン軍がどう動くか。

 それ次第ではワイデルウォメルの野も捨てなくてはならなくなる。

 エルフェニウスとしては何としてもこの地でイェ・ソン軍の侵攻を食い止めたかった。


 翌朝、ワイデルウォメルの野には濃い霧が発生していた。

 この地ではよく見られる現象で、エルフェニウスはこの霧を利用してイェ・ソン軍に奇襲を掛けるつもりでいた。

 だが、その出撃間際になってリストフェインが倒れた。

 イェ・ソン軍の始めの襲撃以降ほぼ不眠不休で戦い続け、『腐毒の呪印』によって発生した瘴気による毒気を受けたことによる消耗が原因だ。


 もともと襲撃に参加させるつもりはなかったことと、体力的に限界を超えていることははた目にも明らかであったため、エルフェニウスも動揺することはなかったが、元ヴォオス軍軍師第十席であるリストフェインであれば、武将としては戦えなくとも、軍師としてその知恵を借りることが出来ただけに、痛手ではあった。


 やはり昨夜のイェ・ソン軍の予想外の襲撃が痛かった。

 昨夜一晩でも休ませてやることが出来ていれば、リストフェインが消耗しきることはなかっただろう。

 そういう意味でも敵策士の行動は、エルフェニウスに大きな打撃を与えていたのだった。


 悔やんだところで時を巻き戻すことは出来ない。

 頭を切り替えたエルフェニウスは、イェ・ソン軍に対し、二方面から奇襲を掛けた。

 どちらも騎兵千騎ほどで、オリオンとジィズベルトが率いている。


 結果として襲撃は不発に終わった。

 イェ・ソン軍は霧の発生と共に奇襲を警戒し、しっかりと守りを固めていたのだ。

 本来であれば落胆するところであるが、エルフェニウスはイェ・ソン軍の反応に満足していた。


 昨夜ヴォオス軍を窮地に追い込んだ敵策士の技量であれば、不意の霧の発生に警戒しないわけがない。

 堅い守りは当然予測された行動であり、エルフェニウスもイェ・ソン軍の守り次第で即座に撤退するように指示を出していた。


 ここで重要なのは、イェ・ソン軍が守りを固めたことにある。

 <北の魔境>に関する予想外の知識によりヴォオス軍は不意を衝かれることになった。

 もし敵策士がワイデルウォメルの野に関する知識も有していたならば、霧を利用した襲撃に対し、守りを固めるのではなく、罠を仕掛けて迎撃態勢で待ち構えていたはずだ。

 敵が待ち構えていなかったということは、少なくともイェ・ソン軍側にワイデルウォメルの野特有の朝霧の情報はなかったということになる。


 この確信により、エルフェニウスはここワイデルウォメルの野を、対イェ・ソン軍最終防衛線に定めた――。









 何やら複雑な地形に引きずり込まれてしまったが、さて今日もどうやってヴォオス軍を引きずり回してやろうかと、サルヒグレゲンは朝霧で真っ赤ににじんだ日の出を眺めながら、悪だくみに頬を歪めていた。

 イェ・ソン軍幹部からは不興を買いまくっているその不遜な態度も、イェ・ソン王宮では宮女たちを虜にする危険な香りであり、もしここがワイデルウォメルの野などという戦場ではなく、イェ・ソンの王宮であったら、サルヒグレゲンの周囲は黄色い悲鳴で満たされていたことだろう。


 もしこの場でそうなったら、ダグワボルドあたりが怒り狂うだろうなと思い、サルヒグレゲンは吹き出した。

 その様子を気味悪く思いながらも、サルヒグレゲンの奴隷は表情を変えない。

 自然環境が厳しいイェ・ソンでは、ルオ・リシタ人もそうだが、生きるのに精一杯で生活にゆとりがなく、その生活の中に笑いが存在する余地は極めて少なかった。

 日常に笑いが存在しないため、その思考にも笑いは存在しない。


 そのため、イェ・ソン人らしからぬ好奇心の持ち主であり、想像力豊かで感受性にも富むサルヒグレゲンは異質な存在として育った。

 一つの出来事から想像を連続させ、最終的に笑いに辿り着かせてしまうため、はたから見ると何でもない時に不意に笑いだす不気味な人間と勘違いされている。


 知性にも優れていたサルヒグレゲンが、自分が周囲の人間とは異質な存在であることに気がつくのに時間はかからなかった。

 その上でサルヒグレゲンは自身の異質さを隠そうとはせず、周囲に対しても迎合しようとはしなかった。

 結果としてサルヒグレゲンにイェ・ソンにおける居場所はなくなったが、当人はまったく気にも留めなかった。


 イェ・ソン人がつまらないのはイェ・ソンという国そのものがつまらないからであり、イェ・ソンという国がつまらないのは、厳しい自然環境が、生活にゆとりを許さない程厳しいからである。

 誰が悪いわけでもない。

 だが、つまらないものはつまらないのだ。

 精神の波長が合わない者たちに合わせてつまらない時間を過ごすよりも、サルヒグレゲンは一人想像の世界で過ごすことに価値を見出していた。


 朝霧に包まれたイェ・ソン軍が防御を選択したのは、パンツァグバータルの指示によるものだった。

 そもそもサルヒグレゲンにイェ・ソン軍の指揮権はない。

 昨夜の策が採用されたのも、イェ・ソン軍が森林戦を不得手としていたことと、<北の魔境>に関する知識が、イェ・ソン軍幹部にまったくなかったからにすぎない。


 ヴォオス軍による襲撃が、こちらの守りの堅さを知るとあっさりと兵を退いたことに対し、イェ・ソン軍は勝ち誇っていたが、サルヒグレゲンはイェ・ソン軍がこの複雑な地形に対しまったく無知であることをヴォオス軍に悟られたことに気がついていた。


 ここでその事実を不興を買いながらでも知らせればいいのだが、こういう時に限ってサルヒグレゲンは同国人に対して口をつぐんでしまう。

 せっかく教えてやったというのに、余計な口出しをするなという態度をとられることは誰しも納得がいかないことではあるだろうが、それでも必要な言葉は必ず後で評価されるものである。

 それがわかっていて敢えて口をつぐむサルヒグレゲンの気質は、いたずら気質というには質の悪さが目立った。


 ヴォオス軍にとって吉報と言えるかどうか、微妙な事態が一つ起こった。

 それはトルイゾリグが、魔物が<北の魔境>奥地から持ち出した細菌に感染し、高熱を発して倒れたことであった。

 

 トルイゾリグはシイングドルジの治療が終了すると、傷口を焼いて塞ぎ、即座に戦場へと戻った。

 右手を失うという重傷を負っているにもかかわらず、まるでそんな気配など見せずに魔物の襲撃に対応していたが、目に見えない大きさの細菌を討つことは出来なかったのだ。


 総指揮官であるトルイゾリグが倒れたことは、イェ・ソン軍の統制という意味でヴォオス軍に有利に作用するだろうが、トルイゾリグの不在により、指揮系統には曖昧さが残り、サルヒグレゲンに介入の余地を与えたことは、ヴォオス軍にとってはたして吉と出るか凶と出るかは不明であった。


 立場的にサルヒグレゲンの行動を制することが出来る人間は国王であるシイングドルジと、軍の総指揮権を持つトルイゾリグのみであった。

 そのため、大将軍の一人であり、イェ・ソン軍の総指揮を代行しているダグワボルドはサルヒグレゲンの介入を警戒していたが、この日サルヒグレゲンはダグワボルドが不気味に感じるほど大人しく控えていた。

 邪魔をするつもりがないのであればそれに越したことはない。

 ダグワボルドはヴォオス軍に集中し、ワイデルウォメルの野へと軍を進めて行った。


 霧は濃かったが、早朝のわずかな時間しか大気に居座らず、進軍するイェ・ソン軍は程なく正面にヴォオス軍を発見した。

 その数五万弱。

 ハウデンベルク城塞からここまで、まともに戦うことのなかったヴォオス軍も、ようやく腹を決めたようだとダグワドルジは不敵に笑った。


 ヴォオス軍は中央にボルストヴァルト軍を据え、その両翼を増援軍が固めている。

 それはイェ・ソン軍の布陣によく似ており、ヴォオス軍が正面からの騎兵戦を望んでいることを雄弁に物語っている。

 イェ・ソンとヴォオスの戦いはこれまで、常に正面からの騎兵戦で行われてきた。

 どちらも騎馬の民としての誇りがある。

 両国とも危機的状況下にあり、戦いを愉しむようなゆとりはない。

 それでもイェ・ソン軍の兵士たちは、雄敵との戦いを前にたかぶっていた。


 これに対し、ヴォオス軍に真っ向勝負の意思などなかった。

 数に倍する敵と対峙しているのだ。

 エルフェニウスには過去の戦いの歴史や、イェ・ソン軍が抱いている戦いに対する美学のようなものは一切存在しなかった。


 削る――。


 とにかくひたすらイェ・ソン軍の戦力を削り続けることが重要だった。

 そのための兵をジィズベルトに預け、伏せている。

 この偽装のためにエルフェニウスは右翼側にハウデンベルク城塞からの避難民を紛れ込ませ、全体の総数に変化がないように見せかけていた。


 イェ・ソン軍の隊列が整うと、両軍呼吸を合わせたかのような間で突撃命令が下され、総勢約十五万の馬蹄が、同時に大地を揺るがせた。

 後に<ワイデルウォメル会戦>として語られる大戦の始まりである。


 ワイデルウォメルの野は、<神々の足跡>としてはかなりの規模で、ヴォオスでも三本の指に入る広大さを誇る。

 だが、さすがにイェ・ソン軍十万が十分に展開出来るほどの広さはない。

 エルフェニウスがワイデルウォメルの野を戦場に選んだのも、ボルストヴァルト軍の存在により高い防御力を誇る正面に対し、防御力に不安のある側面を、数に勝るイェ・ソン軍に包囲され、突き崩されることを防ぐ目的もあった。

 特に偽兵として避難民を組みこんでいる右翼の防御力は見た目以上に低い。

 最初の衝突を受け止めきれなければ、戦術も何もあったものではないのだ。


 エルフェニウスの目論見通り、横に広く展開出来ないイェ・ソン軍の突撃を、ヴォオス軍は見事に受けきってみせた。

 だが、それはボルストヴァルト軍を薄く広げた横陣で、ようやく対処出来た攻撃だった。

 対するイェ・ソン軍は、横陣を広げられない分その布陣の厚みはヴォオス軍の倍以上もある。

 厚みはすべて余力でもあるイェ・ソン軍に、突撃を受け止められたことに対する焦りは微塵もなかった。


 正面からのぶつかり合いは、時間が経つごとに、じりじりと地力の差を表していく。

 ヴォオス軍は次第に押し込まれ、後退を余儀なくされる。

 不意に偽兵で兵力を水増ししていた右翼が崩れる。

 グユククルク率いる軽装騎兵によって切り崩されたのだ。


 戦いの均衡が大きく崩れると、イェ・ソン軍は間を置かず、左翼の軽装騎兵を全軍動かした。

 ヴォオス軍の右翼を崩壊させ、ボルストヴァルト軍の背後に兵を送り込むことが出来れば、小回りの利かない重装騎兵を前後から挟撃し、一気に壊滅することが出来るからだ。

 だが、ヴォオス軍右翼の崩壊こそ、エルフェニウスの仕掛けた罠だった。


 もともと数の上で勝るイェ・ソン軍左翼の軽装騎兵を、兵力を削ったヴォオス軍右翼では支えきれないことはわかりきっていた。

 右翼は目標地点まで後退したことを確認すると同時に崩壊してみせたのだ。

 また、右翼にはオリオンを配置しており、イェ・ソン軍左翼を率いるグユククルクは、昨日の屈辱を晴らすべく、いつも以上に苛烈にヴォオス軍を攻め立てた。

 そのため、演じられた右翼の崩壊に、グユククルクは気づけなかったのだ。


 崩れるヴォオス軍の中にいるオリオンを追って、グユククルクは執拗に追撃を続けた。

 それこそがエルフェニウスの狙いとも知らず、グユククルクは左翼の先頭を走り、オリオンに迫った。

 イェ・ソン最速の男は、その速さ故に味方を引き離してしまい、これを慌てて追ったイェ・ソン軍左翼は、前線の状況を把握しきれていない後続を引き離してしまった。

 そのため、イェ・ソン軍左翼は中央部を兵数的に薄く引き伸ばされた状態となった。

 

 北から南へと進軍する形のイェ・ソン軍からは、ワイデルウォメルの特異地形の一つである四本の峡谷を確認することは出来いない。

 峡谷の入り口の向き、角度等の影響により、一続きの崖にしか見えないのだ。

 この峡谷に待機していたジィズベルトが、狼の前で不用意に腹をさらした羊に襲い掛かるかのように、イェ・ソン軍左翼に生じた弱点箇所を襲撃した。

 イェ・ソン軍からしてみれば、ジィズベルトに率いられた五千のヴォオス騎兵の出現は、まるで崖の岩壁の中から湧き出してきたこのような錯覚を覚えさせた。


 ジィズベルトはまず、イェ・ソン軍左翼後続部隊の側面を衝いた。

 グユククルクが突出した影響で、前線部隊と切り離された形となったイェ・ソン軍の後続部隊は、指揮系統から切り離されたこともあり、一気に混乱する。

 ジィズベルトはまず後続部隊を揺さ振り、完全に分断したうえでグユククルクを追い込んでいった。


 オリオンを追うグユククルクであったが、その背に追いつく前に、自分の部隊がジィズベルトに追いつかれ、背後から突き崩されてようやくヴォオス軍右翼の崩壊が罠であったことに気がついた。

 加えて、自分が突出し過ぎたことにより、イェ・ソン軍左翼を分断されてしまうというおまけ付きでだ。


 気づいた時には追っていたヴォオス軍右翼も逃げるのではなく兵を返して向かって来ている。

 分断されたとはいえ、元々の兵数で上回っていたので、数のうえではほぼ互角だ。

 だが、前方からオリオン。後方からジィズベルトによって挟まれては戦いようがなかった。

 恐ろしい破壊力を誇る両軍の挟撃により、グユククルクの率いた部隊は一撃で真っ二つに割かれてさらに分断されてしまい、もはや組織立った反撃など望めない状況に追い込まれてしまった。


「どこから湧いた。こざかしいヴォオス兵共がっ!」

 自身の失策を取り戻そうと孤軍奮闘するグユククルクが叫ぶ。

 イェ・ソン軍の最年少の将軍であるグユククルクは、その地位に反して一般兵とさして変わらない装備を身に纏っている。

 国王であるシイングドルジは当然として、三大将軍や他の将軍たちはその地位にふさわしい装備を身に纏っていた。だがグユククルクは、華美な装備によって速度が犠牲になることを嫌い、最速を優先する装備を身に纏っているのだ。

 

 それでも、その戦いぶりをみれば、名乗りを上げなくともグユククルクがこの部隊の指揮官だと一目でわかった。

 ジィズベルトは邪魔なイェ・ソン兵を容赦なくなぎ倒し、派手に暴れ回るグユククルク目掛けて突進した。


 乱戦の最中である。

 ジィズベルトは名乗りを上げるような真似はせず、背後から容赦なく斬りかかって行った。

 恐るべき速度で振り下ろされたジィズベルトの剣であったが、グユククルクはジィズベルトに振り向くことすらせずに乗馬をその場で反転させ、鞍から身を投げ出すようにしてかわしたため、空を切り裂いただけに終わった。


 反転したグユククルクの乗馬がジィズベルトの乗馬と並んだ瞬間、グユククルクはまるでその背に羽でも生えているかのような身ごなしで馬上に戻り、その勢いのままジィズベルトに反撃する。

 グユククルクは完全に虚を衝いたつもりでいたが、ジィズベルトの反応速度は尋常ではなかった。

 かわそうとするどころか、グユククルクの攻撃を無視して、さらに反撃の一撃を返してきたのだ。


 先に剣を振るったのはグユククルクの方であった。だが、その切っ先が相手の肉体を捕らえるのはジィズベルトの方が早い。

 瞬時にそう悟ったグユククルクは、攻撃の軌道を強引に捻じ曲げ、ジィズベルトの一撃を弾き返した。

 グユククルクは馬術でジィズベルトを上回ったが、ジィズベルトは剣術でグユククルクを上回ったのだ。


 ここでグユククルクは、

「少しは出来るようだな、ヴォオス人っ!」

 と吠えるつもりでいたが、ジィズベルトが先程を上回る速度で再び斬り込んで来たため、

「す……」

 という変な呼吸音のようなものを少し吐き出しただけで、残りの言葉すべてを呑み込むはめになった。


(恥をかかせおって、ヴォオス人めっ!)


 一人で勝手に恥ずかしい思いをしたグユククルクが、心の中でジィズベルトを罵る。

 若さゆえかどこか若干抜けているグユククルクに対し、ジィズベルトは容赦なく嵐のような斬撃を浴びせて行った。

 頭は抜けてはいるが、剣の腕までは腑抜けていない。

 グユククルクはジィズベルトの剣戟の嵐に、しっかりとついていった。


 両者の間で飛び散る火花が途切れることなく咲き続け、死の隣に咲く火花の花束を空中に出現させる。

 そして、火花以上に周囲を圧し、ぶつかり合う刃と刃の衝突音が大気を満たした。

 乱戦だった戦いも、気づけば両者の周囲に空間が生まれている。

 この場に立つ者に、弱者は一人もいない。

 それでも、ジィズベルトとグユククルクの戦いに割り込める者は、この場に一人も存在しなかったのである。 


 間の抜けた顔をしているわりに、恐るべき雄敵と出会ったジィズベルトは、内心ひそかに微笑んでいた。

 <北の魔境>での奇襲攻撃では、手応えのある敵はすべてオリオンに持って行かれてしまっていた。

 武将としてアペンドール伯爵に鍛え直されたが、一武人として強敵を求める悪癖はまだ抜けきっていない。

 ジィズベルトはグユククルクとの命の取り合いを愉しんでいた。


 互角に見えた両者の戦いであったが、打ち鳴らされる剣戟の音が百合を数えるころ、差が生まれ始めた。

 ジィズベルトの恐るべき剣速についていったグユククルクであったが、体格で二回りも劣るため、体力的についていけなくなってきたのだ。

 だたでさえ体格で劣る上に、食糧事情からグユククルクに限らずイェ・ソン兵は全員限界までやせ細っている。

 体重差が一撃の威力の差を生み、その差が互角に剣を打ち合わせていても、より多くグユククルクの体力を削っていったのだ。


 そもそもグユククルクの強みは人馬一体となった超高速戦闘にある。

 今ジィズベルト相手に展開しているような足を止めての打ち合いなどではない。

 ここまで意地になって付き合ったが、さすがに死ぬまで付き合うほど馬鹿ではない。

 それに、グユククルクには将軍としての責任もある。

 自分の失態でイェ・ソン軍左翼を窮地に陥らせてしまったのだ。

 状況を打開し、一兵でも多く帰還させる義務がある。


 脱出を図ろうと間合いを取ろうとするが、グユククルクの考えを完全に読み切っているジィズベルトはそれを許さなかった。

 ヴォオス軍右翼はイェ・ソン軍左翼の猛攻の前に崩れたかに見せかけて仕掛けた罠の奥深くへと誘い込んだが、もしヴォオス軍が采配を一つでも間違っていたら、本当に攻め崩されていた可能性もあった。

 グユククルクの指揮官としての能力は、それほどに高いのだ。

 ここまでの好機はそうそう訪れない。

 ジィズベルトは何が何でもこの場でグユククルクを討ち取るつもりでいた。


 微塵も隙を見せないジィズベルトの前に、今やグユククルクは防戦一方となっていた。

 体力も底をつきかけ、仮に目の前のジィズベルトをかわすことが出来ても、もはやヴォオス軍の包囲そのものを突破することは不可能な状況になる。

 自分の限界を悟ったグユククルクは、せめてジィズベルトだけでも道連れにしようと賭けに出ようと考える。

 その思考の裏では、

「またしてもヴォオスの将に敗れるのか……」

 と、バウデヴェインとの戦いを思い出し、苦い思いを噛みしめていた。


 開こうとして間合いを一気に詰めようとした瞬間、戦場の空気が一変する。ジィズベルトの一撃により混乱状態となっていたイェ・ソン軍左翼後続部隊が、予想をはるかに上回る速度で回復し、前線部隊を救出するべく攻め込んできたのだ。


「グユククルクっ! まだ生きているかっ!」

 野太い声が戦場に響き渡る。

「ヴォオス兵を殺しつくすまで、誰が死んでたまるかっ!」

 野太い声の問いかけに、グユククルクは直前までの覚悟などなかったかのように、強気な言葉を返した。


「よく生きていたっ! 上出来だっ!」

 生意気なグユククルクの言葉に、その生意気さを楽しんでいるかのような野太い声が返ってくる。

「こんな包囲など今すぐ突き崩してみせるから待っていろっ!」

 ヴォオス軍を侮るかのような言葉であったが、その言葉は即座に実行に移された。


 イェ・ソン軍左翼前線部隊を包囲していたジィズベルト率いるヴォオス軍は、背後を衝かれる形となり、どうすることも出来ずに後続部隊に蹴散らされていく。

 その先頭を走るのは、決して大柄とは言えないが、極限までやせ細っているにもかかわらず、肉体に分厚い存在感を持つ男だった。

 イェソン軍の将軍の一人であり、三大将軍たちからの信頼も厚いバトゥスレンである。


 手にした長槍を恐ろしい速度で操り、次々とヴォオス騎兵と突き倒していく。

 新たな雄敵の登場自体は歓迎するが、隊を崩されては逆にジィズベルトたちが包囲殲滅されてしまう。

 グユククルクへの対応。

 バトゥスレンという新たな個の武に対する対応。

 想定外に早く到着した後続部隊に対する対応。

 さすがのジィズベルトも、すべてが重要な対応が一時に三つ同時に発生しては判断に迷う。

 グユククルクはその一瞬の隙を衝き、ジィズベルトの間合いの外へと脱出を果たした。


 だが、グユククルクの行動は、同時にジィズベルトの迷いをも打ち消した。

 イェ・ソン軍左翼の約半数を壊滅させることに成功した。

 これ以上の功にこだわるのは危険だ。

 ここを潮時と判断したジィズベルトは、乱戦を解くことにする。


 バトゥスレンも崩壊した前線部隊と連携が取れるなどとは考えていない。

 グユククルクを救出出来ただけでも十分だ。

 ヴォオス軍が乱戦を解くのに合わせて、僅かに生き残った前線部隊を回収し、撤退に移る。


 これに対して一人逆らったのがグユククルクであったが、

「お主はまずこの惨状に対する責任を取れっ!」

 と一喝され、ふてくされながら従った。


(二度敗れ、二度救われるとは、情けない……)


 ふてくされているのはうわべだけで、グユククルクの矜持はズタズタに引き裂かれていた。

 イェ・ソン軍最年少の将軍は、バウデヴェインとジィズベルトの二人により、その慢心をへし折られたのである。

 それでも命はある。

 この借りを返す機会は必ずあるはずだと、グユククルクは気持ちを切り替えた。

 だが、それは少し早計に過ぎた。









「グユククルク。この責任は取ってもらうぞ」

 ダグワボルドはバトゥスレンと共に帰還したグユククルクに対し、冷たく言い放った。

 それも当然で、グユククルクはエルフェニウスの策により、五千もの兵を失ったのだ。

 バトゥスレンの対応が遅ければ、五千が一万になっていても何の不思議もない失態だ。

 ただでさえ個人主義者の多いイェ・ソン軍は横のつながりが薄い。

 無能な敵に対して容赦など見せないが、無能な味方に対しては、敵に対する以上に容赦がない。


「グユククルクはまだ若い。挽回の機会を与えてもらえんだろうか?」

 こうなることがわかっていてグユククルクを救出したバトゥスレンが助命を願い出る。

 先のボルストヴァルト軍の追跡の際、窮地に陥ったグユククルクを救ったエルスバアトルも、今回は救いの手を差し伸べない。

 イェ・ソン軍にあってはそれが当たり前で、むしろグユククルクの助命を願い出たバトゥスレンの方が珍しいのだ。


「では死んだ五千の兵士たちの責任は誰が取る? バトゥスレン。お主が代わりに責任を取るとでもいう?」

 ダグワボルドの言葉に、バトゥスレンは返す言葉がない。

 グユククルクの失態により五千もの兵が失われたのは事実であり、その親族の多くが従軍している。

 個の感情が強いイェ・ソン兵に、階級の差はヴォオス軍程絶対ではない。

 信賞必罰。

 功に対しては厚く報い、罪に対しては厳しく罰する。

 これを徹底するからこそイェ・ソン軍はまとまるのだ。


 もし仮にここでグユククルクを許したとしても、死んだ兵士たちの親族が許しはしない。

 グユククルクは親族たちによって殺され、ダグワボルドは軍規を犯した親族たちを処罰しなくてはならなくなる。

 そうなったが最後、イェ・ソン軍は軍組織として崩壊してしまうだろう。


「誰かが責任を取るというのなら、それはお前だろう。ダグワボルド」

 ダグワボルドが今一番聞きなくない声が割り込んでくる。

 ここまで一言も発することなく戦況を眺めていたサルヒグレゲンだ。

 ダグワボルドはその言葉には答えず、消え失せろと言わんばかりに睨みつけた。

 その視線の意味を理解したうえで、サルヒグレゲンは平気でダグワボルドの反応を無視する。


「敵の伏兵に左翼が討たれたのは、間違いなくダグワボルドの失策だ。そもそも敵の布陣に合わせて正面からぶつかってどうする。この異常な地形の土地に精通していたとでもいうのか? ぶつかる前に斥候を出し、少しでも多くの情報を得るべきであろう。それを敵の布陣がイェ・ソン軍の最も好む重装騎兵を中心とした布陣であったため、簡単に正面から当たった結果がこの様だ。ヴォオス軍がイェ・ソン軍と同じ布陣を敷いて来たことそのものが罠だったのだ」

 ここまで一息でダグワボルドを糾弾する。


「ヴォオス軍の重装騎兵と当たっておかしいと思わなかったのか? だとしたらハウデンベルク城塞で流した血はすべて無駄だったということだな。そこでヴォオス軍の重装騎兵の実力を正しく把握出来ていれば、最初の突撃以降ヴォオス軍が受けに回り、守りを重視して損害を最小限に抑えていたことがすぐに理解出来たはずだ。はっきり言ってやる。重装騎兵の実力はヴォオス軍の方が上だ。今日互角以上に戦えたのは、奴らが我らを誘い込むための単なる芝居だ」

 重装騎兵に特別な誇りを持つイェ・ソン軍幹部たちが、サルヒグレゲンの言葉に殺気立つ。

 

「言わせておけば好き勝手なことを言いおってっ! ことが終わってからであれば、幼子でも貴様と同じように偉そうなことが言えるわ。そう思っていたのなら何故左翼が崩れる前に忠告しない。わかっていて黙っていたというのなら、それこそ貴様の責任問題だぞっ!」

 ダグワボルドが屁理屈のように聞こえるサルヒグレゲンの言葉に、正論で怒鳴り返す。


「戦況がこちらの優位に見える状況で、お前が私の忠告を素直に聞き入れたとでもいうのか?」

 しかし、サルヒグレゲンはダグワボルドの正論を鼻で笑い飛ばしてみせた。

 これに対し、ダグワボルドはうなるだけで一言も返せない。

 自分自身が一番よくわかる。

 優位な状況でのサルヒグレゲンの忠告になど、けして耳を貸さないことを。


「判断力に劣り、忠告も聞切れない将が指揮を執っていたのだ。敗れて当然。グユククルクは単にその煽りを受けたにすぎん。もっとも、被害が拡大した最大の原因は、グユククルクが突出し過ぎたことにあるがな」

 そう言うとサルヒグレゲンは、それまで一方的に責め立てていたダグワボルドから、グユククルクに視線を移した。

 その目に侮蔑が浮かぶのを、グユククルクは確かに見た。


「グユククルクを処刑するというのなら、ダグワボルドも処刑しろ。それが筋というものだ」

 サルヒグレゲンの言葉は屁理屈のようでいて真実を言い表している。

 それがわからない程頑迷で愚かな者はいない。

 だからといってグユククルクだけでなくダグワボルドまで失っては、軍の機能が損なわれてしまう。

 この状況をどう処理するべきか、誰も最善の答えを見つけ出すことが出来ないでいた。


「敵の策を見抜けなかった罪は、この軍に軍師として従軍している私の責任でございます。どうか責めはこの老骨の身一つで御勘弁いただきたい」

 そう言って進み出て来たのは、ジャンチブウゲであった。


「これが貴様らの望む結末か? 父祖の身を呪いとし、さらにこの老人の身に罪を背負わせ、それで自分たちは何事もなかったかのように過ごそうというのか? ジャンチブウゲは知恵者であって、軍師などではない。敵の戦術が見破れなくても当然だ。それでもこの事態を収拾しようと、その身を犠牲に罪を被ろうとしているジャンチブウゲを前に、一言もなく黙り込んでいる貴様らは、ただの卑怯者の集まりに過ぎん。恥を知れっ!」

 揶揄や皮肉でもって相手を責めることはあっても、ここまで真正面から他者を叱責するサルヒグレゲンは珍しかった。

 いつもであれば、返す言葉はなくとも舌打ちの一つくらいはして不快感を表すダグワボルドも、今回ばかりはそれすらない。


「知恵者などと恐れ多い。この場を治める言葉一つ見つけられないただの年寄りに過ぎません。サルヒグレゲン様。もしよい知恵がございましたら、この無知な老人にご教授いただけませんでしょうか」

 ジャンチブウゲ自身もサルヒグレゲンの怒りに驚きながら、なだめるように頭を下げた。


「難しく考える必要はない。そもそも今回のヴォオス侵攻は、これまでのように略奪目的で兵を起こしたのではなく、ヴォオスの土地を奪うために起こした兵なのだ。ある程度の結果で妥協出来るようなこれまでの戦とは根本的に異なる。負けて帰って、我らに明日口にする食糧があると思うか? 奪えなければイェ・ソンには滅びの道以外存在しないのだ」

 それは誰もが理解していたことであった。だが、一番真剣未に欠けるように見えるサルヒグレゲンが口にすると、改めてその重さを認識させられる。


「信賞必罰。それ自体は間違っていない。だが、今回の戦に限り、それはすべての結果が出てから行うべきだ。今はその結果を出すために、利用出来るものはすべて利用する。グユククルクの失策も、ダグワボルドの失策も、すべて最後に清算する。五千の兵が失われたこの結果に対する過失の大きさから、グユククルクが三千人。ダグワボルドが二千人分の働きを見せればこれを許すものとする。最後まで罪に見合った働きがなければ、五体を馬に引かせて八つ裂きにでもなんにでもすればいい」

 そう言って最後はサルヒグレゲンらしく冷たく笑う。


 イェ・ソンにおいて八つ裂き刑はもっとも重い罪に対して行われる刑罰だ。

 通常将校がその失策によって裁かれる場合、斬首によって処刑される。

 その死によって罪はあがなわれ、親族にまで裁きの手が及ぶことはない。

 だが、八つ裂きによって処刑されたとあっては話が変わってくる。

 もっとも不名誉なその死は、親族たちを社会的に抹殺することになるのだ。

 挽回の機会を与えると同時に、親族を人質に取り、死に物狂いで戦わせようとするサルヒグレゲンのやり口は、どう言いつくろっても悪辣以外の何ものでもなかった。


「明日以降の指揮は私が執る。いいな?」

 サルヒグレゲンの言葉に反論出来る者は一人もいなかった――。

次回は7月28日投稿予定です。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] >出現は、まるで崖の岩壁の中から湧き出してきたこのような錯覚を覚えさせた。 「この」の部分はいらないかもしれません。 >真剣未 真剣味 だと思います。
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