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ヴォオス戦記  作者: 南波 四十一
ヴォオス戦記・乱
70/152

ヴォオス増援軍

 急遽予定を変更し、王都から進発したオリオン率いるヴォオス軍二万は、驚異的な速度でハウデンベルクへと向かっていた。


 王宮騎士団の暴発による王宮占拠以降、リードリットと共にケルクラーデンの野で貴族連合軍と戦い、ヴォオス屈指の実力者であったブレンダンを一騎打ちで破り、荒れるブレンダンの愛牛をも一撃で仕留め、リードリットの推挙を受けてオリオンはいきなりヴォオス軍の将軍となった。

 リードリットの即位に対して果たしたオリオンの功績は、誰もが認めるところであるが、ヴォオス軍兵士としての実績が全くないオリオンに対し、『将』としての能力に疑問を持つ声は多かった。

 だが、ハウデンベルク城塞の救援へと向かうヴォオス軍の進軍速度が通常よりも早いのは、オリオンによる兵馬の体力管理が完璧であったからに他ならない。


 ヴォオス軍はリードリットに対し忠誠を誓ってこそいるが、これまでのリードリット及び赤玲せきれい騎士団に対する言動から隔意を拭い去ることが出来ないでいる。 

その対象は大将軍であるレオフリードを除いたリードリットの側近にも向けられていた。

 何かと問題の多いシヴァであるが、ヴォオス軍の叩上げという事実から、まだ受け入れようもあったが、まったく得体の知れないオリオンに対する隔意は強かった。

 それが『将』としての能力に対する疑念という形としてヴォオス軍内に広がりつつあったが、オリオンは戦いを前にして早くもその一部を払拭してのけていた。


 行軍速度を調整しつつ先頭を走っていたオリオンは、前方の変化を誰よりも早く察知した。

 素早く馬首を返すと、エルフェニウスのもとへと向かう。

 ヴォオス屈指の大貴族の子息であるエルフェニウスは、ヴォオス軍軍師第三席の地位にありながら、幼少期に仕込まれた高い馬術の技量により、ヴォオス軍の騎士でもギリギリの行軍速度に楽々ついて来ていた。


「前方に大軍がいる」

 まるで苦虫を噛み潰したかのように不機嫌な顔でオリオンが報告する。

 初めて顔を合わせた時は面食らったが、暴走しがちなリードリットの側近たちの中で、唯一暴走の歯止めとなれる冷静さを持ったオリオンに対し、エルフェニウスは尊敬に近い感情を抱いていた。

 自分でも自覚しているが、カーシュナーが持ち込んだ悪影響に、エルフェニウスもかなり毒されてる。

 そして毒され変わった自分を、エルフェニウスは自分でも気に入ってしまっていた。

 恐ろしいほどの感染力を誇るカーシュナーの悪影響に対し、微塵も毒されることなく自分を保ち続けるオリオンの希少性は、その表情が不機嫌なまま固まってしまったかのような顔という些細な事実を軽く吹き飛ばしていた。


 言われて前方に目を凝らしたエルフェニウスであったが、一般的な視力を持つ彼の目には、まだ何の変化も捉えられなかった。

「ボルストヴァルト軍に追いついたのだろうか?」

 オリオン率いるヴォオス軍は、先行するボルストヴァルト軍に合流すべく強行軍を続けているが、いくら予定より早く進軍出来ているとはいえ、追いつくにはまだ早過ぎる。


「そうかもしれないが、前方の軍勢はハウデンベルクへと向かうのではなく、こちらに向かって来ている。状況を確認するべきだ」

「こちらにっ!」

 予想外の言葉に、さすがのエルフェニウスも驚きを隠せない。

 だが、驚くと同時にエルフェニウスの頭脳は恐るべき速さで想定し得る可能性を洗い出しにかかっていた。


「頼めるか?」

 エルフェニウスは即座にオリオンに尋ねる。

 問われたオリオンは「何を?」などとは問い返さず、一つうなずくと飛び出して行った。

 エルフェニウス同様まだ前方の変化を確認出来ていない兵士たちが何事かと色めき立つ。

 

「ジィズベルトを呼べ。一度足を止める」

 指示を出しつつエルフェニウスは周辺の地形図を頭の中に展開する。

 最悪の事態として、エルフェニウスはハウデンベルク城塞が陥落し、救援に向かったはずのボルストヴァルト軍までも各個撃破され、イェ・ソン軍が南下して来ているという事態を想定した。

 だが、この後オリオンによってもたらされる情報は、エルフェニウスの眉をしかめさせると当時に、胸をなでおろさせもした。


 こちらに向かているのがボルストヴァルト軍であり、どうやら兵士だけでなく、民間人も同行しているらしいということから、エルフェニウスはハウデンベルク城塞の陥落を確定事項とした。

 だが、ボルストヴァルト軍が健在であることが確認出来たのは大きかった。

 万が一にも五大家の一角が滅ぶようなことになれば、ヴォオス国内の力の均衡が崩れてしまう。

 実際には残りの四家だけでも十分過ぎるほど強力なのだが、野心的なヴォオスの国内貴族はそうは見ない可能性がある。

 いつまでも内乱の可能性がくすぶり続けることは、今後のヴォオスの回復と発展の妨げにしかならない。 そういった意味でも、ボルストヴァルト家が冷静な判断を下してくれたことは、エルフェニウスにとって大きかった。


 問題のイェ・ソン十万の軍勢であるが、国土を荒らす侵略者である以上、数に関係なく撃退する以外に道はない。

 五万の予定が十万になり、撃退の難易度は大きく跳ね上がったが、エルフェニウスにとってはただそれだけのことでしかなかった。


 それにしてもとエルフェニウスは考える。

 この増援軍にオリオンがいなければ、誰もが視認出来る状況になるまで、エルフェニウスは事態の急変を知ることは出来なかった。

 もしこのまま進軍していたら、ボルストヴァルト軍と合流は出来ても、その後イェ・ソン軍に対して態勢を整えるために、ヴォオス領内深くへ撤退せざるを得なかっただろう。

 そして、ヴォオス軍が態勢を整え、対抗するための新たな選択肢を得られるまでに状況が変わったときには、ヴォオス軍以上にイェ・ソン軍の手元に多くの選択肢がそろっていたはずだ。


 想定する被害に応じて防衛限界線は変わる。

 ヴォオスとしてはイェ・ソンの侵攻を、ハウデンベルクのように、戦闘を念頭においた地域で防ぎたかった。

 だが、新たに引き直すことになったであろう防衛限界線は、戦う術を持たない人々の生活圏に深く食い込むことになっていたはずだ。

 そうなっていれば、イェ・ソン軍はヴォオス軍とボルストヴァルト軍の連合軍を倒すのではなく、同数の兵力によって膠着状態に持ち込めばよくなり、その間に残りの兵力でヴォオス国内を荒らし回ることが出来る。


 そうすれば、イェ・ソン軍は大量の食糧を得ることになり、これまでのように略奪だけを行いヴォオスを去るのではなく、領土支配も可能となってくる。

 腰を据えられてしまったら、イェ・ソン軍を撃退するのは容易なことではなくなってしまう。

 それをギリギリで防ぐことが出来たのは、間違いなくオリオンの功績だった。

 

「お主のその目がなければと思うと、さすがにゾッとする」

 ジィズベルトがオリオンを称賛する。

 進軍をやめ、後退を始めたヴォオス軍の現在位置からでは、未だにボルストヴァルト軍の姿すら確認出来ない。

 ジィズベルトも視力は鋭い方なので、余計にオリオンの凄さが理解出来るのだ。


「これからどうする? イェ・ソンの好きにさせるつもりはないのだろう?」

 ジィズベルトの賞賛に肩をすくめて応えたオリオンは、エルフェニウスに尋ねる。

 暗殺者として鍛え上げられたオリオンの五感は、常人をはるかに上回っている。

 オリオンにとって視力が優れていることはごく当たり前のことであり、賞賛を受けたからといって驕るようなことではなかった。


「ボルストヴァルト軍への伝令は置いて来た(、、、、、)。あとはイェ・ソン軍を<北の魔境(、、、、)>へ引きずり込むだけだ」

 答えるとエルフェニウスはニヤリと笑った。

 その頭の中には、すでにイェ・ソン軍十万に対する戦術が編み上がっている。


 自軍の軍師の頼もしい笑みに、ジィズベルトもニヤリと笑う。

 先の大反乱で、両者は共に戦い、敗れ、命を拾っている。

 最終的に敗れはしたが、ヴォオス二大英雄の一人、アペンドール伯爵を打ち破ってみせたエルフェニウスの実力を、ジィズベルトはよく知っていた。

 

 そんな僚友二人に頼もしさを感じつつ、オリオンはずいぶんとカーシュナー的な空気になったものだと呆れてもいた。

 エルフェニウスもジィズベルトも、元は生真面目な人柄で、戦の最中に笑みを見せることなどない人物だったのだが、多少なりともカーシュナーと絡んだことでずいぶんと人間が変わってしまっている。

 だが、窮地にあって精神的余裕を保ち続けられるその変化は、もはや変化ではなく成長と言えた。


 ヴォオス増援軍は、その進路を僅かに北に取り、ハウデンベルク城塞陥落の一因となった、屍食鬼グール人面鳥ハーピーの棲みかでもある<北の魔境>へと向かったのであった――。









 ボルストヴァルト軍のしんがりはイェ・ソン軍の猛追を懸命に防ぎながら走り続けていた。

 重装騎兵で有名なイェ・ソン軍であるが、重装騎兵が整備される以前までは、ヴォオス軍同様軽装騎兵の速度を重視した戦いを主軸としていた。

 現在のイェ・ソン軍の戦術は主力の座こそ重装騎兵に譲りはしたが、それよりもはるかに古い歴史を誇る軽装騎兵が排除されたわけではない。

 むしろ重装騎兵という近隣諸国を震え上がらせる主軸が出来たことで、軽装騎兵の遊撃能力が生かされることになり、イェ・ソン軍全体の力が底上げされることになった。


 現在ボルストヴァルト軍を襲撃しているのも、イェ・ソン軍軽装騎兵遊撃部隊で、その速度はさすがのボルストヴァルト軍の軍馬でも振り切ることは出来ない。

 だが、対イェ・ソン対策を長年講じてきたボルストヴァルト軍は、食らいつかれることも想定済みで、しんがりには特に装備の厚い重装騎兵が配置されており、イェ・ソン軍軽装騎兵の放つ矢を、ことごとく弾き返していた。


 このままではいたずらに矢を消費するだけで、被害を与えるどころか足止めにすらないと判断したイェ・ソン軍軽装騎兵は、距離を取ることをやめ、直接ぶ厚い鎧の隙間を刺し貫こうと一気に加速した。

 率いる将はイェ・ソン軍最速と謳われるグユククルクで、その加速は速度においては大陸最速とされるイェ・ソン軍馬の名に恥じない凄まじいものであった。


 足を緩めたわけではないボルストヴァルト軍の最後尾に、イェ・ソン軍軽装騎兵が一気に迫る。

 だが、最後尾で密集隊形を取り、壁となって耐えていたボルストヴァルト軍の重装騎兵が素早くその密集を解くと、その隙間をすり抜けるように、バウデヴェイン率いる迎撃部隊が飛び出した。


 完全に虚を衝かれたイェ・ソン軍軽装騎兵は、もはや回避することすら不可能な距離まで迫っていたため、バウデヴェイン率いる迎撃部隊と真正面から激突することになった。

 先の戦いで、重装騎兵同士の衝突でさえ一方的な展開となったボルストヴァルト軍重装騎兵の突進に、速度重視の軽装騎兵が激突すればどうなるか、それは人の想像を上回るほどの凄惨な結果を生み出した。


 イェ・ソン軍軽装騎兵は弾き飛ばされるのではなく引き潰されることになり、バウデヴェインが駆け抜けた後には、人馬入り混じった肉塊の絨毯が大地に敷き詰められていた。

 イェ・ソン軍を突破したバウデヴェインは隊を二分して旋回し、今度は斜め後方から、ボルストヴァルト軍のしんがりに押しつけるように挟撃する。


 ボルストヴァルト軍から迎撃の第二陣が出撃したことで、三方から攻め立てられることになったイェ・ソン軍軽装騎兵は、壊滅的な打撃を被ることになった。

 その中で、一人気を吐いたのが、指揮官のグユククルクであった。


 イェ・ソン人としては大柄であるが、ヴォオス人とは思えない巨漢揃いのボルストヴァルト軍騎士に囲まれると、グユククルクも乗馬も、子供のようにしか見えない。

 だが、その体格的不利を補って余りある速度と技量によって、グユククルクは瞬く間に三人のボルストヴァルト軍の手練れを葬っていた。


 そして四人目の喉を刺し貫いた直後に、グユククルクは影の中に呑み込まれた。

 振り向くようなことはしない。

 グユククルクと乗馬は一体となり、瞬時に影の中から飛び退った。

 そのギリギリ脇を、バウデヴェインの戦斧がうなりを上げて通り過ぎて行く。


「図に乗るなよ、ヴォオス人」

 シンコルとドクシンを討ったのが、髭面の化け物の様なヴォオス人だと聞いていたグユククルクは、背後から襲い掛かって来た男がその髭面の化け物だと瞬時に悟り、鋭く睨みつけた。

 自分の倍はありそうは巨体を誇るバウデヴェインを前にしても、微塵も怯まない。

 それだけでバウデヴェインは、目の前のイェ・ソン軍武将が、先に倒したシンコルとドクシンより格上であることを悟る。


「他国の領土に攻め入っておいて、図に乗るなとは、厚顔無恥のイェ・ソン人らしい物言いだ。エストバ人の方がはるかに知的と言われるのも当然だな」

 エストバ人にはイェ・ソン人の血も流れている。

 イェ・ソンの現王朝を築いた古代帝国ベルデの皇子に従わず、新天地を求めてイェ・ソンを離れた者たちが流れ着き、先住民によって受け入れられたことによって誕生したのがエストバである。

 

 同じ血筋を辿るが故に、その建国の経緯からイェ・ソンとエストバは、ヴォオスに対する以上に不仲であった。

 それだけに、両国の人間は互いに比較されることをひどく嫌う。

 バウデヴェインがグユククルクの言葉に対し、エストバ人を引き合いに出したのも、それがグユククルクをひどく苛立たせるとわかっているからだ。


「あんな山羊臭い連中と比べるなっ!」

 案の定、グユククルクは顔を真っ赤にして挑みかかって来た。

 部下を四人も討たれたバウデヴェインは、容赦なく真っ二つにしようと戦斧を振るう。

 だが、バウデヴェインの攻撃は空を切るばかりで、グユククルクの身体を捉えることは出来なかった。


「うすのろがっ! そんな攻撃が当たるのは、満足に馬も乗りこなせんエストバ騎兵ぐらいのものだっ!」

 バウデヴェインの攻撃を、すべて紙一重でかわしてみせたグユククルクが、先程の仕返しとばかりにバウデヴェインを罵る。

 

 グユククルクの乗馬を含めた身のこなしは、同じ騎馬の民であるヴォオス人の目から見ても見事であった。

 下手をすれば、馬術のみに限定した場合、ヴォオスにはグユククルクに対抗出来る者はいないかもしれない。

 グユククルクの技量はそれほどまでに優れていた。


「今度はその髭面斬り……」

 落としてやるわっ! と続けたかったグユククルクであったが、小うるさいとばかりにバウデヴェインが無造作に投げつけた戦斧が乗馬の首を半ば以上まで切り落とすと、それどころではいられなくなってしまった。


 乗馬が地面に倒れる前に素早く飛び降り、下敷きになることを避けたが、次の瞬間バウデヴェインの乗馬が棹立ちになり、グユククルクの顔程もある蹄を振り下ろしてきた。

 慌てて飛び退くグユククルクの頭上に、今度はバウデヴェインのもう一本の戦斧が襲い掛かる。


 グユククルクは懸命に身を引きつつ、それでも心の冷静な部分では、すでに自身の死を受け入れていた。

 こんなところで死ぬのか――。

 そんな思いが脳裏をよぎった瞬間、強弓がうなりを上げて飛来し、バウデヴェインの戦斧の先端と捕らえた。


 恐るべき勢いであったが、所詮は一本の矢でしかない。

 重量ではるかに優るバウデヴェインの戦斧はわずかにその軌道を逸らしただけで、勢いは微塵の衰えも見せずに振り切られた。

 だが、そのわずかな軌道のずれがグユククルクの命を救う。

 軽装騎兵用の皮鎧を容赦なく斬り割いたバウデヴェインの戦斧であったが、その下のグユククルクの肉体までは切裂くことは出来なかった。

 もし放たれた矢が戦斧の先端ではなく、バウデヴェインを狙っていたら、グユククルクは真っ二つに切裂かれて地面に転がっていただろう。


 矢を射放った主が、次の矢を構えながらバウデヴェインに突進する。

 一瞬そちらにバウデヴェインの意識が向いた隙に、グユククルクは持ち前の俊敏さを生かし、イェ・ソン軍に死を振り撒く戦斧の間合いから脱出する。


 ここで迷いを見せないところが、バウデヴェインの非凡さを物語っただろう。

 あと一歩まで追い詰めたグユククルクにあっさりと見切りをつけると、バウデヴェインは自分の威容に対し、微塵の気おくれも見せずに突っ込んで来る新たな敵に向き直った。


 その背からは二本の曲刀が顔をのぞかせているが、その手は今も弓を引き絞ったまま近づいている。

 近距離から射放つつもりのようだ。

 だが、バウデヴェインはまるで恐れる風もなく、グユククルクを仕留める邪魔をした敵へと向かっていく。

 敵もイェ・ソン人とは思えない長身ではあるが、極限まで削られた肉体はしなやかで細く、バウデヴェインの前では熊に襲われかけている鹿のように見える。


 剣の間合いの一歩手前。

 敵将はバウデヴェインの右目を狙って恐るべき正確さで矢を射放った。

 バウデヴェインが戦斧を振りかぶるまで引きつけての一矢だ。

 その胆力にバウデヴェインは素直に感心した。

 そしてわずかに顔を伏せると、右目を狙って射放たれた矢を、兜の縁で受け流し、相手の胴体を真っ二つにせんばかりの勢いで、戦斧振り抜いた。

 戦斧によって砕かれた弓が宙を舞う。


 だが、飛び散ったのは弓の破片ばかりで、血の飛沫一滴宙には舞っていない。

 敵将は射放った矢に対し、バウデヴェインがわずかに頭部を下げた瞬間には弓を放り投げ、馬に頭を下げさせると自身は鞍から滑り降り、馬腹にしがみついて戦斧の一撃を回避したのだ。

 軽業師のごとき妙技を駆使してバウデヴェインをかわした敵将は、そのままグユククルクのもとへと走り抜ける。


 バウデヴェインも即座に追うが、グユククルクは全速で駆ける味方の乗馬にいともあさり飛び乗り、バウデヴェインにつけ入る隙を与えなかった。

 力でも体格でもバウデヴェインの乗馬に及ばないイェ・ソンの馬ではあるが、最高速度だけは上回っている。

 人間二人を乗せているが、それでも重装備のバウデヴェインよりその重量は軽い。

 一馬身離された時点でバウデヴェインは追うのを諦め馬首を返した。


「おいっ! エルスバアトルっ! 馬を貸せっ! あのでかぶつ野郎、絶対俺に勝ったと思っているはずだっ! ぶっ殺してやるっ!」

 バウデヴェインが引き返す気配を感じたグユククルクが、命の恩人であるエルスバアトルの耳元で怒鳴る。

 エルスバアトルは不快気に眉をしかめると、グユククルクの脇腹に、鋭い肘鉄を入れた。

 皮鎧をバウデヴェインに切裂かれていたグユククルクは、まともに脇腹にくらい、息を詰まらせ黙り込む。


「目上の人間に対してなんだその態度わ。助けた礼を言えとまでは言わんが、耳元でみっともなく喚くな」

 激発したグユククルクとは対照的に、エルスバアトルが冷静に諌める。

「……軍属は俺の方が先輩だ……」

 なんとか言い返したグユククルクであったが、今度は逆の脇腹に肘鉄を受け、再度沈黙させられる。


「あれは化け物だ。相応の対策を練ってからでなければ討つことは出来ん。相打ちすら難しい相手だ」

「だからって、ここで退いたらヴォオスの連中になめられるだろ」

 言葉使いは改善されないが、二発も手痛い目に遭ったグユククルクは、声を荒げず言い返す。

「そもそも、貴様に馬を貸すとして、俺はどうするんだ?」

 もっとも基本的な質問がグユククルクに投げかけられる。

「……あ~、考えてなかった。走って帰……」

 グユククルクはそれ以上言葉を続けることが出来なかった。

 怒ったエルスバアトルが、本気でグユククルクを馬から落とそうとしたからだ。


「わ、悪かったっ! 悪かったってっ! 助けてくれたことにも感謝してるから、落とすなって……」

 はたから見れば余裕でふざけ合っているようにしか見えないが、とりあえず、エルスバアトルは本気だった。

「小さな功に焦るな。我らはヴォオスからこの地を奪い取らなければ、いつ滅んでもおかしくない状況にあるのだ。個人の勇も、イェ・ソン人の名誉も、目的の前では無意味だ」

「……それじゃあイェ・ソン人じゃねえ」

 理屈ではわかっているのだろう。それだけにグユククルクの反論は、歯切れの悪いものになる。


「土地を奪うということは、今後はその土地を守るということでもある。それはイェ・ソン人の生き方ではない。だが、そうしなければイェ・ソン人はこの先必ず滅びることになる。我々はもう、今までのイェ・ソン人ではいられんのだ」

 グユククルクに対して理屈を並べるエルスバアトルであったが、その声に苦さが混じることを抑えることは出来なかった。

 

 イェ・ソン軍で一番若い将軍であるグユククルクは、心の声をそのまま吐き出してしまうが、四つほど年長のエルスバアトルは、重ねた年月の分心の声を吐き出さずに呑み込む術を心得ている。

 それだけに、秘めた不満はグユククルクよりもエルスバアトルの方が大きいのかの知れない。


 ボルストヴァルト軍により蹴散らされた格好となったイェ・ソン軽装騎兵であったが、撤退する眼は怒りに満ち、その士気が全く低下していないことを表していた。

 これを深追いすることなく素早く兵を引いたバウデヴェインも、グユククルクとエルスバアトルという二将の実力を知り、勝った気分に浸ることは出来なかった。

 先の戦いで一撃で葬ったシンコルとドクシンの二将も、けして弱い将ではなかった。

 バウデヴェインは、その兵数以上に、武将の質の高さがヴォオスを苦しめることになることを、この時予感したのであった――。









「父上、どちらに向かっているのですか?」

 後方でイェ・ソンの追撃部隊に対して備えていたバウデヴェインであったが、軍の進行方向が北にずれたことを不審に思い、中央で全体を指揮しているアウグステインのもとへ駆けつけていた。


「ヴォオス軍の増援が来てくれたぞ」

 息子の問いに対して、アウグステインは直接には答えなかった。

 こういう時の父親は、何か面白いことを見つけた時と相場が決まっていたので、バウデヴェインは一安心した。


 撤退予定だった方向で、何か予想外の事態が発生したのではないかと危惧したのだ。

 相対しているイェ・ソン軍があまりに強力過ぎるため、意識をすべて対イェ・ソンに持っていかれそうだが、ヴォオスは現在ルオ・リシタとエストバからも侵攻を受けている。事態がどう転ぶかは、まだ予断を許さない状況にあるのだ。


「その割には、まったく気配を感じませんが?」

 遠く前方、左右を見回したが、どこにも万を超える軍勢の形跡は見当たらない。

 それだけの規模の軍勢が近づけば、わからないはずがないのだ。


「わしらにわからんということは、イェ・ソン人共にもわからんということだ」

 アウグステインの言い回しに、バウデヴェインはおおよその状況を理解した。

 ヴォオス軍の増援は、これだけの早さで追いつき合流するだけでも十分だというのに、どうやらすでにイェ・ソン軍に対する仕掛けまで用意しているようだった。


 事実エルフェニウスはイェ・ソン軍に自分たちの存在を悟らせないために、ボルストヴァルト軍への伝令を走らせるのではなく、合流予測地点に伝令を置いて(、、、)増援軍の状況をボルストヴァルト軍に伝えた。

 遊牧民でもあるイェ・ソン人は、ヴォオス人よりもはるかに視力に優れる。

 馬蹄が蹴り上げるたった一本の土煙でも発見し、警戒を強める可能性がある。

 数で圧倒的に優るイェ・ソン軍を、このまま走らせるわけにはいかない。

 どこかで一度、その足を止めさせる必要がある。

 止めない限り、戦いの主導権は常にイェ・ソン軍の手の中にあり、数で劣るヴォオス軍は、受け身である間は状況を変えることは出来ないからだ。


 エルフェニウスは細心の注意を払い、イェ・ソン軍がヴォオス一般民の生活圏に侵攻する前に、その足を止めるつもりでいた。

 一般兵たちにはまだ浸透していないが、本来であれば、ボルストヴァルト軍とヴォオス増援軍は、イェ・ソン軍十万に押し込まれ、ヴォオスにとって致命傷に近い状況に追い込まれていたはずだ。

 それが追い込まれるどころか、反撃の一手を打てるまでの状況を作り得たのは、ひとえにオリオンの突出した能力があればこそだった。


 力を誇示し、主張しようとしないオリオンの真価に、懐疑的であったヴォオス軍の士官たちもようやく気づき出したのであった――。









 ボルストヴァルト軍とイェ・ソン軍の距離は、じりじりとその差を詰め始めていた。

 どちらも重装騎兵が主軸の軍であるため、軽装騎兵ほどの速度は出せない。

 だが、軍馬の質の差のため、始めは開きつつあった差であったが、イェ・ソン軽装騎兵の度重なる襲撃と、ハウデンベルク城塞から救出した負傷兵と避難民の足が鈍り始めたため、ボルストヴァルト軍はその速度を維持出来なくなっていた。


 遊牧民が大半を占めるイェ・ソン人は、生活の糧である羊を襲う狼を狩る狩人でもある。

 逃げるボルストヴァルト軍を追うイェ・ソン軍の兵士たちは、その背中が徐々に近づくにつれ、代々受け継がれてきた狩人としての本能を刺激され、前へ前へと駆り立てられていた。


 針路が北に逸れていることはイェ・ソン軍にもわかっている。

 だが、ハウデンベルク城塞から北に向かったところで、軍事拠点などないことはイェ・ソンも承知していた。

 ヴォオスほどではないが、イェ・ソンも諜報活動を行っている。

 イェ・ソン国境にほど近い位置に、新たな軍事拠点建設などという大きな動きがあれば、イェ・ソンの耳にも入る。


 追われているボルストヴァルト軍が北に進路を取ったのは、ひとえにイェ・ソン軍をヴォオス中心部へ向かわせないためだとイェ・ソン軍は判断した。

 それに、二万を超える軍勢を放置し、ヴォオス中心部へ向かった場合、背後に常にボルストヴァルト軍を背負うことになる。

 正面から当たるのであれば、十万のイェ・ソン軍の前に、ボルストヴァルト軍二万五千など敵ではないが、背後を衝かれるとなると二万五千という数字は脅威となる。

 イェ・ソンとしても、ボルストヴァルト軍が望むのであれば、ヴォオスの北の地を墓場にしてやるだけであった。


 その視界に、<北の魔境>の一端が捉えられる。

 草原の国であるイェ・ソンには、森林が少ない。まともに木を見たことのない者の方が多いくらいだ。

 <北の魔境>外縁部は、ヴォオス北部地方のどの森林と比較しても、これといった違いはない。

 だが、近づくにつれてまるでのしかかって来るかのようなその威容は、<北の魔境>の存在を知らないイェ・ソン人にも精神的圧力をもたらした。


 ヴォオス人もイェ・ソン人も騎馬の民である。

 だが、国土の性質の違いから、ヴォオス軍は森林戦でもその強さを発揮する。

 ヴォオス軍が北へ針路を取ったのは、この森林へと逃げ込み、自分たちをなんとか振り切ろうと考えたのだとイェ・ソン軍は判断した。


「逃げ込まれると厄介だ。軽装騎兵はヴォオス軍と森の間に割り込めっ!」

 ダグワボルドが指示を出し、軽装騎兵一万が飛び出して行く。

 ハウデンベルク城塞はすでに陥ち、現在は自軍の四分の一の勢力を追っている。

 イェ・ソン国王シイングドルジにとって、現在の状況は戦いではなく対ハウデンベルク城塞戦の戦後処理でしかなかった。

 そのため指揮はダグワボルドに一任されている。


「伏兵を考えた方がいいのではないか?」

 パンツァグバータルが同僚に注意を促す。樹木の生い茂った森林は見通すことが不可能で、兵を隠すのにうってつけだった。


「ここに兵を伏せる意味があるのか?」

 パンツァグバータルの忠告に、ダグワボルドが反論する。

「そんな兵力があるなら、始めから全軍で俺たちに当たればいい話だろう。そうしていれば、俺たちは未だにハウデンベルクで足止めをくっていたはずだ」


 ダグワボルドの反論は正しい。

 今もボルストヴァルト軍は各個撃破の危機的状況にある。

 イェ・ソン軍本隊が十万もの軍勢であったことを、ヴォオス軍は知らなかったはずだ。

 知っていればそもそもハウデンベルク城塞は放棄され、防衛線をヴォオス領内深くに引いていただろう。


 その証拠に、ハウデンベルク城塞は防衛に徹したことによりイェ・ソン軍の『腐毒の呪印』により陥落寸前にまで追い込まれ、僅かに残った兵士や負傷兵、民間人を救出するために、ボルストヴァルト軍は危険な突撃を敢行することになった。

 結果救出には成功したが、そもそもハウデンベルク城塞での防衛を始めから諦めていれば、ハウデンベルク城塞兵の被害もなければ、救出のための危険を冒す必要もなかったのだ。


 イェ・ソン軍の現在の優位は、ヴォオス軍の推測を大きく上回ることが出来たからであり、ヴォオス軍の対応はすべて後手に回らざるを得ない状況にある。

 その状況下でイェ・ソン軍を出し抜いて罠を張るには、十万のイェ・ソン軍に対抗出来るだけの態勢をまず整える必要がある。

 だが、イェ・ソン軍本隊の存在すらまだリードリットのもとに届いていない現時点では、それは不可能だった。


 腹立たしいかぎりではあるが、侮りがたい突破力を誇るボルストヴァルト軍に対してイェ・ソン軍は無理に仕掛けず、確実にその距離を詰めることに専念する。

 ボルストヴァルト軍もむざむざ背後から討たれて敗れるつもりはないはずなので、遠からず兵を返し、イェ・ソン軍と向き合うことになるはずだ。

 ハウデンベルクでの雪辱を誓うイェ・ソン軍は、意識をボルストヴァルト軍が兵を返す瞬間に集中させていた。


 そのため、<北の魔境>に対し、無防備にその横腹をさらしていたイェ・ソン軍は、その瞬間を、傾く陽射しによって長くなる影が、さらに長く伸びたようにしか感じられなかった。

 だが、その影はイェ・ソン軍を呑み込むと、無防備だった横腹を、大きく喰い千切ったのであった。


「敵襲っ!!」

 あり得ないその言葉に、イェ・ソン軍に動揺が走る。

 ダグワドルジはその人柄とは異なり、常識的にみて正しい判断を下していた。

 いや、ヴォオス増援軍にオリオンが加わってさえいなければ、その判断は未来を見通したかのようにダグワボルドの予想通りになっていたはずだった。 

 だが、たった一人の男の存在のために、ダグワドルジの予想と、イェ・ソン軍の優位は覆されたのであった。


 イェ・ソン軍にとってもっとも憎むべき男は、<北の魔境>から飛び出し、イェ・ソン軍の横腹に喰らいついていた。

 虚を衝かれた上に、機動力で劣る重装騎兵のイェ・ソン軍は、オリオン率いるヴォオス増援軍の奇襲に対し、その向きを変えることすら出来ずにいる。


 オリオンは一瞬も留まることなく、イェ・ソン軍中央を目指して突き進んでいた。

 狙うはイェ・ソン国王シイングドルジの首一つ。

 そのあまりに速い突撃に、他のヴォオス騎士たちは置いて行かれまいと必死で食らいつく。

 すぐ隣で馬を走らせていたいたはずのジィズベルトも、置いて行かれないようにするのでやっとの状況であった。


 二刀を得意とするオリオンであったが、この時は突破を優先し、長槍を手にしていた。

 立ち塞がろうとするイェ・ソン兵たちを、一突きごとに葬り去る。

 その槍先はイェ・ソン兵の重装備の僅かな隙間に、吸い込まれるように滑り込み、逆に一瞬でその命を吸い取っていた。


 この事態に先頭近くにいるダグワボルドとパンツァグバータルはどうすることも出来なかった。

 奇襲と同時にボルストヴァルト軍が兵を返したため、国王のもとへと向かうことが出来なくなってしまったのだ。


 いったい何人のイェ・ソン兵を倒したのか、始めから数える気などなかったオリオンは、イェ・ソン軍の動揺の隙を衝き、ついにイェ・ソン軍中央本陣へと辿り着いた。

 ここまで多くのイェ・ソン兵の血を吸ってきた長槍も、最後の一突きでへし折れてしまう。

 オリオンは折れた槍を投げつけて、さらにもう一人のイェ・ソン兵をヴォオスの地に沈めると、二刀を抜き放った。

 そして一際豪奢な鎧に身を包む、長身痩躯の秀麗な人物目掛けて突き進んだ。


「トルイゾリグ、片づけて来い」

 自分目掛けて突進して来る黒衣のヴォオス将に対し、シイングドルジは微塵も慌てることなく腹心の部下に命令を下す。

「はっ!」

 これに応えてトルイゾリグが、長槍を手に進み出る。


 とてもイェ・ソン人には見えないその巨体は、二メートルを超えていた。

 カーシュナーのように細く引き締まった肉体に、カーシュナー以上に長い手足をしたその男は、イェ・ソン東部の近隣の国々から<蜘蛛将軍>として恐れられるイェ・ソン最強の男であった。

 けして大きくはないイェ・ソンの馬に跨っているため、その足は地面につきそうになっている。


 纏うその気は敗北を知らない者だけに許される<百戦不敗の気>。

 ここまで怒涛の勢いで攻め込んで来たヴォオス軍騎士たちも、トルイゾリグの気配を前に思わず手綱を引く。

 だが、一人オリオンのみ、微塵も怯まず加速する。

「恐れを知らぬことは、決して勇気ではないぞ、若造」

 怯まないオリオンに対して、トルイゾリグは冷たく呟く。


 両者の距離が近づき、トルイゾリグが先に仕掛ける。

 本来であればとても攻撃が届くような間合いではないのだが、その大きな身体と長い手足、長槍を片手で容易く操るその力により、トルイゾリグの攻撃は、真っ直ぐオリオンの喉元へと吸い込まれていった。


 トルイゾリグの槍がオリオンの背に抜ける。

 誰もが刺し貫かれたと思ったが、オリオンは僅かな首の振りと、馬首を転じただけで、トルイゾリグの恐ろしい槍先をかわしてみせたのであった。

 かわすと同時にオリオンは剣先を槍に添わせる。

 弾くのでも、切り捨てるのでもなくだ。


 突いた速度と同じ速さで槍が引き戻され、再び突き出される。

 並の騎士なら百回挑んで百回刺し貫かれる一撃を、オリオンは今度も容易くいなしてみせた。

 添わせた剣の先からその軌道を読み取ったのだ。

 さらに両者の距離が詰まり、槍のトルイゾリグの間合いから、剣のオリオンの間合いへと変わる。


 両者の激突をかたずを飲んで見守っていたヴォオス騎士たちの中に歓喜が生まれたのに対し、イェ・ソン兵たちの中には何も生まれなかった。

 焦りも、恐怖も、イェ・ソン兵を捕らえることはなかったのである。


 トルイゾリグは再び槍を引く。

 それまで以上に速く、そして、深く(、、)――。

 恐ろしいことに、トルイゾリグはそれまで槍の石突き付近を握って槍を操っていたのだ。

 通常の持ち位置に戻したことで、間合いはまだトルイゾリグのものだった。


 これまで列国の多くの武将たちが、錯覚によって間合いを見誤り、トルイゾリグの前に倒れて来た。

 だがオリオンは、剣を添わせていたことで、感触だけでトルイゾリグの攻撃の本質をすでに見切っていた。

 三度くり出されたトルイゾリグの突きが、もはや目で追うことが不可能な速度に達する。

 それ程の突きを至近距離から放たれながら、オリオンは槍先に剣先を合わせ、再びいなしてみせた。


 これにはイェ・ソン兵だけでなく、突きを放ったトルイゾリグの表情も変わる。

 今度こそ間合いに入られたトルイゾリグは、槍を薙ぎ払うことで強引にオリオンを間合いから追い出そうとした。

 だが、オリオン自身が間合いから抜け出すように動いたため、その強引な攻めは派手に空を切ることになる。

 

 トルイゾリグの膂力は人間の領域を超えていた。

 それだけに、トルイゾリグの全力で振り抜かれた槍は、遠心力も加わったことで、持ち主であるトルイゾリグの引き戻そうとする力に逆らった。

 半瞬もないその隙を、オリオンは見逃さない。

 もはやトルイゾリグの方すら見ずに剣を一閃し、トルイゾリグの右手を、槍ごと斬り飛ばす。


 そしてトルイゾリグにはかまわず、一気にシイングドルジへと詰め寄る。

 イェ・ソン軍の誰も想像していなかった展開に、反応出来る者はいない。

 それは自分へと迫りくるオリオンを見つめるシイングドルジ本人も同様であった。


 トルイゾリグと対峙しながら、その先いるシイングドルジを見ていたオリオンの刃が恐るべき速さで迫る。

 シイングドルジも剣に手を伸ばすが間に合わない。

 誰もがイェ・ソン国王の死を想像したその瞬間、オリオンの背に恐るべき一撃が襲い掛かった。


 五感の全てが優れるオリオンは、背後から自分に迫る死の一撃を察知していた。

 もしここで、命を捨ててシイングドルジを討つことで、この戦い全体に勝利をもたらすことが出来たとしたら、オリオンはそのまま剣を振り下ろしていただろう。

 だがオリオンは、シイングドルジに振り下ろされかけたオリオンの剣を、冷静に見つめる視線に気づいていた。

 

 ここでシイングドルジを討っても戦いは終わらない――。


 一瞬の間にそこまで判断したオリオンは、シイングドルジへの攻撃を中断し、背後から迫る攻撃を迎撃した。

 打ち落とされた槍が大地で跳ね、邪魔な付属物が外れて転がる。

 トルイゾリグの右手だ。


 右手を斬り落とされたトルイゾリグは、悲鳴を上げるどころか一瞬の遅滞もなく馬首を返し、まだ空中にあった自身の右手付きの槍を取ると、オリオンの背中目掛けて投げつけたのだ。

 右手の傷口から噴き出すように血を流しながら、トルイゾリグはかつてない雄敵を睨みつけた。

 右手は若造と侮った自分への戒めとして受け入れたため、斬り落としたオリオンに対して微塵の恨みも抱いていない。

 もしこの時、右手を斬られたことで怒り狂い、オリオンに斬り込んでいたら、トルイゾリグはその時点で死んでいただろう。


 右手は斬り落とされたが、国王の命を救ったことで五分と考えたトルイゾリグが、オリオンに対して獰猛な笑みを見せる。

 だが、その目がオリオンの手に一本の剣しか握られていないことに気がつくと、一気に青ざめた。

 オリオンの背中越しに、シイングドルジが馬上から滑り落ちる光景がトルイゾリグの視線を独占する。


 オリオンは投げつけられた槍を迎撃すると同時に、意趣返しというわけではないが、シイングドルジに対して剣を投げつけていたのだ。

 投げつけられたシイングドルジも咄嗟にかわそうとしたが、オリオンの剣はシイングドルジの脇腹を捉え、深々と突き刺さっていた。


「足を止めるなっ! このままイェ・ソン軍を切り裂けっ!」

 深手ではあるが、致命傷にまでは至っていない。

 とどめを刺そうと誰でも欲をかく場面で、オリオンは冷静に撤退を選択した。

 これ以上この場に留まることはヴォオス増援軍の全滅を意味し、たとえシイングドルジを討てたとしても、イェ・ソン軍自体はけして崩れないと判断したからだ。


 再びオリオンを先頭に走り出したヴォオス増援軍は、イェ・ソン軍を切り裂いて真っ二つにし、その足を見事に止めてみせた。

 そしてこの一戦で、イェ・ソン国王シイングドルジと、イェ・ソン三大将軍の一人であり、総指揮官でもあるトルイゾリグの二人に深手を負わせたオリオンは、ヴォオス軍に留まらず、イェ・ソン軍にも強烈にその強さと存在感を示したのであった――。 

 

次回は7月14日投稿予定です。

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