王宮解放
何故こうなった――。
まるで内側から焼かれているかのような胸の痛みに耐えながら、サミュエルは自問する。
だが、いくら問いかけたところで、答えは見つからない。
それは始めから自分の中には答えがない苦悩に対する問いかけだった。
サミュエルの父は、貴族社会における格に対してひどく敏感な人だった。
領地を有する上級貴族や、ヴォオス建国から続く、公爵などの大貴族に対して、哀れなほど気を遣う人だった。
その反動からだろうか、父は地位を持たない人々に対してひどく不遜な態度をとり、理不尽な言葉を吐きかける人だった。
サミュエルはどちらの父も嫌悪していた――。
貴族とはいったい何なのだろうか?
高貴な生まれを誇示し、生得の権利を振りかざし、欲求のままに生きている。
その行いのどこを探せば言葉に見合うだけの高潔さが見つかるのだろう。
実にくだらないと思っていた。
サミュエル自身が家督を継ぎ、子爵となるまでは――。
くだらないと思っている者に対して下げなければならない頭。
くだらない言葉へのわざとらしい追従。
くだらない人間へと堕ちてしまった自分自身――。
サミュエルはくだらないと感じることすべてを覆してやりたかった。
手段はあった。
その才覚で大貴族すらも抑えつけてしまう男、宰相クロクスに仕えることだ。
道はこの一本のみ。
サミュエルに人生を逆転させる機会は、格がすべての貴族社会において、他には存在しなかった。
レオフリードは初めて出会った尊敬に値する大貴族であった。
彼の下で努めた日々は、サミュエルに軍人としての満足感をもたらした。
努力は結果を導き、サミュエルにその能力にふさわしい地位ももたらした。
それだけに、余計に貴族社会における格に対する不満が浮き彫りになる。
自分に能力がないのなら、立場も受け入れようがある。
貴族としての責任。
責任を遂行する能力。
どちらも併せ持ち、もっとも必要な責任感もある。
だが、目の前にある果たすべき責任を、立場が邪魔をして傍観しているしかない。
立場をわきまえろ――。
出過ぎた真似をするな――。
たかが子爵の分際で、口を利くな――。
責任を放棄し、権力を振りかざすだけの者たちによる妨害により、正しい行いが許されない。
そんなことがこの国では、三百年も続いて来た。
自分に立場があれば変えられた理不尽があった――。
自分に権力があれば、死なせずに済んだ者たちが、大勢いた――。
自分が大貴族の生まれであれば、愛する人を奪われることなく、結ばれることが出来た――。
手に入れられなかったもの。失くしたもの。奪われたもの。そのすべてを取り返すために、サミュエルはクロクスに賭けたのだ。
もう少しだった。
あとはルートルーン一人を捕らえるだけだった。
それですべてが報われるはずだった。
胸の痛みは増すばかりで、呼吸すらままならない。
だが、あと一歩だ。
最後の一歩で倒れず大地を踏みしめて、すべてを手に入れてみせる。
霞みだした目を強くこすると、サミュエルはルートルーンが待ち受ける戦場へと、最後の一歩を踏み出した――。
◆
ルートルーンと共にクライツベルヘン家の所有地に用意された巨大な罠の奥地へと辿り着いたのは、千騎ほどであった。
対してこの地までたどり着いたサミュエル麾下の兵力は倍の二千。
数の上では優位にあるが、全員が馬を失い、瘴気によって身体に毒を受けている。
もはや決着はついていると言ってよかった。
それでもこの地に辿り着いたサミュエルに、降伏の意思などなかった。
追い詰めていたはずが、逆に追い込まれ、窮地に立たされたことで、その覚悟は揺るぎないものへと変わっていた。
「降伏しろ、サミュエルっ! もはや戦う力など残ってはいまいっ!」
瘴気の毒気に犯され、まるで亡者ような有様のサミュエルたちに対し、ルートルーンは降伏勧告を行った。
降伏したところで死罪はまぬがれない者たちに対して、それでもいきなり刃を向けることが出来ないところが、ルートルーンの甘さであった。
「……何をいまさら」
その甘さを、サミュエルは嘲笑った。
誰も救わないやさしさなど、甘美な毒と同じだ。
夢を見させたうえですべてを奪う。
もちろん奪われるのは夢を見させた側ではなく、見てしまった弱い立場の者たちだ。
「お主が王宮を占拠して以降、無益な流血を避け、秩序を維持しようと努めていたことは聞いている。今ならまだ間に合う。悪いようにはしない。同じヴォオス人同士、これ以上血を流し合うのはやめようっ!」
ルートルーンは本気だった。
欲のためにヴォオス人同士がこれ以上無益な争いを繰り広げることを回避したいのだ。
「伯父上さえ無事であれば、私が陛下に嘆願するから、もう剣を引いてくれっ!」
リードリットの中にある苛烈な部分を、ルートルーンも理解している。王宮の守護に当たっていた赤玲騎士団を倒して王宮を占拠したサミュエルが、無罪になることはあり得ないが、父であるバールリウスが無事であれば、助命だけでも叶う可能性があるとルートルーンは考えたのだ。
だが、この一言がサミュエルの逆鱗に触れることになった。
「あんな男の命が、そんなに大事かっ!!」
胸を焼く毒素を吐き出そうとするかのような大音声で、サミュエルは叫んだ。
「あの男の頭の中には、王宮を占拠した時から、今この瞬間も、女のことしかないっ! この国の先行きも、国民の生活も、こうして血を流し合っている兵士たちのことも、一欠けらも入ってはいない。あれはただの狂人だっ!!」
それはヴォオスの上流階級に属する者なら誰もが思い、口にすることを避けてきた最大の禁忌だった。
それを敢えて口にしたサミュエルの目は、憎悪が渦巻き、暗い光で濁っている。
これまでのサミュエルでは考えられないその激発振りに、ルートルーンと王都治安軍の兵士たちばかりでなく、味方であるはずのサミュエル側の兵士たちまで息を呑む。
サミュエルの脳裏に一人の女の横顔がひらめく。
後宮に押し入った不埒者共を制圧に向かった際に見かけた女だ。
その女の見つめる視線の先には、それまでの怒りをあさりと捨て去り、男が見ても見惚れるほどの柔和な笑みを浮かべたバールリウスの顔があった。
恐怖に青ざめた横顔が、必死で忘れた女の横顔と一致する。
サミュエルは衝撃に撃ち抜かれて硬直した。
だが、衝撃は一瞬で吹き飛ばされた。
バールリウスの笑みを受け、安堵の表情を浮かべる女の横顔が、そのすべてを委ねきっていたからだ。
なるほど。そういうことかと納得する。
奪われたとばかり思っていたかつての恋人は、バールリウスの後宮で、幸せの内に収まっていたのだ。
同じ子爵の位を持つ貴族の令嬢であった彼女とは、結婚を誓い合った仲だった。だが、彼女はある日迎えに来た豪奢な馬車に乗り、サミュエルの元から去っていった。
事情は聞かなかった。
聞かなくてもわかる。貴族社会において娘は政治の道具だ。
美しく成長した彼女が、自分の腕の中に収まるはずなどなかったのだ。
サミュエルは無理矢理自分を納得させると、彼女への想いを胸の奥底にしまい込み、二度と触れないと決めた。
だが、出会ってしまえばそれまでだった。
記憶の底にしまわれていた苦い過去の思い出は、サミュエルの意思とは無関係に浮かび上がり、意識の中で渦を巻いた。
そして、泥が溜まった水底をかき回すように、サミュエルの心を、再び苦い思いで濁らせる。
状況がサミュエルの思考を遮り、現実に引き戻す。
過去の女一人にとらわれているような時間は、サミュエルにはなかった。
思考から即座に女のことを締め出す。
そしてサミュエルは成すべきことに戻って行った。
サミュエルが見せた心の隙に気づいた者はいなかった。
それはリタの策略により、サミュエルを含む上層部の人間全員が、対応に追われることになったからだ。
サミュエル自身も対応で忙殺され、バールリウスに対する感情に向き合わなくてすんだ。――はずだった。
だが、サミュエルのバールリウスに対する感情は、まるで濡れた布を火で焙るように、燃えることなく焼かれ続けた。
そして、追い込まれたサミュエルはついにその感情と向き合った。
焼かれ続けていた感情は乾ききり、一瞬にして燃え上がる。
在位中も政務になどまるで関心を示さず、後宮を一歩も出ることなく享楽にふけり、何もしてこなかった男――。
先王バールリウスこそ、サミュエルがその存在をもっとも嫌悪した『格』の象徴的存在だったのだ――。
「あんな男が国王として玉座につくことを許したヴォオスに、正しさなどないっ! 何が六聖血だっ! 何が勇者の末裔だっ! 何もしないあんな男に、いや、お前たち王族などに、人の上に立つ権利などないわっ!」
ルートルーンはサミュエルから叩きつけられた怒りの言葉に、返す言葉が出てこなかった。
バールリウスはそもそもクロクスによって傀儡の王として玉座に据えられた王であり、意図的に政治から遠ざけられていた。
それだけの力がクロクスにあったことが原因ではあるが、そもそもクロクスの一族が台頭することが出来たのは、王族につけ入る隙があったからこそであり、その在り様に対し、バールリウスも王族も、疑問を挟まず受け入れていた。
サミュエルの言葉通り、人の上に立つ権利を、自ら放棄したも同然だった。
何もしなかった――。
まだ十四歳のルートルーンに、この言葉が当てはまると考えるのはあまりに酷な話ではあるが、今現在、ヴォオスという国、ヴォオスに住む人々に対し、ルートルーン自身はまだ何ももたらすことは出来ていない。
奴隷制度を廃し、大陸中に人間の尊厳を訴えたはずのヴォオスが、その中心とも言うべき王都ベルフィストの地下で、人身売買を見世物として行っていた。
その中には、ルートルーンの父ロンドウェイクの姿もあったが、ルートルーンは自分の父が背徳の享楽にふけっていた事実を、カーシュナーから目の前に突き付けられるまで知りもしなかった。
関わってはいなかったとはいえ、当時のルートルーンの目が、王族とは高貴な存在であり、過ちなどけして犯さないものだと決めつけ、真実を見ようとしていなかったのは確かだ。
真実を知って以降のルートルーンは、父が犯した罪を贖うため、王族としての責任を果たすため、自分を律し、鍛え上げていた。
だが、それは大反乱が起き、クロクスが失脚して以降のことでしかなく、サミュエルが怒りを向けているそれ以前の腐敗に対しては、反論の材料にはならなかった。
ルートルーン自身も思う。
確かに自分も何もしなかった王族の一人だと――。
「言い返しましょう」
固まってしまったルートルーンに、ヨナタンが声を掛ける。
硬直を解かれたルートルーンは、自分を真っ直ぐに見つめるヨナタンの瞳の強さに驚いた。
「返す言葉もない」
出て来た自分の言葉に、ルートルーンは心底情けなくなる。
「惑わされてはなりません」
しかし、そんなルートルーンに、ヨナタンはうつむくことを許さなかった。
「サミュエルの言葉が耳に痛いのは、事実だからでしょう。それ自体を否定はしません。ですが、サミュエル本人に、言葉の正しさを主張出来るだけの正しさがあるでしょうか? 彼の目的は再びクロクスがヴォオスの実権を握った後で、その功績に見合った地位に就くことです。正しさのためでも、自分よりも弱い誰かのためでもありません。自分自身のためです」
ヨナタンは視線をルートルーンから外し、怒りに呑まれたサミュエルを睨みつけた。
「そのために赤玲騎士団の方々は命を落とされました。アンドレアス様も、ブロース様も……」
二人の千騎長の名を口にした途端、ヨナタンはこみ上げてきた涙のために声を詰まらせる。
ルートルーンはヨナタンの肩に手を置き、大きくうなずく。
皆まで言われなくとも、ヨナタンの想いは十分伝わった。
サミュエルの言葉の正しさは、真摯に受け止めればいい。
正しさを否定してしまっては、間違いを正すことが出来なくなってしまう。
だが、正すことが出来る間違いは、これから先の未来にしかない。
サミュエルが固執する過ちは、サミュエル自身がどれ程の地位に就こうとも、正すことは出来ない過去の過ちだ。
自分に対する否定は受け入れよう。だが、過去の過ちをもって、現在積み上げているリードリットの努力を否定させるわけにはいかない。
サミュエルは知っているはずだ。
クロクスが傲慢の極みの果てに犯した地下競売場の建設という罪を――。
その罪を承知の上でクロクスに味方し、リードリットの努力を破壊しようとしたサミュエルは、自身の行いで、自分の言葉を否定していた。
何をどう言い繕おうと、その言葉の根底にあるのは、王族や大貴族が振りかざす傲慢や怠惰に対する否定ではなく、絶対的権力に対する嫉妬と憧憬なのだ。
「サミュエル。お主の言葉を否定はすまい。だが、その行いは否定させてもらう。お主の行動に正しさなどないっ! 所詮貴様も、貴様が否定した王族や大貴族と何も変わりはしない。他者を貶め、虐げる権力が欲しいだけだっ!」
「知った風な口を利くなっ!」
サミュエルが怒声を放つ。
これまで人生の中で否定してきた王族や大貴族共と、一緒にされてたまるかという激情が爆発したのだ。
サミュエルに選べる選択肢などなかった。
だからといって何もしないという選択は、それこそ否定したバールリウスの在り様と何も変わらないことになる。
サミュエルは自分を押し潰そうとする貴族社会の『格』を否定するためにも、行動し続けるしかなかったのだ。
「もはや言葉に意味はない。お主に私を理解することが出来ないように、私にもお主を理解することは出来ん。互いの正しさを主張する手段はただ一つ。相手の主張を退けることのみだ」
ルートルーンはそう言うと、馬から降りた。
「何か勘違いしていないか? 自分が一軍の将にでもなったつもりか? ブロースやアンドレアスならいざ知らず、ただ王族に生まれたというだけの小僧が、剣でこの私を退けられると、本気で考えているのか? 図に乗るなっ!!」
「誰も手出ししてはならん」
サミュエルの怒声を無視して、ルートルーンは進みだした。
流れはもはやルートルーンとサミュエルの一騎打ちになってしまっている。
手負いの獣は恐ろしいというが、今のサミュエルがまさにそれだ。
ヨナタンは止めるべきだと思った。
先程命を救われた際の武勇は、素人のヨナタンが見ても並の技量ではないとわかる。
だが、ルートルーンはあくまで十四歳の少年で、サミュエルはレオフリードに認められ、王都治安軍の責任者の地位に就いたほどの実力者だ。
勝てる戦で危険を冒す必要はないはずだ。
叱責は覚悟の上で、ルートルーンを止めようとしたヨナタンを、その前にバルトアルトが止める。
「ここは様子を見ましょう」
「しかし、もしものことがあってからでは……」
「かまいません。サミュエルは怒りにとらわれてはいますが、まだ自暴自棄になったわけではありません。勝負に勝っても、殿下のお命までは奪おうとはしないでしょう。所詮彼の成そうとしていることなど、クロクスの権力頼みでしかないのです。クロクスの怒りと失望を買うような真似は出来ません」
サミュエルの底を見透かすバルトアルトの目は、どこまでも冷たかった。
「で、ですが、敗れたら殿下の身柄が奴らの手に渡ってしまいますっ!」
「なに、勝敗が怪しくなってきたら、その時点で一気に攻め込み、サミュエルを含む生き残りを殲滅するだけです」
まだ十五歳でしかないヨナタンの心配を、バルトアルトはその老獪さでいともあっさり退けた。
思わず呆気に取られるヨナタンに、バルトアルトは上品さを保ったまま、目だけで小狡く笑うという芸当をして見せる。
「サミュエルの言葉通り、殿下は今回の策の司令官ではありません。全体を指揮するのはリタ殿ですが、この場での作戦責任は私にあります。そして私はあなた方のようにヴォオス軍に所属しているわけではなく、クライツベルヘン家に属する者です。この場合、私に殿下の命令に従う義務はないのです」
手を出すなというルートルーンの命令など、始めから従うつもりはないのだ。
王位継承権第一位にあるルートルーンに対して、ここまではっきりとした態度をとるバルトアルトに、ヨナタンは改めてクライツベルヘン家の特異性を感じさせられた。
「それに、まだ負けると決まったわけではありません」
「えっ?」
誰よりも冷徹に戦況を観察しているかと思えたバルトアルトの意外な言葉に、ヨナタンはまじまじとバルトアルトの顔を見つめた。
その表情がおかしかったのだろう。
バルトアルトはヨナタンを安心させるべく、もう一言付け足した。
「ブロース千騎長も、アンドレアス千騎長も、けして無駄死にではなかったといことを、殿下なら証明してくださるでしょう」
ルートルーンの歩みに合わせて進み出て来たサミュエルの動きを見て、バルトアルトはサミュエルが手傷を負っていることを見抜いていた。
そして、サミュエルほどの実力者に手傷を追わせることの出来る者が限られていることも――。
両者の距離が詰まったとき、不意にサミュエルが間合いを詰めた。
「ああっ!!」
予備動作のない急激な変化に、ヨナタンは思わず声を上げる。
見守る王都治安軍の兵士たちも、動揺を隠せない。
だが、味方が焦る中、当のルートルーン本人は、いたって冷静だった。
右脚を引き、半身に構えただけで、サミュエルの不意の一撃をいなしてみせる。
まさかかわされるとは思っていたなかったサミュエルは、深く踏み込み過ぎたため、脇が空いてしまう。
直後にルートルーンの膝蹴りが叩き込まれ、サミュエルは無理やり剣を振り回してルートルーンから距離を取った。
一気に攻勢に出るかと思われたルートルーンであったが、一旦間合いを取り、冷静にサミュエルを観察した。
バルトアルトほどの経験があるわけではないルートルーンには、一目でサミュエルの状態を見抜くことは出来なかった。
それはサミュエル自身が巧みに負傷を隠していたからでもあるが、それでも違和感のようなものは感じていた。
その正体を確かめるために、ルートルーンは間合いを取ったのだ。
呼吸が乱れているが、それは先程の瘴気の罠のせいだろう。
それ以外に、右肩がわずかに下がり、重心も右に傾いていた。
おそらく右腕と左脚を負傷しているのだろう。
そうでなければ不意の打ち込みをかわすことは出来ても、膝まで打ち込むことは出来なかったに違いない。
負傷を隠していたサミュエルであったが、直後にルートルーンが自分の右側に回り始めたことで、見抜かれたことを悟った。
もともと遊ぶつもりなどなかったが、勝負を急がなくてはならないようだ。
瘴気によって受けた毒の治療をしなくてはならない。
それまでに派手に動き過ぎると全身に毒が回ってしまい、手遅れになってしまう。
たとえルートルーンの身柄を確保出来ても、自分が死んでしまったのでは意味がない。
ルートルーンの実力が、油断のならない領域にあることを認めたサミュエルは、小細工を弄するのではなく、多少の手傷は与えてもかまわない覚悟で、一気に力押しでルートルーンを圧倒することにした。
技術的にも優位ではあるだろうが、体格と力の方が確実に優っているからだ。
再びサミュエルから仕掛ける。
踏み込みの伸びが今一つで、再びルートルーンにかわされてしまう。
左太ももを切り裂いてくれたアンドレアスの顔が脳裏に浮かぶ。
死んでまでも邪魔をしおってっ!
邪魔はそれだけではなかった。
ルートルーンの反撃を防ぐために剣を振り上げたが、予想外に重い一撃を受けた右腕の傷口が開き、血が噴き出すと同時に力が抜け落ちる。
咄嗟に身体ごと押し返すことで何とか弾き返したが、危うく肩口を切り裂かれるところだった。
今度はブロースかっ!
まるで二人の呪いを受けたかのような状況に、サミュエルは初めて焦りを覚え始めた。
相手はまだ少年だ。
王族だからといって、強さが増すわけではない。
これまで積み上げてきた戦いの歳月が、身分や生まれなどに負けるはずがないのだ。
だが、自身が万全の状態で戦いに臨めていないのも事実だ。
呼吸は依然として苦しく、体力は消耗する。
傷口が開いてしまったこともあり、出血と共にさらに体力が奪われていく。
まともに戦える時間は限られていた。
一気に踏み込むことを諦め、サミュエルは確実に一歩ずつ間合いを詰め、ルートルーンを追い込んでいった。
毒と疲労と負傷。
三重苦に喘いでいるとはいえ、自分相手に一歩も引けを取らずに渡り合うルートルーンの実力は、サミュエルを驚かせた。
つい数か月前までは、現実を知らない甘ったれでしかなかったはずだ。
一瞬だけ視線が交差する。
その鋭さから、サミュエルはルートルーンもそれなりに苦汁をなめた上でこの場にいるのだと悟った。
王族を否定したい気持ちが先に立ち、ルートルーン個人が見えていたなかったことに、今頃になって気がつく。
「殿下。あなたの実力を見誤っていたことは認めよう。だが、やはり王族の在り様を認めることは出来ん。そこは私の人生を懸けて否定させていただく。今はただ、一人の剣士としてお相手いたしましょう」
「願ってもない。お主ほどの実力者、相手にとって不足はないっ!」
そこには怒りも焦りも呑み込んだ、剣士としてのサミュエルがいた。
ルートルーンに否やはない。
見守るヨナタンが、空気の変化を感じ取り、不安に駆られてバルトアルトを振り返る。
だが、すでにそこにはバルトアルトの姿はなかった。
慌ててその姿を探したが、仕切り直したルートルーンとサミュエルの戦いが再開されると、もはやヨナタンの視線はそちらに釘づけになっていた。
腕力の差はいかんともしがたい。ルートルーンはサミュエルの猛攻をいなしつつ、必死にサミュエルの隙をうかがった
だが、先程まで力を失っていた右腕と左脚にまで力を取り戻したサミュエルには、一分の隙も見当たらない。
防戦一方になるルートルーンに対し、サミュエルは勝利を確信した。
守るだけで精一杯の状態のルートルーンであったが、意外なことに、焦りはなかった。
サミュエルは強い。
現時点でルートルーンが上回っている部分は一つもないが、それが心を折る理由にはならなかった。
ルートルーンが日々鍛錬を積んでいる相手は、リードリットやレオフリード、シヴァやオリオンといった大陸最強候補たちだ。
その相手に対し、勝ち筋を探して日々修練に励んできた。
勝ちの目という意味では、はるかに確率の高い勝負なのだ。
一合が十合に、十合が二十合に達すると、ルートルーンももはやいなすことが出来なくなり、剣を楯に滅多打ちの状態に追い込まれていた。
新たな一合を受けた時、ルートルーンの剣が異音を発する。
ルートルーンの表情に、初めて焦りの色が浮かび、対するサミュエルの口元には、会心の笑みが浮かぶ。
サミュエルは渾身の力を込めて剣を振り下ろした。
甲高い金属音を発してルートルーンの剣が折れる。
歓喜に沸きかけたサミュエル陣営であったが、直後に大地を舐めることになったのは、ルートルーンではなく、サミュエルの方であった。
剣がもはや使いものにならなくなってしまったと悟ったルートルーンは、剣を囮にサミュエルの一撃を受け流し、返す刀ならぬ返す鞘の一振りで、サミュエルの顎を叩き割ったのだ。
ルートルーンの一撃で激しく脳を揺さぶられたサミュエルは一瞬で意識を刈り取られ、ルートルーンの脇をかすめて倒木のように倒れ伏したのであった。
「お見事です」
直後に背後から声を掛けられたルートルーンは、反射的に背後に鞘を振るったが、そこにいたバルトアルトは、わずかに上体を逸らせただけで、薄皮一枚の差でかわす。
「す、すみま……」
慌てて謝罪を口にしかけたルートルーンを、バルトアルトは遮った。
サミュエルが倒れた瞬間、自暴自棄になった敵兵が、一斉に襲い掛かって来たのだ。
これに対し、王都治安軍兵士も即座に反応する。
「残念ながら、戦いはまだ終わってはおりません」
そう言うとバルトアルトはルートルーンの前に出つつ、王都治安軍と合流すべく後退する。
「私も戦うっ!」
そう言うとルートルーンは前に出ようとしたが、バルトアルトの長い腕に阻まれてしまった。
「殿下はご自分のお仕事を果たされました。ここから先は兵士たちの仕事です。乱戦では何があるかわかりません。後処理は彼らに任せましょう」
ルートルーンは気づいていなかったが、サミュエル側の兵士たちは戦いの最中に、少しづつ距離を詰めて来ていたのだ。
毒を受けたその身では、王都治安軍とまともに戦っても勝ち目はないとわかっていたため、サミュエルが勝利した直後には、ルートルーンの身柄を確実に確保する必要があった。
勝負に勝ててもルートルーンを奪い返されてしまったら、もはや助かる道はないからだ。
この場に足を止めていては、味方が駆けつける前に敵に囲まれてしまう。
サミュエル側の兵士の事情と同様、ルートルーンの身柄を押さえられては、ルートルーンはもちろん王都治安軍にとっても、サミュエルに勝った意味がなくなってしまう。
「バルトアルト殿っ!」
ようやく状況を理解したルートルーンは、ここまで来て味方の足を引っ張るような真似はしたくないと、恥も外聞もなく逃げにかかったが、自分に退くように勧めた肝心のバルトアルトが、自分とは逆方向に走り出したので、ルートルーンは慌てて足を止めた。
「お下がり下さいっ!」
後ろも見ずに、バルトアルトから厳しい言葉がかけられる。
ルートルーンは一瞬迷ったが、さすがに剣もなく、多人数相手に鞘だけで戦い続けることの危険性は理解出来た。ルートルーンはやむなくバルトアルトの言葉に、後ろ髪を引かれる思いで従った。
息を切らせて逃げ戻ると、ヨナタンが馬を引いて出迎えてくれた。
礼を言おうとしたルートルーンであったが、それに被さるように発せられたヨナタンの驚愕の叫びに、驚いて言葉を呑み込んでしまった。
そして驚愕の叫びは、ヨナタンからだけでなく、両陣営の兵士たちからも発せられた。
王都治安軍の兵士たちの驚愕には、純粋な驚きがあり、敵方の兵士たちの驚愕には、まるで悪夢を無理矢理見せられているかのような悲痛な響きがあった。
ヨナタンから馬を受け取ると慌てて馬に乗り、ルートルーンは驚愕の原因を自分の目で確かめた。
「うおあああぁぁぁっっ!!」
ルートルーンの口からも、一際大きな驚愕の叫びが上がる。
一人先行した形となったバルトアルトが、サミュエルの剣片手に、たった一人で敵の進行を阻んでいたのだ。
「つ、強い……」
隣で呆気に取られているヨナタンが、ポツリとこぼす。
強いなんてものじゃない。
千騎長はおろか、並の将軍でも歯が立たないだろう。
それこそ大将軍であるレオフリードか、シヴァかオリオンでも連れて来なくては対抗出来ないほどの強さだ。
「そういうことか……」
ルートルーンは不意に気がついた。
サミュエルを倒した直後に、背後にバルトアルトがいた理由にだ。
「どうかされましたか、殿下」
呟きが耳に入ったヨナタンが、何かの指示があるのかと思い尋ねる。
「よく考えたら、バルトアルト殿が私のわがままをすんなり聞いてくれたことがおかしかったのだ」
先程バルトアルトの腹の内を知らされたヨナタンは、ルートルーンが何に思い至ったのか理解した。
「始めから、いざとなれば私の命令など無視して、サミュエルを倒すつもりでいたのだろうな」
「あるいは、リタ様からそのような指示があったのかもしれません」
「ああっ。その可能性もあるな」
ヨナタンの言葉に、ルートルーンの脳裏にニヤリと笑うリタの顔が浮かぶ。
「無事戻られたようですね」
王都治安軍と入れ替わるように退いて来たバルトアルトが、二人に合流する。
少なくとも三十人は倒しただろうに、返り血すら浴びていない。
「お主が敵を足止めしてくれたからな」
「それは何よりでした」
どこか空々しい会話に、ルートルーンはカーシュナーを思い出さずにはおれなかった。
「私はまだまだだ」
リタの策略の真相。バルトアルトの真意。それまでルートルーンの目から隠されていた真実がルートルーンの中に収まった時、ルートルーンはしみじみと呟いた。
「そんなことはありませんっ! 現に敵の首謀者であるサミュエルを討ち取ったではありませんかっ! これでブロース様も、アンドレアス様も報われたはずです。同じことが他の王族方の誰に出来ましょう。共に戦い倒れていった者たちのためにも、胸を張ってくださいっ!」
ものすごい勢いでヨナタンに詰め寄られ、ルートルーンは思わずのけぞった。
「皆の力あってのことだ。私一人では何も出来はしなかった。サミュエルに何もしていないと言われた時も、返す言葉がなかった」
「では一つ、成し遂げましたね」
バルトアルトの言葉に、ルートルーンが怪訝な表情を浮かべる。
「謀反を起こした者たちを討伐し、見事王宮を解放されました」
「それこそ私が何もしていないことではないかっ! 全てはリタ殿の功績だっ!」
ことを成したのはリタだ。
ルートルーンはリタの策の中で、見事囮役を演じたに過ぎない。
「カーシュナー様に対して、リードリット陛下も似たようなことを仰られたそうです。納得して飲み込むことは難しいでしょうが、それでも陛下は国のため、ご自身の思いを腹の底に収め、良き王たらんと尽力されております」
「…………」
リードリットの努力を引き合いに出されては、ルートルーンも返す言葉がない。
きっと姉上も同じ気持ちでいたのだろうと思うと、すぐそばで見て来たリードリットのこれまでの努力が、よけいに大きく感じられた。
「ヨナタンが良いことを言いました。共に戦い倒れていった者たちを代表して胸をお張りください。それを拒まれるのは、サミュエルの言葉通り、王族として何もしない事と変わりありません」
「……わかった」
うなずいたルートルーンは、大きく息を吸い込むと、背筋を伸ばしてしっかりと胸を張った。
「どうやら私は、一人で成し遂げなければ、何事も意味のないものと考えていたようだ。皆の暮らしがより良いものとなるよう努めることが、王族の義務だと、陛下の努力されるお姿を見て考えていた。だが、それは一人の努力で成し遂げられるようなものではなかった。皆の協力があってはじめて成し遂げられることであった。わたしはこれから、皆の意見に耳を傾け、皆に協力してもらえるような人間になれるよう努めよう」
ルートルーンの言葉に、ヨナタンは目を輝かせ、子供のようにルートルーンを見つめた。
「とりあえず、一番初めの協力者を得られたようですね」
そんなヨナタンの肩に手を置き、バルトアルトが微笑む。
ルートルーンが驚いたようにヨナタンを見つめると、ヨナタンは真っ赤になってうつむいてしまった。
そして即座に後悔する。ルートルーンに胸を張ってくれと言っておきながら、自分がうつむいていてどうするのだと、自分に対して怒りすら湧いてくる。
ヨナタンは意を決すると真っ直ぐに顔を上げ、ルートルーンの驚いた顔を見つめ返した。
「私などに何が出来るかわかりませんが、殿下が目指すその先へと辿り着くためのお手伝いをさせてくださいっ!」
まるで愛を告白するかのように真剣なヨナタンの言葉に、ルートルーンは思わずうろたえてしまった。
「応えないのですか?」
バルトアルトが戸惑うルートルーンの背中を押す。
「私などで良いのか? お主の能力であれば、十分陛下のお役に立てよう。私から口添えしても構わない。その方がお主のためだと思うのだが……」
「陛下の元にはすでに大勢の優れた方々がいらっしゃいます。その方々のもとで学ばせていただくことに異論はございませんが、力を尽くすのであれば、殿下の御許でありたいと考えます」
ルートルーンの言葉を遮ってまで答えたヨナタンの視線は、真っ直ぐに据えられたまま、微塵も揺らがない。
「殿下、優れた才能も、すべてが同じ方向を向いてしまいますと、思考の向きも似通いがちになります。あらゆる角度から陛下をお支えするためにも、ヨナタンは少し違う立ち位置にいてもよろしいのではないでしょうか?」
バルトアルトの言葉に、ヨナタンが感謝の視線を向ける。
「ヨナタン。今回のことではお主に大いに助けられた。まだまだ未熟な私だが、お主さえ良ければ、今後も支えとなってほしい」
「喜んでっ!!」
新たな主従関係が生まれたとき、敵兵の掃討を終えた王都治安軍兵士たちが戻って来た。
「殿下、勝鬨を」
バルトアルトが促す。
「皆よく戦ってくれたっ! この地に謀反の首謀者は倒れ、王宮は解放されたっ! 我らの勝利だっ!」
「おおぉっっ!!」
応える兵士たちの大歓声が大気を揺らす。
謀反の首謀者であるサミュエルは捕らえられ、王宮を占拠していた部隊も壊滅した。
そしてその報は瞬く間に王都中に知れ渡った。
ルートルーンが一騎打ちの末、サミュエルを見事討ち取ったその顛末と共に――。
今回の謀反鎮圧により、ルートルーンは実績で他の王族たちを大きく引き離し、王位継承権第一位の座を確固たるものとする。
その情報操作に盗賊ギルドとクライツベルヘン家の密偵が一役買ったことを知る者は、両関係者以外一人もいない。
王宮を血に染めたサミュエルの謀反であったが、結果として何もしていないと否定したルートルーンに名を成さしめたのは、皮肉以外の何ものでもなかった――。
◆
「なにっ! 負けただとっ!」
ルートルーンたちがまだ王宮に入りもしない内に、サミュエルの謀反失敗は王都中に広まっていた。
その報告を、王都の地下で受けた男の嘲弄と侮蔑の入り混じった声が、地下水路の中で響いた。
「ちっ! 使えん男だっ!」
唾と共に言葉を水路に吐き捨てる。
「敵の策略を見抜き、それを逆手に取る策を授けてやったというのに、ガキ一人捕らえることも出来んのかっ!」
苛立ちのこもった蹴りが、水路の壁面を打つ。
「まあいい。どうせ期待などしていなかったしな」
男はそう言うと、背後に立つ先王バールリウスを見上げた。
その背に隠れるように、怯えたバールリウスの寵姫たちが従っている。
男はサミュエルにルートルーンを捕らえるよう指示しておきながら、自身はバールリウスの身柄を確保しつつ、すでに王都からの脱出にかかっていた。
上が騒がしいほど、その足元は警戒が緩む。
男はサミュエルが手間取り、その間にリードリットが帰還して戦力差が覆ることまで考慮に入れ、サミュエルに授けた策の成否にかかわらず、バールリウスという成果を確実なものにしようとしたのだ。
「しかし、敵の虚を突き、倍以上の兵力で挟撃しておきながら、どうやれば負けることが出来るのだ」
まあいいと言いつつ、完璧な策を授けたはずのサミュエルの敗北は、まるで自分の策にケチをつけられたようで、男は苛立たずにはおれなかった。
「授けた策がへぼかったからさ」
不意に地下水路に女の声が響く。
男にサミュエルの敗報を伝えた人物が怯えて辺りを見回す。
クロクスの手先として新盗賊ギルドに潜り込んでいた盗賊だ。
「誰だっ! 出てこいっ!」
男が闇に向かった吠える。
だが、声の主は姿を現すことはなく、男を嘲笑う嘲笑を響かせただけだった。
「元ヴォオス軍軍師第七席コーネリス」
地下水路の壁に反響し、居所のわからない声が男の正体を暴く。
常に周囲を見下した態度を取り続けていた男に動揺が生まれる。
不意に盗賊が悲鳴を上げて逃げ出す。
「貴様っ! 逃げるなっ!」
コーネリスが怒鳴って松明を振り回すが、盗賊はあっという間に水路の闇の中に溶け込んでしまう。
「ぎゃあっ!!」
直後に個性のない悲鳴が水路の壁を打ち、その後を追うように派手な水音が響く。
その後は無音がその場を支配した。
「おいっ! 様子を見てこいっ!」
護衛の兵士二人に指示を出す。
バールリウスとその寵姫たちを見張る必要もあり、コーネリスは厳選した兵士二十人を引き連れていた。
自分の正体を見破った相手のことは不気味だが、怯えるような状況ではない。
「他の者たちも油断する……」
盗賊が逃げた方向だけが怪しいわけではない。
王都の地下水路は複雑に入り組んでいる。歩いて来た水路に何もなかったとしても、今も何の脅威もないという保証はないのだ。
そう考え、注意を促そうとして背後を振り向いた直後に、コーネリスの言葉を遮って、再び二人分の悲鳴が水路に響いた。
バールリウスの背後で震えながら抱き合っていた寵姫たちの悲鳴がその後を追う。
「黙れっ!」
じわじわと忍び寄る恐怖を意識の隅に認識しつつ、コーネリスはそれを追いやるように怒鳴りつけた。
「一旦固まれっ!」
残り十八人となった兵士たちが、狭い水路の中でコーネリスと寵姫たちを囲む。
その時、兵士がかざしている松明があるものを水路に捉えた。
先ほど逃げ出した盗賊の死体だ――。
再び悲鳴に満たされる水路。
水の流れに乗って運ばれてきた盗賊の、苦悶に満ちた死に顔を見てしまったコーネリスは、今度は黙れと叫ばす、自分が沈黙してしまう。
「どこにいるっ! 姿を見せろっ!」
兵士の一人が声を震わせながら声を荒げるが、返って来たのは沈黙だけだった。
動くに動けず、時間だけが過ぎていく。
だが、流れる水は新たな恐怖をコーネリスたちの元へと運んで来た。
悲鳴を上げたまま行方が知れなくなっていた、二つの兵士の死体だ。
恐怖が頂点に達してしまった寵姫たちは、バールリウスにしがみつき、もはや悲鳴すら上げることも出来ない状態になっている。
そして恐怖は周囲の闇によって倍加され、兵士たちすら呑み込んでいった。
「コーネリス。あんただいぶ苦労したみたいだねえ」
沈黙を破って、再び女の声が、嘲弄を含んで水路に響く。
「ケルクラーデンの野で、貴族連合軍を見捨て、クロクスを追って脱出したまではよかったみたいだけど、その後がまずかったようだねえ」
女の言葉が、必死で拒もうとする記憶の再生を促す。
赤玲騎士団とクライツベルヘン軍の混成軍と、ケルクラーデンの野で対峙した貴族連合軍であったが、兵士たちの裏切りにより、まともに戦うことすら出来ないうちに、大将であるロンドウェイクがリードリットとの一騎打ちに敗れ、そのまま貴族連合軍も崩壊した。
この時事態の結末をいち早く予測したコーネリスは、もともとクロクス派であったこともあり、仕えるべきクロクスが早々に戦場を離脱したことを受け、大反乱軍を率いたレオフリードと、クライツベルヘン家を除く残りの五大家の軍によって戦場が封鎖される前に、ケルクラーデンの野から一人脱出していた。
エルフェニウスには及ばないまでも、大貴族の子息であるコーネリスは、これまで一人で行動したことなどなかった。
もちろん逃亡生活など送ったことはなく、生まれの良さも災いし、脱出に際し食料の手配を完全に失念していたコーネリスは、脱出したその日のうちに困窮する事になった。
初めて経験する疲労と空腹は、コーネリスから注意力を根こそぎ奪い、最初に見つけた村に食料と水の調達に向かわせた。
初めに出会った村人を見つけると、頭ごなしに命令して村長のところに案内させ、村長に対しては食事の用意と一夜の宿、それと一週間分の食料と水、今後必要になるであろう路銀として、金貨百枚を要求した。
自分の領内の村であれば、コーネリスを知らぬ者はなく、その要求もすべて叶えられただろう。
だが、この村にはすでにリードリットからの御触れにより、ケルクラーデンの野での結末と、不審人物が現れた際の対応命令が出ていたのであった。
明らかに貴族の子弟とわかる人物が、この時期に困窮した様子で村に現れ、水と食料、その上路銀の用立てまで要求したとあっては、声を大にして自分が不審人物であることをふれて回っているようなものであった。
村長は食事と寝床を用意し、コーネリスの足止めを行い、その隙に役人へと使いが走った。
粗末ではあるが腹いっぱい食事をとり、風呂を進められたコーネリスは、不潔だ、汚いだと不平をこぼしつつ、それでも湯船につかった。
コーネリスは食事が出てきた時点で、そのこと自体の不審さに気が付かなければいかなかった。
終わらない冬の影響で、大陸中が食料不足に喘いでいた。
たとえ粗末だろうが、腹いっぱい食えるような状況ではなかった。
だが、二年続いた終わらない冬の最中でも、一度として飢えに苦しんだことなどないコーネリスには、食糧があるといいうことの異常さがわからなかったのだ。
ヴォオス軍による配給を受けた直後の村とも知らず、のん気に湯船につかっていたコーネリスは、最悪の状況で役人に踏み込まれ、結局素っ裸のまま逃走することになる。
何とか逃げ出すことには成功したが、追跡は執拗で容赦がなく、終わらない冬の終わりの直後でもあったため、周囲は一面雪だらけで、身を切る風は冷たく、コーネリスの逃亡をひどく惨めで、厳しいものにした。
まともに村や町に近づく危険性を学習したコーネリスは、夜中に小さな村に忍び込み、終わらない冬の最中に家主が命を落とした空き家に忍び込み、残されていた粗末な衣服を盗み出して何とか凍死の危機から脱出した。
飲まず食わずの逃避の果てに、ボロボロになっていたコーネリスは、観念してヴォオス軍に下ろうかと考えていた矢先に、親切な商人の一行に出会い、一時的な使用人としてエストバへと抜ける手段を手に入れた。
もちろん国境線は厳重に警戒されているだろうが、馬鹿正直に大陸隊商路を行かなければ、抜け道はあるはずだと考えたコーネリスは、上手く利用するつもりで商人の一行に同行したのだった。
利用するのは常に自分の方――。
身に染み付いたその考えが、コーネリスをさらなる地獄へと誘うことに、この時のコーネリスは気づいていなかった。
驚いたことに、商人の一行は大陸隊商路を逸れ、とある山道へと進み始めた。
商人は密輸を主とした闇商人だったのだ。
この展開で、事態を自分にとって好都合と考えたところに、コーネリスの育ちの良さからくる甘さがあった。
この山道一帯は、とある山賊によって支配されていた。
山賊は商人たちの痕跡を隠し、無事商人と商品を通過させる代わりに、通行料金を取り、主な収入源としていた。
そしてこの時商人が支払ったのがコーネリスであった。
「ゴーバスは有名な男色家だ。あんたもきっちり仕込んでもらったんだろ?」
再生され続けるコーネリスの記憶に、まるで悪魔のささやきの様に、女の言葉が滑り込んでくる。
「うるさいっ! やめろっ! やめろぉおぉぉっ!!」
女の言葉をかき消そうとするかのように、コーネリスは大声を上げた。
「性根は腐っているが、そこは貴族のお坊ちゃんだ。それなりに整った顔立ちに、重労働なんか一度もしたことのない柔らかい身体とくれば、ゴーバスはさぞ気に入ったことだろうねえ」
女の言葉は、直接的な表現を用いない分、まとわりつくようにコーネリスの記憶を刺激し続けた。
「やめろっつってんだろうがメス豚がぁあっ! 粋がりやがってっ! 見つけ出したらてめえの尻の穴、がばがばにしてやるぞっ! おらあぁっ!」
不意にコーネリスの口調と雰囲気が変わる。
表情までがらりと変わり、まるで別人のように変貌している。
吠えるその声は今まで以上に暗く、粗暴な攻撃性を感じさせる。
「女相手に使い物になるのかい? もうそんな身体じゃないだろ?」
だが、女の声に含まれる嘲弄と侮蔑は、コーネリスの変化に合わせて、その濃度を上げた。
「ぶっ殺すっ! ぶっ殺すっ! ぶっ殺すっ! ぶっ殺すっ! ぶっ殺すっ! ぶっ殺すっ! ぶっ殺すっ! ぶっ殺すっ! ぶっ殺すっ! ぶっ殺すっ! ぶっ殺すっ! ぶっ殺おぉおすっっっ!!」
女の言葉に、コーネリスはまるで獣が威嚇のために吠え続けるように、むき出しの殺意をばらまいた。
山賊に通行料代わりに引き渡されたコーネリスは、それまでの人生が裏返ってひっくり返るような屈辱と恥辱の日々を送る羽目になった。
男として男に犯される――。
それはコーネリスの中に、現実から逃避するための、もう一人の人格を生み出すほどコーネリスを苦しめた。
傲慢の上に築き上げられていたとはいえ、コーネリスの矜持はズタズタに引き裂かれ、尻の穴が痛みでうずくたびに、コーネリスの精神は正常さを失っていった。
そのままであればコーネリスの人格は崩壊し、今も山賊のアジトで肉奴隷としてつながれていただろうが、分裂したもう一人の人格が復讐を企て、山賊たちを罠にはめ、一網打尽にして本来のコーネリスの人格を救いだした。
「その時は必要なことだったんだろうけど、この時ゴーバスの首に懸けられていた賞金を受け取りに行ったのは間違いだったね。おかげでこうしてあんたの身元を洗い出すことが出来た。さらし首になったゴーバスに唾を吐きかけ、多少の腹いせをしたつもりだろうけど、あんたは自分で思うよりもずっと目立ちやすい外見をしてることに気づくべきだったね。あんたに賞金を支払った役人は、ゴーバス一味を討ち取ったあんたのことを細かく記録し、王都に報告していたのさ」
「行くぞ」
コーネリスは女の言葉を無視して進みだした。
「おや、もう吠えないのかい? それとも、尻がうずいてそんな元気はもうないのかい?」
女の声が、嘲笑う。
「貴様は必ず見つけ出して殺す。王都に戻り、この俺が権力の座に就いたときに必ずなっ!」
もう挑発には乗らない。
その言葉にはコーネリスの決意が込められていた。
盗賊はまだしも、どんな手を使って兵士二人を殺したかはわからないが、十分な兵力があるのなら、こんなからめ手など使わずとも正攻法でバールリウスを取り戻すことが出来るはずだ。
敢えて自分を挑発するのは、怒らせて単独行動をとらせようとたくらんでいるからに他ならない。
このままひと塊となり、脱出出来るのなら、それで構わない。
言葉通りバールリウスをクロクスに差し出した後、今度は自ら軍を率い、ヴォオスを征服し、王都の石畳をすべて剥がしてでも見つけ出してやるまでのことだ。
「権力の座につくのはクロクスであって、あんたじゃないだろう? ああ、そうか。クロクスに尻を振って、たらし込むって魂胆だねぇ。確かにあのじじぃも好きそうだし、上手くいくんじゃないかい。転んでもただは起きぬって言うけど、さすが男の腹の下に転がったことのある男は、やることが違うねえ」
そう言って女の声は嗤った。
「ぶっっっっっっっっっっ殺おおおおおおぉぉっっっすうぅぅぅぅうっっっ!!!!」
吠えるが早いか、コーネリスは兵士から剣を奪い取り、暗闇の中へと飛び込んでしまった。
あまりにひどい挑発に、兵士たちもいたたまれず、コーネリスを止めようとはしなかった。
挑発には乗らないと決意したばかりだったが、コーネリスの怒りは一瞬で理性を吹き飛ばしてしまっていた。
やみくもに振り回す剣が時折壁を打ち、飛び散った火花が瞬間的にコーネリスを暗闇に映し出す。
「どこだっ! 出てこいっ!」
吠えるコーネリスの背後から、兵士たちの悲鳴が連鎖した。
振り返るとそこはすでに闇に包まれていた。
消えた松明の臭いだけが水路に充満し、そこは完全に闇の領域と化していた。
悲鳴の連鎖に続き、水音が連鎖していく。
自分が掲げ持つ松明の明かりが照らし出す範囲が、コーネリスにとっての世界となっていた。
足はまるで根を張ってしまったかのように動かず、一つだけとなってしまった明かりを兵士たちの元へ届けようなどという気も起こらない。
きっちり十八――。
暗闇の中に兵士たちが水面を打つ音を数えたコーネリスは、それまでの怒りが、殺された兵士たちの命と一緒に、いともあっさりと吹き消されてしまったことに気が付いていた。
どうする?
頼りの頭脳は、泥沼にはまり込んだように遅々として働かず、コーネリスは答えを出せない。
剣を手にしてこそいるが、コーネリスに戦いの技術はない。
自分は戦う人間ではない。戦わせる立場の人間だと考え生きて来た。
逃げるか?
バールリウスを置いて?
それは未来における自身の栄光を捨てるに等しい。
最後に敗れ、手ぶらで戻るコーネリスを、クロクスは歓迎しないだろう。
今回の策略が、本来の目的を達成したとしてもだ。
コーネリスにはこの先の栄達を確実なものとするために、何が何でもバールリウスの身柄が必要だった。
一歩前に出る。
何も起こらない。
思い切ってバールリウスまで近づいてみる。
その足元には折り重なって水の流れをせき止める、兵士たちの死体が転がっていた。
コーネリスの持つ松明の明かりでその事実を知ったバールリウスは、悲鳴こそ上げなかったが、真っ青になって棒立ちになる。
それはコーネリスも同様だった。
思わず見つめ合う形になったバールリウスとコーネリスであったが、直後に苦痛に歪むコーネリスの顔面に、バールリウスは驚いて飛び退る。
それでも背後にいた寵姫たちをしっかりと庇うところが、いかにもバールリウスらしい。
苦痛のあまりコーネリスは悲鳴すら上げることが出来ない。
その背後に人はいない。
だがその足元に、小柄な人影があった。
人影は無情にも、コーネリスの尻を短剣で貫き通していた。
もちろん偶然ではない。
それは先ほどの揶揄に合わせた、むごい仕打ちであった。
「シャンタルたちを死なせた報いだ。その痛み、じっくりと味わいな」
人影はそう言うとゆっくりと短剣を捻り、傷口をかき回したうえで引き抜いた。
コーネリスはぶるりと震えると、小さく丸くなって崩れ、尻から大量の血を流して死んだ。
何故こうなった――。
コーネリスが最後に呟いた言葉は、奇しくもサミュエルが抱いた答えのない疑問と一緒だった。
人影は短剣に付着したコーネリスの血と汚物を水で洗うと、無造作にコーネリスの衣服で拭い、短剣を鞘に納めた。
そして周囲に転がる松明に、コーネリスが落とした松明から火を移すと、バールリウスに差し出した。
まるで人形のようにぎこちない動作で松明を受け取ったバールリウスであったが、手にした松明が照らし出した絶世の美貌を目の当たりにすると、賞賛の吐息をこぼした。
そこに現れたのは、現盗賊ギルドのギルドマスターであるリタであった。
無意識にバールリウスの手が、リタの完璧な曲線を描く頬に伸びる。
その手がリタの頬に触れる寸前、払いのけるというにはあまりに強い力で薙ぎ払われた。
バチンッ! という派手な音に、寵姫たちをが身をすくませるが、一人だけその行動に怒りも露わに前に出て来た寵姫がいた。
リタが女であるという侮りと、同性の目から見ても羨むほどのその美貌に対して反射的に対抗意識を刺激されたのだろう。
寵姫はリタを睨みつけると、その無礼な振る舞いに対し、金切り声を上げた。
「この無礼者っ! このお方をどなたと心得るかっ!」
バールリウスを庇うように、両腕を大きく広げて仁王立ちする。
その怒りで紅潮した顔を、リタは何の感情も示さず、ただ冷たく見つめ返した。
そして一歩前に踏み出すと、容赦なく寵姫の顔面を張った。
それは最早平手打ちなどという生易しいものではなく、完全に掌打の領域であった。
事実寵姫は悲鳴を上げる間もなく意識を刈り取られ、バールリウスの腕の中に倒れ込んだ。
「この者たちに手荒な真似はしないでくれっ!」
バールリウスの言葉に、リタは一言も答えず、顎をしゃくってついてくるように指示する。
残されることになる寵姫たちが不安がるが、
「すぐに戻る」
というリタの冷たい一言と、バールリウスから託された寵姫の変形してしまった顔に、それ以上は何も言わなかった。
「助けてくれたこと、礼を言う」
先ほどの無礼などなかったかのように、バールリウスはさわやかな笑顔を見せた。
バールリウスの中では、先ほどのことなど無礼でも何でもない。女性が嫌がることをしようとした自分が悪いのだと考えている。
「なんでコーネリスに従った?」
バールリウスの言葉を完全に無視して、リタは尋ねた。
無視されたバールリウスは気を悪くするでもなく素直に答える。
「寵姫たちを人質に取られてしまったのだ」
それがバールリウスにとって、説明のすべてであった。
「あんたの身がクロクスの手に渡ることの意味が、あんたにはわからないのかいっ!」
リタがバールリウスにだけ聞こえるように、小声で叱りつける。
「私の身が、クロクスにヴォオス侵攻の大義名分を与えることはわかっていた」
「ならなんで黙って従ったんだいっ!」
リタの冷たく無表情だった顔が、怒りの表情に変わる。
それでも美しさの損なわれないリタの美貌に、バールリウスはうっとりと見とれた。
「あんたの存在が、どれだけリードリットの足枷になっているかわかっているのかい? あんたを見ていると、クロクスの専横も、今回の謀反も、起こるべくして起きたとしか思えないね」
「すまないと思っている」
「思っているだけで何もしないなら、そんなもんは何も考えていないのと一緒さっ!」
バールリウスに対し、リタはどこまでも容赦なかった。
「あたしはリードリットにとって害にしかならないあんたを、殺したいと思ってる」
それは冗談でも口にしていい言葉ではない。口にする以上、そこには確固たる覚悟が必要な言葉だ。
そして面と向かってバールリウスに言い放ったリタには、その覚悟があった。
そもそもこの場にヴォオス兵はおろか、盗賊ギルドの人間までいないのには訳があった。
リタはコーネリスの策略の底を見抜くと、踊らされたように装い、裏の裏をかいた。
その結果、サミュエルは敗れ、王宮は解放された。
そこまでの流れは、策の遂行にあたった者たちは全員承知していたが、一つだけ誰にも知らされていない事実があった。
コーネリスがサミュエルの作戦遂行中に、王都からの脱出を図ることを見抜いていたという事実だ――。
リタはすべての段取りを整えると地下へと潜り、この場所に身を潜めてバールリウスが現れるのを待っていた。
すべてを見通した時、今回の謀反は、リタにとって王都の地下にバールリウスをおびき寄せるための手段でしかなくなっていたのだ。
むごい死に方をしたコーネリスも、リタにとっては最早ついでに始末したに過ぎない。
今回の謀反の核は、バールリウスの政治的価値にあった。
ロンドウェイクの死で、先々代の国王の血を受け継ぐ者はバールリウスだけとなった。
法的に承認されこそしたが、リードリットはあくまで女の身だ。
王位に就くのであれば男の方が好ましい。
ヴォオスはそうして三百年も続いて来たのだ。
そう簡単に変わることは出来ない。
ロンドウェイクが王族から除名されるという不名誉な死に方をしたことで、王位継承権第一位にあるルートルーンに対し、赤髪で黄金色の瞳を持つリードリットに向けられたように、血の穢れを指摘する意見が出ている。
先の国王でもあったバールリウスの価値は、当人の能力にかかわらず、未だに強い影響力を有しているのだ。
その価値は今後も生きている限り損なわれることはない。
その身柄を押さえることが出来れば、クロクスに限らず、誰でもヴォオスの国内貴族に対して強い影響力を持つことが出来る。
その事実はヴォオス国内にとどまらず、大陸中の野心家にとって甘い蜜も同然であった。
バールリウスがリードリットの父親であることは、説明されなくてもリタもわかっている。
だが、それ以上にリードリットの治世を揺るがしかねない危険性を秘めた存在であることの方が重大だった。
その危険を取り除ける者は、この地上には誰一人存在しない。
権限という意味だけで考えれば、リードリットにバールリウスの排除は可能だが、生まれてから今日まで受けてきた愛情が、それを不可能にしていた。
今後のヴォオスの安定した治世を真剣に考えるのであれば、バールリウスは生きていてはいけない存在だった。
だからといって、いくらリタでもバールリウスを暗殺するわけにはいかない。
これまで盗賊ギルドが担ってきた<掟>という役割は、王都治安軍とはまた違った意味で、ヴォオス中の犯罪者を縛り、恐怖によって治安の悪化を一定水準に抑えて来た。
リタがリードリットと決裂するということは、ヴォオスから闇の安定が失われることを意味する。
それでは可能性でしかないバールリウスの危険性を取り除く代わりに、現実的な治安が失われることになってしまう。
それは一を得て二を失うことに等しい。
今回の謀反は、そうはならずにバールリウスを排除する絶好の機会なのだ。
そしてリタにその好機を逃すつもりはなかった。
たとえそれが女友達をどれ程悲しませることになるかわかっていてもだ――。
「では仕方がないな」
リタがどれ程の想いでこの場に立ち、殺意を向けているかまるで理解しないまま、バールリウスはあっさりとリタの言葉を受け入れた。
それは強がりでも何でもない、どこか浮世離れした執着のなさを感じさせる言葉だった。
(……こいつ、やっぱりどこかイカレてるね)
リタは心の中でため息をついた。
「いい度胸だ。全部の罪をコーネリスになすりつけて、この場で殺してやってもいいところだけど、そうするとあんたの寵姫たちも全員殺さなきゃならなくなる」
「それは困る」
間髪入れずにバールリウスが答える。
「そう言うだろうと思ったよ」
呆れ返りながらも、リタは懐に手を入れると、小指の先ほどの小さな小瓶を取り出した。
「この場であんたとあいつらを始末しない意味をちゃんと理解しておいておくれよ。代わりにこいつを渡しておく。王宮に戻っちまったら、いくらあたしでもそう簡単にはあんたをどうこうすることは出来ない。だから、どうするかはあんた次第になるが、その行動いかんによっちゃあ、あたしもそれなりの行動に出るから覚えておきな」
そう言ってこちらを不安そうに見つめる寵姫たちを、感情のこもらない目で見つめた。
その視線の意味を取り違えるほど、バールリウスも鈍くはない。
「わかった」
それだけ言うとバールリウスはリタの手から小瓶を受け取った。
それから言う。
「すまないが、王宮への道案内を頼めないか?」
それは、それまでの会話の意味がまるで浸透していないかのように、邪気のないさわやかな声だった。
リタは改めてバールリウスという人間に、寒気を覚えたのであった――。
こうして誰にもその存在を知られることなく、今回の大侵攻の立案者であり、王宮の占拠という謀反の真の首謀者でもあったコーネリスは、地上に出ることなく王都の地下にその姿を消した。
そして、サミュエル討伐というルートルーンの偉業だけが残った。
後日、王宮が日常を取り戻して幾日かが経ったころ、先王バールリウスは即位から在位中、そして退位して以降も一度として欠かしたこのなかった、バールリウスの職務ともいうべき行動を取らなかった。
寵姫を部屋へ招かず、たった一人で眠りについたのだ。
後宮は騒然となったが、
「いろいろあった。さすがに疲れた」
の一言に、寵姫たちは黙って従った。
そしてその翌朝、バールリウスはまるで微笑むように美しい顔のまま、夢でも見ているかのように死んでいた。
その死に不審な点はなく、周辺にも毒物などの形跡が見られなかったことから自然死と判断され、国葬でもってバールリウスは天へと送られた。
その胃袋の中には、一人の女性のことを気遣って、小さな小瓶が眠っていることに、リタだけが気づいていた。
愚かな男の愚かしい気遣いを、リタは黙って受け取ったのであった――。
次回6月16日投稿予定です。
いよいよ今回のクライマックスともいうべき対イェ・ソン編に突入するので、書き手である自分も大変楽しみです。
それではまた次回!
誤字脱字、文章間違い等修正いたしました。
修正前にお読みくださった皆様、大変ご迷惑をおかけいたしました。すみませんでした。
今後もギリギリの状態が続きますが、寛大なお心でお読みいただければ幸いです。
さらに追加でお詫びしたします。
誤字脱字等の確認のために読み返した結果、どうしても必要と思える文が不足していると感じ、大幅に書き足しを行いました。最後の方だけですが、一度お読みいただいた方には本当に申し訳ありません。
内容的には今後の展開にかかわらないので、お読みいただかなくても問題はありませんが、この文章があるのとないのとでは今回の話の読後の感想が少し変わってしまいます。
今頃ここに書いてもあまり意味がないので、次回のあとがきに改めてお詫びを掲載させていただきます。
誠に申し訳ありませんでした。




