王都治安軍の裏切り!
ルオ・リシタの侵攻に加え、イェ・ソン、エストバという隣国による同時侵攻を受けたヴォオスは、国内貴族の反乱鎮圧に、国王リードリットが自ら赤玲騎士団を率いて討伐に赴く事態となった。
それは懸念されていた事態ではあったが、あくまで可能性としてあり得る程度の問題であり、現実問題として万全の態勢を整えるにはあまりにも規模が大き過ぎた。
だが、今回の争乱を画策した首謀者にはそれだけの規模の謀略を地上に描くだけの力があり、そのあまりに長く大きな力を持つ手が握る絵筆には、まだこの先の展開を描けるだけの血で出来た塗料が残されていた。
リードリットが赤玲騎士団を率いて王都を後にすると、その絵筆は治安軍の責任者であるサミュエルの上に降り、ヴォオス王宮に血の惨劇を描かせた。
サミュエルはレオフリードに長年仕え、ヴォオス軍内においてもその実力は高く評価されていた。
職務に誠実で判断力も確かなサミュエルを、レオフリードも高く評価し、幕僚として側に置いていた。
ライドバッハ率いる大反乱軍に対抗するために、治安軍の一部兵力を割く代わりに、南の隣国ゾンの重要拠点であるトカッド城塞を陥落させ、一時的ではあるが安定を取り戻した南の国境線からレオフリードとその配下である一万の兵士が王都に移動することになった。
異動後の王都治安の責任者はレオフリードとなり、サミュエルはその下で治安軍業務を完璧にこなしてみせた。
地下競売場の存在が明るみに出たことにより、ヴォオス軍幹部も多くが粛清され、当時の治安軍も多くの幹部を失うことになった。
機能停止した治安軍をそのままにしておくわけにはいかず、臨時で王都の治安維持にあたっていたレオフリードの部下たちは、レオフリードが大将軍に就任したこともあり、そのまま治安軍の正規兵となり、レオフリードからの推挙を受け、サミュエルが治安軍の責任者となった。
着任からリードリットが出陣するその瞬間まで、サミュエルは信頼に足る人物のままであった。
だが、リードリットと入れ替わるように一人の男が王都に姿を現すと、サミュエルは即座に行動に移ったのである。
治安軍は元々約二万の兵力で王都の治安維持にあたっていた。
ここから一万がライドバッハの討伐に割かれ、その不足分をレオフリードの軍で埋めた形になる。
サミュエルはレオフリードの部下であったが、それ以前にクロクスから当時無派閥であったレオフリードをクロクス派に取り込むために派遣されクロクス派であったのだ。
サミュエルはレオフリードの人となりに触れ、そう簡単には取り入れない人物だと判断すると、職務に徹し、信頼を得ることにした。
その間クロクスからの勧誘を匂わせる様な言動は一切見せなかった。
忍耐強いサミュエルは、まず信頼を得ることに徹し、成功したのだ。
だが、いざレオフリードに働きかけを行おうとした矢先にヴォオスは終わらない冬に覆われ、行動に移る前にカーシュナーが仕掛けたヴォオス改革の激流に呑まれ、サミュエルは仕えるはずの主を失い、任務も果たせないままヴォオス軍幹部の地位のみを手に入れたのであった。
それでも地位を得たことにより、サミュエル個人が影響力を持つことが出来たことで、レオフリードには及ばないまでも、リードリット政権下に一定数のクロクス勢力を確保することに成功したのであった。
サミュエルは元々の治安軍に加え、レオフリード軍からの移籍者の約半数を取り込み、ひたすら次の指示を待った。
ここでも発揮されたサミュエルの忍耐が、イェ・ソン、エストバ、国内貴族という巨大な勢力を巻き込んだ今回の謀略の中で、決定的な仕事を果たしたのであった。
サミュエルはまず取り込みに失敗した元レオフリード軍の兵士たちを、第三、第四城壁内の治安維持に当てることで、作戦遂行のための障害となる可能性から排除した。
第三、第四城壁内は主に平民や下級貴族たちの生活の基盤となっている区画であるため、貧困層の住民も多く、もめ事には事欠かない。
ただ普通に業務に従事させているだけで手いっぱいとなり、王宮の異変になど気がつきようがないのだ。
念のため第二城壁を閉ざし、見張りの兵を残すと、サミュエルは兵を散らして第二城壁内の住人たちに気取られることなく第一城壁へと達し、定時報告を装い、第一城壁を守る赤玲騎士団を突破して第一城壁内へと踏み込んだ。
この第一城壁内は、ヴォオス貴族でも大貴族と称されるような者たちしか屋敷を構えることが許されてはおらず、他は各国の大使館が存在するだけで、道には各貴族が抱える使用人と護衛の騎士たちの姿が散見される程度で、サミュエルの謀反は最小限の流血で露見を防ぐことに成功した。
この第一城壁の城門突破が成功した時点で、王宮の留守を任されていた赤玲騎士団に勝ち目はなかった。
興奮を抑え、まるで何事もなかったかのように王宮を目指すサミュエルたちに不信の目を向ける者はなく、サミュエルはいともあっさりと王宮へと辿り着いた。
この辺りは日頃の勤勉な姿勢が味方したと言える。
城門へと辿り着いたサミュエルは、それまで抑えていた猛々しい戦いの衝動を一気に解放した。
突如として城門に激しい攻撃を受けた赤玲騎士団は、反射的に城門に集まってしまった。
王宮は広い。
軍が一気に侵入出来る箇所は城門しかないが、個人で侵入しようと思えばいくらでも手段はあった。
赤玲騎士団員が持ち場を離れ、城門へと向かうと、王宮内の内通者たちは豪奢な敷物や壁掛けを割いて即席のロープを作り、城壁上からそれを垂らしてサミュエルが派遣した別働隊を王宮内へと引き入れた。
リードリットが王宮に残した赤玲騎士団員は五百。
対するサミュエルが率いる兵力は一万。
城門に約半数の五千の兵が攻め寄せても、サミュエルにはまだ五千もの別働隊を送り込むゆとりがあった。
一旦城壁に上がれば、後は拠点を確保しつつ幾本もロープを降ろして兵士を引き入れるだけだった。
城壁を超えた兵士が千人に達すると、別働隊は城門へと向かった。
内と外から同時に攻められては、わずかな人数しかいない赤玲騎士団にはどうすることも出来ない。
リードリットから王宮の警備を任されていたシャンタルは、抵抗を断念すると王宮の最重要人物であるバールリウスとルートルーンの脱出を図った。
だが、シャンタルが決断を下した時にはすでに残りの別働隊が王宮内へと踏み込んでおり、シャンタルは脱出ではなく、まず奪還を想定して動かなくてはならない事態になってしまっていた。
バールリウスの閨房へとなだれ込んだ別働隊は、あっさりとバールリウスの身柄を抑えることに成功した。
数あるバールリウスの欠点の中で、唯一愛すべき欠点と言える女性に対する甘さを利用し、寵姫たちを盾に取り、バールリウスから逃亡と反抗の意思を奪い取ったのだ。
バールリウス本人に脱出の意思がなくては奪い返すことは出来ない。
シャンタルは真っ白になりかける頭を必死で回転させ、ルートルーンの脱出に全力を注いだ。
だが、状況はもはや完全に手詰まり状態であり、文字通り身を盾にし、ルートルーンの居住区への侵入を遅らせるので手いっぱいであった。
城門を破り、バールリウスの身柄を押さえることに成功したサミュエルは、最後まで手を抜かず、ルートルーンの身柄の確保に動いた。
磨き上げられた大理石の床は、一面赤玲騎士団の血で汚れた足跡に満たされ、王宮内を血の臭いで満たした。
ルートルーンの私室の扉を最後の一人となっても死守していたシャンタルが、三人を同時に相手取り、一人の心臓を貫く代償として二本の剣に刺し貫かれ、赤玲騎士団の抵抗は終わった。
ルートルーンの私室の扉はシャンタルの身体と共に蹴り倒され、兵士たちが室内になだれ込む。
だが、室内には誰一人おらず、ルートルーンは王宮の奥深くから忽然とその姿を消したのであった。
光を失いかけている目でその事実を確認したシャンタルは、どこかホッとしたような表情を浮かべると、まるでため息のでもつくように血を吐き、死んだ。
サミュエルはルートルーンの捜索を続けつつ、バールリウスを利用して数々の勅書を書かせ、その一つをオス峠で戦うリードリットに送ったのであった――。
◆
「めそめそしてんじゃないよっ!」
小声で怒鳴りつける声と同時に、鈍い打撃音が王宮の暗闇の中で響く。
驚いて頭を押さえたルートルーンが目にしたのは、特殊なランタンの光に微かに浮かび上がったリタの鋭い眼光であった。
「シャンタルが身体張ってくれたおかげであんたを救い出せたんだ。泣く以外出来ることなんていくらでもあるだろ。シャキッとしな」
そう言ってもう一発ルートルーンを殴る。
殴られることに慣れていないルートルーンは、呆気に取られたままリタの鋭い眼差しを見つめ返すことしか出来なかった。
王宮が襲撃を受けるのは、ヴォオス三百年の歴史の中でもたった一度、先の王宮騎士団による謀反を鎮めるため、カーシュナーの手引きにより五大家の精鋭騎士によって城門が破られた一例のみであった。
三百年間でたった一度しか起こらなかった非常事態が、ほんの数か月後に再び起こるなど、誰も想像すらしていなかった。
その目が国の内側よりも外側へと向けられていたこともあるが、王宮の守りの厚さに対し、どこか過信があったことは間違いなかった。
ルートルーンも事態の重要性に気がついた時には、もはや正規の脱出路では王宮から抜け出せない状況に陥っていた。
やむなく隠し部屋のあるルートルーンの私室に押し込まれることになったが、隠れ続けることが難しいことは、いちいち説明されなくともルートルーンにもわかっていた。
室内にはルートルーン以外誰もいない。
隠し部屋の存在を知らないでいるために、護衛の赤玲騎士団員たちは扉の外で守りを固めている。
万が一捕らえられて拷問を受けても、ルートルーンの所在を漏らさないためだ。
ここ数ヶ月でルートルーンの剣の腕は格段に進歩した。
王族から除名され、ケルクラーデンの野でカーシュナーによって討たれた亡き父が犯した罪を贖うために、ルートルーンはまず自分自身を心身両面で鍛え上げることにしたのだ。
これまでは王弟であり、大将軍でもあるロンドウェイクの息子であるルートルーンは、剣術を学ぶにしても、それなりの修練で済まされてきた。
もちろん剣術は、王族貴族のたしなみである。
父であるロンドウェイクは大将軍として、実戦で確かな戦果を残したヴォオス屈指の達人であった。
それは素質だけで成し遂げられるほど甘いものではなく、それ相応の修練の賜物であった。
だが、幼少のころから飛び抜けて身体の大きかったロンドウェイクに対し、素質では劣らないが、明らかに父と比べて身体の線の細いルートルーンは、ロンドウェイクの意向もあり、本格的な修練は先延ばしにされ、けがをしない範囲内での修練を行って来ていた。
それが一転、リードリットを筆頭に、シヴァ、オリオン、レオフリードといった国内はおろか大陸全土を見渡しても比肩する者を見つけるのが難しい、大陸最強候補とも言える人々と剣を合わせることになった。
レオフリードとオリオンはさすがにルートルーンにけがを負わせないように配慮した稽古をつけてくれるが、リードリットとシヴァにはそんなものは一切なかった。
おかげでルートルーンの身体には生傷が絶えず、身体が痛まない日など一日たりとてなかった。
それでもそんな痛みはどうということはなかった。
カーシュナーがまだ王都を離れる前、一度手合わせをしたことがあった。
それまで加減された修練しか受けたことのなかったルートルーンは、リードリットと本気で戦ったというカーシュナーならば、自分の強さを求める心の真意を酌み取り、手心など加えることなく戦ってくれるのではないかと考えたからだ。
その当時は、その考えそのものが甘ったれた考えであったことに気がついていなかったルートルーンは、身体に傷を、心の中心に恐怖を刻み込まれて思い知ることになった。
戦いには見せるための試合と、命を奪い合う仕合の二つがあることを、ルートルーンは知らなかったのだ。
その違いを知らなかったルートルーンは、カーシュナーから叩きつけられた殺気を受け止めることが出来ず、ただ逃げ惑うことしか出来なかった。
降参を口にしてもカーシュナーはまるで取り合わない。
苦痛と恐怖から、自分が泣き叫んでいることにすら気がつかず、必死で命乞いまでした。
だが、カーシュナーは死を受け入れるしかない程の状況までルートルーンを追い込み、最後の一太刀まで殺気を揺らがせることはなかった。
意識を取り戻したとき、その記憶があまりにもこれまで経験してきた日常とは異なるものであったため、ルートルーンは始め、悪夢でも見たのかとすら考えた。だが、激怒したリードリットが真剣を振り回しながらカーシュナーを追い回している姿を目にした時、あの恐怖は夢でも幻でもなく、確かな現実だったのだと実感した。
地下競売場の襲撃に参加し、この世の地獄のような光景を目の当たりにしながら、それでもなお自分の中にはこれほどの甘さが残されていたのだと知り、ルートルーンは愕然とした。
そんな自分のもとに、王宮内を逃げ回り、何とかリードリットを撒くことに成功したカーシュナーが、やって来た。
顔半面が真っ赤に染まるほどの血を流している。
撒くことには成功したが、無事にというわけにはいかなかったようだ。
「強くなること、戦うことだけがお父上の罪を贖う手段ではありません。戦い以外の道も必ずあるはずです。戦うということは、その痛みと恐怖の先にしか生が存在しないということになります。身体の痛みと心の痛みに問いなさい。自分はそれでもこの先の生を求めるのかと。強くなるのはそれからで十分です。殿下なら間違いなく戦い以外の道を見い出すことが出来るでしょう。今一度、これからの自分の在り方をお考えください」
「まだやるきかぁっ!! このクソ野郎がぁっ!!!!!!」
直後にリードリットに追いつかれたカーシュナーは再び必死の形相で逃げ出すことになったが、ルートルーンはカーシュナーが残してくれた言葉のおかげで覚悟を決めることが出来たのだ。
それ以降、ルートルーンはどんな修練にも音を上げず、己の力を蓄えていった。
あの痛みと恐怖を経験して以降は、リードリットとシヴァのしごきでさえも、ルートルーンに限界をもたらすことはなかったのだ。
今ならば、千騎長が相手でも負けない自信がある。
赤玲騎士団に守られるのではなく、共に戦いたい気持ちで身体の内側から焼け焦げそうになる。
だが、ルートルーンは自身に付随する政治的価値のため、ここで捕らわれるわけにはいかなかった。また、最後の瞬間まで、安易に死ぬことも許されなかった。
ギリギリまで可能性を信じ、生きて脱出する手段を模索しなくてはならない。
それが、今この瞬間も自分を守るために倒れていく赤玲騎士団員たちに対するせめてもの礼だからだ。
ルートルーンは隠し部屋以外にどこかに隠し通路がないかと必死で探してみた。
王宮騎士団の暴発の際は、それまで知らなかった隠し部屋や隠し通路を渡り歩き、カーシュナーと合流するまで何とか捕らえられずに追跡をかわしきることが出来た。
この区画には隠し通路はないと聞かされているが、、ルートルーンは万が一の可能性に懸け、必死で探していた。
戦いの喧騒がついに扉の前まで押し寄せてきた。
ルートルーンは隠し通路を諦め、隠し部屋に身を隠すか、それともこの場で自害するかの選択を迫られることになった。
そしてルートルーンが出した答えは、自害であった。
だが、それは自らの剣で首を斬るようなことではなく、一人でも多くの謀反人共を道連れにして、戦い果てるという選択であった。
どうせ死ぬのであれば、シャンタルたちと共に戦って死のうと決意し、扉に手を掛けたその背後に、不意に人の気配が現れた。
咄嗟に振り向くルートルーンの右手が、素早く腰の剣に伸びる。
その手が剣の柄を取り、引き抜こうとした瞬間、その腕に女性の手がかかり、ルートルーンはいとも容易く抜刀を封じられてしまった。
慌てて距離を取るために飛び退ろうとしたルートルーンであったが、今度は胸ぐらをしっかりと掴まれ、その動きすら封じ込められてしまう。
「いまさらジタバタするんじゃないよっ!」
今やその実力は千騎長にも匹敵するほどにまでなったルートルーンの動きを、あっさりと封じ込めたのは、現盗賊ギルドのギルドマスターであるリタであった。
相手が誰であるか理解したルートルーンは、同時に状況も理解する。
脱出口がないと思われていたルートルーンの私室にリタが現れたということは、やはりどこかに隠し通路があったのだ。
ルートルーンが状況を即座に理解してくれたおかげで、リタは構えていた手刀を解く。
押し問答などしている時間はなかったため、気絶させるつもりでいたのだ。
本当であれば背後から素早く当て身を入れて気絶させ、そのまま連れ出すつもりでいたのだが、予定に反してルートルーンが直前でリタの気配に気がついたため、やむなく動きを封じたのだ。
内心で元暗殺者である自分の気配を感じ取ったルートルーンに驚きつつも、リタは今必要ではないことに時間は割かなかった。
「来な」
そう言ってルートルーンを部屋の中央へと引っ張っていく。
驚きつつ床を見つめるルートルーンは、部屋の中央に豪奢な絨毯が敷かれたままになっていることに不信を覚えた。
これから脱出するというのに、いちいち隠し通路の入り口を閉じ、かなりの重量があるはずの絨毯を敷き直すことに意味があったのだろうかと。
疑問はとりあえず脇に置き、脱出の邪魔になる絨毯をどけようとしゃがみ込んだルートルーンを、リタが煩わしげに引きずり起こし、驚き戸惑うルートルーンの首を抱え込んで、問答無用で部屋の中央に立った。
すると天上から一本のロープが垂れ下がり、リタは素早くルートルーンの腰にロープを一巻きすると、驚いて天井を見上げているルートルーンにロープの端を持たせた。
「あの……」
言葉を発しようとした直後に、ルートルーンは一気に上へと引き上げられ、天上に出来た小さな穴に引きずり込まれていった。
リタは素早くルートルーンが荒らした室内を整え、天上から落ちた汚れをすべて回収すると、再び降りてきたロープを掴み、部屋から姿を消した。
そして、リタが慎重に天井板を元に戻すと同時に扉が蹴り破られて、謀反を起こした治安軍兵士たちが部屋になだれ込んで来た。
だがそこにはいるはずのルートルーンの姿はなく、まるで始めから誰も存在していなかったかのように静まり返った室内を、兵士たちは戸惑いながらひとしきり荒らし回った。
窓はあるがそもそも人が上り下り出来るような高さに王族の私室はない。
それでも念のためと窓を開け放ち、うっかり転落しようものなら命のない高さを呆然と眺めて室内へと目を戻す。
隠し部屋を探し当てた兵士たちの歓声が、埃っぽいもぬけの殻であることを理解し、盛大な罵り声に代わるのを確認すると、リタは小さく嗤い、その場を後にした。
そこは隠し通路などではなかった。
ルートルーンがリタが使用した通路の入り口が床にあると勘違いしたように、天上の高い王族の部屋の屋根裏に隠し通路など、作っても使用することが出来ない。
部屋に梯子でも備え付けておけば話は別だが、それでは天上に隠し通路があると言っているようなもので、まったく隠せていないことになる。
リタは治安軍の責任者であるサミュエルの裏切りを知った直後に別の部屋から強引にルートルーンの部屋までの道を作ったのだ。
もしシャンタルが身を盾にしてルートルーンを守ろうとしてくれなければ脱出路は間に合わず、ルートルーンも戦いの果てに倒れていただろう。
口も身体も拘束されて身動き出来ない状況にされていたルートルーンに振り向くと、リタは部下に合図し拘束を解き、移動に移った。
ルートルーンも聞きたいことは山ほどあったが、命の恩人たちを見習って、今は音を立てずに慎重に彼らの後に続いた。
裏切った治安軍の包囲を抜けたところでリタから細かい状況の説明があり、ルートルーンは埃で汚れた顔に、自分のために死んでいった赤玲騎士団員たちを想い、涙の跡を刻み、その直後にリタに殴られたのであった。
「バールリウスを押さえられたのは痛いね。まあ、あんたを取られるよりはマシだけどさ」
地下通路の一角に逃げ込んだリタは、地下空間にありながら、正確に王宮の方角を睨み、肩をすくめた。
「伯父上を何とかお助けしなくてわっ!」
「うるさいね。そんなことはいちいち言われなくてもわかってるんだよ。上手い手でも思いついたんじゃなければ黙ってな」
怒鳴りこそしないが、取り付く島もないその態度に、現状お荷物でしかないルートルーンは、言われた通り黙るしかなかった。
「本当に黙り込むんじゃないよっ!」
そう言って張り倒される。
殴られるほど痛くはないが、そう気安く叩かれたのではたまったものではない。
リタの部下が清潔な衣服と手拭いをルートルーンに渡しながら、無言で詫びを入れてくる。
「そういうことをするんじゃないよっ!」
それが気に入らないリタの蹴りが部下の尻に叩き込まれ、部下は声にならない悲鳴を上げた。
「ギルマス、ちったあ落ち着いて下さいよ。イラついたってしょうがねえでしょうが」
別の部下がリタをなだめるが、まるで視線だけで石にされそうな目で睨まれ、部下は首をすくめて逃げて行った。
「サミュエルの野郎。まさか腹にこれだけの一物隠し持っていたとはねえ。完全にしてやられたよっ!」
言葉と共に哀れな椅子が宙を飛び、壁に叩きつけられて脚を一本折る。
本来の用途では使用出来なくなってしまった椅子に腰を下ろしたリタは、サミュエルの謀反を察知出来なかった自分に対する怒りで内心煮えくり返っていた。
「ギルマス。サミュエルの野郎仕事が早い。前の王様使って各地の貴族へ挙兵を呼びかける使者を出しましたぜっ!」
「本当に仕事が出来る男だねえっ! 可能な限り追って回収しな。死体の始末をしくじるんじゃないよ」
報告を入れた男が「へいっ!」と威勢良く答えて出て行くと、リタはそれまでの怒りをあっさりと捨て去り、対策を検討し始めた。
サミュエルはレオフリードの片腕的な存在であった男である。ただでさえ後手に回っている状況で、これ以上サミュエルに思い通りに行動させてしまっては、ヴォオス全体が追い込まれかねない。
リタにはゆっくりと自己批判する時間すらないのだ。
「サミュエルが送り出した使者は全員把握出来ているかい?」
「すんません。始めの方は何人か取りこぼしちまいました」
「それは仕方ない。ここまで行動が早いのは、サミュエルが優秀なだけじゃあないはずだ。他にも頭が回る奴が向こうにいるはずだ。そいつを探り出してくれっ!」
リタの指示でまた一人部屋から飛び出し、代わりの者が入ってくる。
「リーのところには、確かカーシュの兄貴もいたね?」
「へい」
「鷹を飛ばしておくれっ! 文面は『王都は任せろ。お前は自分の仕事に専念しろ』だ。取りこぼした使者の中に、リーへの揺さぶりのための奴もいたはずだ。さすがのリーも親父を人質に取られれば動揺もするだろうさ。あいつが健在であればどうとでもなる。最優先で頼むよっ!」
リタの指示に答えた男は音もなく部屋から飛び出して行った。
この他に、あらゆる情報収集のための指示が出され、即座に行動に移される。
宰相となったゴドフリートの部下たちも優秀だが、リタの部下たちはそれ以上であった。
このときルートルーンは不意にゴドフリートのことを思い出した。
それまでは状況を把握するだけで手いっぱいで、ゴドフリートのことをすっかり忘れていたのだ。
「ゴドフリート様はどうなりましたかっ!」
「アペンドール様と共に無事王宮を脱出され、我々の手引きで地下に潜っていただいております」
リタに対してはべらんめい口調であった男が、ルートルーンの質問に答えてくれる。
ホッと胸をなでおろすルートルーンであったが、リタに冷たい一瞥を向けられると再び黙り込んだ。
「今さら何言ってんだいっ!」
リタの一瞥がはっきりとそう言っていたからだ。
ルートルーンは自分がまだ冷静に物事を考えられていないことを思い知った。
リタがわざわざ自らルートルーンを救出に来てくれたこと自体、その目には物事の優先順位がしっかりと確認出来ている証拠であった。
そのリタが、ヴォオスにおける重要度という意味では、ルートルーンをはるかに上回るゴドフリートの動向を確かめていないわけがない。
「殿下っ! ご無事で何よりでございますっ!」
いきなり部屋に入って来るや否や、そう言ってルートルーンの足元に平伏したのは、ディルクメウス侯爵であった。
「殿下が御無事で何よりでした。殿下の御身にもしもの事がございましたら、この老骨、陛下に合わせる顔がございませんでした」
ゴドフリートと共にヴォオスの内政を支えるディルクメウスも無事であったことに、ルートルーンは素直に喜んだ。
今自分に出来ることはない。リタの邪魔をしないようにふるまうだけだ。
ならば、リードリットが不在の今、自分こそが人々の精神的支柱となれるよう、下を向かず、まっすぐ前を向いていようと切り替えたのだ。
「ベアトリーゼ殿はどうした?」
「ありがたいことに、ルティアーナと共に脱出いたしました。今は負傷者の手当てを手伝っております」
「そうか。それは何よりだ」
ルートルーンはそう言ってほほ笑むと、ディルクメウスの手を取り立たせた。
「何がありがたいことにさ。礼を言うなら、真っ先にあたしらに対してだろ。まったく、五大家以外の貴族共ときたら、なっちゃいないねえ」
リタが聞こえよがしに文句を言う。
「お前のそう言う態度が礼を言う気を失くさせるのだっ!」
これに対し、ディルクメウスが顔を真っ赤にして怒鳴り返す。
それを横目に見てリタが面白そうに笑う。
本人がよく口にするように、絶世の美女でありながら、盗賊ギルドをまとめ上げる実力者でもあるため、この世の者ならぬ迫力がある。
「あのように憎まれ口叩いておりますが、ベアトリーゼ様とルティアーナ様の救出は、ルートルーン様の次に優先されておりました」
部下の一人が余計なことと承知の上でルートルーンとディルクメウスに告げ口する。
「男のくせにおしゃべりが過ぎるんだよっ!」
言葉と共にいつ手にしたのか、くないが男目掛けて飛ぶ。
ギョッとする二人の間を抜けたくないを、男は無造作に指二本で挟み取り、即座に手首を返して持ち主へと投げ返した。
飛来するくないをリタも無造作に掴み取り、次の瞬間にはその手からくないそのものが消え失せていた。
場合によっては死人が一人、けが人が二入出てもおかしくないやり取りであったが、リタも男も、それがまるで自然なことででもあるかのように気に留めていない。
「……と、とりあえず感謝します」
「礼には及ばないよ。どっちも一度は助けた二人だ。今さら見殺しにするくらいなら、始めから助けなきゃよかったって話になるからね。そこの口うるさいじいさんはそのついでみたいなもんさ」
感謝を口にするルートルーンを、リタがどうでもよさそうにあしらう。
「殿下がお言葉をくださっておるのだぞっ! なんだその態度はっ!」
それに対し、ルートルーンの代わりにディルクメウスが激昂する。
それを見たリタが、こらえきれずに吹き出した。
「リーの言う通り、からかい甲斐のあるじいさんだよ」
「なあっ!」
実はからかわれていたのだと知ったディルクメウスが、思わず絶句する。
幼少期ならばまだしも、ヴォオス国の重鎮となって以降、ディルクメウスをからかえるような人間はリードリットしかいなかった。
この非常時に驚くほどの手際で対応を指示していただけでなく、その合間にディルクメウスまでからかっていたのだ。
ルートルーンにはリタの能力の上限がいったいどこまであるのか測ることは出来なかった。
だが、おかげであのカーシュナーがリタに対し、全幅の信頼を寄せるのもうなずけた。
その迅速な判断力と決断力は、思考が一切停止しないからなのだ。
「王子様には仕事はないけど、じいさんには仕事がある。寝る間もないと思いな」
不意に真顔になったリタがディルクメウスを見る。
それまでリタの瞳にあったいたずらな色は消え失せ、眼光だけで気の弱い者なら気絶しそうなほどの真剣さがたたえられている。
「やれることがあるならそちらが先であろうがっ! わしなどからかっておらずにさっさと仕事を回さんかっ! バールリウス様をお救いし、陛下を王宮へお迎えするまでは、頼まれても寝てなどおれんわっ!」
リタの意図を酌み取ったディルクメウスは、憎まれ口を叩きつつ、全身にやる気をみなぎらせた。
サミュエルの謀反に対し、なす術なく逃げ出すことしか出来なかった自分に腹を立てていたディルクメウスの気合いの入りようは半端ではなかった。
「わしは何をすればいい?」
「おいっ! このじいさんを連れて行きな。王宮の中のことに一番詳しいのはこのじいさんだ。あと、アペンドールのじいさんも捕まえといでっ! 二人揃えば必要なことはすべてわかる。後は任せるよっ!」
「へいっ!」
リタの指示に、ディルクメウスは男に案内されて出て行った。
また一人、何も出来ることがないまま放置されたルートルーンは、無力な自分に失望するしかなった。
「休めるのは今のうちだけだよ。王宮の連中と違って、あたしはあんたが何者だろうが、容赦なくこき使うからねえ。いざって時に働けるようにしときな。そこで使えなかったら、リーの従弟だろうが何だろうが、容赦なくぶちのめすからねっ!」
今までかけられたことなどない乱暴な言葉に、ルートルーンは驚いて顔を上げる。
視線の先にはどこまでも本気なリタの瞳があった。
本気でぶちのめす気だっ!
いやいや、自分にもやれることがあるのだっ!
一瞬見当違いの思考が脳裏をよぎったが、役目があることを知れたルートルーンは、むしろおおいに元気付けられた。
「いったい何をするつもりなのですか?」
ルートルーンはどうしても問わずにはおれなかった。
その瞳がやる気に満たされたことを確認したリタは、その問いを邪険にはあしらわず、その薔薇の花弁のように美しい唇の両端を吊り上げると答えた。
「あたしらは盗賊だ。そのこざかしさを最大限に発揮して、サミュエルを徹底的に揺さぶってやるのさ」
ルートルーンにはまだ見えない先の未来を見据えながら、リタはニヤリと笑った。
その笑みはカーシュナーの笑みによく似ていたが、微量ながら漏れ出た冷酷な空気が、その笑みに死神の冷笑のような雰囲気を与えていた。
ルートルーンは思った。
この人には逆らわないようにしようと――。
次回は5月19日投稿予定です。




