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ヴォオス戦記  作者: 南波 四十一
ヴォオス戦記・乱
53/152

新たな同盟

 ヴォルクは意識を取り戻し、目を開けた瞬間愛する妻と息子の姿が飛び込んで来たことで、自分は死んだのだと思った。

 そのため、王都ザシャログラードにいるはずのイオアーナの姿があることも、ごく自然に受け入れていた。

 死を願いながら、自分のわがままのせいで無理矢理生かされていたも同然の妻が、自分の死と時を同じくして天へと旅立ったのは、助けてやることが出来なかったリエーフの導きに違いないと思えた。

 不甲斐ない父に、これほどの孝行をしてくれた息子に対する愛情が、ヴォルクの胸を熱くする。


「ただいま」


 ヴォルクが発した一言に、イオアーナは大粒の涙をこぼしながらしがみついた。

 想いを言葉にしたいはずなのに、感情があふれ返り、イオアーナはヴォルクの胸で泣くことしか出来なかった。

 震えるイオアーナの細い肩を抱きながら、ヴォルクは次第に意識がはっきりとして来ることに戸惑った。

 視界はまだ霞むが、鼻孔が捕らえた土の臭いと、それに混じって漂う血の臭いが、一気にヴォルクを覚醒させる。

 それが戦場の臭いだからだ。


「……イオアーナ? イオアーナ!! 本当に君なのかっ!」

 自分の胸に顔をうずめて泣く妻が、幻でもなければ霊魂でもなく、生きた生身のイオアーナであることを理解したヴォルクは、自分から少し離れた場所で不安そうに自分たちを見つめるリエーフを、希望と恐怖を混ぜ合わせた視線で凝視した。


「リエーフ、なのか……?」

 自分の口からこぼれ落ちた言葉に、ヴォルクは激しくかぶりを振る。

「……そんなはずはない。お前を弔ったのは私自身だ。生きているはずがない……」

 頭では理解出来ている。リエーフが生き返るわけがないことを。だが、心がどうしても夢を見てしまう。奇跡が起こり、精霊が自分たちのもとへ大切な息子を返してくれたのではないかと――。

 心に希望が湧き上がり、頭がその希望が裏切られることを告げる。ヴォルクの思考は混乱に呑まれ、言葉を失ってしまった。


「ああ、ごめんなさい。ヴォルク。何の説明もしないで泣いてしまって。あなたがもう目覚めないのではないかと恐ろしかったの……」

 イオアーナの泣き顔を目にしたヴォルクの思考は、一瞬の混乱を吹き飛ばし、妻を安心させようとしっかりと抱きしめた。

 イオアーナも細過ぎる腕でしっかりと抱き返し、ヴォルクを驚かせる。

 戦に立つ前にあった無気力さが消え去り、その力からはしっかりと生気が感じられた。

 ヴォルクはそれだけで、イオアーナがかつての自分を取り戻したことを理解した。


 そんな二人の姿を見て、不安そうだったリエーフの顔に、薄っすらと笑みが浮かぶ。

 その瞬間、ヴォルクは目の前の少年がリエーフではないことを受け入れた。

 リエーフは一度だってそんな風に笑ったことなどなかったからだ。


 見つめる視線の先で、不意にリエーフによく似た少年の輪郭がぼやけた。

 ヴォルクは袋叩きにあったときに頭を強く蹴られ過ぎたのではないかと心配した。

 イオアーナを腕に抱いている今、絶対に死ぬことは出来ない。

 ヴォルクの現実的な心配をよそに、ぼやけた輪郭はもはや目の錯覚などという言葉では説明出来ないほどはっきりと分かれ、少年のすぐ後ろにもう一人、リエーフによく似た少年の姿が現れていた。


 そしてその少年は、太陽のように輝く笑顔でヴォルクに微笑みかけたのだった。

「リエーフ……」

 忘れるはずがない。見間違えるはずがない。

 いつも自分の心を温かくしてくれたその笑顔は、間違いなくリエーフのものであった。

 ヴォルクは無意識に手を差し伸べた。もう片方の手では、しっかりとイオアーナを抱きしめている。


 リエーフの背後にいたもう一人のリエーフが一歩前に出て、リエーフに微笑みかけた。

 リエーフの目にその笑みは映らない。だが、心に温かい何かが触れたことははっきりと分かった。

 そして、言葉では表しようのない寂しさが訪れ、身体がほんの少しだけ軽くなったような気がした。

 その軽さは大切な何かがこぼれ落ちてしまったかのようで、リエーフはこれ以上失われないようにと、自分の身体を抱きしめた。

 そんなリエーフの頬をやさしくなでたリエーフは、父と母へと振り向き、さらに一歩踏み出した。


 リエーフが一歩踏み出すたびに尊い光の粒がこぼれ落ち、リエーフを希薄にしていく。

 その意味するところを悟ったヴォルクは、もう一度息子を失う痛みに慄きながらも、差し伸べた手をけして戻しはしなかった。


 胸中にリエーフが飛び込んでくる。

 言葉はない。

 だが、嬉しそうな笑顔が自分を見上げている。

「すまなかった、リエーフ。お前を幸せにしてやることが出来なかった無力な父を許してくれ……」

 リエーフの笑顔に対して、ヴォルクは笑みを返すことが出来なかった。

 抑えきれない後悔が心に溢れ出し、その顔を苦悩で歪めてしまう。


 リエーフの手が伸び、自分のために苦しむ父の顔をやさしくなぞった。

 たったそれだけのことで、リエーフの光がさらに失われてしまう。

 この時間がもはやほんの一瞬しか残されていないことを悟ったヴォルクは、苦悩も後悔も心の奥に無理やり押し込み、自分にしか見えない息子と、確かな温かさを伝える妻の身体を合わせて抱きしめた。


 リエーフの嬉しそうだった笑顔が幸せで満たされ、風に舞う砂のように消えてなくなった。

 ヴォルクは泣いた。

 声を上げて泣いた。

 この日ヴォルクは、ルオ・リシタの戦士であることをやめたのであった――。









 何が起こっているのか、その場でヴォルクを囲む人々に知ることは出来なかった。

 だが、それがとても大切な何かであることは、同じルオ・リシタ人であるキーラとファーツィだけでなく、ライドバッハたちにもわかった。

 そこにはけして汚してはならない尊い力が働いていたからだ。


 そして力が去り、ヴォルクは泣いた。

 それをわらう者はこの場には一人もいない。

 キーラは膝をついて泣き崩れ、ファーツィはルオ・リシタの戦士らしく空を見上げ、涙を必死にこらえていた。

 他の者たちはヴォルクたちを守るかのようにその周囲に立ち、ただ静かに待った。


「……ファーツィ。これはいったいどういう状況なのだ?」

 涙が去り、落ち着きを取り戻したヴォルクは、副官の存在に気がつき尋ねた。

「すみません。私も状況は把握出来ていないのです」

 主の問いに、ファーツィは首を振るしかなかった。

 この戦場で誰よりも駆けたのはファーツィだった。

 ヴォルクを捕らえていそうな有力部族の中へ何度も斬り込み、それによってヴォオス軍が助けられたのは一度や二度ではなかった。

 そうやって戦場の隅から隅まで駆けずり回り、ヴォルクを探し続けていたのだ。

 副官の苦労は借り物のヴォオス軍の鎧がわずか一戦でボロボロになっていることで容易に想像がついた。 ヴォルクはそれ以上問わず、周囲を見回した。

 そこにキーラの姿を見出し驚く。


「まず私から大まかな状況を説明させてくれ」

 そう言って進み出たのはライドバッハだった。

「お主は……」

「久しぶりだな。ヴォルク将軍」

 かつてヴォオス国の大使としてルオ・リシタに赴いていたライドバッハは、ヴォルクとも面識があった。 そしてライドバッハの姿を確認したことで、ヴォルクはどこか納得がいったように肩を落とした。


「やはりお主には勝てぬか。いや、この戦は、ほとんどルオ・リシタ軍の自滅だった」

「そうだな。だが、ルオ・リシタ軍に致命的打撃を与えたのは私ではない。そこにいるミヒュールという男だ」

 ライドバッハはそう答えると、少し離れたところで事態を観察しているミヒュールを指し示した。

 ミヒュールは一言も語らず、ただ礼を守るためだけに小さく頭を下げただけだった。

 敗軍の将に対し、誇らず沈黙を守ることで礼に代えてみせたその姿勢に、ヴォルクは感嘆を覚えた。ルオ・リシタにはいない人間だ。


「大反乱の噂を聞き、ヴォオス軍の戦力低下を期待していたのだがな。若い力がしっかりと育っているようだ」

 ヴォルクの言葉に、ライドバッハは息子を誇る父親のように笑った。

 鉄仮面の笑みに、さすがのヴォルクも驚く。

 かつてのライドバッハは、駐留大使であったにもかかわらず、ヴォオス王宮内での態度同様、ルオ・リシタ王宮でも欠片の愛想も振りまかなかったのだ。


「話を戻すが、我々ヴォオス軍は、軍を二分し、侵攻するルオ・リシタ軍に対抗するための軍と、お主らの留守の隙に王都ザシャログラードを襲撃する軍とに分けた」

「馬鹿なっ! 我らはヴォオスに向けて進軍していたのだぞっ! 王都を襲撃出来るだけの軍勢を見逃すはずがないっ!」

「その辺は軍事機密だ。まあ、この後の交渉次第では手の内を明かさんわけにはいかなくなるのだがな」

 驚くヴォルクを軽くいなし、ライドバッハが謎めいた言葉を呟く。


「ライドバッハよ。ヴォルク様の救出に手を貸してくれたことには感謝しているが、今はつまらん冗談につき合う気分ではない」

 ライドバッハの言葉を信じなかったファーツィが、生真面目にライドバッハを諌める。


「ファーツィよ。何故本国からの補給が途絶えたか不思議に思わんか?」

 ライドバッハの問いかけに、ファーツィは長い鼻を引っ張りながら考え込んだ。

「補給が続けば、ルオ・リシタ軍はもう少し軍としての統制を保ちつつ、組織立って行動出来ていたはずだ」

「補給に回す食料が尽きたのだろう。ルオ・リシタはそれほどに切迫していた」

「食糧事情が厳しかったことは事実だろう。だからこそ食料を食い尽くす前に、ヴォオスから奪おうと計画した。いくらアレクザンドールが短気とはいえ、戦線を維持出来ないと始めからわかっている戦にまで手を出したりはせん。最低限もつ(、、)と計算したはずだ」

「…………」


「だが補給はなかった。そしてお主らは、当初持参した食糧が尽きたため、一か八かの行動に出ざるを得なくなった」

「我らがヘルヴェン城塞を攻略せず、放置して南下したため、補給部隊が阻まれた可能性もある」

「違うな。お主らがヘルヴェン城塞を攻略しなかったのは、まず先に補給が途切れたからだ。その原因を食糧不足と判断したようだが、事実は違う。我らが王都を襲撃したことにより、アレクザンドールはお主らの裏切りを疑わざるを得なくなったのだ。その深過ぎる猜疑心の故にな」

 ライドバッハの言葉に、ファーツィは一言も返せなくなってしまった。


 ファーツィもアレクザンドールの人となりはよく知っている。六人の王子が参戦した今回の遠征の総指揮官に、王子たちの誰かではなくヴォルクを据えたのも、ヴォルクに対する信頼というより、王子たちに兵権を持たせることを嫌ってのことだ。

 ファーツィがライドバッハの言葉を疑ったように、もし本当にヴォオス軍が王都を襲撃したのであれば、アレクザンドールはヴォオス軍がス・トラプ山脈を越えたか、ヴォルクたち侵攻軍と取引をしたかの、どちらか二つの可能性を疑ったことだろう。

 そしてアレクザンドールは、ヴォルクたちがヴォオス軍と取引をし、ヴォオス軍を素通りさせたと判断したに違いない。

 冬を目前に控えたス・トラプ山脈を越えることなど、山岳戦で名高いエストバの兵士たちでも不可能だからだ。


「始めから戦ってはいけなかったのだ……」

 ライドバッハの言葉を信じたヴォルクが、ため息をつくように言葉をこぼした。

「残念だが戦いは避けられなかった。ゲラルジー王子のヴォオス侵略と、アレクザンドールの人に頭を下げられない性格では、ヴォオスとの国交の修復は不可能だった。愚かな支配者を持った時点で、お主らは敗れる運命だったのだ」

 ライドバッハのとどめの一言で、ファーツィも完全に沈黙してしまった。


「その後我らはお主らの後を追うようにヴォオスへと向かい、最終的にメレウスゴルスク砦をルオ・リシタ側から攻め落としてヘルヴェン城塞軍と合流し、この地にてお主らを包囲殲滅したのだ」

 ライドバッハはこともなげに言っているが、ヴォルクの参謀役を務めるファーツィには、ライドバッハが描き出した戦の全体像があまりに大き過ぎて、覆す手段もはおろか、どの時点で致命的な打撃を被ったのかすらわからない。

 ヴォルクが言った通り、戦いを選択した時点で負けていたのか?。

 いや、おそらくさらにそれ以前の段階で負けているのだ。


 侵攻するルオ・リシタ軍にとってもっとも予想外だったのが、ヴォオスの国境付近の村落が無人と化していたことだ。この事実がその後のルオ・リシタ軍の行動を致命的に狂わせた。

 これによりルオ・リシタ軍は何ら得る物もなく、ヴォオス内深くへと侵攻せざるを得なくなったのだ。

 そして、その無人化がいつの時点で行われたのかを考えると、ファーツィは鳥肌が立つ思いだった。


 ヴォルクとファーツィの内心を理解したライドバッハはそれ以上語らず、ヴォルクたちにとって真に重要なことに話を移すことにした。

「キーラよ。王都での出来事を二人に伝えてやりなさい」

 ライドバッハの言葉に、キーラは身体をびくりと震わせた。

 伝えなくてはいけない。でも伝えることが恐ろしい。

 それはキーラにとってもつらく悲しい記憶だったからだ。


 王宮から戦士の一団が派遣され、問答無用で襲撃を受けたこと。

 自分とイオアーナ以外の全員が、おそらく殺されてしまったこと――。


「ニーナはっ! ニーナはどうなったのだっ!」

 顔面を真っ青にしたファーツィがキーラに詰め寄り怒鳴りつける。

 半ばその答えを予測し、それでも否定してほしいと願う副官の肩にヴォルクが手をかけ、キーラから引き離す。ヴォルクの目にも暗い理解の色がある。

 ルオ・リシタの戦士たちが弱者を蹂躙する時どのように振る舞うか、ヴォルクもファーツィもよく知っていた。


「……殺されました」

 ただ一言、答える。それ以上の言葉は、キーラの口からは出てこなかった。

 だが、キーラの瞳に一瞬だけ映った消えることのない憎しみの炎の揺らぎを見て取ったファーツィは、ニーナがただ殺されたわけではないことを悟った。


 ファーツィは噴き上がる怒りを制御することが出来ず、狂った獣のように吼えるとのたうち回って叫んだ。

 地面を殴りつけ、髪をかきむしり、喉が潰れることもかまわず、大声で叫び続けた。

 喉が避けて血の泡が唇から伝っても、ファーツィは叫ぶことを止めない。いや、やめることが出来ないのだ。

 悲しみと怒りにねじり上げられ、その精神は狂気の境へとさしかかっていた。


「殺してやる。そいつら全員見つけ出して、殺してやる……」

 しわがれた声で、呪詛の言葉を紡ぎ出す。

 ファーツィの尋常ならざる様子に呆気に取られていたキーラが、ヴォルクに視線を向ける。

「ファーツィ様はいったい……」

 キーラの問いに、ヴォルクが奥歯をきしらせながら答える。


「ニーナがお主を驚かせたがっていたので黙っていたのだが、ファーツィとニーナは、終わらない冬が訪れなければ結ばれていたのだ」

「そんなっ!!」

 初めて知る事実のあまりの残酷さに、キーラはニーナを失った時以上の苦しみを味わうことになった。

 膝の力が抜け、崩れ落ちると胸を押さえて涙を流す。

 どうして私はあの時ニーナを助けに行かなかったのだろう。

 親友なのに。

 助けを求めて泣き叫んでいたというのに――。


 キーラは護身用の剣を引き抜くと、自分の腹目掛けて突き立てた。

 いや、突き立てようとした。

 だがその柄はレオフリードに握られ、キーラの腹部を切り裂くことはなかった。


「離してっ! 邪魔をしないでっ! お願いだから死なせてっ!」

 キーラはもがいたが、ここまでの長旅の疲れもあり、レオフリードの手を振り払うことは出来なかった。

 結局剣は取り上げられてしまい、キーラは地にふせて泣くしかなかった。


「かたじけない」

 ヴォルクがレオフリードに頭を下げる。

 それに対してレオフリードは沈うつな表情で首を振っただけだった。


「イオアーナ。君はその辺りの事情を覚えているかい?」

「……ええ。ニーナを殺した戦士たちは、キーラに全員討ち取られたわ」

 イオアーナの答えにヴォルクは目を見張り、泣き崩れるキーラの背中を見つめた。

「戦士たちを率いていた者が誰かわかるかい?」

「以前一度だけ街中ですれ違ったことのある、あなたと同郷の守備隊の隊長よ」

「……デミードかっ!」

 ヴォルクの形相が変わる。

 デミードが自分をよく思っていなかったことは、部下を通じて耳にはしていたのだ。


「奴はどうなった?」

「私とキーラを助けてくれたヴォオス軍の将軍に倒されたって聞いたわ」

「何故だっ! 何故殺したっ!」

 絶望のにじんだ声でファーツィが叫ぶ。

「この憎しみはどうすればいいんだ! 誰にぶつければいいんだっ!」

 ファーツィの悲しみと憎悪に満ちた問いには、賢人ライドバッハでも答えることは出来なかった。


「ファーツィ。仇は討たれたのだ。あとは何とかして、ニーナの魂を迎えに行こう。屋敷にはおそらく火が放たれ、ニーナの魂を浄化してくれただろう。きっとニーナの魂は精霊と共にある。私がリエーフに出会えたように、お前はニーナの魂を迎えに行かなければならない」

 狂う寸前の副官に、ヴォルクがなんとか目的を与えようとする。


「そんなことにどんな意味があるというのですかっ! ニーナはもう死んだのです。殺されたのですっ!」

「だからお前はニーナを迎えにはいかないというのか? ニーナを殺した連中の仲間がへらへらと笑って過ごすあの場所に、ニーナの魂を一人ぼっちに置き去りにするというのか?」

 ヴォルクの言葉がファーツィの脳裏にその様子を描き出す。

 そんなことは出来なかった。

 どれほどつらかろうと、どれほど苦しかろうと、ニーナを迎えに行かなければならない。

 クズどもの中になど、一瞬たりとも置いてけない。

 そして、ヴォルクを信じず、戦士を派遣したアレクザンドールとその取り巻き共の首をすべて斬りおとしてやらなければならない。

 ファーツィが剣を向けるべき相手は、まだ大勢残っていた。


 狂気が去り、目的を見出した瞬間、ファーツィは糸が切れた人形のように倒れた。

 <ヘルヴェン会戦>の始まりからここまで、生命力を搾りつくすかのように戦い、足掻き続けてきたのだ。

 肉体的にも限界だったが、精神が限界点を大きく振りきってしまったのだ。

 すかさずレオフリードが指示を出し、ファーツィは身体を休めるために天幕へと運ばれていった。


「イオアーナとキーラを助けてもらい、感謝の言葉もない」

 ファーツィが手厚い処置を受けるのを見届けた後、ヴォルクはそう言うと深々と頭を下げた。

「私がザシャログラードを攻めなければ、そもそも助ける必要は生じなかったかもしれんぞ?」

 ライドバッハが一番の矛盾点を指摘する。事実を隠すつもりはないということだ。


「ことは国と国との戦いだ。勝つことに全力を注ぐのは戦士として当然のこと。それに、お主がザシャログラードを攻めていなかったとしても、戦に敗れた私の家族はその責任を取らされ、使用人も含めて全員殺されていただろう。アレクザンドールが王である限り、結果は変わらなかったはずだ」

 ヴォルクの言葉に対して言葉は返さず、ライドバッハはただ真っ直ぐに見つめ返した。


 ヴォルクの言葉は事実だった。

 それほどにルオ・リシタ軍の今回のヴォオス侵攻は重要な戦だった。

 敗戦の責は、一人の身で背負いきるには、ルオ・リシタの在り方はあまりにも無慈悲で厳しかった。

 だが、それをライドバッハが口にするわけにはいかなかった。

 口にしたが最後、それは己の行いに対する安い自己正当化になり果ててしまうからだ。

 ライドバッハはヴォルクの目に真実を見出し、本題に入る決意をした。

 これからヴォルクに持ちかける取引は、ヴォルクに強い敵意があっては成り立たない話だからだ。


「ヴォルク将軍。先程ルオ・リシタ国国王であるアレクザンドール四世に対して敬称を省いていたな。それはルオ・リシタ国王の王権に対して見切りをつけたと受け取るが?」

 ライドバッハの問いに、ヴォルクは皮肉に口元を歪めて答える。

「見切りをつけられたのはこちらの方だろう。五万もの戦士を率いて無様に敗れたのだからな」

「そうだとしても、お主がアレクザンドールへの忠誠を捨てていないとしたら、お主はこれから妻と共にザシャログラードへと戻らねばならんことになる。あくまで王の権威に対して、ルオ・リシタ人として従うのであればな」


「アレクザンドールを直接知るお主なら、その価値も知れよう」

「ああ、為政者としての能力はけして低くはないが、忠誠に値する人間ではない。もっとはっきりと言わせてもらえば、ヘルヴェンの地で死んだ王族すべてに人を統べるような器はなかった」

「私も敗れただけであれば、敗軍の将として戻り、その責を全うしただろう。だが、敵国の謀略から臣下を疑い、結果として私の家族を害するなど、もはや王たる者の行いではない」

 そう言うとヴォルクは肩を落として首を振った。


「ルオ・リシタはもともと狂っていた。厳しい自然環境が他者にやさしく生きることを許さなかったこともあるが、それを言い訳に、いつまでも力が正義の理不尽な支配を続けてきた。西の隊商路のおかげで経済的にゆとりが出来て以降もだ」

「その方が王族、貴族連中には都合が良いからな。豊かな実りは独占しされ、厳しい暮らしを続ける人々に還元されることはない。もっとも、それはヴォオスでも同じであったがな」

 ヴォルクの言葉に対し、ライドバッハがヴォルク以上に冷たい声で言い放つ。

 思わずライドバッハの顔に視線を向けたヴォルクは、そこに自分と同種の怒りを見出し驚いた。


「腐った王族に、国を治める資格はない。それは貴族も同様だ。どちらも共に滅ぶべき存在だ」

 一国の重臣とは思えない過激過ぎる発言に、ヴォルクはこの男がほんの数か月前までは、ヴォオスの現王朝を滅ぼしかねないほどの大反乱を起こしていたこと思い出した。

「……お主が言うと冗談に聞こえんぞ」

「冗談を言っているつもりはない」

 ヴォルクを見返したライドバッハの目は、先程の戦いの最中にあった時以上に鋭かった。


「お主、良くリードリット王に許され、ヴォオス軍に帰ることが出来たな」

 驚きを通り越し、呆れ返ってヴォルクは言った。

「陛下が私の考えを受け入れ、お許しくださったからな。すべては陛下の王者としての器量のおかげだ」

「女の身でお主にそこまで言わせるのか……。一度会ってみたいものだ」

「お主にその気さえあれば、今後幾度もお会いになるだろう」

「悪いがヴォオスに亡命するつもりはないぞ。いくらルオ・リシタに見切りをつけたといっても、そこまで節操なしではないからな」

 ヴォルクの答えに、ライドバッハはいたずらな笑みを浮かべただけだった。


「再び訪れる冬によって、ルオ・リシタの罪もない民はどうなると思う?」

 不意に変わった話題は、ヴォルクにとって胸をえぐる問いかけだった。

「…………」

 ヴォルクはすぐには言葉が出てこなかった。

「多くの民が死ぬだろう。老人、女、そして子供たち。アレクザンドールはけして救済など行わない。最低限の国力を維持するために、間違いなく切り捨てる」

 答えられないヴォルクの代わりに、ライドバッハが厳しい現実を突きつける。

 ヴォルクは湧き上がる無念の思いを拳に乗せ、地面を殴りつけた。

 大地に穴を穿った拳が引き抜かれると、流れた血が拳を伝い落ち、穴の底に吸い込まれていく。


「助けたくはないか?」

 ライドバッハの言葉に、ヴォルクはハッと顔を上げる。

「あの少年と妹は、偶然我々に同行することになったが、もし我らと出会わずルオ・リシタに残っていたら、おそらく今日まで生き残ることは出来なかっただろう。保護した時点で極度の栄養失調で死にかけていた。そしてそれは、あの子らだけではないはずだ」

 妹を抱くリエーフに視線を向けながら、ライドバッハは語った。


 息子の魂を運んで来てくれたリエーフと瓜二つの少年の姿が、ライドバッハの言葉と共に、最もつらく苦しい記憶を呼び覚ます。

 食料も医薬品も不足し、衰弱していく息子をただ見ていることしか出来なかった日々――。

 そして、失った痛み――。

 今回の無謀以外の何ものでもない遠征に出たのも、息子のような犠牲をこれ以上出したくなかったからだ。


「……助けたい」

 戦い敗れ、ルオ・リシタにおける地位の全てを失った今でも、それがヴォルクの偽らざる答えだった。

「ではルオ・リシタの食糧危機に対し、ヴォオスは食糧援助を申し出よう」

「なあっ!」

 あっさりと告げられた内容に、ヴォルクは絶句する。

 それは今回の遠征が全く無意味なものであり、敗北も、その結果による戦死者も、すべてが無駄な犠牲だったということに他ならないからだ。


「ならばこの戦いはなんだったというのだっ! 何のために戦士たちは死んでいったのだっ!」

 冷静だったヴォルクも、傷ついた身体を引きずってライドバッハに詰め寄る。

「間違えるな、ヴォルク将軍。この戦いはゲラルジー王子のヴォオスにおける略奪行為に端を発した戦いの延長だったということを」

 まるで切裂くように発せられたライドバッハの厳しい言葉に、ヴォルクは冷静さを取り戻す。


 それまで比較的友好的な関係だったものを乱したのはあくまでルオ・リシタの側であり、それに対するヴォオス側の抗議と賠償請求を退けたのもルオ・リシタだ。

 ヴォオスにルオ・リシタを救済する意思があったにもかかわらず、ルオ・リシタはそのための対話の機会を持とうとすらせず、一方的に奪おうとした。

 これに対し、ヴォオスとしては主権国家として、まずは対話の前に自分たちの主権を武力でもって示さねばならなかったのだ。

 ヴォルクが無駄と感じた犠牲の全ては、ルオ・リシタの外交に対する姿勢が招いた結果なのだ。


「これほどまでに愚かな国に、ヴォオスはそれでも救いの手を差し伸べようというのか……」

 ヴォルクは自国のあまりの愚かしさにがっくりと肩を落とした。

「いや、現体制のルオ・リシタに対して食糧援助を行うつもりはない」

 いかにもくだらないと言わんばかりの口調でライドバッハが答える。

「さっきの言葉はなんだったのだっ!」

 さすがのヴォルクも苛立ち声を荒げる。


「よく考えろ、ヴォルク将軍。これだけのことをしておいて、大陸的な食糧危機の中、援助など得られると思うか?」

 それが常識である。だからヴォルクもライドバッハの言葉に驚いたのだ。

「ルオ・リシタを援助するにはいくつかの条件がある」

 そう言ってライドバッハは指を一本立てた。


「まず一つ。お主が新たなルオ・リシタ勢力を率い、現王朝の打倒に乗り出すこと」

「待ってくれ! それはどういうことだ!」

 まったく予期していなかった提案に、ヴォルクは口を挟まずにはいられなかった。


「先ほども言ったが、現体制のルオ・リシタに対して援助を行う意思などヴォオスにはない。だが、罪もないルオ・リシタの民を、アレクザンドールが王だからといって見殺しにもしたくない。何と言ってもルオ・リシタとは長年対ゾン政策において手を取り合ってきた同盟国だ。ヴォオスとしてはその関係を完全に白紙に戻したくはない」


「理由は理解出来るが、どうしてヴォオスが直接ルオ・リシタを打倒しようとしない? 同盟などと面倒なことは考えず、従属国にしてしまえばいいではないか。そうすれば今回のように侵略を受ける心配もなくなる」

 ヴォルクの言葉に、ライドバッハは思わず苦笑いを浮かべた。


「ヴォルク将軍。私も大使として数年ルオ・リシタに身を置いたからよくわかるが、ルオ・リシタ人ほど頑迷な種族は大陸を隅々まで探しても存在しないだろう。仮にヴォオスがルオ・リシタの地を支配することに成功したとしても、ルオ・リシタ人を支配することは出来ない。奴隷として使役することは出来るだろうが、広く知られているように、ヴォオスに奴隷制度は存在しない。それは支配地であったとしても変わることはない。そうなると、頑迷なルオ・リシタ人に対して理をもって説き聞かせ、自主的にヴォオスの法に従うように教育しなくてはならない。そんなことは不可能だ」

 大きく肩をすくめるライドバッハの疲れたような口調に、ヴォルクは何とも言えず恥じ入るばかりであった。


「打倒するとお主は簡単に言うが、将軍職にあるとはいえ、私も所詮はルオ・リシタ軍の軍人の一人に過ぎん。今頃はその地位もなくなっている。指揮する軍がなくては、多少腕に覚えがあろうが、ファーツィとたった二人ではどうにもならん。かといって私がヴォオス軍の助力を得てアレクザンドールを討っても、結果はヴォオス軍による支配と何も変わらないはずだ」

 ヴォルクはルオ・リシタ一の戦士と謳われてはいるが、部族の長のように一族の戦士を従えているわけではない。ルオ・リシタの王国軍に対する指揮権も、アレクザンドールあってのものだ。そのアレクザンドールに反旗をひるがえせば、従う戦士はファーツィ一人しかいないだろう。


「その辺りのことは、もう一つの条件に触れることになるが、すでに手を打っている」

 ヴォルクはもう一つの条件という言葉も気になるが、何をどう手を打っているかの方がはるかに気にかかった。

 同族からであれば、ルオ・リシタ人も交渉に応じやすいが、他部族や他国人が相手となると利よりも我を優先するようになる。その性格を逆に利用され、大陸を渡る商人たちに上手く丸めこまれてしまっているが、事は商売ではなく戦いだ。気に入らなければいくら大金を積まれようが、刃物を突き付けられて殺すと脅されようが、ルオ・リシタの戦士は首を縦に振らない。


 ヴォルクの内心を読んだのだろう。ライドバッハがもう一つの条件を説明する前に、見せたいものがあると誘った。

「リエーフ。一緒に来るか? 手綱を取らせてやるぞ」

 そして驚いたことに、リエーフだけでなく、イオアーナとキーラまで誘う。

 リエーフの妹のジリヤはさすがに幼過ぎるので、よくなついている老騎士の一人に預けられた。

 まるで自分の孫のようにあやす老騎士に、リエーフだけでなく、イオアーナもキーラも安心して任せている様子を見て、王都で起きた惨劇と、その後の行軍の最中にイオアーナたちがどんな扱いを受けたかがうかがい知れ、ライドバッハに感謝するとともに、同国人から被害を受け、他国人から手厚い保護を受けた事実に、ヴォルクは同じルオ・リシタ人として情けなく感じた。


 ライドバッハはリエーフを先に鞍に乗せると、自分もその後ろにまたがった。

 ヴォルクもイオアーナを鞍に乗せるとライドバッハの後に続く。

 キーラがヴォルクの負傷を気遣いイオアーナの世話を願い出てくれたが、自分がすぐそばにいるにもかかわらず、イオアーナが乗る馬の手綱を誰かに任せるつもりはなかった。

 ヴォルクの心情を察したキーラはそれ以上は何も言わず、いつでも手助け出来るようにヴォルクの後方に続く。


 つい先ほどまで響いていた戦いの喧騒が、いつの間にか治まっている。

 最後まで抵抗を試みた部族が討ち果たされた証拠だ。

 いったいどこへ向かうのかと気になったが、ライドバッハがわざわざイオアーナやリエーフまで連れていくところに危険はなかろうと判断し、黙ってついていくことにした。


 途中戦士たちが幾つかの括りに分けられて集められている場所を通り過ぎた。

 投降するつもりはないが、負傷がひどくやむなく捕らえられてしまった戦士たちと、投降の呼びかけに素直に応じた奴隷戦士たちとが分けられ、それとはさらに別に、呪印を刻まれた特別な奴隷戦士たちが分けられている。

 ライドバッハが向かっているのは、呪印を刻まれた奴隷戦士たちが集められている場所だった。 

  

 呪印とは、ルオ・リシタに存在する<森妖術師ドルイド>によって刻まれる刺青のことで、主の命に逆らった場合、恐ろしいことにこの刺青が蠢き、刻まれた奴隷を殺してその魂までも喰らうという呪いだ。

 呪術の強度にもよるが、強力であればあるほどその効果は速く、呪われた奴隷は命と魂を失うことになる。

 呪印を刻まれた奴隷戦士たちは、投降した時点で呪印が発動し、今や死の瀬戸際にいるはずだ。


 その死が並の戦死などよりはるかに惨たらしいことを知っているヴォルクは、そんな恐ろしい光景をイオアーナたちに見せたくなくて、イオアーナたちの同行を取り止めるようにライドバッハに頼んだ。

「お主が心配しているような光景にはけして出会わんから安心してついて来てくれ」

 だが、ライドバッハにそう断られてしまい、ヴォルクは仕方なく半信半疑ながらついていった。


「こ、これは……」

 辿り着いた先に広がっていた光景に、ヴォルクはそう呟いたきり言葉を失ってしまった。

 そこには心底からの歓喜があった。

 ルオ・リシタ人とは思えないほどの喜びをあふれさせ、涙を流して感謝の言葉を口にしている。

 その中心には、シュタッツベーレン家の女当主ヘルダロイダと、幾人かのヘルダロイダ家の人間がいた。


「ヘルダロイダ様が、その五大家のお力を使って、彼らに刻まれていた呪印を解呪してくださったのだ」

 説明するライドバッハの声には畏敬の念が込められている。

 それは神々の時代の終わりとともに失われたはずの力を目の当たりにしているということ以上に、それほどの力を三百年の長きにわたって誇示することなく静かに守り続け、必要が生じた今、その力を惜しむことなく正しく使うことが出来るその揺るぎない正しさ(、、、)に対して向けられていた。


 ヘルダロイダの先祖である初代シュタッツベーレン家の当主は、クライツベルヘン家が<魔術師>であったように、回復術を操る<神聖術師しんせいじゅつし>として英雄王ウィレアム一世を支えた。

 その力の多くは<神にして全世界の王>魔神ラタトス討伐後に神々へと返されたが、わずかに残った力は<六聖血ろくせいけつ>の一つとしてシュタッツベーレン家に残り、今もしっかりと受け継がれている。


 カーシュナーは血をもってイヴァンの呪印を退けたが、ヘルダロイダは妖しく蠢く呪印を指先で軽く弾くだけで次々と砕いて消し去り、ヘルダロイダ以外のシュタッツベーレン家の者たちは、聖水を併用することで易々と呪印を消し去ってしまった。

 ルオ・リシタの<森妖術師>ごときが施した呪いなど、ヘルダロイダの前では冬始めの薄氷程の強度もないのだ。


 ルオ・リシタにおいて呪印とは、死をも上回る魂の消失を意味する恐怖の象徴だった。

 その呪印に人生を縛られ続けてきた専属奴隷たちの絶望は計り知れないものがある。

 死ですら安らぎには至らないのだ。

 その呪印から解放された彼らの歓喜の深さは、その身を専属奴隷に堕とした彼ら自身にしかわからないだろう。


「解放おめでとう」

 ライドバッハが歓喜に浸る専属奴隷たちに祝福の言葉をかける。

「ここはヴォオスだ。この国に奴隷制度はない。君たちは今この瞬間、人間に還ったのだ」


 人間に還る――。


 この一言が元専属奴隷たちにもたらした新たな衝撃は、二重の解放を意味した。

 彼らは呪印からの解放で、これでただの奴隷に(、、、、、、)なれると考えていたからだ。

 彼らは奴隷の身分からも解放されることを知り、ただひたすら呆然とした。

 戦い敗れた直後に、望むことすら許されなかった自由が、敵であるはずのヴォオス人からもたらされたのである。実感が湧かないのも無理もない話であった。


 ライドバッハはことを急がず、まず彼らに解放された喜びに浸る時間と、現実的な問題である食料と水を与え、静かに待った。

 ヴォルクにも自分が何を伝えたいのか一切説明しない。

 目の前の現実をヴォルクがどう受け止めるか、それを見極めようとさえしているようであった。


「我々はこれからどうなるのでしょうか?」

 全体が落ち着きを見せ始めたころ、一人の戦士がヘルダロイダに問いかける。

 その顔に不安はないが、だれの顔にも途方に暮れたような表情が張り付ている。

 彼らにとってルオ・リシタでの生活は、生きているのではなく、死ぬことすら許されない時間積み重ねであった。

 解放されたはいいが、生き方がわからないのだ。

 カーシュナーに解放された時のイヴァンも、その後の身の振り方がわからず、結局カーシュナーについていくことになった。


「その辺りのことはあの男が考えている。彼に尋ねるがいい」

 ヘルダロイダはそう言うとライドバッハを示した。

 戦士たちの視線が一斉にライドバッハに集まったが、その視線は直後にその隣に立つヴォルクの元へと移った。

 

 ルオ・リシタ最強の戦士――。


 一般のルオ・リシタ人がヴォルクに対する認識で真っ先に浮かぶのがこの言葉なのだが、彼らにとってのヴォルクという男に対する認識は、使用人を奴隷の身分から私財を投じて解放したルオ・リシタ人らしからぬ男というものであった。

 戦場にあっても部族や王国の戦士と奴隷戦士を区別することはなく、王国軍将校の中でただ一人専属奴隷を持たない将軍でもあった。

 そのヴォルクが自分たちの解放の瞬間に居合わせているという事実に、彼らはヴォルクによる何らかの働きかけがあったのではないかと考えたのだ。


 戦士たちの視線の意図に気が付いたヴォルクは、黙っていることが出来なかった。

「君たちが解放されたことに関して、私は一切関知していない。私自身捕らわれの身から彼らに解放してもらったばかりだ。間違っても私に感謝などしてはいけない。すべてはヴォオス人たちの善意から出たことだ」

「お主は馬鹿正直だな」

 ライドバッハが小声でささやく。

 それでいて声に批判の色はなく、口元にはいたずらな笑みすら浮かべている。


「私のおかげで助かったのだぞ。とでも言えというのか? 冗談ではない。ルオ・リシタの戦士であることをやめようとも、男であることをやめたつもりはない。そんな卑劣な嘘はつけん」

 からかわれていることに気が付いているヴォルクは、苦笑とともに言い返した。

「それより、本当に彼らをどうするつもりだ?」

 自分の今後も定まってはいないが、敗軍の将として、ここまで連れてきてしまった彼らの今後に、ヴォルクは責任を感じないわけにはいかなかった。


 ライドバッハはヴォルクに促されると戦士たちを見渡し、口を開いた。

「諸君らは、今この瞬間、すでに自由だ。行きたいところがあれば、好きにしてもらって構わない」

 そう言われた戦士たちは、互いの顔をうかがい合い、戸惑うことしか出来なかった。

「まあ、いきなりそう言われても困るだろう。故郷に帰る家があればいいが、諸君らはその帰るべき故郷を奪われ、部族の精霊が宿る<銀香木>を伐り倒されて専属奴隷に身を堕とされた、今はなき部族の末裔なのだからな」


 これまではむなしいだけなので考えることのなかったつらい過去と、そこから今日まで続いた奴隷としての日々により、改めて自分たちの手には何もないのだと気がつかされ、戦士たちの表情が暗くなる。

 ライドバッハの言葉を隣で聞いているヴォルクやイオアーナたちも、改めて彼らの置かれている境遇のあまりの厳しさに胸が痛んだ。


「そこで提案をいくつか君たちにしたい」

 ライドバッハの声には、自分の置かれた立場を受け入れたうえで、しっかりと聞くようにという、どこか教え、諭すような響きがあった。

 ルオ・リシタの戦士として、無駄に高すぎる矜持や、愚かな慣習とは無縁の彼らは、姿勢を正してライドバッハの言葉を待つ。


「まず初めに一つ保証しておく。諸君等が望むなら、ヴォオスは諸君らを受け入れ、職業訓練の場を設け、その間の衣食住のすべてをヴォオスで用意し、訓練期間に行われた労働に対しては、適正な賃金が支払われる」

 ライドバッハの言葉にどよめきが広がる。


 奴隷であった彼らにとって、労働とは今日殺されないために主人の利益を確保しなくてはならない苦行であり、けして明日の我が身のために流す汗ではなかった。

 だがこれからは、その苦労が報われるというのだ。驚かないわけがない。


「敢えて言うが、これは強制ではない。今日まで奴隷という身分に堕とされ、虐げられてきた諸君らに、我々の考えを押しつけるつもりはない。ただ、生きるための当てもないままこの場を去れば、諸君らはすぐに飢えに苦しみ、生きるために食料を盗まなくてはならなくなるだろう。そうなれば、せっかくこの場で救った諸君らを、我々は罪人として追立て、結局は殺さなくてはならないことになる。我々はそれをしたくない。だから提案しているのだ」

 ライドバッハの言葉に、戦士たちは全員大きくうなずいた。

 彼らは有力貴族の族長や、王族などに直接仕えた特別な奴隷である。

 高度な教育も受けているし、理解力、状況判断力は共に優れたものを持っている。

 そうでなければとうの昔に主の逆鱗に触れ、理不尽に殺されていたはずだ。


「だが諸君らは、すでに戦士として非常に優れた能力を有している。いまさら一般職の技能を身に付けなくとも、それを生かして傭兵になるという道もある。諸君らが望むなら、ヴォオス軍の保証付きで商隊の護衛などの仕事を紹介してやることも出来る」

 それまでどうしても現実のこととして受け入れることが出来ないでいた戦士たちであったが、ライドバッハがさらに新たな可能性を示してくれたことで、自分たちは本当に自由になれたのだという自覚が芽生え始め、瞳にも輝きが宿り始めていた。


「諸君らに問いたい。自分たちが奴隷であったことに、一欠けらでも正しさがあったと思うか?」

 それはいきなりの問いかけであった。声にも恐ろしいほどの真剣さが込められている。

「そんなものはない。一欠けらたりともだ」

 不意打ちのように発せられたライドバッハの問いであったが、答えは迷いのない即答で返って来た。

 その答えに、ライドバッハはこれから戦いに臨むかのように猛々しく笑った。


「その通りだ。奴隷制度に正当性などあり得ない。諸君らだけではない。諸君らの父と母も、祖父と祖母も、ただ不当に虐げられてきただけだなのだ」

 この一言で、戦士たちの間に怒りが満ちていく。

「今この瞬間にも、ルオ・リシタの地では、諸君らの同朋たちが奴隷として虐げられているだろう。男は理不尽に殴られ、女は欲望のままに犯されているかもしれん」

 それまで疲れ切って座り込んでいた戦士たちが一斉に立ち上がる。

 ライドバッハによって吹き込まれた新たな怒りが、力に変わったのだ。


「そしてここにいる年端もいかないような少年が、その腕に呪印を刻み込まれ、絶望の淵から蹴落とされていることだろう」

 ライドバッハはリエーフの肩に手を置くと、さらに言葉を続けた。

 その言葉は、彼らの思い出したくもない遠い記憶を呼び起こした。

 自分たちが呪印を刻まれ、生き地獄の日々が始まったその最初の一日を――。


「だが、諸君らは幸運にも解放された。奴隷であった日々に還ることはもはや二度とない。諸君らはあの絶望の日々を忘れ、己の幸せのために今日から生きていいのだ。ルオ・リシタのことを忘れるがいい。忘れて今日から楽しく生きていくがいい」

 ライドバッハの言葉にうなずく者は一人もいなかった。


「どう生きるか。それを選ぶ権利が、俺たちにはあるんですよね」

 一人の戦士が問いかける。

「もちろんだ。是非とも戦いのない穏やかな日々を選択してくれたまえ。ヴォオスはその選択を全力で支援しよう」

 ライドバッハの言葉に嘘はなかった。

 それは戦士たちにもわかったが、自分たちの望みが、そんな選択の先にはないことを、彼らはすでに悟っていた。


「もし俺が、戦うことを選択したとすれば、ヴォオスはどうする? 止めるのか?」

 別の戦士が問いかける。その顔はすでに、自分の中に答えを見出した者だけが持つ決意で引き締まっている。

「何のために、誰と戦うか次第だ」

 そう言ってライドバッハはニヤリと笑った。

 問いかけた戦士もニヤリと笑い返す。


「私も戦いたいっ!!」

 その時不意に、キーラが叫んだ。

「女の身ではありますが、私も戦いたいっ! 私も元奴隷でした。ヴォルク様が救い出してくださらなければ、どれほど酷い日々を過ごすことになったか、想像することすら出来ませんっ!」

 キーラはあふれる感情を抑えることが出来ず、涙を流しながら叫び続ける。


「奴隷ではなくなり、人間として生きる幸せを、私は経験しましたっ! だからこそ、私は目をそむけたくないっ! ルオ・リシタでは今も多くの人々が奴隷として苦しみ続けている事実を見過ごして、自分だけ幸せになんてなりたくないっ!」

 過呼吸気味のキーラは、胸の前で両手を組み、苦しげに息を喘がせる。

 見かねたイオアーナがキーラに声を掛けようとするのを、ヴォルクはそっと押しとどめた。


「奴隷を作り、虐げ続ける貴族たちから、私は逃げたくないっ! 自由になれたからといって、踏みにじられたまま逃げたくないっ! 私は貴族たちに、負けたくないっ!」

 キーラの叫びは確実に戦士たちの心に届いた。

 その想いは彼らも同じだった。人間としての尊厳を踏みにじられたまま、このままおめおめ逃げ出してたまるかと、腹の底に溜まったこれまでの苦過ぎる過去が叫んでいる。

 

「私は戦いますっ!」

 キーラはその一言に、自分の中の想いのすべてを乗せて叫んだ。

 大勢の男たちの前で、自分の意見を口にする。元女奴隷であったキーラには、想像すらしたこともないことだ。

 極度の緊張がキーラの想いと言葉を呑み込もうと、その冷たい手で幾度となくキーラを掴み、激しく揺さぶった。だが、キーラはつたない言葉ではあったが、最後まで自分の想いを言葉にした。

 激しく震え、うつむきながらの言葉であったものが、最後には真っ直ぐ前を向いての言葉に変わる。


 その絶叫は、ヴォルクの中にあった最後の迷いを吹き飛ばした。

 もはや言葉を継ぐことが出来ず、ぼろぼろと涙を流すキーラの肩に、ヴォルクは誇らしげに手を置いた。

 イオアーナも、これまで自分を守ってくれたキーラを、母親が我が子を守るようにやさしく抱き包んだ。


「皆、私の話を聞いてはもらえないだろうか」

 意を決してヴォルクは語り出した。

 すでにライドバッハの意図を察していた戦士たちは、黙ってヴォルクに注目する。

「そこの御仁は、ヴォオスにはルオ・リシタを援助する意思があると言われた。だが、アレクザンドールが治める現ルオ・リシタに対しては、麦一粒たりともくれてやりたくないらしい」

 これまでのヴォルクにはない柔らかい物腰に戦士たちは驚きつつも、自分たちを奴隷として苦しめてきた元凶とも言えるアレクザンドールに対する当てこすりにはニヤリとせずにはいられなかった。


「そこでこの御仁は、私に新たな勢力を率いてアレクザンドールを打倒しろと持ち掛けてきた。どうにもアレクザンドールが気にくわないようだが、不思議と私は腹が立たなかった。おそらく将軍として仕えていた当時から、私もあの癇癪持ちのクソじじぃのことを嫌いだったようだ」

 ここでついに戦士たちの間から笑いが湧き起った。


「私はこの提案を受けようと思う。だが、私には共に戦ってくれる戦士が、たった一人しかいない。いや、今は二人いるかな」

 そう言ってヴォルクはキーラの肩を叩いた。


「俺も戦いますっ!」

「私もお連れくださいっ!」

「あなたになら、我々は迷いなくついて行けますっ!」

 様々な言葉が、それぞれの想いを乗せてヴォルクに捧げられる。


「皆、ありがとう」

 そう言うとヴォルクは深々と頭を下げた。

 ルオ・リシタ軍の頂点にいた将軍が、つい先ほどまで奴隷の身でしかなかった自分たちに対して頭を下げている。  

 脅すのでもなく、命令するのでもなく、同じ人間として感謝でもって自分たちに応えてくれている。

 誰の目も大きく潤み、大粒の涙が目の縁に溜まっていた。


「涙をこらえる必要はないぞ。私はつい先程、妻を抱きしめ大泣きしたところだからな」

 戦士たちを見渡したヴォルクは、照れくさそうに告白すると笑った。

 その一言で戦士たちを縛っていた古きルオ・リシタの因習は解かれ、戦士たちは泣きながら笑ったのであった。


 この瞬間、彼らは涙を捨てたルオ・リシタの戦士ではなくなった。

 代わりに、彼らは喜びの涙を覚えた戦士へと生まれ変わった。

 ヴォルクは戦うための軍勢を得たのであった。


「ライドバッハ卿。私は身に過ぎた仲間を得ることが出来たようだ。おかげで一つ目の条件を受けることが出来るようになった。先程語らなかったもう一つの条件を教えてもらいた」

 ヴォルクは尋ねつつもすでにその答えに辿り着いていた。


「新生ルオ・リシタ国における奴隷制度の撤廃が、もう一つの条件だ」

 この一言に、ヴォルクではなく、戦士たちが大歓声でもって応えた。

 一拍遅れてヴォルクもこの歓声に加わる。


「他の条件は?」

 ひとしきり心ゆくまで吼えたヴォルクが尋ねる。

「ない。リードリット陛下に領土拡大の野心はない。求めておられるのは、同じ目線で語り合える隣人だ」

「……良き隣人となれるよう、努めよう」

「ではここに、ヴォオス軍大将軍レオフリード立会いのもと、略式ではあるがヴォオスと新生ルオ・リシタの同盟が結ばれた事とする」


「略式過ぎます」

 レオフリードが呆れ返る。

「いくら陛下から現場における裁量権を託されているとはいえ、これほど重要なことを一言の相談もないまま決してよろしいのですか?」

 ライドバッハだけでなく、レオフリードもリードリットにより、通常であれば国王判断が必要とされる事案に対する代理裁量権を託されている。

 それだけ信頼されている証ではあるが、だからこそみだりに行使してはならない。


「かまわん。これはあの男へのこれ以上ない援護射撃になる。陛下もお喜びななられるだろう」

「それをネタにあまりからかわない方が身のためですよ」

 確かに、カーシュナーのためになるのであれば、陛下は絶対に反対はなさるまいと思ったレオフリードが、一応一言警告する。

「そうだな。そこはさじ加減を間違えぬように気をつけよう。私の頭はあの男のように頑丈には出来ておらん。陛下にどつかれでもしたら阿呆になるからな」

 ライドバッハは素直にレオフリードの警告を聞き入れた。

 つまり、からかうこと自体はやめないということだ。


「それに、ルオ・リシタから奴隷制度を撤廃させるのに、これ以上の平和的解決策はない」

 リードリットをだしに軽口を叩いていたが、不意に声に真面目さが混じる。

「現王朝を打倒させることが平和的解決と言えるのですか?」

 ライドバッハは真面目に話したつもりであったが、レオフリードはそうは受け取らなかった。

 レオフリードの言葉の方が、筋が通っているからだ。


「ヴォオス人がやろうとするよりはるかにましだ。我らが攻め入れば、ルオ・リシタの戦士たちは自分たちが戦い果てる前に、必ず部族の女子供を先に殺してしまう。侵略者に穢されないためにな」

「…………」

 この言葉でようやく先程の言葉の意味を理解する。

 ルオ・リシタの戦士に、ヴォオス人の常識は通用しない。


「愚かな戦士どもが全滅するのは一向に構わんが、罪もない女子供に類が及ばぬようにするには、同じルオ・リシタ人による改革でなくてはならん」

 長い歴史の中で育ってしまった頑迷さは、もはや狂気と何ら変わらない域まで達してしまっている。言葉による説得など、その言葉がどれほど正しくとも通じない。

 ルオ・リシタの愚かな頑迷さを打ち破るには、ルオ・リシタ最大の愚かさである、「強さこそがすべて」で打ち破るしかないのだ。


「あなた方の健闘を祈ります」

 こればかりはライドバッハがどれほど神憑り的な戦術を駆使しようが、レオフリードが神域の弓術を見せつけようが、どうすることも出来ない。

 そのことは、勝敗が決して以降、全滅するまで戦うことを止めなかった部族たちを掃討しなくてはならなかったレオフリードには嫌というほど理解出来た。

 あれは戦いなどではない。自殺に協力させられたようなものだ。

 戦とは殺し合いだが、その中にも節度というものがある。それを無視して己の矜持だけを押しつけてくるあの愚昧さは、間違いなく仲間をも殺す。

 古き因習に凝り固まったルオ・リシタ人は、新たな価値観を得たルオ・リシタ人が打ち破る以外、変える術はないのだ。


 レオフリードは、一度は命のやり取りをした男に対して手を差し出した。

 ヴォルクは差し出された<完全なる騎士>の手を、迷わず握り返す。

 それはつい先ほどまで敵同士だった者たちが、互いを許し、認め合った証のように、その場にいる人々の目に映った。

 かつては鉄仮面と呼ばれるほどの無表情だったライドバッハが満面の笑みを浮かべ、歓声を上げる。

 戦士たちはそのあまりに意外な行動に面食らったが、恥ずかしがるそぶりも見せずに声を上げるライドバッハに励まされ、次々と歓声を上げていく。

 ライドバッハの隣にはリエーフが立ち、一所懸命ライドバッハを真似て叫んでいた。

 殺戮に満ちていたはずの戦場に、最後にヴォオス人とルオ・リシタ人の歓声が響いたのであった。


 レオフリードはヴォルクの手を離すと、一番近くにいた戦士のもとへと歩みより、同じように手を差し出した。

 驚き戸惑う戦士に、ヴォルクは晴れやかな笑みと共にうなずいた。

 戦士は引かれる気配のないレオフリードの手に、おずおずと手を伸ばした。

 レオフリードは伸ばされた手をしっかりと握りしめると、グッと引き寄せ、その肩を叩いた。

「いつか共に酒を酌み交わそう。それまで生き残れよ」

 そう言ってレオフリードは笑った。


 ヴォオス軍の大将軍が、つい先ほどまで奴隷だった自分を、まるで同士のように扱ってくれた。

 その曇りのない笑みには、一人の男として、戦いを決意した男への敬意があふれている。

「はいっ!」

 戦士はこみ上げる思いと共に答えた。

 自分は人間に成れたのだと、この瞬間初めて実感した。

 

 同じ場所で暮らし、同じ土地の水を飲み、同じ土地で育ったものを食べ、同じ言葉を話そうとも、やはり奴隷は同じ人間ではないのだ。

 人間であることの喜びが、人間であることの尊さを戦士に教え、改めて奴隷制度の廃絶を決意させる。

 それは与えられた使命から、自分自身の目標へと昇華したのだ。


 その後レオフリードは全員と握手をし、言葉を交わした。

 大将軍である自分の目は、高みにあって全体を見渡さなくてはならないものだ。それは立場上必要なことでもあるが、武門の家に嫡男として生まれ、幼いころから人の上に立つべく教育されてきた。

 生来の人格の良さのおかげで他人を見下すようなことはしないが、ごく自然に物事を全体的に見ようとしてしまう。

 それは人間を一人一人ではなく、部隊などの単位で見ることを意味する。

 万の軍を指揮する将軍であれば、兵士一人一人のことなど把握してはいられないが、だからといって万事を上から見てしまっては、人の心を見失ってしまう。


 レオフリードにとって、カーシュナーと共に過ごしたわずかな時間は、同じ目線で互いの目を見て語り合うことの大切さを改めて教えてくれた。

 トカッド城塞から救出された奴隷たちと共にとった食事を、レオフリードは今でもはっきりと覚えている。

 解放されたことへの喜び。

 飢えが満たされることへの感謝。

 その場には多くの感謝と喜びがあふれていた。

 レオフリードにとっては生まれた時から当たり前の事として保証されていたことに対する、心の底からの喜びが――。


 レオフリードは改めて奴隷制度というものを考えた。

 人の悪意と強欲を満たすために合法化された制度。

 ライドバッハやカーシュナーという賢人が、その全能を傾けて地上から排除しようと常に思考を巡らし、機会があれば強引にでも成し遂げようとする姿勢の意味がより深く理解出来た。

 奴隷というものの在り様に対するさらなる怒りと共に――。


 自分にはライドバッハやカーシュナーのように、一国をも覆すほどの謀を巡らせることは出来ない。

 だが、彼らの剣となって、その理想を実現することは出来る。

 大将軍となったレオフリードは、彼らの理想実現の根底を支えている奴隷制度廃止を実現したこのヴォオスを守り抜き、同時にわずかに動き始めた大陸規模での奴隷制度廃止の流れも守ろうと固く心に誓うのだった。


「ここで成すべきことはすべて済んだ。事後処理はマティウスに任せ、我らは急ぎ陛下のもとへと戻るとしよう」

 戦士たちと喜びを分かち合っていたライドバッハが、決意を新たにしたレオフリードに声をかける。

「ルオ・リシタは我らが招き寄せた敵であったが、招かれもせずに押しかけてきた迷惑な敵の排除は何一つ終わっておらんからな」

「はい」


 両者に先ほどのまでの喜びはすでになく、再び戦う男の顔に戻っていた。

 ヴォオスの混乱は、まだ終わらない――。

 


 


 

 

   


 

 

次回は3月17日投稿予定です。

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