軍師と将軍と侍女の密約
「お待たせ」
待ち合わせに少し遅れたかのうよな気軽さで声を掛けられたキーラは当惑せずにはおれなかった。
イオアーナと二人の子供とともに戦場から離れていたキーラであったが、その戦いから目を背けていたわけではない。むしろその視線は縫い付けられたかのように、生まれて初めて目にする戦に釘づけになっていた。
ヴォルクにより護身術の手ほどきを受けていたとはいえ、戦士ではないキーラに戦の流れを読み解く目はない。だが、それでも目の前のにやけた男の実力が、突出して高いことだけは理解出来た。
城壁上に追い込まれ、逃げ惑っていたところを助けられた時点でその強さは理解していたつもりでいたが、キーラの実力では槍を手にして戦うその姿からは、強さの上限を推し量ることすら出来なかったのだ。
(ヴォルク様よりも強いかもしれない!)
何度も浮かんだ考えを、キーラは再び思考の底へと押し込める。
鳥肌の立つ皮膚は認めてしまっているが、キーラの意地がその考えを認めたくなかったからだ。
「姉ちゃんの具合はどうだ?」
いつも通り顔はにやけているが、その目だけは真剣な色を帯びて自分の瞳を覗き込んでくる。
「そちらの騎士殿が気付け薬をくださったので、御顔の色も少し良くなり、今は眠っておられます」
「かしこまんなよ。俺相手に敬語なんかいらねえぜ」
そう言ってシヴァはニヤリと笑う。
「そうはまいりません。使用人の不作法は主の恥。奥様の体面に泥を塗るようなまねは出来ません」
頑ななキーラに軽く肩をすくめると、シヴァは視線を騎士が抱える男の子に転じた。
「そっちはどんな具合だ?」
「さすがにこんな小さな子供に気付けを使うわけにもいきませんので、糧食と水を与えておきました」
騎士の答えにシヴァは満足気に笑った。
笑みを向けられた騎士は、それだけで頬を上気させる。
言動に非常に難のある男ではあるが、その強さと将軍という立場に驕らず、下の者に対して気配りが出来ることから、平民上がりや、シヴァと同じ準貴族に属する騎士階級出身の若い騎士たちから絶大な人気があるのだ。
今も目の前で繰り広げられた戦で示したシヴァの圧倒的な強さが網膜に焼き付いている若い騎士は、興奮を抑えるのに苦労している。
「ずいぶん汚れちまってるな。あとできれいにしてやっから、もちっと辛抱してくれな」
そういうとシヴァは大きな手で少年の頭をなでた。一瞬びくりと身体を強張らせるが、その手の平から伝わる温かさに安心を覚えたのか、少年は肩の力を抜いた。
少年や貴婦人がヴォオス軍の行軍速度で馬に揺られるのは負担が大き過ぎる。だからといってこんな敵地のど真ん中でのんびりと馬を進めているわけにもいかない。
救護者搬送用の特別あつらえの馬が用意され、少年と少年が抱く幼子と貴婦人はそちらへと移った。
二頭の馬の間に担架が設置されたもので、乗り手同士がぴったりと息を合わせなくてはならず、馬車よりもはるかに運用が難しいものであったが、今回選抜された騎士たちにとっては造作もないことであった。
「心配だろ? 俺の馬まだ貸しといてやっから、一緒について行ってやれ」
「ありがとう」
珍しく憎まれ口の混じらないシヴァの優しい言葉に、キーラは素直に礼を言う。
「ってか、お前が行軍について来られなくて足引っ張られたら迷惑だからな」
礼を言わせておいての憎まれ口である。
「あんたって人はっ!」
キーラが大きな身体を苛立ちで膨らませて抗議する。
「そんくらい元気がありゃあ大丈夫だな」
キーラの抗議など歯牙にもかけず、シヴァは笑った。
ヴォオス軍はその日夕刻過ぎまで馬を走らせ、ようやく野営となった。
ライドバッハの脳内には、大使時代に描きこまれた詳細なルオ・リシタ国の地図が存在する。それはザシャログラードの王宮図書館に収蔵されているルオ・リシタ大地図よりもはるかに精密なものであった。
その脳内地図を活かし、ヴォオス軍は敵地で見事にその行方をくらませている。
体格的に体力にも恵まれているキーラであったが、屋敷への襲撃からここまで、過度の緊張を強いられ続けたため、もはや限界に達しつつあった。
「将軍。そのようなことはわたくし共で致しますので……」
この軍に将軍は一人しかいない。
キーラはまたあの男が厄介事を起こしているのかとため息をつく。それでもその姿を探してしまうのは、心のどこかで頼りにしてる証拠でもある。
見つけるのは簡単だ。騒ぎの中心に視線を向ければ、十中八九そこにあの男はいるからだ。
いつの間に行ってきたのか、その肩には自慢の槍が掛かり、その両端に水を満たした桶が引っかかっている。
「お前ら疲れてるだろ? 連れて来たのは俺なんだし、自分でやるよ」
「いや、そういうわけには……」
反論しかけた騎士はそこで口を閉ざすと、尊敬する男を見習った。
「お前たちは湯を沸かす準備をしろ。お前たちは天幕と代えの衣類の用意。俺とお前たちとで水を汲んでくるぞ!」
シヴァの意見を無視したのだ。
「あ、おい!」
「みんなでやった方が早いです」
「早く済めばそれだけ早くご婦人方にもくつろいでいただけます」
「少年たちの健康状態の確認もしたいですから、早く済ませましょう」
一言言う間に三倍の言葉が返って来てはさすがのシヴァもかなわない。まさか殴ってとめるわけにもいかないので、シヴァは早くも石を積み上げ簡易かまどを作り、その上に大鍋を乗せた騎士のところに駆け寄ると、汲んで来た水をあけた。
「なめんな、てめえらっ! 俺の速度についてこれるなんて思うなよっ!」
そう言うとシヴァは、ルオ・リシタの戦士たちと向かい合っていた時以上の真剣さで走り出す。
湯あみのための設営は、いつの間にか競争になっていた。
恐ろしい速さで天幕が組み上げられ、いったい何人分の湯量かと疑いたくなるほどの湯が用意される。
「俺の勝ちぃ!」
そんな中で一番嬉しそうにはしゃいでいるのがあの男だった。
湯量が異様に多いのは、勝負のきりを十往復に設定した結果らしく、本気でシヴァに挑んだ騎士たちは戦いの後よりもはるかに疲労困憊してへたり込んでいた。
「くっそう! 時間じゃそれほど後れを取っていなかったのに、半分も運べなかった!」
「なんで桶の縁いっぱいまで汲んで走ってんのにこぼさないんですか!」
「こんな暗がりを全力で走れる意味が分かりません!」
へたり込んだ騎士たちが口々に抗議の声を上げる。
勝負は往復にかかる時間と運んだ水の量で競われたのだが、十往復する間、シヴァは暗がりの中を桶満杯の水を担いで全力で走り続けていた。
まず暗がりの中で走ることが非常に困難であること。桶二つ分の水量は相応の重量となること。量を運びたくとも足場が悪く、水がこぼれてしまうこと。などなどの悪条件が重なり、競争は内容の平凡さからはかけ離れた過酷なものとなった。
だが、全身だけではなく、肩に担ぐ槍の穂先から石突き。そこに掛けた二つの桶。桶に満たされた水の水面。あらゆる要素で絶対的な平衡感覚を示すシヴァの強さは尋常ではなかった。
挑んだ騎士たちが、尊敬しつつも文句を言いたくなるのも無理のない話であった。
「あんがとな」
敢闘賞とでもいうべきその一言だけで、騎士たちは全員笑顔になる。と同時に、日頃の軍事訓練とは異なる修練を心に誓う。
さすがに片目を覆う訓練は、真似をするなと怒られそうなのでやるつもりはないが、立つこと、歩くこと、座ること。そんなごく当たり前にしていることにもっと意識を向け、身体の平衡感覚を根本から鍛え直さなくては、憧れは憧れのままで終わってしまう。
騎士として、何より男としてそれは受け入れられないことであった。
「湯あみの準備が出来たから、お前の御主人様をさっぱりさせてやれ。わるいがその後チビ共も頼むわ」
不意に視線が合い、キーラはドキリとした。ずっと見つめていたことに、自分でも気づいていなかったのだ。
「わ、わかった」
慌てるキーラに不審げな視線を送りつつも、シヴァはそれ以上何も言わなかった。
自分も桶一杯の湯をもらうと汗を流しにその場を離れる。
「お前ら、俺がいないからってのぞくなよ!」
余計な一言を残して――。
「ご、ご安心ください! 騎士の名誉にかけて、そのような不埒な真似はけして致しませんので!」
真に受けた騎士がしどろもどろになってキーラに敬礼する。
キーラはクスリと笑うと頭を下げた。
そして、思う。
ルオ・リシタの戦士とヴォオスの騎士ではこれほどまでに違うのかと――。
いや、戦士であるとか、騎士であるとか以前に、男として女性の存在をどう受け止めているかが根本的に違うのだろう。女性だけではない。子供たち二人も、軍にとってはお荷物以外の何ものでもないにもかかわらず、受け入れ、守ろうとしている。
弱者に対する強者としての在り方が、ルオ・リシタとヴォオスでは全く違うのだ。
もし自分やイオアーナがヴォオスに生まれていれば、今日味あわされた恐怖や悲しみを知ることも、ニーナがあんな死に方をすることもなかったのかもしれない。
奴隷のいない国。
元奴隷であったキーラは、ヴォオスに対して深い興味を覚えた。
気付け薬のおかげかだいぶ血色のよくなったイオアーナは、温かい湯で身体を温め清潔にしたおかげで、だいぶ落ち着きを取り戻したようだった。
さすがのヴォオス軍も貴婦人がまとうような衣服の着替えなど持ち合わせてはいないため、簡素な男物の衣服に身を包んでいるが、やせ細ってもなお美しいイオアーナの輝きに陰りは見られなかった。ただ、どこか心ここにあらずのその表情は、現世を見ていない人特有の危うさがある。
キーラはイオアーナから目を離したくはなかったが、敵国人であるヴォオス人にここまで親切にしてもらいながら、同国人である自分がルオ・リシタ人の子供たちの面倒から逃げるような真似は出来なかった。
そんなことをすれば、自分もニーナの命を無残に奪った戦士たちと何も変わらないような気がしたからだ。
少年から妹を受け取ったキーラは、そのやせ細った身体から、やさしく垢を落としていった。骨格の発達具合から見て二歳ほどかと推測出来るが、衰弱しきっており、筋肉の衰えきったその手足はまるで赤子のように無力であった。
不意に鼻の奥がつんと痛み、キーラは涙がこぼれ落ちるのを感じた。
少女のあばらの浮いた胸に落ちた涙の粒をお湯でやさしく拭ってやる。
「大丈夫?」
自分を下から見上げる幼い視線と出会い、キーラは気合を入れ直した。
辛抱強い子だと思う。不幸な境遇という意味では、この子供の方がはるかに苦しい思いをしてきたはずだ。にもかかわらず、環境に耐え、状況を受け入れ、泣き言一つ口にしない。
そのすべてが妹を守るためなのだ。
つらいこと。苦しいこと。悲しいこと。そのすべてを自分が引き受ける覚悟が、この小さな身体の中にはあった。
女の身ではあるが、年齢も体格もはるかに上の自分が揺らいでいる場合ではない。
「大丈夫よ。この子が終わったら、次は君の番だからね」
涙を拭って笑顔を向けたが、その奥にある疲労を透かし見たのだろう。少年の心配げな表情は晴れなかった。
丁度妹の湯あみが終わったところで、汗を拭ってさっぱりした表情をしたシヴァが戻ってくる。
「おっ! 妹ちゃんの方終わったみてえだな」
そう言うとお湯を拭うために包まれていた布ごとシヴァが引き取っていく。そのあまりに手慣れた手つきにキーラはうっかり素直に渡してしまった。
「きれいにしてもらってよかったな。将来別嬪さん間違いなしだな」
やさしく水けを拭き取り、子供用の服などないので別の乾いた布でくるみ直してやる。
「坊主。俺がこの子に飯やってるから、お前もさっさと洗ってもらえ。その後お前も飯だ」
「……また食べていいの?」
不安そうに少年が尋ねてくる。城門前の戦の最中に食事を取らせてもらっていたからだ。
「食え。明日も長い距離を走る。体力しっかりつけとかねえといけねえからな」
少年が言外に尋ねた言葉をあえて無視してシヴァは常識的な答えを返した。
その衰弱振りから、一日一回の食事もままならなかったことは容易に見て取れる。幼子一人、小さな妹を抱え、王都の城門前をうろついていたのは、おそらく食料を求めてのことだ。そしてそれは、この子を守るはずの両親が存在しないことを意味していた。
食料の奪い合いはヴォオスでもあった。王族と貴族が食料を独占していたため、分け合えるような余裕はなかったからだ。
弱い者は奪われ、その奪い合いの最中に、飢えではなく暴力によって命を失う。
もともとヴォオスに比べて食料自給率の低いルオ・リシタでは、その状況はより過酷であったはずだ。この幼い兄弟が、今も生きていることの方が不思議なくらいに――。
食べ過ぎるということは、今日の満足と引き換えに、明日の誰かの、あるいは自分自身の飢え死にを招くことになる。そのため少年は、飢えているにもかかわらず、食べることを恐れたのだ。
シヴァは少年の、食べたことによって罰せられるのではないかという考えを見抜き、あえて無視した。そんなことはないと説明しても、少年の不安を解消することは出来ないとわかっているからだ。
食べることが罪になるほど、ルオ・リシタの下級層は困窮しきっている。
であれば、とにかく食わせてしまえばいい。理屈で膨れる腹などこの世には存在しない。食べたことをどんなに後悔しようと、それは必ず明日の自分の血肉となって支えてくれる。
シヴァにはそれで十分だった。
馬鈴薯(じゃがいも)の濃厚なスープを用意していたシヴァが、少女に与えていく。
本能がそうさせるのだろう。少女はシヴァが持つ匙を自分でも掴み、口もとに引き寄せる。
「引っ張んなって! こぼれちまうだろ!」
言いつつ顔はにやけている。
「お子さんがいるんですか?」
キーラは思わず尋ねていた。
「いねえよ。俺独身だし。でも上手いもんだろ? ダチが面倒見ていたガキどもの世話を手伝った時に覚えたんだ」
その答えにホッとしている自分に、キーラは慌ててシヴァから目を逸らした。
「ではお願いいたします」
そう言うとキーラは少年の湯あみに戻った。
シヴァの回りにはいつの間にか人だかりが出来ている。
普段は年若い騎士が多いが、この時はある程度の年齢の騎士が囲んでいる。故郷に残してきた子供を思い出した者たちが、気になって様子を見に来たのだ。
「将軍。食べさせる間隔が早過ぎますよ。胃がびっくりして吐き出しますよ」
「もうちょっと暖かくした方がいいんじゃないですか?」
「俺ちょっと毛布探してきます」
シヴァは日頃の性格からは考えられない素直さで、人生の先輩たちからの助言を受け入れていた。
その様子に以外の念を禁じえなかったキーラではあったが、たくさんの思いやりに囲まれている状況に一安心した。
キーラに洗われていた少年も、妹のことが気がかりだったようだが、初めて触れた異国人のやさしさに安心したようで、洗われている最中も妹の方に向けられていた首を、ようやくキーラが洗いやすい角度に直してくれた。
お湯が真っ黒になるほど汚れていた少年は、垢がすっかり落ちると見違えるほど美しい少年だということが分かった。それを遠目に見たシヴァが、
「ずいぶんきれいになったじゃねえか。どこぞの王子様かと思たぞ!」
と、からかいつつも本気で驚くほど――。
だが、キーラはまったく別のことに驚いていた。
そして反射的にイオアーナを振り向いてしまう。
それによってそれまでキーラの大きな身体に隠れていた少年の姿がイオアーナの視界に入る。
反応は鈍かった。だが、理解が徐々にイオアーナの思考に浸透すると、イオアーナは転がるように少年に飛びついた。
「リエーフ!!」
そのあまりの剣幕に、近くにいた騎士たちも驚きの表情を浮かべる。
骨と皮ばかりの腕で、息も出来ないほど強く抱きしめられた少年が苦しげに呻く。
その声が耳に届いたのか、少年の妹がか細い声で鳴き出した。
「奥様! 奥様っ!! おやめください! この子はリエーフ様ではありません!」
「いいえ、リエーフよ! リエーフに決まっているわ! だってこんなにそっくりじゃない!」
髪を振り乱し、誰にも奪われまいと少年を抱くイオアーナの肩に、いつの間にそこに来たのか、シヴァの大きな手が置かれた。
「リエーフってのは、あんたの息子かい?」
「そ、そうです! この子は絶対に渡しません!」
驚くほど落ち着き払ったやさしい声に、イオアーナは一瞬戸惑ったが、それでもかたくなな態度が解かれることはなかった。
キーラは屋敷での出来事を思い出す。
イオアーナは息子のリエーフが亡くなった事実を受け入れられず、人形に息子の名で呼びかけ、片時も手放そうとしなかった。
そんなイオアーナが、突如乱入して来た戦士たちに人形を奪われ、目の前でズタズタに引き裂かれてしまったことを――。
今のイオアーナは、あの時の状況に戻ってしまっているのだ。
「待って! 手荒なことはしないでっ!」
状況を理解出来ているのは自分一人だけだ。キーラはイオアーナを傷つけさせまいと、慌ててシヴァの腕に取り付いた。
「そっくりなんです! この子はリエーフ様の生き写しのようによく似ているの! それで奥様は混乱しているだけなの! お願い!」
すがりついてくるキーラの目を、シヴァはただ黙って見つめ返しただけだった。だが、その瞳のやさしさに、キーラはシヴァがすべてを承知していることを理解した。
「リエーフはあんたを愛してくれていたんだな」
「そうよ! 私もあの子を愛している! 私の命を代わりに上げてもいいくらいに!」
「その子があんたのリエーフでいいんだな?」
「そうよ! この子が私のリエーフよっ!!」
「本当にそれでいいんだな?」
シヴァの意図が理解出来ないキーラは、不安な思いを胸に秘めつつ、シヴァとイオアーナの顔に交互に見つめるしかなかった。
「……この子がリエーフなのよ」
それまでの激しさが一転、イオアーナの返す言葉は枯れ萎んでしまう。
「この世で一番リエーフを愛しているのはあんただ。違うか?」
「……そうよ! 私以外にいるわけがない! 私が愛してあげなければ、あの子はいなくなってしまう!」
「きっとリエーフも、誰よりもあんたを愛している」
シヴァの言葉にイオアーナは初めてシヴァと目を合わせた。
「その子がリエーフになった瞬間から、あんたの愛したリエーフはいなくなっちまうが、それでいいんだな?」
「!!!!」
「誰よりもあんたを愛してくれたリエーフは消えてなくなる。あんたにとってはその方がいいのかもしれねえ。だがよ。母親に忘れ去られるリエーフは、きっと寂しいだろうな」
「……リエーフは消えない。いなくなったりはしない。だって、ここに戻って来てくれたんですもの」
「わかった。その子があんたのリエーフだ。今この瞬間、あんたの記憶に中にしか居場所のなかったリエーフは消えた。居場所を失くしちまったんだ。仕方ねえ話だ。新しいリエーフを大事にしてやんな」
そう言うとシヴァの手はイオアーナの肩を離れた。
いったい二人の間で何が起こっているのかわからないキーラは、ただ見守ることしか出来ない。
だが、離れたはずのシヴァの手を、まるで息子を取り戻そうとするかのように、必死でイオアーナが掴んだ隙に、キーラはそっとその腕の中から少年を抜き取った。呼吸が出来なかった少年が苦しそうに咳き込む。
「いやっ!! 返して! 連れて行かないで! それは私のリエーフなのっ!」
その、目に見えないものをやり取りするかのような会話に、キーラは恐れを覚えた。かたずを飲んで見守る騎士たちも、イオアーナの鬼気迫る様相に、微動だに出来ずにいる。
涙に濡れたイオアーナの瞳を、シヴァは無言で見つめ返した。そして、再びそっとイオアーナの肩に手を置く。
「母親のあんたが一番つらいに決まっている。つらさに負けて手放してもいいんだぜ?」
シヴァの言葉にイオアーナは激しく首を横に振った。
「私があの子への想いを手放したら、あの子が私の子供として生まれてくれたことが、全部なくなってしまう。出来ません。それだけは出来ません。私はリエーフの母親なのだから……」
「あんたは始めからわかっていた。だからこんなにそっくりといったんだ。リエーフに代わりなんていない。もしあんたが代えてしまったら、その時が本当のリエーフの死だ。あんたの記憶の中のリエーフは消し去られ、別のリエーフの記憶が刷り込まれる。誰にも覚えていてもらえないリエーフだけが、ただ一人残るんだ」
イオアーナの手から力が抜け落ちる。
シヴァはそっとその肩から手を離した。
「なんでぼくの名前を知っているの?」
少年が不思議そうに尋ねる。
「もしかして、坊主もリエーフって名前なのか?」
シヴァの問いかけに少年はうなずく。
「これをただの偶然と片づけるかどうかはあんた次第だ。でもよ。この国には今も精霊がいるんだろ? あんたのリエーフが、こっちのリエーフを助けてくれって精霊に頼んであんたらを導き、出会わせたのかもしれねえぜ。そう考える方が、ずっと幸せな考え方だと俺は思うがね」
シヴァの言葉に、イオアーナは呆然としつつも必死で頭を働かせた。
言葉もなく見つめるイオアーナであったが、不意に目の前の少年が色を失い、透き通ったかに見えた。
驚いてまばたきを繰り返す。涙が見せた幻かと思ったからだ。
視界を鮮明にし、改めて少年を見つめたイオアーナは、少年に重なって、イオアーナのリエーフが嬉しそうに笑う姿を確かに見た。
「ああ、リエーフ……」
イオアーナは自分にだけ見えるリエーフに向かって両手を広げた。
戸惑うリエーフから離れたもう一人のリエーフが、イオアーナの胸に飛び込んだ。
他の誰にも見ることも触れることも出来ない息子を抱きしめながら、イオアーナは泣いた。だがその涙には、今までのような内にこもる暗さはもうなかった。
どうしていいかわからず、無意識にイオアーナへと伸ばされたキーラの手を、シヴァがそっと掴んで止める。見上げてくるキーラに、シヴァは黙って首を横に振った。
泣き止むまで待ったシヴァが、イオアーナに静かに声を掛ける。
「リエーフは帰って来たかい?」
「ええ、私の胸の中に……」
「そいつはよかったな。リエーフもきっと安心しただろ。で、どうする?」
シヴァの問いかけに、イオアーナはわけがわからずきょとんとなって見返す。
シヴァはニヤリと笑うと、もう一人のリエーフの肩に手を掛けた。
「いらねえなら、俺が引き取っちまうぜ?」
「御冗談を! リエーフが引き合わせてくれたのです。この子もその女の子も、私がこの命に代えても守ります!」
「じゃあ俺は、このでっかい姉ちゃんも込みであんたと坊主と嬢ちゃんを守ってやるよ」
不意に背中を叩かれたキーラは小さく悲鳴を上げた。
「おい! 変な声出すなよ! 俺が尻でも触ったかと思われるじゃねえかっ!」
「し、尻……。もうっ!! どうしてあんたはそういうことしか言えないのよ!!」
思わずむきになって言い返してしまったキーラは、大勢の前でうっかり素の自分を出してしまったことに気がつき、顔を真っ赤に染めた。
キーラの平手打ちがシヴァに飛ぶが、小憎らしいほど見事にかわしてみせる。
ついに堪忍袋の緒が切れたキーラがシヴァを追い回し、追われるシヴァが、
「汗流したばっかなんだぞ!」
と文句を言って逃げ回る。
その姿に騎士たちは笑い転げ、イオアーナとリエーフは呆気に取られて二人を眺めた。
「子供を抱えて走り回るなっ!」
キーラが至極まっとうな説教をする。
「子供を抱えているんだから追っかけて来るな!」
ああ言えばこう言う。シヴァの屁理屈にキーラの怒りは膨れ上がるばかりだった。
リエーフが小さく笑う。
イオアーナはそっとその小さな手を掴んでみる。
びくりと震える手の中の反応に、イオアーナの心は沈んだ。だが守ると決めたのだ。この手を離すつもりはない。
少しの逡巡の後、イオアーナの手を、小さな手がしっかりと握り返してきた。
ただそれだけのことで、イオアーナはこれまで自分を縛り続けた苦しみが解けていくのを感じる。
リエーフを失ったあの日から、ずっと自分の思考をくらませてきた重苦しい靄が、この瞬間ようやく晴れた。
イオアーナは自分を取り戻したのだ。
「良い顔になったな」
まるでイオアーナの頭の中を覗いていたかのような間でシヴァが言葉を掛けてくる。
「はい」
イオアーナは素直に答えた。
「坊主に飯やっといてくれ。ついでにあんたも食わねえとな」
シヴァの言葉にイオアーナは自分の痩せ細った腕を眺めた。
「もちっと肉がつくまでは、この子を抱かせてやるわけにはいかねえからな。落っことされちゃあかなわねえ」
そう言うとシヴァはニヤリと笑って少女の頬に口づけた。
「穢れる! やめろ!」
キーラの拳がシヴァの後頭部に襲い掛かるが、シヴァは間一髪のところでひらりとかわしてみせた。
地団太を踏んで悔しがるキーラと、かわしておどけるシヴァを見て、再び笑いが生まれる。
今度はイオアーナもリエーフも一緒になって笑った。
その日の野営は敵地にあるとは思えないほどたくさんの笑い声に包まれたのであった――。
◆
食事が終わると野営地には静寂が訪れていた。
地下通路を行軍し、暗闇と閉塞空間からようやく解放され、直後にザシャログラードでの戦だ。その後も長駆して日暮れ過ぎまで馬を走らせた。精鋭揃いのヴォオス軍騎兵といえども疲労は隠せない。見張り以外の兵士たちは、明日に備えて体力を回復するために率先して天幕に潜り込んでいた。
もっとも、訪れた静寂の後を追うように現れたいびきが、訪れたばかりの静寂を追い出して響き渡っているため、野営地は少しも静かではなかった。
今日一日で多くの出来事が動いたが、それでもそれは作戦全体のほんの一部が終わったに過ぎず、明日からも過酷な行軍は続いていく。
たった一つの勝利に浮かれ、はしゃいでいる余裕はないのだ。
騎士たちが寝静まる中、キーラはまだ眠るわけにはいかなかった。
イオアーナと子供たちが眠ったことを確認すると、ライドバッハの天幕へと向かう。
これまであえて問われることはなかったが、庇護を求めた以上自分たちの状況を説明しないわけにはいかない。問題はイオアーナの正体を明かすべきか否かだ。
イオアーナはヴォオスに現在侵攻中のルオ・リシタ軍の総大将を務めているヴォルク将軍の妻だ。これ以上の人質はない。
だが、今回の戦に勝ったとして、はたしてヴォルクはルオ・リシタに帰ることが出来るのだろうかという疑問もある。
そもそも何故ルオ・リシタの要職にあるヴォルクの屋敷が襲撃されなければならなかったのかがわからない。
イオアーナを守るために、ここは慎重に行動しなくてはならない。
警備の騎士に来訪を告げるとあっさりと通された。武器の持ち込みなどを警戒した身体検査もなく通されたので、他国の軍隊のことではあるが大丈夫なのかと心配になる。
だが、天幕に通されたキーラはその意味を理解した。ライドバッハの隣で何の遠慮もなくシヴァがくつろいでいたからだ。
この男がいては名うての暗殺者でも容易に目的を遂行することは出来まい。ましてや自分の実力では武器を抜く前に殺されてしまうだろう。
「疲れているだろに、すまんな」
ライドバッハがキーラを労う。堅苦しくならないように配慮してくれていることがわかる口調だ。
「いえ、こちらこそこれほどまで良くしていただき、感謝の言葉もありません」
キーラはそう言うと深々と頭を下げた。
ライドバッハが木箱に布を被せただけの粗末なものではあるが、キーラに椅子を勧める。だが、キーラはこれを辞してそのまま立って待つ。
「さっさと座れ。ルオ・リシタの男共はどうだか知らねえが、女を立たせておいて俺らがのんきに座ってられるとでも思ってんのか。この場合は断る方が失礼なんだよ」
言葉は厳しいが、目は笑っている。自分の真面目な対応を面白がっているに違いない。
下手に喰ってかかってもこの男を楽しませることにしかならないと学んだキーラは、大人しくシヴァの言葉に従った。
拍子抜けしたと言わんばかりにシヴァが片方の眉を上げたが、キーラは思い切り無視してやった。
そこまで込みでこの男はやっているのだがな。
シヴァの面倒臭い部分を見抜きつつも、女性を立たせておくのはライドバッハとしても本意ではないので余計なことは口にしない。
「ご主人はもう休まれたのかな?」
代わりに無難な言葉で会話の入り口を開ける。
「おかげさまで子供たちも一緒にゆっくりと休ませていただいております」
「それは良かった。なにぶん戦時の折ゆえ至らぬことも多いとは思うが、出来る限りのことはしよう」
「ありがとうございます」
「シヴァ将軍から聞ける範囲のことは聞いたのだが、正確には何があったのか知りたい。良ければ聞かせてはもらえまいか?」
キーラは一瞬迷ったが、起きたこと自体は話しても何の差支えもないと判断し、屋敷への突然の襲撃につて語った。
聞く側のライドバッハも心得たもので、イオアーナの名や、その素性がわかってしまうようなことは避けて情報を引き出していく。
全てを聞き終え、口を開いたのはシヴァであった。
「全部殺せばよかったぜ」
声には殺気までこもっている。キーラは喉の奥が渇くような違和感を覚えた。
「引き返すなよ」
ライドバッハが釘を刺す。
「…………」
黙して答えないところが余計にシヴァの怒りの深さを表している。
「……最後に、あなたが最後に射殺してくれた男が襲撃の指揮を執っていた隊長です。奥様に暴力を振るったのもあの男でした。あの男の最後が見れただけで十分です」
本当にザシャログラードまで引き返しかねないシヴァの空気に、口にするつもりのなかったことまでキーラは説明した。
「チィッ! しゃあねえな。それで納得してやるよ」
キーラの心情を酌んだのだろう。まったく納得のいっていない表情でシヴァは矛を収めた。
「おそらくその襲撃は、本来予定されていたものではなかったに違いない」
「どういうことでございますかっ!」
聞き捨てならないとはこのことである。キーラは思わずきつい声音で問い返してしまった。
「アレクザンドールは予想だにしないヴォオス軍の出現に、真っ先に裏切りを疑ったはずだ。そして、ルオ・リシタ軍の総大将を務めるヴォルク将軍に疑いの矛先を向け、将軍の奥方であるお主の主人の身柄を押さえようとしたのだろう」
「それがどうしてあのような酷い襲撃になるのですか!」
声を荒げてからキーラは自分の失態に気がついた。イオアーナがヴォルク将軍の妻であるとうっかり認めてしまったのだ。
「これは失礼をした。先に伝えておくべきだったな。私はお主の主人のことを知っているのだ。ヴォオスの大使としてルオ・リシタには一年ほど滞在していたのでな。ヴォルク将軍とも面識がある。どうやら亡くなられたようだが、ご子息の誕生祝も贈らせてもらっているのだ」
今までの気苦労はいったい何だったのかと、キーラはどっと押し寄せた疲労に眩暈を覚える。
「お主に一つ頼みがあるのだが、イオアーナ殿のこと、くれぐれも他言無用に願いたい」
頼まれたキーラの方が驚く。逆ではないのかと――。
「私もこの軍をあずかる軍師だ。イオアーナ殿の立場を考えれば、人質として有効利用しないわけにはいかない。ヴォオス軍をより確実に勝たせることが私の務めなのだからな」
その通りである。だから余計にキーラには理解出来なかった。
「もしイオアーナ殿を人質として利用しようとすれば、ヴォルク将軍を確実に死なせることになる」
キーラの内心を察したライドバッハが、問われる前に説明する。
「そんなっ!!」
その説明に、キーラは思わず叫んでいた。
すかさずシヴァの軽めの平手打ちがキーラのおでこを叩く。
「うるせえよっ! 不注意が過ぎるぞ! 主人を二人とも窮地に追いやりてえのかっ!」
小声ではあるが本気の叱責に、キーラは心から反省する。
この場にいる三人以外の人間がイオアーナの正体を知ってしまったら、その時点でイオアーナは人質として扱わなければならなくなる。それを回避するためにこの軍の将軍と軍師が骨を折ってくれているのに、自分は感情を抑えることが出来ず、危うく無用な注意を引くところだったのだ。
自分たちはヴォオス軍中にあるルオ・リシタ人だ。それだけで十分過ぎるくらいに注意を引く。余計な詮索を避ける努力を怠ってはいけない。
「ルオ・リシタ人の性格はお前の方がよく知ってんだろ? もしあの姉ちゃんを楯に、ヴォルク将軍に撤退なり降伏なり軍事的な要求を突きつけたらどうなると思う? 将軍の指揮下には六人の王子もいるんだぞ。どんな要求も聞き入れられるわけがねえ。将軍も立場上受け入れるわけにはいかねえし、その時点で将軍は寝返りなんかの裏切りを疑われ、指揮権を失うことになるはずだ」
シヴァの具体的な説明に、キーラは口の中が異様に乾いていくのを感じ、ごくりと唾を飲んだ。
「そして、指揮権を失ったヴォルク将軍は、将軍を慕う部下たちから切り離され、孤立した状態で最前線に立たされることになる。身の潔白を証明するには、戦い勝つ以外にないからな。だが、将軍が送られることになる戦線は、間違いなく戦術上捨て駒として使われる場所になる」
「そんな……」
シヴァの言葉を引き継いだライドバッハの説明に、キーラは先程と同じ言葉をつぶやいた。今度はしっかりと声を抑えている。
「不思議なことではない。捨て駒とは戦況を自軍の優位に動かすために使われるごく基本的な戦術の一つだからな。ルオ・リシタの戦術ではよく見られる戦い方だ。それ自体は問題ではないのだが、ヴォルク将軍の場合、裏切りを疑われているため、敗れても撤退することが出来んのだ。退けば味方から斬られることになる。わかるか? 必ず負けるとわかっている戦場に送られ、退くことも許されずに戦わなくてはならんのだ。いかにヴォルク将軍が優れていようと、死ぬ以外に自らの潔白を証明する手立てがないのだ」
「しかも、将軍は結構まわりからやっかまれていたんだって?」
ライドバッハの言葉に青ざめていたキーラは、シヴァの問いかけでさらに青ざめることになった。それだけでシヴァが何を言いたいのか理解してしまったからだ。
「ヴォルク様のご出身の部族は、ルオ・リシタではあまり力のない部族なのですが、その中でもヴォルク様は何の後ろ盾も持たない平凡なご家庭にお生まれになりました。王国の戦士となったのも、部族の戦士では生活が苦しいからで、ヴォルク様の部族からは他にも多くの若者が王国の戦士に志願したと聞いております。ヴォルク様はまさしく剣の腕一本だけで将軍職にまで登りつめられた王国最強の戦士なのですが、王宮内にはいろいろと派閥があるようで、そういった派閥に属さずに一個人で国王から厚い信頼を受けていらしたヴォルク様を妬む者は多かったと聞いております……」
「裏切りなんて欠片も疑っていなくても、単純に目障りだって理由だけで、濡れ衣を着せられて消されかねないってわけだ。俺としてはそっちの確率の方が高い気がするがね。理由が明確じゃない屋敷への襲撃も、もしかすれば将軍の成功を妬んだどっかの馬鹿が、先走った結果かもしれねえぜ」
「そん……」
三度同じ言葉を口にしかけて、キーラは言葉を呑み込む。
記憶の片隅にあった些細な出来事が思い出されたからだ。
以前ヴォルクとイオアーナの買い物に従った際に、襲撃の指揮を執っていた戦士と偶然すれ違ったことがあった。ヴォルクがイオアーナに同郷の戦士であることを説明しているのが漏れ聞こえて来たので振り向いくと、すれ違ったヴォルクの背中を暗い目で睨みつけていたのだ。
ヴォルクにそのことを告げようとしたが、せっかく楽しそうに買い物をしているヴォルクとイオアーナの気分に水を差すのもどうかと気が引けたため、そのままになっていたことであった。
「今は現実の話の方が先だ」
キーラの脳裏でどのような出来事が再生されているかはわからないが、それに縛りつけられてはいけないと考えたシヴァが、強めに肩を叩いて現実に引き戻す。
もしあの時ヴォルクにちゃんと告げていたら……。
そんな後悔に捉われかけていたキーラだったが、シヴァの言葉に無理矢理過去の後悔を振り払った。
シヴァの推測が事実と決まったわけではない。それはこの先も確かめようのないことなのだ。今は不確かなことに捉われているようなゆとりはないのだ。
「われわれがヴォルク将軍の心配をしているは、別にイオアーナ殿のためではない。ルオ・リシタ軍のなかで唯一まともに話を出来るのが、彼だけだからだ。ヴォオスはルオ・リシタを滅ぼしたいわけではない。これまでの歴史の中でも、ヴォオスとルオ・リシタは対ゾンという共通の目的のために共同戦線を張ってきた仲でもある。ヴォオスとしてはルオ・リシタのヴォオス侵攻の野心を砕き、これまで通り対ゾンのための共同戦線を維持したいと考えているのだ」
シヴァ同様キーラの精神状態を危惧したライドバッハは、意識を別のところに移すために、より現実的な話を続けた。
「……それなのに、陛下と一戦構えたのですか?」
ライドバッハは見込みのある娘だと感心する。動揺しているようでしっかりと全体的にもの事を見れている。キーラの疑問はもっともなものであった。
「ヴォオスはアレクザンドールに見切りをつけたのだ。見切りをつけるという意味では、六人の王子たちも同様だ。ルオ・リシタの国内情勢もあるだろうが、ヴォオスを侵略するという考えに固執するアレクザンドールの考えは、もはや死ぬまでかわらない。あの老人は考えを柔軟に変化させるには歳を取り過ぎている。頑迷という部分では王子たちもそうだ。そうなるように育てられるのだから仕方のないことではあるのだが、王座に対する野心と、ヴォオスに対する野心。どちらも共に胸に秘めている人間と、将来の友好的な関係を築くことは不可能なのだ」
「では、いったいどうするおつもりなのですか?」
「ルオ・リシタを分断する。もともとはルオ・リシタを内乱状態にし、ヴォオス侵略を考える余裕などない状態に追い込むつもりであったが、こうして事態が変わった今、もう少し将来的なことを考慮した展開を考えている」
ライドバッハの言葉に、シヴァがそこまで言っていいのかと目顔で尋ねてくる。
「そのための鍵となる人物がヴォルク将軍であり、そのヴォルク将軍の信頼を得るための鍵がイオアーナ殿なのだ。この娘の協力は不可欠であり、これがどこまでもヴォオスの利益のみを追求した一方的なものではなく、間違いなくヴォルク将軍とイオアーナ殿のためにもなることだと理解してもらうことが必要だ。そのためには腹を割って話をしなくてはいかん」
「お前、ずいぶん高く評価されたな」
シヴァが無用な精神的圧力をキーラにかける。
「ヴォルク様とイオアーナ様のためになるのでしたら、どのようのことでもいたします」
そのせいで幾分表情をこわばらせながらキーラが答える。
こんな時でも余計なことを口にするシヴァに対して鋭い流し目を向けつつ、ライドバッハは話を続けた。
「ルオ・リシタにアレクザンドールに対抗しうる新勢力を築く。その勢力を、ヴォルク将軍に率いてもらおうというのが私の考えだ」
ライドヴバッハの言葉にキーラは息を呑んだ。
それは、結果次第ではヴォルクがルオ・リシタの新国王の座に就くということをも意味するからだ。
「傀儡政権かい?」
シヴァの皮肉をライドバッハは鼻で笑い飛ばした。
「他人の操る糸などで踊るような男ではない。それに、ヴォルク将軍がルオ・リシタで大きな発言権を得れば、カーシュナーの理想実現の大きな助けにもなるはずだ」
この言葉に、今度はシヴァが驚かされる。
「そこまで考えていたんすか」
感心を通り越して呆れてすらいる口調だ。
「ルオ・リシタから奴隷制度を撤廃するには、国を造り替えるくらいのことをしなくては不可能だ。カーシュナーがヴォオスで成し遂げた様な機会はそうそう訪れはせん。この好機を逃したら、次にルオ・リシタから奴隷制度を撤廃させるにはルオ・リシタ人を皆殺しにするほどの流血が必要になる。戦士だけではない。罪もない女子供を含めてだ」
大袈裟に聞こえるが、ライドバッハの言葉に嘘はない。ルオ・リシタの戦士とはおそろしく頑迷な生き物だ。嗜虐的な性質も含めれば、ヴォオスの命令に従うくらいなら、一族共に滅ぶ道を選ぶだろう。そこに女子供の意思など存在しない。戦士たちは一族の女子供を侵略者による辱めから守るために、自らの手で殺してしまうだろう。
ルオ・リシタはルオ・リシタ人の手でしか変えることは出来ないのだ。
「あの、何故それほどまでにルオ・リシタの奴隷や女子供のことを気にかけてくださるのですか? あなた方はヴォオス人なのに……」
ライドバッハの言葉はシヴァ以上にキーラに強い衝撃を与えた。
キーラ自身も元は奴隷だ。その境遇の過酷さはよく知っている。もしヴォルク将軍に引き取られなかったら、キーラは終わらない冬の間に飢えか病のどちらかで間違いなく死んでいただろう。今こうしてこの場で立て続けに聞かされた言葉に衝撃を受けることも出来なかったはずだ。
奴隷であるということは、何もかも諦めなくてはいけないということだ。
奴隷である内は、奴隷ではなくなるなどということを想像することすら出来なかった。
ヴォルクが奴隷の身分から人間に開放してくれて初めて、キーラは考えるということが出来るようになった気がする。
奴隷であるということは、それほどに絶望的なことなのだ。
ライドバッハの言葉の意味は理解出来る。だが、まだその実感がわかない。奴隷という身分がルオ・リシタからなくなるという感覚がまったくわからないのだ。
だから問わずにはいられなかった。何故そんなことを考えるのかと――。
「そうすることが、正しいことだからだ」
ライドバッハの言葉はいたって簡潔なものだった。
いまさらながらではあるが、キーラはこのライドバッハという男に畏怖を覚えた。
正しいことを正しいからという理由で成そうとしている。
それはルオ・リシタでは不可能と同義だ。
王族や貴族が語る言葉が正義であり、そこに『正しさ』などという尺度は存在しない。
力こそがすべてであり、力なき者はただ従うのみ。それがルオ・リシタで言うところの『正しさ』だ。
だが、それが『正しさ』などではないことを、誰もが知っている。知っていて変えることが出来ない。まるで解くことが出来ない呪いのように人々を縛り続けている。
目の前の白髪のヴォオス人は、これを正そうと本気で考えている。
無意識にちらりと視線をシヴァに向けると、こちらは大乗り気でいる。ライドバッハの言葉を疑うどころか、自分自身の手で成し遂げてやろうと、猛々しく笑ってすらいる。
「まあ、それもすべて今回ヴォオスに派遣された大侵攻軍を撃退し、その上でヴォルク将軍の信頼を得られんことにはどうにもならんのだがな」
そう言ってニヤリと笑うライドバッハの顔からは、言葉とは裏腹に微塵の不安もうかがえなかった。
「ルオ・リシタから奴隷がいなくなる……」
改めて口にしてみると、恐ろしいほどの違和感がそこにはあった。
だが、これからの先行きに対する不安と、イオアーナを守らなければいけないという使命感から、まるで馬蹄で踏み固められた大地のように冷え固まってしまっていた気持ちのどこかが、小さな熱を持つのを感じる。
キーラの今しか見ることの出来なかった目に、初めて未来が映ったのであった――。
この正月休みの間に大勢の方々にお読みいただけましたが、そのおかげでまたまた評価をしていただけました。どなたか存じませんがありがとうございます。励みになります。
親切な方がヴォオス戦記をツイートしてくださったようで、感謝の言葉もありません。ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。
もし同じ方でしたら二重にありがとうございました。
次回は1月20日投稿予定です。
お時間がございましたら、お読みいただけると幸いです。




