最強の迷子
ヴォオス貴族の中に、他の貴族とは一線を画する権力を有する<五大家>が存在する。
勅命に対し拒否権を持ち、自治領内ので権限は、ヴォオスが定める法すら適用外となる。
その特権は国内に五つの別国家が存在するに等しく、このような特別な権限を有する貴族が存在する国は、大陸全土を見渡してもヴォオスのみであった。
その権力のあまりの巨大さから、五大家は他の貴族間の婚姻を禁じ、王宮内でも重職に就くことはない。王家及び他の貴族たちに、権力の増大による無用な恐怖を与えないための配慮であった。
その徹底ぶりはヴォオス三百年の歴史の中で一度として揺るがず、大貴族でありながらその身を律する厳格さに、貴族たちは王家に対する以上の畏怖を抱いていた。
内政には一切干渉せず、それでいてその存在感だけで国内貴族の頭を抑える五大家が、国王の要請を受けて出兵することは久しくなかった。
ライドバッハによって引き起こされた十万の大反乱時も、表だって動いてみせたのは五大家筆頭のクライツベルヘン家のみで、他の四家は完全に沈黙を守った。
それは人々の認識の中に、五大家は国政に不干渉を貫くという姿勢をより明確に植え付けることになった。
だが、その認識はいともあっさりと覆される。
ヴォオス北部にその領地を有する<五大家>シュタッツベーレン家は、五大家の中でも異彩を放つ存在だった。当主の座に女性であるヘルダロイダが座っていること自体貴族としては異例なことであり、一国家並の力を有するシュタッツベーレン家の全権をヘルダロイダが掌握していることは、異例を通り越して異様な出来事であった。
そんな異例にして異様な女当主ヘルダロイダは、要請を受けるどころか自ら願い出て、今回のルオ・リシタ軍迎撃に参加していた。
ヴォオス国は大陸屈指の強兵を有する強者の立場にあると同時に、その富故に隣国から常に侵略を受ける捕食対象の立場にもあった。
餓狼が獅子に喰らいつくがごとく、ヴォオスは常に近隣の飢えた狼たちを、その獅子の顎と爪で退けて来たが、現状はけして楽観出来るような状況ではなかった。
近隣の狼たちの飢餓状態が尋常ではないからだ。
それはこれまで、ぎりぎりの状況下でも見守ることを優先してきた五大家に、敵より先に行動させるほど逼迫したものであった。
ヘルダロイダが引き連れた兵力は、騎兵のみ三万。レオフリードが引き連れたヴォオス軍と同数であり、軍容の内わけが騎兵一万、歩兵二万のヴォオス軍と比較すると、この戦の主力はヘルダロイダが率いるシュタッツベーレン軍であると言えた。
ルオ・リシタ軍相手に地上戦は不利でしかない。伊達に個々の兵士の実力ならば大陸最強などと呼ばれてはいない。体格で劣るヴォオス軍は騎兵で対抗するのが常であった。
「陛下が国王としての権力基盤を整えられるかは、次の冬までの間をどのように乗り切るかに懸かっているわ。終わらない冬の影響による国力の低下と、それに続いた内乱で、ヴォオスはかつてないほどに疲弊している。いくら他国に比べて余力があろうと、これ以上の人的損害は致命的。さすがにこれまで通り、座して静観というわけにはまいりませんからね」
ヘルダロイダはその年齢不詳の美貌を艶やかに煌めかせながら微笑んだ。
シュタッツベーレン軍の軍装に身を包んでいるにもかかわらず、その妖しい香気は一向に衰えを見せない。
「ヘルダロイダ様。もしやカーシュナー卿の策、何か聞き及んでおりましたか?」
ミヒュールがヴォオス軍よりも早く軍容を整えていたシュタッツベーレン軍の早過ぎる行動に疑問を感じ、尋ねる。
「もちろん。国中の難民の受け入れなんて、いくらクライツベルヘン家といえども不可能よ。北部の難民の多くはシュタッツベーレンで受け入れたの。そして、その時点で国境地帯の空洞化計画はすでに決まっていた。まあ、すべてはカーシュナーの頭から出て来たことではあるのだけれど」
言葉にはしなかったが、語る口調がカーシュナーに対する評価の高さをうかがわせる。
「ここから先の展開に関しては、何かありますか?」
レオフリードの質問に、ヘルダロイダは小さく笑うと答えた。
「さすがにないわね。大反乱が起こる以前の話だから。むしろそのころ張っておいた伏線が本当に生きるとは、加担した私も驚いているくらいよ」
ヘルダロイダの答えに、ミヒュールは胸をなでおろした。さすがにこれから先の展開まで予測されていては、その背中を追うどころか、後ろ姿を視認することすらかなわない。
「シュタッツベーレン軍はあなた方の指揮下に入るわ。存分に使ってちょうだい」
そう言っていたずらっぽい笑みを浮かべる。
大将軍であるレオフリードに、五大家の軍に対する命令権はない。それは国王であるリードリットですら同様だ。
この戦で主力を担うのは、全軍が騎兵であるシュタッツベーレン軍である。その事実を踏まえれば、この場の主導権はヘルダロイダにあると言える。
そのつもりでいたレオフリードとミヒュールはおおいに面食らった。
「……それでよろしいのですか?」
レオフリードも疑うわけではないが、さすがにそう問わずにはおれなかった。
国内でも屈指の武門の出ではあるが、それでもレオフリードの貴族としての家格はヘルダロイダには遠く及ばない。もっとも、家格に限って言えば、ヘルダロイダよりも上位に位置する貴族はヴォオスには存在しない。唯一同格なのが同じ五大家の他の当主たちだけだ。勅命に対する拒否権をも有するヘルダロイダに対しては、国王ですら完全に上位にあるとは言い難い。
指揮下に入るということは、命令系統の中に組み込まれるということだ。
ヴォオスの歴史の中でも五大家の軍が当主以外の命令を受けたことは一度もない。
レオフリードとしても、実用性のない形ばかりの指揮権は、むしろ枷にしかならない。
五万のルオ・リシタ軍を相手取るのであれば、総勢六万のヴォオス全軍は一つの組織として連動しなくては対抗出来ない。ヴォオス軍三万。シュタッツベーレン軍三万の二軍で事に当たるのは、各個撃破の危険性が高くなる。
そうなるくらいなら、自分がヘルダロイダの指揮下に入ればいいと考えていたのだ。
「かまわないわ。五大家には五大家としての役割がある。今回は兵を動かしたけれど、そうそう毎回軽々しく兵を動かすことは出来ないわ。今後も戦い続けるのはあなた方なのだから、ヴォオス軍の将兵を育てる意味でも、あなたたちが主体となって戦うべきよ」
「それは確かに理にかなったことではあるのでしょうが、五大家としての体面は大丈夫なのですか?」
ヘルダロイダの提案を受け入れた場合、シュタッツベーレン軍を含めた全軍がとる作戦の立案をすることになるミヒュールが尋ねる。
ミヒュールは平民の出である。そのことで、王立学院のころも含めて、これまでのヴォオス軍での作戦行動の中でも、ミヒュールの策が正当に評価されず、受け入れられない事があった。
そのこと自体に対するミヒュールの感情はとうの昔に整理がついていることなのだが、ミヒュールの立案という理由で、本来必要な策が退けられてしまったら、勝てる戦も勝てなくなってしまう。
ミヒュールとしては、自身を卑下するわけではないが、貴族の体面というつまらない矜持は、現実問題として無視するわけにはいかないのである。
「体面? もし、シュタッツベーレン家が他者から命を受けたことで侮られたとしたら、その者に思い知らせるだけのことよ。あなたたちが気にすることではないわ」
ミヒュールの問いに、ヘルダロイダは涼しげに笑って見せた。だが、その目だけは恐ろしいほど冷たい光を放つ。
その眼光を受け、二人は改めて<五大家>とその他の貴族との格の違いを思い知った。
その行動の中に正しさがあれば、五大家の格はけして落ちることはないのだ。
「納得出来たようね。それより、ルオ・リシタ軍の動きが変わった以上、私たちもそろそろ動くべきだと思うのだけれど、戦略はもう定まっているのかしら?」
レオフリードとミヒュールの気遣いをあっさりと退け、ヘルダロイダは意識を戦いへと向けた。
これに大将軍と軍師が遅れるわけにはいかない。
「進軍速度を速め、さらに南下を続けたことで、ルオ・リシタ軍の目標は都市ヘルヴェンに定まったと考えて間違いないでしょう。そちらにはすでにブレンダン卿が歩兵と共に入り、陣を築いております。我らは騎兵の利を生かし、波状攻撃を繰り返してルオ・リシタ軍の進行を遅らせるとともに疲弊させ、敵後方からの援軍の到着を待ちます」
「待つ必要があるのか?」
ヘルダロイダが尋ねる。兵力では一万上回っている。十分戦えるだけの条件はそろっているからだ。
「ルオ・リシタ国は終わらない冬さえ訪れなければ、今でも我が国の友好国であったはずです。その友好の立役者とも言えるゲラルジーの侵略により、その関係は白紙に戻ってしまいましたが、それでも他の近隣諸国と比較すれば、長い歴史の中でも西の隊商路を共に保護する協力関係を維持し、ヴォオス最大の敵国であるゾンに対して、共に対抗してきた国です。ここでまともにぶつかり合い、ルオ・リシタ軍を完膚なきまで叩きのめしてしまいますと、場合によってはゾンに対する防衛力を失くし、侵攻を許してしまう可能性が出てきます」
「敵国の心配か?」
ヘルダロイダが冷笑を浮かべる。
「ゾンは終わらない冬で唯一国力を落とすどころか伸ばした国です。ルオ・リシタがゾンの手に落ちれば、ゾンの強大化に歯止めがかからなくなります。仰るようにたいへん忌々しい状況ではありますが、ヴォオスにルオ・リシタを併合するほどの余力がない現在、せめてゾンの手に転がり落ちないようにしなくてはなりません」
「世話の焼ける敵だ」
「ヴォオスの歴史の中でも稀なことと思われます」
「致し方ないことでしょう。それだけ終わらない冬が大陸にもたらした被害が甚大だったということです」
改めて大陸史に大きな影響を与えた終わらない冬を思い、ヘルダロイダはため息をついた。
「せめてゾンの国力も低下してくれていれば、ここまでややこしい事態にならずに済んだのですが」
レオフリードも眉をしかめる。
「どのような皮肉が歴史に働きかけたのかはわかりませんが、幸い今のヴォオスには、このもつれた事態を解くことの出来る人材が、力を発揮出来る立場にいます」
そう言うとヘルダロイダはミヒュールを真っ直ぐに見つめた。
「あなたの出自や、ライドバッハ卿やエルフェニウス卿などとの実績を比較し、心無いことを口にする者もいるでしょう。そういった愚か者を駆逐することは不可能ですが、あなたの実力を知り、その実力に信頼を寄せる者たちも同時に存在しています。この先も、立場や面子といったものがあなたの思考を乱すようなことがあるかもしれませんが、この戦いの間だけでも心に留めておいてください。私を含めたシュタッツベーレン軍全将兵が、あなたの手に、この命を預けたことを」
真っ直ぐな瞳は瞬くことすらなかった。
いきなり託された命の重さに、ミヒュールは危うく視線を逸らしてしまうところだった。いや、命の重さにではない。真っ直ぐな信頼に目がくらみかけたのだ。
これまで実力を示し続けて現在の地位まで登りつめた。
ミヒュールを罵る者はいても、その実力を否定出来る者はただの一人も存在しなかった。
だが、心からの信頼を寄せてくれる者もまた、存在しなかった。
仲間と思える者が出来たのは、つい最近になってからだ。
それはミヒュール自身も、他人を心から信頼したことがなかったからだろう。
だからこんなにも眩しく感じたのかもしれない。自分に向けられた信頼が――。
「もちろん俺の命も預けるぞ」
返す言葉が出てこないミヒュールの肩に手を置きながら、レオフリードが満面の笑みを浮かべて自分の命を託す。
「……確かにお預かりいたしました。この身のすべてを賭けて、必ずお返しいたします」
そう言ってミヒュールは深々と頭を下げた。
不意に熱くなった目頭に、ミヒュールは顔を上げることが出来なくなってしまう。
ヘルダロイダとレオフリードは、何も言わず、ただ待った――。
◆
暗闇から脱したライドバッハ率いるヴォオス軍は、故郷の地ではけして見ることの出来ない壮大な風景に、しばし時を忘れて見惚れていた。
皮肉屋のシヴァも、目の前に広がる巨木の森林に声もなく見入っている。
そこはかつてルーシの地と呼ばれていた森であった。
地下通路の出口は、森の中で唐突にその口を開き、かつて呑み込んだルーシの民の戦士たちの代わりに、ヴォオス軍の騎士たちを吐き出した。
「ルオ・リシタが<全世界の王にして神>魔神ラタトスの支配を跳ね退けたのもうなずける。それだけの空気が、この地には流れている」
各所に点在する<白香木>を見上げながら、ライドバッハが感想を口にする。
ライドバッハは数年前この地を特使として訪れていた。その時にはルーシの民の御神木である<銀香木>の下で洗礼まで受けている。
この地に息づく精霊の存在を、誰よりも強く感じているのはライドバッハであった。
「いくぞ。鉄を身におびた我らの穢れを、この地にこれ以上落としてはならん」
感傷を振り払うと、ライドバッハは進軍を合図した。
この地の独特の空気に呑まれていた兵士たちは、余計なもの音を立てないように気遣いながらライドバッハの後に続いた。
しばらく進み、白香木の群生地を離れると、周囲を取り巻く空気の質が変わる。それを敏感に感じ取ったシヴァが、さっそく口を開く。
「で、本当にやるんですかい?」
主語を省いた質問に、問われたライドバッハは別の答えを返した。
「まったく、貴様は感性が鋭いのか鈍いのかよくわからん奴だ」
その声に込められた忌々しさに、シヴァがニヤリと笑う。
精霊の気配を感じている間は、さすがのシヴァも大人しくしていた。<フールメント会戦>の後、カーシュナーからルオ・リシタの信仰と、精霊についていろいろと聞いていたからだ。
だが、精霊の気配が途切れた直後には、普段のシヴァに一瞬で戻っていた。その変化をシヴァ同様敏感に感じ取っていたライドバッハは、その変わり身の極端さに呆れるしかなかった。
「この国を東西に割る。そのための布石だ。今から王都ザシャログラードを襲撃する」
ライドバッハの答えに、未だに精霊の気配に気を遣っていた兵士たちがびくりと肩を震わせた。
「やるならさっさとやりましょうや。最初は物珍しかったっすけど、正直ずっと洞窟の中ってのは精神的にきついっすわ。思いっきり馬を走らせましょうぜ」
敵地に乗り込み王都を襲撃する。いくら主戦力が出払っているとはいえ、欠片の怯えも見せないその姿には、常勝の名将だけが纏う<百戦不敗の気>があった。
「それに関しては同感だ。ここからは迅速さがすべてだ。貴様が先頭に立て。ヴォオスの名馬の足をもってすれば、王都など目と鼻の先だ」
ヴォオス人は馬を愛する民である。馬と一体となって駆ける爽快感は、軍師の立場であるライドバッハもよく知っていた。
通常とは大きく異なる行軍に耐えてくれた将兵たちに褒美を与える意味でも、ここは全速で馬を進めてもいいと判断したのだ。
「よっしゃ、てめえらっ! 王都まで競争だ!」
言うが早いか一人飛び出していくシヴァ。
「あっ! 汚ねえ!」
「追えっ! 逃がすな!」
とても将軍になったとは思えないような野次がその背中を追いかけていく。
「よしっ! シヴァ将軍の背中に強烈な張り手を入れることが出来た者には、私が個人的に褒美を出すぞ! 皆全力で狩れ!」
シヴァの悪ふざけにライドバッハが乗ったことで、ヴォオス軍の進撃に異様な熱気がこもる。
「ちょっと、白髭の旦那! 何言ってくれてんすか!」
「白髭と呼ぶな! この馬鹿たれがっ!」
シヴァの抗議の声に、ライドバッハの怒声が響き渡る。
地を打つ蹄の音以上に、二人のやり取りを笑う将兵の声が進軍の尾となって、ルーシの地の大気になびいたのであった――。
◆
「なにぃ! ヴォオス軍だとっ!」
ルオ・リシタ国国王アレクザンドール四世の驚愕の叫びが王宮に轟く。
「そ、その数およそ一万! 怒涛の勢いで王都へと迫っております!」
力には優れるが、速度はそれほどでもないルオ・リシタ産の馬を必死で飛ばしてきた伝令が、息も絶え絶えといった様子で報告する。
「いったいどこから湧いて出よった、ヴォオス人共め!」
苛立ったアレクザンドールが、思い切り玉座の肘掛を殴りつける。
「へ、陛下! ど、どういたしましょうか……」
「うろたえるでないわっ!!」
つい今しがたまでの自身の狼狽ぶりをしり目に、アレクザンドールは臣下を怒鳴りつけた。
「ヴォオス軍の陣容はどのようになっておった!」
「す、すべて騎兵でございます!」
兵士の答えにアレクザンドールは少し落ち着きを取り戻し、玉座の背もたれに背を預け、呼吸を整えた。
「騎兵ごときが一万やそこら押し寄せたところで、このザシャログラードの城門はびくともせん。直ちに城内の兵士をすべて城門へ向かわせろ。それと、ゾンに対して備えておいた軍へと至急伝令を出せ。城門の前で挟み撃ちにしてくれるわ!」
一度方針が決まると速かった。それまで右往左往していた廷臣たちも、籠城戦の準備のためにそれぞれの職務に戻っていく。
「……いったいどうやって現れた」
アレクザンドールは口の中で小さく呟いた。
一人二人ならまだしも、進軍中のルオ・リシタ軍を迂回して一万ものヴォオス軍が侵入することは不可能だ。
ス・トラプ山脈の地下を走る通路の存在を知らないアレクザンドールは、裏切りの可能性を疑わないわけにはいかなかった。
年齢的にはとうの昔に退位しているのが当たり前の歳であり、宮廷内が次期国王候補間での派閥争いを始めていることも承知している。
終わらない冬の影響で低下した国力は、そのまま国内貴族への圧力の低下を意味している。
政変が繰り返されるルオ・リシタのお国柄もあり、アレクザンドールの猜疑心は年を追うごとに増していた。
不意に沈黙の内に沈み込んだアレクザンドールの目に、暗い光が揺れたことに気がついた者は一人もいなかった。
「誰でもいい。小隊を率いてヴォルクの妻を捕らえてまいれ……」
冷たい声で発せられた命令は、即座に実行に移された。
◆
小休止を挟んだだけで昼夜駆け続けたヴォオス軍は、ルオ・リシタ軍の伝令が到着してからわずか二時間後にその姿を現した。
突如閉ざされてしまった城門の前で不満を訴えていた者たちも、遠方から迫る蹄の轟きに、青ざめながら逃げ出していく。
迎撃の対応に追われ、避難勧告などは一切出されず、ヴォオス軍の出現により初めて侵攻の事実を知ったザシャログラードの住民たちは大混乱に陥った。
王都の奥深く、それでいて都心から離れた位置にあるヴォルク将軍の屋敷では、ヴォオス軍とルオ・リシタ軍の衝突を前に、すでに多くの血が流されていた。
アレクザンドールの命を受け、ヴォルク将軍の妻であるイオアーナを捕らえに来た小隊による蛮行の結果であった。
アレクザンドールの命令は、説明不足の上、最悪の間で、最悪の人物に対して発せられていた。
命を受けた男の名はデミード。
ヴォルク将軍とは同郷同年齢で、ルオ・リシタ軍への入隊も同日の同期であった。だがその立場は、ヴォルクが同じ時間で将軍にまで駆け上がったのに対し、デミードは王都守備隊の小隊長になるのがやっとであった。
同郷とはいえ面識はなく、ヴォルクにとっては記憶の片隅にその名が並んでいる程度なのに対し、デミードは嫉妬と妬みと共にヴォルクの栄達を記憶に刻んでいた。
その人となりは自己中心的で自己評価が高く、結果として現状に対し常に不満を抱き、その原因を自己の内に見い出し改善するのではなく、他者に押しつけその無能ぶりをあげつらい、憂さを晴らすだけの人間だった。
人の妬心や嫌悪、疑心に対して敏感で、アレクザンドールの命を受けた時も、デミードはその命令からアレクザンドールの疑心を感じ取っていた。
ヴォオス軍の急襲という非常時に発せられたこの命令から、デミードは疑心の矛先がヴォルクへと向けられたものであると見抜いた。
急襲の報を受けた直後、デミードもどうやってヴォオス軍がルオ・リシタへ侵入したのかと考えた。ヴォオスへ向かったルオ・リシタ軍が破れ、逆襲に転じたヴォオス軍が攻め寄せて来たというのならわかるが、まるで湧いて出たかのような今回の襲撃は、まともな理屈では全く説明のつかない事態だった。
考えられることと言えば、大掛かりな裏切りがあったと見る以外にない。
一つや二つの部族が裏切った程度で出来ることではないからだ。
ゲラルジーはヴォオス襲撃の事実を完璧に隠していた。自身の野望のためでもあるが、ルーシの地を守る戦士たちが不在と知れれば、他部族からの襲撃を受けかねないほど、当時のルオ・リシタの国内情勢は逼迫していたからだ。
地下通路の存在を知らないルオ・リシタ人がヴォオス軍の襲撃を説明しようとすれば、裏切りを疑わない事には説明しようがない。
そのため疑惑の矛先が現在ルオ・リシタ軍の全権をあずかるヴォルク将軍に向けられたのは、ある意味必然と言えた。
同じ位置から歩み始め、遠ざかる後姿を眺め続けることしか出来なかったヴォルクの失脚に、デミードは嗤った。
正確にはヴォルクは失脚などしてはいない。
疑念を抱かずを得なかったアレクザンドールが、保険として妻のイオアーナの身柄を押さえようとしただけなのだ。
この説明がはぶかれてしまったことで、デミードはイオアーナの身柄を反逆者の妻として押さえに向かうことになってしまったのだ。
王命はそれを遂行する者に、王の権力の代行者という立場を与える。
これまで手にすることのなかった最大権力の行使に、デミードは得も言われぬ満足を覚えていた。
俺の言葉は王の言葉だ。
俺のすることは絶対なのだ。
ここまで見事に権限をはき違える人間も珍しいが、歯止めの利かない状況では大きな不幸を生み出すことになる。
ヴォルクの屋敷に到着したデミードは、ヴォオス軍の急襲に対する不安と動揺も手伝って、慌てて屋敷から出て来た何も知らない家令を、問答無用で斬り捨ててしまった。
やってから事の重大さに気づいたデミードは、開き直るしかなかった。
どうせ反逆者の手下である。全員殺してしまえば状況などいくらでも作り替えられる。
デミードは部下に屋敷の者をすべて皆殺しにするよう命じると、先頭に立って屋敷になだれ込んでいった。
ヴォルクは働き口のない高齢者や寡婦を使用人として雇い入れていた。そんな者たちが完全武装したルオ・リシタの戦士たちに抗しえようはずもない。
戦いではないただの殺戮の場と化した屋敷で、ただ一人まともな判断を下せた人間がいた。
その者は迷わずイオアーナの部屋に向かって駆け出した。運悪く、即座に駆けつけられるような位置にはいない。イオアーナの元を離れたことに対する激しい後悔が襲ってくるが、今はそんな感情に捕らわれているわけにはいかない。ここから先は、何一つ間違えるわけにはいかないからだ。一つ一つの選択が、イオアーナの命に直結している。
裏庭から勝手口へと飛び込み、屋敷の各所に設置された隠し武器を取り出す。
投げナイフの束を胸元に押し込むと、鍔のない細身の剣だけを手に、音もなく階段へと滑り込む。
反撃の心配のない殺戮に酔った戦士たちが気配を消すわけもなく、かわして進むのは容易であった。ただ、つい先ほどまで一緒に働いていた仲間たちの叫びは、怒りで目的を忘れそうになるほど胸を締め付けた。
若い女の悲鳴が響き渡る。
それに続いて下卑た男たちの笑い声が響く。
声の主がニーナであることはすぐにわかった。やさしくて臆病で、暗い倉庫には一人ではいることも出来ない女の子だ。
ニーナの悲鳴に男たちの下卑た笑いが覆いかぶさっていく。
殺すのではなく嬲るつもりなのだ。
目の前が一瞬真っ赤に染まる。
階段を上ることをやめた脚を殴りつけ、無理矢理進む。
悲鳴がか細くなるにつれ、男たちの下卑た笑い声は大きくなっていく。
怒りの全てを叫びに変えて、喚き散らしたい衝動を必死に抑え、階段を駆け上がる。
その時イオアーナの悲鳴が廊下に響いた。
間に合わなかったかっ!
焦りが鼓動を早くし、思考力を奪おうとする。
感情で戦う者は、最後には敗れ去る。守るために戦うのならば負けることは許されない。常に冷静でいろ。
護身術を指導してくれたヴォルクの言葉を頭の中で何度も繰り返す。
真っ白になりかけた思考が再び透明さを取り戻す。
階段をもう一階登ると、イオアーナの上の部屋へと飛び込んだ。
「気味の悪い女だ」
イオアーナの髪を鷲掴みにして引きずり起こしたデミードが吐き捨てる。
もう一方の手には、くたびれた男の子の人形が握られている。
「いい歳をして人形遊びか? ヴォルクもどういう趣味をしているのか知らんが、よくもまあこんな骨と皮だけの女を抱けるものだ」
そう言うとデミードはイオアーナをベッドに投げ捨てる。それだけで二つに折れてしまいそうなほど、イオアーナはやせ細っていた。
そのあまりの軽さに薄気味悪さを感じたデミードは、無意識の内にイオアーナを掴んでいた手を鎧で拭った。
投げ捨てられたイオアーナは、デミードが手にした人形目掛けて飛びかかって行った。
「リエーフを返してっ!!」
髪の毛を振り乱し、泣き叫びながら飛びかかって来たイオアーナを、デミードは窓際まで蹴り飛ばす。
肺の中の空気を無理矢理蹴り出されたイオアーナは、苦しみのあまり声も出せずに弱々しくのたうち回る。
「そんなにこんな汚い人形が大事なのか?」
必要もないのに人形の首を引きちぎりながら首をかしげる。
「隊長。確かこの女は息子を失くしたことで気が触れたともっぱらの噂です」
部下の一人が説明する。
「噂は本当だったということか。とっと追い出せばいいものを、何を好き好んで囲っておるのやら。気が知れぬわ」
言葉と共に首を引きちぎった人形をイオアーナに投げつける。
苦痛にもがきながらもズタズタにされた人形を必死でかき抱くイオアーナを見たデミードは、イオアーナに唾を吐きかけた。
「連れて来い。見るのも不愉快だ」
部下にそう命じると、デミードはさっさと部屋を出る。
命じられた部下二人も、うんざりした視線を交わす。だが、拒否権はないので嫌々従う。
二人の部下が窓の下でうずくまるイオアーナに近づいた時、窓が蹴り破られ、人影が飛び込んできた。
不意を衝かれた戦士たちは飛び込んできた人物に蹴り倒されると無様に仰向けに倒れた。次の瞬間二人とも喉を一突きされて息絶える。
「何事……」
窓の砕ける音に慌てて戻って来たデミードを、投げナイフの一撃が待ち受けていた。
「キーラ……」
自分を助けに現れた人物の背中にイオアーナが弱々しく掛けた声を、顔面に襲い掛かって来た投げナイフに、咄嗟に顔を庇って上げた左腕を深々と貫かれたデミードの無様な悲鳴がかき消す。
キーラと呼ばれたのは、身長が185センチもあるイオアーナの侍女であった。
「奥様……」
上階の窓からぶら下がり、イオアーナを奪い返す機会をうかがっていたキーラは、苦しげに咳き込むイオアーナを目にして激しい怒りと後悔に囚われた。
だが、感情に支配されるわけにはいかない。親友を見捨ててここに来たのだ。
キーラはイオアーナの軽過ぎる身体を抱き上げると、デミードに突進した。
鋭い突きがデミードに襲い掛かったが、左腕の痛みからへたり込み、結果として死をもたらす一撃から逃れることに成功する。ただし、直後に繰り出されたキーラの鋭い横蹴りで、したたかに後頭部を床に打ちつけ気を失う。
とどめを刺したかったキーラであったが、デミードが無様に上げた悲鳴を聞きつけた戦士たちの気配を感じ取り、とどめを諦め逃走に移る。
腕の中の軽すぎるイオアーナの身体をしっかりと抱き直すと、キーラは階段を駆け下りはじめた。登って来た時のように気配を殺す必要はもうない。一刻も早く脱出することがすべてだ。
ヴォルクの屋敷は大きい。一小隊程度の人数が散らばってしまえば、すべての通路を抑えることは不可能だ。襲撃に対し使用人たちがイオアーナの居場所から離れるように逃げてくれたおかげだ。
内乱の多いルオ・リシタでは、貴族の屋敷は襲撃に対する備えとして複雑な構造をしている。キーラは通路を走り部屋を抜け、時には階段を駆け上がり、複雑な構造を利用して戦士たちをかわしていく。
戦士たちの気配を察知し、慎重に部屋と部屋を移動していた時、キーラは偶然にもニーナが連れ込まれた部屋へと踏み込んだ。
衣服の前を引き裂かれ、獣のように荒い息をつく戦士を身体の上に乗せたニーナの目に、光はなかった。
「な、何だ貴様はっ!」
その場には四人の戦士たちがいた。
かわるがわるニーナを嬲っていたのだろう。三人はズボンを下ろしたままの無様な格好だった。
キーラは迷わなかった。
素早くイオアーナを降ろすと、戦士たちに向かって突進する。
戦士たちも慌てて迎撃しようとするが、降ろしていたズボンが足枷のように動きを拘束し、無様に倒れ込む。
隙だらけの戦士たちに、キーラは素早く投げナイフを放つ。
それぞれ首筋に根元までナイフを突き刺された戦士たちは、反射的にナイフを掴み、自ら傷口を広げ、今しがた自分で作った血溜まりへと倒れていく。
一気に間合いを詰めたキーラはニーナにのしかかったままもたもたしていた戦士の肛門に、深々と剣を突き刺した。
戦士が間の抜けた甲高い悲鳴を発するのもかまわず、キーラは剣を捻ると素早く抜き、憎しみの全てを込めて戦士の身体を蹴り飛ばした。尻を血まみれにした戦士は派手に吹き飛び、身体をビクンビクンと震わせながら死んでいった。
ニーナの唇の端から血の筋がしたたり落ち、光を失った瞳はすでに濁っていた。
舌を噛み切ったのだ。
もしここでニーナが犠牲になっていなければ、キーラは四人もの戦士を相手取らなければならなくなっていただろう。
そうなっていればキーラは殺され、イオアーナも捕らえられていたはずだ。
視界が歪み、前がまともに見えなくなる。
キーラは自分が泣いていることに気がついた。
泣いている場合かっ!
必死に自分に言い聞かす。
「ニーナごめん。あたし行かなきゃ……」
親友の亡骸を、清めることも出来ずに捨て置かなければならないことに、キーラの胸は実際に切裂かれたかのように激しく痛んだ。
もはや何も映さないニーナの目を閉じてやると、キーラはカーテンをむしり取り、ニーナの遺体を覆い隠した。これがニーナにしてやれる最大限だった。
あふれる涙を袖口で強くこすって無理やり拭うと、キーラはイオアーナを抱き上げた。
戦士たちの気配はすべて後方にある。
脱出を遮る者は何もない。
「ニーナ……」
何か言葉を残したかったが、それ以上は感情が大きくなりすぎてしまい続かなかった。
これ以上は決して泣くまいと、きつく歯を食いしばるとキーラは走り出した――。
◆
ヴォオス軍の先陣を切り、王都ザシャログラードを目指していたはずのシヴァは、一人迷子になっていた。
自身の悪ふざけにライドバッハが乗り、進軍が鬼ごっこに早変わりしたまではまだ良かった。長く地下通路を辿り、圧迫感と閉塞感の二重苦に耐えてくれた兵士たちに対する丁度いい気分転換になるからだ。
だが、その後が悪かった。
ヴォオス人は北東の国イェ・ソンと双璧を成す、騎馬の民だ。ことに今回ルオ・リシタへの進軍に際して選ばれたのは、馬術に優れた騎士ばかりである。
馬の扱いに長けた名騎手たちに追われ、普段は飄々としているくせに実は負けず嫌いなシヴァは、本気で逃げに入ってしまった。
道を知るわけでもないのに一人先行した結果、シヴァは将軍であるにもかかわらず、ヴォオス軍からはぐれてしまったのである。
土地勘はなくても方角くらいはわかる。
何より目的地はこの国最大の都市、王都ザシャログラードだ。
地下通路の地図はさっぱり理解出来なかったが、地上を描いた地図なら間違いなく読める。そして、出撃前にルオ・リシタの地図はしっかり頭の中に叩き込んでいた。
シヴァは自身の感覚から比べるとだいぶ大回りになったが、本隊からわずかに遅れただけで、何とかザシャログラードへと辿りいた。
本隊がザシャログラード正面に布陣したのに対し、王都のはるか東後方にだが――。
「さて、ザシャログラードには着いた。問題はどっちに向かうかだな。右か、左か。ん~、さっぱりわからん」
巨木が生い茂る森林をつっきて来たため、シヴァはザシャログラードの全体像を遠望することが出来なかった。せめてちらりとでも王宮を目にすることが出来れば、全体の地形も含めて王都の構造を推測することも出来たのだが、森を抜けた途端高くぶ厚い城壁の根元に出てしまったため、左右に広がる壁しか視界に収めることが出来なかったのだ。
言葉ほど困ってもいないシヴァの鋭い聴覚が、戦いの喧騒を聞きつける。
平穏な暮らしとは無縁のこの男を、この世の騒動は放っておいてはくれないらしい。
何の根拠もないが、シヴァは騒ぎのする方向へと馬を進めた。この男の方でも世の中の騒動を放っておくつもりはないようだ。
敵地の根拠地で一人はぐれているにもかかわらず、シヴァは慌てるでもなく馬を進めていく。
喧騒は上。どうやら城壁の上で一騒動持ち上がっているらしい。
「ちっ! そんなところじゃさすがの俺も手出し出来ねえじゃねえか」
舌打ちしつつ、それでも鞍頭から早速弓を外して弦を張る当たり、手出しする気満々であることがうかがい知れる。
だが、下からでは上の様子がまったくわからないことに気がついたシヴァは、なんだか面倒臭くなり、他を当たろうかと薄っすら考え始めた。だがその時、女性のか細い悲鳴と、ルオ・リシタ戦士の罵声が届いたことで、俄然やる気(殺る気)になる。
「ったく。このくそでけえ木邪魔だな!」
城壁上の様子を見るために、再び森の中に入ったシヴァが悪態をつく。巨木が視界を遮り城壁の上の様子が確認出来る場所が見つからないのだ。
「あの枝邪魔だな」
言うが早いか矢をつがえて射放つ。たいして狙いなど定めずに放たれた矢は、大人の腕程もありそうな枝を見事に捕らえ、へし折ってしまう。恐ろしいほどの強弓だ。
その枝がなくなったことで一気に視界が開け、城壁上の様子がうかがえるようになる。
そこに見いだされた光景に、シヴァは呆れ返った。
侍女とおぼしき大女が、貴婦人を抱えて城壁上を逃走していたのだ。
「これが最近の風潮なのかねえ。どこに行っても強い女が戦っていやがる」
つい最近その強い女の中でも最強と目される人物とどつき合いをやらかしたシヴァがため息をつく。
「おっ! やるじゃねえか」
逃げる侍女が振り向きざまに投げナイフを放ち、追手の一人を一撃で仕留めてみせる。
だが、その後が続かない。どうやら手持ちの飛び道具が尽きたらしい。
城壁に沿って登り階段があるのだろう。追手の増援とおぼしき戦士たちが、侍女と貴婦人を挟み込むように城壁上に姿を現す。
慌てて足を止めた侍女は前後を見回すと、覚悟を決めたようで、貴婦人を降ろして身構えた。
そこに降伏の意思は微塵もない。
「いい覚悟だ」
その迷いのない構えを見たシヴァは、思わずニヤリと笑った。
そして思う。死んだな、と――。
「敵国の女じゃあるが、大勢の敵兵相手にあれだけ頑張られちゃあ見捨てるわけにもいかねえよな」
誰が聞いているというわけでもないのに、ここにはいない誰かに言い訳をしたシヴァは、矢筒をポンと一打ちすると、恐るべき速さで次々と矢を射放ち始めた。
矢羽が大気を切り裂く音が、襲い掛かる魔物の咆哮のように響き、侍女の前方を塞いだ戦士たちを次々と城壁上から射落としていった。
あまりの強弓に、倒れるのではなく殴り倒されたかのような勢いで姿を消していく。
侍女も驚いたが、追跡する側の戦士たちの驚愕はその比ではなかった。
「たかが女二人の追跡だ、楽な仕事とでも思ったか? 胸くそ悪い連中だぜ」
吐き捨てるとシヴァは弓を引き絞ったまま馬に拍車を入れた。主の意図を的確に読み取った馬が城壁目掛けて駆け出す。
城壁に辿り着くまでにさらに三人の戦士を射落とす。
弓を用意して来なかったのだろう。反撃出来ない状況に、城壁上の戦士たちは恐るべき射手が繰り出す死の一撃から逃れるために、大きな身体を必死に縮こまらせて城壁に張り付く。
「そこの姉ちゃん! 飛べっ!」
侍女の真下まで来ると馬から飛び降りたシヴァが無茶を言う。
絶対絶命の窮地を救ってくれた得体の知れない男の言葉に、侍女は当然躊躇する。
「あなたは何者ですか!」
「ああっ? なんだ飛ばねえのか? じゃあ勝手にしろ!」
侍女の当然の誰何に、短気な答えを返したシヴァは、さっさと背を向け馬の背に手を掛ける。
「ちょ、まっ! お待ちください!」
「俺が待っても、姉ちゃんの後ろの連中は待っちゃあくれねえぞ!」
シヴァの言葉に侍女が一瞬だけ後ろを振り返る。戦士たちは身を低くしたままちょこちょこと歩いて迫って来ていた。その姿をシヴァが目にすることが出来たら、王宮まで届きかねない大声で笑っただろう。
「自分で何とかする当てがあるなら勝手にしな。余計な手出しして悪かったな」
そう言うとシヴァはひらりと馬にまたがった。
シヴァにも外見ほどの余裕はない。今は突然の横やりに戦士たちも戸惑っているが、実際は上を押さえている戦士たちの方がシヴァに対してはるかに有利なのだ。迎撃用の弓を持っていなくとも、その辺りにある物を手当たり次第に投げつけるだけで、シヴァにとっては十分な脅威になる。
一瞬悔しそうに顔を歪めると、侍女は決断した。
「どこのどなたかは存じませんが、どうかこの御方をお助けください」
「任せろっ!」
無責任が言葉と化したかのような返事を返すと、シヴァは再び馬から飛び降りた。
「奥様。申し訳ありません」
それだけ言うと、侍女は貴婦人を城壁から放り投げた。
か細い悲鳴が尾を引きながら落下し、シヴァのたくましい腕の中に収まる。
「なんだこりゃあ! ほんとに人間か!」
そのあまりの軽さに、シヴァが場違いな驚きの声を上げる。だがその驚きも一瞬で、シヴァは貴婦人を藁の束でも放るような粗雑さで馬の背に投げ上げると、もう一度両腕を広げた。
「おっしゃ、次は姉ちゃんの番だ!」
「馬鹿なことを仰らないでください! 私のことはかまわず、奥様を連れてお逃げください!」
「うるせえっ! お前の事情なんて知るかっ! さっさと来い!」
「…………」
まるで話の通じない相手にどうすればいいか悩んだ侍女は返す言葉すら見つからなかった。
「来なきゃこの女ここに捨てるぞ」
そう言うと意識を失ってしまった貴婦人の背中を、荷物でも掴むかのような乱暴さでむんずと掴んだ。
ああ、こいつ絶対本気だ――。
侍女が逡巡している隙に思考回路が正常に働き出した戦士たちが、城壁を崩してシヴァと貴婦人目掛けて投げつけだす。
子供の頭ほどもありそうな石が貴婦人に当たりかけた時、侍女は腹を括った。
飛び降りるのではなく、シヴァと貴婦人を逃がすために戦士たちに斬りかかっていったのだ。
「早く行ってっ!」
「……あの馬鹿」
シヴァは一言吐き捨てると、本当に貴婦人を馬から降ろし、代わりに再び馬上に身を躍らせた。
「あっ!!」
そのまま走り去ろうとするシヴァの姿を視界の隅に見とめた侍女が驚愕の叫びをあげる。
「城外に戦士たちを回せ! あの女を何としてでも回収しろ!」
戦士たちの指揮官とおぼしき男がいまさらになって城壁の上に姿を現し、部下たちに怒鳴りつける。その左腕には仰々しく包帯が巻かれ、三角巾で吊られている。
「ちょっとあんた! どういうことよっ!」
怒りのあまり地が出たのだろう。侍女の言葉使いが荒くなる。
「あ~? 俺はあんたら二人を助けようと思って手を出したんだ。どっちか片方しか助けられねえなら、どっちも助けねえ。それだけだ!」
「てめえ、ふざけんなっ!」
「ふざけてんのはてめえの方だろうがっ!」
「貴様ら女一人にいつまで手こずている! さっさと殺せ!」
まるで自分を無視するかのように繰り広げられたシヴァと侍女の会話に、隊長が割り込んで叫ぶ。
侍女は戦士たちを相手に一人で立ち回りつつ、隊長を無視して怒鳴り返す。
「頼むっ! 奥様を、どうか奥様をお助けしてくれっ! あたしの恩人なんだっ!」
「なら飛べ」
侍女の必死の願いを、シヴァは振り返りもせずに跳ね除けた。
侍女は絶望感が自分を包むのを感じた。助けようとしているのは自分の方だというのに、その自分を助けることに固執するあまり、助けられないのなら主人まで見捨てると言う。託してしまった後で、もはやどうすることも出来ない侍女は、ついにぶち切れた。
「あああぁぁっっっあっ!! むかつくっ! なんなんだよ、てめえっ! わかったよっ! 飛べばいいんだろっ! 飛んで死ねばいいんだろっ! やってやるっよっ!!」
「おっせえんだよっ! 結局やるなら始めからやれっ! この馬鹿っ!!」
一般的な道理から考えれば侍女の行動の方が正しいのだろう。だが、シヴァにはシヴァの道理がある。出来ると思うから言っているのだ。相手が勝手に助からないと考え、シヴァの提案を無視するのであれば、そんな一方的な要求など受け入れる筋合いはない。何と言っても所詮は敵国人なのだ。
シヴァは素早く引き返すと、侍女が飛び降りるための隙を作ってやるために、残り少なくなってきた矢を惜しげもなく射放っていく。
先程よりも射角が急であるにもかかわらず、侍女を逃がすまいと城壁沿いに出てしまった戦士たち三人の顎を正確に撃ち抜いていく。射られた戦士たちはその強弓のあまりの威力に顎を下から殴り上げられたかのように宙に浮き上がり、後続の仲間たちを巻き込み倒れていく。
「死んだら責任とれよっ!!」
これが最後の機会であることを理解している侍女は、文句を言いつつも迷わず城壁の縁を蹴り、宙に身を躍らせた。
「ああ、死んだらな!」
およそ10メートルはあろう高さから飛び降りた身長185センチはある大女の真下に、シヴァは躊躇なく飛び込んだ。そして、あっという間に落下して来た侍女を、地上すれすれで何とか受け止める。
それなりに硬いはずの地面に、シヴァの両足がめり込む。普通なら受け止めるどころか下敷きなって終わりのその衝撃を、シヴァは全身の関節と筋肉を駆使して逃がしきってみせる。
自分が助かったことが信じられなくて、侍女が一瞬呆然とするが、シヴァはおかまいなしに放り投げると自分は馬へと走った。
「ったく! くそ重いんだよっ! さっさとてめえの御主人拾って来い!」
瞬時に叩き返したい文句が十個は浮かんだが、シヴァの言葉に乱暴に投げ捨てられて倒れている主人が視界に入ると、文句も不満も一瞬で吹き飛んだ。
再び投石の雨が降り始めたからだ。
貴婦人を抱えた侍女を片手一本で鞍に引き上げると、シヴァはさっさと逃げずにわざわざ戦士たちに向かって尻を叩いてみせてから拍車を入れた。
城壁上から怒り狂った罵声とその怒りの被害を受けた城壁の欠片が派手に落下して来たが、駆け出したシヴァにはなんの被害も与えることは出来なかった。
「逃げられると思うなよっ! すぐに追い詰めて、徹底的にいたぶって……」
怒りも露わに城壁から顔を出した隊長は、振り向いたシヴァと目が合い、慌てて顔を引っ込めようとした。その手には最後の一本となった矢が引き絞られていたからだ。
「てめえにゃ無理だ」
シヴァは冷たく一言言い放つと、引き絞った矢を射放った。
風を切り裂き飛来した矢は、隊長の右目から侵入し、脳髄を貫き潰しながら頭蓋を割って後頭部から顔を出した。
矢羽近くまで深々と射抜かれた隊長は、一度大きく身体を浮き上がらせると、真っ逆さまに城壁から落ちていった。
すでに砕けていた頭部は落下の衝撃で粉砕され、その中身を地面に汚らしくぶちまける。
自分が射殺した相手が、デミードという名の戦士であったことを、シヴァが知ることはない。だが、その死を見届けた侍女の顔が、その死の意味を雄弁に物語っていた。
「……ニーナ。仇は討ったからね」
自分の前で貴婦人を守るように抱きしめた侍女の言葉を、シヴァは何も言わずに聞き流した。
聞かないという気遣いもある。たまたま偶然助けただけの自分が、安易に慰めの言葉を掛けていいようなことではないからだ。
わずかな時間無言で馬を走らせ、侍女を感傷にひたらせてやると、シヴァは容赦なく侍女の頭を小突いた。
「お前の事情に干渉するつもりはねえ。だが、まだ助かったわけじゃねえ。シャキッとしろ」
「……わかっている」
感情を押し殺した声が答える。その声の響きの重さに、この大柄な少女がどれほど大切なものを失ったのか、シヴァは察した。
「俺はシヴァ。お前は?」
「……キーラ」
「とりあえず、二人とも助けた以上最後まで面倒は見てやる。お前はそのガリガリの姉ちゃんを守ることだけ考えていろ」
「……助けてくれたことには感謝するが、奥様を揶揄するような呼び方をするな」
「へいへい。わかったよ。それよりお前、正門の方向わかるか? お前がへこんでる間適当に走ってたんだが、俺はそっちに用があるんだ」
無神経に見えてそれなりに気遣ってくれていたことに気がつき、キーラはばつの悪い思いをする。奥様を守れるのは自分だけだと知りながら、見ず知らずの男を前に気を抜いてしまったからだ。
ルオ・リシタの戦士は強い。ヴォルク将軍に手ほどきを受け、実際に対峙して余計にその思いは強くなった。
だが、この男はその強さのはるか上を行って見せた。
キーラは男の強さに不覚にも安心を覚え、甘えを見せてしまったのだ。
自覚すると顔に血がのぼってくるのがわかる。耳まで熱くなり、赤くなった耳が男の目にとまらないかと気が気ではいられない。
始めはこの男、頭がおかしいのではないかと思っていたが、結果として男はあの絶望的な状況から、言葉通り自分とイオアーナを見事救い出してくれた。
そればかりではなく、ニーナの仇であるあの小隊長まで討ち取ってくれた。
これは態度を改め素直に感謝しなくてはいけないなと思った時、キーラは思い出した。
お前がへこんでる間という言葉を。
わざわざそんなこと言わなくてもいいではないか!
確かめなくてもわかる。突かれて痛いところを、この男は敢えてつついて来たのだ。
キーラは評価を改めるのはまだ少し先に延ばそうと決めた。やはりこの男はどう考えても無神経な男なのだ。
「飛ばすからしっかりつかまっていろ。いくらルオ・リシタの鈍足馬とはいえ、お前みたいに重い女乗せていたんじゃ追いつかれかねねえからな」
やはりこの男は無神経だ!!
キーラはシヴァの言葉を無視すると、イオアーナの身体をしっかりと抱き寄せ鞍にしがみついた。
頭の中はシヴァに対する苛立ちでいっぱいだ。
シヴァの憎まれ口のおかげで、一時とはいえつらい記憶を頭の中から締め出せていることにキーラは気がつかない。これほどまでにひねくれた気遣いに気がつけと言うには、キーラはまだ若すぎた。
シヴァはそれ以上何も言わず、手綱をしっかり握り、両腕の中にあるキーラとイオアーナの身体をしっかりと支えてやった。
そのゆるぎない安心感に、思わず気が抜けそうになる。
背中に感じるぶ厚い胸板に、背中をあずけて楽になりたいという誘惑と、キーラは必至で戦うのであった――。
年内の投稿はこれが最後となります。
一年も間を空けての連載再開にもかかわらず、お付き合いくださった皆様本当にありがとうございました。
物語は全然前に進みませんが、それでもコツコツと投稿を続けていきますので、今後もお付き合い頂ければ幸いです。
次回は1月6日投稿予定です。
それでは皆様、良いお年を!




