無力な少女の決意
乾いた大地は人の思考の柔軟性をも干上がらせるのだろうか。
ゾンという土地は、明るく他人の不幸を笑い飛ばせる人々が支配する地であった。
重労働を他人に押しつけることが思考の第一歩であるゾン人によって近隣諸国は民を奴隷として狩り獲られ、未だに国という概念を持たず、部族単位で暮らす南方民族は、その多くが人ならざる家畜として使役されている。
奴隷になった時点で人ではないのだ。
その感覚はゾン人にとって、というよりゾン人の男たちにとって、同族の女性に対してもほとんど変わらなかった。
女とは父親ないし夫の所有物であり、父親と夫の利益を守るための道具であった。
美しい娘は財産であり、その財産を守るために、外出などの自由は許されない。自由恋愛など、ゾンでは財を奪い、その価値を殺すことでしかなく、強盗殺人と同等に裁かれるものであった。
恋をすることはもとより、男の領域と考えられていることはすべて禁じられ、女性は学習する権利すら持たない。
女は男にかしずくことだけ覚えればいい。それがゾンでの常識であり、女性にとっての狭くて小さな世界の全てであった。
ゾン南部にあるファルダハンに、農耕で生計を立てる小さな村、ケディクはあった。
直接海とのつながりはないが、南から吹きつける海風の影響で、過酷なゾンの夏でも雨に恵まれる土地だ。
大陸隊商路から遠いことと、周辺の地形が入り組んでいる影響で、南の港町ギュベンとの行き来も困難な陸の孤島でなければ、王族や貴族の避暑地として栄えたかもしれない。
閉鎖的な土地に住む人間は、その人間性まで閉鎖的になりがちで、ケディクもその例に漏れず、何百年と変わることなくゾン人の特徴的考え方を守り続けていた。
奴隷は家畜で、女は財産という考え方を――。
そこには人間であるかそうでないかの線引きがあるだけで、男の所有物であることに変わりはなかった。
ゾン国の支配基盤の根底を支える因習を、変わらず守り続けるケディク村に、ファティマは生まれた。
とても利発な少女で、幼子の例に漏れず、言葉がかなり流暢になると、母親を質問攻めにするようになった。我が子の健やかな成長を嬉しく思った母親は、我が子の好奇心に辛抱強く答え続けた。
母親が示してくれた愛情が、皮肉なことにその後のファティマの人生を不幸なものした。
ファティマは同じように父親に質問をしたのだ。好奇心から生まれた疑問に答えを欲しくて。
だが、その質問に対して帰って来たのは、「質問をするな」という一言と、その言葉を身体に刻み込むための暴力であった。
女とは子を産み、夫を支え、子を育てるために存在する。
そこに意志など必要なく、意見や疑問などもってのほかで、男の求めに応じ、それに黙って従えばいいのである。
逆にそれが出来ない女は悪霊憑きとして全てを否定され、裁きによってほぼ間違いなく死罪となる。
父は我が子が不要な意志を持たぬよう教育する義務があり、好奇心という悪霊の魔手が我が子から出て行くまで、容赦なく罰を与えなくてはならない。それは地上に再び<神にして全世界の王>魔神ラタトスのような悪がはびこらないために必要な処置であり、救済であった。
生まれて初めて理不尽な暴力にさらされたファティマは、他の少女と同様言葉を失い、自由意志と積極性を手放すことになった。
だが、その心の根底には失ったものの残滓が疑問に形を変えて残り、ファティマの中で常に問いかけ続けた。
ファティマの成長と共に歪で不明瞭な形しか持たなかった疑問は次第にその形を整え、ついには、人を家畜とし、女を暴力で隷属させる男たちのやり方に対し、明確な反意となって定着した。
十五歳に成長したファティマは村一番の器量良しとなり、求婚相手が殺到するようになった。
値打ちがどんどん上がって行く娘に、幼い心と身体をひどく殴りつけたことなど記憶の隅にも残していない父親は、ただ能天気に喜んだ。
村中でいったいファティマが誰の下に嫁ぐのかが話題になっているころ、その事件は起こった。
悪霊の誘惑からの救済という名の暴力が、ファティマによくなついていた少女を殺害した時、ファティマの中で明確な形を手に入れていた反意が立ち上がり、父親が幼いころに体と心に刻み込んだ暴力による恐怖という名の枷を弾き飛ばした。
そしてファティマは、哀れな少女の父親を、大勢の目の前で人殺しと糾弾したのであった。
女が男の罪を訴える――。
それはゾンの社会では異常事態であり、それこそ悪霊に憑りつかれた結果とみなされる。
ただでさえ古いしきたりに固執するケディク村では、上へ下への大騒ぎとなり、ファティマはその場で取り押さえられることになった。
父親は真っ赤を通り越し、どす黒い顔で娘を殴りつけた。価値のある顔は当然殴らない。だが、その価値も、これほどまでの大問題を引き起こした後ではもはや無価値に等しかった。
それでもそれまでのファティマに付けられていた価値を諦めきれない父親は、悪霊からの救済とわめきちらし、唾を飛ばして殴り続けた。
ファティマの口から悪霊に憑りつかれたといわせれば、事態はまだ傷の浅いうちに終息させることが出来る。この村での婚姻が不可能でも、ファティマの器量があればギュベンあたりで金持ちの男を見つけられるかもしれない。最悪奴隷として売り払うことも出来る。
村の裁きを生き残りさえすれば――。
顔以外の全身を殴り飛ばされたファティマは全身あざだらけになり、あばら骨や鎖骨など、何か所も骨折させられた。
殴りつけるたびに父親は「悪霊に憑りつかれたと言えっ!!」とわめいたが、一度枷の外れたファティマは頑としてうなずかなかった。
業を煮やした父親が、ついにファティマの顔面を殴りつけた時、村の使者がファティマの家の玄関を叩いた。
ファティマに憑りついた悪霊が、父親の手によって取り除かれたか否かを調べるために。
村の広場に引きずり出されたファティマの顔を見た女たちが悲鳴を呑み込むのに対し、男たちは無残に腫れ上がった顔を見て、ファティマの悪霊憑きを確信し、罵声を浴びせていく。
使者によって引きずり立たされたファティマに、村の長老が問いかける。
「ファティマや。お主に問う。お主の此度の妄言は、お主に憑りついた悪霊が言わせたものか?」
全員の痛みに顔を上げることすら出来ないファティマの髪を、使者が乱暴に掴んで引き起こす。
「……悪霊はあなたたち男だ」
弱く掠れて消え入りそうな声であったが、それでもその声は村人全てに届いた。特に村の女たちには――。
「自分たちの都合のいいように……」
さらに言葉を重ねようとしたファティマの顔を、村長は容赦なくなく殴りつけて黙らせた。
「準備をせい。こやつは完全に悪霊に身体を乗っ取られておる。焼くしかあるまい」
村長はファティマが気を失うのを冷たく見下しながら、村人に指示を出した。
頭を抱えた父親は、袖を掴んで声を殺して泣く妻を乱暴に振り解くと、火刑の準備に加わった。目は怒りのあまり真っ赤になるほど血走っている。だが、その怒りの矛先は村長やファティマを手荒に引きずる村の男たちではなく、我が娘に向けられている。
俺の儲けを台無しにしやがって――。
怒りで茹で上げられた父親の頭の中は、水蒸気が膨張するように、ファティマに対する怒りで膨れ上がっていた。
火刑のための準備は、ファティマの父親が村の顔役の一人であったため、言葉なく沈黙の中で行われた。
男たちの大半はファティマの発言に対する怒りよりも、父親の不幸を質の悪い喜劇のように楽しんでいたが、さすがにそれを表に出すほど愚かではない。だが、無表情を保つ顔の中で、その目だけが自分を嘲笑っていることに、父親は気がついていた。立場が違えば自分もそうしていたからだ。
十字に組まれた磔台は、ファティマが糾弾を行った直後にすでに用意されていた。ぐったりとしたファティマを磔台に縛りつけた父親と男たちは、村の広場の中央に磔台を打ち立て、その根元に薪が積み上げていく。
ケディク村はゾンの他の地域と比較すると緑に恵まれているが、それでも薪は貴重品だ。それを処刑に使用するのは、火刑による大きな炎だけが悪霊を退治し、悪霊に憑りつかれた宿主の魂を解放するとともに、宿主から彷徨い出た悪霊が村の別の人間に襲い掛かることを阻止するための神聖な儀式だと信じられているからだ。
「ここに悪霊をその身に宿した一人の愚かで哀れな女を、焼くことで浄化し、その本来清らかであった魂を救済する」
松明を手にした村長が、集まった村人に宣言する。そして手にした松明を、父親に手渡す。父親は大きくうなずくと、憎々しげに娘を見上げた。
「よくも俺の顔に泥を塗ってくれたなっ! 貴様など生まれてこなければよかった! この悪霊がっ!」
怒りが抑えきれなくなったのだろう。父親は唾を吐きかけるとわが娘を罵倒した。
そんな父親を、意識を取り戻したファティマは無感動な視線で見つめ返した。
「……私は、生まれて来たことも、正しいことを言ったこと、何一つ後悔なんてしていない! 私は人間だ! 男たちの汚い暴力になんか屈しない! ここで死んでもいつか生まれ変わって、この間違いだらけの世界を正してみせる!」
恐怖に震えあがり、もはや声すら出ないであろうと思われていたファティマの突然の叫びに、村人たちは全員呆気に取られた。
一瞬の静寂の後、男たちの怒号が広場を埋め尽くした。
石が投げられ、磔台の近くにいた村長と父親が慌てて非難する。
「これが男たちのやり方だ! なんでも暴力で解決しようとする! その醜い姿こそ悪霊でなくてなんだというのだ!」
額に石を受けて出来た傷口からぼたぼたと血を流しながらも、ファティマは怯むことなく言葉を続けた。
「これ以上しゃべらせるな! さっさと火をつけろ!」
村長が松明を持つ父親を怒鳴りつける。
「は、はいっ!」
答えて父親が松明を薪に投げ込もうとしたとき、場違いなほど明るい声が広間に割って入って来た。
「いやはや、いやはや、これは面白い見世物だ。いや~、面白い見世物だよ~」
そう言って小馬鹿にしたような拍手をしながら広場の中央に、一人の男が現れた。
「なんだ、貴様! 邪魔を……」
そこまで言って村長は慌てて口を閉ざした。相手が高価な絹服を纏っていたからだ。
「んんんん~~? どこかな~? 誰かな~? この私を貴様呼ばわりした薄汚い平民風情は~?」
糸のように細い目をしているため、どこを見ているのかわかりにくいが、明らかにその視線が自分をからめ取っていることに気がついた村長が慌てて言い訳をする。
「誠に申し訳ございませんでした。このような田舎村では、高貴な御身分の御方の御来訪など滅多にありませんので、まさかあなた様のような御身分の高い御方がいらっしゃるとは夢にも思わず、無礼な言葉を口走ってしまいました。どうかご容赦いただけますようお願い申し上げます」
ファティマに相対していた時とは真逆のへりくだった態度で村長は土下座した。
ゾンでは身分の違いは絶対だ。上流階級の人間にとって、平民と奴隷の違いなどないに等しい。
「ん~ん~ん~。そうだろう。そうだろう。そうだろうねえ。そうでなければお前をあそこで積み上がっている薪の一つにしてやるところだったよ~」
あくまで村長の方には顔を向けず、まるで芝居でもするかのように男は答えた。
ふざけているようにしか聞こえないが、声の底に潜む冷たさが、聞く者の魂を震え上がらせる。支配すること、従わせることに慣れた人間の、精神的優位がもたらす圧力がそこにはあった。
薪の一つにされかかった村長は、ガタガタ震えて男の言葉を聞いている。
「この者、先程面白いことを吠えておったの~?」
「お。お耳汚しでございました! この者は悪霊に憑りつかれているのです!」
自分の失言から話題が逸れてくれたので、村長は慌てて飛びつき答えた。
「わた……」
突然のことに村人同様呆気に取られていたファティマが再び口を開くが、男の従者が手にしていた剣でみぞおちを突いて黙らせる。金属で保護された鞘の先端で突かれては、大の男でも痛みの激しさに悶絶する。
これ以上の醜態は避けたい村長は、ファティマが黙ってくれたことにホッと胸をなでおろした。
「んん、ん~ん~。そうだねえ。間違いなく悪霊に憑りつかれているねえ。私が話そうとしているのを遮るなんて、平民の小娘には考えられないことだよねえ」
「まったくもって仰る通りでございます」
村長が冷汗を垂れ流しながら愛想笑いを浮かべる。
突然現れた男は村長の追従を無視すると、「ん~。ん~」唸りながら、血を流し、ひどく顔を腫らしたファティマを、その周りを一周ぐるりと回りながらジロジロと観察した。
「よしっ! この者、私がもらい受けよう!」
「なあっ! い、いや、しかし……」
まるで名案を思いついたと言わんばかりに男は手を打つと、高らかに宣言する。それに対し、村長はうろたえつつも反論しようとした。
「なんだ? ダメだとでも申すのか?」
そんな村長に、男は唇が触れ合わんばかりの距離まで顔を近づけ小首を傾げる。まるで道化師のような仕草であるにもかかわらず、細い目からは冷気が漏れ出ているかのような圧力がある。
「だ、駄目だなどと、とんでもない! 私はただあなた様のためを思ってお止め致したのでございます。あの娘は祓いようもないほど心の奥深くまで悪霊に支配されております。あの娘がこれ以上周囲に災いをもたらす前に、その身共々悪霊を焼くしかないのです」
老人らしからぬ柔軟さで海老反り、極端に近づけられた男の顔をよけながら村長は説明した。
「ん~、ん~、ん~。そうだね。そうだね。そお~だねえ~。お主の言い分はもっともだ。何一つ間違ってはいない。ん~、間違ってはいないよ~」
そこで男は言葉を切ると、さらに顔面を近づけた。
「でもねえ。わたしが欲しいと言っているのだ。そんなことはもはや関係ないのだよ~」
そう言うと男は驚くほど長い手を伸ばし、獲物を捕らえた蜘蛛のように折り曲げると、深くしわの刻まれた村長の顔を引っ張った。その手には、この村がまるごと買えそうな大粒の金剛石や紅玉、蒼玉に翠玉といった宝石を、重厚でぶ厚い金の指輪で彩った超高級品が、両手の指全てにはめられていた。その数全部で十八個。腕だけでなく指まで長いため、親指以外の指には二つずつはめられているのだ。
「し、しかし……」
頑迷な性格から反論した村長ではあったが、圧倒的財力を見せつけられると、あとの言葉は続かなかった。
村人たちも、これまで村の絶対的存在であった村長が、失明するのではないかと思わせるほどの煌めきを放つ指輪で顔面を弄ばれている姿に圧倒されてしまい、それまでの怒りが霧散してしまっている。
「あ、あの、あれは、私の娘でして……」
父親も村長同様男の圧倒的財力に度肝を抜かれていたが、それでも本能的に男に話しかけていた。
金が動く臭いがしたのだ。
「ほう! ほう、ほう、ほおう! なんと! あの娘はお主の娘と申すか! ではこうしよう。わたしも鬼ではない。このままただもらっていくのは気が引ける。これで手を打とう」
そう言うといつの間に取り出したのか、ピカピカに磨き上げられたヴォオス金貨が三枚男の指の間に現れた。
父親が驚きともうめき声ともつかない声を漏らすのをよそに、男はその金貨を無造作に指の間からこぼした。
父親が反射的に受け止める。その大きさに反して手首まで刺激するその重さに、父親はうっとりと金貨を見つめた。
「あの者を買い上げよう!」
男はまるで舞台上で決め台詞を放つ役者のように、村人全員に告げた。
手の平の重みが父親の欲望を刺激する。
金貨から顔を上げた時に、畏れすら退けた強欲が、顔面を醜く歪める。
「金貨三枚ではいくらなんでも少な過ぎます!」
その目は男の指輪に吸い寄せられていた。
「おや? これでは足りぬと申すか?」
父親の言葉に、男は小さく小首を傾げる。その他愛ない仕草に、父親以外の村人全員が戦慄する。男の気配がガラリと変わったからだ。
それは暴力を連想させるものではなく、巨大な権力を前にしたときの、人一人ではどれほど努力しようと覆しようのない圧倒的大差がもたらす畏れだった。
金貨の魔力に憑りつかれてしまっている父親は、男からせめて指輪の一つくらいはむしり取ってやろうと鼻息を荒くしているため、男の変化にまだ気がつかない。
「では聞こう。いかほどが妥当であろうか?」
「そ、その指輪一つ……。い、いや、二つ分の価値はある!」
父親の答えに、それまで無表情だった従者が無言で嗤う。それを見た村人たちはうめき声と共に片手で目を覆った。その提示額があまりに馬鹿げた額であることは、商魂たくましいゾン人であれば、無学な農民でもわかることだ。護衛を兼ねていることが一目でわかるほど屈強な体格をした厳めしい顔の従者が思わず失笑を漏らすほど、それは的外れな金額の提示であり、それは黒い笑いに長けたゾン人でも笑えない失態である。同じケディク村の住民として、村人は恥じ入るばかりであった。
「む、娘は村一番の器量良しでございます! これまでにも多くの求婚の申し込みがありました。中にはギュベンで一二を争う商人からの申し込みもあります! けして法外な額ではないはずです!」
そんな周りの空気にも気がつかないまま、欲にまみれた父親は、からめ手ではなく一方的な押し売りで交渉を続ける。この一言で、村人は父親が今の状況を受け止められていないことに気がつく。
父親が言ったことはすべて過去のことであり、悪霊憑きが確定してしまったファティマにはもはや銅貨一枚の価値もないという現実が受け入れられないのだ。
「この娘が? これ、二つ分だと?」
そんな父親の様子をニヤニヤ見下しながら、男がひらひらと二本の指を振ると、二つの指輪が魅惑的な踊り子のように男の指先で踊った。
その様を見た父親が、ごくりと喉を鳴らす。
「そ、そうです! あ、いや、その、二つではなく一つでないこともありませんが、で、出来れば二つ!」
もはやそれは交渉でも何でもなかった。父親の精神状態はすでに限界を超えているのだ。ファティマの値打ちの暴落に対する落胆と、突然現れた男の圧倒的過ぎる財力に対する衝撃で、頭は正常に機能しなくなってしまっている。あるのはただ欲望だけだ。
「悪霊憑きが、この指輪二つ分?」
そう言うと男は村人全員を見回した。まるで父親の言葉が、村人全員の総意であるかのように錯覚させる。視線が読みにくい男の細い目と目を合わせたくなくて、全員うつむいて男の視線を避ける。特に村の農産物の取引を任される村長以下村の顔役たちは、父親の失態に真っ赤になって脂汗を流していた。
つまらない冗談を口にしてしまう事。商売で下手を打つ事。それはどちらもゾン人には耐え難い恥辱だった。
「おおっ! お~、お~、お~。そういえば思い出した。ザバッシュ将軍の反乱はお主たちも耳にしておろう? 実は、この地域周辺でも、反乱の噂が囁かれておることは知っておるかな~?」
話が突然まったく別方向に飛んでしまい、村人全員困惑するが、そこに不穏な空気が漂っていることに、商談慣れしているゾン人たちは即座に気がついた。
周りをぐるりと見回していた男に、最後に視線を固定された村長が、声すら出せず、知らないということを必死で首を横に振ることで伝える。
「ほう。ほう。ほう~。知らぬとっ! なんと、知らぬとっ! まあ、そういうこともあるだろう。だが~、あまりにも間が良過ぎる気がするのは私だけだろうか? いや、この場合、間が悪過ぎると言うべきかな~? 反乱が疑われる地域で、火刑が必要なほどの重度の悪霊憑きを出したこの村に、我らが親愛なる国王陛下アリラヒム様はどんな印象を持たれるだろうねえ? ええっ? どう思うかねえ?」
そう言うと男は、再び村長に顔を近づけた。
恥の赤から恐怖の青に、村長の顔色が変わる。
「火刑により処刑。まさかこれは、反乱をたくらむ者がいることを隠すための、証拠隠滅だったりして~?」
「と、とんでもない! そのようなことはけっしてございません! 事実無根、我々は無実でございます!」
男からの疑いに対し、村長は必至で無実を訴えた。
「まあ、そうだろうね」
それまでの威圧をあっさりと引っ込め、男は村長の言葉を認めた。思わず大きなため息を漏らす村長。
「ただねえ。さっきも言ったけれど、これはあまりに間が悪過ぎる。私がここで納得したとしても、果たして国の役人は、信用するかな~?」
一息ついた直後のわかりやすすぎる脅しに、村長は口から出かかった心臓を呑み込むかのように、大きく唾を飲み下した。
「そ、そんな! 我々は無実です。お国に対して反乱など、考えたこともありません。どうか信じてください!」
全く身に覚えのない疑いに、村長は土下座せんばかりの勢いで言い募る。男の言葉には真っ黒な真実が含まれている。役人が始めからケディク村の住人をクロとして見ている場合、どんな言い訳に対しても耳を貸さない可能性がある。ましてケディク村はゾン国にとって重要な拠点と言うわけではない。大陸隊商路からは大きく外れ、海路の拠点の一つでもあるギュベンの町との行き来も、地形の関係で不便を覚える場所だ。
この地域一帯に対する見せしめとして、ケディク村はゾン軍によって滅ぼされる可能性がある。
身分の差が厳しいゾンでは、過去に何度も反乱が起こっている。その都度見せしめとして村単位で処刑が行われたこともある。処刑で済めばある意味苦痛は少ないが、奴隷の身分に落とされると、その後は厳しく過酷な人生が待つことになる。どちらに転んでも最悪の選択肢であることに変わりはない。
そこまで考えの至った村人たちは、全員これから自分たちに降りかかるかもしれない不幸を思い震え上がった。気の弱い者は気分を悪くし、その場にへたり込みさえする。
基本陽気な気質ではあるが、奴隷を人とは思わないゾン人の気質は、自分たち自身よくわかっているからだ。
「この娘を焼けば証拠隠滅。役人の手に渡れば、拷問の果てに結局役人が聞きたい情報を吐き出させられ、この村全体の罪が確定する。ん~、ん~、ん~。八方塞がりとはまさにこのことだねえ」
男の言葉は村人全員にとどめを刺した。
「……だから私はこの娘を買い取ろうと申し出たのだよ」
男の言葉に村長はすがりつくような視線を向ける。
「この私のすることに、役人風情が何を出来ようか? 出来る? 出来ない? そお~う。出来ないっ!」
男はそう言うと、再び役者じみた仕草で周りを見回した。
「反乱の疑いを招くような悪霊憑きの火刑は行われない。この村に住む娘が一人、買われていっただけの話になる。だあってこの私が仕入れの品質を見誤るわけがない。つまりぃ、私が買ったということが、シロであることの証明にな~る」
そう言うと男は再度村長に顔を近づけた。今度は村長も目を逸らさない。すがりつくのに必死だ。
「だぁ~がぁ~、しかし、だがしかし~。買う気が失せちゃったんでこれで失礼させていただくよ~」
操り人形が糸で引き上げられるかのようにス~ッと姿勢を戻した男は、父親の手からサッと金貨を取り戻し、さっさと広場を後にしようとした。
「お、お、お待ちください!!」
村長だけではない。その場に集った村人全員が、男の前に土下座の壁を築き、待ったをかける。
父親だけが事態の展開についていけず、ポツンと取り残されている。
「あの愚か者のことはどうかお忘れくださいませ! 娘のことで頭がおかしくなってしまったのです!」
「そうかい? そんな風には見えないけど~?」
村長の必死の嘆願を、男は意地悪く跳ね除ける。
「いえ、間違いなく頭がいかれております。でなくてどうして幼子でもしないような愚かしい値段提示など致しましょうか! 金貨の価値もわからない南方民族であればいざしらず、まともなゾン人であれば、あのような馬鹿げた値は恥ずかしくて提示したり致しません。あの値段提示こそ、あの男の頭が狂ってしまった何よりの証拠でございます」
「だよね~。悪霊憑きの時点で価値なんてないからね~。この指輪を二個くれって言われたのには、正直失笑しか出てこなかったよ~。これがこの村の常識なのかと思ったら、急にどうでもよくなっちゃってねえ」
男の返答に村人全員が歯ぎしりする。そして全員で一斉に父親を睨んだ。事がここまで捻じれると、もはや娘よりも父親の方が村にとって害でしかない。
「あの娘は差し上げます。ですのでどうかお納めになり、この村から連れ出してくださいませ」
「ふ、ふざけるな! ファティマは私の娘だ! 私の所有物だ!」
頭を下げる村長に対して、父親が唾を飛ばして怒鳴り散らす。
「あの大馬鹿を黙らせろっ!」
ブチ切れた村長が男たちに命令する。
命令に対して食い気味に飛びかかった男たちが、容赦なく父親を袋叩きにした。
その様をニヤニヤ見つめる男から、先程までの冷たい空気が薄らいでいくのを感じた村長は、こっそりため息をつく。なんとか男の苛立ちを治めることの成功したのだ。
「あの娘の家族は他にいるのか?」
「母親がおります」
「ではその母親も念のためもらっていこう。余計な疑いの根は残さない方がいいだろうからね」
「ご配慮痛み入ります」
「あ~、これ、これ、これ。殺してはいかん。いかんぞお」
ボコボコにされる父親を、だいぶ遅すぎる気もするが、男は止めてやった。
「売れなくなるだろう?」
相変わらず細くてどこを見ているのかわからない目は、目じりが下がっているため一見微笑んでいるように見えるが、それが冷たい笑いであることに、誰もが気がつく。
「売り方は任せる。村のちょっとした収入源にしたまえ。それと、あの男の財産管理も、村で行うしかあるまい。致し方ないことだ。余計な仕事を押しつけてしまうが、よろしく頼むよ~」
そう言うと男は冷たく笑った。それが村長に対する男なりの褒美だと気がついた村長は、素早く父親の資産を計算し、にんまり微笑んだ。
火刑のために貴重な薪を使用せずに済むだけでなく、ザバッシュ将軍の反乱以降きな臭い空気が漂うゾン国内で、無用な疑いを招く原因と、村の女たちに悪影響を与えかねない厄介者が同時に片付く。
村にとっては何の損もなく、村長にいたっては父親の財産管理が転がり込んで来たことで大儲けもいいところだ。
「誠にありがとうございます。あの大馬鹿の処分は私が責任を持って処理いたします。……あの、一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
村長が畏れながらも好奇心に負けて尋ねる。男の雰囲気が一気に軟化したことも助けになったからだ。
「あの娘、あなた様の災いにはなりませんでしょうか? あなた様は我々が危うく踏み込みかけた窮地からお救いいただけた恩人でございます。どうにも心配で……」
村長の言葉に、男が無言の間を置く。余計なことを言ったかと村長が後悔しかけた時、男が口を開いた。
「私は絶対に損はしない。アレからでもしっかりと利益を上げてみせる。お主が思っているよりもはるかに多くの利益をねえ」
それは百戦錬磨の商人の余裕であった。
「あ、悪霊憑きですら捌けるのですか!!」
その言葉がはったりなどではないと理解した村長が驚きの声を上げる。
「どれほど魅力的な商品を抱えていても、それを捌くための顧客との繋がりを持っていなければ、場当たり的に買いたたかれるだけ。どれだけ目の細かい商売の情報網を持っているか、それこそが商人の価値と言えよう。まあ、悪霊憑きを捌けるような商人は、私くらいだろうがねえ」
そう言って男はニヤリと笑った。
事実に裏打ちされた、自信に満ちた悪い笑顔で――。
村長だけでなく、村人全員が尊敬のまなざしで男を見つめる。
ゾン人にとって、強いこと。容姿に優れることはもちろん敬意の対象となる。だが、それ以上の敬意を持って遇されるのが、面白いことと商才に長けることだった。
ことに儲けの出せる商人は深く尊敬される。金儲けこそがゾン人の気質の根幹なのだ。
「あと、水と食料をもらおうか」
そう言うと男は父親から取り返した金貨三枚を長老の手に落とした。
慌てつつも村長はしっかりと受け止める。金貨と取り落とすようなゾン人は、人より上にはけしていけないのだ。
「こ、こんなにでございますか……」
ヴォオス金貨は大陸で流通する金貨の中では最も純度が高い。当然その価値も最上級になる。
「上手い買い物をするだけが一流の商人のすることではない。時に富める者は施しの気持ちも持たねばならない。あの大馬鹿も、道化と思えばなかなか面白い見世物だったと言えよう。必要な食料の量は従者に確認しろ。つりは要らぬ。見物料だ。とっておけ」
思わぬ高額臨時収入に、村長の目がキラキラ輝く。手の中の重みにニヤニヤ笑いがこみあげてくる。
「急げよ。私の気が変わるかもしれんからな~」
男の最後の言葉に、村長は飛び上がると従者の下へと駆け寄って行った――。
◆
全身ひどい打ち身だらけで、骨折も複数個所負っているファティマは、ずだ袋のような有様で荷馬車に放り投げられていた。
「今回のことはさっさと忘れた方がいいだろうねえ。反乱の噂はどうやら根が深いようだし~、ギュベンあたりで今日のことを吹聴して、いらぬ詮索を受けては何の意味もないからねえ」
ラクダが主流のゾンでは珍しい見事な体格をした馬にまたがった男が、ニヤリと笑いながら忠告する。
もはや男の召使いのようになっていた村長は、男の忠告に顔を強張らせてうなずいた。男は冗談めかして言っているが、ゾン国内の緊張が高まれば、冗談ではすまなくなってくる。
「では行く。上手く儲けろよ」
そう言うと男はニヤリと笑い、屈強な戦士たちに守られながら去って行った。
「今日のことは他言無用だ。よいな」
男を見送った村長は村人たちに振り向くと、厳しい眼差しでそれだけ言った。
村人たちもこれ以上の揉め事はごめんだとばかりに大きくうなずく。
こうして閉ざされた村は閉鎖的な日常へと戻って行った。
曲がりくねり、起伏も激しい道のりを、男は急ぎ進んでいた。
海風が運んで来てくれる湿気のおかげで、乾燥に強い植物が多く自生しているが、木陰などは期待出来ない。ケディク村と比べて土そのものが少ないからだ。
長い年月とキュベンの商人の往来が削り出した轍を跳ねながら、荷馬車は進んで行った。
なかなかの大きさの石を踏み越えた時、跳ねた荷台にしたたかに頭を打ちつけたファティマは、いつの間にか意識を失っていたことに気がつき慌てて起き上った。そして即座にその行動を後悔する。前進の打ち身ち骨折が、ファティマに激痛をもたらしたのだ。
身体を両手で抱くようにして痛みに耐える娘の頭を、母親はやさしくなでてやった。
その感触、そのぬくもりに、ファティマは身をゆだねようとして気がついた。母親が自分と一緒にいることにだ。
ファティマは父親が何もかも失う直前に意識を失っていた。だから、男と村長のその後のやり取りを知らない。
だが、それまでの状況から、自分が男に売られたことは理解した。これで今日から奴隷の身分だ。
だが、母親まで自分と一緒にいるということは……。
「いいのよ。気に病むことはないわ。あそこにいたって奴隷と何も変わりはしないのだから」
強張った娘の身体からファティマの心情を察した母親が、やさしく言葉を掛けた。
「ごめん。ごめんね。お母さん……」
それ以上は言葉にならなかった。自分のせいで母親まで奴隷にしてしまった。自分の行動が軽率だったっとは思わない。ましてや間違っていたなどとも思わない。だが、結果として母の自由まで自分は奪ってしまったのだ。
母に対する申し訳ない気持ちと、言葉だけで何一つ変える力のない自分の不甲斐なさに、ファティマは堪え切れずに涙を流した。
母親は娘の嗚咽が男の気に障りはしないかと恐れ、娘の頭を抱きかかえて娘を守った。
細く曲がりくねった道が、ケディク村と港町ギュベンとの中間地点にさしかかる。そこはそれまでの細く曲がりくねった道と違い、かなり開けた場所だった。中間地点に辿り着くと、一行は馬を休ませるために馬車を止めた。
男が馬を降り、馬車に近づいてくる気配を感じたファティマは、やさしい母親の腕の中から抜け出すと、両手を広げて母を庇った。鋭い痛みが全身に走るが気持ちでねじ伏せる。
「先程は邪魔になるので黙らせたが、言いたいことがあるなら言いたまえ。聞こう」
男はリタの前に来ると立ち止まり、真っ直ぐにファティマを見つめた。
村人たちを震え上がらせた圧力がファティマに襲い掛かる。
顎が震え歯がぶつかり合って小刻みにコツコツと鳴る。
広げた両腕もブルブル震えて今にも落ちそうになる。
父親に刻み込まれた暴力の記憶で萎縮しそうになる。
それでもファティマは何とか心を奮い立たせ、男を睨み返した。
「私は暴力には屈しない。たとえ何をされても、心までは奴隷にはならない。人間は家畜なんかじゃない。女は男の持ち物なんかじゃない。それは全部男の身勝手だ! 人間には誰でも平等に自分の生き方を決める権利があるべきだ。私たち女にも、自分たちなりの考えがあって、何が幸せか、どう生きればその幸せに近づけるかもわかるんだ。なにもかも、男の都合で勝手に決められなければならない事なんて、何一つないんだ!」
全身に激しい苦痛が襲い掛かっているにもかかわらず、ファティマは最初から最後まで、腹の底に力を込めて思いのたけを男にぶつけた。
「もういい。もうやめて……」
娘が再び傷つけられることを恐れた母親が、ファティマの身体を止めるように後ろから抱きしめる。
自分の言葉のせいで、このあと母まで傷つけられるのだろうか?
そう考えると、ファティマの心はグラグラと揺れ、萎えかける。
もうしそうなっても、自分には母を守ること出来ない。自分たちを囲む男たちは、母や自分などよりはるかに大きくて、屈強な肉体を持っているからだ。
またか? またなのかっ!
女だから、力が弱いから、また、男にいいようにされなければならないのか?
悔しさに唇かむファティマは、涙を流しつつも、けして男から目を逸らさなかった。
その言葉通り、ファティマの心は男の重圧に屈しなかったのだ。
冷笑を浮かべていた男の顔からスッと表情がなくなり、代わりに温かい笑みに変わる。
そして、線のように細かった目が開かれると、ファティマは思わず息を呑み込んだ。
そこにはまるで男の指で煌めく大粒の翠玉を、二つはめ込んだかのように美しい緑色の瞳があったからだ。
生まれて初めて見る異相にファティマは驚くと同時に男がゾン人ではないことに気がつく。男の煌びやかな装いに目が行き、顔の骨格の違いに気がつかなかったのだ。
その顔を間近で目にしていたはずの村長も、男の財力に圧倒されてしまい、そのことに気がついていなかった。
「あなたは何者なのですか!」
先程とは違う種類の緊張に縛られたファティマが鋭く問いかける。
相手がゾン人でないのなら、ただの奴隷では済まない可能性がある。自分だけならまだしも、心優しい母親が、厳しい責め苦に遭うのは耐え難かった。
「君の先程の言葉に間違いはない。何一つね」
男はファティマの問いかけを無視して話し始めた。
「でもね、ゾンではそれが通用しない。何故かわかるかい?」
「男が自分たちの身勝手を通すためだ!」
「その通り。ゾンでは何百年も前から、男たちが自分の欲望を優先するために、自分たちの身勝手を他人や女性たちに押しつけて来た。悪霊なんて馬鹿げた世迷言まで持ち出してね」
ファティマの答えに、男は唾を吐き捨てるように答えた。
「このままでもいいと、君は思うかい?」
「思わない!!」
男の突然の豹変に戸惑いながらも、ファティマは男の問いかけに即答した。
「ではどうすればいいだろうか?」
「それはっ! それは……」
さらなる男の問いかけに、ファティマは再度答えようとして、具体的な案を何一つ持っていないことに気がついた。
変える。一つずつでもいいから変えていく。
何を? まず何から?
自分の中に答えを見つけようとして、ファティマは答えのない自問自答の迷宮に捕らわれてしまった。
「どうすればいいのか。その答えは君の中にはないようだね。君はただ現状を批判し、否定しているだけに過ぎない。違うかい?」
男の言葉に、農作物の売り上げに対して、村を代表して取引を行うを村長や顔役に文句ばかりつける村の男たちの姿が思い出される。
結果に対し、何が駄目でその結果につながってしまったのか、何をどう変えることでその結果を次に生かせるのか、建設的な解決策や改善案は何一つ出さず、ただ結果に対して不平不満を言い立てる。
自分では何もしようとせず、自分の思い通りになるように、誰かが何とかしろと言い立てるだけの男とちと今の自分が重なり、ファティマは呼吸も忘れて固まってしまう。
自分はあんな男たちと同じなのか? 自分の考えはクズのような男たちと何も変わらないのか?
それは恐怖に近い感情となってファティマの中を巡った。
母を守ろうと上げた両腕もいつの間にか下がり、絶対に逸らすものかと睨みつけていた視線は、目線だけでなく顔ごと大きくうつむいてしまっていた。
自分は間違っているのか?
最後の疑問が自分の心に問いかける。
答えは……。
「わからない。……でも、否定しているだけの人間で終わりたくない」
答えは簡単に手折れそうなほど弱い言葉でしか表せなかった。
ファティマはただひたすら悔しかった。男に言い負かされた。いや、まともに言い返すことすら出来なかった。否定したいはずの男の言葉に、それを打ち負かす言葉を何一つ見つけることが出来なかった。
「十分だ」
だが、そんなファティマの答えを、男は肯定した。
「何が十分なの! どこが十分なの! 私は何一つ答えていない! 十分だなんて言えるような答えは、私の中にはない!」
肯定されたことで、逆に怒りが込み上げてきたファティマは、それが自分に対する怒りなのだとわかっていても、その怒りを目の前の男にぶつけるしかなった。
「答えられなくて当然だ。君は今ようやく疑問の前に立ったばかりなんだ。答えはこれから君自身が見つけ出さなくてはいけない。今君の中に答えはない。それに気がつけたことに対して、私は十分だと言ったんだ。そのことにすら気がつけない者もいる。そしてそういった者たちに限って、ただその場に座し、不平不満を言い立てるだけの卑怯者になり果てる。正しいことを言っているつもりでね」
男の言葉の締めくくりは容赦なく厳しかった。だからこそファティマの胸に刺さった。それが単なる慰めであったなら、ファティマの中には反発しか生まれなかっただろう。だが、ファティマの内面を見透かした容赦ない言葉は、逃げ場ではなく、進むべき道を求めていたファティマに確かに届いたのだ。
「君は未熟だ。今の君には村で作られたカブの値段を銅貨一枚分変えることすら出来ない。だが、そこから始めるしかないんだ。そこが今の君の立ち位置であり、そこから前に進むか、そこに君の居場所を作るかは君次第だ。だが、君はゾンとうい国にあって、女性の身でそこまでたどり着いた。それで十分だ。今はね」
この言葉の締めくくりにも、厳しさがある。厳しいからこそ、そこに姑息な嘘も、甘い嘘も存在しないとわかる。
うつむてしまっていた顔がいつの間にか上がり、ファティマの目は再び驚くほど美しい翠玉の瞳に吸い寄せられていた。
「誰かが変えてくれるまで待ち続けるか、変えるために立ち上がるか。それは自分で決めなくてはならない。君は現状に疑問すら持つことのない人々が大半を占める中で、はっきりと言葉にしてその不条理に疑問を投げかけた。それによってもたらされたものは、理によって説かれる答えではなく、盲目的な服従を求める理不尽な暴力だったが、それに対して君は最後まで屈しなかった。君がどちらの生き方を選ぼうとも、私は君が命を懸けてまで示そうとした正しさに敬意を払い、君と母上を支援しよう」
見つめる翠玉の瞳は一瞬も揺れることはなかった。
今も真っ直ぐにファティマの目を見つめている。上からでもなければ、もちろん下からでもない。ただ真っ直ぐに、ファティマの心と自分の心を水平に保ちながら――。
自分は単なる小娘だ。どれほど痛みに耐えて正しさを叫ぼうと、何一つ変えることの出来ない無力な存在だ。
そんな自分を目の前の男は対等に扱ってくれている。
それどころか、ファティマの行動に敬意すら払ってくれている。
ああ、これだ。これなんだ――。
ファティマは不意に悟った。
自分の中に見つけられなかった答えは、まるで天からの啓示のように、今ファティマの中に降って来た。
他者の意思を尊重し、敬意を払う。それこそが、人が人であることを認めるということなのだ。
悔しさで濡れた頬に、今度は暖かい涙がとめどなくこぼれ落ちる。
見つけた。私は見つけた――。
生きる意味を。生きる目的を――。
これからたどるべき人生の道を――。
ファティマの答えはその表情に明確に表れていた。涙を拭ったその目には、立ち上がった者だけが持つ強い光が宿っている。
「私の名はカーシュナー。ようこそ、こちら側の世界へ」
そう言うとカーシュナーは満面の笑みを浮かべて手を差し出した。その手にはもう煌びやかな指輪は飾られていない。そこにあるのは、己の理想を実現するために、戦い、もぎ取る強さを秘めた、鍛え上げられた手の平の硬いたこだけだった。
その大きな手を、今は小さく何も持たない手がとる。
カーシュナーの手をしっかりと握ると、大きな手はやさしく、それでいて力強く握り返してきた。
「私の名はファティマ。よろしくお願いします」
これが、後にゾンという国の根底を覆す二人の出会いであった――。
どうも、ヴォオス戦記を書いている人、南波 四十一です。
前回のプロローグの投稿に際し、あらすじを修正する予定でしたが、ものの見事に忘れた愚か者でもあります。
投稿も、念のため13時に投稿されるように予約を入れていたのですが、本当は12時ごろにあらすじを修正して手動で投稿するつもりでいました。ですが、それもすっかり忘れていて、その後思い出し、慌てて修正した次第であります。
その原因については、察しの良い方にはこの時点で見抜かれていそうですが、そうです!
ポケモンの新作で遊んでいたからです(事実)
さすがに完全新作ではないので執筆も忘れて夢中になることはないので大丈夫ですが(本当か?)、こんなお間抜けさんに、連載再開祝いの御祝儀ポイントをくださった親切な方がいらっしゃいました。
しかも高額!(この表現は大丈夫なのだろうか?)
読んでくださるだけでもありがたいのに、評価までしていただき誠にありがとうございました。
これを励みにより一層頑張りたいと思います。
プロローグのあとがきで新章の一話目は、第一章の約三か月後と書きましたが、このお話のみ約一か月後の出来事となっております。今書き溜めている最中の、次話以降メインとなる戦いが約三か月後の設定だったもので勘違いしてしまいました。
ここに訂正し、お詫び申し上げます。
お詫びついでに、慌てて直したあらすじが少々くどかったので、併せて修正いたしました。
次回は12月2日の17時ごろに投稿する予定ですのでお付き合いいただければ幸いです。
12月1日、本文のラストに文章的にリズムの悪い個所があることに気がついたので修正いたしました。




