エピローグ ~分かたれる二つの道~ (その2)
今回もやらかしてしまい、二部構成となっております。
この回をもちまして、ヴォオス戦記も幕とさせていただきます。
まだ(その1)の方をお読みいただいていらっしゃらないようでしたら、お手数ですが1ページお戻りいただき、そちらからお読みください。
リードリットのイラストも貼りつけてあります。
~お詫び~
イラストの貼りつけ方が悪く、投稿当初は表示されていませんでしたが、その後何とか修正いたしました。ご迷惑をおかけし誠に申し訳ありませんでした。
「……と、まあ、以上が各地の洪水からの復旧状況になります」
久しぶりに顔を合わせるリードリットに、とりあえず知っておくべきことをカーシュナーは一通り報告した。
終わらない冬が終わったのは良いのだが、季節的には春を通り越し、すでに初夏に入っていた。急激に温かさを増した大気が、二年以上も降り積もった雪を一気に溶かしてしまったため、雪崩は起きるは、地滑りは起こるは、土石流は起こるは、河川はあらゆる川筋で大氾濫を起こすはで、災害の見本市のような状況になったのであった。
こうなることも予測済みのカーシュナーにより、天に大穴があいた時点で各地に警告が出され、人的被害は最小限にとどめられた。それでも多くの村落や川の流れを発展の起点にしていたような都市が流され、被害の規模は天文学的な数字に昇っていた。
本来であれば国の財政が破綻しかねない状況なのだが、クロクスから没収した私財だけで、被害額のすべてが補填出来てしまったのであった。<ケルクラーデン会戦>のおりに行方をくらませ、いまだにその足取りのつかめない男は、不本意極まりないだろうが、最後にヴォオスの役に立っていた。
「聞けば聞くほど恐ろしい状況だな。よく国が潰れなんだものだ」
リードリットが深々とため息をつく。
「それもこれも、すべてはカーシュナー卿が事前に備えてくれていたおかげでございます」
「備えていたおかげというよりも、備えを無駄にしないために、現実の流れを強引にこちらへ持って来たようなものですから」
褒めそやすディルクメウス侯爵の言葉に、カーシュナーはとんでもない言葉で謙遜してみせた。それが事実なのだから余計にたちが悪い。
「……皆良い顔で働いておるな」
御忍びの視察ということで、目立ち過ぎるリードリットはほぼ全身ぐるぐる巻きになっている。いまだヴォオスの周辺国は終わらない冬の影響下にあるが、分厚い雲に大穴が空き、そこから徐々に冬が終わり始めたヴォオスは、大陸でもっとも早く季節が進んでいる。
働く者たちの中には上半身裸で汗だくになっている者も見られる中、一人重装備で歩くリードリットは労働者以上に汗だくになっていた。
「お辛いでしょうが、ここは我慢なさってください。表立って陛下が視察に訪れたとなると、彼らは皆作業の手を止めて平伏しなくてはならなくなってしまいます。陛下がご覧になりたいのはそういった姿ではないはずです」
自分はこれといった扮装はせず、ただ涼しい格好をしているだけのディルクメウス侯爵が、言い訳がましくリードリットを諭す。
ヴォオスは本来湿気も少なく、真夏でも強い日差しさえかわせばかなり快適に過ごせる土地なのだが、二年以上にわたって降り積もった雪の影響は、その姿を消しても湿気という形で大気中に居座り、不快感として人々にまとわりついている。それは当然リードリットを覆う外套の中にも侵入していた。
「それがそもそも間違っていいるのだ! 何かといえば整列させては平伏させおって! 偉そうに振る舞うことが王の役目ではない! 皆を代表し、皆のために働くから偉いのだ! 平伏は禁止だ! そしてこんなものはもう脱ぐ!」
言うが早いか、リードリットはフード付きの丈の長い外套を脱ぎ、カーシュナーに投げつけた。
「あ~、持っていろということですね」
こちらもかつらをつけている以外これと言って身分を隠すような努力をしていない涼しげな格好のカーシュナーが、八つ当たりの対象となる。
「そうだ! 持っておれ!」
そう言うとリードリットは首筋に張り付いた紅玉のような輝きを放つ見事な赤髪を無造作にかき回し、空気を入れた。毛量が多いので熱がたまりやすいのだ。
近くで作業をしていた人足たちが、その様子にギョッと目をむき、次いで相手の正体がわかると手にしていた道具を放り出し、その場に平伏する。
「やめんか!」
人足たちの腕をつかむや否や、幼子でも引き上げるかのように、大の大人たちを軽々と引っ張り上げて行った。
「そういったことは金輪際なしだ! 王の私が言うのだ! これは絶対だ!」
人間とは思えない力を肌で実感した人足たちは、よけいなことは口にせず、素直に従った。
「それでよい! ちゃんと食えているか? 家族は養えているか? 住む場所はちゃんともらえたか?」
次々と人足を捕まえて、リードリットはたずねて回った。
そんなことをすれば当然騒ぎになり、人の輪が出来てしまう。
「面倒だ! いったん休憩とせよ! これから自分たちが暮らすことになる街を、自分たちの手で作っておるのだ。ちゃんと働いておることくらいもう十分わかった。それよりも全員私の問いに答えよ!」
集まった人々をぐるりと見回し、リードリットは言い渡した。
監督たちが散って行き、声が届かなかった区画で働いている者たちを呼び集めに行く。
奴隷制度が復活していたかもしれないことが知れ渡り、それをリードリットが阻止し、地下競売場を利用していた者たちをことごとく処刑したことで、高齢者たちの間では、リードリットをまことの現人神と崇める向きがあった。
奴隷として生まれ、人の尊厳を奪われて生きてきた過去と記憶を持つ者たちにとって、クロクスとロンドウェイクの所業は、リードリットたちの想像を超えて強い衝撃を与えていた。ようやく手に入れた人としての暮らしを守ってくれたリードリットに人々は心から感謝し、敬意を寄せたのであった。
かつてはリードリットを孤独へと追いやったその容姿も、今では人々の目に神々しく映る手助けとなっていた。
働く老人たちは全員リードリットに手を合わせ、ひたすら拝み続けている。
「ちゃんと食えているか?」
いささか辟易しつつも、リードリットは老人にたずねた。
「おかげさまをもちまして、朝昼晩と、三食しっかりいただいております」
直接目にしては罰が当たると言わんばかりに、老人は目を伏せて答えた。それでも、顔に浮かぶ感動と、小さな幸福の大切さを良く知る穏やかな微笑みが、リードリットを安心させた。
「賃金もごまかされたりしておらんだろうな? 無用に威張り散らす役人などいるか?」
リードリットが不安げに問いかける。組織とは、安定と同時に腐敗を始めるものだ。リードリットは再び力無き人々が、権力を笠に着た小役人などに虐げられてはいないか心配なのだ。何と言っても振りかざされる権力はリードリットのものなのだ。それは見方を変えれば、リードリットが人々を虐げているのと何ら変わらない。
リードリットの問いかけに、何とも奇妙な間が空いた。
「そういう奴がおるのか! 申せ! そんな奴は私自ら叩き潰してくれるわ!」
リードリットが勢い込んでたずねる。
その勢いに押されながら、監督の一人が答えた。
「た、確かにそういった者はおりました。ですが、その、なんというか……」
「なんだ! はっきりと申せ! 心配するな! お主に報復が及ぶようなことには絶対にせん!」
言いよどむ監督に、リードリットが顔を寄せて迫る。これではリードリットの方が脅迫しているようにしか見えない。
「王様。俺知ってるよ」
子供の声が割って入ってくる。
「こりゃ! 国王様に何という口をきくんじゃ!」
近くにいた老人が、子供の言葉遣いを注意する。
それを遮って、リードリットは今度はその子供に詰め寄る。
その迫力に慄きつつも、子供は答えた。
「誰かがやっつけてくれたんだよ!」
「やっつけてくれた?」
「うん!」
子供は元気よく答えた。
「あ、あの、そういったお役人様は、たいていその日の内に、半殺しの目にあって、厠に捨てられておりました」
子供の説明では足りないと思ったのだろう。別の人足が説明してくれる。
「半殺し!」
「厠に捨てられてた!」
お付きのアナベルとディルクメウス侯爵が驚きの声を上げる。
「それは今も続いておるのか?」
人足の説明で逆に落ち着いたリードリットが再度たずねる。
「十人ほどやられた後は、お役人様のそういうこともなくなりまして、今はございません」
「なるほど」
リードリットはうなずく。
「あ、あの! 誓って俺たちがやったんじゃないんです! 信じてください!」
男は懇願するように言葉を続けた。先程の監督が言いよどんだ理由がこれでわかった。上前をはねられた報復をしたのではないかと疑われることを恐れたのだ。
「心配いたすな。治安兵などは来なかったのであろう?」
「はい。不思議なことに……」
リードリットはその場にいる全員を安心させるために大きくうなずくと、視線をカーシュナーに向けた。
「陛下、私がそんなことを黙って許すとお思いですか?」
下手人が、さも当然とばかりに白状する。
「あなたの差し金か!」
「やり過ぎですぞ!」
アナベルとディルクメウス侯爵が一斉に非難する。
これに対してカーシュナーは軽く肩をすくめると、
「クロクスの行いに対して、陛下が厳格な処置を取られたことは周知のこと。その上で人々の努力の上前をはねようなどと考えるのです。もはや口で言われてわからないと、自らの行動で証明したも同然です。口で言ってわからないような馬鹿には鉄拳制裁あるのみです」
軽く言ってのけた。
いつもの細目のひょろ長い青年に見えるカーシュナーが、どこか頼りなげな表情はそのままに、硬質な空気をまとう。怒っている証拠だ。
アナベルとディルクメウス侯爵はごくりと唾を飲み下す。
「その半殺しにした者たちはその後どうなった?」
「半殺しと言っても、治療に一月以上はかからない程度です。今頃は傷も癒え、汗水たらして働いているでしょう。そのくらいの情けはあります」
つまり、二度と公職には就けないように手は打ったということだ。
「ご苦労。よくやった」
アナベルやディルクメウス侯爵とは違い、それはリードリットには当然の処置だった。言葉の最後にニヤリと笑う。実に悪い笑顔だ。
もっとも、応えたカーシュナーの笑みは、それをはるかに超えて悪かった――。
◆
リードリットがどう言おうと、やはりその存在は作業の妨げになってしまうということで、視察は早々に切り上げとなってしまった。
それでも直に人々の言葉に触れることが出来たリードリットは満足していた。
一行の足はごく自然に、王宮のある王都の中心にではなく、反対方向の外へと向かった。カーシュナーがそちらへ歩を進めたからである。
「意外ですね。お見通しですか?」
カーシュナーが隣を歩くリードリットに問いかけた。
「ふふん! 女の勘だ!」
リードリットが胸を張って答える。
王宮では誰も相手にしてくれなかったが、カーシュナーは一本取られたとばかりに笑った。
リードリットの機嫌が加速度的に良くなる。
「どこへ行く?」
「とりあえずはゾンへ」
リードリットの問いかけに、カーシュナーが答える。
言葉にこそならなかったが、二人の間では、「いつ戻る?」という問いかけの言葉が宙に浮いていた。
「やはりゾンか。当然だな。今回の騒動が起こる以前から、お主はゾンに対してかなりの仕掛けを施しておったからな」
「ええ、今回動かなかったメティルイゼット王子や、ザバッシュ将軍のその後の動向も気になります」
「報告は入れてくれるのだろうな?」
「もちろん。下手に隠して嗅ぎまわられても面倒ですから」
二人の脳裏にゴドフリートとライドバッハの顔が浮かぶ。
二人同時に吹き出した。
「違いない。あの二人に探りをれられてはかなったものではないだろうな」
「はっきり言って仕事の邪魔です。ゾン国の密偵以上に厄介ですからね」
「…………」
「…………」
「……私に手伝えることはないのだろうな」
「直接にはございません」
「直接でなければあるのか?」
「あります」
「なんだ。申せ」
「私が進んだ道を引き返さなくてもいいように、この国をお守りください」
「そんなことか。頼まれなくともやってみせるわ!」
「……お主の背中を、今度は私が支えてやる」
「では思い切り寄りかからせてもらうとしますか」
「……少しは遠慮しろよ」
一瞬の間をおいて、二人は大笑いした。
少し進むと、前方から二人の人足が近づいてくる。さして陽に焼かれていない手足が、せっかくの扮装を台無しにしている。
「行かれるか」
二人の内、より長身の方が問いかけてきた。ミヒュールだ。
カーシュナーはうなずいて答えた。
「お主にはまんまと騙された。怪しい気配は嗅ぎ取っていたのだがな」
エルフェニウスが悔しそうに文句を言う。以前とは比べ物にならないほどくだけた表情と物腰だ。
「お主のおかげで、自分が井の中の蛙であったことがよくわかった。知らずに身にこびりついていた傲慢が粉々に砕けてくれたおかげで、物事がよく見えるようになった。礼を言う」
ミヒュールがにこりと笑って手を差し出してくる。
ミヒュールの言葉に謙遜の言葉を返そうとしたカーシュナーの後頭部に、リードリットの鉄拳が飛ぶ。
あまりの威力に、初めて目にしたミヒュールとエルフェニウスが驚きに目をむく。そして思い切り引く。
「お前は黙って聞いておればよいのだ。要らん言葉を返すでない!」
頭を押さえてしゃがみ込むカーシュナーの背中に、リードリットが説教をする。
かなりの威力で殴られたはずなのだが、割りと簡単に回復して立ち上がったカーシュナーに、エルフェニウスも一言言葉を送る。
「貴族とは何か。責任とは何か。お主に教えてもらった。ヴォオス貴族という言葉が、恥の代名詞とならぬよう努めて行くつもりだ。いつか追いついてみせるからな」
それはエルフェニウスなりの感謝の言葉であった。
長く話し込むつもりはなかったのであろう。二人はその場に足を止めると、カーシュナーたちを見送った。
次に現れたのは、よく陽にこそ焼けているが、どこからどう見ても人足には見えない二人だった。
「顔を合わせるのは貴族連合軍の大会議以来か。あの時はお主の存在など、会議場を去る時にはかけらも残ってはいなかったのだがな。この国のために残したものの大きさは、お主が一番であった」
感心を通り越し、若干呆れ気味にそう言ったのはブレンダンであった。
デカすぎてまるで人足らしくない。逆に、よくその巨体で今の今まで気づかれることなく周囲にまぎれていたものだと、むしろカーシュナーの方が感心する。
「結果から見れば、お主が大会議で我らに見せた偽りの姿は止むを得んものだろう。だがな、お主にいいように踊らされた我らは大うつけとして国中に醜態をさらすはめになったのだぞ! 一言あれば、我らとてお主に賛同し、助力したというのに、同じヴォオス貴族として冷たいではないか!」
事のすべてを知り、クロクス、ロンドウェイクの所業に激怒したジィズベルトは、同時にカーシュナーが何年もの歳月をかけて今回の状況の元となるものを作り上げていたことに深い感銘を受けていた。
大局的に物事を見る目を持ち、それを成すために何が必要かを図り、目的を定めるとあらゆる障害を排除し、そのための苦労も犠牲も厭わない。なにより、犠牲となったものの中で真っ先に捨てたものが、自身の名誉だと言うのだから、名誉を求めて今回の貴族連合軍に参加した身としては、ひたすら頭の下がる思いだった。
名誉を捨ててこそ得られるものがあるということを、ジィズベルトもだが、ブレンダンも<豚の尻尾>でのアペンドール伯爵との戦いで学んでいた。おかげで、今はカーシュナーという男の大きさと、その大きさの意味がよく理解出来た。
だからこそ、共に戦いたかったと腹を立てているのだ。
応えようとするカーシュナーを二人はさえぎった。
先程ミヒュールとエルフェニウスの言葉に応えようとして、リードリットに殴り飛ばされていた場面をこっそり覗き見していたからだ。武人として名高い二人をして、正直よくこんなに簡単に復活出来ると思うくらいの威力だった。
「言葉はいらん。ただ知っておいてほしかったのだ。我らがお主から多くのことを学んだということをな」
ブレンダンが誇らしげに笑う。
「お主が行動する背中で示してくれた道を、我らも自分たちなりに見つけ、歩んで行きたいと思う」
オリオン並の不機嫌顔のジィズベルトが、照れくさそうに笑う。思っていることを素直に口にすることの照れくささは、カーシュナーにもよくわかった。
「お主が歩み、成し遂げて行くことが、歴史に残らんというのなら、せめて我らは覚えていようと思う」
「我らが老いたとき、孫にでも話して聞かせることにする。それまでは我らもお主同様前だけ見て進み続けるつもりだ」
「お元気で」
「いつか共に轡を並べて駆ける日が来ることを楽しみにしている」
二人はそう言うと、手を差し出した。
でかく、まめだらけの二人の手を、カーシュナーは黙って強く握り返した――。
次に現れたのは、師匠でもあるゴドフリートとライドバッハ、そして片腕、片脚を失ても少しも衰えを見せないアペンドール伯爵の三人だった。
さすがに人足に変装はしていないが、ゴドフリートもライドバッハも質素な身なりでいる。アペンドール伯爵は、今や三人の中でもっとも目立つ容姿のはずなのだが、不思議と周囲の空気に溶け込んでいた。
貴族でありながら、何事に対しても構え過ぎない性格がそうさせているのかもしれない。
「まさか王宮に帰る日が再び来るとは思わなかった。お主がクロクス打倒後の国政運営のための下準備をしていてくれたおかげで助かった。礼を言う」
リードリットの鉄拳が怖いので、カーシュナーは素直にゴドフリートの礼を受け入れた。
カーシュナーからすれば、幼き日に受けたゴドフリートからの影響があったからこそ、今の自分があると思っている。
そのすべてを恩義と感じ、将来必ず返すものと考え今日まで来た。礼を言いたいのはカーシュナーの方なのである。事あるごとに伝えてきたつもりだが、いまだに真意を上手く伝えられていないような気がする。
「大きな恩返しが出来たのではないか? お主のおかげで、私にとっても王宮は価値のある場所に戻った。眉間の縦しわが消えなくなる前に、しかめっ面をやめることが出来て助かったぞ」
そう言ってライドバッハはニヤリと笑った。
カーシュナーの想いはお見通しのようだ。その上で、さりげなく想いは伝わっていることを教えてくれたのだ。
少しでも恩が返せたのならそれでいいと、カーシュナーはうなずいた。
「クライツベルヘン領にゴドフリートをたずねた時に見た小僧が、ここまでの男になるとはな。予想もつかなんだ!」
一人だけ毛色の違う視線を向けてくるのは、アペンドール伯爵だった。別れを惜しむほどの交流がそもそもないのだから当然だ。ここにいるのもほとんど野次馬根性からだ。
しかし、今回の大反乱から<ケルクラーデン会戦>終結までの流れの中で、カーシュナーがもっとも高く評価していたのがアペンドール伯爵であった。
歴史的評価という意味で言えば、国王にただ一人正面から諫言をし、当時最高権力者であった宰相クロクスの排除を公然と謳った唯一の人物でもある。反乱軍参加後はヴォオス東部国境の要、フローリンゲン城塞の城主レイナウド将軍を味方に引き入れるなど、ヴォオス正規軍を大いに震え上がらせたが、最終的には<豚の尻尾>にて敗れ、派手に動いた割には何も残せなかったことになっている。
あまりにも多くの事が起こり、大業が成されたことで人々の目が結果に流れてしまったことはやむを得ないことではあるのだが、臣下としての在り方、貴族という地位にある意味を、なんの計算もなく、ごく自然に示したことに真の価値があった。
カーシュナーは王に王たる資格を求めたが、王に仕える臣下にも臣下たるべき務めを求めていた。
人は完璧ではない。王が道を誤ることもあれば、臣下が権力を私物化することもある。
カーシュナーはそのすべてを否定するつもりはない。悪のすべてを否定しようとすれば、この世のすべてを破壊する以外に道はないからだ。
何事も程度というものがあり、その範囲を守ればそれでいいのだ。クロクスも弱者の犠牲を顧みず、絶対的権力を求めるような真似さえしなければ、その卵形のハゲ頭以上に、この時代で誰よりも輝けたはずだ。
王ならば正しい判断を下すために臣下の言葉に耳を傾け、常に最善の選択が出来るように努め、臣下は王が最善の選択を出来るように、王が持たないものを補っていく。
そして、何よりも大切なのは、そこに間違いがあるとき、臣下は王の権威を恐れず、間違いを正すことである。
王のために国があり、その権力の恩恵に与るために臣下がいるのではない。
国はそこに暮らすすべての人のためにあるのであり、王も臣下も、国民のために政を司っているのだ。
私欲に走り、政を怠れば、権力は腐敗し、世の中は乱れる。
それは結局国力の衰退を招き、自らの首を絞めることにつながる。
健全な政が人々の意欲と向上心を育て、国の成長につながって行く。
言葉にすれば当たり前にしか聞こえない事を、当たり前に続けて行くことの難しさは、いまだにそれを成し遂げた国が、人類が歴史を綴るようになって以来ただの一国も存在しないことが何よりも雄弁に物語っていた。
アペンドール伯爵は、その当たり前を、ごく自然に持ち続けているのだ。
あれほど我の強いブレンダンとジィズベルトが素直に従っているのも、揺るがぬ当たり前を持ち続けるその強さに感服してのことだ。
「あなたがいてくださるので、私は何の心配もしていません」
カーシュナーはそれだけ伝える。
「かっかっかっ! じじいが上でふたをしていては、下が育たんと思って一度は身を引いたが、これを機に口うるさいじじいになってやるわ!」
アペンドール伯爵はそう言って快活に笑った。
「本当はお主の行く道の方が面白そうなんだがな。何事も始めが肝心だ。国が好転し始めたこの時期に、離れるわけにもいかんて!」
「そう言いながらついていきそうだからかなわん。手と足が一本ずつないんだから、少しは自重しろよ」
ゴドフリートが渋い顔で釘を刺す。
リードリットもライドバッハも、目の前で残念がられているカーシュナーも、冗談抜きで、気が向けばカーシュナーについて大陸の果てまで行きかねないと思った。
「連絡は密に取りたい。頼むぞ」
最後にライドバッハが付け足す。他の人々が別れを惜しんだのとは違い、ライドバッハはこれを別れとは考えていなかった。その思考に腕があるとすれば、大陸の半分は覆えるほど、その腕は長い。そしてそれはカーシュナーも同様だ。
この二人ならば、互いがどこにいても、世界情勢を見渡せば見つけることが出来る。それは意志でつながっているようなものなのだ。
ライドバッハにすれば、カーシュナーが動くことで、より深く世界を知ることが出来るのだ。
「お任せください」
カーシュナーはそう言ってニヤリと笑った。これから先は世界との戦いだからだ――。
次に現れたのは、新ギルドマスターであるリタと、かつて分派と呼ばれ、クロクスと手を組んだ旧盗賊ギルドとクロクスの私兵団相手に共に戦った現盗賊ギルドの幹部たちだった。
全員まるで影が伸び、切り取られたかのように現れる。
これにはさすがのリードリットも目を見張った。全員見事な身ごなしだ。
リードリットは詳しい事情を知らないが、カーシュナーが、<掟>を破ってクロクスと手を組んだギルドに対し、公然と反旗をひるがえしてみせたオリオンとその仲間たちと共に、この王都で暗闘を繰り広げていたということは知っていた。
彼らに対してみせるカーシュナーの表情は、なかなか普段見ることが出来ないくだけた笑顔が多かった。
それは彼らとの絆の深さの証明であり、カーシュナー相手にそれだけ深い関係を築くには、よほどの苦難を共に乗り越えなければならなかっただろう。彼らがカーシュナーに向ける表情も底意のない素晴らしい顔ばかりだった。
一通りの挨拶が済み、黙って王都から出て行こうとしたことに対する殴る蹴るといった制裁が終わると、それまで一歩引いて構えていたリタが進み出てきた。
いたずらな表情を浮かべたまま、滑るようにカーシュナーとの距離を詰めてくる。
そのままするりとカーシュナーの懐に入ると、長身のカーシュナーの首に両腕をかけ、ぐいと引き寄せた。そして、面食らっているカーシュナーに、長く濃厚な口づけをする。
らしくもなく慌てたカーシュナーが、息が続かずじたばたと足掻く。
窒息寸前でカーシュナーを解放したリタは、翠玉の瞳に据えていた視線を、金色の瞳へと移した。
視線の先にある金色の瞳は、驚きのため、目一杯見開かれていた。
その瞳に向けて、リタは挑発の色を含んだ視線を投げると、あやしい微笑を浮かべた。
そして再びカーシュナーに向き直ると、リタは宣言した。
「あんたはあたしのものだ。誰かに譲るつもりはないよ。たとえそれが陛下であってもね」
「なあっ!!!」
すっとんきょうな声を上げたのは、当然リードリットであった。
「こ、これ! ちょっと待て! お主にはオリオンがおるではないか!」
「オリオンは表の世界にくれてやっちまったからね。もうあたしのものじゃないのさ。いい嫁さんを見つけてやっておくれよ、陛下」
「そ、それを言うなら、カーシュも表の人間であろう! 五大家筆頭クライツベルヘン家の子息だぞ!」
「それ以前に、こいつとあたしらは、同じ傷を持つ仲間なのさ。家柄なんて関係ない。あたしらは全員、血よりも濃い絆でつながっている」
「いや、しかし、その……」
「それはあんたも同じだろう?」
それまでの陛下という呼称を捨て、突然あんた呼ばわりする。その意図は鈍感の極みのようなリードリットにも確かに伝わった。
「……そうだな。そうだ。私も王である前に、一人の人間として、お主らの仲間だ」
「それがちゃんとわかっているなら十分さ。あんたとあたしはきっと上手くやっていける」
「そう願いたいな。私は極端に友人が少ないのだ」
リードリットの答えに、リタは快活に笑った。
「こいつはね、誰にも所有出来ない男なんだよ。陛下にも、さすがのあたしにもね」
「ちょ、ちょっと待て! 誰が所有したいなどと申した!」
リードリットの抗議を、当たり前のように無視してリタは言葉を続ける。
「でもね。こいつは共有出来る男なんだよ。それを許せるだけの深い懐を持つ女にとってはね。まあ、何人の女と共有することになるかはさっぱり分かんないけど、順番決めてあんたにも回してやるよ」
とんでもない台詞を、最高の笑顔で言い放つと、リタはリードリットの答えなど待たず、一瞬だけ名残り惜しげにカーシュナーの頬に触れると、現れた時と同様、影が高く昇った陽にのまれるように姿を消した。
幹部たちも同様に姿を消す。ただ、この状況を面白がっている気配だけは濃厚に残しって行った。
言いたいことも言い返せず、言われっぱなしのまま取り残されたリードリットは、最終的にカーシュナーを思い切り殴りつけることで自分の中で渦巻いていた感情にけりをつけた。
カーシュナーの唇あたりと見つめる視線が鋭く尖る。
くらくらする頭を抱えつつ、懸命にもカーシュナーは一言も言葉を返さなかった。返していれば、それが何であろうと鉄拳が飛んできたことは間違いなかっただろう。
ご立腹状態のリードリットをそれ以上刺激しないように、カーシュナーは逃げるように先へと進んだ――。
重い沈黙のまま歩を進めていくと、別の男たちが現れる。
「何をそんなにむくれているんですかい?」
「うるさい。黙れ。殺すぞ」
そんな様子のリードリットを見逃すはずがないシヴァが、さっそくからかおうと声をかける。だが、シヴァの何気ない言葉に、ロンドウェイクと対峙した時ですら見せなかった強烈な殺意が返ってくる。
これにはさすがのシヴァも面食らい、珍しくその後の言葉を呑み込んだ。
危険を察知したシヴァが、共にカーシュナーを待っていた二日酔いがひどいレオフリードと、レオフリード以上に呑んだはずなのに、その影響を微塵も感じさせないオリオンに、警告の視線を投げた。
なんとなく事情を察したオリオンが、不機嫌そうな顔を申し訳なさそうに歪めた。
そんな空気を変えようと、レオフリードが当初の目的であるカーシュナーとの別れに意識を向ける。
「お主には人生の向きそのものを変えられてしまったな。おかげで、大将軍などという身の丈に合わん責任を負うはめになった」
「退屈はせんだろう?」
カーシュナーではなく、オリオンが問いかける。ディックの店での大騒ぎで二人はすっかり打ち解けていた。
深酒の影響を微塵も見せない新しい友人に、レオフリードは苦笑いを浮かべると、その言葉を肯定してみせる。
「それまでの務めも意義深いものではあったが、そこに心底からの納得はなかったと思う。それはきっと、私の行動が自分の本意ではなく、これまでの貴族社会にあった因習を守らなければならないという盲目的な使命感から来ていたからだろう。幼子ではないのだ、真実何が正しいのかは、自身の目で見て知り、肌で感じて生まれた感情をもとに見極めなくてはいけなかったのだ」
オリオンに向けていた視線を、レオフリードはしっかりとカーシュナーに据える。
「目を開けたまま、白昼夢の中をさまよっていた私の視界を晴らしてくれたのは、カーシュナー卿、お主だ。私の人生に、本当の意義をもたらしてくれたこと、感謝する。この恩をお主は受け取ってはくれぬであろうから、お主が救い守った人々に返させてもらうことにする」
レオフリードは視界だけでなく、曇りなく晴れた表情で笑うと握手を求めて手を差し出した。
笑顔で握り返された手の平の感触に、レオフリードは小さくない驚きを感じていた。
先程カーシュナーと握手を交わしたブレンダンとジィズベルトの手も、鍛錬の成果でまめだらけだったが、カーシュナーの手はそれに勝る、鍛えられ、叩上げられた硬い手をしていた。
知将という印象を抱いていたレオフリードは、己の認識を改める。
そして、表には出さず、心の中でさらなる努力を誓う。
カーシュナーが与えてくれる影響は、常に人を前に進ませる。その行動のすべてが、はるか先に定めた目標にたどり着くためだからだろう。
レオフリードは離した自らの手を、強く握りしめた――。
「長かったはずなんだがな。不思議とそんな感じがしない。むしろ一区切りついてしまったことが寂しいくらいだ」
オリオンが王都に視線を向けながら、ため息をつくように言う。
この場に居る人間の中では、カーシュナーとの付き合いが最も長いのはオリオンであった。
クロクスの懐刀であった私兵団団長アイメリックに勝利した時も、共にいたのはカーシュナーだった。
積み上げられた思い出は、カーシュナーと出会うまでの人生をすべて積み上げても、到底及ばない。
むしろ、カーシュナーと出会ってからが、オリオンの人生の始まりだったのだ。
カーシュナーが各地でいろいろなことを仕込んでいる間に、オリオンは王都とクライツベルヘン領を行き来し、互いの役目を果たしていた。共に過ごした時間はそれほど長くはなく、二人は一枚の布を織りあげる縦糸と横糸のように、平行に並び合うのではなく、交差し、重なり合い、いくつもの交差する点の数を増やしていくことで、互いに対する理解を深めていった。
口下手な自分の気持ちを、上手く伝えられない本人よりも深く理解し、くみ取ってくれた。カーシュナーはオリオンに、理解される喜びを教えてもくれたのだ。喜びが他人とのつながり方も教えてくれた。
友であり、師でもあり、何より、共に死線を越えた仲間だった。
「正直に言えば、国のことなどどうでもいいのだ。お前が新たな戦場で、より困難な状況と戦うのならば、俺はお前と一緒に戦いたい。駄目か?」
「駄目だ。裏に回り影となる必要がある戦場では、お前の力が十全に発揮されることはない。それは大いなる損失でしかない。だから俺はお前を表に出したんだ」
オリオンの真摯な言葉を、カーシュナーは一瞬の逡巡もなく跳ね除けた。
オリオンが苦笑を浮かべる。
「こっちで俺が全力で戦う必要があると言えるか? レオフリードもシヴァもいるのだぞ?」
「おまけに軍師としてライドバッハ様がいる。それほどの状況であっても、お前はこの国の最前線に必要になる」
断言するカーシュナーに、オリオンは器用に片方の眉をあげてみせた。
「つまり、俺も退屈はしないということか?」
「そんな軽口を叩いていられるのも今の内だ」
「お前がそこまで言うのなら仕方ない。表の世界で目一杯働いてやるとするか」
「ヴォオスを任せる」
「任された」
そう言うとオリオンはカーシュナーに対して拳を突き出す。応えたカーシュナーが自身の拳をオリオンの拳に合わせると、互いに手を取り合い、かなりの勢いでお互いを引き寄せると、肩と肩をぶつけ合った。
「さらばだ」
「ああ、さらばだ」
言葉を交わす二人の目は、わずかに潤んでいた。
二人とも、意外なことに涙もろいところがあるのだ――。
オリオンが一歩退くと、顔中でにやにやと笑ったシヴァが進み出て来た。
「最高に面白かったな」
「そうだな」
そこで二人の会話がぴたりと止まる。
語り始めてしまったら止まらないことを、二人ともわかっているからだ。
付き合いは短い。だが、その短い時間はどちらにとっても濃密な時間だった。
退屈なだけだった人生の風景を、シヴァはカーシュナーによって変えられた。
カーシュナーも、見たい景色にたどり着くために、シヴァに支えてもらった。
カーシュナーにとってシヴァは、この大博打とも言える一連の流れの中で、無条件に頼ることが出来た唯一の存在だった。
オリオンとの間にある絆とはまた違う、言葉では表せない繋がりだった。
お互いが、こいつとならどんな悪ふざけも押し通せると感じていた。
それが周囲にとってどれほどはた迷惑な話かは別として。
全力で一緒に馬鹿をやれる相手に巡り合ったのは、お互いが初めてだったのだ。
賭けに近い困難な任務のすべてを笑い飛ばせたのも、お互いがいたからだろう。
これから先の人生に退屈はないだろうが、この密度の濃い短期間に得られたような満足は、もう手に入らないのかもしれない。
それは最高に盛り上がった祭りの終わりのような寂しさに似ていた。
「また、面しれえこと……しよ、ぜ……」
こみ上げる感情に、シヴァが言葉を詰まらす。
「そう、だ……な。面白い……」
答えようとしたカーシュナーも、途切れてしまう言葉をどうすることも出来なかった。
そんな二人の隣では、先程涙腺をゆるませてしまったオリオンが、堪え切れなくなって涙腺を決壊させている。
それを見たレオフリードが、青く広がる空を見上げて、瞳に限界まで溜まった涙がこぼれ落ちないように堪えていた。
「お前ら阿呆か」
そんな男たちの様子を、錆びついた鉈で薪を割るように、リードリットが一刀両断する。
「ここでそれ言うかね!」
それまでの涙もどこへやら、シヴァが猛然と抗議する。
「心がない。人でなし」
なかなかにきつい切り返しをしたのはオリオンだった。
「…………」
さすがに呆れて言葉もないのはレオフリードだ。
「ブス」
聞こえないように蚊の鳴くような声でボソッとつぶやいたのはカーシュナーだった。
「誰がブスだっ!! ゴルアァァアアッ!!」
もはや何を言っているのか聞き取れないくらいの巻き舌で吼えると、リードリットはカーシュナーに襲い掛かった。
「なんで聞こえるんですか~!」
間抜けな抗議の声を上げながら、必死の形相で逃げるカーシュナー。
「戻ったらディックの店に行こうぜ、カーシュ!」
遠ざかる背中に、シヴァは明るく声をかけた。
「お主にも食べさせたい物がある! 早く戻れよ!」
そう言って手を振ったのはレオフリードだった。
「その後で、アダの店で飲み明かすぞ、カーシュ!」
最後に大声で叫んだのはオリオンだった。
三人は名残り惜しげにいつまでもカーシュナーが逃げ去った方を眺めていた。
遠くで「あだぁっ!!」という悲鳴が響く。
「あ、死んだ……」
その声を聞いたシヴァが、何故か嬉しそうにつぶやいた――。
ぐったり死に体となり、リードリットにずるずると引きずられていたカーシュナーに、とどめではない一撃が落とされる。
何事かと顔を上げたカーシュナーだったが、ごみでも捨てるように放り投げられ、ベシャっと地面に突っ伏した。
それでものろのろと起き上がるカーシュナーに、人一倍元気のいい声が掛けられた。
「カーシュナー様!」
顔を上げ、そこに長旅の準備を済ませたミラン、モラン、イヴァンの三人の姿を認めると、カーシュナーはせっかく上げた顔を再びがっくりと落とした。
「お前ら……。やっと苦労が報われたんだから、ヴォオスでゆっくりと今後の人生設計しろよ……」
自分について来る気満々の三人に、無駄と知りつつもカーシュナーは説得を試みる。
「あんたの半分も世界が見渡せるようになれば、どこへ行って何をしようと上手くやれるはずだ。俺たちは奴隷生活が長過ぎたせいで世間に疎い。それをあんたから学ぶために、俺たちはついて行く。手伝うのはついでだ」
まわりくどい言い訳をイヴァンがする。あくまで自分自身のための行動ということにして、カーシュナーに精神的な負担をかけないようにしようというつもりらしい。
不器用なりの配慮に、カーシュナーは苦笑するしかなかった。
「俺は、カーシュナー様についていきたいからついて行きます!」
こちらはどこまでも真っ直ぐなミランだった。
「あ~、そうだな。お前さんはそれでいいよ。今はまだ正直でいろ。腹芸を身につけるのはまだまだ先で良い」
カーシュナーはあっさりさじを投げた。こういう時、状況から先が読めてしまうのも困りものだ。説得するだけ無駄だとわかってしまう。
「カーシュナー様。俺は、商業について本格的に学びたいと思っています」
南方民族出身で元奴隷のモランが説明する。
「俺たち南方民族が奴隷としてさらわれる背景には、ゾンやヴォオスなどと比べると、著しく文化水準が劣っていることも、その一因だと思うのです。ゾンの人狩りからすれば、南方民族は同じ人間ではなく、獣と同等という考えがあります。家畜を所有することはよくて、どうして奴隷の所有がいけないのか、本気でわかっていません。まず、その考えの根底を覆すためにも、俺は故郷の文化水準を上げ、周辺国と対等な外交交渉が出来るだけの組織化を図りたいと考えています。そのためにはこれまでのような物々交換ではなく、他の国でも通用する貨幣制度を採り入れ、貨幣という大陸共通の価値観を人々の間に確立したいのです。これまでのような、部族同士で争い、欲しいものを奪い合うような、それこそ獣と変わらないような因習を、俺は壊したいんです」
「ものすごくちゃんとした理由だ!!」
カーシュナーとリードリットが驚愕に目をむく。決してモランを低く見ていたわけではないのだが、幼少期のころにゾンの人狩りにさらわれ、以降奴隷として過ごしてきたモランには、教育を受ける機会など当然なかった。もちろん文字も読めない。
「陛下の護衛をしていた際にライドバッハ様がお声をかけくださいまして、相談したところ、文字の読み書きを学ぶ手配と、俺の目的に沿った基本教養を身につけるための文献の選定を行ってくださったのです」
驚く二人に、補足として説明を付け加える。
「さすがと言うか、怖いと言うか、何もかもお見通しってわけか。モランが上げてくれた問題点は、俺も手を打つ手配をしているところなんだ。モランがそこに加わってくれれば心強い」
カーシュナーの言葉に、モランが恐縮する。
「ライドバッハも確かにさすがだが、モラン、お主この短期間で文字を読めるようになったうえに、そこまでの知識を身につけたのか。ほんとうにすごいのはお主だな」
リードリットがひたすら感心する。
ミラン、モラン、イヴァンの三人は、暗殺未遂以降もリードリットの護衛として、赤玲騎士団と共にリードリットの身辺に常にいた。ということは、交代で取っていたわずかばかりの休憩の際に勉学に励んだことになる。寝る間などなかったに違いない。
リードリットからも手放しで称賛され、さらに恐縮するモランの背後に回ったイヴァンとミランが、俺たちの立場がないだろうとばかりに肩をぶつける。
そんな二人に何度も頭を下げるあたり、モランの人の良さがうかがえた。
「お主ら三人がついて行ってくれれば、残る我らも安心していられる。ダーンだけではこの馬鹿のおもりは負担が大き過ぎるからな。お主らはダーンを助けてやってくれ」
リードリットの言葉に三人はもっともだと言わんばかりにうなずいた。
「陛下……」
「うるさい! 貴様の言い分など聞かん! 貴様が無茶をせずにおれるというのか? 無理であろう。であれば、信頼の置ける者をそばに置くのは当然だ。ダーンを助けると思って黙って受け入れろ!」
「もう受け入れていますよ。確かにこの三人が来てくれるのはありがたいですからね。しかし、こちらは大丈夫なのですか?」
「こちらのことにまで気を遣うな。五大家ともいざというときの対応は協議済みだ。人材は何とかなる。安心いたせ」
「では、お言葉に甘えるとしますか」
そう言うとカーシュナーは、三人に向けてニヤリと笑って見せた。
これを受けて表情が引きつるかと思われたが、三人ともニヤリと笑って返す。かなりカーシュナーの悪い影響が浸透してきた証拠だ。
「おいっ! カーシュ! ちょっと来い!」
「何ですか? 痛いことしないでくださいよ」
呼ばれたカーシュナーが嫌そうに近づいて行く。
リードリットの手が伸び、カーシュナーの唇をつまんでぐいっと引っ張った。
リードリットの指からすっぽ抜けた唇が、バチンと音を立てる。
「よし! むしってやったぞ!」
唇を腫らしてのたうち回るカーシュナーに、リードリットが勝ち誇る。
「陛下の力でむしられたら、冗談抜きで唇が千切れるからやめてください!」
カーシュナーが当然の抗議をする。
「うるさい! もう行け! さっさと行け! もったいつけるな! 惜しまれているうちが花だぞ!」
「別にもったいつけていたわけじゃないんですがね。でも、確かに誰かさんのおかげでみなさんとあいさつすることになって、出発が大幅に遅れていますし、行かせてもらいます」
実際は唇が腫れているので、もう少し不明瞭な言葉になっている。
そんなカーシュナーを指さして、リードリットはげらげらと笑った。
「陛下……」
カーシュナーが姿勢を正し、礼の言葉を述べようとする。
「礼は要らん。言いたいことが山ほどあるのは私の方だ。だが、お互いそんな言葉を口にし合うのは、どう考えても照れくさい。お互いの胸の内にしまっておこう」
「そうですね。ど~~~~考えても照れくさいですからね」
いつものニヤリ笑いではない、心底から嫌そうな苦笑いを浮かべながら、カーシュナーが言った。
「カーシュ。帰ってこなくてもかまわんからな」
リードリットがニヤリとしながら言う。
言葉の意図が読み切れないカーシュナーが怪訝そうに眉をしかめる。ただし、嫌な予感だけはする。
「二、三年の内に、必ず貴様を見つけ出して見せるからな」
「ヴォオスをどうなさるおつもりですか?」
嫌な予感が膨らむ中、外れてくれと願いながらカーシュナーがたずねる。
「ルートルーンに王位を譲位し、隠居して貴様の元に押しかけてやるからな!」
「おおおおっ!!」
ミランとモランとイヴァンが歓声を上げて拍手する。
「喜ぶなお前たち! ア~~~聞コエマセン。ワカリマセン。強ク殴ラレ過ギテ記憶ガ順次失ワレテイキマス……」
三人をしかりつけると、カーシュナーは壊れた荷車の車軸がきしるような声で感情のない言葉を繰り返した。そして両耳を押さえて全力で逃げ出す。
「ま、待ってください!」
ミランたちが慌てて追いかける。
去り行く四人の背中を、リードリットはまるで悪人のような高笑いで見送った。そうしていないと、震えだそうとする声を抑えつけておけなかったからだ。
その高笑いに応えるようにカーシュナーの笑い声が響いてくる。
その声も次第に遠ざかり、大気の中に溶けてついには何も聞こえなくなった。
空に向けて上げられていた顎ががくりと落ち、リードリットはぽつりとこぼした。
「……ありがとう」
それ以上はあふれる涙に邪魔されて続かなかった。
「……ありがとう」
同じように、先程言えなかった感謝の言葉をカーシュナーが口にしたことを、終わらない冬の呪縛から解き放たれたヴォオスの暖かな大気だけが知っていた――。
数多くの素晴らしい作品がある中で、ヴォオス戦記のために貴重なお時間を割いていただき、誠にありがとうございました。
物語的には、カーシュナーとオリオンの出会いを描いたものや、今後のヴォオスを中心に巻き起こる大陸規模の戦乱などがありましたが、ヴォオス戦記はここで一旦幕を引かせていただこうと思います。
残念ながらウケなかったもので(苦笑)
今後はジャンルの違うショートストーリーものなどを一度はさみ、さらなるレベルアップを図りたいと考えております。
せっかく、なろう。で書いているのですから、一度くらいは転生ものを書いてみたい気もしますし、ヴォオス戦記以上に登場人物が多い架空歴史物の構想もありますので、続きが書けるかは微妙なところです。
カーシュナーとオリオンが出会ったヴォオス戦記の一年前のお話は、もしかすれば近いうちに書くかもしれません。
とにかく、もう少し一話ごとのボリュームを抑え、五千文字前後でまとめられるようになって、週に二、三回は投稿出来るようになりたいと思います。
今回はとにかく、途中で投げ出さず、ここまで書くことだけが目的だったので、読んでくださる皆さんに対する配慮が全く足りていなかったことを深く反省し、次に生かしたいと思います。
最後にもう一度、
ヴォオス戦記をお読みくださいましてありがとうございました。
以上です!
※17時にもう一話投稿しますが、こちらは人名録のようなものになっておりますので、興味のない方は間違ってお読みにならないようにお気を付けください。
11/24 誤字脱字等修正




