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ヴォオス戦記  作者: 南波 四十一
ヴォオス戦記・序
34/152

エピローグ ~分かたれる二つの道~ (その1)

 どうも、ヴォオス戦記を書いている人、南波 四十一です。

 ヴォオス戦記もようやく目的としていたところまで書くことが出来ました。

 今回も話が長くなってしまったため、二部構成でお届けいたします。

(その2)は15時ごろに投稿する予定です。さらにその後、17時頃に、ヴォオス戦記を書くに際し、メモ代わりに使用していた語録というか、人名録というか、そんな感じのものをおまけとして投稿しようと考えております。

 そちらは読まなくても何の問題もありませんので、本当に興味のある方だけ目を通していただければ幸いです。

 この話には、リードリットのイラストを貼り付けてみましたので、本編同様目を通していただければ幸いです。絵のレベルは大したことないので、寛大な気持ちで眺めてください。

 では、ヴォオス戦記の最終話をどうぞ!

 

 リードリットの勝利に合わせるかのように戦場に到着したレオフリード率いる元反乱軍が、貴族連合軍の背後を塞ぐ。

 頼みの綱であったロンドウェイクの敗北に、貴族たちは右往左往するのみであった。

「ク、クロクス様!」

「どちらにいらっしゃいます! クロクス様!」 

 貴族連合軍の実質的支配者の存在を思い出した貴族たちが、口々にその名を呼び、血眼になってその姿を探す。だが、見事な卵形をした頭はどこにも見当たらなかった。


 一人の貴族が、やみくもに逃げ出す。

 その配下の兵が戸惑いつつもその動きに従う。

 その逃走を契機に、貴族連合軍は一気に崩壊し、命を惜しむ貴族たちは、他人を押し退け、兵を盾にし、醜い逃走劇を始めた。


「各貴族の兵士たちよ! 武器を捨て投降せよ! お主らはその忠誠心に従いここまでよく戦った! その忠義見事であり、もはや十分だ! すべての罪は、ヴォオスの法を犯したお主らの主にあるのであって、お主らにあるのではない! お主らはそれぞれの領主の騎士である前に、ヴォオス国の臣民だ! 新王陛下は罪なき民を決して罰したりなどしない! これ以上主に付き従い、その罪を共に被ってはならん! 投降するのだ!」


 無秩序に逃走しようとする兵士たちに、レオフリードが呼びかける。その呼びかけは全体に広がり、貴族連合軍の兵士たちは次々と馬を降り、武器を捨てて投降を始めた。

 戦後処理はそのままレオフリードが受け持つことになり、ケルクラーデンの野を目指して進軍中のクライツベルヘン軍以外の五大家の軍に伝令の兵が出され、残りの四家が逃げた貴族たちの狩り出しを受け持つことになった。





 自然とリードリットを中心に、人の輪が出来上がる。挿絵(By みてみん)

 馬を降りたリードリットの隣にルートルーンが立ち、共に倒れた父を見下ろしていた。 

 意識を取り戻したロンドウェイクが、全身の痛みにうめき声を上げる。そして、憎しみに満ちた眼差しでリードリットをにらみ上げた。


 まるで影のようにカーシュナーがリードリットの足元に進み出て、抜身の短剣を差し出す。

 聖水により清められた、高貴な身分の者が自決する際に用いられる短剣だ。

 リードリットはカーシュナーとの約束を守り、ロンドウェイクを殺さず、その最後を潔く終わらせる機会を、これから与えるのだった。


 ルートルーンの奥歯が強く噛みしめられる音が、リードリットの耳に届く。

 理性で心情を整理しても、これまでの十四年間で積み重ねられた親子の交流が納めきれるはずがない。特に人一倍心根の優しいルートルーンが、親子の情をそう簡単に切り捨てられるわけがないのだ。

 それでも、ロンドウェイクを許すことは出来ない。それは王家の在り様を揺るがすことになる。そうなれば、今度こそ本当に、五大家とライドバッハが王家の廃絶に動き出す。


「ルートルーン。無理に立ち会わなくて……」

「立ち会わせてください。これが本当に最後なのです」

 ルートルーンを想ってかけられたリードリットの言葉は、ルートルーンの強い意思表示によってさえぎられた。

 リードリットはそれ以上何も言わず、ただ黙ってうなずくと、ロンドウェイクに真っ直ぐ視線を向けた。


「ロンドウェイク。せめてもの情けだ。捕らえられた追いはぎのように、誰かに処断されるのではなく、自らの手で、その人生を終わらせるが良い」

 そう言うと、リードリットはカーシュナーから受け取った短剣を差し出した。

 憎悪だけが渦巻くロンドウェイクの視線が、リードリットから短剣へと流れる。

 もはや意識は正常に機能していないのかもしれない。

 ロンドウェイクは糸で操られる人形のように、意思を感じさせない動作で無造作に短剣を受け取る。

 聖水で清められ、寒気で表面が凍りついているが、それでも鏡のように磨き上げられた刀身が、見つめるロンドウェイクの顔を映し出す。


 首を斬るのだろう。衣服の襟元を自ら開いていく。

 ルートルーンは一度だけ目を伏せると、意を決して目を見開き、父の最後を目に焼きつけるべく、腹に力を入れた。

 ロンドウェイクは高々と短剣を掲げると、刃を自分に向けて返した。

 刀身が再びロンドウェイクの瞳を映す。

 そこに映った瞳は、憎悪で濁りきり、真っ赤に充血した目が、言われるままに自決しようとしている自分自身を嘲笑っていた。


 突如としてロンドウェイクの全身から憎悪が吹き上がる。

 と、同時に、一度は自身に向けた刃を、再び返してリードリットに向ける。

 もはや言葉にならない叫びがロンドウェイクの喉からほとばしり、短剣が振り下ろされる。


 当然こうなることは誰もが頭の片隅に置いていた。

 リードリットの手が剣の柄に伸びる。

 それより早く、ルートルーンがリードリットに斬らせまいと剣を鞘走らせる。

 シヴァもオリオンも、すでに剣を抜き放っていた。


 だが、誰もが剣を手にした瞬間、ロンドウェイクの首は地に落ちていた。

 その後を追うように、大量の鮮血が、頭を失ったロンドウェイクの身体から、噴水のように噴き上がり、自分の首を斬りおとした人物に、最後に唾するかのように返り血を浴びせかける。


 血の噴水の向こう側から現れたのは、カーシュナーであった。


 短剣をリードリットに差し出した後、カーシュナーは一歩身を引いていた。ここは自分が前に出るような場ではないと理解している者の行動だった。

 リードリットの意識の中から、この時点でカーシュナーは消えていた。当然ルートルーンにカーシュナーを意識しているような余裕はなかった。


 盟友であるシヴァとオリオンの二人も、表舞台に出ようとしないカーシュナーの意図を理解していたため、ここで退くカーシュナーを当然と受入れ、意識から外し、リードリットの護衛は自分たちが請け負う意志で身構えていた。


 この場に集った人々の意識の影に滑り込んでいたカーシュナーが、ロンドウェイクを斬ったのだ。


 誰よりも早く――。


 カーシュナーの普段は伏せて隠されている翠玉の瞳が、硬い光を放ちながら、リードリットではなく、その隣に立つルートルーンを凝視する。


 あなたの父を殺したのは私だと、翠玉の瞳が語る――。


 ルートルーンは不意に悟った。

 このすべてが、たとえ今は除名されていようとも、王族であり、王弟であり、何よりルートルーンの父親であるロンドウェイクを死に至らしめた者としてのごうを、このいくさの戦後処理が終わった後に王都を去ることになるカーシュナーが背負うために仕組まれたことだったのだ。


 ロンドウェイクが最後の瞬間、潔く自決などせず、手にした短剣をリードリットに対して向けると確信していたに違いない。

 そうでなければあれほどの遠間から、誰よりも早く剣を振るうことなど出来なかったはずだ。

 事実、カーシュナーは確信していた。王族の自決には、刃物よりも苦しまずに死ねる毒が用いられることの方が多い。除名されたとはいえ、最後に情けをかけるなら、その身を傷つけさせないという意味でも毒を与えることも出来た。


 だが、その場合、ロンドウェイクが毒をあおり、自決したとしたら、ロンドウェイクを死に至らしめたのは、リードリットということになる。

 ロンドウェイクは死なねばならなかった。

 だが、その死に直接かかわるのが、リードリットやシヴァ、オリオンやレオフリードであってはならない。ましてやルートルーンであることなどもってのほかだった。

 今後のヴォオスを支えるべき人物の誰も背負ってはならないごうなのだ。


 ルートルーンは決してそのことを心の中でしこりとすることはないだろう。だが、斬った側はそうはいかない。もしリードリットが手を下すことになれば、ルートルーンとの関係に微妙な影を落としたはずだ。

 それは、シヴァやオリオンでも同じことであった。


 自分が背負うために、毒ではなく短剣を差し出し、そして斬ったのだ。

 最後に刃をリードリットに向けることになったロンドウェイクは、むしろカーシュナーがロンドウェイクを斬る口実を作るために短剣を持たされたのだ。


 だからこそカーシュナーは瞳で語ったのだ。あなたの父を殺したと――。


 言い訳をしようとしないカーシュナーの翠玉の瞳を、吸い込まれるような思いで見つめながら、ルートルーンの口から言葉がこぼれる。

「……あなたはどうしていつも、ご自分だけが背負おうと……」

 ハッと気づき、言葉を呑み込む。


 ルートルーンはただ、カーシュナーに対し、深く頭を下げて感謝の想いを伝えた。

 自分と、自分を囲む人々との間に横たわるはずだった溝を埋めていってくれたことに対して――。


 シヴァとオリオンも、友の想いに対して何も言わず、ただ受け止めた。

 

 この場に集ったすべての人々が、カーシュナーの意図を汲み取り、無用な言葉など挟むことなく受け止めた。


 ただ一人を除いて――。


「どうしてだ!!」


 震えるような声で絶叫したのは、リードリットであった。


「どうして貴様が背負わねばならん!!」


「これまで多くのものを背負ってきたではないか!!」


「もう十分であろう!!」


「私にも、背負う覚悟は出来ていた!!」


「どうしていつも貴様ばかりが、苦い思いを背負わねばならんのだ!!」


 感情が先走り過ぎて、言葉が途切れ途切れになる。そして最後にはカーシュナーの胸ぐらをつかみ、本気で締め上げていた。

 それは怒りではなかった。

 人を気遣い、思いやる心が、痛いほど伝わり、心を揺らすのだ。

 ルートルーンを、シヴァを、オリオンを、そして他のすべての人々を――。

 そして誰よりも、リードリットのためを思っての行動であるということが、感謝の気持ち以上に、胸を締め付ける切なさとなってリードリットを揺らしたのであった――。


「これだけは譲れません」

 締めあげられながら、カーシュナーが言葉を紡ぐ。

「たとえ陛下がお相手でも、このごうだけは譲るわけにはいかなかったのです」

 言葉は固かったが、響きにはいつものからかうときの気安さがあった。


 締めあげていた手から力が抜ける。

 リードリットはそのままカーシュナーの胸に頭をつけると、うつむき黙り込んだ。


「誰も必要とはしてくれなかった。お前だけなのだ。命を賭けてまで、私を必要としてくれたのは……」

 そのつぶやきは、カーシュナーの耳にだけ届いた。

「アナベルがいた。赤玲騎士団の仲間たちもいた。だがな。貴様だけだぞ。私を王女ではなく、一人の人間として扱い、気遣ってくれたのは……」


「本当は不敬罪に当たるんですが、まあ、陛下ですから。かまわないでしょう? これからも私は、今までと同じように陛下を扱います。私は変わりません」

 リードリットの耳元に、カーシュナーは軽口をささやいた。

 答えは腹部への右拳だった。

 予期していたのであろう。人の身体とは思えないような硬い手ごたえが返ってくる。


「顔をお上げなさい。いつまでもうつむいているなど、私の陛下には似合いませんよ」

「……誰が貴様の陛下だ。調子に乗るな」

 もう一発右の拳が叩き込まれる。

 それでもリードリットは顔を上げることが出来ない。


「ぎゃあ!!」

 そのとき、リードリットが頓狂な声を上げて飛び上がった。

 カーシュナーがリードリットの尻の肉をひねりあげたのだ。

 まぎれもない不敬罪に、その場の全員が明後日の方を向き、見ない振りをする。


 リードリットが肺一杯に息を吸い込み、思い切り怒鳴りつけようとしたとき、リードリットは空の一点を見つめて息を呑んだ。

 おかげで盛大に咳き込む。

 怒鳴られるつもりでいたカーシュナーは怪訝に思いつつも背中をさすってやる。

 その手を邪険に払ってリードリットは空を指さした。


「雲が晴れておるぞ!」

 リードリットの言葉に、全員が空を振り仰ぐ。

 そこには、ぶ厚い雪雲を、巨人の手で殴りつけたかのような大穴が開き、この二年間見ることのなかった青い空が顔をのぞかせていた。

 その穴から差し込む日差しには、初夏の暖かさがあった。

 歓声ともどよめきともつかない声が上がる。


「……終わったのか?」

 誰かがつぶやいた。

 ケルクラーデン会戦の終わりは、終わらない冬と言われてきた異常気象の、終わりの始まりだった。


 歴史書に記されることはないが、ヴォオス国民の間に広がり、長く語り継がれることになる逸話にこのようなものがある。


 中興の祖として名高いリードリット女王陛下は、歴史上最初の女王であり、その身に炎をまとい降臨した戦女神の化身であった。

 栄華に酔い、民衆の血税をすする愚劣な王族貴族に次々と天罰を下し、歴代の王の中で誰よりも高貴な身分を持つ者たちの血にまみれた手で、力無き人々を救い上げた断罪の女神でもあった。

 その広く大きな救いの手は、ヴォオスのみならず、この大陸全土をも救い上げた。

 その炎のごとき紅の御髪は、世界を終わらせようとしていた冬を、大陸の北の果てへと追いやるために大神から遣わされた使者の証であり、最後の戦い、<ケルクラーデン会戦>の終わりに、女神としての最後の役目として、終わらない冬の空に大穴を空け、世界に二年ぶりの春をもたらした――。


 春は南風と共にやって来る。

 それは大陸に暮らす人間であれば、幼子でも教えられなくてもわかっている常識だった。

 だが、二年ぶりに訪れた春は、ヴォオス中央から円を描くように広がっていった。二年以上も冬が居座り続けた異常気象は悪魔掛かっていた。人々の間では、ウィレアム一世と、五大家の初代たちによって滅ぼされた魔神ラタトスの復活の前兆なのではないかと噂する声もあった。

 それだけに、空に開いた穴から光と共に暖かい空気が流れ込み、冬を押し退けて行くという現象は、誰の目にも神掛かって見えた。


 真実は誰にもわからない。

 それはただ単に、異常気象が異常な回復の見せ方をしただけなのかもしれない。

 だが、人々はそうは受け取らなかった。多くの人々が苦しんでいるとき、それを顧みようとしない支配者たちの中からただ一人敢然と立ち上がり、圧倒的劣勢から、すべてを倒し、押し退けて、人々を救済してみせたリードリットを、厳しさとやさしさを併せ持つ救いの女神と崇めた。そして、終わらない冬に開いた大穴を、女神の奇跡として信じたのだ。


 歴史はリードリットの名を語る。

 その治世を支えた数々の名将、知将の名と共に――。

 だが、その中にカーシュナーの名前はなかった。

 リードリットの中に、厳しさとやさしさを植え付けた男の名前は――。









「もう動いて良いのか?」

 いまだにどこかぎこちない動きを見せながらも、自らの足で王宮へ出仕して来たエルフェニウスに、矢傷を与えた張本人であるミヒュールが声をかける。


「階段がまだ少しつらい。だが、国の救済に皆が忙しく立ち働いているというのに、いつまでも休んではおれん」

 軽く息を切らせながら、だがしっかりとした声でエルフェニウスは答えた。

 <豚の尻尾>での敗戦も、自身が重傷を負わされたという事実も、不思議とエルフェニウスの中にミヒュールに対するわだかまりを生まなかった。

 あれは自分の負けだ。

 自分を苦しめた重石のような敗北も、今は自然と自分の中に納まっている。


「お主が来てくれて助かった。正直事態が俺の手には余りだしていたのだ。助けてはくれまいか?」

 こちらにも、<豚の尻尾>での勝利という結果はまるで残っていない。あれだけの力で自分を突き動かしていたエルフェニウスと雌雄を決したいという気持ちも、とうの昔にしぼんでしまっていた。


 この時代を代表する二人の天才は、自分たちがあくまで人の領域で測れる範囲の天才だったのだということを思い知らされていた。それは、<ケルクラーデン会戦>の後に、事の顛末のすべてを、なぜかシヴァから聞いて知ったからだ。 


 ライドバッハの真実も、それすら上回ってみせたカーシュナーの賭けも、自分たちには及びもつかないことであった。

 ライドバッハとカーシュナーが己の目的のためにどれだけ身を削ったかを思うと、エルフェニウスもミヒュールも、互いの能力の優劣を競うことに意識の中心を持って行かれた時点で、見渡せる視線の先はたかが知れていたのだ。

 ライドバッハとカーシュナーの視線は、今よりもはるか先を見通すために、誰よりも高みへとその身を押し上げていたのだ。


 だからと言って腐るつもりは二人とも毛頭ない。

 エルフェニウスとミヒュールの力が、ヴォオスにとって本当に必要なのはこれからなのだ。


「追いつけぬほど遠い背中だと思うか?」

 ミヒュールが問いかける。

「まさか。わかりやすい目標が出来て丁度いい」

 エルフェニウスは不敵に笑って答えた。


 終わらない冬の終わりは、自然災害の終わりであったが、それは同時に深い雪に閉じ込められていた近隣諸国の野心家たちによる人災の始まりでもあった。

 時に共に、時に個々で、二人はヴォオスの戦場を駆け巡り、後のヴォオスの歴史にライドバッハに並ぶほどの功績を刻むのであった――。









 冬の終わったヴォオス国の王都ベルフィストにあるヴォオス軍練兵場で、ブレンダンとジィズベルトは厳しい修練を積んでいた。と言っても両者ともに負傷から明けて間がないため、極限まで自分を追い込むわけにはいかず、まだ馴らしの段階であった。

 ここで無理をすることは、自己管理も出来ない小僧っ子のすることだと理解はしているが、自分たちに指導をしてくれている人物のことを思うと、焦らずにはいられなかった。


「動きが雑になって来ておるぞ! 疲れた時こそ基本を大事にせい!」

 二人を焦らせる指導者の声が練兵場に響く。

 ブレンダンとジィズベルトだけでなく、両者の率いる軍の主だった騎士たちも修練に参加している。指導者の声以上に大きな返事が、練兵場に響いた。


 その声に、片腕片脚の老人が満足気に耳を傾けている。

「もう出歩いているのか? どんな身体をしておるのだ……」

 職務の合間を縫って、息抜きがてらに練兵場に顔を出したゴドフリートが呆れて問いかける。

「どんな身体かだと? こんな身体に決まっておろうが!」

 問われた老人は楽しそうに悪態をついた。


 それは、<豚の尻尾>でエルフェニウス率いるブレンダン・ジィズベルト連合軍に敗れ、ジィズベルトによって右腕を斬りおとされ、左足をブレンダンの愛牛によって刺し貫かれたアペンドール伯爵その人であった。

 左足は骨を砕かれ肉も神経もズタズタにされてしまい、治療不可能な状態であったため、せめて命だけでもつなごうとしたアペンドール軍の軍医により切断されていた。

 幸いその判断が功を奏し、死んだものとばかり思われていたアペンドール伯爵は、今こうして復活を遂げたのであった。


「こんなでたらめな身体があってたまるか! いい歳をしたじじいが、片腕と片脚を同時に失って、どうして死なんのだ! 貴様本当に人間か!」

「いかにも、いかにも! 普通なら血が足りんで死ぬものなんだがな。どういうわけか死ななんだ!」

 アペンドール伯爵に比べれば、はるかに軽傷だったブレンダンとジィズベルトが何とも言えない表情になる。

 自分たちがつい数か月前まで確かに持っていたはずの武人としての誇りは、無精者の家の隅に積もった埃並に吹き飛ばされてしまっていた。


「ブレンダン。ヴォオスは強兵の国というが、どう考えても人外の者が多過ぎるぞ!」

「まったくだ。ヴォオス一の強者とうぬぼれていたころが、恥ずかしいのではなく、懐かしくすら感じるわい!」

 つい先ほどまで、レオフリードに稽古をつけてもらっていた二人は、シヴァ、オリオンに続いて、またもや一瞬で敗れ去っていた。それは、負傷明けという言い訳を差し引いても十分おつりがくるほどの実力の差であった。


「無駄口を叩いているとはたいした余裕だな、二人とも!」

 アペンドール伯爵のカミナリが二人に落ちる。

 二人は慌てて口をつぐむと、修練に戻った。

「お主らはわしが見込んだ男たちだ! わしが死ぬまでに、必ず一角ひとかどの武将に育て上げてみせるから、覚悟せい!」


 ブレンダンとジィズベルトの失われてしまって武人としての誇りが、今、再び一から積もり始めた――。









 王都の地下は有史以来最大規模の大掃除がなされた。

 かつての盗賊ギルドの本拠地だった場所は、徹底的に破壊された。

 それは意外なことに、治安軍兵士の手によってではなく、分派と呼ばれオリオンによって率いられた、かつての盗賊ギルドの構成員たちの手によってだった。


「何一つ残すな! すべて潰せ!」

 それは新たなギルドマスターとなったリタの最初の指令だった。

 <おきて>を破り、ギルドの誇りを捨てた元盗賊ギルドに対する怒りももちろんあっただろう。だが、それ以上にこの命令が下され、徹底されたことには裏があった。それはヴォオスの建国とほぼ時を同じくして誕生し、三百年近い歳月の間、都市伝説として語られてきた盗賊ギルドの存在が、ついに白日の下にさらされてしまったことが原因だった。

 

 誰の中にも比重の違いこそあれ、善悪の魂は存在している。ゆえに、大都市であるとか、小村であるとかに関わらず、悪人は存在し、日々の暮らしの陰にその身を潜めている。無垢な子どもでない限り、王都に暮らす人々は、当然そのことを理解している。それでも、普段自分たちが暮らす大陸最大規模を誇る王都ベルフィストの地下に、得体の知れない犯罪者たちの巣窟が、蜘蛛の糸のように張り巡らせれているという事実は、表の世界でまっとうに暮らす人々の心に不安の影を落とした。


 この人々の不安に、盗賊ギルドは壊滅したという印象を上書きするために、リタはかつての根拠地であり、地下競売場となり果てた魔窟を徹底的に破壊したのだ。 

 そこには当然カーシュナーの入知恵もある。


 ディルクメウス侯爵の孫娘、ベアトリーゼ嬢が救出された際、盗賊ギルドの徹底した壊滅と、地下水路そのものの封鎖ないし、厳重管理をディルクメウス侯爵が訴えたが、必要悪とカーシュナーに説き伏せられた経緯があった。


「盗賊ギルドがただの犯罪者の集まりではないことは理解した。<掟>とやらで無秩序に犯罪が行われないように、王都の裏側を支配していたということも納得しよう。本当なら犯罪を起こさせないようにするべきなのが筋なのだが、そうすべきはずの貴族や王族が特権を盾に己の罪を正当化して来た経緯がある以上、きれい事も言えん。だが、大丈夫なのか? また同じことが起きんと言い切れるのか?」

 ディルクメウス侯爵が苦虫を噛み潰したかのような表情でカーシュナーに詰め寄った。


「言い切れるわけないでしょう。でも、今回盗賊ギルドが<掟>を破るに至った経緯は、クロクスの強力な働きかけがあったからこそです。盗賊ギルドが自発的に無秩序化したわけではありません」

 カーシュナーの言葉に、ディルクメウス侯爵が唸り声で応える。


「過去にもこういったことは繰り返されてきたのです。その時代ごとの権力者が、自身の権力基盤をより強固なものにするために、盗賊ギルドを傘下に加えようと画策してきました。ですが、そのことごとくを跳ね除け、盗賊ギルドは三百年近い半独立を維持して来たのです。盗賊ギルドに<掟>を破らせようとするのは、常に我々の側なのですよ」


「……わしらの方がちゃんとしておれば、何の問題もないと言いたいのだな?」

「事実そうでしょう?」

 カーシュナーが悪い顔でニヤリと笑う。

「悪を呼ぶのは常に悪か……。肝に銘じよう。だが、一度狂ってしまった<掟>とやらの歯車は、再びちゃんと回るのか? リタという少女が並はずれた能力の持ち主であることは、孫娘を無事に取り戻してくれたことでよくわかったつもりだ。だが、女子おなご一人で盗賊どもを抑えきれるのか?」


「その辺はご心配なく。今でも私自身盗賊ギルドの一員ですからね。新しい盗賊ギルドがちゃんと回ることは、私が保証いたします」

 とんでもないことを、何故か自慢げに語るカーシュナーに、ディルクメウス侯爵は額を何度も叩くと天を仰ぎ、即座に十個は浮かんだお説教を呑み込んだのであった。


 新ギルドマスターであるリタが、その話を後でカーシュナー本人から聞いたとき、まず呆れ、次に大笑いした。

 カーシュにかかっては、盗賊ギルドも、王宮の実力者も手のひらの上なのだろう。


 王宮のとある豪奢な一室で、紅茶を飲みながら、リタは窓の外を眺めた。そしてふと思い、笑う。

 新盗賊ギルドの本拠地が、まさか王宮の中にあるとは誰も思うまいと――。


「カーシュのやることは本当に無茶苦茶だ」

 ヴォオス社会の裏の世界を牛耳ることになった少女は、繊細な香りを含む暖かな紅茶の湯気で頬をくすぐると、地下競売場で押収された禁制品をどう捌くかに思考を戻した。


「金に貴賤も善悪もない。どう使うかだよ」

 平気な顔をして押収品の処理をリタに一任したカーシュナーは、偉そうにそううそぶいたのを思い出す。

「まったく。あれで本当に貴族のぼんぼんなのかねぇ。金儲けの才能はあたしら以上だよ」

 つい独り言をつぶやいてしまう。

 だが、不平を口にしながらも、リタは作業の手を止めようとはしない。

 それによって得られる利益を、カーシュナーは孤児たちを養い教育するための費用に全額あてるつもりなのだ。


「世の中はきれい事で回っていないとは言え、どこまでも抜け目のない男だよ。って言うか、あたしじゃなくてあいつがギルマスやりゃあいいんだよ! まったく……」

 ぶつぶつとこぼしながらも、リタの顔は楽しげにほころぶのであった――。









「さぁて! 今日は楽しくやりましょうや!」

 シヴァの威勢のいい声が、広くもないディックの店に響く。

 本来酒場である<竜の角笛亭>は、陽もまだ高いというのに、多くの客で賑わっていた。


「景気がいいじゃないか、将軍様! たんと食っていきな!」

 店の奥から小柄な老婆が顔を出す。通称ディックの店で通っている<竜の角笛亭>の店主ディックの母親であり、ヴォオスの下町界隈では屈指の料理名人だ。

 ディックの店が繁盛しているのは、母親の料理の腕前に目をつけてこの店を出したディックの商才もあるが、なんと言ってもヴィクトリアおばあちゃんが作る臓物の煮込みの美味さがこの店の人気の秘訣だった。


 ディックとしては、夕方から夜中まで、母親の料理を餌に客を呼び込み、それ以外の時間を悠悠自適に過ごすつもりだったのだが、料理の評判があまりにも良すぎるため、昼間から店を開けるはめに陥ったのであった。

 生来働き者の母親に尻を叩かれ、愚痴をこぼしながらもディックもせっせと働いている。


「あんたも本当に変わっているよな。出世したんならそれなりの店に行きゃあいいのに、何を好き好んでいつまでもこんな下町の酒場に通ってんだよ」

 シヴァから事前に前金をたっぷりと受け取り、注文を受けていたディックが、シヴァの景気のいい声に合わせるかのように、酒と大量の臓物の煮込みをテーブルに運びながら呆れ半分に話しかける。


「何を好き好んでだって? ヴィクトリアばあちゃんの飯がお目当てに決まってんだろ! あと、あんたの酒選びも確かだしな」

 シヴァが臓物の煮込みから目を離さずに答える。

 普段母親の料理しか褒められないディックは、シヴァの何気ない一言に気を良くすると、「こいつは俺からのおごりだ」と言って、何やらとんでもない臭いを放つ発酵食品を差し入れてくれた。

 シヴァはとりあえず受け取ると、一度だけ臭いを嗅ぎ、得体の知れない発酵食品をテーブルの端に押し退けた。


「こういう所へ来るのは初めてだ」

 初めてという割に、意外なほどすんなりと周囲に溶け込んでいるのは、今やヴォオス軍の主柱である大将軍レオフリードその人であった。

 かつては全身の構成成分が<真面目>で出来ている、面白味のない人間の代表のように思われていたレオフリードも、クライツベルヘン家の兄弟と、新たに得ることになった戦友たちの悪影響・・・によって、すっかり人となりが変わっていた。


 真面目なのは今も変わらないが、ずいぶんと人間が砕け、よく笑うようになり、時と場合が許せば冗談すら口にするようになっていた。

 今もシヴァがテーブルの端に押し退けた皿を引き寄せ、興味津々で鼻を近づけている。

 そしてその香りを一息吸い込むと、派手にのけぞってみせた。


「……シヴァ卿。これは毒なのではないか?」

 思わずこぼれ出たレオフリードの一言が耳に届き、ディックが傷ついた顔をする。

「さすがに毒じゃないっすよ。この臭いに慣れればめちゃくちゃ美味いらしいんすけど、いかんせんこの臭いが……」

 さすがのシヴァも閉口する。ある意味これこそヴォオス最強かもしれない。


 この状況で、その皿に手を伸ばした勇者は、レオフリード以上に表情に乏しい男、オリオンだった。

 この男の場合、実際は表情が乏しいと言うより、顔の造りの関係上、常に<不機嫌>にしか見えないだけなのだが、口数が少ないため、人の目にはよけいに不機嫌に映るのだ。


 自分の前に引き寄せた皿に、鼻を近づける。

 一息吸い込み、下から鼻面を殴り飛ばされたかのような勢いでのけぞる。

 そのまま昇天せず、何とか戻ってきたときには涙目になっていた。

 元暗殺者アサシンであるオリオンは、時に毒を扱ったり、暗闇でも行動出来るように、五感のすべてが鍛え上げられている。一般人でものけぞるほどの臭気を放つ代物を、もろに嗅いだりすれば、受ける影響は何倍にもなる。


 だが、何を思ったのか、オリオンは涙目のままディックに向けて親指を立ててみせると、その発酵食品を口の中に放り込んだ。

「ばっ! よせって!」

 慌ててシヴァが止めるが間に合わない。


 オリオンが一口ごとに噛みしめるたびに、鼻から漏れた臭気が周囲に魔の手を伸ばす。

 その臭さに鼻をつまみながらも、シヴァやレオフリードだけでなく、他の客もオリオンがどうなるのか注目していた。

「ついに犠牲者が……」

 誰かがぽつりとこぼす。

 食べたらと死ぬと、本気で信じている客もいるようだ。事実そう思わせるほどの臭いなのだ。


 苦虫を鷲掴みにして口に放り込んだような顔をしていたオリオンの動きがピタリと止まり、うつむき震え始める。

「おい! 誰かおけ持ってきてやれ! 限界だって!」

「兄ちゃんよくやったよ! 無理すんな! 吐いちまえ!」

「その通りだ! 飲み込んだりしたら死ぬぞ!」

 好奇心から眺めていた客たちが、慌てて言葉をかける。


 震えが止まり顔を上げたオリオンの顔は、今まで誰も見たことがないほどの、至福に満ちたものだった。

「……顔面が壊れたのか?」

 シヴァが思わず問いかける。

 その問いには答えず、オリオンはまず初めにディックに向けて再度親指を上げてみせた。

 ディックも心底嬉しそうに親指を突き上げて答える。


「……ええっと、オリオン卿。もしかして美味いのか?」

 レオフリードが恐る恐るたずねる。

 これに対して、オリオンは無作法にも口臭を吹きかけることで応えた。

 思わず吸い込んでしまったレオフリードの口の端からよだれがあふれる。

 同様に、口臭の余波を喰らった他の客たちも、口の中に唾があふれ、殴られたかのような強烈な空腹を覚えた。

 全員が一斉にディックに視線を向ける。


「不思議なことに、噛めば噛むほど香りも味も良くなるんだよ」

「うそをつけ!」

「なんかやばい薬でも仕込んだんだろ!」

「さては禁制品か!」

 どや顔で答えたディックを、客全員が一斉に罵る。


「なんでそうなるんだよ!」

 ぶち切れるディックをみんなで笑うと、まずレオフリードが手を伸ばした。

 さすがにオリオンほど振りきれないので、鼻をつまんで口に放り込む。息をしないように注意しながら噛み続け、呼吸の限界まで我慢する。

 たまらず息を吸い込んだ次の瞬間、生真面目な表情が定番のレオフリードの顔面が崩壊した。


 一噛みごとに、一呼吸ごとに、至高の味と香りが味覚と嗅覚に幸福をもたらし、自然と頬が緩むのを止めることが出来なくなる。

「頬が落ちるとはこういうことか……」

 王宮や戦場では決して見ることの出来ないゆるみ切った顔でレオフリードが感想を口にする。

「……ああ、美味い」

 ようやく噛むのをやめて呑み込んだオリオンが、思わずため息のような感想をもらす。

 しばらく味の余韻に浸ると、オリオンは再びとんでもない臭気を放つ発酵食品に手を伸ばしたのだった。

 

 その様子を眺めていた他の客たちが、堪え切れなくなってディックに注文する。

「ふざけんな馬鹿野郎ども! 貴重品なんだ! 店なんかで出せるか!」

 ざまあみろと言わんばかりの表情で、ディックは注文を跳ね除けた。

 店中から不満の声が上がる。


「ケチくさいこと言うんじゃないよ! でも、確かに数はないからね。一人一つずつだよ!」

 息子の尻を叩きながら、ヴィクトリアおばあちゃんが謎の発酵食品を持って現れた。

 客たちが一斉に群がる。奪い合いになるかと思われたが、そこはそれ、全員ヴィクトリアおばあちゃんの顔を立てて行儀良く一つずつ手にしていく。


「なあ、あんたら! これってやっぱり……」

「息を止めて食え」

 レオフリードとオリオンが真剣な表情で助言した。戦場でもここまで表情を引き締めることは少ないだろう。それほどに始めは危険な臭いを放っているのだ。

 全員この助言を真摯に受け止めると深く息を吸い込み、互いに視線を交わすと一斉に口の中に放り込んだ。

 長い一呼吸の後、店中が弛緩しきった空気に包まれた。


「ほれ! あんたもおあがり!」

 店内でただ一人口にしていなかったシヴァに、ヴィクトリアおばあちゃんが最後の一つを差し出す。

「俺はこの臓物の煮込みで十分だよ。そいつはマジ勘弁」

 シヴァが苦笑いしながらヴィクトリアおばあちゃんの好意を謝絶しようとしたとき、二人の男がシヴァのたくましい両腕をガシッと押さえつけた。


「ご婦人の御好意をないがしろにするのはいただけんな」

 レオフリードがニヤリと笑って耳元でささやく。

「お主が連れて来た店なのだから、新しい味を知っておくべきだぞ」

 いまだに顔面が崩壊したままのオリオンが詰め寄る。

 そこに、母親が差し出した皿から発酵食品を取り上げたディックが、これ以上ないほどニヤニヤしながら近づいてくる。


「やめろって! いや、マジ! ほんと無理だから!」

 必死に抵抗を試みるシヴァだったが、さすがにレオフリードとオリオンに押さえつけられてはどうにもならない。

 わざとゆっくりと手にした発酵食品をディックが近づけて行く。 


「だからほんとマジ無理だから! 無理! 無理! 無理! 無理! 無理! 無理ぃぃいいっ!!」


 この日<竜の角笛亭>で、歴史的大事件が発生した。

 ヴォオス最強の男が本気で悲鳴を上げたのだ。

 それは後にも先にもこれ一度きりだったのだが、この歴史的出来事の本当の意義を知る者は、両腕を押さえてニヤニヤしているたった二人の人物だけであった――。









 二年以上に及ぶ長過ぎた冬が去り、ヴォオスはたった一週間だけの春を迎えると、季節は夏を迎えてしまっていた。

 あまりにも急激な気温の変化に、身体を弱くしていた者たちが次々と倒れ、その対応のために、リードリットの下で今後のヴォオスを支えて行くことになった人々は寝る間もないほどの忙しさの中にあった。


 ディルクメウス侯爵が医師や医薬品の手配に狂奔し、それを支えるべく、孫娘のベアトリーゼも忙しく働いていた。そんな二人を支えたのが、カーシュナーが地下競売場の実態をリードリットに見せるために潜入した日に競売にかけられ、奴隷として売り捌かれるという恐怖を体験したルティアーナであった。


 同じ境遇に遭い、心に一生消えない痛手を負ったにもかかわらず、それでも力無い人々と祖父のためにと懸命に働くベアトリーゼの姿に感銘を受けたルティアーナは、父であるハリンゲン伯爵の反対を押し切り、私塾を休学して王宮に出仕していた。

 美しさの中に強さと献身をあわせ持った二人はすぐに親友となり、二人の存在そのものが、修羅場と化した王宮に、一服の清涼剤となって執務に追われる人々の心を癒した。


 この想定外のはずの事態にもっとも早く対応したのがカーシュナーだった。

 それは終わらない冬が終わることを確信していたわけではなく、終わらない冬の始まりの時に、すでに想定出来る事態の一つとして対応策を用意していたのだ。


 あるとき偶然カーシュナーと顔を合わせた際に、ディルクメウス侯爵はたずねた。

「もし終わらない冬がそのまま終わらなかったどうするつもりだったのだ? お主は無駄になるとか考えんのか?」

 これに対しカーシュナーは恐ろしいことをにこやかに答えたのであった。

「冬が終わらなければ、人類のみならず、ほとんどすべての生物が死に絶えました。ですから終わったときの準備は無駄になるのではなく、すべてが無に帰しただけなのです。それが無駄だったと惜しむことすら出来ずにね」

 

 そうなった場合を想像して、ディルクメウス侯爵は青ざめた。

「惜しむことがないのなら、やればいい。ただそれだけだったので、特に迷いはしませんでしたよ」

 笑って答えるが、改めてカーシュナーという男の懐の深さにディルクメウス侯爵は言葉もなかった。


「お主の備えのおかげで、多くの民が救われた。感謝の言葉もない。それ以前の功績もそうだが、今回の功績も後世に語り継がれるべきものだ。今回の的確な対応を人々はわしの功績だと褒め称えてくれるが、正直心苦しい思いだ。お主の名を表に出せぬのが悔しいくらいだ。どうしても表舞台に立ってはくれんのか?」

 名誉を重んじるディルクメウス侯爵が、他人の功績を自分のこととして称えられることが重荷になることは十分わかっているカーシュナーであったが、こればかりは聞けない頼みであった。


「人にはそれぞれ役目というものがございます。私が成したいこと、そのために立つべき場所は、表舞台ではないのです。侯爵様にはご迷惑とは思いますが、どうか代わりに世間の目を引きつけておいてください。私にはどんな賞賛よりも、その方がはるかにありがたいのです」

 最大の功労者に、申し訳なさそうにそう言われてしまうと、ディルクメウス侯爵もそれ以上は言えなかった。


 知れば知るほど惜しくなる。まともな面識を持つようになってまだ日の浅いディルクメウス侯爵ですらそう感じるのだ。師匠に当たるゴドフリートや、ここまでの偉業を共に歩んだリードリットなどはディルクメウスの比ではないだろう。

 その二人がカーシュナーに対して引き止めるようなことを一言も口にしないのだ。これ以上の出過ぎた真似は、二人に対して申し訳なかった。


「一つお願いしてもよろしいでしょうか?」

 カーシュナーがたずねてくる。

 助けられるばかりで何一つ返せていないディルクメウス侯爵は、カーシュナーに頼み事をされたことに、年甲斐もなく驚くほど嬉しく感じている自分に苦笑せずにはおれなかった。

 リードリットが些細な頼み事でもわかりやすいほど張り切ってこなす気持ちが初めて分かった。

 自分はこの男のことを、心底信頼し、孫ほども歳が離れているにもかかわらず、尊敬しているのだと気がつく。それは不思議と晴れがましい気分にしてくれる発見であった。照れくさくて誰にも言えない事でもあるのだが――。


「近いうちに陛下を新規開発地区の視察に連れ出していただけませんか?」

「わかった。もともと陛下からも自分の目で現場をしっかりと見ておきたいとのお言葉も受けておった。近いうちに予定を組もう。だが、ずいぶんと変わった頼み事だな。そんなことでよいのか?」

「はい。兄のセインデルトに大半の監督を任せておりますが、私自身この目で進捗状況や働く人々の生活状況を確認したいのです。陛下にご報告したいこともございますので、時間を合わせられば助かります」

「あまり無理をし過ぎないようにな」

「ディルクメウス侯爵こそ、お体御自愛ください。陛下の戴冠以降働き詰めなのですから」

「その辺はベアトリーゼが管理してくれておるから大丈夫だ。だが、心遣いありがたく頂戴しておこう。ではまた、視察のおりに」

「よろしくお願いします」





 ディルクメウス侯爵から新規開発地区への視察の件を聞いたリードリットは、久しぶりにカーシュナーに会えることを、始めは素直に喜んだ。

 本人は上手く隠せているつもりのようだが、周囲には声に出して叫んでいるのと同じくらいだだ漏れだった。

 

 そんなリードリットを微笑ましく眺めつつ、気がつかない振りをしていたアナベルと近衛騎士となった赤玲騎士団だったが、リードリットが不意に表情を曇らせたことを怪訝に思った。

「陛下、どうかなさいましたか?」

 ただならぬ気配を感じたアナベルが問いかける。


「あやつ、この視察を最後に王都を出る腹ではないか?」

 リードリットの言葉に、ディルクメウス侯爵とアナベルが顔を見合わせる。

「何故そのように思われるのですか?」

 アナベルが再度問いかける。

「女の勘だ!」


 その場の空気が、「なんだ。そんなことか」と言いたげな空気に変わる。

「失礼だぞ貴様ら! 私にもあるのだぞ! 女の勘!」

「陛下、お戯れを……」

 ディルクメウス侯爵が半笑いで答える。立派に不敬罪なのだが、誰もそうは思わない。 


「あやつにゆかりのある者たちに声をかけておけ。長々とした別れが面倒なのだろう。視察の最後にボソッと別れの挨拶をして、それでとりあえず挨拶は済ませたことにしようと考えておるに決まっておる!」

「カーシュナー卿のことですから、そこまで面倒なら黙って出て行かれるのではありませんか?」

 ディルクメウス侯爵が眉をしかめる。形式を平気で無視するところがあるカーシュナーである。あり得ない話ではない。


「それはない」

「言い切られますな」

「当然だ! 挨拶なしで出て行こうものなら、次に会ったときに私自らこの手で痛めつけてやるからな! 絶対に言い訳が出来る条件だけは整えて行くはずだ!」

「褒められた理由ではありませんが、説得力はありますな」

 ディルクメウス侯爵が呆れながらも納得する。


「それにな、一番の理由は他にある」

「なんですか?」

「照れくさいからだ」

「……あ~、あり得ますね」

 アナベルが納得する。

「……あ~、素直ではありませんからな」

 ディルクメウス侯爵も納得する。


「ということだ! 皆に声をかけ、奴に気取られぬように先に新規開発地区にひそませておけ!」

「嫌がりますよ」

 アナベルが警告する。

「だからやるのだ!」

 どこからどう見ても、一国の女王ではなく、ただのいたずら小僧の笑顔でリードリットは鼻息荒く答えた。


「それにな、皆奴に一言礼が言いたいはずだ。あれは嫌がるだろうが、恩を受けて礼も言えんのは正直皆つらかろう。私は言いたい。言わんと腹の中がいつまでもぐるぐるしそうで気持ちが悪い」

 リードリットの言葉に、アナベルもディルクメウス侯爵も素直にうなずいた。


「わかりました。それぞれ多くの仕事を抱えておりますので、どれほど集まるかわかりませんが、それでも声だけはかけておきましょう」

「頼む」

 リードリットの瞳には、先程までのいたずらな色はなく、すでに寂しさの影が落ち始めていた――。






(その2)に続きます。

11/22 誤字脱字等修正。文章内容のミス訂正。

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