<ケルクラーデン会戦>
不思議と空気が澄んでいた。
今も重く空にふたをする分厚い雲が、陽の光を遮っているのだが、不思議と明るく感じられる。
リードリットは自分が集中出来ていることに気がついた。
リードリットの背後には、自身のわがままから生まれたにもかかわず、今日までつき従ってくれた赤玲騎士団が、士気高く控えている。
その中に、これまでの赤玲騎士団の団旗とは意匠の異なる旗が、風を受けてひるがえっていた。
これまでヴォオスに存在していたどの軍旗とも違う。長い三角形をした真紅の旗が、金糸を後ろ髪のようになびかせている。それは戦場を駆ける時のリードリットの赤髪を見事に表現していた。風になびき踊る様は、まるで炎を切り取り軍旗にしたかのようにも見える。
カーシュナーが密かに用意していたものだ。
受け取った赤玲騎士団の全員が、一目で惚れ込むほどの見事な出来栄えであった。
「粋なはからいでございましたな」
アナベルが振り向いて新しい団旗を見上げる。
「あの男、私がこれほどのものを、よくこの短期間に用意出来たなとたずねたら、ミデンブルクに私を迎えに来る前に発注していたと答えおった。私を口説けなかったらどうするつもりでおったのだろうな?」
「何が何でも口説き落とすおつもりだったのではありませんか?」
アナベルが笑顔で答える。
「すべてが計算ずくなのか、一か八かの賭けなのか、よくわからん男だ。だが、この旗はいいな」
アナベルと同じように新しい団旗を見上げながらリードリットは言った。
「陛下の存在を天下に示すのに、これ以上のものはないでしょう」
「まずはこの一戦で、国中に知らしめてやるとするか」
アナベルの言葉に、リードリットはニヤリと笑って答えた。
「誰か来ますな」
前方に布陣する貴族連合軍が割れ、三つの騎影が進み出てくるのに気がついたヴァールーフが、団旗を見上げていたリードリットに報告する。
「誰かわかるか?」
まだ点のようにしか見えないため、こちらへ馬を進めてくる者の正体はわからない。
「……!! ロンドウェイクです! 他の二人は、ブレンダン卿とジィズベルト卿です!」
赤玲騎士団随一の視力を誇る女騎士が、興奮のにじんだ声で報告する。
「ブレンダンとジィズベルトか。どうやら戻ったようだな」
エルフェニウスがブレンダンとジィズベルトを伴い、貴族連合軍を離れて単独行動をとり、<豚の尻尾>にて敗れ、敗走中であることは、ライドバッハからの報告で承知していた。だが、その後の足取りはつかめていなかったのだが、どうやら無事に貴族連合軍に帰還したようだ。
「シヴァ! オリオン! ついて来い!」
ロンドウェイクに応えるように、リードリットも二人を引きつれ馬を進める。
両者の距離が縮まり、互いの顔がはっきりとわかる距離まで近づくと、両者は自然と馬の足を止め、対峙した。
リードリットの威風堂々たる姿に、ロンドウェイクだけでなく、ブレンダンとジィズベルトも驚きに目を見張る。
五年前に王都の城壁まで達したゾン国軍との戦の際に目にした、ゾン国軍に対してだけでなく、味方であるヴォオス軍に対しても、敵意の塊のような態度のリードリットしか知らない三者は、目の前で悠然とこちらを眺める赤髪の美女が、記憶の中のリードリットと同一人物とはとても思えず、しばらく言葉を発することが出来ないでいた。
「何の用だ、ロンドウェイク? いまさら詫びなど受け入れるつもりはないぞ」
わざわざ出て来たにもかかわらず、黙り込んでしまったロンドウェイクに、リードリットはからかうように言葉を投げた。
その言動に激しい苛立ちを覚えたロンドウェイクは、馬上で悠然と構える人物が、あの忌々しい男の娘であるリードリットで間違いないと確信した。
「詫びだと? 詫びを入れるのは貴様の方だ! 生まれてきたことを、ヴォオスの歴代すべての王族に、生まれてきて申し訳ありませんでしたと詫びよ!」
早くも怒りの衝動に捕らわれつつあるロンドウェイクが、痛烈な皮肉を叩きつけてくる。
赤髪に黄金の瞳という異相を持って生まれてきたリードリットは、王の子にして王族にあらずなどと揶揄されてきた。実母からも生まれてきたことそのものを疎まれ、今際の際まで拒まれ続けた。存在そのものを否定されてきたリードリットには、胸に刺さる言葉であった。
「生まれてきたことが間違いだという私に、王位を取られた貴様は何なのだ? 貴様の理屈で言えば、私以上に王族の面汚しということになるのではないか? ただの無能者だと、自分で言っているようなものだぞ!」
リードリットの心を傷つける意図で投げつけられたロンドウェイクの言葉だったが、突き刺さるどころか、軽く受け止められた上に、言葉の先に新たな毒が塗りこめられて投げ返され、痛いところに突き刺さる。
ロンドウェイクの形相が見る間に変わっていく。
「宣戦布告にでも来たのだろうが、その程度の幼稚な当てこすりしか言えんようなら、帰らせてもらうぞ。私はお主やクロクスによって荒らされた国政の立て直しに忙しくて、小僧どもが繰り広げるような口げんかに付き合ってやるようなゆとりはないのだ。遊んでほしければ他の大人を当たるんだな」
カーシュナーやシヴァという、国内屈指の皮肉屋にもまれたリードリットの皮肉はえげつなかった。
ロンドウェイクの怒気を煽りつついなし、それでいてその言動のすべてが幼稚であると切って捨てたのだ。
この皮肉に、シヴァがゲラゲラと笑い声を上げる。
その声はあまりにも大きく、両軍の前線にまで届いた。
笑い声を聞いて困惑したのが貴族連合軍であり、思わず苦笑を浮かべたのがリードリット軍であった。
「何を笑うか! この無礼者が!」
なお笑い続けるシヴァに、ジィズベルトが怒声を上げる。
聞こえているはずなのに、シヴァは片手を耳に当てると、よく聞こうとするかのようにジィズベルトの方に首を傾げ、
「あ~、やっぱり犬語はよくわからん」
と言って肩をすくめた。
それはかつて貴族連合軍の大会議の席で、ブレンダンがジィズベルトの二つ名である<黒豹>を、黒犬と言って侮辱したことを、わざわざ当事者たちの前でほじくり返した挑発であった。
もともと大会議の席でもシヴァの態度に強い反感を覚えていたジィズベルトが、この挑発を受け流せるはずがなかった。
怒気もあらわに馬を駆け寄せようとしたところを、ブレンダンが慌てて手綱を抑えて止める。
「殿下の御前だ! こらえろ!」
目に殺気を込めてジィズベルトがブレンダンをにらみつけたが、それも一瞬のことで、怒りを何とか飲み込むと気持ちを落ち着ける。
「すまん。もう大丈夫だ。うつけのおかげであやうく殿下の前で無作法をするところであった」
「なに、かまわん。どうせ一時の我慢だ」
「ああ、あのうつけは俺が斬る!」
「最後の情けに、大人しく投降すれば楽に死なせてやろうかと思い勧告しに来てやったが、噛みつくことしか知らん獣どもに情けは無用であったようだ。もはや生まれてきたことを詫びる必要はない。生まれてきたこと自体後悔させてくれるわ!」
ロンドウェイクが吐き捨てるように言う。顔は怒りと嫌悪で複雑に歪んでいた。
「すまん。聞いておらなんだ。始めから言ってくれんか?」
リードリットが一見真剣に見える表情で聞き返す。それだけに、よけいに小馬鹿にされている感が増す。
怒気が膨らみ、このまま開戦か、というところまでロンドウェイクの感情が荒ぶる。
「殿下。もう相手になさいますな。殿下は最後に情けをかけようとなされたのです。義務はもう十分果たされました。ここで感情的になって戦端を開くのではなく、堂々たる開戦でもって戦に臨み、奴らを討ち果たしましょうぞ」
ブレンダンがロンドウェイクをなだめる。
「ずいぶんと損な役回りを押しつけられたものだな、ブレンダン。一人で二人の短気を抑えるのは一苦労だろう」
リードリットが苦笑する。本来ブレンダン自身がその短気を諌められるような男である。その短気者が他人の感情の爆発を抑えて回っているのだ。さぞや不本意なことだろうと、リードリットは本気で同情していた。
それが伝わったのだろう。ブレンダンは余計に顔をしかめることになる。リードリット様はこれほど余裕のあるお方だっただろうかと。敵愾心の塊のような人間が、何をどうすればここまで変われるのか、不思議に思わずにはいられなかった。
「リードリット様も、王族であらせられるのならば、これ以上野盗の頭のように騒ぎ立てるのではなく、ご自重いただきたい!」
無駄と思いつつ、それでもブレンダンは一言言わずにはおれなんだ。
「お主の言う通りだな。戦を前にして、少し無駄話が過ぎたようだ。所詮殺し合う以外道のない我らだ。ならばせめて言葉の泥で道を汚すような真似はすまい」
予想に反して返ってきた言葉は素直な肯定の言葉だった。それは取りも直さず、リードリットの度量の大きさも示していた。
ブレンダンの心に疑問がよぎる。
これが非道と知りつつ父親から王位を奪った人間の態度であろうか?
その時、戦場の各所で、松明の光が踊るのが視界に入った。意味をなさない派手な動きを繰り返している。
「何をしている?」
ロンドウェイクが鋭く問い詰める。
不意に張りつめた空気に、ブレンダンの疑問は意識の隅に追いやられた。
「勝利の舞とでも思ってくれ」
リードリットはそう言って馬首を返すと、ブレンダンとかわした言葉を守るかのように、それ以上の言葉を口にすることなく自軍へと引き返した。
「何が勝利の舞だ! 馬鹿馬鹿しい!」
ロンドウェイクは去り行くリードリットの背中に言葉を吐き捨てると、自身も馬首を返した。
当然ブレンダンとジィズベルトもその後に続く。
ブレンダンは芽生えてしまった疑問を抱えたままジィズベルトに視線をやると、シヴァの挑発にいまだに憤りながらも、自分と同様どこかこの事態そのものに引っ掛かりを覚えているような疑念が、表情の中にあるのを見つけた。
「迷うな、ブレンダン。戦は目の前だ。死ぬぞ」
視線を向けることなくジィズベルトが忠告してくる。
その通りだった。ここで闘志を鈍らせてどうする。<豚の尻尾>で拾った命を、部下たちが命がけで守ってくれたこの命を、無駄に捨てることにしかならないではないか。
この戦の意味は大きい。背後には反乱軍十万以上の大軍が迫り、目の前には三万のリードリット軍を迎え、王都は敵の手中にある。長期戦は許されない。ただ一戦を持って、勝利を治めねばならないのだ。
それが、真相とはまるでかけ離れた使命感であることを知らない二人は、クロクスの手によって配置された駒として、武人としての信念を捻じ曲げられて戦うことになる。
大反乱の始まりから、この最後の一戦の間に、もっとも損な役回りを押しつけられることになったのは、ブレンダンとジィズベルトの二人だったかもしれない――。
◆
開戦を前にして、両軍の先鋒を務めることになった騎士たちがずらりと並ぶその前を、角笛を吹き鳴らしながら、二人の騎士が、それぞれの軍の前を駆け抜けた。
角笛の余韻が冷たい寒風の中へ吹き流されて消えた時、
「全軍突撃!!」
ロンドウェイクの、落雷のような号令が轟いた。
同時に乗馬たちがいななきを上げながら突進を開始する。
貴族連合軍の先陣を駆けるのは、総大将でもあるロンドウェイクその人であった。
その左右を守るように、ブレンダンとジィズベルトが馬を走らせている。
迎え撃つリードリット軍は、まったく予想外の動きでこれに対応した。
貴族連合軍の半分の兵力しかない自軍を、さらに半分に分けて、貴族連合軍を大きく迂回するように馬を走らせたのだ。
自軍の背後に回り込もうとするリードリット軍を、ロンドウェイクは兵を二分して追うような愚かな真似はしなかった。
追うのはリードリットの真紅の旗を掲げる軍だ。
「あの赤旗だけを狙え! 左手に分かれた軍は捨て置いてかまわん! あの醜い赤頭を討ち取れば終いだ! 我に続け!」
ロンドウェイクの声が戦場に響く。
だが、その言葉に応える声は、思いのほか少なかった。
予測していない方角から、馬蹄の轟きがロンドウェイクの耳に届く。
ロンドウェイクの命令を無視したかのように、兵士たちが左手に流れたリードリット軍を追って行ったのだ。
「何をしておるか! 馬鹿者どもが! 今すぐ戻れ!」
困惑と怒りを叩きつける。
だが、自分の意思を離れて動く兵士たちを、その言葉で連れ戻すことは出来なかった。
困惑の声を上げるのは、ロンドウェイクだけにとどまらない。
各貴族たちの中にも、同様に困惑し、怒りの叫びをあげる者が続出していた。
一般兵たちが士官の命令を無視してリードリット軍を追っていくのだ。
中には足を止めて勝手な突撃を行う兵士たちを連れ戻そうとする貴族もいたが、一度動き出した六万もの軍が容易に止まるわけがなく、後続の貴族の軍と衝突し、よけいな混乱を引き起こしていた。
「足を止めるな! 走り抜けろ!」
これ以上の混乱を避けるために、ロンドウェイクはリードリットを追うことを諦め、開戦前と位置を入れ替えるように小さく半円を描き、軍を再編しにかかった。どういう経緯で命令違反が起こったのかは定かではないが、左手側に流れたリードリット軍に兵士たちが喰らいついている以上、標的を変えてまずはこちらの兵力を各個撃破すればいい。
この際命令に従わなかった兵士たちは、捨て駒と割り切る。
互いが巻き上げた雪の霞がはれた時、ロンドウェイクは愕然とせずにはいられなかった。
リードリット軍に喰らいついていったはずの兵士たちは影も形もなく、あるのは兵力を増大させたリードリット軍だけだった。
その兵力差は、今やわずかではあるが、リードリット軍の方が優勢であった。
貴族連合軍は、何が起こったのか理解出来ない間に、全体の約四分の一もの兵力をリードリット軍にからめ取られてしまったのだ。
「……なんだこれは、いったい、何がどうなっているのだ」
怒りと苛立ちが感情の大半を占めていたロンドウェイクの心に、得体の知れない冷たさが染み込んでくる。それを不安と認めたくないロンドウェイクは、想定外の事態に浮足立つ自分の兵を落ち着かせようともせず、再度突撃の号令を発した。
一人飛び出すロンドウェイクを、ブレンダンとジィズベルトが慌てて追いかける。
さらにその後を、不安と迷いで馬足を鈍らせながら、残りの兵士たちが追う。
迎え撃つつもりなのか、リードリット軍は今度は兵を分けるようなことはせず、その場にとどまる。
「血迷ったかリードリット! 騎兵戦で足を止めて勝てる戦などないわ!」
嘲笑するかのような声を上げて突進するロンドウェイクを、再度驚愕が襲う。
大気を打つ弦の音に続き、矢羽が空気を切り裂く音が大気を満たし、死の雨となって貴族連合軍に浴びせかけられたのだ。
開戦時、矢戦は行われなかった。ロンドウェイク、リードリット、両者の戦の好みが正面からの騎兵戦にあったこともあるが、数で倍するロンドウェイクがリードリットを侮り、力で一気にねじ伏せようとしたのを、リードリットが矢戦の気配を見せずに受けたからだ。
ここでロンドウェイクの頭から、矢戦が消えた。
その後の奇策で兵力をはぎ取られ、理解出来ないままさらなる力押しを選択した。
その結果が無防備に矢の雨の中に突っ込むという愚行につながったのだ。
ロンドウェイクの周囲で次々と馬が倒れ、騎士たちがその身に矢を受けて倒れて行く。
ロンドウェイクも馬を射倒され、踏み荒らされた雪の中に投げ出される。自身が矢傷を負わなかったのは奇跡と言えるだろう。
鋼で出来た死の雨は、気まぐれな通り雨のように一瞬にしてやんだ。そして先程と同様、リードリット軍は貴族連合軍の背後に回り込むかのように兵を二手に分けて馬を駆る。
ロンドウェイクの意識の外から放たれた矢の雨は、非常に有効な手段であった。それだけに、切り上げるのが早過ぎる。突撃の出鼻をくじいたのだ。ここは手を緩めずに追撃するべきだった。
矢戦を切り上げるのはまだいいとして、足の止まった貴族連合軍に対して突撃をかけず、またもや背後に回り込もうとするのも解せない。戦の常道から外れた用兵だ。
困惑しつつも主を失った馬を拾い、先程までリードリット軍がいた位置で、再度互いの位置を変えて立て直す。混乱がなかった分リードリット軍の方がはるかに早く体勢を整えることが出来たにもかかわず、態勢の乱れた貴族連合軍への突撃はなかった。
「この私をなぶっているつもりか……。ふざけおって!」
手加減しているようにしか映らないリードリット軍の用兵に、ロンドウェイクが屈辱と怒りに満ちた言葉を吐き出す。
怒りのあまり周囲がまるで見えていないロンドウェイクの背中に、ジィズベルトの呆気に取られた声がかけられる。
「殿下……」
後は言葉にならなかった。
苛立ち充血した視線を振り向けたロンドウェイクは、自軍の惨状を目の当たりにし、怒りすら吹き飛び呆然とした。
どのような手段でそうしたのかはわからないが、始めの交戦で一般兵をはぎ取られた。それでもまだ四万騎以上の兵が、ロンドウェイクの麾下にいた。
それが今は、三万騎弱、下手をすれば二万五千騎もいない。しかも今度は兵士だけでなく、有力貴族の姿の多くが見当たらない。残っているのはロンドウェイク同様地下競売場で狂った享楽にふけっていた者たちばかりだ。
再び雪煙のはれた前方に、慌てて視線を戻す。
そこにはこの場に居ない者たちを吸収し、今や開戦当初の戦力比を完全に逆転させたリードリット軍が、貴族連合軍の反応を待つかのように、万全の態勢で構えていた。
「いったい、何がどうなっておるのだ……」
無意識にこぼれた疑問に対し、ロンドウェイクは永遠に答えを得られないのであった――。
◆
「見事なものだ。この最後の一戦を、単なる作業と言い切るだけのことはある」
少数の兵に守られながら、本当に高みの見物をしているライドバッハが感心する。
「……これは、いったい何が起こっているのだ」
こちらは呆気に取られ、ため息をつくような声だ。
それは、エルフェニウスの単独行動を、ロンドウェイクの了解も得ずに独断で許可したとして、その責任を取り、将軍の職を解かれ、王都にて謹慎しているはずのコンラットであった。
単騎王都へ向かっていたコンラットは、当然リードリット軍と遭遇することになった。そこですべての事情を知り、今この場に至っている。
長く忠誠を捧げてきたロンドウェイクの愚行を知ったコンラットは、思考停止状態に陥ってしまった。
ヴォオス軍の将軍であり、下級貴族の出身ではあるが、それでもヴォオス貴族の一員であるコンラットは、その忠誠が本来誰に向けられるべきものなのか理解していた。
その上で、長くロンドウェイクの下にあった自身の忠誠を引き剥がすことが出来なかった。さりとて、真実を知ってしまった今、ロンドウェイクの元へ帰参する気にはなれない。新王リードリットのロンドウェイクに対する処断は正しいものであり、王族からの除名と死罪という処分は、それ以外にはあり得ないだろう。
ロンドウェイクの非を認め、リードリットの正しさを理解したうえで、コンラットはこの最後の一戦への参加に踏み切れなかった。
武人として、心が揺らいでしまったのだ。
コンラットの心情を理解したリードリットは、にっこりとほほ笑むと、
「将軍という職務も、ヴォオス貴族という立場も今は忘れて、ゆっくりと休むが良い。お主のヴォオスに対するこれまでも貢献を考えれば、好きなだけ休暇を与えても、どこからも文句など出なかろう」
ねぎらいの言葉だけをかけ、何一つ求めなかった。
コンラットの将軍職は現在も有効だ。今のロンドウェイクには何の権限もないのだから当然だ。
であれば、本来なら国王であるリードリットの要請に応えなくてはならない。
そうさせないために、リードリットは休暇という言葉を使ったのだ。
五年ぶりに見るリードリットの変化は、外見的な美しさも相当なものであったが、何よりその王者としての器の大きさに驚かされた。
赤髪に黄金色の瞳という、他に間違いようもない容姿をしているにもかかわらず、これがあのリードリット様なのかと己が目を疑った。
歴代の諸王にも劣らないと謳われていたロンドウェイクを明らかに上回っている。
「何が起こっているのかわからないか?」
同年代であり、長年同じ戦場で轡を並べてきたライドバッハが問いかけてくる。
この長年の戦友の変貌ぶりにも驚かされた。
今もどこかいたずらな笑みを浮かべてこちらを眺めているが、笑うところを見ること事態ずいぶんと久しぶりだった。もう十年以上鉄仮面のような無表情な顔しか記憶にない。
「わからん。何故兵が突然裏切ったのだ?」
コンラットは素直に疑問を口にした。
「その視点で見ている限りわからんだろうな」
ライドバッハがニヤリとする。先程までのいたずらな笑みと変わらないようでいて、瞳の奥に怖いくらいの真剣さが潜んでいるため、コンラットは無意識に額に浮いた汗を拭った。抜身の刀身を突きつけられているかのような圧力だ。
「兵士たちが裏切ったのではない。ロンドウェイクの方が裏切ったのだ」
「どういうことだ?」
「奴隷制度が廃止され、この国には一人の奴隷も存在しない。各国の大使館にも、治外法権などという例外を認めない程の厳格さだ。お主が目をかけひき立ててきた者たちの中にも、奴隷の身分から身を起こし、祖父から父へ、父から息子へと苦労を受け継ぎ、ようやく人としての暮らしを手に入れた解放奴隷たちの子孫が多く存在しているはずだ」
コンラットはうなずいた。
「王族であるロンドウェイクが、奴隷売買に手を染めた。人を人と思わなくなった男が玉座を求めている。それはすなわち時代の逆行をも意味している。理想へと至る坂道を築き上げるのは根気のいる作業だが、堕落へと至る下り坂を転げ落ちるのは簡単だ。ロンドウェイクの存在は、人らしい生活をようやく手に入れた人々の、この五十年の苦労を否定していることになる」
「それがロンドウェイク様の裏切りだと言うのだな?」
「元奴隷であった者。奴隷の子孫にあたる者。彼らがようやくつかみ取ったものすべてを取り上げられ、再び人ならざる立場に貶められるのではないかという恐怖を覚えずにいられると思うか?」
「…………」
コンラットは答えることが出来なかった。
奴隷制度を復活させるロンドウェイクと、奴隷商でさらなる富を得るクロクス。そして、集まる富の匂いを嗅ぎつけて群がる貴族たちの姿が容易に想像出来る。その足元では奴隷として売り買いされる各領地の領民たちの無残な姿が、目の前にあるかのように見える。
「何が起こったか知りたがっていたな。教えてやろう。ただ一言、「奴隷に逆戻りしたいのか?」と吹き込んだだけだ。敵味方の区別がつきにくい状況で行動を起こせば、確実に存在するクロクス、ロンドウェイクと根深くつながっている貴族たちによって潰される事になる。兵士たちは味方と確信出来るリードリット軍との開戦まで時期を待ったのだ」
「それだけであれほど見事に兵士が動くものなのか?」
「もちろんただ流言を撒いただけではない。もともと潜伏させていたこちら側の手の者が、簡単な指示を全体に伝えたのだ。貴族と平民あがりの兵士たちとの間に縦の繋がりが乏しいからこそ出来たことだ。もし貴族出身の士官たちに、兵士たちを命令の対象としてではなく、自分とともに一つの事を成し遂げるための、自分自身の延長なのだと考えることが出来ていたら、事態はこうはならなかっただろう」
「…………」
ライドバッハの言葉は、かつて何度もコンラット自身が、配下の士官たちに対して口にしてきた言葉だった。有能無能を問わず、士官の大半が貴族出身者で占められている。兵士と士官との間に出来上がっていた溝は、コンラットにとって頭の痛い問題だった。
この一戦でリードリット軍が衝いたのは、まさにそこだったのだ。
「お主が貴族連合軍から放逐されたのは、陛下にとっても思わぬ幸運だったというわけだ。お主が正道を誤り、あくまでロンドウェイクに固執していたら、兵士たちの多くはお主への忠義に殉じていたであろうからな」
「……もしそうなっていたら?」
「やることは変わらん。だが、戦力差は現状よりも拮抗したであろうし、そうなれば今度こそ正面決戦となっていた。双方に大きな犠牲が出たであろう」
「二度目の突撃で、貴族たちすら裏切ったのはどういうことだ? 兵士たちと違い、奴隷制度が復活すれば、かつてのように奴隷を所持することが出来るようになり、これまでのような領地経営に際してかかる人件費をただに抑えることが出来る。貴族にとっては良いことずくめではないか?」
「領地を持たぬとはいえ、お主も貴族であろう。奴隷制度の復活を、己の利益のみ考えて賛同出来るか?」
「出来んな」
嫌悪もあらわに即答する。
その答えに、ライドバッハは満足気にうなずく。
「歩みは亀よりも遅いが、ヴォオス貴族も間違いなく成長しているということだ。人の在り様、尊厳といったものを理解出来るようになってきたのだ。お主は裏切ったと言ったが、彼らは人の上に立つ者として、正しい選択をしたにすぎない。意外か? 自分以外にもまともな貴族がいたことが?」
「……意外だ」
正直過ぎるコンラットの答えに、ライドバッハはげらげらと笑う。
その時、新たな馬蹄の轟きが、大気を震わせながら近づいて来た。
「これで詰みだ」
その轟きだけで新たな事態の変化を察したライドバッハが、ニヤリと笑う。
「これは、何が近づいてきているのだ?」
コンラットが当然の疑問を口にする。
「レオフリード卿が、かつて反乱軍と呼ばれていた集団から、騎兵のみを率いてこの場に駆けつけたのだ。この時間でこの場にたどり着いたということは、替えの馬を一騎につき二頭は用意してここまで来たであろうから、兵数は二万といったところか。これで互いの兵力差が約三倍に広がることになるな」
ライドバッハが言った直後、さらなる馬蹄の轟きが、ケルクラーデンの野を押し包むように迫ってくる。
今度はニヤリと笑うどころではなく、ライドバッハは腹を抱えて大笑いする。
その様子に困惑の表情を浮かべつつ、コンラットが大きさを増し続ける響きに周囲を見回した。
「さすがにすぐには到着せん。五大家の残り四家の軍がこの場に到着しつつあるのだ。まるでこの状況を狙いすましたかのようではないか。いったい誰の天運なのやら。これは本気で挑んでも駄目だったかもしれんな」
言葉の後半が何を意味していたのか察したコンラットは、聞かなかったことにする。その上で言葉の前半のみを反芻する。
「ロンドウェイク様の元に残った者たちも、これで心折れるであろうな」
「心は元々折れているのだ。この一戦は所詮、現実を直視したくない奴らの悪あがきに過ぎん。だが、それに付き合わされて死ぬ兵士の数が減ってくれるのは良いことだ」
「……そうだな」
おそらくただ一人戦意を失わなわず、軍中で孤立しているであろうかつての主を想いながら、コンラットは短く答えた。
「終幕だ。もっと近くで見物するとしよう。お主はどうする? かつての主の最後を見たくはあるまい?」
一瞬迷ったが、コンラットは首を横に振った。
「それが避けられない最後であるのならば、行こう。すべてはその身が犯した罪による報いとは言え、弔われることもなく捨て置かれるのはあまりにも不憫だ。陛下のご不興を買おうとも、このコンラット、恩ある身として最後に手厚く弔わせていただく」
「そんなことで陛下はお主を責めたりはせん。むしろ感謝されるだろう。陛下もだが、ご子息であらせられるルートルーン殿下も、立場上ロンドウェイクの死を捨て置くしかないのだからな」
「…………」
ルートルーンの心情を想い、コンラットはただ無言でうなずいた。
ライドバッハは最後の一戦の終幕に立ち会うために、戦場の中心へと馬を走らせた――。
◆
「殿下! 背後から新たな騎兵が迫ってきております! その数およそ二万! 率いるは、レオフリード将軍です!」
悲鳴のような報告が、ロンドウェイクの耳に届く。
たった二回の突撃の後、圧倒的不利な状況に追い込まれた貴族連合軍の貴族たちが、絶望のうめきを上げる。
先程の舌戦の最中、わけのわからない松明の踊りを見せられたが、あれは裏切ったこちらの兵士たちに対する何らかの合図だったのだ。そうでければこれほどの規模での裏切りなど出来るはずがない。
ロンドウェイクの推測は正しく、カーシュナーが兵士たちの間に流した流言を裏付けるために、あの松明を使った舞いは行われたのだ。
兵士たちからしてみれば、ロンドウェイクを見限るのはかまわないが、貴族連合軍を離脱した途端、リードリット軍によって討たれたのではたまったものではない。兵士たちの間を流れているうわさが、真実リードリット軍とつながっているという確証が欲しかったのだ。
開戦前に、それとわかる合図があると言われていたが、確かにあの意味不明な松明の舞は、合図以外の何ものでもなった。
その合図に従って、カーシュナーが送り込んでいた兵士たちが行動を開始した。あとは雪崩と同じように、ゆるんだ人心のすべてがその後に続いたのだ。貴族たちは形勢の逆転を知り、さらにその後に続いたに過ぎない。
「怯むな! 兵力差など関係ない! リードリット一人の首さえ取れば、我らの勝ち……」
全軍を鼓舞しようと声を上げる最中、ケルクラーデンの野を押し包むように迫ってくる馬蹄の轟きが、ロンドウェイクの言葉を呑み込んだ。
これまで、貴族に生まれついたことで持ち合わせていた傲慢さに支えられ、勝利を信じてきたというより、敗北を想像出来ないでいた彼らだったが、その心臓がすでに絶望に鷲掴みされていたことを受け入れた。
貴族たちの目が死んでいく。
もはやこれまでと悟ったロンドウェイクは、最後の手段に出た。
「リードリット! 勝負しろ! 貴様も王族の端くれならば、私の挑戦を受けてみよ!」
この言葉を待っていたリードリットは、言葉で答えるより先に、一人馬を前に進めることで、挑戦を受諾したことを態度で示した。
「その挑戦受けた!」
そして、この場に集ったすべての者に宣言する。
ロンドウェイクが怒声のように声を張り上げたのに対し、リードリットの高らかに放たれた言葉は、戦場の隅々にまで響き渡り、兵士たちの耳に届いた。
冷たい笑いを顔面に貼りつけて、ロンドウェイクも馬を前に進める。
「殿下! お待ちください!」
ブレンダンがロンドウェイクを止める。
それを無視してロンドウェイクはさらに馬を前に進めた。
その前に、ジィズベルトが馬を、ブレンダンが見事な雄牛を進めて阻む。
「何のつもりだ? 臆病風に吹かれた連中などに用はない。どけ」
凍えるような覇気を叩きつけながら、ロンドウェイクは言った。
「臆病とは異な事を仰られる。我らは戦うために殿下のお側に控えさていただいているのです。この戦が始まってから、ただの一合も合わせておりません。研いだ刃が一滴の血も吸わぬうちに、総大将たる殿下を一騎打ちの場に出すなど武人の名折れ、ここはまず、我らにお任せいただきたい」
叩きつけられた覇気を跳ね除けて、ブレンダンが進言する。
「我が名はジィズベルト! この名に恐れを抱かぬ愚か者がいるのならば前に出よ!」
ロンドウェイクの許可も待たずにジィズベルトが名乗りを上げる。
「我が名はブレンダン! この雄牛の角飾りになりたい奴がいるのならば前に出よ!」
無言を了承と勝手に解釈し、ブレンダンも名乗りを上げる。
「シヴァ! オリオン!」
この名乗りを受け、リードリットが左右に控えていた二人を指名する。
「あの二人はどうやら何も知らんようだ。出来れば殺すな」
「了解。馬鹿は死んでも治らないって言いますからね。生き残って自分の馬鹿さ加減を思い知ってもらうとしますか」
シヴァが手にした槍を一振りしつつ軽口を叩く。
「牛は殺しても?」
相変わらず、不機嫌そうな表情を崩すことなくオリオンが問いかける。ブレンダンを殺さずに倒すということはすでに決定事項のようだ。
「それこそ牛に何の罪があろう。肉も堅そうだし、暴れるようなら適当にあしらってやれ」
食っても美味くはなさそうだから殺すなという、やさしいのかどうでもいいだけなのかよくわからない答えが返ってくる。
「行くぜ、オリオン!」
言葉と共にシヴァが飛び出す。
これに遅れることなくオリオンが続いた。
二人が飛び出してきたことを受け、ジィズベルトとブレンダンも飛び出す。
ジィズベルトは当然シヴァ狙いだ。
必然的にブレンダンはオリオンに向かうことになる。
「よく逃げずに出て来たな!」
ジィズベルトがシヴァに向かって吼える。
これに対してシヴァは無言で答えた。
「なんだ? いまさら怖くなって言葉も出んのか?」
「……やっぱ駄目だ! 俺には犬語は理解出来ん。キャンキャンうるさいだけだ!」
ジィズベルトに対してだけでなく、両軍の兵士たちに聞こえるように声を張り上げる。
「貴様……!」
怒りのあまり、ジィズベルトはそれ以上言葉にすることが出来なかった。
「なんだ! 俺の相手は素性の知れんこんな優男か! クライツベルヘン軍にはよほど人がいないと見えるな!」
ジィズベルトが受けた屈辱を晴らそうとするかのように、ブレンダンがリードリット軍の中核を担うクライツベルヘン軍を侮辱する。
「ほう。知らなかった。最近では犬だけではなく、豚も吼えるようだな。ブヒブヒと鳴くだけが取柄かと思っていた」
いかにも感心したという口調で、オリオンがやり返す。無口な男だが、カーシュナーの影響を目いっぱい受けた男である。毒を吐かせたらカーシュナー並なのである。
ジィズベルト同様怒りのあまり返す言葉が出てこないブレンダンは、言葉の代わりに愛牛に拍車を入れると、オリオン目掛けて突進した。
ジィズベルトもシヴァ目掛けて馬を駆る。
これに応えてシヴァとオリオンも乗馬に拍車をかけた。
両軍の全兵士たちの視線が集中する。
特に、三千の王宮騎士団を、たった百五十人で制圧してみせた各五大家が抱える勇士たちの視線は鋭い。
ジィズベルトとブレンダンといえば、ヴォオス東西を代表する戦士だ。今後のヴォオス軍において、核となるレオフリードを支え、その両翼を担うべき人材と目されている両者の実力のほどを測るには格好の相手だ。
名の知られていない両者、特にオリオンはその実力に反して全くの無名だ。まずその実力を示さねば、リードリットの側近として誰も認めない。一角の武人であるブレンダンと、最低でも互角の戦いを演じてみせなければならない。
「大丈夫でしょうか?」
オリオンの実力を知らないアナベルが不安を口にする。
「条件次第では、シヴァや私よりも確実に上とカーシュナーが太鼓判を押すほどの男だ。心配など無用だろう。むしろ雄牛を駆る怪力無双の戦士という印象が強いブレンダンだが、その剣技はむしろ正統派で、相当の使い手だという。そのブレンダンを相手にどれだけの戦いを見せるか楽しみだ」
死んでからでは遅いのだがと思いつつも、アナベルはそれ以上は語らず視線を四人の戦いへと戻す。
おそらく、いかにカーシュナーの推挙であろうと、実力の足りない者をそばに置くつもりはないということなのだろう。機会は与えた。あとは実力で居場所を確保しろということだ。
「力のブレンダン。技のジィズベルト。もしかすると、ぶつかる相手を間違えたかもしれんな」
この戦いに注目している五大家の勇士の一人が、眉をしかめてつぶやく。
「どういうことだ?」
そのつぶやきを耳にした別の勇士がたずねる。
「あのオリオンという男、並の実力者ではないことは、その立ち居振る舞いでわかるが、体格的に見てもジィズベルト同様剣技に優れた剣士なのだろう。仮に剣の技量でブレンダンを上回っていたとしても、あの体格差だ。力で押し切られてしまったらそれまでだぞ」
「確かに、ブレンダンのように突き抜けた剛力の持ち主は、ときに剣技や経験の差といったものを、根こそぎ破壊したしてしまうからな」
二人の会話を耳にしていた他の勇士たちも納得してうなずく。
「十分立派な体躯をしているが、ここは体格で勝るシヴァ殿がブレンダンに当たり、オリオンという者はジィズベルトに当たるべきだったかもしれんな」
最後に別の勇士が付け加えた言葉に、全員が不安を覚えた時、二組の一騎打ちが、同時に始まった。
そして、決着は一瞬にしてついた――。
長剣を手にしているジィズベルトは、槍という長柄の獲物を手にしたシヴァに対して内懐に入る必要があった。だが、それは同時に、シヴァの初撃さえかわしてしまえば、あとは反撃する手立てのないシヴァを好きなように料理出来るということも意味している。
忌々しい男ではあるが、なぶるつもりはない。一刀のもとに斬り捨ててやろうとジィズベルトは考えていた。
シヴァが手にした槍の先端を、ジィズベルトの肩口あたりに狙い定める。馬の背に張り付くようにしているジィズベルトの身体で狙えるところと言えばその辺りしかない。
両者の距離が迫り、シヴァが槍を繰り出す。
これを狙っていたジィズベルトは、手にしていた長剣で、槍の穂先の腹を払う。後はそのまますれ違い様に斬り伏せるだけだ。
最小限の動きでシヴァが繰り出した槍を払ったはずの剣先が、槍の中に吸い込まれる。
驚愕と同時に激痛が肩に走る。
最速で払おうとしたジィズベルトの剣を、それをはるかに上回る速度で一旦槍を引いてかわしたシヴァが、再度ジィズベルトの肩口に槍を突き入れたのだ。
そのままでは刺し貫かれてしまうため、反射的に身を引き、上体を起こしたところに、あっさりと槍を捨てたシヴァの右腕が、大木すら薙ぎ倒しそうな勢いで、ジィズベルトの首に叩き込まれる。
馬上から一回転半して雪面に叩きつけられたジィズベルトは、ピクリとも動かなかった。
しかもそれだけではなく、シヴァは馬上から落とされ、回転しているジィズベルトの身体から瞬時に槍を引き抜いていたのだ。もし、そのまま落下していれば、槍は確実にジィズベルトの身体を貫き、とどめを刺していたはずだ。
「まあ、出来る限りの加減はしてやったんだ。それでも死ぬとすれば、自分が弱過ぎたんだと諦めて、成仏してくれや」
馬首を返したシヴァは、動かないジィズベルトの背中に、片目を覆っている布をめくると、ニヤリと笑って語りかけた。
ヴォオス西部を代表する武人に対し、シヴァは始めから本気を出すつもりなどなかったのであった――。
降り積もった雪などなんのその。ブレンダンの愛牛は力強く雪原を蹴散らしながら突進していた。
その背にまたがった巨漢のブレンダンは、力量の知れぬ自分の相手を見極めようなどというつもりは毛頭なく、自分の最大限の攻撃で、一刀でケリをつけるつもりでいた。
この場に出てくるくらいだ。技量優れた剣士であることは間違いないはずだ。ジィズベルト級の相手のつもりで当たる。これから自分が放つ一撃を、いなさせることなくその身に叩き込んでやるだけだ。
不意に対する相手が鐙の上で立ち上がり、手にした長剣を大上段に構える。
こちらの虚をつくための小細工なのだろうが、もしそうでないのなら、この男は、自分を相手に力の戦いを挑んで来たことになる。
身を包んだ警戒感を、あえてブレンダンははぎ取った。そこにどのような小細工があろうと、そのすべてを破壊する覚悟で防御を捨てる。
ただ一撃――。
両者が交差し、大気がひび割れたのではないかと思うほどの衝突音が鳴り響く。
とてつもない力のぶつかり合いは、互いの前進しようとする慣性を相殺し、二人の身体を空中に留める。 素早く鐙から足を外した両者は、瞬間空中に留まり、落ちる。
両者の表情は奇妙な符号を見せ、共に苦虫でも噛み潰したかのように不機嫌極まりない表情をしていた。
だが、両者にもたらされた勝敗の結末は、天と地ほども違う。
落下と共に力の均衡も失われ、ブレンダンが真っ逆さまになって落ちて行くのに対し、オリオンはストンと着地してみせた。
雪に刺さり、一瞬直立して仰向けに倒れる。
「……俺が、押し負けたというのか?」
頭から落下したため、視界がグルグルと回っているが、それ以上に自分が力負けしたという事実に、ブレンダンの思考は混乱していた。
倒れた主の隣で剣を持つ男の姿を認めたブレンダンの愛牛が、クルリと突進の向きを変えると、オリオン目掛けて猛進する。
<豚の尻尾>で実質的にアペンドール伯爵を仕留めた突進だ。並の武人などよりはるかに危険だ。
耳慣れた地響きに、何が起ころうとしているのか察したブレンダンが平衡感覚の失せた身体で必死にもがく。ジィズベルト同様右肩に激痛が走る。オリオンと剣を合わせた際に途方もない負荷を受けた肩が外れてしまったのだ。
「……頼む。後生だ。殺さないでくれ」
己の命ならば請いはしないが、今この場に自分がいられるのは、<豚の尻尾>で愛牛が命を拾ってくれたからに他ならない。ブレンダンは意地も誇りも捨てて命乞いしていた。
不機嫌極まりない表情で男が見下ろしてくる。駄目かと歯噛みしかけた時、男はうなずくと剣を鞘に納めた。
猛突進して来るブレンダンの雄牛に対し、オリオンは腰を落とすと身構えた。並の牛の三倍近くある雄牛を、素手で止める気のようだ。
「…………」
ブレンダンが逃げるように叫ぼうとしたとき、オリオンが片脚を天高く振り上げ、猛進する雄牛の脳天に、斧を振り下ろすかのような勢いでかかとを落とした。
重量ではるかに優るはずの雄牛は、まるで巨人の拳でも受けたかのように頭から雪面に突っ込むと、目を回してひっくり返った。
その横で、オリオンが体内で精製された巨大な熱を吐き出すかのようにゆっくりと息を吐き出す。
そしてすべてが止まった。
爆発的な歓声がリードリット軍から上がる。
特にオリオンの実力を不安視していた勇士たちはまるで初めて大人の祭りに参加した少年のように目を輝かせ、歓声を上げていた。
「なんだあの二人のでたらめな強さわ!」
「腕に覚えはあったが、これは正直かなわん! だが、一度立ち合ってみたい!」
「順番を決めよう!」
「まず初めにどちらに挑むかも思案のしどころだ!」
「俺はシヴァ卿だ! 槍の腕なら俺こそがヴォオス一とうぬぼれておったが、とんだ間違いだった! 彼の神速の神技をぜひ味わってみたい!」
「俺はオリオン卿だ! 剣技が優れているのは確かなはずなのだ! それに加えてあの剛力! いったいどれほど強いのか見当がつかん!」
皆が口々に褒め称え、興奮する。
共に黒衣に身を包んだシヴァとオリオンは、この日を境にヴォオスの黒刃の双刀と呼ばれることになる。 歓声で目を覚ましたのか、ジィズベルトが起き上がる。その視線がのびた愛牛の横で、だらりと垂れた右腕を抱えて座り込むブレンダンの姿を捉える。
その隣に立つオリオンの姿に視線を移し、最後に自分の上に影を落とすシヴァに視線を向ける。
「おっ! 起きたか! さすがに頑丈だな。血止めしてやるから、最後の一戦見て行けよ!」
言うが早いか、シヴァは素早くジィズベルトの肩の傷に布を当て、きつく固定した。
「……俺たちは負けたのか」
「ああ、俺とオリオンの勝ちだ。でもって、次の一騎打ちですべて終わる」
「俺は一体何しにここまで来たのだ……」
納得出来る勝利を何一つ得られなかったジィズベルトが、うなだれこぼす。
「さあな。でもよ、あんたが自分のやってきた事に恥じる思いが一つもないなら、あんたはあんた自身を裏切ることはなかったってことなんじゃねえのか? 今はそれで十分だろ。後でいろいろ知れば、思いも変わるだろうさ」
「何故だろうな? お主は正しいことを言っているはずなのだろうが、どうしても素直にうなずけん。どうにも腹が立つ」
ジィズベルトの素直すぎる言葉に、シヴァは短く笑った。
「どうしてだろうな? みんなそう言うんだ」
「それには納得出来る」
シヴァは大きく肩をすくめて応えた。
「大見得を切って出て行って、ただ恥をかいただけか。見苦しい」
ロンドウェイクが二組の一騎打ちの結果に眉をしかめ、言葉を吐き捨てる。
自分のために戦ってくれたブレンダンとジィズベルトに対する想いはかけらもないようだ。
「ではやろうか。ロンドウェイク」
大歓声の中、リードリットが馬を進める。
貴族連合軍側から負傷したブレンダンとジィズベルトの迎えが来ないので、シヴァとオリオンが自陣へと運ぶ。
敗れたとは言え、ヴォオスを代表する二人の武人を、クライツベルヘン軍の軍医たちは敬意をもって受け入れた。戦いを見守った各五大家の勇士たちも、最後まで忠義を示そうとした二人に賞賛と敬意を込めた視線を送った。
これが父から王位を簒奪した者に従う者たちの目ではないことくらいブレンダンもジィズベルトもすぐに理解した。
実際に何が起こったのか、真実を知りたいと思うが、その前に見届けようと思った。曲がりなりにも将と仰いだ男の最後の戦いを――。
「よく逃げずに受けたな。それだけは誉めてやろう。だが、それは蛮勇というものであって、決して勇気ではないということを冥土の土産に教えてやる。もし生まれ変われたら、いま少し利口に生まれられるように、あの世まで教訓として持って行くがいい」
一人馬を進めてきたリードリットを、ロンドウェイクは嘲笑った。負けることなど微塵も考えてはいない。
これに対し、リードリットはただ失笑を漏らしただけであった。
「何を笑うか!」
リードリットの反応を侮辱と受け取ったロンドウェイクが怒声を上げる。さらに言葉を重ねようとしたとき、
「ずいぶんと口数が多いな。不安か? 先の二人の方が、貴様などよりはるかに武人として堂々としていたぞ」
その口先を封じるように、リードリットが本物の侮辱を投げつけた。
「女ごときに武人の何がわかる。生意気な口ばかり叩きおって。今黙らせてくれるわ!」
「そう言うことはいちいち口になどせず、黙ってやれ! 口数の多い奴め! 貴様のような奴を女々しい男と言うのだ!」
舌戦はリードリットに軍配が上がった。もっとも、リードリットに言葉でロンドウェイクをやり込めようなどというつもりは始めからなかった。いざ一騎打ちというときになって、まだごちゃごちゃ言うロンドウェイクを疎ましく感じてあしらっただけだったのだ。
ロンドウェイクが剣を抜く。
応えてリードリットも自慢の分厚い剣を抜く。
両者は同時に乗馬に拍車を入れた。
貴族連合軍に残った貴族たちが、固唾を飲んで見守る。
対するリードリット軍には、強い信頼だけがあった。
両者の距離が縮まる。ロンドウェイクは手綱を離すと両手で剣を構え、一撃でリードリットをねじ伏せようとした。
受けるリードリットは、無造作とすら言える動作で、ロンドウェイクが振り下ろした渾身の一撃を、片手で受け止めた。
巨大な力の激突に、先程のオリオンとブレンダンのように、互いの力が強すぎて、一瞬乗馬から引き剥がされるかに見えたが、両者は激突した互いの剣を軸にして、乗馬にぐるりとその場で円を描かせ、体を入れ替え動きを止める。
ロンドウェイクとリードリットは交差する互いの剣越しににらみ合った。
ロンドウェイクが放つ重苦しい覇気は、五大家の勇士たちをもってしても、その圧力から息苦しさを感じずにはいられない程圧倒的なものがあった。
歴代の王を引き合いに出しても、今のロンドウェイクの上をいく者は、建国王であり、英雄王として称えられるウィレアム一世しかいないかもしれない。
それほどの男が、今リードリットを前にして、絶望に呑み込まれていた。
全身のすべての力を剣に込めて押しているにもかかわらず、リードリットはそれを片手で軽々と受けている。
「……化け物め」
負け惜しみが口をついた瞬間、リードリットの剣がロンドウェイクの剣を切断し、自由を得た剣がロンドウェイクに襲い掛かった。
ロンドウェイクは自身が真っ二つにされる姿を脳裏に見た気がしたが、リードリットは最後の瞬間に手首を返すと、剣の腹でロンドウェイクを打ちすえたのであった。
馬上から恐ろしい勢いで叩き落とされるロンドウェイクの姿に、貴族連合軍から悲鳴が上がる。
「ここにロンドウェイク討ち取ったり!」
三つの一騎打ちが、すべて一瞬で終わった。
そのすべてが、圧倒的な力の差を見せつける結末であった。
それは、この場に集ったすべての者に、時代が大きく変わったことを印象付けたのであった。
ケルクラーデン会戦は、ここに終結した――。
11/21 誤字脱字等修正




