頼むに足るだけの背中
戴冠後、場を大会議室へと移し、新体制へと移行したヴォオス政府が回り始める。
戦いの人という印象が強いリードリットだが、まず初めに着手したのは、食料供給体制の整備からだった。
行政機能を牛耳っていたクロクス派の優秀な人材を除いたため、国政そのものが麻痺するかと思われたが、クロクスのやり方に賛同しきれず、不遇のうちに埋もれていた人材が発掘されることになり、新宰相ゴドフリートの下で急速に組織として固まっていった。
それらの人材は、実は密かにカーシュナーによって事前に選び出されており、ゴドフリートはその土台の上に新たな組織を築いていったに過ぎない。
食糧問題への一応の対応が済むと、リードリットは次に貧民街の住民の生活改善に着手した。
現在第四まで存在する城壁の外側に、第五城壁を新たに建造する前提で、新たな住宅街を設計整備することが決められた。
これによって発生する土木建築工事が新たな雇用枠を生み出し、そこに貧民街の住民を積極的に雇用することにより、自らの手で生活基盤を築き上げる機会を与えることになった。
無思慮な施しは行わない。行動を起こそうともしないくせに、不平不満だけは一人前に口にする人間は切り捨てるということだ。
苛烈とも言える内容だが、機会を生かそうという気概のない人間を養ってやれるほどのゆとりは、大国ヴォオスと言えどもないのだ。
その反面で、浮浪児や身寄りのない老人や病床人などの対応も検討された。これらの人々を、ただ働く気のない怠け者と同一視して切り捨ててしまうことは、クロクス派のしてきたことと何ら変わらない。実態を調査し、しっかりと受け入れる態勢を作ることになった。
ここで提出された一連の案件も、すべてカーシュナーがすでに事前に準備してきたものであった。
王都の拡張計画に関する設計及び詳細な施工計画は、兄であるセインデルトに依頼し、全体的な計画設計の監督を任せ、自身はその中の細かな部分、現場指揮者や職人の手配といったより現実的な部分を詰めていた。
弱者受け入れに至っては、すでに詳細な構成人員及び受け入れ先となる建築物件のすべてがそろったものが提出された。もっともそれらは建前で、リードリット政権が発足すると同時に、すでに弱者受け入れと、これらを悪用しようとする者たちの摘発は始まっていた。
カーシュナーが緊急で行いたかったのは、地下病棟にかくまってきた人々の全面的な支援だったからだ。
王都での問題に対する一通りの対応が決定すると、王家直轄領の各町村の救済が計画された。
これに関しては、ゴドフリートとヴァールーフの調査と、カーシュナーの調査報告が大いに役立った。すでに滅びてしまった街や村の多さ、何よりその死者数に、集まった人々が慄然とする。
ここでおおいにその実力を発揮したのがディルクメウス侯爵であった。
元来そのために働いていたのだ。ライドバッハによって押さえられているヴォオスの北半分に関しては現状どうすることも出来ないが、南半分に関しては、何が何でも救って見せると息巻いていた。職務に忙殺されがちの祖父を支えるために、ベアトリーゼ嬢は私塾を休学して祖父のそばに控えている。
戦い、勝つということが国を守ることのすべてではない。武人としてこれまで生きてきたリードリットは、剣を持たない戦いの厳しさを改めて思い知らされた。
食糧や医薬品を配給してやれば、それで解決出来ると考えていたが、とんでもない勘違いだった。
己の至らなさを情けなく考えていると、アナベルが言葉をかけてくれた。
「陛下は道を示してくださればよいのです。そのために何を成すべきか、それを考えるのは、それに適した者の役割です。陛下はただ、迷わず在り続けてくださいませ。後に続く我らが立ち止まらなくて済むように」
リードリットは苦笑と共に答えた。
「ない頭をしぼっても、かえって皆の足を引っ張ることにしかならんな。お主の言葉通り、定めた方針からよそ見をしないように、しっかりと前を向いていよう」
リードリットの殊勝な答えを聞いたアナベルが、同様に苦笑を浮かべながら告白する。
「偉そうな物言いをいたしましたが、すべてカーシュナー卿の受け売りです」
これを聞いたリードリットは思わず吹き出した。
リードリットが不得手な分野の対応策が一段落すると、いよいよ話は本題へと入ることになる。
これまでに定めたことのすべてが、今後の戦いに勝利する前提で進められているのだ。リードリットの表情も自然と引き締まる。
「まずは、より至近に位置するクロクスと貴族連合軍に対する対策から始めたいと思います」
レオフリードが口火を切る。
この場にはルートルーン、五大家の各当主とその側近、リードリットの戴冠式のついでに千騎長から将軍に昇格したシヴァ、同様に赤玲騎士団長及び将軍職に昇格したアナベルと、王宮騎士団に代わって近衛兵を務めることになった赤玲騎士団の幹部が集まっていた。
「まずは、勅使を出すべきであろうな。それはライドバッハに対しても同様だ。相手が望まぬ限り、極力同国人同士での争いは避けたい」
リードリットが基本方針を口にする。
「その上で、どちらも抗戦の構えを見せた場合に対する備えから話し合いますか?」
ライドバッハの勢力圏であるヴォオス北部に領地を構えるシュタッツベーレン家の当主、ヘルダロイダが口を開く。
年齢不詳の美貌の大貴族は、意外なことにいつでも出兵出来るように、リードリット同様戦装束に身を包んでいる。リードリットと違い豊満な肢体を、体の線を隠さない軍装で固めているため不必要に挑発的な姿になっているが、驚いたことに様になっている。華美な装飾は一切なく、実用一点張りの造りで、使い込まれた感がある。
「そうだな。戴冠式での件もある。クロクスはもちろん、ライドバッハも抗戦の構えを見せるであろう。ヘルダロイダはどう考える?」
「両者を同時に相手取らないことが大前提です。手を組ませてもいけません。クロクスと、ルートルーン殿下には申し訳ありませんが、ロンドウェイクを討つことがこの戦いの目的である以上、ライドバッハには改めてクロクス討伐の勅命をお出しになるべきかと存じます。従えば良し、拒めば奴の大義は地に落ちます」
「クロクスの打倒を旗印に掲げての反乱じゃ。どう理由をつけようと、断った時点で傘下の貴族たちをまとめる口実を失うことになる。その時は改めて、貴族連合軍に参加している貴族と、大反乱に加担しておる貴族も含めて、国中に反逆者ライドバッハ討伐の勅命を下せばよい。それだけで、どちらも組織として割れるじゃろう」
ヴォオス西部に領地を構えるザーセン家のレイブランドが、ヘルダロイダの後を受けて発言する。
八十を超える高齢とは思えないほど、その言葉は明瞭に響いた。
「兵の運用は、北からシュタッツベーレン軍とボルストヴァルト軍に大反乱軍の背後を抑えてもらい、西からザーセン軍。東からドルトスタット軍。南からクライツベルヘン軍で貴族連合軍を包囲しつつ、そのまま大反乱軍に当たるといった具合でよろしいでしょうか?」
東から進軍中のドルトスタット家の当主、クリストフェルンが、布陣の確認をする。
五大家当主の中では最も若く、まだ四十代に差し掛かったばかりだが、髪や肌のつやが若々しく、十歳ほど若く見える。
「布陣はそれでよかろう。問題は、間違っても素直に従わんだろうクロクスと、その配下のヴォオス軍と貴族連合軍がどう動くかだな。数こそ少ないが、ロンドウェイク派のヴォオス軍兵士の反応も、無視するわけにはいかん」
ヴォオス北東部に領地を構えるボルストヴァルト家のアウグステインが、状況をさらに詰める。
くせなのか、見事に禿げ上がったつるつるの頭をなでている。髪の毛だけでなく、眉も髭も生えていないかなりの異相だ。
「それに関しては、始めから討伐するつもりで事に当たる。貴族連合軍に参加している貴族の三割ほどは、地下競売場に関わっていたことが判明している。クロクス同様下ったところで死罪は免れない以上、無駄な抵抗をしてくるのは確実だ」
リードリットが表情を厳しくする。自身の目で地下競売場の実態を見ているため、関わっていた者たちに対する嫌悪感はいまだに激しいものがある。
五大家の当主たちと女王の視線が、これまで一言も発言していないクライツベルヘン家の当主に向けられる。
ヴォオス王家に次ぐ勢力を誇るクライツベルヘン家の意見を聞かずして、物事を進めることは、リードリットにも出来ない。
「小細工なしで行くべきでしょう。陛下の権勢を受け入れていない者が、この国にはまだ多く存在します。仮にこの終わらない冬を乗り越えたとして、その後に待つのは大陸全土を襲う食糧難です。国内情勢が割れたままでは、文字通り死に物狂いで侵略して来るであろう他国を防ぎきれない可能性が出てきます。ここで陛下のお力を天下に示すべきかと存じます」
それは先を見越した言葉だった。
あいつが言いそうな台詞だな。リードリットは無意識の内に笑っていた。
この重要な会議の場に、カーシュナーはいない。戴冠式を境に、カーシュナーは急速にその存在感を消していた。あの男のことだ、それなりの考えがあってそうしているのだろう。オリオンを表の世界に連れ出し、側に残してくれた時点で、今までのような形で力を貸してはくれないのだろうと予想はしていたが、いざ実際にいなくなると、その喪失感は埋めようもないほど大きいものだった。
思わずつきそうになったため息を、慌てて呑み込む。弱さなど見せようものなら、一生カーシュナーのからかいのネタにされかねない。
「ヴァウレル。お主の言葉、胆に銘じよう」
答えたリードリットの言葉に、ヴァウレルは深く頭を下げて応じた。
顔が伏せられる直前に、いたずらな表情が一瞬だけ顔をのぞかせる。それだけでリードリットは、先程のヴァウレルの言葉が、カーシュナーの言葉であったことを悟る。
まったく、どこまで先が読めているのやら。呆れるとともに、自分がいなくなって、そろそろ寂しいのだろうなとカーシュナーに思われたと理解した途端、顔が火照って来るのを感じる。
自分自身の反応に、色恋に関しては特に鈍感なリードリットは怒ることしか出来なかった。
そんなリードリットの姿を、この場にいる本人以外の全員が、微笑ましく眺めていた。若干一名、微笑ましいとはとても言い難い表情で眺めていたが――。
「なんだその顔は!」
リードリットがシヴァをぎろりとにらみつける。
丁度新しい飲み物を運んで来た侍女たちが、リードリットの気に当てられ、硬直してしまう。
「カーシュがいなくて寂しいからって、俺に当たらんでくださいよ。嬢ちゃんたちもビビってるじゃないっすか」
誰もが控えていた台詞を平気で口にする。
「だ、誰が寂しがってなどおるものか! 適当なことを申すな!」
むきになって言い返すリードリットに対して、腹の立つことに、シヴァは「あ~、はい、はい」と片手で軽くあしらってくる。
「結局、対応は出たとこ勝負でしょう? ただ勅使を送るのか、勅使で揺さぶりをかけるのか、肝心なそのあたりと、あとはいつ兵を動かすかでしょう?」
リードリットをからかうにはお偉いさんが多すぎて面倒くさいなと考えたシヴァが、不真面目な理由から話題を本筋に戻す。
もう一度だけギロリとにらみつけてからリードリットは咳払いすると、意見を求めた。
「敵対が確実視される以上、勅使に立つ者は命がけとなりましょう。ライドバッハに出す勅使は、クロクス陣営の只中を通り抜けることにもなります。なまなかな者では務まらないでしょう」
それまで聞き役に徹していたレオフリードが発言する。
「確かに。しかし、肝心のヴォオス軍は、戦力の大半がライドバッハ、もしくはクロクスの下にあります。それほどの人材はおりませんでしょう。私の配下から人を出してもかまいませんが、大将軍にはこれといった人物の心当たりがおありかしら?」
ヘルダロイダが問いかける。言葉と共に向けた流し目が、違う意味で本気過ぎて、レオフリードが思わずたじろぐ。
「私が勅使に立ちます」
気を取り直したレオフリードが出した答えは予想外のものだった。
「大将軍が軽々しく動くものではない。事と次第によっては敵中で孤立し、斬られかねんのだぞ」
クリストフェルンがたしなめる。
「正義は我と共にあり、です」
それは、<完全なる騎士>と呼ばれるレオフリードが持つもう一つの異名のようなものだった。その人品と日ごろの行いから、物事の是非をレオフリードが語ると、それが正しさの基準となるほど、レオフリードの影響力は強かった。
いつのころからそう言われるようになったのか、正義はレオフリードと共にあると言われるようになったのだ。
クロクスによる国政の腐敗を糾弾するという名目で、ライドバッハは兵を挙げた。その大義はリードリットが即位し、クロクスの罪業を明らかにしたことで正当化された。ある意味ライドバッハの目的は果たされたと言える。これ以上独断で軍を動かす理由はないのだ。その行動に他意がなければ――。
そこに正義の象徴とも言えるレオフリードが使者として現れ、正道に還るよう勅命を伝えれば、ライドバッハは態度を明確にせざるを得なくなる。
ここで勅命に従わず、レオフリードを害するようなことをすれば、その後の行いがどれほど正しかろうと、民衆も、近隣諸国も、ライドバッハの主張と正義を認めないだろう。
「クロクスを悪とし、これを打倒して民衆を救済することで、英雄として人々から迎えられる。この筋書き以外でライドバッハが玉座を得ることは叶わない。それが野心からの行動だったとされた時点で、人心の掌握は適わなくなり、ヴォオスを手に入れることは出来なくなる。それを諭すということか」
「さようでございます」
ヴァウレルの言葉に、レオフリードがうなずく。
「危険な賭けじゃな。人間は欲望を満たすためなら、世の理なんぞ平気で押し退けてみせる。権力に目がくらまない人間など稀じゃ。ましてや、現在最大規模の兵力を要しておるとあればなおさらじゃ」
レイブランドが懸念を示す。
「何をどうしたところで、危険であることに変わりはありません。しかし、何より肝要なのは、天下に陛下の御威光を示すことです。ヴァウレル様が先程仰られたように、小細工など用いず、正面から態度を示すことにこそ意味があるのです。そのために、この命を懸けようと、私は申し上げているのです」
「レオフリード」
さらに言葉を尽くして周囲を説得しようとするレオフリードを、リードリットがさえぎる。
「任せる」
リードリットの決断は早かった。いまだ劣勢にある中、これを覆すために命を惜しんでいるような場合ではないのだ。それが己の命でなくても同様だ。他人に命を賭けさせるという重荷を、これからは背負っていかなければならない。
リードリットの決意を感じ取った五大家の各当主たちは、それ以上は言葉を挟まなかった。理屈はとうに理解していた。レオフリードという男を惜しんでいただけなのだ。
「で、ハゲ親父の方はどうします? 俺が行きましょうか?」
シヴァがいかにも悪そうな顔で問いかけてくる。
「お前は駄目だ」
リードリットが冗談も休み休み言えとばかりに退ける。
実はかなり本気だったシヴァが、反論しようとする前に追撃する。
「お主ではたちの悪い宣戦布告にしかならんわ。その罪を問い質し、法の下に裁きを受けるよう諭すことが第一だ。奴らは我らと対等ではない。あくまで我らの管理下において罪人として扱う。いきなり喧嘩を吹っ掛けるのは、奴らを対等に扱うようなものだ」
リードリットの正論に、さすがのシヴァも返す言葉がない。正直これ以上ないくらいクロクスとロンドウェイクを侮辱し、あわよくばその場で討ち取ってやろうと考えていたのだ。
リードリットがシヴァという人間を、勅使としては問題外だと判断したのは、実に正しかった。
「では、私が参りましょう」
ゴドフリートが口を開く。
反論しようと口を開きかけた五大家を、身振りだけで制する。家格ははるかに違えども、その存在感は五大家の当主たちに一歩も引けを取ってはいない。
「これもレオフリードと同様でございます。まず初めに明確に陛下の御威光を示すべきなのです。老いたりとはいえ、多少は名の知れた身。ここで使わずしていつ使いましょう」
リードリットのここ最近の功績も十分英雄と称えられるに値する偉業であるが、それでもゴドフリートが長年積み上げてきた功には遠く及ばない。今でも大陸屈指の英雄なのだ。
そのゴドフリートがリードリットの名代とした遣わされれば、クロクス派の貴族とヴォオス軍兵士に与える影響は計り知れない。
元々その影響力も含めて招いたゴドフリートの申し出に、リードリットが許可を出そうとしたとき、意外な人物がさえぎった。
「私に行かせてください。陛下」
名乗り出たのはルートルーンだった。
「殿下……」
ゴドフリートが言外に申し出を取り下げるよう視線を投げてくる。並の騎士なら皆怯んでしまうその眼光を、ルートルーンはしっかりと受け止めたうえではね除けてみせた。
「クロクスの罪業はもっとも深く、その権勢も強大です。ですが、ここでまず明確に世に示さなくてはならないのは、ヴォオス王家の一員でありながら、人身売買に興じたロンドウェイクの罪に対する陛下の処分です。それは同時に、ヴォオス王家の、奴隷制度廃止に対する再度の意思表明となるでしょう。ロンドウェイクの行いは、現在のヴォオス社会の基盤を揺るがしかねない愚行の極みです。罪の深さでは、クロクスの方が深くとも、負わねばならない罪の重さはロンドウェイクの方が重いのです。その罪を厳格に裁かずして、どうして陛下の御威光が世に輝きましょうか!」
息子である自分が父の罪を問うことで、厳格な姿勢を示そうというのだ。
「それはどうでしょうか、殿下。世の人々の目には、陛下が親子を争わせようとしているかに映るのではございませんか?」
ヘルダロイダが問いかける。そこに諭すような響きはなく、それは物事の別の見え方を説いたものであった。
世の中とは皮肉なものの見方をする。高潔な志が、そのまま受け止められるとは限らないのだ。
未熟さを受け入れられるルートルーンは、ヘルダロイダの意見を素直に認めた。確かに、ルートルーンが事態に当たることは、ロンドウェイクの罪に対する厳しい姿勢よりも、ルートルーンの立場に対するリードリットの厳しさの方が際立ってしまう。ゴドフリートが名乗り出たように、適切な人材は他にいるのだ。
「……それでも、それでもお願い申し上げます。ここで父を避けて通ってしまったら、私は父を超えることは出来ず、何者にもなることが出来なくなってしまいます。死んだように生きろと仰せになるのでしたら、父と共に裁き、この身を流れる汚れた聖血を、どうか絶やしてくださいませ」
その声には、聞く方がいたたまれなくなるほどの悲壮な決意が込められていた。
生真面目なルートルーンが、父の罪業を受け流せるはずがないのだ。
「殿下。今は何を申し上げても心に響くことはないでしょう。ですが、歳月は御身の御味方でございます。生あれば、必ず道は見えてくるものです」
アウグステインが言葉をかける。
想いは届いたのだろう。気遣いに感謝を返すが、言葉が心に届いていないことは、瞳の暗さが物語っている。
「やれるのか?」
リードリットは翳るルートルーンの瞳に、強い眼光を叩きつけながら言った。
ルートルーンが逸らしそうになる視線を、瞳の力だけで許さない。
蛇ににらまれた蛙のような状態になっていたルートルーンだが、最後にはリードリットに劣らない力を瞳に込めて見返した。
「やれます」
「では、任せる」
「陛下!!」
ディルクメウス侯爵が非難の声を上げる。ルートルーンの言葉は、若さから来る青さだ。自分で抑えられない心の荒ぶりを、代わりに抑えてやるのは周りにいる大人の役目だ。
恨まれてでも強引に退かせるべきなのだ。
「親を子が裁く。やらせるべきではないというお主の考えには、私も同感だ。だが、ルートルーンも王族だ。三賢王以降の王家の堕落ぶりを振り払うためにも、ルートルーンには、ここで、苦い思いのすべてを飲み下し、大人になってもらう」
ここでリードリットは、カーシュナーに連れられて訪れた地下病棟でのことを思い出していた。
「世を見ろ。親もなく、身寄りもない子供は、歳に関係なく、生き残るために強くなることを強いられている。以前私は妹を食べさせるために、盗みを働き、やせ細った身体を傷だらけにした少年を看取ったことがある。水のように薄い粥を口にし、死の間際にも、それを妹に食べさせてやりたかったと語って死んでいった。まだ十歳ほどの幼子が、死にゆく己のことではなく、守ってやれなかった妹を想ってだ。明日の食事を思いわずらうことなく、武芸を磨き、教養をたくわえる機会を許された我ら王族に、ありきたりな甘えは許されん」
リードリットの目には、己に対する厳しさがあった。それを他者に求めることの理不尽を承知で、リードリットは保護することではなく、強さを身につける機会を与えるために、ルートルーンの申し出を受け入れたのだ。
「今後はお主を頼りにしていくつもりだ。父を越え、私も越えて強くなれ、ルートルーン」
姉のように慕ってきたリードリットに、守られるのではなく、支えてくれと頼まれる。父の罪業により、己を無価値な存在と感じていたルートルーンは、リードリットの想いに目頭が熱くなる。
泣くまいと強く歯を食いしばり、ルートルーンは絞り出すように短く答えた。
「はい」
誰からも愛された心優しい少年は、大きな挫折を乗り越えるために前を向いた。この時点でルートルーンは、未熟ではあるが大人になったのだ。
リードリットの厳しい思いやりと、それに応えようとするルートルーンの危うい覚悟を前に、ディルクメウス侯爵も折れるしかなかった。現実問題としても、新たな宰相となり、国政の中心人物となったゴドフリートの身を危険にさらすことは、これから先のヴォオスを危険にさらすことに他ならず、別の人物を勅使にたてることを提案するつもりではいたのだ。
「これで一応の対応は済んだと考えてよろしいでしょうかな?」
クリストフェルンが確認する。
「あとは出兵の予定だけじゃな」
レイブランドが答える。
「今すぐ動く」
リードリットの決断は早かった。性急と言えなくもないが、クロクスの権勢を崩さずして、リードリットの目的を遂げることは適わない。万が一にも敗れるようなことがあれば、困窮する民衆を救う手立ては失われることになるのだ。
「まず初めに変えなくてはならないのは、この国の真の支配者はクロクスだという、人々の認識だ。それが出来ない限り、私の言葉は誰の耳にも届くまい」
リードリットの言葉は、誇張ではなく事実であった。
命令を下す正当な権利をリードリットは手に入れた。だが、その命令に従うと、クロクスがリードリットを退け、復権した際確実にクロクスからの報復を受けることになる。その権威を恐れるあまり、リードリットの政策が、法を整備し、綿密な計画を立てたとしても、現場では機能しない可能性が高いのだ。
「ライドバッハの動き次第ではあるが、この先の一戦にすべてがかかっている。レオフリードとルートルーンは直ちに出立せよ。残りの者も今すぐ戦の準備にかかれ。以上だ」
リードリットの命令に、レオフリードとルートルーンが即座に席を立つ。だが、命じたリードリットは席を立たず、居並んだ人々をぐるりと見渡した。
「よくこれだけの者が集まってくれたものだ。特に五大家の当主方とゴドフリートには、よく重い腰を上げてくれたと感謝している」
「感慨に浸るには早過ぎませんか?」
クリストフェルンがどこか楽しげに言葉を返す。五大家当主の中では最年少に当たるクリストフェルンにとっても、大国ヴォオスにおいて特権を許された五つの大貴族が、王家も含めて顔をそろえるのは初めての経験だった。表にこそ出さないが、興奮と感慨は、リードリットに劣るものではない。
「そうだな。本番はこれからだ。振り返って思い起こすほどのものは、まだ何一つ積み上げてはいない。だが、ここでたずねておかねば、聞けなくなりそうな気がしてな。何故これほど早く五大家は動いたのだ? 正直私は動かんと思っていた」
「失礼ながら陛下、間違いを一つ訂正させていただきます。我ら五大家は、ようやく動いたのではなく、はるか以前から動いていたのです。現王統を廃する方向で」
アウグステインが、表情こそ穏やかに、だが、眼光だけは射抜くように鋭く細めて答えた。
五大家の関係者以外の全員が、驚愕に目を見開く。
それは当然の反応だ。ライドバッハの反乱やクロクスの権力の拡大が霞むほど、それはこの国の誰もがその可能性を恐れ、同時に起こりえないと信じてきた、王家対五大家の戦いが、勃発寸前だったということなのだ。
さすがのリードリットも、額に汗が浮かぶ。
「回避出来て本当に良かったですわ」
周囲の反応を楽しみながら、ヘルダロイダが小さく笑う。
「……まことに。こんなに腹の底が冷えたのは、初めてですな」
英雄と称えられ、数々の戦で勝利を収めてきたゴドフリートですら、表情が引きつっている。
クロクスが恐れ、懐柔に躍起になっていた五大家の力は、近隣の国々と事を構える以上に、ヴォオス人に緊張を強いるほど強大なものなのだ。
「……しかし、五大家にそう決断させてしまったのも、今ならよくわかる。お主らには、私という存在はどう映っていたのだ?」
「どうとも」
レイブランドが短く答える。
「眼中になしか。国を見渡す視野で眺めれば、確かに私は意味のあることをしては来なかった。その評価は妥当だな」
リードリットも過去の自分を振り返り、苦笑を浮かべて認める。
「そうとも限りますまい。正直我らも、自らの不見識を恥じ入る思いです」
アウグステインがつるつる頭を叩いて頭を下げる。
「そうじゃな。今では三愚王などと呼ばれておる暗愚の王たちが出現し始めたあたりから、五大家は王家の血の中から新たな英雄が誕生してくれることを願いつつ、そうならなかった時に備えて動き始めておった。しかし、バールリウス様がクロクスの傀儡と化し、ロンドウェイクがその能力の高さから兄に対する妬心に心を奪われてしまった時点で、わしらは待つことに見切りをつけてしまった」
レイブランドがため息をつく。
「ことに陛下に対しては、異相を持ってお生まれになった時点で、正しい目で見ようとしませんでした。貴族社会からの反発が予想されたからです」
アウグステインが後を引き受け苦笑する。五大家筆頭のヴァウレルが、後添えとして渡来人であるカーシュナーの母親を迎えたことでもわかるように、五大家には渡来人やその子孫に対する偏見はない。王家を含む五大家の血統の中には、知られていないがヴォオス建国以前から渡来人の血が入っていたのだ。
建国の英雄ウィレアム一世や、五大家の初代たちが特別優れた力に恵まれたのも、渡来人の血がもたらしたと言われている。
故に建国後、ウィレアム一世は、渡来人に対するいわれなき差別と偏見を禁止した。そのおかげで下級層での差別や偏見はほぼなくなったが、特権意識にしがみつく貴族たちの間では、三百年の時が流れてもくすぶり続けた。
五大家はこの貴族たちの差別意識からくる反発を警戒するあまり、リードリットという存在を見落としていたのだ。もっとも、その後成長していく過程で見せたリードリットの振る舞いが、より五大家からの評価を低くしたということもある。
「反発がなくなったわけではないが、かまわんのか?」
リードリットが皮肉たっぷりにたずねる。
「事が成ったあかつきに、紅の女王の赤髪に反発するような愚か者は、生き残ってはいないでしょう。それに、反発するような貴族社会の馬鹿の多くは、己の罪が招いた罰により、すでに処刑されております」
答えたヘルダロイダの皮肉の方がはるかに強烈だった。
これにはリードリットも笑うしかない。
「正しいことを成そうとする強固な意志を持ち、なおかつそれが独善にならないように他者の意見に耳を傾けることが出来る柔軟な思考の持ち主。陛下は我らが待ち望んでいた人物だったのです」
クリストフェルンが誇らしげに語る。
褒められ慣れていないリードリットが照れくさそうに苦笑いするのを、シヴァが冷めた目で眺める。
「私が言っているのではないからな」
何故か言い訳がましいことを口にしてしまい、それを打ち消すようににらみつける。
「今は確かにそうでしょうがね。最初がひどかったからなあ。ミランのこと拷問しようとしてたし」
「そ、そこまでひどいことを考えていたわけではない!」
「どうだか」
二人のじゃれ合いを楽しげに眺めていたレイブランドが、しみじみと語る。
「もう二年近く前になりますかな。ヴァウレルのところの小倅がふらりとたずねて来て、王家を見限るのをもうしばらくの間だけ待ってほしいと言ってきよった。五大家の中でも限られた者しか知らないことをどうやってかぎつけたのか、青臭いことをほざいておったあの小倅の言葉通りになった」
「とはいえ、今日のこの結果のために二年近くも待たせるのですから、しびれを切らす寸前でしたわ」
ヘルダロイダが口を尖らせる。少女じみたしぐさが妖艶な空気と相まって、異様な色気を醸し出す。
「彼にとっても賭けだったのでしょう。おそらく、見限るときは彼が最も早く、そして厳しく切り捨てたと思いますよ」
クリストフェルンも、カーシュナーを評価する。
「クライツベルヘン家の兄弟は、すべて良しと言われてきたが、まさか最後がこれほどの仕事をしてくれるとは思わなんだ。ヴァウレル。もう二、三人作ったらどうだ?」
同年代で気心の知れているアウグステインが、冗談とも本気ともつかないことを口にする。
「生まれたらうちの孫か曾孫の婿にくれ」
レイブランドが気の早過ぎることを言う。お家繁栄のために有能な人材を求めるのは五大家に限らずどこの貴族でも一緒だが、レイブランドの場合どうやらお見合いをさせるのが趣味らしい。
「なんで私に期待する! 息子たちに言え!」
ヴァウレルが苦笑しつつ無茶ぶりを息子たちに放り投げる。
話を振られる格好になったヴァールーフがしどろもどろになったことで、ひとしきり笑いで場が満たされる。
笑いの波が引くと、ヴァウレルが改めてリードリットに頭を下げた。
「愚息のことです。無茶なことを申し上げたり、したでしょう。あれを信じ、言葉を受け入れてくれましたことに、父として感謝申し上げます」
それは五大家筆頭という立場を脇に置いた、父として一人の息子を想う言葉だった。
リードリットは満面に笑みを浮かべ、しかし首は横に振る。
「礼を言うのは私の方だ。あれは私が自ら閉ざし、閉じこもっていた小さな世界の扉を開いてくれた。赤い髪と金色の瞳を持って生まれてきた私には、自分だけが回りと違うという現実と戦うことがすべてだった。王族としての責任など一顧だにして来なかった。それどころか、この国の陰の支配者はクロクスだと言われていることに対しても、富は増し、国政は過不足なく機能しているのだからかまわないとすら思っていた。私は王族として何かを望まれているわけではなかったからな」
ここでリードリットは一呼吸置くと、ヴァウレルにではなく、その場にいるすべての人々に向けて続けた。
「あれは私を必要としてくれた。周囲の人々と違うのは私だけではないと、金色の髪と翠玉の瞳でもって教えてくれた。何より、人とは違うということで、それに抗うことしか出来なかった私に、より広い視野を持ち大望を成し遂げんとする意志を示してくれた。私も理想を思い描き、求めてもよいのだと示してくれた。
やれと言うのではない。俺はやりましたけど、殿下には出来ませんかと、とぼけた顔で私に振り向き、私の行動を待ってくれた。
走り出した私と共に駆け、共に戦い、教え導き、支えてくれた。やさしいくせに厳しさも持ち合わせているから、一人で皆の苦しみを背負い込もうとする。あれは私に、人々の上に立つ者の姿ではなく、前を歩む者の背中を見せてくれた。
あの背中に追いつくために、私は何としてもこの国を立て直して見せる」
「追いつくためじゃあダメでしょ。追い越さないと、あいつへの恩は返せませんぜ。それは俺も同じですがね」
いいことを言ったリードリットの台詞を、最後にシヴァがおいしく持って行こうとする。
「そうだな。あいつが頼むに足るだけの背中を見せつけてやらねばならんな」
怒るのではなく、素直に受け入れ晴れやかに笑う。
(あちゃあ! こりゃあカーシュの前に、俺の方が追い越されちまったかもしれねえな)
今や宮廷中を魅了するまでに至った戦女神の笑顔に、シヴァは苦笑でもって応えた。
「では行くとしようか。ルートルーンやレオフリードに遅れたとあっては笑い話にもならん」
そう言って勢いよく立ち上がると、リードリットは我先に大会議室を後にした。
即位してもその戦装束は変わらない。今すぐにでも戦場を駆けることが出来る。
残りの者たちも席を立ち、戦準備のために大会議室を後にする。
先を行くリードリットの背中は、すでに本人が望んだだけの力を兼ね備えていた。新たな時代のために先頭を駆け、後に続く人々のために道を開く、頼むに足るだけの背中に――。
10/17 誤字脱字等修正




