暴かれた悪意
謁見の間に集められた文官、武官、貴族たちの大半が捕らえられ、その罪状の重さ故にほぼすべての者に死罪が申し渡される。
多くの国民が、終わらない冬に閉ざさせ、飢えと病に苦しんでいるとき、その特権を当然のこととしてこの世の春を謳歌していた罪人たちが、突然訪れた春の終わりに絶望と怨嗟の声を上げているとき、カーシュナーは多方向から王都の地下に張り巡らされた盗賊ギルドの本拠地、地下競売場への入り口を取り囲んでいた。
何の変哲もない民家や商家、時には治安軍の詰所といった、盗賊ギルドとは一見何の関係もなさそうな場所に、現在一時的にカーシュナーの指揮下に入ることになった治安軍の兵士たちが、いくつかの小隊に分かれて張り付いている。
地下水道を違法に改造して地下に住み着いているため、本来の盗賊ギルドの出入り口を完全に封鎖することは出来ないが、地下競売場を利用する上客向けの出入り口は、それほど多くはない。
盗賊ギルドの壊滅も主目的の一つではあるが、今回の襲撃はクロクスが築き上げた地下競売場の壊滅こそが本命で、盗賊ギルドの下っ端に関しては、重要視していない。
地下競売場を利用する大物たちと、地下競売場の運営に深く関わっている盗賊ギルドの幹部たちの身柄の拘束が最大の目的だ。
「みんな、ようやくこの日が来たよ。本当なら、あの日あたしたちは勝っていた。でも、クロクスが軍まで動かして横やりを入れてきた。その軍が、今日は味方にいる。皮肉な話だけれど、あの日あたしらがなめさせられた辛酸を、今度はあたしらが、ギルドの<掟>を破って権力に媚を売った裏切り者どもに、味あわせてやる番だよ!」
リタの言葉に、現在の盗賊ギルドに反意を示し、組織を抜けた者たちが、吼えるように答える。
戦士ではないが、周囲を固める兵士たち以上に気合が入っている。裏の社会に生きる者たちにも、裏で生きるなりに矜持があるのだ。
「時間だ。行こう」
カーシュナーが促す。そこには普段のおふざけはない。敵の本拠地に乗り込むのだから当然だ。地の利は敵方にある。正面戦闘では圧倒的に劣る盗賊は、当然まともにやり合おうとはしない。各所に致命的な罠を仕掛けている。トカッド城塞への潜入では、騙す側だったが、今度は神経をすり減らす騙し合いだ。カーシュナーといえども、意識の隙間に穴を開けている罠に足を突っ込めば命はないのだ。
「打ち合わせ通り、あたしらが先行する。あたしらが通った後だからって、絶対に不用意に物に触るんじゃないよ」
にらみを利かせてリタが忠告してくる。愛くるしい見た目に反して、暗殺者として多くの修羅場を潜ってきている。なまじ整った容姿をしているおかげで、凄んだ時の眼光は、ミデンブルク城塞からレオフリードと共に王都へ戻ってきた実戦経験豊富な兵士たちすら一瞬しり込みさせた。
「……そんなにやばいんですか、カーシュナー様?」
古参の千騎長の一人が小声でたずねてくる。
「剣でバッサリ斬られれば、死ぬのはわかるだろ? でも、盗賊相手の戦いは、ほんの小さな棘にチクリと刺されただけでもあの世行きの戦いになる。しかも、相手が目の前にいない時の方が危険度が高い。何をしてくるかわからない相手と戦うのは、本当に怖いよ」
まるで怪談話でもするかのように、抑揚を聞かせて話す。最後に大声でも出して驚かせるようなことでもすれば、普段のカーシュナーらしいのだが、それきり真剣な表情で黙り込んでしまったため、その怖さはより強調されて兵士たちに伝わっていった。
「理解してくれたみたいだね。あたしとしても、あの男前の将軍様の部下を、無意味に死なせたくないからね。騙し合いはあたしらに任せといておくれ。その代わり、まともな戦闘は任せたからね。頼りにしてるよ」
そう言って、先程とはまるで別人のように微笑んだ。それは自らの光で周囲を照らし出す花のように愛らしい笑顔だった。
強面の千騎長たちが、思わず頬を赤らめ、気合を入れる。美人に頼られると嬉しいのが、男という生き物の単純さなのだ。
その様子を見ていたカーシュナーが思わず苦笑を漏らす。
「笑ってんじゃないよ!」
鋭い肘打ちが、カーシュナーの脇腹を捕らえる。筋肉の薄い場所に叩き込まれ、カーシュナーは腹を押さえてうめいた。
「気合入ったかい? 本当にしょうがない奴だよ」
五大家筆頭貴族の子息をいいようにあしらう元暗殺者の小娘を見て、男たちは思わずつばを飲み込んだ。尻に敷かれるとは、こういうことをいうのかと。それとは逆の意味で、赤玲騎士団の女騎士たちは、リタの一挙手一投足を食い入るように観察していた。今後の人生に生かすために。
その真剣なまなざしを見た男たちは、再びつばを飲み込む。頭の上がらない未来が一瞬脳裏をよぎったからだ。
「行くよ!」
リタの号令に、全員が声をそろえて応えた――。
◆
地下水路の壁に反響する怒号と悲鳴は、王都の地下を走り抜け、何も知らない人々を恐怖に陥れた。
足元から響いてくるその声は、まるで地獄のふたが口を開け、王都ベルフィストを呑み込もうとしているかのような錯覚を人々に与えたのだ。
だが、人々が恐怖し、通りに溢れ出すころには、カーシュナーたちの襲撃は終了していた。
一年以上に及ぶ事前の入念な下調べ、襲撃のための準備。尽くさなかった手段は一つもなかった。だが、それ以上に襲撃を完璧なものにしたのは、宰相クロクスを後ろ盾に得たという盗賊ギルドの油断だった。
リタはマスターとは認めていないが、あっさりと捕らえられた現盗賊ギルドのギルドマスターが、あらゆる情報提供を条件に降伏を願い出て来た。だが、
「あんたが知っている程度のこと、あたしらが知らないとでも思ってんのかい?」
無情としか言いようがない一言と共に、バッサリと斬り捨てられた。
下っ端の盗賊たちは取り逃がしたが、逃げた盗賊たちが王都で仕事をすることは出来ない。他のまっとうな仕事が出来ない人間だからこそ、裏稼業に手を染めているのだ。稼ぎようがない以上王都に居座ることは出来ない。そのため、わざわざ探し出さなくても、自分から王都を出て行くのだ。事実上の永久追放だ。
加えて、街道筋から外れた地方の街や村ならいざ知らず、主要な地方都市には王都同様盗賊ギルドが存在する。当然ギルドを通さずに仕事をすることは出来ない。した者には、非情な制裁が待っているからだ。ギルド間のそれぞれのつながりは非常に薄いが、それでもつながりが存在しないわけではない。盗賊ギルドの<掟>を犯した裏切り者はすべてのギルドに手配が掛けられ、姿を表せば追われることになる。捕まればどうなるかは、降伏を願い出たギルドマスターの最後を考えれば容易に想像がつくだろう。
だが、クロクスに呑み込まれた盗賊ギルドの運命は、ヴォオス国にとっては記録にも残らない些末な事柄であった。
この日地下競売場で白日の下にさらされたヴォオス貴族の醜態は、過去最悪と呼べる醜悪さで人々の記憶に刻み込まれたからだ。
襲撃に際し、その狂気の深さに潔癖な性質を持つ騎士の中には嘔吐を堪え切れず、襲撃の途中でうずくまる者までいた。
乱交に興じていた貴族たちは、屠殺されることを悟った豚のように逃げまどい、禁制品を扱っていた商人たちは、余りにも希少価値の高い商品を捨てることが出来ず、結局は命そのものを失うことになった。
アナベルに悲鳴を上げさせた剥製屋と、臓器の聖水漬けなどを扱っていた商人たちが兵士たちから最も嫌悪され、長く、長く悲鳴を上げ続けることになった。
中心部にあたる競売場には、ディルクメウス侯爵の令嬢が捕らわれており、無事救出することに成功した。
リードリットによる王位の譲位要求と、それに反発する形で発生した王宮騎士団の反乱と言う、二重に絡まった政変に気がつかず、愚かにも競売に参加していた貴族たちはすべて捕らえられ、王宮へと連行された。
ここでロンドウェイクが何をしていたのか、命乞い代わりにぺらぺらと告白する盗賊ギルドの幹部の言葉を、息子であるルートルーンは、顔色を薄汚れた雪のように白くして聞いていた。
ここに来るまでに胃の内容物はすべて吐き出していた。兵士たちが嫌悪したのと同じように、人間の剥製や、臓器の聖水漬けを目の当たりにし、ルートルーンの正常な精神と胃袋は滅多打ちにされていた。空になったはずの胃が、精神的圧迫により、再びむかつき始める。
そんなルートルーンを、カーシュナーは支えようとも励まそうともしなかった。リードリットに対してもそうであったように、突きつける現実は常に厳しいものだった。
ここで現実から目を逸らし、逃避するのならばそれも良し、嫌悪しつつも直視するのであれば、現実に加えて、さらに王族としての義務を、頭の上に放り投げるだけだ。
王家に生まれたというだけで、これまでの人生を優遇されてきたのだ。ひとかけらのパンにもありつけずに死んで行く民がいる以上、甘えも泣き言も許すつもりはない。義務を果たせないと言うのであれば、出家でもして僧院に入ればいい。
「……父上は、どうなるのだ?」
狂気によって地下に再現された地獄から、視線を離すことが出来ないまま、ルートルーンがたずねる。
「死罪です」
何の感情も込めずに、カーシュナーが答える。
驚愕に目を見開くでもなく、ただ言葉を受け止め、暗く沈んだルートルーンの瞳は、答えを知っていたことを物語っていた。
「なんとか償う道はないものだろうか……」
「過ちを、そうとは知らずに犯してしまう罪と、過ちと知った上で犯す罪とでは、同じ結果を招いたとしても、罪業の重さが違います。仮にルートルーン殿下が親子の情からリードリット殿下に恩赦を求め、それが容れられたとしたら、その瞬間が英雄王ウィレアム一世から始まり、今日まで受け継がれてきたヴォオス王家の最後となるでしょう。
王が王たることを放棄した時、国も国で在り続ける力を失うのです」
視線を合わせようとしないルートルーンとは違い、カーシュナーの視線がルートルーンから逸れることはない。ただそれだけのことが、ルートルーンにはとつもなく重かった。
言葉をなくすルートルーンをそのままにして、カーシュナーは周囲で証拠品の押収に忙しく働く兵士たちの監督に戻った。
一人立ち尽くすルートルーンを気にかけ、チラチラと兵士たちが視線を投げるが、この場の責任者であるカーシュナーが厳しい態度で放置している以上下手に声をかけることが出来ず、その場の空気が重くなる。
ルートルーンはその人柄から、貴族や王宮で働く者たちばかりでなく、一般の兵士たちからも人気があった。
その異相から誰もが避けて通ったリードリットに対して、中身だけを見て心を開いたのも、ルートルーンだけであった。他者を身分や外見ではなく、中身で判断出来る優れた長所の持ち主なのだ。
そんなルートルーンが、敬愛する父の実態と、自分のすぐ足元で繰り広げられた狂態を直視させられ、そのやさしく聡明な心が壊れてしまうのではないかと、ルートルーンを知る者たちは心配する。
「……私はどうすればいい?」
それは、うつむき、自分の殻に閉じこもるのではなく、前を向こうとする意志が込められた問いかけだった。
「どうするべきだとお考えですか?」
それに対し、カーシュナーは答えを与えるのではなく、問いを返すことで応える。
「父上の罪が、けして償うことが出来ないものならば、息子である私が償っていくべきだと思う」
「ならばそうなさいませ」
カーシュナーの答えはどこまでも冷たい。
その冷たさに弾き返されて、思わずうつむいてしまう。だが、次の瞬間、ルートルーンは決然と顔を上げ、合わせることが出来なかった視線を、真っ直ぐカーシュナーに向けた。
「誓ってそうしよう」
そこには重い決意があった。
柔和な外見と人柄とは裏腹に、人間としての芯は強かったのだ。
カーシュナーは意外な拾い物に笑みを浮かべる。
先程からの厳しさは変わらないが、その笑みが、ルートルーンを認めた証だと悟ったルートルーンは、不思議な安心感を覚えていた。
これまでの人生で、否定されたことなど一度もなかった。自分と言う存在を拒まれたことすらなかった。誰もが自分を受け入れ、敬意を払ってくれた。王族であるということはそういうことなのだと思っていた。
だが、それは違うのだ。人に受け入れてもらうこと、認めてもらうということは、容易なことではない。自分と言う人間の意味を証明しなければ、本当の意味で認めてもらうことは出来ないのだ。
王都の地下に巣くっていた地下競売場が破壊され、地下から狂気が去る。
リタと新しい盗賊ギルドの構成員となる男たちが地下に残り、カーシュナー以下すべての兵士たちが地上に帰る。
リタはその場で新たなギルドのギルドマスターに選出された。オリオン同様その能力の高さから、表の世界での活躍も可能であったが、本人がそれを望まなかった。
「クソみたいな貴族どもの仲間入りなんて、あたしはごめんだね」
これまで見てきた貴族たちの醜態を思えば、その言葉は皮肉として聞き流せないだけの痛みを、聞く者に与えた。
カーシュナーとともに襲撃に加わった治安軍の主だった者は、皆家格こそ異なるが貴族である。そんな自分たちよりも、上位にあたるとされている家格の高い貴族たちの醜態は、同じ貴族の称号を持つ者としては、大いなる恥であり、侮辱されたも同然であった。
その中でも、父親の所業を知り、これまでの世界のすべてを引っくり返され、ぶちまけられてしまったルートルーンには厳しい言葉だった。
「返す言葉もないよ」
リタの言葉に答えたのは、何の非もないカーシュナーだった。
現在の王族、貴族の在り方に、もっとも否定的であり、そのすべてを破壊しようとしているはずの男が、王都の地下で繰り広げられていた狂態を、我がことと考え恥じ入っている。
ああ、こういうことなのか。ルートルーンはカーシュナーの姿に納得した。姉と慕うリードリットが全幅の信頼を寄せている理由がよくわかる。
特権にあずかると言うことは、それに見合った責任と、認識を持つということだ。それは生得の権利を振りかざすことでもなければ、権力によって己の蛮行、愚行を正当化することでもない。多くの人々を代表し、世の中が少しでも正しく回るように努めるということなのだ。
地下から地上へと戻ったときには、少年期の中で穢れなく生きてきたルートルーンは、一人の王族として、苦いものをかみしめた男の顔になっていた。それは、今までの、穢れを知らない純真無垢であった自分をなくしてしまったということでもあった。
二度と戻らない時間が、どれほどの幸福に満たされていたのかを想い、ルートルーンはため息をつく。人は失って初めてその価値を知るというが、その通りであった。
であれば、せめてその価値をすでに理解出来ているものを失わないための努力をしよう。ため息とともに曲がっていた背筋を、ルートルーンはしっかりと伸ばした。
「カーシュナー卿。私は未熟だ。だが、何が正しくて、何が間違っているのか、それすらわからないほど幼いつもりはない。これから先、王族として私が表に出ることはないだろう。だが、これからの姉上の道程の手助けが少しでも出来るように、貴殿から学ぼうと思っている。どうか、力を貸してほしい」
ルートルーンの真摯な言葉に、カーシュナーは満面の笑みで応える。
「学ぶのであれば、最高のお手本が、これからの王宮には存在します。私が学んだ偉大な背中が」
「カーシュナー卿が学んだ相手?」
「ゴドフリート様です」
「……あのゴドフリート卿か! 噂話でしか知らないが、王宮の在り方を批判し、職も辞して王宮を去ったと聞いていたが、いるのか!」
「リードリット殿下がお招きになられました。王宮と言うより、ヴォオスと言う国そのものが一新されます。国政にたずさわってきた者たちの大半が姿を消すこれからのヴォオスの新しい土台を築けるのは、ゴドフリート様をおいて他には存在しないでしょう。新たに築かれる土台の上に新しいヴォオスを再建なさるリードリット殿下を、ゴドフリート様と共に支えてください」
「……? まるでその場に貴殿はいないような口ぶりだが……」
「私は五大家の人間です。国政にたずさわることは出来ません」
「そうであった。だが、そういった古い因習も、これからのヴォオスをより良くして行くためには、取り払うべきなのではないか? 貴殿の変えようとする力は必要だ」
「今は良くても、権力の集中は必ず腐敗を生みます。それでなくとも五大家の力は、一国の中にある貴族が持つには大き過ぎます。仮にクライツベルヘン家が現在以上の権力を有するようになり、その力を忠誠を持たない野心家が受け継げば、第二のクロクスを生むことになるでしょう。王家と五大家が距離を保つのは、必要なことなのです」
「では、貴殿が力を貸してくれるのは……」
「大反乱が終息するまでです」
言葉を飾らず返された答えに、ルートルーンは表情を引き締めた。
「では、それまでの間に、一つでも多く貴殿から学ぶとしよう」
「大反乱に呑まれてしまったら、学ぶもへったくれもないんですがね」
「!!!!」
初めて接するカーシュナーの、不謹慎とも言える軽口に、ルートルーンは思わず目をむいた。
「……ルートルーン殿下。これに慣れていただかないことには、カーシュナー様とまともにやり取りすることはかないません」
ダーンが申し訳なさそうに口を挟む。
「姉上は……」
リードリットはこの軽口に対応出来ているのかと、言外に問う。
「悪影響を受けております」
さらに申し訳なさそうに、ダーンは答えた。
王都の地下で見たものは、いまだにルートルーンには受け入れられないものであった。本当に同じ人間の所業なのかと疑う気持ちが今もある。むしろ、地下に潜伏していた魔族の仕業とでも言われた方が、はるかに納得出来る。それほどに現実離れした空間であった。
そこに至るまでも、そこでの戦闘でも、その後の処理に至っても、この男は怒りにも、悲しみにも、喜びにも、大きく感情を動かすことはなかった。
すべてを受け入れ、それでいて背負い込むことなく、成すべきことを成していく。今、目の前に立つ男の中に地下での出来事は微塵も感じられない。その意識がもうすでに、先のことに向けられていることがわかる。
父のことも含め、心と感情の多くの部分を、いまだに王都の地下に残してしまっている自分とは大違いだ。
どんな時でも、自分を縛りつけるあらゆるものを笑い飛ばせる強さこそ、自分に必要な要素なのかもしれないと、カーシュナーを見て思う。
「ルートルーン殿下。悪影響は受けないでください」
ルートルーンの内心を読み、主を主とも思わないような忠告を、本気でしてくるダーンに、ルートルーンは思わず吹き出していた。
笑ってみるとほんの少しだけ軽くなる。何が軽くなったのかはわからないが、少しだけ楽になる。
瞳の翳りを拭い去るには、まだまだ多くの時間が必要だろうが、それでもルートルーンは父の罪業を代わりに背負い、顔を上げて前へと一歩踏み出した――。
◆
「ベアトリーゼ!!」
文人肌の小柄な老人ではあるが、気骨があり、剛情な人柄のディルクメウス侯爵が、ルートルーンに付き添われて現れた孫娘を目の当たりにし、膝から崩れてへたり込む。
剛毅に振る舞っていたが、孫娘の安否を気遣い、心休まる時などなかったのだ。
剛情なまでに責任と立場を貫いたがために、孫娘よりも国の大事を優先させた。それはある意味孫娘を諦めるということだ。今の自分の立場に他人が立っていれば、心を鬼にして、「諦めろ!」と言うだろう。それがわかっているからこそ、自分自身が率先して、国に忠義を示す範とならねばならない。
己の決断に後悔はないが、そこに苦悩が生まれないわけではない。もちろん納得など出来ようはずもない。だからといって、貴族に生まれ、人の上に立つという責任を放棄するわけにはいかない。
「よかったな」
そう言って肩に置かれたリードリットの手の重さと暖かさが、苦悩をおして下した決断に対し、最高の報いが与えられたのだと実感させてくれた。
「……ベアトリーゼ」
立場と責任に追い込まれたとはいえ、孫娘を諦めた負い目が、ディルクメウス侯爵の手足を縛る。
そんなディルクメウス侯爵の内心を察したルートルーンが、拉致誘拐の恐怖から抜け出しきれていないベアトリーゼの手を取り、ディルクメウスの元へと連れて行く。
「……おじい様」
疲れ切った小鳥のような、小さく震える声でベアトリーゼが呼びかける。
その痛々しい姿に、胸の奥に鋭い痛みを感じながら、ディルクメウス侯爵は孫娘を強く抱きしめていた。
肉親の抱擁にようやく安堵することが出来たのか、ベアトリーゼは堰を切ったように泣き始めた。
「ディルクメウス。席を外してよいぞ。別室にてベアトリーゼ嬢を休ませてやるがよい」
「そうはまいりません。国政が混乱を極めている今この時に、休んでいるような時間などございません」
「本当に休めなくなるのは、もうしばらく後だ。その時は過労で死ぬまでこき使ってやるから、今は孫娘を休ませてやれ」
相変わらず、言葉こそ荒いが、気遣いに満ちたリードリットの言葉に、ディルクメウス侯爵の気持ちが揺れる。
「ディルクメウス。ベアトリーゼ嬢は、助け出してからここに来るまで、まるで心のない人形のようであった。幸い手荒な扱いは受けなかったようだが、獣のような男たちに捕らえられ、言葉では尽くせぬような卑猥な嫌がらせを、幾日も受けたのだ。心に受けた傷は、生涯癒えぬかもしれん。ここでお主がその手を離してしまったら、心そのものが壊れてしまいかねないだろう。せめて眠るまで、そばにいてやるがよい」
ルートルーンの真摯に思いやる気持ちと言葉の重さに、ディルクメウス侯爵はようやく自分を説き伏せることが出来た。
「このご恩、生涯を賭してお返しいたします」
「ということは、よくて年内いっぱいか」
ディルクメウス侯爵の心からの言葉に対して、リードリットがひどい軽口をたたく。
それを聞いたルートルーンは、これがダーンが心配していた悪影響かと思う。
「そう簡単にはくたばってなどやりませんぞ! いつまでも陛下のお側近くに控え、小言を言わせていただきますからな!」
リードリットの軽口に、ディルクメウス侯爵がピシャリとやり返す。だが、その言葉は、リードリットを主君として認めたことを同時に表していた。
「そうこなくてはな。へんにしおらしいお主など、気持ち悪いだけだ」
普段は鈍いリードリットだが、さすがに自身に向けられた呼称の変化に気がつき、ニヤリと笑ってやり返す。
「あ、姉上、気持ち悪いは言い過ぎです」
あまりに言葉が過ぎるので、ルートルーンが思わず口を挟む。
「まったくでございます! この老骨、どうやら病や老衰ではなく、頭に血が上り過ぎて、血管が破裂して死にそうですわい!」
ルートルーンの言葉に、ディルクメウス侯爵は大袈裟に嘆いてみせた。
「その様子ならば、しばらく死にはせんだろう。お主とゴドフリートには、国の基盤再生に尽力してもらわねばならんからな。すぐに楽になれるなんて思うなよ」
脅しにも聞こえるようなことを、嬉しそうに口にする。
言われたディルクメウス侯爵は、大きく肩を落とすふりをしたが、かつての英雄と並べられて期待されたことで、口角が嬉しそうに上がるのを抑えることが出来なかった。
「だから、それまで孫娘のそばにいてやれ」
「……ありがとうございます」
ディルクメウス侯爵は、リードリットの心遣いに素直に感謝し、ベアトリーゼを休ませるべく、その場を離れた。
二人の背中を見送りながら、リードリットはルートルーンにかけるべき言葉を探していた。
自分は先程、隣に立つ従弟の父親を死罪とする判断を下したのだ。これまでのような関係には、二度と戻れない。ひどく恨まれるであろう。ルートルーンが、父親であるロンドウェイクをどれほど敬愛していたか知っているだけに、その恨みの強さは相当なものになると覚悟していた。
「姉上」
リードリットが言葉を見つける前に、ルートルーンが口を開く。
意を決して視線を向けると、そこには数時間前にはなかった男の顔があった。
無垢であるが故に存在した幼さは影を潜め、眉間に深くしわを刻み込んだ、現実を知り、苦悩を覚え、大人になることを強いられた男の顔だ。
カーシュナーには甘いと鼻で笑われそうだが、それでも心のどこかで願っていたのだ。ルートルーンの清らかさが失われないことを。だが、その願いが叶うはずはなかったのだ。カーシュナーが地下競売場への襲撃に、ルートルーンの同行を願い出た時から、あの無垢な笑顔はもう二度と見られなくなるのだと、言い知れぬ寂しさと共に覚悟していた。それでも、変わってしまったルートルーンの顔を見るのはつらかった。
変わらざるを得なかったルートルーンが覚えたであろう痛みを思うと、身につまされる。
「私の処分はどのようなものになるのでしょうか?」
リードリットの想いとは裏腹に、ルートルーンは真正面から本題を切り出してくる。その瞳には、ゆるぎない覚悟がある。仮に父と共に死罪を言い渡されても受け入れるつもりだ。
「クロクスの不正にかかわった者、地下競売場にかかわった者のみ、処罰の対象とする。その家族、縁者に対しては、一切罪に問うことはしない。ゆえにお主に対する処分もない」
「……それは、私に対する温情から来る処分の軽減なのでしょうか?」
リードリットの答えに、ルートルーンは柔和な顔を強張らせて問い返す。自分に罪が及ばぬようにと、配慮があったのではないかと考えたのだ。
ルートルーンの質問の意図を汲み取ったリードリットは、首を横に振って否定した。
「親の罪を子が、夫の罪を妻が背負うという考え方は、私にはたんなる不条理としか思えん。納得することなど到底出来ない話だ。罪は当人が背負うべきものだ。一族として責を負うという考え方は理解出来るが、それは見せしめ的要素が強いと私は考える。不条理、理不尽は可能な限り排除していく。その分、罪に対する報いは厳しいものになる。もし、お主が地下競売場に関わっていたら、私は迷うことなくお主にも死罪を申し渡した。この考えに、お主に対する情愛の念はかけらも含まれてはいない」
リードリットの答えに、ルートルーンは大きく息を吐き出すと、愁いは帯びつつも、晴れやかな顔で頭を下げた。厳しい判断が、今はありがたい。今向けられて最もつらい感情が、同情だったからだ。
ルートルーンは頭を上げると改めてひざまずく。そして、リードリットに対して、一人の臣下として忠誠を誓った。
二人の姿を一歩引いた位置から眺めていたカーシュナーは、満足気に微笑みつつも、その陰で一つの重大な決意を固めたのであった――。
◆
いまだに処刑場で列をなす死刑囚たちが、恐怖から命乞いの言葉を叫び続けている中、略式ではあるがリードリットの戴冠式が行われた。本来であれば、列国の大使も出席する中、盛大にとり行われるべき重要な行事であるが、大使たちは地下競売場への関与から身柄を拘束され、列席するべき貴族たちの大半が、戦場にその身を置くか、処刑場にその身を置くという前代未聞の状況である。当然そこに華やかさなどかけらもなく、ただ事務的に戴冠式は執り行われた。
そもそも、今回の譲位はリードリットが実権を握るための手段でしかなく、他に方法があれば取られることのない手段であった。
遠くにライドバッハの大反乱軍が、十万以上の大軍を持って進軍中であり、近くには、国賊に指定されたクロクスとロンドウェイクのヴォオス軍が陣を構えている。
事態はまだ何一つ好転してはおらず、これからようやく混沌とした事態を動かし始めるのだ。
のんきに戴冠を祝っているような場合ではない。
それでも、たった一杯、皆で盃をかわそうと、酒杯が配られ、極上の美酒がなみなみと注がれていく。馥郁たる香りが鼻孔をくすぐり、これまで興奮で忘れていた喉の渇きを思い出させる。
その香りの高さに、酒に慣れていないミランが、匂いだけで酒に酔う。
その様子がおかしくて、リードリットは思わず吹き出した。終始余裕を見せてはいたが、待ち構える事態の大きさに、重圧を感じていなかったわけではないのだ。
笑える時は笑っておこう。カーシュナーと共にいて学んだことだ。
この場に集った人々は、数少ないリードリットの味方だ。その彼らと共に空ける杯は、さぞ美味いことだろう。
人々に酒が行き渡ったことを確認すると、リードリットが酒杯を掲げてみせる。居合わせた人々が返礼として酒杯を掲げる。一際大きな銀の酒杯がリードリットの唇に当てられた瞬間、一人の男が、わずかに口角を上げて邪悪な喜びを表した。
イヴァンの手が咄嗟に伸び、一息に飲み干そうと上げかけられたリードリットの手を止める。
「陛下。毒が入っております」
感情のこもらないイヴァンの言葉に、場が一気に騒めいた。
「まことか!」
アナベルが血相を変えて問い詰める。
イヴァンは自らの鼻を指さすと、大きくうなずいた。
好奇心から鼻を近づけたリードリットを、イヴァンが再度制止し、杯を受け取る。
「酒精と合わさることでその毒性を発揮するものです。揮発成分にも強力な毒性があります。吸い込まないでください」
杯を手にしていた人々が、次々と酒杯を戻そうとするのを、イヴァンが制する。
「皆さま。どうかそのままお待ちください。ただし、決して口をお付けにならないように」
イヴァンの言葉に、全員が素直に従う。イヴァンは毒の混入経路をたどろうとしているのだ。この場に状況が読めないような愚か者は一人もいない。
イヴァンは慎重に酒杯から揮発成分を手で扇いで嗅ぎ、毒の混入を確かめて回る。すべてを嗅ぎ分けてリードリットの元に戻ると、イヴァンは報告した。
「毒が混入しているのは、陛下の酒杯のみでございます」
イヴァンの言葉に、青い顔をした毒見役が、リードリットの酒杯に手を伸ばす。その手をモランががっしりと捕まえる。
「何をいたす! 離さぬか! 頼む。確かめさせてくれ! これが私の職務なのだ!」
抵抗する毒見役を無視して、リードリットがイヴァンに説明を促す。
「私はルオ・リシタ国の王子、ゲラルジーの専属奴隷として、毒見役も仰せつかっておりました。毒を見分けるための訓練は、徹底して受けさせられました。これは一般ではけして入手することの出来ない魔毒でございます」
「魔毒だと! 馬鹿を申すな! 魔毒は無味無臭の毒薬のはずだ! 臭いで判別など出来るはずがない!」
「知らなかったようだな。確かに魔毒自体に香気はない。ただし、意外な効果があるのだ」
「意外な効果だと!」
「魔毒には香りの高い酒の香気を高める効果があるのだ」
「馬鹿な!」
「より芳醇な香りになったことに気がつくべきだったな。毒が常に異臭を放つと思い込んでいたのがお主の間違いだ」
毒見役の男が咄嗟に舌を噛み切ろうとするのを、モランが気絶させることで阻止する。咄嗟に放った頭突きは恐ろしい威力だった。
「なるほど、先程酒杯を確認しようとしたのは、その毒で自害しようとしていたのか」
リードリットが他人事のような冷静さで、毒見役の行動を分析する。
「毒見役が毒を盛っていたとは……」
どこかずれてる主の分も含めて、アナベルが言葉に怒りをにじませて吐き出す。
「一人ではこの毒は盛れません」
「そう言うことだ」
イヴァンの言葉をオリオンが引き取り、給仕の一人の肩を叩く。ほんの微かにだが笑った瞬間を、オリオンに見られていたのだ。
肩を叩かれた給仕は観念したのか、表情を激変させてリードリットに指を突きつけた。
「何が聖血だ! 貴様らのどこが英雄王の末裔か! 高き理想を掲げて人々を導いたウィレアムの血は、とうの昔に濁り、腐りはてたのだ! 時代は貴様などではなく、新たな英雄王を求めているのだ!」
口の角に泡を溜めながら力説する。
「以外だね。ハゲ親父の手の者かと思いきや、白髭のおっさんとこの連中か」
シヴァがその意外さに肩をすくめる。
「ヴォオス史上最高の英知も地に落ちたもんだ。まさか毒殺とはな。三流策士のやりようじゃねえか」
「貴様ごときごろつきが、ライドバッハ様を語るな!」
言った直後に給仕の男は己の失策に気がついた。
毒見役の男は尋問で口を割らないために死を選ぼうとした。給仕の男も、この事態をクロクスに被せるつもりでいたが、感情が走り過ぎたために、新たな英雄王などという余計な一言を口にしてしまったのだ。英雄などと言う単語は、クロクスにもっとも似合わない言葉だ。
もういいとばかりにオリオンの手刀が振り下ろされ、給仕の男も意識を失う。
二人の暗殺者は、リードリットの暗殺という目的そのものには失敗したが、戴冠し、これから先の困難に対して一丸となって当たろうとしていた人々の勢いを削ぐだけの仕事は果たしたことになる。
「イヴァン。これに毒は入っていないのだな?」
リードリットが別の給仕が手にしていたガラス製の美しい容器を指さしたずねる。まだ一杯も注いでいないため、かなりの量がある。
すでに確認済みのものであったため、イヴァンはうなずいて答えた。
リードリットが手を伸ばすと、その威圧感のためか、給仕は反射的に容器を渡してしまう。
何をするつもりなのか悟ったディルクメウス侯爵が、慌てて止める。
「陛下! 念には念を入れ、代わりのものをご用意いたします! それをお飲みに……」
「必要ない。イヴァンが大丈夫だと言うのだ。気にするな」
言うが早いか、なみなみと満たされている容器を傾けると、浴びるように飲み干してしまった。
プハァ! というため息の後に、クゥゥッ! という、いかにも美味そうなうなりを上げる。
これに続いて、シヴァが、オリオンが、レオフリードが、手にしていた酒杯を次々と飲み干していく。
元奴隷の毒見を信じて、かけらも迷わず飲み干していく。
これを目にした五大家の当主たちが、大笑いしながら続き、残りの者たちも続く。そして、ディルクメウス侯爵が頭を抱える中、リードリット同様、さも美味そうにため息をついたのであった。
「王宮の礼儀作法が……」
まるで大衆酒場のような盛り上がりになってしまった戴冠式の締めくくりをディルクメウス侯爵が嘆く。
「お主も呑め! それとも、私の毒見の後でも不安か?」
リードリットがニヤリと笑って酒を勧める。
この挑発に、ディルクメウス侯爵がムッとしながら乗る。
「遠慮なくいただきましょう」
ディルクメウス侯爵はそう言うと、リードリットが手にしていた酒杯ではなく、新しいガラス容器の方を手に取る。
呆気に取られているリードリットを、小気味良さ気に見上げると、リードリットを上回る勢いで飲み干して見せた。
皮肉屋のシヴァも、これには素直に感嘆の声を上げる。
「この老骨、何は敵わずとも、酒で誰かに負けるつもりはございません」
リードリットの意表を突くことに成功したディルクメウス侯爵は、してやったりの笑みを浮かべた。
「見事だ!」
リードリットが素直に褒め称える。
「おじい様……」
ご満悦のディルクメウス侯爵の背後から、底冷えのする威圧感のこもった声が響く。
思わず肩をびくりと震わせて、ディルクメウス侯爵が振り向くと、そこには孫娘であるベアトリーゼ嬢の姿があった。
「お医者様から、お酒は控えるようにと言われていたはずでは?」
年寄りの冷や水ならぬ、年寄りの冷や酒を見つかったディルクメウス侯爵が、孫娘からお説教を受ける。
巻き込まれてはかなわないと、その場から逃げ出したリードリットとシヴァが、孫と小柄な老人のやり取りを、嬉しそうに眺める。シヴァの視線には、多分に意地の悪い喜びが含まれていたが。
「ベアトリーゼ嬢は、大丈夫なようですね」
「気丈な娘だ、さすがはディルクメウスの孫といったところだな」
拉致誘拐という恐怖にさらされ、心に傷を負ったはずのベアトリーゼの元気な姿を、二人は素直に喜んだ。
酒宴に入るわけではないので、各々が勢いよく酒杯を干したところで、リードリットは語り始める。
「クロクスばかりにかまけていたわけではないが、おかげでもう一人の相手を再認識することが出来た。国中の民を救うためにも、クロクス派に対する懲罰と、ライドバッハの大反乱の鎮圧という二つの難事を成し遂げなくてはならない。先頭は私が走る。皆ついてきてくれ!」
おおっ! という気合のこもった声が王宮に響く。
削がれたはずの勢いは、リードリットのイヴァンを信じて疑わないという心意気によって再び加速した。
戴冠式のその日、ヴォオスの歴史そのものが加速したのであった――。
10/11 誤字脱字等修正。一部表現ミス訂正。




