それぞれの思惑
重厚な執務机の背後で、その小柄な身体を書類に埋もれさせながら、クロクスは職務に励んでいた。
身体を預けている椅子も最高級の品であることは、物を知らない下町の鼻たれ小僧でもわかる逸品だ。
ルオ・リシタでは、<白香木>なる木材が特産品として扱われている。その名の通り、大理石すら及ばない美しい白さと木目、何年時が経とうと失われることのない清浄な香りを放つ最高品質の木材だ。
この白香木の中に、稀に存在するのが、銀色の輝きを持つ、樹齢千年を超える大樹<銀香木>だ。
銀香木は別名を世界樹と呼び、神が宿る神聖な樹として、ルオ・リシタの各部族が御神木として崇め、祀られている。
この神聖な樹が、ごく稀に流通することがある。
ルオ・リシタで一つの部族が滅び去ったときだ。
ルオ・リシタでは、ヴォオスでは精霊として扱われる存在を、部族ごとに異なる神として崇めている。故に、他の部族にとってはなんら神聖な意味を持たず、最高の略奪品として扱われ、切り倒されることになる。
太古の昔には、部族間での争いが絶えなかったルオ・リシタでは、いくつもの部族が亡び、銀香木も切り倒されたため、よほどの財力があれば入手することが可能であったが、ルオ・リシタ国が現在の国の形態を得てからは、内乱は何百年単位でしか起こらず、当然銀香木が切り倒されることもなかったため、その素材入手は不可能となっていた。
クロクスが執務に使用しているものは、驚いたことに千年以上も前に作られた骨董品で、本来使用するのではなく、その歴史的価値から、美術品として扱われるべきものであった。資産価値は当然天井知らずであり、仮に競売にかけるとしても、底値を定めることすら不可能であった。
国宝級の逸品を、クロクスはごく当たり前の机と椅子のように使用している。その価値がわからないわけではない。だが、値段のつけようもないほどの逸品ですら、クロクスにとっては使いやすくて気に入っている程度の価値でしかないのだ。
この辺りに、クロクスの大国を牛耳るほどの資産力の凄味がうかがえる。
国宝級の執務机の上に山と積まれていた決済待ちの書類たちが、瞬く間に切り崩され、特徴的なたまご型のハゲ頭が書類越しに姿を見せる。
めくらで処理されているかと思うと、恐ろしいことにそうではない。驚異的な速読で内容に目を通し、瞬時に判断、決済を済ませているのだ。
無能な人間には、石ころほどの価値も感じないクロクスの下で文官を務めるということは、優秀さを証明することでもある。
リードリットに対し、無用な偏見を持たず、使える者は誰であれ使うという考えを大会議で示したように、クロクスには家柄や家格などは通用しない。己こそが最も優れており、他の者は、自分が効率的に動かしてこそ意味を成す駒だと考えている。
そのため、クロクスの下で本当の意味で実務にたずさわる人間は、一個人の優秀さだけが頼りであり、無能と判断された者は容赦なく更迭される。
結果として、クロクスの手元に届く書類はその時点で一点の落ち度もない完璧なものが届けられる。
それでもめくらで署名等を行わないのは、人間の油断、ゆるみというものを理解しているからであった。
常人であれば、どこから手をつけていいか、まずそこから頭を悩ますほどの量の書類を、わずか半日ほどで仕上げてみせたクロクスは、窓辺に立つと不機嫌そうに眼下の王都を見下ろした。
カーシュナーがはじき出した異常気象による大寒波での死者数は、クロクスも承知している。
予想死者数、約五百万人。
所詮は取るに足りない国中の小村落が、まとめて亡びるというだけの数字だ。
主要都市の要となる人材が生き残れば、クロクスにとってはさしたる打撃にはならない問題であった。
「役立たずどもが、腹を減らすことだけは一人前と来ている。あげくに反乱など起こしおって、無駄飯を食うぐらいならさっさと死ねばよいものを。まったく腹立たしい」
反乱の影響で、ただでさえ滞っている経済の流通がさらに悪化し、処理した書類の中からもその影響が読み取れる。クロクスの苛立ちは、無能な人間に足を引っ張られ、自身の利益が損なわれることに対するものだった。
「それにしても、いつの間にライドバッハは反乱の手引きなどしておったのか。奴は常に監視しされていたはずだ。配下の兵に指示など出せたはずがない。この王都にあって、わしの監視を免れるのは不可能だ。いったいどんな手を使ったのか……」
対ライドバッハに関して、クロクスは大将軍であるロンドウェイクを全面的に支援する立場を取っている。だが、それはあくまでも表向きのものであり、信頼などかけらもない。任せておいて事態が解決するなどと考えてはおらず、反乱終息のため、独自の方策を思案している。
また、ロンドウェイクを単純な動員兵力差による力関係で抑えつけているが、潜在的な政敵であることに変わりはない。無用に大きな兵力を持たせたくないのだ。
王国軍の七割以上が、クロクスの息のかかった者たちによって統率されている。対ライドバッハのために勅命を使い招集した貴族連合軍も、有力な貴族はほとんど全員クロクスの支配する経済圏にいることで、現在の利益を確保している状況だ。逆らえば領地の管理運営など出来なくすることなど造作もない。
クロクスに対し、負債のない貴族など、五大家を除けば存在しないと言っても過言ではないのだ。
それだけに五大家の存在は、クロクスにとっては目の上のコブ以外の何ものでもなかった。しかも両目の上である。
その特権の数々を考慮に入れて考えれば、その存在は別国家と言っても過言ではなく、ヴォオス国に対して五大家が約束されているものは、王家に対する忠誠のみなのである。勅命に対する拒否権を有し、領土内を治める独自の法は、ヴォオス国の法制度よりも優先順位が高い。
仮に、ある貴族が別の貴族の領内で罪を犯した場合、その罪に対する処罰は国の定める司法機関が下した裁決にゆだねられる。
捕らえることは出来るが、そこから先の処罰に関しては、被害を受けた貴族が、自身が治める領地の領民を裁くように、加害者である相手貴族を裁くことは出来ないのだ。
だが、この法律が、五大家には適用されない。領内で起こったことは、どのようなことであれ、五大家が定めた領内の法に則って裁くことが出来る。
五大家で開かれる催しなどに参加する貴族は、その厳格な性質を良く知るため、酒量を抑え、日頃は角突き合わせる間柄の者同士でも、もめ事を避けるために愛想笑いの仮面を張り付けて参加する。そういった心がけのおかげでこれまで五大家の法の下で貴族が裁かれたことはないが、問題が生じた際には、どのような有力貴族であろうと、その罪に見合った処罰が下されることは間違いない。そこに、貴族だからなどという配慮が入り込む余地は一切ない。
それは、ヴォオス国三百年の歴史の中で、五大家が国に対して示し続けてきた媚びへつらいのない厳格な忠誠が雄弁に物語っていた。
クロクスの手の及ぶ範囲は驚くほど広い。国を牛耳っているという表現は決して大げさなものではなく、こと経済の世界でクロクスの影響力が及ばない場所はほとんどない。そういう意味では、五大家すらも完全に無関係ではいられない。それでも、クロクスが明確な態度で敵対出来るほど、その長い手は五大家の中には食い込んではいなかった。
密偵一人潜り込ませることすら至難の業なのだ。
逆風だらけであった王国軍であったが、ここにきて事態が好転し始めた。
クライツベルヘン家の支援のおかげで、想定外ではあるが南の国境線が安定し、ゾンという脅威を一時的ではあるが考えなくてよくなった。
ヴォオスの西部地方を荒らしまわっていた謎の略奪集団も、エルフェニウスの策略と、増援として動かしたリードリットの赤玲騎士団により討伐した。金を捨てるつもりで投資していたリードリットの予想外の活躍のおかげで、王国軍はいよいよ王都の北に展開すライドバッハの軍に対し、全面攻勢に出ることが出来る。
だが、ここで厄介なのが動かない五大家の存在だ。ライドバッハとの決戦で大きく兵力を損なうようなことがあれば、五大家との戦力比が、五大家が抱える総兵力との比で下回りかねない。勝てばまだしも、まかり間違って大敗でもしようものなら、下手をすればロンドウェイクを抑え込んでいる動員兵力差にすら影響を及ぼしかねない。
勝ち方を選ばなければならないのだ。
もっとも、その勝ち方は、すべての五大家が協力してクロクスに対抗してくることが前提である。個々の五大家が相手であれば、いかにその力が一国並であろうと、大陸一の強兵を誇るヴォオス軍の敵ではない。ロンドウェイクを抑え込み、ヴォオス軍を掌握出来てさえいれば、多少兵力が損なわれようと、何ら問題はないのだ。
だが、五大家には他の貴族との間にはない血縁の濃さがある。その権力拡大を避けるために、五大家はそれ以外の貴族との間に婚姻関係を築いてこなかった。それはそれで、王家に対する配慮であり、クロクスが勢力を伸ばす隙になってくれた。皮肉なことに、これまではクロクスにとって有利に働いてくれたことが、今になって厄介な結束を五大家にもたらしているのだ。
この状況は、一歩間違えるとクロクスの手から権力の手綱を引き抜きかねない可能性がある。
ロンドウェイクがライドバッハとの決戦に際し、クロクス派の兵力を矢面に立て、あえて兵力の損耗を狙った場合だ。
ライドバッハの名声は極めて高い。ロンドウェイクは勝利という結果さえ得られれば、クロクス派の戦力などいくら失ったところで、責任を問われる心配はないのだ。無敗の知将の存在は、それほどに大きかった。
クロクスが抱える唯一の問題点が、ロンドウェイクに代わるだけの力を持った武将を懐に抱えていないことだった。
ロンドウェイクを大将軍に据えておくことはかまわない。その権限をもってしても、クロクスに対抗出来ないでいるのだから、与えておくには丁度いいおもちゃのようなものだ。むしろ引きずりおろしでもすれば、ロンドウェイク派の有力者たちがライドバッハ陣営に与しかねない。
そうなればライドバッハの勝利は、戦わずして確定する。
上手く飼い殺すしかないのだ。
こうなると、昨年王都で起こった盗賊ギルドの分派との抗争で、大陸最強と謳われた傭兵、アイメリックを失ったことが響いてくる。
奴さえいれば、今頃はヴォオス軍の実権を完全に掌握出来ていたはずだったのだ。
金に忠実で、クロクスとは実に相性のいい男であったが、死んでしまったものはしょうがない。
その能力でライドバッハに対抗しうるには、ロンドウェイクを総大将として戦場に送り出すしかなく、その上でロンドウェイクに戦場でクロクス派の戦力を削られないようにするためには、クロクス自身も戦場へと赴かなければならなかった。
「この冬だ! この終わらん冬がわしの計画を台無しにしてしまいおった! いま少しでわしの権力基盤は盤石なものになっていたものを……。ええい! 腹立たしい!」
クロクスのもくろみ通り事が運んでいれば、五大家を各個に抑え込み、その上でロンドウェイクを排除してヴォオス軍の軍権力を完全に手に入れることが出来ていた。すべてをねじ伏せられるだけの力を手に、バールリウスに王位を禅譲させ、王家の血を引く娘を妃に迎えることで、クロクスの親子三代にわたる野望が達成される。はずだった……。
「修正はいくらでも出来る。あと一歩なのだからな。とりあえずは、ロンドウェイクをしっかりと抑えておかねばなるまいて」
寒風吹きすさぶ窓の外を眺めながら、クロクスは嫌そうにつぶやいた――。
◆
西部地方の貴族を除いた貴族連合軍の後方。増援軍の中央に、ロンドウェイクの姿はあった。
その威風堂々たる姿は、ヴォオス国の内情を知らない者が見れば、歴史上最大規模の大反乱に対して、国王自ら軍を率いて親征の途上にあると勘違いしたかもしれない。
馬上にあるロンドウェイクの姿は、それほどに覇気に満ち、存在感を放っていた。
実際の国王であるバールリウスは、ライドバッハの反乱の規模すら知らされず、王都でのんびりと貴婦人たちと戯れている。
ヨアネス将軍麾下の三万五千の兵が発って後、貴族連合軍六万が出立した。その後、ミデンブルク城塞からのトカッド城塞陥落の朗報を受け、ロンドウェイクが一度は王都にとどめ置いた後発部隊一万を指揮し、進発していた。
ゾンの不審な動きに加え、西部地方に想定外の敵が出現したおかげで王都を離れるわけにいかなくなっていたロンドウェイクだったが、南の脅威が軽減したと判断し、ミデンブルク城塞兵の約半数である一万騎とレオフリード将軍を王都に呼び戻すことで王都の守りを整え、遅ればせながら、対ライドバッハ決戦へと乗り出したのだ。
王都ベルフィストは大陸経済の心臓部である。たとえ終わらない冬の影響で流通が滞っていたとしても、王都の秩序維持は国家経済の要である。駐在している各国の大使に対して弱味を見せることも出来ない。王都の守備兵力を割いてライドバッハに当てるわけにはいかなかったのだ。
戦場に赴くロンドウェイクの姿は、魔神ラタトスを討ち果たした勇者の末裔にふさわしい凛々しさであった。知勇ともに兼ね備え、鍛え上げられた肉体は一目でその力量の高さをうかがわせる。
兄であるバールリウスも、美々しい外見を持ち、幼少のころから現在まで、多くの婦人たちを虜にしてきたが、ロンドウェイクはその姿から、女性だけでなく、多くの兵士から尊敬を集めていた。
背筋を伸ばし、真っ直ぐに前方を見据える姿とは裏腹に、ロンドウェイクの内心は、様々な問題を抱え、重くうなだれていた。
今もっともロンドウェイクの上に重くのしかかっているものは、先日の地下競売での出来事であった。
軽蔑しつつも、人の運命を手のひらの上に乗せ、思い通りに操るという興奮は、ロンドウェイクの身の内でくすぶる野心の炎で焼かれ続ける神経を、一時的にせよ慰めてくれた。
ロンドウェイクは己の力に絶対の自信を持っている。王家の血に恥じないだけの努力を積み上げ、獲得したものだ。
時々、力など持たず、いま少し凡庸な男に生まれれば、自分は今の境遇の中でも満足を見出すことが出来たのかもしれないと考えることがある。
兄の立場を、すべて否定するつもりはない。怠惰で愚かであるがゆえに、王位を許されているようなものだからだ。三賢王が開いた自由の扉が多くの優秀な人材を招き、三愚王によって多くの奸臣を育てる結果になった。それはやがて、王家をも上回る実力を持つ、クロクスという一人の野心家へとたどり着き、王家の首に徐々に締まる縄をかけた。
本来であれば、弟であるとともに臣下でもある自分が兄を補佐し、事態がここまで深刻化する前に手を打つべきであった。だが、どうしても兄の能力と自分とを比較してしまう。そして、思ってしまうのだ。
どうして俺がこの男に仕えなくてはならないのかと――。
ヴォオスの歴史では、過去に何度か嫡男ではなく、能力に秀でた直系ではない他家の者がその能力を認められ、王位継承者に指名されている。
建国王ウィレアム一世は、凡庸で一国を率いる器ではなかった嫡男を排斥し、第二代国王に従弟にあたるエルゲンブレクトを据えている。三賢王時代を築いた三人の王の内、<馬上王>または<鋼鉄王>として知られる二クラウスも、<解放王>ウィレアム三世が愚劣な二人の息子を自らの手で排除し、継承順位の低かった二クラウスを指名したことで王位についている。その二クラウスの後を継いで王位についた<再建王>ラウルリッツも、子宝に恵まれなかった二クラウスにより、その能力を認められ、即位している。
前例があるだけに、優秀なロンドウェイクにはどうして俺だけ、という暗い炎がまとわりつくことになったのだ。
それでも、王位とは元来嫡男が継承することが正道である。王家の血を誇りとし、その誇りに恥じぬよう、野心を抑えてこれまで王位に仕えてきた。何の報いもないままに……。
この割り切れない心情が、ロンドウェイクを地下競売場で、人身売買に手を染めさせたと言えた。
そんな内心など微塵も表に出さないロンドウェイクの元に、不快な知らせが届く。
クロクスがさらに都合をつけた五千の兵員を引きつれ、ライドバッハとの決戦に参戦するというものであった。
ここで新たに五千の兵を得ることは大きい。ライドバッハの軍は、アペンドール伯爵がついたことにより、その戦力をさらに増やし続け、その総数は現在、十二万とも十五万とも言われているのだ。
だが、その魂胆が見え透いているだけに、ロンドウェイクは不快感を隠しようもなかった。
「どうやらクロクスは、まだ俺の力を恐れてくれているようだな。ライドバッハを討ったその手で、次は自分の首が飛ばされるとでも考えたか? それも存外悪くはないか」
ロンドウェイクの中で野心の炎が揺れる。自分が皮肉を込めて口にした言葉が、意外なまでに自分自身をあおり立てる。そして、不意にクロクスの目論見に気がつく。
「戦術に口出しすることが目的ではなく、俺がクロクス派の戦力をライドバッハに当て、その力をライドバッハと共に削ぐ可能性を恐れたか! なるほど。あのたまご頭の考えそうな薄汚い手だ。だが、悪くない。金をどれほど高く積み上げたところで、身を守る防壁になりはせん。金が持つ魔力が人を集め、力になるのだ。ならば、人そのものを減らしてしまえば、奴の財力など、財布を重くすることしか出来なくなるわけだ」
揺らいだ野心は意外な早さでその火種に息を吹き込み、炎を育てていく。
「ライドバッハの反乱を抑え、クロクスを排除すれば、認めざるを得まい。誰がこの国を導く王にふさわしいか。国家の大事に役に立たぬ王も、動かぬ五大家も必要ない。俺がこの国を救い、導いてやる」
寒風に乗り吹き流され、ロンドウェイクの独語は誰の耳にも届かなかった。だが、これまで抑え続けた野心のたがが外れたロンドウェイクからは、今まで以上の覇気が溢れ出していた――。
◆
王都ベルフィストの北方に、レダム砦は存在した。規模こそミデンブルク城塞には及ばないものの、国内の重要軍事拠点であることに変わりはない。
平時には北の隊商路の整備や安全管理を行うため、三千の兵士がつめている。
これまで、ライドバッハの軍勢の足が遅かったおかげで、襲撃を受けることはなかったが、王国軍の動きも鈍かったため、一歩間違えば十万を超える軍勢を、たった三千の兵で迎えなければならないという恐怖に、兵士も、レダム砦の責任者である千騎長ヘンドリックもさらされていた。
今日も、偵察隊からライドバッハ軍に目立った動きなしとの報告を受け、安堵のため息をつく。
ライドバッハの軍は、数こそ多いが、その大多数が飢えと寒さから反乱を起こした民衆であり、正規の訓練を積んだ兵士の数は、全体の三分の一程しかいない。その兵士も、ライドバッハに賛同した貴族の私兵が混じっており、組織として数的優位を有効に生かすには、まだまだ未熟であった。
新兵訓練の教官を務めたこともあるヘンドリックは、その経験からライドバッハが組織固めのために軍を止めているのではないかと考えていた。というより、何か策を仕込んでいるなどと考えると、眠ることも出来なくなるため、自分に都合よく考えていたのだ。
ヴォオスの北部地方を呑み込むかのような勢いで進軍して来たライドバッハの大反乱軍が、にわかにその速度を緩め、完全にその動きを止めたのが三日前のことであった。
そのまま速度を落とさず一気にレダム砦まで押し寄せられていたら、レダム砦は戦わずしてライドバッハに降伏していただろう。ヘンドリックの掌握力では、絶望的なまでの兵力差を前に精神的に追い詰められていた砦内の兵士を奮い立たせることは不可能であったからだ。
そんなレダム砦の状況を察していたヨアネス将軍が、先触れの使者を出したのは当然の配慮であった。使者の到着が後一日でも遅ければ、レダム砦は統率を失い、多くの脱走兵を出して瓦解していたかもしれない。
極度の緊張状態の中、砦を維持したとして、千騎長のヘンドリックは使者からヨアネスのねぎらいの言葉を受けとった。並大抵ではない重圧の元にいたヘンドリックは、報われた思いを抱き、感謝と安堵にひたった。
ヨアネス将軍の元へと引き返す使者を見送り、ようやく一息つけたと考えたヘンドリックだったが、それはまだ、早計に過ぎる判断だった。
レダム砦から使者と護衛の兵の一団が去るその姿を、驚くほど近くから、薄汚れた白装束をまとい、わずかに覗く目元を入念に白塗りした男が、目を細めて見つめていたからだ――。
レダム砦から戻った使者により、ヨアネス将軍はレダム砦の状況と、ライドバッハ軍に関する最新情報を得ていた。動きの鈍さは予想通り、数だけは増え続ける素人に手を焼いてのことのようだ。
「所詮ライドバッハの偉業など、精強を誇るヴォオス軍あってのものだったということだ。いかに優れた戦術を組もうと、それを正確に実践する兵がいなければ何の意味もない」
ここにきてのライドバッハの醜態に、ヨアネス将軍は部下を前に鼻で笑って見せた。
上背こそないが、厚みのある肉体は引き締まり、その姿に隙はない。強兵が集うヴォオス軍にあって将軍職にある時点で、ヨアネスの力量が頭一つ抜け出た存在であることを示しているが、その中でもヨアネスはその豪胆さと冷静さで全軍から厚い信頼を受けていた。
ライドバッハのこれまでの実績と、膨れ上がり続けるその数に、どうしても不安を覚えずにいられなかった王国軍であったが、あのライドバッハすら笑い飛ばすヨアネス将軍と、反乱軍の実態を知るにつけ、常からの自信を取り戻していった。
レダム砦に先触れの使者を送りこそしたヨアネスであったが、捨てる覚悟で一定の進軍速度を守り、兵士たちの体力を温存していた。だが、ここで一気に速度を上げる。砦に拠って迎え撃つのと、奪われたうえで平地に陣を敷いて迎え撃つのとでは雲泥の差がある。間に合うのであれば仮に半数の落伍者を出したとしても、レダム砦は押さえるべきなのである。ここを勝負どころと捉えたヨアネス将軍に発破をかけられ、配下の三万五千の兵士は取り戻した自信と共に、一路レダム砦へと足を速めた――。
◆
カーシュナーが王立学院で学んでいた同時期に、今やヴォオス軍の軍師第一席の座についたエルフェニウスも王立学院で学んでいた。
出席率が悪いうえに、実力を隠したいカーシュナーが、人々の注目を集めることはなかった。むしろ、優れた三人の兄と比較される立場に同情され、五大家の人間であるということも考慮され、触らぬ神に祟りなしと、程よい距離を置かれ放置されていた。
カーシュナーが韜晦する中、ライドバッハ以来の天才と謳われたエルフェニウスが同時期の学生たちの中で際立った輝きを放っていたとき、一人の騎士階級あがりの学生が、エルフェニウスの輝き以上に鋭い眼光を放ちながら、冷たく眺めていた。
男は名を、ミヒュールと言った。
幼少のころより神童と呼ばれ、父の戦働きの功により、さる貴族の推挙を受け、王立学院に通っていた。
王立学院の歴史は古く、建国王ウィレアム一世が晩年に着手した事業の一つで、二百年以上の歴史があった。それでも、当初は貴族の子息が領地の管理運営を学ぶための機関であったが、歴史を重ねるにつれ、あらゆる学問を学ぶ場へと、生徒と共に成長していった。
ヴォオスが富栄えるほどに、他国の侵略は激しさを増し、軍備拡張と共に、その軍を率いる将校を育てる必要が生じた。士官学校を設立し、部隊を率いる指揮官を育てていたが、その指揮官たちを束ねる上級指揮官的立場の者を育てる場として、王立学院に兵学科が設けられ、多くの貴族の子息たちが、領土の管理運営などに加えて学ぶようになった。
そんな王立学院に大きな改革の波が押し寄せたのが、三賢王時代だった。これまで貴族の子息のみが学ぶことを許されていた王立学院がその枠を取り払い、準貴族とされる騎士階級まで受け入れることになったのだ。
当初は平民まで、才気にあふれる者であれば誰であろうと受け入れる考えであったが、奴隷解放により、それまで奴隷として扱われていた者たちまで含まれることになり、奴隷と机を並べて学べるかという貴族たちからの大きな反発が生まれたため、騎士階級までとなった。
三賢王がどれほど努めようと、差別意識を取り払うには時間が必要だったのだ。
それでも、ヴォオス貴族には、新たな人材を見出すことも、家を発展、繁栄させるためには必要な仕事であり、多くの平民が貴族たちに見い出され、騎士に取り立てられ、王立学院に通うことになった。
ミヒュールの家系も、取り立てられて騎士階級を得た平民の家系であり、彼の祖父が能力と幸運に恵まれたおかげで、ミヒュールはその才能を埋もれさせずにすんだ。
ミヒュールの王立学院での成績は、エルフェニウスに引けを取らないものであった。
評価する者の中には、その才能はエルフェニウスを上回ると語る者もいるほどであったが、その成績がエルフェニウスを上回ることはなく、常に第二位の成績にあった。
王立学院では、鼓舞する意味を込めて、成績上位者を発表する習慣があったが、ミヒュールが王立学院に通うことになった始めの成績発表で、ミヒュールの名を見ることは出来なかった。
これをあからさまに批判してみせたのが、成績第一位を占めたはずのエルフェニウスと適当な論文などを提出し、成績を調整していたはずのにもかかわらず、成績上位者に名を連ねたカーシュナーだった。
在学者の中で、社会的地位が最も高いカーシュナーと、それに次ぐ大貴族の嫡男であるエルフェニウスの批判は、王立学院を大いに揺らした。
カーシュナーはこう主張した。
「私の成績は、良くても全体の中ほど、下手をすれば落第ギリギリのはずだ。成績に家格が反映されるのなら、いっそ第一位の成績にしていただきたい」
と、皮肉を込めてのたまえば、
エルフェニウスはこう主張した。
「公正ではない基準をもとに能力を測るのは、私の努力に対する侮辱だ。公正を期する気がないのなら、くだらない順位付けから私を除外していただきたい」
と、歴史ある王立学院に三下り半を突きつけた。
有力貴族の子息から相次いで批判を受けたことから、その親である王国内の実力者たちからの批判を恐れた王立学院の教授らは、苦々しく思いつつも態度を改め、安易に順位だけを発表するのではなく、どれだけの結果を残し、それをどのように評価したのかを公表するようになった。
これがまた、別の意味で議論を呼ぶことになったが、それは、一つの論文に対して、解釈の違い、評価の仕方の違いなどが、学生の間だけではなく、評価を下す側である教授たちの間でも活発に意見交換が行われるようになったからだ。
王立学院内の風通しがよくなって以降、ミヒュールは正当な評価を受けることになった。
カーシュナーの発言も、エルフェニウスの発言も、ともにミヒュールの才能があったから、表に出たものであることは疑いようもなかった。
また、いくら有力な後ろ盾を持つ二人からの批判であったとしても、ミヒュールの突出した才能がなければ、王立学院は二人の批判を黙殺していただろう。特権意識の高い教授らに、後ろめたさを覚えさせるほどにミヒュールの才能は抜きん出ていたのだ。
もっとも、それでもミヒュールが、その評価でエルフェニウスを上回ることが出来なかった背景には、階級差による差別があったことは否定出来ない。
エルフェニウスとミヒュール。同時期に出現した若き二人の天才について、様々な下世話な噂話が飛び交った。
エルフェニウスが第一位の評価を得ているのは、ひとえにその出自によるところが大きく、実力ではミヒュールの方が上である。
エルフェニウスが第一位にあるのは、家のおかげだという噂話の出どころは、第二位に甘んじなければならないミヒュールから出たものだ。
数え上げたらきりがないほど、様々な噂話が湧いては広まっていったが、それはひとえに、両者の実力が高次元で拮抗し、容易にその実力の優劣を測れなかったからだ。
わからない。だからこそどちらが上なのかを知りたい。下世話な知的好奇心が満たされないがゆえに、両者の周りでは、常に二人の天才を比較する議論が交わされ続けた。
ある時、一人の生徒が気まぐれにカーシュナーに問いかけたことがあった。その問いに対してカーシュナーは、
「人は物事を、自分という物差しでしか測ることは出来ない。凡百の私では、二人の手ひらの大きさくらいしか測れないだろう。あの二人を測れるとしたら、ライドバッハ先生くらいのものだ」
と、答えた。
この卑屈とも取れる答えが、小さな物差しを振り回しながら議論に白熱していた人々に一時的に冷や水を浴びせかけたが、噂話の火種が完全に消えることはなく、それからもエルフェニウスとミヒュールの迷惑などおかまいなしに噂話は続いていった。
周囲の喧騒の中、エルフェニウスは自身の努力と才能に対する絶対的な自信から、つまらない噂話に振り回されることはなく、ミヒュールも泰然とした態度で取り合わなかった。
両者は卒業と共にライドバッハの幕僚として招かれ、瞬く間にその地位を押し上げると、十席しか用意されていないヴォオス軍軍師の座に席を得た。
ヴォオス軍軍師主席ライドバッハに次ぐ第二席にエルフェニウスが座り、第三席にミヒュールが座す。ここでも両者の関係が逆転することはなく、まるで二人をあおり立てるように、噂話は盛り上がり続けた。
両者が大人の対応で衝突することなく日々が過ぎていく中、民衆による反乱がヴォオス北部地方で起こり、これを鎮圧するための軍に、ミヒュールはライドバッハの指名を受けて加わった。
反乱鎮圧のために派遣されたはずの軍は、そのままライドバッハによる大反乱軍の中核となり、ミヒュールもそのまま反乱軍に身を投じた――。
◆
くすんだ白装束を身にまとい、雪景色の中に溶け込みながら、レダム砦から引き返すヨアネス将軍の使者を眺める。その姿が小さな点になるまで見送ると、ミヒュールは小さくうなずいた。そして、サッと片手を上げ、音もなく引き返す。その手にもくすんだ白い手袋がはめられている。引き上げに際し、一言も発さない事に加え、レダム砦の兵士に発見されない細やかな配慮がうかがえた。
一分の隙もなく、偵察任務を終えて撤退するミヒュールは、胸の内でつぶやいた。
「時は来た。誰もが知りたがっていた疑問に、答えを出そうではないか、エルフェニウス。俺の勝利という答えをな」
その胸の内を、ただの一度も表に出すことのなかったミヒュールは、ここでも無表情のまま歩き続けた。だが、その内なる炎は、身を包む寒気を感じさせないほどに燃え上がっていた。
ミヒュールは、己の実力がまだライドバッハにおよんでいないと考えている。故に師事し、これまでつき従ってきた。エルフェニウスのライドバッハを超えたいという野心は理解出来るし、その想いはミヒュールも持っている。だが、それは今ではないと理解していた。
ライドバッハの離反により、ヴォオス軍の主席を務めているはずのかつての同期が、ライドバッハに挑もうとしている。立場を考えれば、避けては通れない道であろう。だがそれは同時に、己の実力を測れていないだけの思い上がりでしかない。
常に自信をみなぎらせ、世間の評価を当然として受け入れてきたエルフェニウスと、濁った眼でしか物事を見ることが出来ない世の中に、真実を見せつけてやるのだ。それが望まない結果になるのは、これまで物事を正しく理解しようとしてこなかった愚か者たちに対する当然の報いと言えよう。
顔を覆うくすんだ白い布の下で、ミヒュールは自然と口角がつり上がっていることに気がついた。
俺は笑っているのか?
自分はどうやら、エルフェニウスと雌雄を決することを喜んでいるようだ。
上がっていた口角を無理矢理引下げ、ミヒュールは渋面を作った。戦いを喜ぶなど、二流の軍師がすることだ。戦略を練り、戦術を編むことを遊戯と捉えている輩が多いが、ミヒュールは違った。
一つの勝利が全体の戦局に影響を及ぼす。そういった戦いをしてこそ真の軍師なのだ。ライドバッハを討ち破ることしか考えていないエルフェニウスには、その後は力によって民衆を弾圧する程度のことしか頭にないだろう。貴族的視点しか持たないエルフェニウスにはその辺りが限界のはずだ。仮にそれが実現出来たとしても、ヴォオスの未来に先はない。そう考えたからこそ、ミヒュールはライドバッハの反乱軍に身を投じたのだ。大反乱終結の、その先を見越して。エルフェニウスと自分とでは、見据えている先が違う。
表情を引き締め直して歩き続けるミヒュールであったが、その目は笑っていた。
両名がどれほどの言葉を並べて自分を納得させようと、本能は優劣の証明を望んでいた。
若き二人の天才が雌雄を決するための戦いが、今静かに幕を開けた――。
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