王都へ
降り積もった雪が取り除かれ、固く凍りついた大地が掘り起こされて行く。
労を惜しむ者など一人もなく、戦で疲れ切った身体で、先に黄泉へと旅立った仲間たちのための墓穴を掘り進めていた。
大勢の人々が働く場所から、少し離れたフールメントの野の北の端で、イヴァンは借り受けたショベルを使って、凍りついた地面を掘り起こしていた。
かたわらでは、何一つ良いことのなかった短い人生を閉じた弟の亡骸が、カーシュナーからもらった毛布にくるまれて横たわっている。生まれた時から生涯苦しめられ続けた鎖の首輪と、左手首で不気味に蠢いていた呪印の呪縛から解放されたからだろうか、その死顔は驚くほど安らかなものだった。
万が一にも獣や魔物に掘り起こされないように、深く地面を掘り起こすと、イヴァンはゆっくりと弟の亡骸を納める。
この世でたった一人の肉親。苦しみを共に耐え、今日まで生きてきた弟。
あの場で共に死んでいればよかったと思う気持ちが、一人になってしまったことを思うたびにこみ上げてくる。
それと同時に、生き延びたおかげで、弟をこうやって弔ってやれたという事実もあった。二人一緒に死んでいたら、ルーシの民の戦士たちと同じ穴に放り込まれることになっていたはずだ。あんな連中と同じ墓穴に永劫押し込められるくらいなら、獣に食われて糞になる方がはるかにましだった。
名残り惜しむ気持ちが、イヴァンの手を止めていた。
墓穴の底で、ようやくゆっくりと眠ることが出来るようになった弟の顔を眺め続ける。
雪を踏む音が近づいてくる。イヴァンがゆっくり振り向くと、そこにはモランとミランの姿があった。
「間に合った」
モランが笑顔を見せる。漆黒の肌を持つため、笑うと歯が浮いているように見える。
カーシュナーにも大きな借りがあるが、目の前で邪気のない笑顔を見せる男にも、借りがあったことを思い出す。
「あんたにも命を救われたな。礼を言う」
イヴァンはモランに対して深々と頭を下げた。生まれた時から奴隷の身分ではあったが、滅びた一族の誇りを失ったわけではない。最後の一人となったからこそ、一族の名に恥じない態度を守る。
「どういたしまして。役に立てて良かった」
モランの物言いは、どこまでも純真で素朴だ。
そのおかげだろう。イヴァンは自分の周りに張り巡らされていた壁が、一枚なくなるのを感じた。
イヴァンの持つ空気が柔らかくなったのを感じたモランは、手にしていた木片をイヴァンに差し出した。それまで無言だったミランも同様に木片を差し出す。
「これは?」
素直に木片を受け取ったイヴァンが聞き返す。どちらも簡素な手作りのもので、何かを意匠化したものだった。
「魔除けだよ」
ミランが答える。
「俺の魔除けは故郷のものだ。ミランの魔除けは一族のものらしい。迷惑でなかったら、弟さんの墓に、共に供えてほしい」
「大勢が死んだからさ。魔物が湧くかもしれないんだ。お墓が荒らされないようにと思って俺たちで作ったんだけど……」
ミランの言葉が勢いをなくす。ヴォオスとルオ・リシタでは、宗教観が大きく違うことを知っているからだ。
「ありがたく頂戴する。俺も獣や魔物のことを考えて、墓穴を深くしたところだったんだ」
イヴァンの答えに、ミランは大きな安堵のため息をついた。その隣では、モランが嬉しそうに笑っている。
「ごめんよ。本当は手伝いたかったんだけど、カーシュ様に、今はそっとしておけって止められていたからさ」
ミランが申し訳なさそうに言う。
イヴァンは首を横に振った。時間をかけて墓穴を掘るという作業は、弟のためにしてやれる最後のことであり、同時に別れの儀式でもあった。戦後の流れのまま処理してしまっていたら、自分の心はいつまでも整理がつかないままに終わっていただろう。
凍てついた土に埋めることを不憫に思っていたら、カーシュナーという男は黙って毛布を与えてくれた。その後は一切口出しすることもなく、イヴァンの自由にさせてくれた。まるで、本人以上にイヴァンのことを理解してくれているかのようであった。
他人の気遣いに触れることのない人生を生きてきたイヴァンには、それは馴染みのない感覚だった。対応の仕方すらわからない。おそらくはそれさえも見抜いたうえで、放置していてくれたのだろう。
少し落ち着いたおかげで、モランとミランに対して、素直に感謝することが出来た。
イヴァンは再び墓穴に入ると、胸の上で組ませていた両手の下に、二人からもらった魔除けを置く。どうしても吹っ切ることが出来ないでいた未練も一緒に置いてくる。
最後にイーラの額に口づけすると、イヴァンは墓穴から出る。
そこに、二つの手のひらが差し出されていた。モランとミランだ。
イヴァンはほんの一瞬だけ戸惑ったが、両手で二つの手を取った。勢いよく引き上げられる。
イヴァンは礼を言うと、ショベルを手に取り、イーラの亡骸の上に土を被せ始めた。
途中、モランとミランも、一度ずつ土を被せ、それぞれの習いで祈りを捧げた。
深かった墓穴が埋まり、最後に墓標代わりの小さな石が置かれる。
イヴァンはその石の前に膝をつくと、弟を想い、一心に祈りを捧げた――。
どれほどの時間そうしていただろうか。イヴァンは不意に後ろを振り返った。そこには、戦死者たちの埋葬を済ませたカーシュナーたちが、イーラの魂のために黙とうを捧げてくれている姿があった。
驚いて立ち上がると、その気配を察したのか、カーシュナーが視線を向けてくる。
「これはいったい……」
思わず言葉が漏れる。
これを受けて、カーシュナーは軽く肩をすくめてみせた。
「いつの間にかこうなっていた。俺も驚いている」
「この国では、奴隷のために王女が祈りを捧げるのか?」
弟のために黙とうを続けてくれているリードリットの姿に目を見張りながらたずねる。
「魂が去る最後の瞬間、お前の弟は奴隷だったか? そうじゃないだろう。だいたい、ヴォオスで奴隷は認められない。ヴォオスにいる限り、誰が何と言おうと、お前たち兄弟は奴隷ではなく人間だ」
「…………」
「これからどうするつもりだ? ルオ・リシタに帰るのか?」
カーシュナーがたずねる。その後ろで、黙とうを終えた人々が帰り支度を始める。
「ルオ・リシタには帰らない。帰るべき場所はとうの昔に滅んでいる」
イヴァンは遠く北の彼方にあったはずの場所を思い描きながら、首を横に振った。
「一緒に行こうよ!」
「行こう!」
突然横合いからミランとモランが口を挟む。
「二人とも、無理強いはよせ」
「そんな! カーシュ様……」
「望む生き方があれば言ってみろ。これも何かの縁だ。生活が軌道に乗るまで支援しよう」
望む生き方? そんなものは生まれてこの方考えたこともなかった。ただひたすら鎖の首輪と呪印から解放される日を待ち望んでいた。それが死を意味することだとしてもだ。
「急に言われても、わからない。それに、俺は弟の魂と引き換えに、この命をあんたに差し出したんだ。俺はあんたの命令に従う。死ねというならこの場で死のう」
「そんな重苦しい命なんかいらん。返す」
「なっ!!」
「恩を売りたかったから助けたわけじゃない。ゲラルジーのやり方が、心底気に食わなかったからやったんだ。感謝なら、礼の一言で十分だ。今までの分も自由に生きろ」
イヴァンは途方に暮れるしかなかった。これまで、生き方はおろか、死に方すら選べない人生だったのだ。自由と言われても、それは手に余るものであった。
「あ~、俺が悪かった。無理に戦う必要はないが、それなりの生活力が身につくまでは俺について来い」
「世話になるばかりでは困る。俺は奴隷だったが、物乞いではない。食い扶持は稼がせてもらいたい」
「わかった。わかった。頑固な奴だな。お前さんほどの実力者なら、うちは大歓迎だ。好きにすればいい。モラン、ミラン。イヴァンの面倒を見てやってくれ」
「わっかりました!」
ミランが威勢良く返事を返す。奴隷という苦境を乗り越えた味方が増えることが単純に嬉しいらしい。
「よろしく」
モランは笑顔のまま右手を差し出す。イヴァンは大きくうなずくと、モランの手を取り、しっかりと握り返した。
「ときにカーシュよ。これまで聞きそびれておったが、あの奇怪な現象は何だったのだ。実体のない蛇のようなものが出てきたり、それをお主の血が退治したりと、わからんことばかりだったぞ」
イヴァンの様子を見に来たのだろうが、おかしな部分で素直ではないリードリットは、カーシュナーがイヴァンとイーラの手首に彫り込まれていた呪印から現れた蛇を退治したことについてたずねた。
返り血はすでに拭われているが、血まみれだった先程よりも、今の方がまとう凄味は増していた。いつも頭に巻いている色とりどりの布がないため、寒風になびく赤い髪が、戦女神の炎の頭髪のように見える。
イヴァンは気圧されている自分に気がつく。自分とイーラを庇って戦っていた背中も大きく見えたが、ごく自然に立つその姿は、倍ほどもあったゲラルジーよりも大きく感じさせる。
気圧されつつも、当事者であったイヴァンも当然興味がある。イヴァンも目顔でカーシュナーにたずねた。
「王家と五大家、この六つの血筋を称して、六聖血と言いますが、それは何も血統を特別神聖なものとして誇張するために呼ばれているわけではないのです。事実、殿下や私の血には特別な力が宿っているのです」
「私の金剛力のようなものか?」
「そうです。血の力はどのように発現するかは個人差があり、力と呼べるようなものは 現れない者がほとんどですが、流れる血そのものには聖なる力が宿っているのです」
「それはわかる。正直信じられない思いは今もあるが、刺青そのものが消えてなくなってしまった事実の前では、疑いようがない」
イヴァンがそう言って、きれいになった左手首をさらして見せる。
「普通刺青というものは簡単に消えるものなのか?」
イヴァンの手首を眺めながらリードリットがたずねる。ヴォオス文化に刺青はないのでくわしくないのだ。
「普通は消えません。ですが、イヴァンの手首に彫り込まれていた刺青は、<森妖術師>の呪印と言って、精霊の力が宿っている樹液に呪いをかけたものを用いて彫り込まれるのです。元来透明なもので、これが呪いによって青黒く変色するため、私の血で呪いそのものを消滅させたので、同時に色も失われ、刺青が消えたというわけです」
「私の血でも消えたのか?」
「おそらく消えたと思いますが、私と殿下では、血の持つ力の性質が違います。<魔術師>の系譜を持つ私の方が、こういったことにはより効果を発揮するのです」
「お主魔術師なのか!! では炎の玉を出して見せろ!!」
「出来るわけないでしょ!」
「どうしてだ!」
カーシュナーは肩をがっくりと落とし、大きなため息をこぼした。
「<神にして全世界の王>魔神ラタトスを討伐するために集められた力は、ラタトスを討ち果たした後、そのほとんどが神々に返還されたのです。王家の歴史で習わなかったのですか?」
「初耳だぞ! そのような話は聞いたこともない!」
「おそらくは長い歴史の中で、事実ではなく夢物語とされ、失われてしまったのでしょう。王家の教育に五大家は関わりませんからね。実際に力を得た者たちの子孫でない限り、信じられないのは無理もない話かもしれません」
「ヴォオスの神話は本当だったんだな」
イヴァンが驚きに目を見張る。
「ルオ・リシタにも独特の魔法文化があっただろうけれど、世界の魔力の衰退を機に、そのほとんどが失われたはずだ。森妖術師の呪印がいまだに残っていたのには本当に驚いたよ」
「あれは、死者の魂を喰らう悪しき呪われた力だ。奴隷にとって、呪印を彫られるということは、死すら安らぎの場所にはならないということなのだ」
「それを承知で呪印とやらを彫らせたゲラルジーは根っからの外道だな!」
リードリットが怒りを露わに吐き捨てる。
「ルオ・リシタでは、滅びた部族の長の子孫には、大抵鎖が巻かれ、呪印が彫られる。魂の呪いを避けるために、魂そのものを滅ぼそうという考えなのだ」
「ならば、血筋そのものを断てばよいではないか。やり口がいちいち陰湿なのだ!」
古来より、国は興り滅んできた。それまでの支配者が打倒される際には、その血族はことごとく討たれ、血筋は絶やされる。それが赤子であろうと例外ではない。残酷ではあるが、魂まで滅ぼすなどということはしない。
ルオ・リシタのやり方は、リードリットの言うように、かなり陰湿なものと言えた。
「ルオ・リシタでは部族間の争いが絶えなかった。滅ぼした一族の長を奴隷にすることは、強さの誇示にもなったのだ」
イヴァンが細かい事情を説明する。
「なるほどな。その辺りの事情は理解出来るが、言ってしまえば、奴隷にした仕返しに、呪い殺されるのが怖いということであろう。呪いが怖ければ始めからやるな。やるなら呪いごと、恨みを呑み込むくらいの度胸を見せろと言うのだ。みっともない!」
リードリットの言い分に、イヴァンは呆気に取られた。恨みを呪いごと呑み込むなどという発想は、ルオ・リシタ人ではありえないことだったからだ。ましてやあの光景を目にした後での発言である。聖なる血を持つと、こうも豪胆になれるのかと感心する。
「無神経なだけだから」
そんなイヴァンの心情を見透かしたカーシュナーが、ニヤリと笑いながら言う。
この台詞に、人差し指と中指を立てたリードリットが、目つぶし攻撃によるお仕置きを敢行する。いつの間にか軽口に対する仕置きが厳しくなっている。
両目を押さえて悶絶するカーシュナーをしり目に、リードリットはイヴァンに問いかける。
「お主もこの調子乗りについてゆくのか?」
ここでようやく、リードリットが本当にたずねたかったことを口にする。素直に心配するということが、どうにも照れくさいのだ。
「命どころか、魂の恩があります。返すまではそばを離れられません」
イヴァンが生真面目に答える。
「……別にいいって言ってるんですがねえ。どうにも頑固で。嫌な思いばかりしてきたのだから、人生を楽しめばいいのに、困ったやつですよ」
両目をもみながら、カーシュナーがため息交じりに言う。
「さっきも言ったが、楽しみ方がそもそもわからない。あんたについていきながら学ぶつもりだ」
「こやつの影響を受けると、苦労が増えるぞ」
「今までより多いということはないだろう」
イヴァンの言葉に、二人は苦笑する。イヴァンの境遇を真に理解することは、国王の娘と大貴族の子息に生まれた二人には出来ないことだからだ。
「それにしても、お主ばかりずるいではないか。戦うたびに仲間を増やしおって。どこぞに凄腕の女戦士がおらんもんか?」
リードリットがうらやましそうにイヴァンを見る。口では不満を言いながらも、その顔には笑みがある。
「ルオ・リシタの女性も大柄ですからね。本格的に鍛えれば脅威になるでしょうが、いかんせん文化的に女性が武器を手にすることを忌避していますから、女性の戦士はいないでしょう」
基本ふざけているカーシュナーが、おかしなところで真面目に答える。
「男尊女卑というやつか。気に入らん!」
「それはおそらく建前でしょう。ルオ・リシタは一夫多妻制ですから、本音は夫婦げんかになったときに多勢に無勢でボッコボコにされないための、ルオ・リシタ男性の浅知恵が生んだ決まりみたいなものです」
「ならば余計に腹が立つ! そんな男の勝手に、何故女が従わなくてはならんのだ!」
「ルオ・リシタ男性は単純ですから、上手に持ち上げて、上手く使っているんですよ」
「女のしたたかさというやつか!」
「ええ、誰だって、雪の多い土地で、雪かき役なんてやりたくはないでしょう? かっこいい! 頼りになる! とか言って、適当に甘えていれば、馬鹿みたいに働くんですから、女性だって剣なんか取りませんよ。力が余っているんなら、雪かき手伝えって言われるのが落ちですからね」
カーシュナーの言葉によほど得心がいったのか、リードリットは何度もうなずいていた。
「殿下! かっこいい! 頼りになる!」
「な、なんだ急に! 気持ち悪い!」
「いや、褒めれば雪かきするかと思って……」
「それは、ルオ・リシタ人の男の場合だろうが!」
「似たようなものじゃないですか」
「相変わらずいい度胸だ。乙女の握り拳の威力を教えてやろう」
言うが早いか、リードリットの渾身の右拳が飛ぶ。
今回は油断なく待ち構えていたカーシュナーは、その拳を左手でガシッと受け止める。
「殿下、乙女はそもそも握りこ……」
言葉の途中で黙り込む。リードリットが受け止められた拳に力を加えて来たからだ。
一気に押し込まれ、慌てて右手を添えるが、それでも押し込まれてしまう。
迫るリードリットの拳と、それを包む自分の両手を避けるため、徐々に海老反りになっていくカーシュナーだったが、最後には頭を雪の中に押し込まれ、堪え切れずにひっくり返った。
「お二人とも、何を遊んでおられるのですか……」
それを見たダーンが、呆れかえって声をかける。
「待てダーン。こやつと一緒にするでない。私は巻き込まれただけだ。決して一緒になってふざけていたわけではない」
カーシュナーと一括りにされ、リードリットが慌てて言い訳をする。
「はいはい。わかりました。そんなことより、出立の準備が整いましたが、いかがいたしますか?」
「ダーン。お主、最近私の扱いが軽くなってきておらんか? まあ、それはとりあえず置いておこう。イヴァン、弟との別れが済んだのなら支度をいたせ。ミランとモランもだぞ。お主らが最後だ」
「いっけね! すぐに支度します」
「すぐに!」
周りの状況に気がついた二人が慌てて駆けて行く。
イヴァンも慌てたが、いかんせん足がない。乗っていた馬は、戦いの最中見失ってしまっていたのだ。
「馬なら心配するな。もう用意してある。ルオ・リシタの馬も、力強くて悪くはないが、いかんせん速度が遅い。我らについてくるのなら、ヴォオス産の馬でなくては到底ついては来られんからな」
「殿下にしては、珍しく気が利きますね」
「……と、アナベルが言っていた」
言いざま、すかさずカーシュナーの土手っ腹に拳をめり込ませる。余計なひと言に対する罰である。
もろにくらってしまったカーシュナーが腹を抱えてうずくまる。その足首をむんずとつかんだリードリットはサッと引いてカーシュナーを仰向けに引っくり返す。
「おい! イヴァン! もう片方の足を持て!」
突然言われ、反射的にカーシュナーのもう片方の足をつかむ。
「よし。行くぞ」
リードリットはそう言うと、戸惑うイヴァンにいたずらな笑みを見せ、カーシュナーをズルズルと引きずり出した。
「えっ! あっ、あの……」
「馬のところに案内する。ついてくるがよい」
反論する暇もなく、イヴァンは弟の魂と自分の命の恩人を、雪の中引きずり回す羽目に陥ってしまった。
最後にもう一度だけ振り返る。墓石代わりの小さな石を、目に焼きつけながら心の中でイーラに語り掛ける。
(イーラ、どうやら俺は、人生をやり直す機会に、とんでもない場所を選んでしまったようだ……)
後ろからギャーギャーわめきながら引きずられるカーシュナーの声を聴きながら、イヴァンは思わず吹き出していた――。
◆
「我らはこれより王都へと向かう!」
リードリットの声が、フールメントの野に響く。
リードリット以下、赤玲騎士団とクライツベルヘン軍を見送る形で立つ貴族たちの顔に、不安の色が広がる。
これより前に、リードリットから、麾下の兵を王都に返す必要はないと指示を受けていたからだ。西方貴族たちは、元来勅命によりライドバッハの大反乱に対抗するために王都に召集を受けていた身であり、今回ゲラルジーによる想定外の侵略を受けたため、王都から領地へと兵を返すことを許されたに過ぎない。ライドバッハとの決戦に対する出兵が免除されたわけではないのだ。
それでも貴族たちは従うことにした。そこには大きな打算も当然あるが、リードリットにより、事態が大きく動くであろう予感めいたものを、それぞれが肌で感じたからだ――。
「今の私に、そなたたちに命令する権限はない。故に、どうするかは各自で判断せよ。その上で話す。私財すべてを投げ打ってでも領民を救え! これに従わぬ家は、後日私の名の下にその爵位も、領地も、すべてをはく奪する!」
「!!!!」
出立に先立ち、リードリットは西方貴族たちを集め、自身の考えを告げていた。言われた貴族たちはあまりにも一方的な宣告に、言葉が出ない。
「先程も申したが、私には何の権限もない。どう受け取るかはそなたたち次第だ。だがな、領民はそなたたちの血肉も同然なのだ。手足どころか内臓まで切り捨てて、生きられる人間はそうそうおるまい。そなたたちもよく考えてみるのだな」
周囲を敵視していたころの、尖った印象のリードリットしか知らない貴族たちは、領民の救済を訴える目の前のリードリットが、どうしても同一人物とは思えなかった。
鬼か悪魔かと言われていたその面相も、受ける印象が変わった途端、その真の美しさが見る者を魅了し始める。
父である国王バールリウスが溺愛するのもうなずける美姫であったことに、今さらながらに気づかされ、その戸惑いもあった。
「……カ、カーシュナー卿。殿下のご意向だが、貴殿はどう考えておられるのだ?」
貴族の一人が、大会議の席で今回のリードリットの担ぎ出しを提案したカーシュナーに小声でたずねる。カーシュナーのというより、クライツベルヘン家の入れ知恵を疑ったのだ。
「クライツベルヘン家はすでに、殿下のお考え通り、領民の救済を行っております。この異常気象が始まってから今日まで、クライツベルヘン領内では、飢えと寒さが原因の死亡者は一人もおりません。他の四家も同様の対応をしておられると聞き及んでおります」
「五大家と我ら一般貴族を一緒にしないでいただけぬか。根本的な財力が違うのだ!」
「であれば、いつでも領民を放棄していただいてかまいませんよ。クライツベルヘン家で受け入れますので」
「なっ! そ、そのような余剰財力があるのなら、我らを支援してくださればよろしいではないか!」
貴族たちの抗議を、カーシュナーはどうでもよさ気に肩をすくめて一蹴する。
若造と侮っていた貴族たちが、思わず鼻白む。そして思い出す。リードリットと共に、ルオ・リシタ戦士数千の包囲網から、たった六人で生還を果たした時の、返り血にまみれたカーシュナーの姿を――。
「ヴォオスは隣国が羨むほど豊かな土地に恵まれた国です。建国の英雄ウィレアム一世により、五大家のみならず、今日まで家名を残す貴族すべてが、その豊かな土地を、爵位と共に賜っております。事あるに備えていれば、何の問題もないだけの領地が、すべての上級貴族に下賜された以上、すべての貴族に同様の救済処置を施すだけの蓄えがあるはずです」
「それは理屈だ!」
「いいえ、そうではありません。あなた方は、貴族という立場をはき違えておられるようですね。ウィレアム一世は、ヴォオス国民を保護管理するという名目上、貴族という位を定め、その地位に皆さんの祖先を据えたのです。それは五大家も変わりありません。ウィレアム一世は何も、わがまま放題好き勝手に振る舞うために領地と爵位を賜ったわけではありません。その役目を果たすに値する能力を有しない者に、その地位はいつまでも約束はされないのです」
「賢しげな口を……」
「先程も言った。よく考えろ」
カーシュナーの言葉に、顔を真っ赤に染めて言い返そうとした貴族の言葉を、リードリットが遮る。その声にはなんら威圧的な部分はなかったにもかかわらず、貴族たちは言葉を飲み込んだ。
互いに顔を見合わせると、
「最善を尽くします」
一同そろって答えた。もっとも、具体的なことは一切口にしない。そこは政治的経験値の高さと言えた。
そのすべてを承知の上で、リードリットはそれ以上の追及を避けた。言質を取らないのは、貴族たちに対する配慮からではなく、リードリットが持つ現状の権力では、取ったところでそれが現実に行使されるように圧力をかけることが出来ないからだ。
何が出来て何が出来ないのか、それらを見極め、その上で出来ることをする。それはカーシュナーから学んだことであった。そして、現状出来ないことを成すために、何が必要で、どう行動すべきかを冷徹なまでの冷静さで見極め行使するカーシュナーの本質に、大きな影響を受けていた。
仮に貴族たちがリードリットの言葉に従わず、領民の多くが飢えや寒さ、そこから来る病等で倒れた場合は、リードリットは言葉通りに貴族たちを討ち滅ぼすつもりでいた。貴族という地位に、真の意味で相応しい人間などいくらでもいるのだ。特権を守りたければ、相応の働きを示せと言うことだ。
それは同時にリードリット自身にも言えることであった。まず自分自身が、最低でも王家直轄領の領民すべてを救済してみせなければならない。これまでは知らぬ存ぜぬで見過ごして来てしまったが、カーシュナーの話ではすでに多くの領民が飢えと寒さのために死んでいる。
根本を変革する必要があり、そのためには、絶対的な力が必要であった。
リードリットはこれから、その絶対的力を手に入れるために王都へと向かう。
言葉にこそしないが、この強い意志を、貴族たちは本能で感じ取ったのだろう。
従うか、拒むか。そこに自身の生死がかかっていることを知っているのは、当事者である貴族たちではなく、カーシュナーだけであった――。
「では、ゲラルジーによって略奪された食料の類のことは任せた。洞窟の封鎖も合わせて頼んだぞ。まかり間違っても、戦士たちを失ったルーシ族への報復など考えるでない。ゲラルジーの件は、ヴォオス国として正式に対処する。お主らは正確な被害額の算定を済ませておいてくれ」
リードリットの言葉に、貴族たちは不服そうにうなずいた。異常気象による大寒波は、特別ルオ・リシタのみを苦しめているわけではない。被害は大陸全土に及び、ヴォオスも例外ではない。己の国の食糧が乏しいからといって、略奪されたのではたまったものではないし、略奪に対する報復は当然の権利と言えた。
それでも貴族たちが思いとどまっているのは、カーシュナーがゲラルジーが所有していた古代地図を早々に押収し、その存在を隠したためであった。超巨大迷路と言っても過言ではない地下空洞に、いたずらに兵を送り込んだりすれば、敵地を攻めるどころか、引き返してくることすら出来なくなる。
報復したくとも出来ないのが現状なのだ。
ゲラルジーはルオ・リシタ国の王子の一人である。たとえゲラルジーの独断であろうと、その責任は国が負うことになる。これまで、皮肉なことにゲラルジーの手によって、ヴォオスとルオ・リシタの友好関係は進められてきた。その関係を、当人がぶち壊したとあっては、外交交渉での解決は困難と言える。
ルオ・リシタとの衝突は、よほどルオ・リシタ側が譲歩でもしない限り、避けようもない状況であった。ヴォオスが衝突を避けるために譲歩することは許されない。一方的な侵略を受けた被害者であり、常に近隣諸国から侵略の対象として見られているヴォオスは、弱味を見せることは出来ないのだ。
だが、国内の大混乱もそうだが、何よりもこの異常気象が戦端を開くための障害となる。ルオ・リシタは通常でも豪雪の国だ。ヴォオスの南方に位置するゾンが、絶好の機会であるにもかかわらず、寒さを理由に積年の敵国であるヴォオスに攻め込めないのと同様、ヴォオスも自国以上に深い雪に閉ざされたルオ・リシタに攻め込むのは困難だった。
事はどちらにしろ、この長すぎる冬に終わりが来たらの話である。来なければどちらの国も亡びるだけだ。
貴族たちに見送られて、リードリット以下赤玲騎士団およびクライツベルヘン軍は、休む間もなく王都へと向けて出発した。
フールメント会戦を切り抜け、生き残ったのは、両軍合わせて八千。約一万騎同士が、正面決戦から戦いの火ぶたを切ったことを考えると、ゲラルジー軍の全滅と合わせて考えると、驚異的な数字と言えた。
それでも全体の二割もの兵力を失ってしまっている。天下にリードリットの存在を示すに足る戦果だったとはいえ、その代償は大きかった。
「兵たちを休ませてやりたいところだが、ここが勝負時だ」
周囲に対してというより、自分自身に言い聞かせるために、リードリットは言葉を口にした。
長年苦楽を共にした赤玲騎士団の部下たちを失うことは、自身が傷を負う以上につらかった。クライツベルヘン軍の兵士たちも、赤髪に黄金色の瞳という異相の持ち主である自分に対し、差別も偏見も見せず、素直な好意を示してくれる気の良い連中ばかりだった。正直、自分一人で戦えたならばと、無益なことを考えてしまう。
「殿下。私以下、すべての赤玲騎士団員は心得ております。今この時こそが命の賭け時なのだと」
リードリットの心中を察したアナベルが、自らを奮い立たせるように言う。言葉の最後に、その視線はカーシュナーへと注がれた。
赤玲騎士団員は、みなカーシュナーの生き様に感銘を受け、リードリットが新たに得た志を遂げさせるために、その命を捧げる決意でいる。命じられるからやっているのではなく、自らの意志で、この国の現状を正すために、リードリットを支えるのだ。
部下たちの想いが痛いほど伝わり、思わず潤んだ視界を取り戻すために、リードリットは何度もまばたきをしなければならなかった。
「カーシュよ。王都では具体的にどうするか、すでに考えは定まっておるのか?」
つい涙ぐんでしまったことをシヴァに気づかれ、茶化す気満々でいることを素早く察知したリードリットは、シヴァの軽口を封じるために、真面目な話をカーシュナーに振る。動機はいたって不真面目だ。
「いくつか方策はあります。王都には現在、治安部隊を除いた守備兵力が二万存在します。一時的に、治安部隊まで動員するとすれば、四万近い兵力を動員することが可能と考えられます」
「力押しは不可能か……」
「王都の城壁によられたら、こちらが二十万の兵力を動員出来たとしても、簡単に落とせるものではありません。奇抜なことなど考えず、基本に忠実に守っていれば、それだけで難攻不落の守備力を誇るのが、王都ベルフィストなのです」
「ではどうする。王都をあのままに捨て置くことは出来ん。第一、国中の民を救おうと考えたら、王都を支配下に置くのは最低条件であろう」
「仰る通りです。王都での強い権限を殿下がお取りになれなければ、仮に国は滅びなかったとしても、少なく見積もっても、五百万の民が死ぬでしょう」
カーシュナーの言葉に、周囲の赤玲騎士団や、クライツベルヘン兵の間から恐怖に近いどよめきが生まれる。
カーシュナーがはじき出したこの数字を知っていたのは、リードリットとアナベル、そしてシヴァの三人だけだったからだ。恐怖をまとった数字は、風よりも早く人々の間を渡り、病のように恐慌を引き起こす。
これまでカーシュナーは、慎重にこの恐怖をまとった数字を隠してきたのだ。
「若様! それは本当ですかい?」
元退役兵の一人が、青ざめた顔でカーシュナーにたずねる。
「残念だが本当だ。しかも、これは少なく見積もっての話だ」
「そんな! それでは国が滅びてしまうではありませんか!」
アナベルの隣で話を聞いていた赤玲騎士団の団員の一人が、悲鳴のような声を上げる。
「主要都市に住む人間以外、ほぼすべての人間が死に絶える。今まで通過してきた町や村といった場所は、どこも残らず絶えるだろう」
淡々と語るからこそ、カーシュナーの言葉には重さと、その何倍もの恐怖が染みついている。もはや兵士たちの間にざわめきはなく、声を発することすらはばかられる空気が流れていた。
「そんなことは、断じてさせん!!」
静寂を破った声は、はたしてリードリットのものであった。以前なら、その場の空気を物理的に破ろうと、大声を上げていただろう。だが、今回は落ち着いた、宣言するかのような力強い声が、馬蹄の響きを圧して、周囲へと届けられた。
「我が偉大なる祖先、千年の長きに亘り人々を苦しめてきた<神にして全世界の王>を名乗った魔神ラタトスを討ち滅ぼしたウィレアム一世は、富や名声、王としての権力を求めて戦い、ヴォオスを興したのではない。苦しんだ人々を救うために戦い、守るためにヴォオスを建国したのだ。その業績からではなく、その人徳を持って人々に王たることを求められた偉大なる英雄。
王家の血に連なる者は、いついかなる時も、このことを忘れてはならない。力無き人々のために戦うための血の強さであり、己の利益を守るための力ではない。
だから私は戦おう。国民を救うために。相手がたとえ誰であろうともだ!」
リードリットのこの言葉は、後の歴史書に必ず用いられた。
リードリットの存在を天下に知らしめたフールメント会戦の締めくくりの言葉として――。
三百年におよぶ長き歴史を築き上げてきたヴォオスの、新たな歴史の変換点として――。
カーシュナーの頭の中にのみ存在するヴォオスの近未来図が、その下書きをようやく始めたのだった。描き上がるまでの長い道のりを思い、リードリットの言葉に興奮する人々の中で、カーシュナーはただ一人苦笑を浮かべたのであった――。
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