<フールメント会戦>
冷たい風が吹き渡る中、戦意に暖められた呼気が、闘気がこぼれ出るかのように、熱く、白く吹き流されて行く。
フールメントの野に布陣したリードリット率いる五千騎の赤玲騎士団と、ミデンブルク城塞で増援を受けたカーシュナー麾下五千の騎兵は、貴族連合軍の働きと、それを打ち破り、エルフェニウスの策を乗り越えるであろうゲラルジー軍の強さを信じて待機していた。
エルフェニウスの策では、敗北を装った撤退で相手を油断させ、勝気に逸った略奪者集団を狭隘な地形に誘い込み、左右からの挟撃と赤玲騎士団による強襲で、侵略者集団を撃退することが目的であった。
侵略集団を率いていたのがゲラルジーでなければ、それで十分だっただろう。だが、敵の正体を作戦立案以前に見抜いていたカーシュナーには、この作戦が通用しないことは予測出来ていた。
ゲラルジーはここフールメントの野で、貴族連合軍の一部隊に壊滅的打撃を与えるつもりであった。元々貴族同士のつながりなど脆いものである。誰かが崩れれば、残りの貴族たちの心も容易く折れたはずである。そうなればゲラルジーは余裕を持って帰還することが出来るはずだった。
エルフェニウスとゲラルジー、ヴォオスとルオ・リシタの両国で突出した能力を持つ二人を読み切り、その上でライドバッハの過去の行動と、突如出現したルオ・リシタの軍勢を、知る者が限られた古代帝国ベルデが築いたス・トラプ山脈の地下に存在する地下空洞の存在と結びつけて現状を読み切ったカーシュナーは、ここフールメントの野に布陣していた。
これらすべては、カーシュナーの頭の中にだけ存在した。古代帝国ベルデの遺産は軽々しく表に出していいものではないからだ。
細かい説明をしないカーシュナーを、全員が信じた。それだけのことを、枯れ木のような外見をしたひょろ長い青年はしてきたのだ。
カーシュナーの頭の中には、ゲラルジーの頭に中に存在する地図よりも、はるかに詳細にわたって書き記された地図が存在した。その気になれば、ゲラルジーの先回りをし、地下空洞を利用した罠にかけ、楽に勝つことも出来た。だが、カーシュナーはこの戦いを、あえて正面決戦というもっとも多くの犠牲を払う形で選んだ。
リードリットの力と存在を、世に知らしめるためだ。
リードリットには、社会的な力は何もない。貴族社会においては、その存在はむしろ禁忌とされている。困窮する民衆のために立ち上がったとされるライドバッハが存在する以上、リードリットには言葉によって自己の正当性を証明することは不可能だった。
民衆にとって悪とされるものすべてを、行動で打ち破り、改革し、救済してみせなければならないのだ。
その手始めとして、ルオ・リシタでも屈指の実力者であるゲラルジーの名前を利用させてもらうのだ。
「アナベル。ここから先は息つく暇もないだろう。私が真の王族としての務めを果たすには、お主の支えが必要だ。死ぬなよ」
照れくさいのか、顔を見ずにリードリットは告げた。
アナベルの顔が喜びに輝く。
「シヴァの奥様聞きまして! いやだ! えこひいきざますわよ~!」
「え~、え~、聞きましたとも、カーシュの奥様! 間違いなくえこひいきざますわ!」
「こんな話ってありまして! ダーンの奥様!」
「……俺を巻き込まないでください」
カーシュナーとシヴァの悪ふざけに、ダーンがため息をつく。
「今のは何だ? 新しい遊びか?」
「女性特有の陰湿さを表現した奥様ごっこです」
カーシュナーが馬鹿みたいに真面目な顔で答える。
「カーシュナー卿。えこひいきとか言うのはやめていただけませんか。部下に示しがつきません」
アナベルが真面目に抗議する。
「だって、俺たちも言われたいし」
「子供ですか!」
カーシュナーのわざとらしい言い訳を、アナベルが一喝する。
「お主らに言わぬのは、どうせ殺されても死なんからだ。その点アナベルはまっとうな人間ゆえ、注意を促したのだ。おお、そうだ。ダーンも死ぬでないぞ。お主らは殺されれば死ぬのだからな」
リードリットがめちゃくちゃなことをさらっと言う。
「おい、カーシュ。一番殺しても死にそうにない姫さんから化け物扱いだぞ、俺たち!」
「殿下に言われては、俺たちも人間としてのまっとうな人生は諦めるしかないな」
「だから、まっとうではないから言っておるのだ」
視界の端にはすでにゲラルジー率いるルーシの民の戦士たちが入っているにもかかわらず、リードリットたちは無駄口をやめようとはしなかった。
そばに控えていたミランとモランや、赤玲騎士団の幹部たちがそわそわしだす。
「あの、カーシュナー様……」
ミランが遠慮がちに声をかけると、カーシュナーはニヤリと笑って見せた。
個々の戦闘力の高さでは定評のある、巨人兵団ことルオ・リシタの戦士たちとの決戦を前にして、緊張のかけらも見せない。その相変わらずの胆力に、ミランは感心を通り越して呆れかえっていた。これが初陣となるミランは、今の今まで自分を捉えていた緊張が、カーシュナーと言葉を交わしただけで解けていることに驚いた。
「殿下ではないが、死ぬなよ、ミラン。死なせるために連れて来たのではないからな」
カーシュナーの言葉に、ミランは鞍に掛けた弓を持ち上げてみせた。
「森の守護者らしく、離れたところから仕留めてみせます!」
「相手にも弓の名手がいる。狙っているときは、同時に狙われていることを忘れるなよ」
「はい!」
「モランは俺の後ろについて来いよ。馬術はまだいまいちだからな」
元南方奴隷だったモランに、シヴァが声をかける。モランは実戦経験こそ豊富だが、そのすべてが歩兵として戦ってきたものであったため、騎兵戦は今回が初めてになる。ミデンブルク城塞からの強行軍を見事に耐え抜いたおかげで、モランの馬術は目を見張る上達を見せたが、馬を早く走らせることと、戦場で操ることは全く違う。
「槍の届く範囲には入らないようにします」
答えるモランは落ち着き払っていた。ミランが弓を据え付けてある場所に、モランは長い鎖の束を掛けていた。
「俺も、お前さんの鉄鎖の届く範囲には入らんように気をつけるとするか。頭が吹き飛びかねんからな」
シヴァはそう言ってげらげら笑った。
漆黒の肌を持つ南方民族たちは、古くから奴隷狩りの対象とされてきた。多くの仲間たちが連れ去られ、鎖をかけられて酷使されてきた。
負の歴史が積み重ねられる中で、鉄鎖術という独自の武術が生まれ、故郷に逃げ帰る事に成功した奴隷が、仲間が捕らえられても自力で脱出出来るようにと、その技を伝えたことから、南方民族の間で、部族の別に関係なく広まっていった。
その威力は凄まじく、鎖その物の重量に遠心力が加わるため、人の身体など簡単に砕くことが出来る。達人ともなれば、長い鎖を大蛇が襲い掛かるかのごとく扱うことが出来る。
「殿下。そろそろ仕掛けると致しますか」
フールメントの野に入り、待ち受ける自分たちの存在に気がついたゲラルジーの軍が動揺しているのを眺めつつ、カーシュナーはリードリットに声をかけた。
これに応えて、リードリットは剣というより、刃の付いた棍棒のような特注の長剣を抜き放つ。高々と掲げられた長剣が、冬空からこぼれ落ちてきた陽の光を受けて、大気以上の冷たさで輝いた。
一万の騎兵の間に、戦いの気が満ちる。それは無駄な気負いのない最高の精神状態を表していた。
「全軍!! 突撃!!」
あれほど無駄口を叩いたにもかかわらず、いざ戦いとなった瞬間、余計な言葉は一言もなかった。
リードリットの軍は、部隊を左右に展開する横陣で構えていたが、そのままの陣形で雪を蹴立てて突進した。
突撃するリードリット軍に対し、予想外の事態に動揺を見せていたゲラルジー軍から、一人の男が飛び出してくる。
動揺は一瞬で静まり、男を追うように残りの戦士たちが後から続いてくる。秩序正しいとは言えないが、先頭を走る男の闘志に引かれるように動き出したゲラルジー軍は、不出来ではあるが、偃月の陣の体を成して突進してきた。
「ほう! なかなかにやりおる! 不測の事態に対して動揺していた兵士たちを、行動で静めてみせたか! 敵ながら見事だ!」
リードリットが感嘆の声を上げる。
「ゲラルジー王子で間違いないでしょう。強敵です」
「そうでなくては倒し甲斐がないわ!」
カーシュナーの言葉に、リードリットは笑いながら吼えた。
「では、ゲラルジー王子はお任せします。指揮は私にお任せください。殿下はゲラルジー王子を討ち取ることにだけ集中してください」
「任せろ!」
答えたリードリットの意識は、早くも先陣を駆ける巨大な戦斧を手にしたゲラルジーに集中し始めていた。
「ダーン! アナベル! 左右に展開しろ! 位置を間違えるなよ!」
カーシュナーの命令に従い、横並びに展開されていた布陣が形を変え、左右両翼がゲラルジー軍の側面に回り込むように広がっていった。
これに対し、ゲラルジー軍も迎え撃つため左右に展開していく。
どちらも躊躇ない突進で距離を詰めているため、両者の距離はあっという間に互いの顔が視認出来るまでの距離になる。
「女ごときが戦場にしゃしゃり出て来るな!」
ゲラルジーが侮蔑を込めて吼える。これに配下の戦士たちが追従しようとした瞬間、左右に展開していったゲラルジー軍の両翼の戦士たちが、一斉に馬から投げ出され、雪原に刺さっていった。
左右に広がっていったリードリット軍の兵士たちが、それまでの突進と見せかけていた動きから、半包囲の形にさらに展開し、一斉に矢を射かけていく。
「謀ったな!! 女狐が!!」
怒りのあまり、赤を通り越してどす黒く顔を紅潮させたゲラルジーが叫ぶ。
ゲラルジーの怒りの言葉を、カーシュナーは鼻で笑い飛ばした。
ルオ・リシタ人の好きな正面決戦と見せかけて雪中に綱を渡していたのだ。これに足を取られた馬たちが次々と転倒し、これに巻き込まれた後続の戦士たちも次々に投げ出されていく。どうにか転倒を免れた戦士たちも、前を味方にふさがれ、後続からは押し込まれ、身動きが出来ない状態に陥ってしまう。
そこに大量の矢が射かけられたことにより、近接戦闘では無類の強さを発揮するルーシの民の戦士たちが、その力を発揮することなくバタバタと倒れていく。
森の守護者として鍛えられたミランは、一度に二本の矢を射放ち、同時に二人の戦士を葬っていった。
馬から投げ出されながらもなんとか受け身を取り、矢の雨をかいくぐった一人の戦士がミランに殺到する。
戦士は凶悪な形をした斧を振りかぶり、馬上のミランに飛び掛かった。
大人ですら肝が冷えるような状況で、ミランは冷静に二本の矢をつがえ、至近に迫った戦士へと射放った。
二本の矢が戦士の両の目を貫き、後頭部から角でも生えたかのように鏃を飛び出させた。
目に見えない手に引かれたかのように戦士の頭部が後ろへ飛び、飛び掛かった勢いと相まって、戦士は空中で一回転してから地面に叩きつけられた。その頭を、とどめとばかりに馬が踏みつぶす。
危機的状況を見事に回避してみせたミランであったが、それによって変に高揚するでもなく、すでにそれは終わったこととして忘れ、次なる敵を求めて弓を引き絞っていた。
その姿を視界の端に捉えていたダーンの口元がわずかにゆるむ。
カーシュナーを常に見続けていた影響だろうか、大局的に物事を見ることが出来るようになっている。
新兵というものは、討ち取った敵の首を取ろうとして、別の敵に喉をかき切られることがある。それは、すぐ目の前のことしか見えていないからだ。
ミランは驚くほど冷静に物事が見れていた。カーシュナーの思考の瞬発力を支えているものが、その冷静さによるものだと理解出来ているからだ。
「変なところまで似ないといいんだがな……」
口の中でだけつぶやいたダーンは、ミランに飛びかかろうとしていた戦士に向けて引いていた弓を、別の戦士に向けて射放った。
両翼での戦闘は、リードリット軍の圧勝であった。
カーシュナーもシヴァも、赤玲騎士団に対する考えを改めねばならないと感じていた。
その技量が水準以上であることはわかっていた。だが、それは騎士として並み以上の評価でもなかった。
ゾン国との五年に渡る小競り合いも、命がけのものであったことに変わりはないが、そこにあったのは、男性に対する反発であり、リードリット個人の武人としての名誉欲に根ざした、戦いに憧れを持ち込んだ幼稚なものでしかなかった。
ここに劇的な変化が生じていた。
そこには今までのようなきれいごとは、欠片も含まれていなかった。
その戦いぶりはまさに死に物狂いであり、勝つためならどのような手段も厭わなかった。
馬を愛する民族性を持つヴォオス人にはあまりないことなのだが、敵の体勢を崩すためなら容赦なく相手の乗馬を傷つけた。
決して一対一の状況を作らないように連携して立ち回り、時には女であることさえも利用して、相手の隙を突いていった。
騎士とは思えないその泥臭さは、カーシュナーの影響であった。
リードリットとカーシュナーの仕合いを見ていた赤玲騎士団員たちは、始めはカーシュナーの戦い方に強い嫌悪感を示していた。勝つためになりふり構わないその姿勢は醜くすら映った。
だが、カーシュナーが求めるものの途方もない大きさを感じ取ってからは、見方が変わった。
トカッド城塞を陥落させ、二万人以上の奴隷を解放してみせた。これだけで、歴史に名を残すだけの偉業と言えるにもかかわらず、本人は今後の活動に支障をきたすとし、その功をリードリットに譲ってみせた。
何より彼女たちの心を打ったのは、解放した奴隷たちのために、誰かに何かをしろと訴えるのではなく、当面の生活から、長期に渡る生活設計を独力で打ち立て、実践してみせたことだった。
誰にとっても理想でしかなく、実現不可能な事と認識していたことを、カーシュナーは現実に成し遂げてみせたのだ。ヴォオス貴族筆頭のクライツベルヘン家の子息であるという立場は、もちろん他の誰にもない強力な後ろ盾である。
赤玲騎士団の多くの騎士たちも、クライツベルヘン家の威光があるから出来ているのだと考えていた。カーシュナー自身そう言ってはばからなかった。
だが、本当にそうだろうか?
力を持たない弱い立場にある人々のために尽力するカーシュナーの姿と、その周囲で笑顔を取り戻していく人々の姿を見て、彼女たちは立場と責任の真の意味に気づかされたのだ。
男に生まれていれば、大貴族の家に生まれていれば、同じことが出来ただろうか。
アナベルは言った。自分には決して出来ないと――。
リードリットは言った。今からでも、自分は成さねばならないと――。
自分たちが敬愛してやまない二人が、カーシュナーの背中を見つめながらそう言ったのだ。もはや言い訳も、きれいごとも並べられない。
あるいはカーシュナーならば、そのどちらをも受け入れ、彼女たちが背負おうとしている覚悟を降ろしてくれたかもしれない。
それがわかるから、余計に悔しかった。正しいとわかっていることを、成さないための言い訳ばかり探していたこれまでの自分たちが情けなくて、涙がこぼれそうになったこともあった。
騎士の道を選んだのは、その道の正しさに憧れたからだ。だが、正しさとは、決してきれいごとを指して言う言葉ではない。ましてや、醜い自分の本当の姿を隠すための出来のいい隠れみのでもないのだ。
真に正しい行いを成すためには、泥にまみれる覚悟こそが必要だったのだ。
敗北者の手には何も残らない。すべては勝ち、取るしかないのだ。
だから、カーシュナーは手段を選ばない。
勝ち、取るために、死に物狂いで足掻くのだ。
カーシュナーが示したものが、彼女たちの中に、真の覚悟を生んだ。死に物狂いで戦い、勝利を得る覚悟だ。
自分たちを実力でしのぐルーシの民の戦士を相手取るその姿は、その団名の通り、真紅の炎をまといし聖なる獣、赤玲そのものであった。
これに発奮しないカーシュナーたちではなかった。
カーシュナーはルオ・リシタ人に体格で劣らない上に、敏捷性でははるかに上をいっていた。単純な力比べでは劣るが、長い腕と柔軟な関節、それら長所を最大限に生かす強靭な筋肉で、頑丈な長剣を鞭を振るうかのように振り回し、ルーシの民の戦士たちを寄せつけることなく斬り裂いてみせた。
加えて、馬術の技量にも差があるので、カーシュナーは巧みに乗馬を操り、戦士たちを翻弄しつつ、赤玲騎士団の援護も行っていた。
シヴァの強さは際立っていた。体格で一回りも上の戦士たちを、まったく問題にしていなかった。馬を傷つける必要もなければ、隙を突く必要もない。
殺す。
ただそう思って繰り出される神速の槍が、死を量産していった。
ルオ・リシタの戦士は、皆恵まれた体格をしていることが多く、攻撃力、持久力ともに優れたものがある。だが、一つだけ欠けている敏捷性が、カーシュナーと対する時以上に、シヴァを相手取るのに大きく災いしていた。
シヴァからすれば、相性のいい相手であり、もはや単なるカモでしかなかった。
対外的に優位を占めるルオ・リシタ人の特性である攻撃力が、そもそもシヴァを下回っている。二、三人で取り囲み、渾身の力を込めて打ちかかっても、あっさり弾かれ、返す一突きで首なり胸を刺し貫かれ、一撃で仕留められていく。
いかに勇猛が服も着ないで半裸で歩いているようなルオ・リシタ人でも、恐怖を覚えずにはいられない。
それまで群がっていた戦士たちが、次第にシヴァの周囲から退いていくようになる。
気持ちが折れてはもはや勝負にはならない。戦士たちはこんな時こそ頼りになる男を探して戦場に視線を投げた。
そして、驚愕に目を見開く。
自分たちをの誰よりも強い男。ルーシの民最強の戦士であり、ルオ・リシタ国の王子でもあるゲラルジーが、体格的には半分ほどしかない真っ赤な髪をした女に対し、防戦一方になっていたのだ。
「最初の勢いはどこにしまい込んでしまったのだ。ゲラルジー? 私が女だから手加減をしてくれているのか? であれば私もそろそろ飽きてきた。もう少し本気を出してくれてかまわんぞ」
激しい立ち回りの後にもかかわらず、リードリットは呼吸一つ乱さず挑発する。
対するゲラルジーは、乱れた呼吸が整わず、言葉を返すことが出来ないでいた。
(何なのだ。こやつの力は! どうして俺の戦斧が受けられる! しかも片手でやすやすと払うなど考えられん!)
声にも、当然顔にも出さないが、ゲラルジーは内心の狼狽と激しく戦っていた。それだけでも戦士としてゲラルジーが一流であることが知れるが、現実として受け入れられない時点で、劣勢を打開する道は開けない。
一方のリードリットも、見た目ほどの余裕はなかった。
力押しで来たゲラルジーを、力で弾き返すことで精神的優位に立ったが、ゲラルジーは侮りがたい戦士だった。
激しく動揺していることは、剣を合わせればわかる。だが、それでも大崩れすることはない。思考や精神状態とは関係なく、戦士としての本能が身体を動かしているのだ。積み上げた修練の重さがうかがい知れる。
リードリットが常識外れの分厚い長剣を打ち込んでも、それ以上の重量を持つ巨大な戦斧で弾き返す。
ゲラルジーも、大木すら一撃で切り倒せそうな巨大戦斧を振り回すが、ごく普通の剣を弾き返すように弾かれ、攻め手に詰まってしまう。
巨大戦斧は、その重量と、それを使いこなせる膂力によって、剣技を極めた防御も、分厚く鋼鉄を重ねた盾も鎧も関係なく粉砕することを目的とした力任せの武器だ。
片手で構えた剣で弾き返される前提で扱うものではない。細かい斬撃を繰り出して隙を作り、逃さずに突くというようなことは出来ないのだ。
巨大戦斧と長剣では、攻撃の回転に大きな開きがある。一撃で仕留められない場合、反撃をかわす手段がない。うかつに攻め込んでかわすなり弾かれるなりすると、無防備な懐に飛び込まれてしまうのだ。
ゲラルジーは最初の一撃を弾かれた際、驚愕のあまり巨大戦斧を返すのが遅れ、危うくリードリットに真っ二つにされるところだった。自身の馬術の技量と、リードリットの乗馬が雪で足を滑らせるという幸運に恵まれなければ、今頃はリードリット軍とゲラルジー軍の雌雄そのものが決していただろう。
手数を抑え守りに徹し、リードリットの隙と疲労の蓄積を待っていたが、目の前の真っ赤な化け物は、一向にその嵐のような斬撃が止む気配を見せない。終いには戦斧を構える手が痺れ、感覚がなくなってくる。
リードリットの挑発に腹は立つが、正直手の施しようがなかった。
リードリット配下の騎士に、ルーシの民の間で武名を轟かせた戦士たちが次々と倒されて行く悪夢のような光景も、先程から視界の隅で捉えていた。だが、リードリット一人すら手に余る状況では、どうすることも出来なかった。
全滅が脳裏にちらついた瞬間、飛来した一本の矢が、リードリットの乗馬の首を貫いた。
戦場に遅れて駆けつけて来たイヴァンが放った一矢だった。
くぐもった悲鳴を上げながら、リードリットの乗馬が倒れる。咄嗟に脱出しようと図ったリードリットであったが、今日はどうにも運に見放されているようで、鐙が足に絡んでしまい、片脚が倒れた乗馬の下敷きになってしまう。
救われたにもかかわらず、ゲラルジーの矜持は戦いに水を差されたことでひどく傷ついていた。
立場で、能力で、何より戦士としての強さで、他の誰よりも優れていたゲラルジーは、生まれてからこれまで、助けを求めたことも、助けられたこともなかった。唯一認めたライドバッハから受け取った古代地図も、使いこなせるのならば、使って見せろという、対等な立場からの挑戦として受け取ったものであった。
自身が認めた相手ならばまだ納得も出来る。
だが、今は違う。
女相手に劣勢に立たされ、それを知った卑しい奴隷ごときに窮地を救われる。
それは、戦士としてあってはならないことであった――。
それは、ルーシの民の族長としてあってはならないことであった――。
それは、ルオ・リシタの王子としてあってはならないことであった――。
何より、ゲラルジーとして生まれ育った男には、断じてあってはならないことであった――。
ゲラルジーの中で、自身は矜持と信じて疑わなかったものが弾けた。それは己の能力に溺れ、肥大化した傲慢であった。
ゲラルジーは無意識に馬体の下でもがくリードリットに巨大戦斧を振り下ろした。その腕に、まるで意志を持っているかのように鉄の鎖が絡みつく。
モランが振るった鉄鎖である。
忌々しげに振り向いたゲラルジーの目に、モランの漆黒の肌が映る。ただでさえ憤怒に歪んでいたその顔に、無数の血管が浮き上がる。
「奴隷ごときがあぁっ!! 誰に鎖を掛けておるつもりだあああぁぁっ!!!」
憤怒は狂気の領域に踏み込み、怒りの声が獣の咆哮と化す。
恐ろしい膂力で引かれた鎖を、驚いたことにモランは持ちこたえてみせた。片腕対両腕の力比べではあったが、それでも驚くべき力だ。
引き合う力が拮抗した瞬間、ゲラルジーに一瞬だが、決定的な隙が生じる。
死んだ馬を蹴り飛ばす勢いで下敷きになっていた脚を引き抜いたリードリットが、馬上のゲラルジーに躍りかかったのだ。
「ゲラルジー様!!」
リードリットを跳ね飛ばさんばかりの勢いで、二人の間にイーラが馬を割り込ませる。
ゲラルジーの首を斬り飛ばそうとしていたリードリットの剣を、イーラの剣が打ち落とす。
「退け! 小僧!」
自分とさして年齢の変わらないイーラを、リードリットが怒鳴りつける。
一瞬の隙が入れ替わり、モランとの力比べを制したゲラルジーが、モランを馬上から引きずり落としながら反撃に出る。
その巨大な手は戦斧を捨て去り、自分を守るために身を挺してリードリットとの間に入ったイーラの背中に掛かる。
ゲラルジーに突き飛ばされたイーラの身体が、空中でリードリットと激突し、絡み合いながら落下する。
驚愕に引きつった顔を振り向かせたイーラの目が、自身の陰に隠れて短剣を振りかぶるゲラルジーの狂気に血走った目と合う。
狂気は濁りきった眼球から、顔全体に広がり、ゲラルジーの口角を悪魔のようにつり上げた。
「いい気になるな。俺を助けたつもりか? 奴隷風情が……」
声にならない言葉が唇の上を走り、イーラの頭の中で再生される。
次の瞬間、何を言うまもなく、イーラはゲラルジーが振り下ろした短剣によって、リードリットごと刺し貫かれた。肉を突き通す鈍い音が、全身に響く――。
ガギィィィン!!
直後に、金属同士が激しくぶつかり合う音が響いた――。
イーラの身体が邪魔で長剣を返して攻撃を防ぐことが出来ないと悟ったリードリットが、咄嗟に鞘を引き上げ、ゲラルジーの短剣を防いだのだ。カーシュナーとの仕合いで頭部に叩き込まれた鞘の一撃がここで生きた。
背筋の反り返りだけで大の男二人を押しのけると、リードリットは素早く立ち上がる。
ゲラルジーもイーラの身体を振り払い、短剣を構える。
背中から胸まで一突きにされたイーラは、大量の血を吐きながら投げ出される。振り払われた拍子に抉られ、大きく口を開いた背中と胸の傷口から血が吹き出し、見る見るうちに雪を染めていく。
「イィィ――――ラァアアァァッ!!」
周囲の雪よりも蒼白になったイヴァンが、弟の名を絶叫した。
「あの女を射ろ! イヴァン!」
イーラの死などかけらも気にかけることなくゲラルジーが命令する。
それに応えて大気を震わすはずの弦の音は響かない。
弓を投げ捨て弟の元へと駆け寄るイヴァンの耳には、もはや何も届いていなかった。
奴隷に無視されたことで、ゲラルジーの脳裏が真っ赤に染まる。リードリットと対峙していることも忘れ、投げ捨てた戦斧に取りつくや、満身の力を込めてイヴァンに投げつけた。
うなりをあげて迫る戦斧にも、イーラの亡骸にすがりついて泣くイヴァンは反応を示さない。
回転する戦斧がイヴァンを真っ二つにするかと思われた瞬間、モランの鉄鎖が戦斧に絡みつき、ギリギリのところで軌道を変える。
モランは戦斧の勢いをそのまま利用し、大きな弧を描いてゲラルジーへと叩きつけた。
「奴隷どもが! 何度も俺の邪魔をしおって!」
破裂した怒気と共に、モランが放ったとんでもない一撃を、ゲラルジーは素手で叩き落とす。
叩き落とされた戦斧はモランの鉄鎖から解き放たれ、リードリットの足元に突き刺さった。
戦斧を追ったゲラルジーの視線がリードリットを捉え、戦いの最中に我を忘れて暴走していたことに気づかせる。
「何故俺を討たなかった……。 絶好の機会であったはずだ!!」
リードリットが故意にゲラルジーの隙を見逃したと判断し、戦士としての誇りを傷つけられたゲラルジーがリードリットを詰問する。
これに答える前に、リードリットは足元に突き刺さっている巨大な戦斧を蹴り飛ばし、ゲラルジーの足元へ返す。
屈辱に顔面を真っ赤に染めながらも、ゲラルジーは戦斧を拾い上げる。
「一国の王子とは思えんあまりの醜態に、さすがの私も呆気に取られたのだ」
リードリットの返した皮肉が、毒となってゲラルジーの耳に流れ込む。
理性は再び弾け飛び、怒気がゲラルジーを一回り大きく見せる。
それでもゲラルジーはむやみに突進したりはせず、力と集中力を高めていく。打ち合いでは攻撃の回転力で劣ることはすでに十分思い知らされている。必殺の一撃でもって、真っ二つにする以外勝機はない。
これに呼応して、リードリットも力と集中力を高めていく。まとった百戦の気が、視認出来そうなほど、その力は高まっていった。
「うわあぁあぁぁぁっ!!!」
場にそぐわない悲鳴が、イヴァンの口から洩れる。
抱えていた弟の左腕から、呪印の毒蛇が鎌首をもたげたのだ。
刺青でしかない毒蛇がイーラの腕をすべり、心臓へと這い登って行く。
「やめろ!!」
イヴァンが毒蛇の鎌首をつかもうとするが、今度は自身の左手首に彫り込まれた毒蛇が鎌首をもたげ、邪魔をする。
イヴァンは必死で振り払おうとするが、跳ね除けようとした手がすり抜け、すり抜けた部分の皮膚だけが焼かれ、焦げ臭い臭いと白い煙を上げる。
これを視界の端に捉えたリードリットが、驚愕のあまり目を見開く。
それを見たゲラルジーが、暗い満足感をたたえた笑みを浮かべる。
「驚いたか? 我がルーシの民が崇めるルーシの精霊の力だ。あれは奴隷を縛るための呪印で、逆らうと殺し、殺すと魂を喰らう。死んだ奴隷の方はまもなく魂を食われ、逆らったイヴァンも呪印の毒蛇に咬まれ、同じ運命をたどる。滅びた民の生き残りの分際で、俺に逆らった報いだ。精霊の炎で、その魂を未来永劫焼かれ続ければよいわ!」
「貴様ぁっ!」
身を挺して自分を庇ったイーラに対するゲラルジーの仕打ちに、リードリットは激怒し、奴隷を持つということに慣れきった人間の底知れぬ狂気に嫌悪した。
イーラの心臓に毒蛇が喰らいつこうとした瞬間、イヴァンが上げた絶望の叫びをかき消すほどの苦鳴が、頭部から煙を上げる毒蛇の口から迸った。
イヴァンは自分の上に影を落とす存在を見上げた。逆光により影にのまれていて顔はわからないのに、翠玉をはめ込んだかのように輝く瞳が、イヴァンの心を捕らえる。
それは、右手に自身の血を吸い込ませた布を下げたカーシュナーだった。
「<森妖術師>の呪印か。いまだにこんなものが残っていたとはな……」
カーシュナーも、嫌悪を込めて吐き捨てる。
「この男はお前の家族か?」
カーシュナーの問いかけに、イヴァンが答える前に、イヴァンの手首の毒蛇がカーシュナーに襲い掛かる。
その頭を、カーシュナーは手にした血染めの布で叩き落とした。驚いたことに、毒蛇は白い煙を上げてのたうち苦しみ出す。先程イーラに憑りついた毒蛇を苦しめたのも、カーシュナーの血が染み込んだ布だったのだ。
「答えろ! この男はお前の家族なのか!」
「お、弟だ! この世でたった一人の肉親だった……」
「今ここで決断しろ! お前の弟は、死んだ! そして今、魂を食われかけている! 俺はお前の敵であるヴォオス人だ! だが、お前の弟の魂を、俺は助けることが出来る! 助けたいか!」
「た、助けてくれ! 俺は生まれた時から奴隷だった! 奴隷に国も人種もない! 俺の命を捧げるから、弟の魂を救ってくれ!」
「敵に助けを乞うか! どこまでも卑しい奴隷が!」
ゲラルジーの罵り声が響く。
カーシュナーは一瞬だけ凍りつくような視線をゲラルジーへと投げたが、視線を無理やり引きはがし、イーラの首に巻かれた鎖に意識を集中させた。剣を低く構え、鎖に狙いを定める。戦いの最中でも見せたことのないような集中力で力を一点に集め、気合と共に一突きにする。
その背後をルーシの民の戦士が狙ったが、モランの鉄鎖に顔面を砕かれ、絶命する。
鎖は断ち切られ、鎌首をもたげていた毒蛇が元の刺青に戻る。カーシュナーはすかさず自身の血を染み込ませた布を、イーラの左手首の巻きつけた。
血が凍りつきそうな悲鳴が大気に響き、イーラの左手首から得体の知れない影が飛び出し、霧散して消えた。
「ルーシの精霊も、大したことはないな」
カーシュナーが悪意全開の言葉をゲラルジーに投げつける。
信仰の対象すらも目の前で敗れ去り、ゲラルジーの瞳に恐怖が忍び寄る。
「相対してみれば、噂程の男でもなかったな。ゲラルジー。さっさとかかってこい。ケリをつけてやる。それとも、女相手に尻尾を巻いて逃げるか?」
勝敗はもはや決していた。イヴァンの苦しみを嘲笑うなどというつまらないことに時間を割かず、気の充実と共に一気に勝負に出ていれば、まだ勝機はあったが、一度恐怖に揺らいだ闘志が再び満ちることはない。
リードリットは無造作に近づくと、自暴自棄になって振り下ろされたゲラルジーの巨大戦斧を横薙ぎに一閃し、分厚く巨大な刃を両断すると、そのままゲラルジーの首を跳ね飛ばした。
首を失った巨体はそのまま数歩歩くと巨木のように倒れ、吹き出す暖かい血で雪を溶かしていった。
血の尾を引きながら宙を舞ったゲラルジーの頭部を、リードリットは片手でつかみ取ると、戦場全域に轟くような大音声で宣言した。
「ルオ・リシタ国王子ゲラルジー、このリードリットが討ち取ったぁ!! この戦、我らの勝利だ!!」
高く掲げられたゲラルジーの首を目にした戦士たちから、戦意が抜け落ちるかと思われたが、予想に反して死を覚悟した猛反撃が待っていた。
彼らはどこまでも一人の戦士の集まりであり、兵士の群れではないということだ。
ここまで生き残った戦士たちは、目の前の敵を放り出し、全員がリードリットに殺到する。
ここで遅まきながら貴族連合軍がフールメントの野に合流し、戦術無用の大混戦に突入する。
「弟の亡骸を弔いたいだろう?」
カーシュナーがイヴァンに問いかける。イヴァンは放心しつつも素直にうなずく。
いまだに威嚇を続けるイヴァンの呪印をわずらわしく見下ろしたカーシュナーは、新たに血を染み込ませた布で毒蛇をしたたかに打ちのめし、イーラの時同様鎖目掛けて剣を構えた。
「カーシュナー様! お早く! 持ちこたえられません!」
イヴァンを裏切り者と受け取った戦士たちが、リードリットだけでなく、イヴァンにも群がって来ていた。それをダーンとモランの二人だけで支えている。
囲みの外側では、ミランが群がる戦士たちを射倒しているが、急所にでも当たらない限り、二、三本矢を突き立てた程度では、捨て身で突き進む戦士たちを止めるのは困難だった。
「鎖を身体から離せ!」
カーシュナーの命令に、イヴァンは呪印のない右手で鎖を引き上げる。元々ゆとりのない鎖の首輪であるため、剣を突き込む余裕はわずかしかない。剣先がわずかでも逸れれば、動脈を切り裂いてしまうだろう。
だが、カーシュナーは隙間が出来た瞬間、間髪入れずに剣を突き入れた。
悲鳴のような金属音を発して、鎖の輪が断ち切られ、イヴァンは生まれて初めて鎖の感触から解放された。刺青に戻った毒蛇の呪印に、カーシュナーがすかさず布を巻きつける。
イヴァンは身体の内側が、軽くなるのを感じた。それはまるで、これまで全身を巡る血液に、水銀でも混ぜられていたかのように感じた不快な重みが消えてなくなり、血液のすべてが全く新しいものに入れ替わったかのような感覚だった。
一瞬生じた気のゆるみを狙いすましたかのように、ダーンとモランの鉄壁を奇跡的にすり抜けた戦士の一人が、カーシュナーでもイヴァンでもなく、イーラの亡骸に戦斧を振り下ろした。
「あっ!」
イヴァンの全身を後悔の念が駆け抜ける。咄嗟に伸ばした手も、むなしく空をつかむだけだった。
そのイヴァンの指先をかすめるように、恐ろしいうなりをあげてカーシュナーの長い脚が振り抜かれて行く。
カーシュナーの右足の甲が振り下ろされた戦斧の腹を見事に捉え、ダーンをかすめて蹴り飛ばされる。
「あぶっ! 危なぁ!!」
肌を撫でた死の旋風に、ダーンが思わず首をすくめる。
「一人漏らした罰」
「嘘をつかないでください! たまたま当たらなかっただけでしょう! 手が空いたなら加勢してください!」
こんな時でも、言葉の応酬を続ける二人に、その声を背中に聞きながら、モランは頼もしい思いに駆られた。
「なんであんたは、奴隷の俺たちを助けたり、庇ったりするんだ……。俺たち兄弟は、あんたたちの敵だろう!」
「奴隷には、国も人種もないんだろ? ならお前は俺たちの敵じゃない。少なくとも、ヴォオスにおいて奴隷が敵とみなされることはない。そんなことより、お前は弟をしっかり守れ!」
カーシュナーは一瞬の隙をついてイヴァンに振り向き、いまだに現実に上手く帰れていないイヴァンの頭に拳骨を振り下ろした。
そして、その後は完全に放置する。
自分と弟の亡骸を囲んで奮戦する三人の背中が、イヴァンに新たな生気を吹き込む。弓を投げ捨ててしまったイヴァンは剣を引き抜くと、三人の戦いに加わった。
力任せが信条のルオ・リシタ戦士と違い、イヴァンは確かな技量を示した。
イヴァンを裏切り者と決めつけている戦士たちが、道連れにしようと殺到するが、まともに打ち合わず、喉や顔面に鋭い突きを入れていく。
横幅や厚みこそないが、ルオ・リシタ人らしく見事な体躯を誇るイヴァンは、その長い脚を利用して、突き崩した戦士を素早く前蹴りで蹴り飛ばし、次の戦士と向き合う。これまでは服従するしかなかった相手を、今は思うさま倒すことが出来る。イヴァンはこれまでの人生の苦汁を飲み込んだまま死んだイーラの分まで背負って戦っていた。
「殿下! シヴァ! 聞こえるか! 合流してくれ!」
言いつつカーシュナーも、四人陣形を再び三人陣形に狭め、リードリットとシヴァが戦う輪の方へ、じりじりと移動を始める。イヴァンはイーラの亡骸を背負い陣の中心にいる。
「わかった! 行くぞ、シヴァ!」
「おうよ!」
答える声と、ルーシの民の戦士たちの壁が吹き飛ぶのとが、同時に起こる。
これまで、立場や地位が邪魔をして、その真価を発揮する場がなかった二人が、ゲラルジー配下の戦士たちの捨て身の猛攻を受けたことにより、ついにその真の力を解放する。
敵と同様、力任せな部分が多かったリードリットだが、百人以上を斬ったあたりから、視界が不思議と開け始めた。戦況が広く見渡せるようになると、思考と動作が同時に連動するようになり、下手をすればいつの間にか身体が動いていることすらある。
受けて斬る。受けた相手をそのまま斬る。力任せに振るわれてきたこれまでの剣技の中から、これらの“受ける”を省くことが出来るようになった時点で、リードリットの剣技は劇的に変わった。
力が速度に変換され、上がった速度が再び力を生かす。
恐るべき剣士へと変貌を遂げたリードリットは、ルーシの民の戦士にとって、巨大な鎌を振り回し、次々と命を刈り取る死神も同然だった。
そして、そのリードリットを上回って死を振りまいているのが、神槍神技の使い手、シヴァだった。
これまで、個人として戦う相手は国内の騎士がほとんどで、兵士として戦う際は、立場に見合った働きに留めていた。百騎長が突出した働きを見せることを、同僚以上の立場にある人間は望まなかったからである。
本気で戦ったことはこれまで一度もなく、唯一それに近かったものが、カーシュナーとの仕合いだけであった。それですらも、互いに大きなけがを負わない配慮の下で振るわれた剣である。
遠慮も加減も、ましてやうっとおしい妬心を気にかけることなく戦うのは、これが初めての経験だった。
無用に血を求めるような人間ではないが、己の内にある力の限界を知りたいという欲求の解放は、シヴァの戦士としての本能を解放した。
人の動き、空気の流れ、うねる殺気。戦場のあらゆる要素がシヴァの中に流れ込み、未来予知に近い正確さで、これから先の戦場の映像がシヴァの脳裏に描き出される。
シヴァはそれに合わせて槍を振るうだけであった。
リードリットと背中合わせに作られた戦いの円環は、シヴァの側に広く広がり、屍の山が防壁のごとく積み上げられている。
包囲されているにもかかわらず、リードリットとシヴァは、小さな村の通りでも渡るように、いともあっさりと戦士たちの囲みを破り、カーシュナーたちと合流してみせた。
「おいっ! お主、名はイヴァンとか言ったか? 無念の最後ではあったが、お主の弟が見せた忠義の在り様見事であった! 惜しむらくは、その相手が忠義に値せん男であったということだ。この狂戦士どもは我らに任せて、お主は弟を弔うまでしっかりと守っておれ!」
ゲラルジーと同じ王族とは思えないリードリットの言葉に、イヴァンは思わず目を見張った。
それ以上を語らず、自分を守ろうとするその背中だけが、先程のカーシュナー同様人物の大きさを雄弁に語っていた。
「モラン! そっちは大丈夫か! なんならお前さんも内側に入っていろ!」
シヴァが南方民族出身の戦士であるモランに声をかける。
「あと百人は大丈夫です!」
周囲に毒されたようで、真面目なモランが軽口で返す。だが、いまだに呼吸に乱れもなく、鎖帷子のように鉄鎖をたすき掛けに巻き、長剣を振るう姿に疲労の色は見えない。本当に百人は倒せそうな勢いである。
五人になったことで、死の量産体制に入ったカーシュナーたちは、軍組織としては二流でも、一人一人の実力では大陸最強ともいわれるルオ・リシタ戦士たちを次々と葬っていった。
離れた位置からフールメントの野を見渡していた貴族たちは、その異様な光景に呑まれ、配下の兵士たちにろくな指示も出さず、ただただ見入っていた。
全滅覚悟で大将首を狙って一点に群がるゲラルジー軍の戦士たちの狂気と、それを周囲から切り崩していく赤玲騎士団とクライツベルヘン軍の混成軍。そして、その中心で、人とは思えない強さですべてを圧している王女リードリットと数名の部下――。
貴族たちが侮り、捨て石程度に考えていた赤玲騎士団と、リードリットの驚異的強さに、貴族たちはこれまで散々苦戦を強いられてきたゲラルジー軍の執念に対してではなく、目の前で奮戦する味方に恐怖した。
戦いの中で蹴り上げられ、舞い上がっていた粉雪たちが、不意に静まる。
冬空の元、澄んでいた空気を死と血肉の臭いで満たした戦いに幕が下りる。
ルーシの民の戦士たちの死体が累々と横たわる中、生き残った者たちが戦いの中心へと向かっていく。
ひざまずく赤玲騎士団とクライツベルヘン軍の間を縫って、貴族たちも馬を進めていく。
命じられてもいないのに、馬たちが歩みを止める。
怪訝に思った貴族たちの目に、返り血で真っ赤に染まったリードリットの姿が入る。
視線が合う。
貴族たちは無我夢中で馬を降り、リードリットの元へと駆け寄る。
誰一人命じられることなく、リードリットの放つ威に打たれ、ひざまずいていく。
王家の血の真の力と、その意味をまざまざと思い知らされる。
全身が小刻みに震え、差別と偏見で彩られていた侮りが、粉々に打ち砕かれる。
身を切る寒さの中、全身から吹き出す汗が止まらない。これまでの己の言動が、心に重くのしかかってくるのだ。
リードリットがゆっくりと剣を掲げる。
貴族たちは蛇ににらまれた蛙のように、陽光を受けて鈍く輝く血まみれの剣を、振り上げられた死神の鎌を見上げる思いで見つめた。
「何をしておる。お主らも早く立って剣を掲げんか」
黄金色の瞳に宿っていた力が柔らかくゆるみ、赤玲騎士団員ですらも初めて見るやさしい笑みがリードリットの頬に浮かぶ。
それはまぎれもない王者の笑みであった。やさしさの底に鋼の強さを秘めた、見る者を魅了してやまない引力を持つ微笑み――。
「勝鬨だぁ!!」
リードリットの声が轟き、その場に立つすべての者が、声を限りに雄たけびを上げた。
アナベルが、赤玲騎士団の団員たちが、クライツベルヘン軍の兵士たちが、天を突く勢いで剣を掲げ、曇天を破ろうとするがごとく声を空へと放つ。
貴族連合軍の兵士たちがこれに続き、フールメントの野を勝利が満たしていく。
ミランとモランがイヴァンを促し、三人で雄たけびを上げる。
シヴァも意外なことに、素直に雄たけびを上げていた。
ダーンも日頃の冷静さを忘れ、声を嗄らして叫んでいる。
周囲を満たす大音声に突き動かされ、リードリットの威に呑まれていた貴族たちも遅れて声を上げる。直後に周囲の興奮に呑み込まれ、貴族たちは身分の差など関係なく、掲げた剣を合わせると、声を合わせて雄たけびを上げた。
リードリットの視線が、その光景を満足気に眺めるカーシュナーを捉える。
掲げた剣をカーシュナーに向けると、剣と剣を打ち合わせ、見事な雄たけびを上げた。
そして目顔でカーシュナーに促す。
カーシュナーの頬にも、リードリットに劣らない最高の笑みが浮かぶ。
これまでさまざまなカーシュナーの表情を見てきたリードリットであったが、それは心を捕らえる最高の笑顔だった。
カーシュナーは大きく息を吸い込むと、素晴らしい声で雄たけびを放った。
聞く者の心を鼓舞するその声が響き渡ると、フールメントの野には、新たな大歓声が沸き上がった。
それぞれが負けじと雄たけびを上げ、戦いの興奮から、勝利の歓喜へと、上がる声の質が変わっていった。
リードリットを語る歴史書の中で、多くの頁が費やされる<フールメント会戦>が、リードリットの大勝利によって幕を閉じたのであった――。
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