混乱から混沌へ (その5)
修正に手間取ってしまいました。
きれいに半分に分けることが出来なかったので、今回は少し短めです。
それでは、その5の本編をどうぞ!
セミルユザール王子との戦いで重傷を負ったメティルイゼット王子は、治療を受けつつ戦後処理の指示を続けていた。
刺し貫かれた傷口を開かれ、消毒を受ける。そして傷口が縫い付けられる。
この間メティルイゼット王子は呻き声一つ漏らさず、状況の把握と処理に努め、危機的状況で駆けつけて来た軍の主だった者たちと接見していた。
メティルイゼット王子の天幕に通されたパラセネム派の貴族たちは、メティルイゼット王子の胆力に呑まれ、片膝をついたまま縮こまっている。
「此度の救援ご苦労だった。たいした働きだ」
結果として命を救われたメティルイゼット王子が、まるで叱責に怯えるように控える貴族たちに労いの言葉を掛ける。
言葉面だけを見れば貴族たちの緊張は解けそうなものだが、その声に含まれる疑念の響きに、貴族たちの表情が晴れることはなかった。
メティルイゼット王子は彼らの救援が善意から来たものだとは微塵も思っていなかった。
もっとも、それは彼らに限ったことではない。
ゾン貴族の行動の裏に、利己的な目的がないことの方が珍しいのだ。
だが今回の救援は、日和見を決め込んでいた連中の恩着せがましい行動としては、あまりに優秀過ぎるものだった。
ザバッシュの襲撃は見事にメティルイゼット王子の虚を衝いた。
ゾン中央圏内にその存在を確認していたにもかかわらず、不意を衝かれてしまった。
ネジメティン派のもとから脱出したセミルユザール王子と合流したことが今回ザバッシュに単独で襲撃を行うことを決断させた要因であることは間違いない。
単独だからこその速攻。
故にメティルイゼット王子がその動きを察知する前に、襲撃を仕掛けることが出来た。
完璧な機と場所でだ。
ヤズベッシュが倒れ、ネジメティンから見捨てられたセミルユザール王子が、中央に頼る当てがなく、東部貴族のもとへと向かったのは納得出来る。
そしてザバッシュと合流したのも、もっとも中央深くに攻め込んでいたことを考えれば自然な流れだ。
だがそこからの展開があまりに完璧過ぎた。
偶然が勝敗を左右することはある。
ザバッシュの英断が、運を呼び込んだ可能性は認めてもいい。
しかし、そこに重ねて自分を救う偶然が訪れたことには、メティルイゼット王子は受け入れ難いものを覚えていた。
だが目の前で竦む小物たちから、偶然を演出出来るだけの力は感じない。
逆にそれだけの力があれば、ヤズベッシュ派かネジメティン派の中で頭角を現し、事態がここまで展開するまで日和見を決め込んでなどいなかっただろう。
深読みのし過ぎかとも考えたが、メティルイゼット王子は自分の中の違和感を、安易に手放そうとはしなかった。
そこにふらりとカーディル王子が現れる。
入り口の衛兵たちが慌てて制止しようとしていたが、仮にも自国の王子である。力づくで止めるわけにはいかないし、そもそもそんなことをすれば衛兵たち自身の命にかかわる。
そもそもカーディル王子が天幕に入ってくるまで陣内の誰も気づかなかったことが異常と言えるのだが、カーディル王子はその巨体からは想像もつかない程静かに動く。メティルイゼット王子曰く、野生の獣と同様、生まれながらに生き残るために備わっていた能力なのだそうで、メティルイゼット王子配下の優秀な兵士たちですらその存在を見失うことは珍しいことではなかった。
衛兵たちが侵入を許してしまったことも無理もない話で、メティルイゼット王子はそのこと自体は咎めず、衛兵たちにただ下がる様に命じた。
「戻ったか」
徘徊する肉食獣のような弟に、メティルイゼット王子は声を掛けた。
わずかに目線を返してきたが、どこか心ここにあらずといった感じで、返事もしない。
目潰しを受けて戦線を離脱したことは報告で承知していたので、まだ五感に不調をきたしているのかもしれないと、メティルイゼット王子は考えた。
カーディル王子の出現によって中断していた貴族たちとの接見を再開しようとしたところに、報告の兵が入って来た。
その様子からただ事ではないと察したメティルイゼット王子は、何度も話の腰を折られるのは面倒と、先に報告を受けることにする。
報告の内容は、敵将の一人であるトゥガイを捕らえたというものであった。
その瞬間、メティルイゼット王子は一つの可能性に思い至った。
ザバッシュ軍の動きに、目の前の貴族たちが何らかの形で関与していた可能性だ。
中央にヤズベッシュ派とネジメティン派以外に、自分に対して策を巡らせていた者がいた場合、ザバッシュ軍をあの機に、あの場所に誘導することは可能だ。
そして、自分に対して仕掛けた罠を、ザバッシュ軍に対して再度用いるのは容易なことだ。
一つ合点がいかないのは、自分を窮地に追いやり、それを助けることで恩を売るよりも、あのままザバッシュに自分を討たせた方が、自分に恩を売って取り入るような迂遠な真似をするよりはるかに多くの利を得ることが出来た点だ。
すべては今思いついた推測に過ぎない。
この場にトゥガイを引き出させ、貴族たちの反応を見てみれば、何かわかるかもしれない。
メティルイゼット王子はトゥガイをこの場に連れてくるよう命じた。
引き出されたトゥガイは満身創痍でボロボロの状態だった。
だがその眼光は死んでおらず、縛り上げられ、膝裏を殴られてひざまずかされてもなお、その背は真っすぐに伸び、メティルイゼット王子に真っ直ぐ視線を向けていた。
この不遜な態度に引き立てて来た衛兵が槍の柄で殴りつけるが、トゥガイは涼しい顔で衛兵の足に血の混じった唾を吐くと、再びメティルイゼット王子に視線を向けた。
腹を立てた衛兵が再度トゥガイを殴りつけようとするのを、メティルイゼット王子がつまらなそうにやめさせる。
戦好きではあるが、抵抗出来ない相手を嬲る様な趣味はメティルイゼット王子にはない。
メティルイゼット王子の不興を恐れた衛兵は、直立不動の態勢で控えた。
「直接顔を合わせるのは初めてだったか、トゥガイ卿?」
「いえ、殿下がまだお小さいころに一度ご挨拶させていただいたことがございます」
「そうか」
トゥガイの態度は不遜、無礼というものではなく、武辺者らしい、へつらいを嫌ったもので、王族であるメティルイゼット王子に対する礼を欠くものではなかった。
そうと察した衛兵が、先程の自分の行いを恥じ、眉間にしわを寄せる。
「何故東部貴族はザバッシュに味方した?」
本当に知りたいわけではないが、会話の糸口として尋ねる。
「信義を重んじたに過ぎません」
トゥガイは言葉を飾らず素直に答える。
「信義か。ゾンにまだそんな言葉が残っていたとは驚きだ」
トゥガイの言葉を受け、メティルイゼット王子は中央貴族たちに意味あり気な視線を向けた。
その視線の意味が理解出来る中央貴族たちは、視線を落としたまま、けしてメティルイゼット王子の方を向こうとはしなかった。
「それにしても見事な襲撃だった」
「ですが、失敗しました」
メティルイゼット王子の賛辞に、トゥガイは現実的は答えを返した。
武辺者のトゥガイにとって、善戦で敗戦を覆うような真似は、無様でしかないからだ。
「確かにな。結果私は生き延び、お前は虜囚の身だ。運に救われただけでしかないが、すべては私の手の中にある。トゥガイ、幾つか聞きたいことがある。素直に答えてくれれば、お前ほどの将だ。相応の待遇でもって迎えさせてもらうぞ」
メティルイゼット王子は視線はトゥガイに据えたまま、感覚は中央貴族たちに向けていた。
ザバッシュ軍の襲撃に関して、何らかの形で関与していたのであれば、トゥガイが何を知っており、何を答えるか、気が気ではないはずだ。
「身に余る光栄と存じますが、殿下の恩情に甘えるわけにはいきません。王族に剣を向けるということの意味を、知らずにここまで来たわけではございませんので。信義によって立った以上、古き友を売り渡すような真似は、東部貴族の一員として出来ません」
どこまでも融通の利かないトゥガイに対し、中央貴族たちは侮蔑の表情を浮かべた。
それはメティルイゼット王子にとって意外な反応だった。
ザバッシュ軍の襲撃に関与していたとすれば、何も語ろうとしないトゥガイの行動は中央貴族たちにとっては都合がいい。安堵の表情を見せる程間抜けではないだろうが、メティルイゼット王子の不意の仕掛けに対して、示し合わせたように全員が表情を作れるほどの器でもない。
トゥガイの剛毅を愚直と嗤うその表情は、本音なのだ。
「そうか。ではこちらも手を汚さざるを得んな。これは戦だ。答えんというのなら、身体に聞くまでだ」
メティルイゼット王子のトゥガイを惜しむ気持ちは本物だ。だがその感情に縛られて必要な情報を放棄するメティルイゼット王子ではない。
彼はどこまでも優秀な指揮官なのだ。
これに対し、トゥガイは諦念の笑みを浮かべる。
「カーディル王子。目と鼻のお加減は如何ですかな? 泣きながらどこかへ行かれてしまったので心配したしましたぞ?」
諦念の笑みを消したトゥガイは、代わりに侮蔑の笑みを被り直し、カーディル王子を挑発する。
それまで変に大人しかったカーディル王子が、尾を踏まれた獅子のように殺気を纏う。
「待てっ! カーディルッ!」
殺気を察知した瞬間、メティルイゼット王子は弟の前に身を乗り出して制止する。
トゥガイの狙いは明白だ。
拷問によって情報を引き出されないために、カーディル王子を挑発し、この場で自分を殺させようとしたのだ。
捕虜は他にも捕えているが、トゥガイは先のザバッシュ軍において大将であるザバッシュに次ぐ立場にあった。持っている情報量が他の捕虜たちとは比べものにならない。弟の癇癪で死なせるわけにはいかなかった。
カーディル王子の殺気がさらに膨らむ。
手痛い目に遭わされた相手からの挑発だ。感情の制御が苦手なカーディル王子が、兄からの怒声一つでは静まらないのも無理はない。
反射的にメティルイゼット王子は無事な方の手でカーディル王子の胸ぐらを掴み、その目を覗き込むために顔を寄せた。
支配する者と、支配される者。
カーディル王子に己の立場をはっきりと自覚させるためだ。
覗き込んだ鈍い瞳の中に、生まれてから今日まで刻み込んで来た、立場を本能的に理解していた怯えの色がない。
メティルイゼット王子がその意味を察したのは、カーディル王子が行動した直後だった。
トゥガイに対して引き抜かれたと思われていた短剣が、メティルイゼット王子の胸の真ん中に深々と埋まる。
「き、貴様……」
心臓を貫かれたメティルイゼット王子は、それ以上の言葉を続けられなかった。
弟の瞳の中に、これまで存在しなかった支配する者の光がちらつき始めたのを見たのが、メティルイゼット王子のこの世で最後に認識したものだった。
その場の誰も反応出来なかった。
自分を殺させるために挑発したトゥガイはもちろん、守るために控えていたはずの衛兵たちも、即座に事態が呑み込めず、思考が真っ白になってしまう。
そんな中動いたのは、カーディル王子自身だった。
兄の身体に埋め込んだ短剣を捨てると衛兵に襲い掛かり、素手の一撃で首をへし折ると武器を奪う。
そしてもう一人の衛兵を、声を上げる間も与えず斬り捨てる。
次いで目の前で呆気に取られているトゥガイを斬り捨て、その場に居合わせることになった中央貴族たちにまで襲い掛かった。
ようやく上がった中央貴族たちの悲鳴で天幕の外の衛兵たちが駆けこんで来た時には、カーディル王子以外に立つ者のいない、血の海が広がっていた。
<神速>と呼ばれた男の最後は、弟の殺意を読み違えるという、あまりにもらしくないものであった――。
◆
目と鼻を潰されて彷徨っていたカーディル王子は、パラセネムにの手によって戦場から離脱していた。
パラセネム自ら治療に当たり、カーディル王子の目と鼻は癒されていった。
触れられる指先の感触が、戦場で荒れた肌を撫でるその動きが、カーディル王子に官能的な刺激を与えていく。
ゾン国中の男性貴族を魅了し、ゾン国中の貴婦人たちの嫉妬と羨望を一身に集めたパラセネムが持つ妖艶さは、赤子の手をひねるよりも容易くカーディル王子の雄の本能をむき出しにし、肉欲の海に溺れさせる。
催淫術――。
性欲の果ての忘我の内に、強い暗示で人の意思と行動を操る催眠術の一種で、性欲に深く溺れれば溺れる程、強い暗示に縛られる。
快楽の影で働く暗示は無意識の底に沈み、己の意思と信じて疑わない。
これまでメティルイゼット王子によってあてがわれた性奴隷を相手に性交の経験はあったカーディル王子であったが、その獣のごとき逞しい肉体と体力も、パラセネムの性技と性欲の前では、これまでパラセネムによって陥落させられてきた男たちと何ら変わることはなかった。
性交の果てに、カーディル王子は眠りについた。
その眠りの底に甘い毒が注ぎ込まれる。
毒はカーディル王子の過去に絡みつき、強い暗示となって定着していく。
カーディル王子は知的障害を持って生まれて来た。
同時に、幼いころから目を見張る程の肉体的な強さを持っていた。
生まれてすぐにアリラヒム王に処理されずに済んだのは、知能の低さが露見するより先に肉体的強さが顕著に表れたからだ。
それでもその知能が教育で改善出来る範疇にないことが知れると、アリラヒム王はカーディル王子を処分しようとした。
それを止めたのがメティルイゼット王子であり、その行為は愛情からではなく、将来的な戦力としてその肉体的な強さを欲したからに過ぎなかった。
カーディル王子の周囲に愛情はなく、兄が見せるむき出しの現実がカーディル王子の鈍い思考を育てていった。
この世には支配する者と支配される者がいて、兄は支配する者だった。
弱者は強者には逆らえず、その慈悲にすがらなければ生きる権利すらない。
そのことを兄によって施された戦闘訓練で、カーディル王子は骨の髄まで叩き込まれた。
弱肉強食を理解すると、カーディル王子にとって厚い靄に包まれていた世界は単純になった。
単純な世界において戦い、勝つという喜びを知った。
強さを実感するたびに、カーディル王子は兄を見た。
身長はいつしかカーディル王子が追いつき、見下ろすことになったが、その精神は常に兄を見上げていた。
見上げるたびに兄は、強大な存在となっていた。
力には個人の力と、集団の力があることがカーディル王子にも理解出来ており、兄はそのどちらも併せ持つことで、個人の力しか持たないカーディル王子を大きく凌駕し、カーディル王子の本能に、支配される者であるという認識を刻みつけて来た。
他人が自分の愚かさを嗤っていることを、カーディル王子は理解していた。
それは他人が認識しているよりもはるかに正しい理解であり、周囲の人々はカーディル王子の愚かさを嗤いながら、肉食獣の尾を踏み続けていることに気づいていなかった。
カーディル王子が感情をあまり表に出してこなかったのは、ひとえに抑止力としてメティルイゼット王子の存在があったからに過ぎず、誰もが思う程に、カーディル王子は愚かでも鈍くもなかったのだ。
だが、その状況を打破出来る程には知恵は回らない。
結果としてカーディル王子は兄に従い、戦いから得られる勝利の高揚感だけを求め、自分を見下し嘲笑うすべての者に対する憎悪は腹の底に溜め込んでいた。
人々が気づかないところで憎悪はやがて粘り気を帯び、ついには固く、けして砕けぬ程に硬く積みあがった。
本能に刻まれた畏れの裏には、同時に強い憧れも刻まれていた。
存在そのものの強さに対する畏れと、己もそこに辿り着きたいという憧れが、カーディル王子の中には同時に存在し、けして超え得ぬ存在として立ち塞がっていた。
どうすれば超えられる?
思うと同時に刻まれた畏れが、思考の出口を塞ぐ。
いつしかカーディル王子は、思考することをやめていた。
そこにパラセネムの甘い、甘過ぎる毒が注ぎ込まれた。
存在で超える必要などないのだ。
個人の力ではカーディル王子が上回っているのだから。
勝る部分で倒し、奪えばいいのだ。
これまでカーディル王子の思考には、奪うという発想は存在していなかった。
超えるのではなく奪う。
命を奪い、兄が持つ力を奪う。
そうすれば、畏れる必要も、見上げる必要もなくなるのだ。
これまでカーディル王子の中に存在しなかった答えが生まれた。
答えは積み重なった憎悪の上に立ち、カーディル王子に行動を促す。
これまでのすべての記憶に根ざした想いとパラセネムが注ぎ込んだ毒が混ざり合い、カーディル王子は兄のもとへと帰った。
そこに在る兄はやはり強大だった。
本能に刻まれた畏れが、カーディル王子の手足を縛ってくる。
だが注がれた毒が積年の呪縛を焼き、前に進ませる。
時を待った。
呪縛が解かれようと、兄が強大であることに変わりはない。
挑んでは駄目だ。
カーディル王子の個人の力は、メティルイゼット王子の数の力には敵わない。
奪うのだ。
想いを隠し、虚を衝き、数の力を振るわせない。
ただ、奪うのだ。
今日でなくていい。
今でなくていい。
ひたすら時を待つ。
カーディル王子は確かに知能の低い獣かもしれない。
だが獣であるが故に、仕留めるべき時があることを本能的に理解していた。
不意に侮辱された。
その侮蔑の言葉で相手が誰であるのか理解した。
自分を散々に苦しめてくれた男だ。
怒りがこみ上げてくる。
殺意が漲る。
その手が、ごく自然に短剣に伸びる。
兄の怒声が響いた。
無意識に身体が動きを止めたが、満ちた殺意はすぐには退かない。
兄の手が伸びてくる。
自分を掴み、引き寄せる。
そしていつもの、カーディル王子に立場を思い知らせる瞳が迫ってくる。
兄の存在に呑み込まれ掛けたその時、カーディル王子の中の獣の本能が、時が来たことを悟る。
仕留めるべき時が、奪うべき時が訪れたのだ。
後は考えるまでもなかった。
本能が反射的に短剣を繰り出させていた。
剣先を伝って、兄の心臓が大きく震えたのがわかった。
奪った!
あれ程強大だった兄が、敵の雑兵と同じように、瞳から光を消して抜け殻になっていく。
もはやそれは、単なる物であった。
カーディル王子は呪縛が解かれたことを悟った。
次の瞬間、腹の底で硬く積み重なっていた憎悪が溶け出し、荒波の様にうねり、猛った。
後は憎悪にその身を浸し、荒れ狂った。
一面血の海の真ん中で、カーディル王子は生まれて初めて、嗤った――。
ヤズベッシュを筆頭としたゾン中央の有力貴族たちは軒並み消え去った。
イミカンケ―ファー王子、セミルユザール王子、そしてメティルイゼット王子も姿を消した。
すべてはパラセネムの描いた策略通りになった。
そしてパラセネムは、最後の一手を打つのであった――。
◆
「これ程早く結果を出してくれるなんて、かなりの早漏だったけれど、今回の早さは褒めてあげてもいいかしらね」
密偵からメティルイゼット王子の死の知らせを受けたパラセネムは、自身の想定を上回る速度で進む展開に気を良くしていた。
側に控えていたクラリサが、パラセネムの下品な物言いに顔を顰める。
カーディル王子の手によって味方の中央貴族たちまで惨殺されてしまったことは想定外だったが、彼らがパラセネムに魅了され、中央権力から距離を置いてまでして組していたことは、中央貴族たちに限らず、ゾン貴族であれば周知のことであった。
その彼らがカーディル王子に惨殺されたのだ。
おかげでパラセネムとカーディル王子の関連性を疑う者は出てこない。
手駒を失った痛手よりも、次の展開が更に進めやすくなった利益の方が遥かに大きかった。
この日の内にパラセネムの後見を受け、最年少の王子であるルトフィー王子により、全ゾン貴族に対して檄文が発せられた。
内容はまずアリラヒム王の崩御から始まり、兄殺しの大罪人カーディル討伐で締め括られていた。
カーディル王子自身はメティルイゼット王子を含むトゥガイ、中央貴族数名、天幕内にいた幕僚を殺害して後、逃亡。メティルイゼット王子軍がその行方を追ったが、絶対的存在であったメティルイゼット王子の死と幕僚たちの多くが殺害されてしまったことにより、その指揮系統は大きく乱れ、カーディル王子を捕らえることは叶わなず、逃走中となっている。
現在のゾン中央には、中小貴族たちをまとめ上げられるほどの実力者はいない。文字通りこの世にいない。パラセネムが画策し、すべて排除して見せたからだ。
誰もが他人の顔色を窺い、どう動くことが正解かわからず態度を決めかねている。
そんな中、イミカンケ―ファー王子、セミルユザール王子、そしてメティルイゼット王子亡き今、ルトフィー王子を要するパラセネムは、まず大義において絶対的な正義を有し、勢力においても最大となっている。
パラセネムが男であれば、この時点でゾンの覇権はその手に収まっていただろう。
だがこれまでのゾンでは、女性は支配、管理されるべき存在であって、支配者であったことはない。
政治的判断能力に長けている中央貴族たちであったが、古くからの因習に縛られたその精神は、すぐには現実の変化に順応出来ないでいた。
その意味ではパラセネムの勢力は表向きルトフィー王子を掲げており、現在の状況をパラセネムの支配下と言う者はいない。
迷う貴族たちが恭順を選ぶのは時間の問題だった。
何より、事ここに至って人々は、ようやくパラセネムという一人の人間の恐ろしさを理解した。
パラセネムがルトフィー王子保護を申し出たのは、中央貴族勢力がイミカンケ―ファー王子、セミルユザール王子、ルトフィー王子の三派に分裂し、メティルイゼット王子軍ないし東部貴族軍によって敗れ去る事態を未然に防ぐためなどではなく、ルトフィー王子以外の王子たちを互いに争わせて共倒れを狙い、最後にゾンの覇権を掠め取るためであったのだということを。
どれ程腹立たしくとも結果は出てしまっている。
誰もが初めに切り捨てた最も弱いルトフィー王子という名の手札でもって勝利を収めたのだ。
そしてあのパラセネムに手懐けられては、ルトフィー王子など文字通り抱き込まれてしまっており、今更両者を分断することは不可能だった。
ゾンは今後数十年、女性であるパラセネムが実質支配することになったのだ。
どれ程不本意であろうと、受け入れるしかない。
手間取りはしたが何とか現実を受け入れた中小貴族たちは、これまでヤズベッシュやネジメティンに必死で振っていた尾を、パラセネムに対して必死に振り始めた。
だが一人の愚かな若い貴族が、現実をいつまでも理解しようとせず、未だにパラセネムが女性であるという理由で侮り、力づくで従えようと近づいた。
父である前当主が先の戦で死に、新たな当主になったばかりの若き貴族は根拠のない自信に満ち、その自信を悪い意味で支えるだけの力を持ち合わせていた。
身長は180センチを超え、肩幅が広く、分厚い胸板を持った若い貴族は、見る者に次代を担うことを期待されるだけの容姿を誇っており、家格は低いが中央貴族の貴婦人たちの間では評判が良かった。
故の愚かさであり、傲慢さであったのだろう。
若い貴族はそれが当たり前であるかのように、パラセネムを支配するべく歩み寄る。
その場には他の貴族たちもいた。
衆人環視の中、若い貴族は言い放った。
「俺の女にしてやる。すべてを差し出せ」
その傲慢さに、パラセネムは鈴が転がる様な音楽的な響きを持つ嘲笑を浴びせて返した。
これまでの人生で、女性から侮辱を受けたことはおろか、侮辱されるという可能性すら想像したこともなかった若い貴族は、躊躇なく剣を抜いた。
帯剣が許されていたのは、支配者であるパラセネムの恩情であり、自分に支配される限りは、その権利を認めてやろうという寛大さを表すものだった。
この場に集っていたすべての貴族たちはその現実を理解し、剣を抜くという行為が何を意味するかも理解していた。
抜くための剣ではなく、あくまでも権力の側の人間であることを誇示するための飾り。
それは抜いた瞬間、自身の処刑命令書に自分自身で記名する行為に他ならなかった。
クラリサが素早くパラセネムの前に出て、更にその前にオクタヴィアンが立つ。
「どけっ! 優男っ!」
良く焼けた褐色の肌を真っ赤にして怒鳴った若い貴族は、オクタヴィアンを真っ二つにせんと大上段に振りかぶり、振り下ろした。
その剣を、一見繊弱にも見えるオクタヴィアンの剣が下から軽々と弾き返し、返す刀で若い貴族を、頭の中央から股間のど真ん中まで、まるで定規で測ったかのような正確さで真っ二つにしてしまう。
その場に居合わせた他の貴族たちは、血と臓物が撒き散らされる凄惨な光景と、その光景を作り出した見目麗しい一人の剣士を呆然と眺めるしかなかった。
「他に私が欲しい人はいるのかしら?」
その光景に一切動じず、パラセネムが貴族たちに妖しく問いかける。
これ程の武を擁する人材をパラセネムが抱えていたことを知らなかった貴族たちは、パラセネムの妖しい眼光から目を逸らすことが出来ないまま、子供のように首を横に振って応えた。
「皆さん。申し訳ないのだけれど、それ、片付けてくださらないかしら?」
その願い出は、懇願の形をした踏み絵だった。
生と死の二択を突きつける微笑は鳥肌が立つ程美しく、それ以上に恐ろしかった。
貴族たちは下ろされた魚のようになった若い貴族の手足を持つと、臓物を引きずりながら運び出した。
「ありがとう」
感謝の形をした絶対支配を背に受け、貴族たちは、
(これは、悪くないかも!)
と、いけない悦びに目覚めたのであった。
この出来事は即座に貴族たちの間に広がり、実は逃亡したセミルユザール王子の首級を上げたのも、オクタヴィアンという美しき楽師の功績であったことも同時に伝え、これまで無名だったオクタヴィアンの武名をゾン中央に轟かせた。
以降若い貴族に続くような愚か者は現れず、パラセネムの支配は急速に浸透し、組織として安定していった――。
◆
カーディル王子は混乱していた。
兄を殺し、その存在を奪い、自分を縛る支配の呪縛を断ち切ったまでは良かったが、そこから先のことをまったく考えていなかったからだ。
さすがに怒れるメティルイゼット王子軍を一人で相手に出来ないことくらいはわかっていたので脱出はしたが、ここからどうするべきか途方に暮れていた。
だがそんな時間も長くは続かなかった。
カーディル王子の下に先の戦いで逃げ延びた奴隷兵士たちが集まり出したのだ。
これまで大貴族たちによって独占されてきたゾン中央の権力と富をパラセネムが手にしたことにより、大貴族たちに従うしかなかった中小貴族たちが集まったように、戻っても奴隷暮らししか待っていない奴隷兵たちは、兄殺しの大罪人として手配を受けている、もう一人の王位継承権を持つカーディル王子に付くことにしたのだ。
一人の聡い奴隷が、この奴隷人生を逆転させるためには、カーディル王子に付き、カーディル王子を王にする以外ないと説いて回ったのだ。
生きることに疲れ、諦めきっていた奴隷たちにとって、その言葉は闇の底に届いた一筋の光に見えた。
逃げたところで安らげる場所などゾンには存在せず、奴隷狩りに怯え、隠れて生きる以外の道がなかった奴隷たちに腹を括らせるには十分な話だった。
聡い奴隷はそれだけでは終わらせなかった。
集まった奴隷兵の一部を引きつれ、周辺の王家直轄領に存在する集落を次々と襲い、奴隷を解放してさらに勢力を拡大させたのだ。
この噂が広まると、奴隷だけでなく平民の貧困層が勝手に集まって来た。
ここでも人生を逆転させるにはカーディル王子に付き、カーディル王子を王にするしかないという流言が広がり、人々が集まったのだ。
聡い奴隷は数万に膨れ上がった人の群れを前にカーディル王に懇願した。
「我らが王よ。どうか我々をお導きください」
「どこへだ?」
聡い奴隷の懇願に、しかしカーディルは問いを返すことで応えた。
「戦いへっ! 我々を戦いの地である王都エディルマティヤへとお導きくださいませっ!」
聡い奴隷は戦いを渇望する獣のように吼え、訴えた。
「戦いか……」
「戦いですっ!」
鈍いカーディル王子の頭でも、戦いを求める気持ちだけは理解出来た。
「王都に巣食う貴族共を打ち倒し、貴方様から多くのものを奪った者たちから、すべてを奪い返しましょう。貴方様こそが、この国の王たるべきお方なのですからっ!」
聡い奴隷は最後には背後を振り返り、集った人々に対し、高々と拳を振り上げ絶叫した。
聡い奴隷の鼓舞に対し、人々も声を上げ、自らの声に背中を押されて興奮していく。
熱狂は確かな熱となり、カーディル王子の鈍い頭にも闘争の火を起こした。
孤独な獣と見切られていたカーディル王子が軍を得た。
ここまで順調に進んでいたパラセネムの策略に、一つの綻びが生じた――。
次でまとめとなります。
もうしばらくお付き合いください。