ルオ・リシタ国の戦士たち
ヴォオス国西部地方の雪景色は、文字通り踏み荒らされ、瓦礫と煤と、人血によって斑に染め上げられていた。
略奪者たちは奪うだけでは飽き足らず、破壊と殺戮を楽しんでいた。それは同時に、この地へは二度と襲撃をかけるつもりがないことも表していた。再建不可能なほど破壊しては、再び富が貯えられることはなく、略奪を生業としている者にとっては自分たちの首を絞めることにしかならないからだ。
破壊の限りを尽くし、住民を皆殺しにするということは、野盗や山賊のように一定の縄張りを確保し、この地に居つくつもりもないということだ。
野盗や山賊の類が相手ならば、季節がもたらす暴風などのように、被害が通り過ぎるのを待つという選択肢もあるが、始めから皆殺しを目的に襲撃してくる略奪者相手では、耐えるという手段は無意味となる。
王家直轄領と西方貴族の領地では、ライドバッハの大反乱に対抗するべくわずかな守備兵力しか残されていなかった。通常の野盗や山賊であれば十分対処出来たであろうが、一万を超える数の襲撃者が相手では焼け石に水でしかなく、それぞれの拠点にこもり、その場を死守するだけで精一杯だった。
巡回の兵を出せば各個撃破されてしまうため、領内の治安を維持することもままならず、この混乱に乗じた犯罪が急激に増え、ヴォオス西部地方の治安は日を追うごとに悪化していった。
壊滅的打撃を被る前に各領地の貴族たちが帰還したため小規模の略奪行為等はかなり軽減されたが、問題となっている略奪者集団は、個々の貴族が抱える兵力では対抗出来ないため、いまだ野放しの状態になっている。
それでも現在の王国軍の頭脳ともいうべき存在であるヴォオス軍軍師第二席にあるエルフェニウスの策に従い、相互に連携を取り、網の口を閉じるように兵を配置したおかげで、撃退は出来ないまでも、一定地域に封じ込めることに成功していた。
これによって本体から切り離される部隊が出始め、その一隊とカーシュナーたちは遭遇することになり、それまで謎だった略奪者集団の正体を特定することに成功したのであった。
事態の急変を悟ったカーシュナー一行は、替えの馬さえも乗りつぶす強行軍の末、辺境周りの商人を襲撃していた部隊と遭遇したその日の内に、先行していた赤玲騎士団と、カーシュナー麾下のクライツベルヘン軍と合流した。 そして、エルフェニウスの策で定められた地点へ向かい、狼煙を上げる。
即座に返答の狼煙が上がり、一定間隔で次々と狼煙が上がっていく。これ以上の被害を避けたい貴族連合軍は、エルフェニウスの策を忠実に守り、見張りの兵をしっかりと配置していたようだ。
狼煙は当然略奪者集団にも確認されているはずだ。だが、狼煙の意味がわからないため、警戒を厳重にし、見張りや斥候の数を増やすぐらいしか対応策はない。当然これまでのような思い切りのいい襲撃も出来なくなる。
エルフェニウスは略奪者たちに精神的圧迫を与えることで、略奪行為そのものを抑制してみせたのだ。
上がる狼煙に変化はない。作戦に重大な支障が発生していない証拠だ。エルフェニウスの策はすでに定まり、それぞれの貴族に行き渡っている。改めて集まり、作戦のすり合わせを行う必要はない。この作戦に支障をきたした者は、国が亡びでもしない限り、末代まで嘲笑われることになる。利害以上に、貴族たちは己の面子にかけて、奮戦するはずだ。
狼煙の返答待ちの間に、カーシュナーたち四人は十分な食事と軽い睡眠を取り、身体から疲労を追い払った。それが出来るのも、ダーンという優秀な男がいればこそだ。王都にダーンを同行させなかったのには、こういった理由もあったのだ。
目覚めたリードリットはすぐさま状況を確認すると、作戦の総指揮官として決断を下した。
「出陣!!」
その大音声がすべての兵士に届くことはないが、作戦開始の赤狼煙は、瞬く間に西部地方に広がっていった。不当にヴォオスの民を害し、略奪を働いたルオ・リシタ人に対して、ようやく反撃の火蓋が切って落とされたのであった――。
◆
「よくも俺の弟を殺しやがったな!」
怒りに身を震わせた男が、自分よりもはるかに体格で勝る男を殴りつける。どう見ても殴られた方が強そうなのだが、男は黙って耐えていた。
殴られた男は、カーシュナーたちが赤玲騎士団との合流を果たす前に遭遇した略奪者集団のしんがりを務めた男であった。
彼を殴った男は、シヴァに捕らえられたところを遠矢で射殺された男の兄なのだろう。相手が反撃して来ないのをいいことに、意味をなさない罵声を発しながら、さらに殴る蹴るの暴行を加えていった。
そんな様子を見ている仲間たちの顔には、薄ら笑いが張り付いているだけで、止めようとする気配など微塵もなかった。
殴り疲れた男が荒い息を突きながら、ついに腰の剣に手を伸ばした。殴られ続けていた男はそれでも表情一つ変えず、意思のない空っぽの瞳で見返していた。
「その辺にしておけ」
部隊を率いているとおぼしき男が、うるさそうに止める。
「止めんじゃねえ! こいつは俺の弟をやりやがったんだぞ!」
「知ってるよ。見ていたからな」
そう言って男は冷たく笑った。他者の不幸に対してのみ笑みを浮かべる。そんな不快感を感じさせる笑みだった。
その目をまともに見てしまった男は、先程の勢いもしぼんでしまい、言い返す言葉が出てこない。
「イヴァンはゲラルジー王子の専属奴隷だ。殺すには一応王子の許可がいる」
「い、今ここに王子がいるわけじゃねえんだ。さっきの襲撃で死んだことにすりゃあいいじゃねえか!」
「そうしたきゃあ、そうしろ。その代わり、イヴァンが運ぶはずの荷物はお前が運べよ」
「……ぐっ!」
王子の名前を出されても食い下がった男は、面倒な雑用をちらつかせられた途端黙り込んでしまった。この男にとって、弟の死よりも、雑用を押しつけられないことの方が重要なようだ。
「わかったらさっさと行くぞ。本隊からはぐれちまった時点でだいぶ上手くねえのに、半分近い戦士を失っちまった。これ以上戻るのが遅れると、ゆるんだ規律を締め直すための見せしめにされかねんぞ」
男のこの言葉に、周囲の男たちの顔から薄ら笑いが消えた。それは、男の言葉が真実であるからだ。
男たちは小休止を終えると慌ただしく出立した。誰の顔にも不安の色がある。先程の言葉が、まだ尾を引いているのだろう。
雪を蹴立てて走り去る背中を見上げながら、イヴァンは痛む身体を引きずり起こし、自身の馬へと向かった。その手が首にかけられた鎖の輪に伸びる。奴隷であることをことさら強調するために、ゲラルジー王子によって身に着けさせられた血で汚れた鎖だ。
その血はイヴァンのものではなかった。これまでゲラルジー王子の専属奴隷を務めてきた先人たちが流して染めた血だった。
冷えきった鎖が、イヴァンのわずかばかりの手のぬくもりを奪っていく。
無意識に手をかけた鎖を引っ張ると、イヴァンの左手首に、おぞましい不快感が走った。
痛めつけられた際に乱れた衣服の左の袖口に、複雑な意匠を持つ呪印が顔をのぞかせていた。皮膚に彫られたはずの刺青が、皮膚の上を這い回っている。その先端に彫り込まれたはずの蛇の頭が、鎖をつかむイヴァンを見上げてにらみつけていた。
あれほどひどく殴られても、これといった感情を表すことのなったイヴァンが、鎖から手を放すと、絶望のため息を漏らした。
何もかも諦めて、イヴァンは馬へとまたがった。略奪品を積んだ馬たちが、手綱も取られずにイヴァンについていく。
イヴァンはもう一度ため息をつくと、部隊の後を追った――。
◆
狼煙を見上げる黒い瞳は、冷徹に輝いていた。周囲を固める戦士たちは、エルフェニウスの思惑通り動揺していたが、それらを統べる男の心には、小石一つ分のさざ波さえも立ってはいなかった。
男の名はゲラルジー。ルオ・リシタ国の次期国王候補の一人だ。王子と呼ばれているが、今年で四十三を迎える壮年の偉丈夫で、ルオ・リシタ人らしく、巨人のような体躯をしている。
四十を過ぎても色艶を失わない髪は黒々としており、白髪一本見当たらない。整えられた髭は厳めしい顔にさらに威厳を与え、硬く跳ね上がった頭髪と相まって、獅子のたてがみを連想させた。
その武人然とした風貌とは異なり、広く学問を修め、若いころから領有地であるルーシの内政を整え、外交でもその手腕を発揮し、閉鎖的であるルオ・リシタ社会の中にあって、ルーシの地と民に、急速な発展と富をもたらした。
その能力はルオ・リシタにおいて随一であり、ゲラルジーが玉座についたとき、ルオ・リシタ全体がその能力の恩恵にあずかれることは確実であった。
だが、その繁栄を望む声は意外なほど少ない。
ルーシの民は古くからルオ・リシタの地に住み、古代帝国ベルデが<神にして全世界の王>ラタトスによって滅ぼされ、流浪の果てに流れ着いたベルデの皇子がこの地にルオ・リシタという国を築いた時も、最後まで抵抗した民であった。
その気骨を高く評価したベルデの皇子により、滅ぼされるのではなく、一定の租税を納めることで、これまで通りルーシの地を治めることを許され、ただの一度もベルデの皇子の前でひざまずくことなく爵位を得た唯一の民であった。
それ故に、ベルデの皇子に早くから臣従してきた者たちからは妬まれ、最後まで交戦して滅び去った民の生き残りからは裏切り者と蔑まれてきた。
ラタトスの千年紀が終わり、ヴォオスが興ってはや三百年になろうというのに、ルーシの民に対するルオ・リシタ国民の風当たりは強いままであった。
ルオ・リシタは七つの大貴族と、ベルデ帝室の流れを汲む王家によって支配されている。歴代の国王には、七つの大貴族から七人の妃が選ばれ、生まれた男子の中から一人が選ばれ、王位を継ぐことになっている。ルーシの民もその七つの大貴族の一つであり、ゲラルジーは現国王の息子であった。
ルオ・リシタの国王の選出方法は恐ろしく簡潔なものであった。七つの入り口を持つ<王座へと至る道>という迷宮に王子たちが入り、たった一つの出口にたどり着いた者がその頭上に王冠をいただくことになる。平たく言えば、殺し合いの結果生き残った者が次期国王になれるのだ。
大陸の北方に位置するルオ・リシタでは、まず生き残ることが難しかった。主な産業は林業で、国土の大半を支配する巨木を伐採、出荷することで財政をまかなっている。その中には特産品として、<白香木>と呼ばれるルオ・リシタの地でしか育たない神聖な魔力を秘めた樹木もあり、一説によると白香木の聖なる魔力によって、ルオ・リシタの地は、ラタトスの支配から免れたとも言われている。とてつもない高値で取引されるのだが、いかんせんその生産量が限られているため、国庫を潤すには至らなかった。
貧しい国で弱者が救済されることはない。自然の摂理である弱肉強食が、この地に根を張る絶対的な正義であり、無数の小部族にわかれて争っていた各部族を統一せしめたのも、ひとえにこの地に流れ着いたベルデの皇子個人の強さによるものであった。
ルオ・リシタの男は、弱い者には決して従わない。それは国王に限った話ではない。七つの大貴族も、その下に位置する他の貴族たちも、最も優れた男が、それぞれの民を率い、貴族を名乗ることになる。
それでも、文明化が進めば少しは小狡くなるもので、次期国王の選出には、それなりの政治的暗躍が見られるようになる。一番単純なのが候補者同士の同盟であり、七人の王子が六対一の対立構造を見せることもある。突出した存在は、それ故に寿命を縮めることもあるのだ。
ゲラルジーの立場はまさにそれであった。いまだに妬みと嫉みの対象であるルーシの民出身の王子であり、ルオ・リシタのこれまでの慣習すら覆し、さらなる文明化と周辺国との国交の活性化を推し進めている改革者でもあるゲラルジーは、旧体制の権力に居座る人々にとっては、癒しをもたらす霊薬ではなく、身体に合わない劇薬でしかないのだ。
味方は少なく、頑迷で愚かな敵に囲まれているゲラルジーにとって、今回の二年にもおよぶ終わらない冬という超自然災害は、玉座へと至る新たな道となる可能性を秘めていた。
何事もなければ、ゲラルジーは次期国王選出のための儀式で六対一の戦いを強いられ、十中八九命を落とすだろう。命が大事であれば、儀式そのものを辞退することも出来るが、それから先の人生に、光が当たることはない。
ルーシの民であるゲラルジーに、いかに能力が優れていようと、その実力を発揮出来るような要職が与えられることはなく、ルーシの民の中にあっても、戦いから逃げた者が一族の長の地位に居座り続けることは許されない。
ゲラルジーが困難な状況を覆すには、ルオ・リシタにこれまで存在した常識のすべてをぶち壊すほどの、圧倒的強さと実績が必要なのだ。
現在ルオ・リシタには、飢えと寒さに苦しむ国民が、部族に関係なく存在している。国民のすべてが、生き続ける限界に達していると言っても過言ではない。この状況で国民に食料をもたらす存在を、誰が否定出来ようか。消滅しかかっている国を救うだけの力が、現王家にも、ルーシの民を除いた大貴族たちにもないことは、現状が証明していた。
ヴォオスのように反乱が起こらないのは、それすら困難なほどに、長く深く雪と寒さに閉じ込められているからだ。
ゲラルジーをヴォオス侵略という危険な賭けに踏み切らせたのは、一枚の古い地図であった。
大陸共通語でもある簡易ベルデ語ではなく、今では読解出来る者も少ない上位ベルデ語で記されている。ルオ・リシタ国内であれば、ゲラルジー以外でこの地図を読み解くことが出来る者は、片手で余るほどしかいないだろう。
その地図には、大陸西部を東西に縦断するス・トラプ山脈を中心としたヴォオス西部と南西部。ルーシの地を含むルオ・リシタ南東部。ス・トラプ山脈をまたいで南に広がるゾン国の北東部の詳細が描かれていた。
上位ベルデ語で記されているということは、千年以上前のものになる。そこには当然見知った地名は一つも載ってはいない。地形も現在のものとはかなり変わっているはずなのだが、この地図の価値はそんなところにはなかった。
ここには誰も知らないス・トラプ山脈を東西南北へと抜ける秘密の地下空洞が詳細に描かれているのだ。
日常に魔法が満ち溢れていたと言われる古代帝国ベルデの技術をもって築かれた地下空洞は、今現在も朽ちることなく、各地を密かにつないでいるのだ。
この地図は、以前ライドバッハがルオ・リシタに大使として訪れた際に、ライドバッハから個人的に密かに贈られたものであった。両国内において知的水準が近い者が少ない二人は意気投合し、職務の時間以外をずっと一緒に過ごした。その中で様々なことを語り合い、意見を交換し合った。
その際に、ゲラルジーの立場を正確に理解したライドバッハが、貴重な古代地図を贈ることで、それに付随する無数の選択肢を示して見せた。
それが純粋な善意で贈られたものではないことは、ゲラルジーにもわかっていた。これほど貴重なものを国外に持ち出す時点で、何らかの腹積もりがある何よりの証拠であり、それが平和目的でないことは明らかだった。
そこにはゲラルジーを利用しようとする意志が読み取れた。それも、隠すつもりのない意志が――。
その意志は、一方的に利用されるか、相互に利益がもたらされるだけの結果が出せるか、はたまたすべてが無駄に終わるだけかは、ゲラルジー次第だと言っていた。
挑発であり、挑戦であるその意思表示を、拒むような弱さはゲラルジーの中にはない。古代地図と共に、ゲラルジーはライドバッハの挑戦状を受け取ったのだ。
ゲラルジーは古代地図が示す秘密の地下空洞の存在を鵜呑みにすることなく確認し、然るべきときに備えた。そして、国内が重大な食糧危機に見舞われた現在、ルーシとヴォオス西部地方をつなぐ地下空洞を通り、略奪に現れたのであった。
ここにライドバッハに対する個人的な感情は含まれていない。その行動は効率を最優先に考えたうえでのものであり、ライドバッハの大反乱を支援し、その上でゲラルジーも食料その他の物資を手に入れて、相互利益を得ようと目論んだものではなかったのだ。
ここにゲラルジーの非凡さがある。
食料その他の物資を得るのであれば、大陸を包む終わらない冬の被害が最も少ないゾンを狙う方がいい。本来であれば、あまりの暑さで農作物を育てることが出来ない夏季に、ほぼ全土で農作業が行われ、例年以上の収穫を記録している。
奪うべき食料は豊富にあるのだ。
それでもゾンではなく、ヴォオス西部に狙いを定めたのは、ライドバッハの大反乱による混乱の隙をつく方が、より確実に略奪出来ると判断したからだ。
行動の時期を図るのは簡単だった。
ヴォオスの北部一帯は全域にわたって秩序を失い、情報収集のために歩き回るのは容易なことだった。
瞬く間にライドバッハが北部全域を支配下に置いた事を受け、ゲラルジーは襲撃対象をヴォオス西部に定めた。北部の方が距離的に襲撃を行いやすいのだが、王家直轄領を抜けねばならないため、ゲラルジーの行動がルオ・リシタ全土に筒抜けになりかねなかった。
切羽詰まった国内事情を考えれば、ヴォオス襲撃で手薄になっているルーシの地が、非友好的部族による襲撃を受けかねない可能性があったからだ。
他人の土地に略奪に向かっている間に、帰るべき土地が丸裸にされていたのでは、ゲラルジーは一国の王になるどころか、ルオ・リシタ史上類を見ない道化者にしかなれないだろう。
何より、北部に手を出せば、ライドバッハが兵を向けてくる可能性がある。
王家と手を打ち、十万の兵すべてを差し向けられては、ヴォオス北部とルオ・リシタ国全土を股に掛けた新国家を打ち立てられかねない。
ライドバッハならば、その程度の離れ業は平気でやりかねなかった。
西部地方が空になると、ゲラルジーはすぐさま襲撃を開始した。
足取りを残さないために、すべてを奪い、すべてを破壊した。
女を欲しがる戦士たちもいたが、例外は一切認めなかった。求めるものは食料であり、それ以外は医薬品や希少価値の高い宝飾品に限定されていた。奪い、運べる量は決まっているからだ。
順調に略奪が進み、そろそろ帰還を考え始めた時、規律に乱れが生じた。抵抗らしい抵抗を受けることなくここまで来た戦士たちは、自分たちを常勝の将軍にでもなったかのような錯覚に陥らせた。
それはひとえに襲撃の時期と場所を厳選したゲラルジーの功績なのだが、元来考えるということに不向きなルオ・リシタの戦士たちには、説明するだけ無駄なことだった。
本体からはぐれる部隊が続出した時点で、ゲラルジーはルーシの地への帰還を決断した。そして、これより本体から離れた者は容赦なく置き去りにすること、侵入に使われた地下空洞は、ヴォオス軍に逆用される危険性があるため、道を塞ぐことが通達された。これによりゆるんだ規律は再び引き締まることになった。
自分たちの行いは、自分たちが一番よく知っている。万が一にも置き去りにされようものなら、自決する方がましと思えるような目にあわされるのは確実だった。
ゲラルジーは一日だけ待つことにした。処罰は厳しいが、ただそれだけの男なら、ゲラルジーに戦士たちがここまでついてくることはない。失敗に対し、必ず一度はその埋め合わせをする機会を与える度量が、戦士たちとゲラルジーを繋げているのだ。
そこへ現れたのが、冬空に手を伸ばす無数の狼煙の列であった。
戦士たちに動揺が走る。狼煙が自分たちを囲むように立ち上っているからだ。
「帰還できた部隊の数は?」
ゲラルジーが側近の戦士に問いかける。
「約半数です。待ちますか?」
戦士の問いかけに、ゲオルジーは首を横に振った。
「規律を乱した者たちのために、ここにいる戦士たちを危険にさらすわけにはいかん。これより、ルーシの地へ帰還する」
「ゲ、ゲラルジー様!!」
おそらく身内がまだ戻らないのだろう。戦士の一人が青ざめた顔で声を上げる。
「ただし、移動しながらギリギリまではぐれた兵たちの帰還を待つ。各自慎重に行動せよ。我らの方が先にヴォオス兵に討たれたのではいい笑いものだ」
にこりともせず言い放つ。もう少し愛想があれば、他の部族からの印象も良くなるのだろうが、元来不愛想なのがルオ・リシタ人である。遠回しではあるが、部下たちの心情に配慮を示すだけ上出来と言えよう。
声を上げた戦士がゲラルジーの足元に一度ひれ伏してから、急いで出立の準備に戻っていった。その顔は程よい緊張によって引き締められていた。
出立の準備は迅速に行われた。規律を取り戻したルーシの民の一団は、隊列を乱すことなくその場を後にした――。
◆
空へと立ち上った幾本もの赤い狼煙の柱が風に吹き流されて、曇天の空を夕暮れのように赤く染めていく。
雪に覆われた大地を打つ無数の蹄の音が、雪に呑まれてくぐもった呻きのように大気を満たし、不気味な振動だけが嫌にはっきりと感じ取れる。
動き出した貴族連合軍は、各個撃破されないように、ゲラルジーの軍に対して正面からは決して当たらず、むしろ敵の気分を高揚させるような見事な負けっぷりで、適度に戦い、撤退するを繰り返していた。
一つの貴族が退くと、別の貴族の軍が立ちふさがる。戦闘力に自信のあるルーシの民は、小細工などせず、正面からこれらを蹴散らし、突破していく。勝ち戦の勢いが、ゲラルジーの軍に拍車をかけ、次第に行軍の速度が上がり始める。
速過ぎると感じたゲラルジーが軍全体の体力を調整しようと試みたが、貴族連合軍の仕掛けにより、思うようにはいかなかった。このままではス・トラプ山脈の地下空洞へとたどり着く前に、かなりの脱落者を出すことになる。
奪い取った食糧物資の大半はすでに地下空洞へと運び込まれているので、最悪今回奪い取った食糧をすべて放棄しても大きな影響はない。だが、今後ルオ・リシタを治めるうえで、ルーシの民の戦士たちは欠くことの出来ない主戦力となる。ここで失うわけにはいかなかった。
ゲラルジーは自ら軍の先頭に立つと、逸り立つ戦士たちの頭を押さえつけに掛かった。
ルオ・リシタの戦士を制御しようとした場合、ゲラルジーの行動は正しいのだが、いかんせん彼らは兵士である前に、一人の戦士であった。前線に位置を移したことで後方の戦士たちの抑えが利かなくなってくる。
ここで貴族連合軍に偶然が味方した。
はぐれたまま合流出来なかった部隊のいくつかを討ち取った貴族連合軍が、略奪者たちの首を斬り落とし、槍に突き刺したうえで、耳や鼻に枝を差し込んでルーシの民を挑発するための道具にしたのだ。
この侮辱に怒り狂わない男は、ルーシの民にはいなかった。
ゲラルジーの目の届く範囲の戦士たちはこの挑発に何とか耐えてみせたが、攻め崩されて撤退する貴族連合軍の兵士からしつこく挑発され続けたルーシの民の戦士たちは、軍の後方から次第にばらけ始めた。
槍を掲げていた貴族連合軍の兵士を追い、これを斬り伏せて同朋の首を取り返す。
だが、今度はその突出してしまった戦士が貴族連合軍の兵士に囲まれることになり、それを助けようとする戦士たちが隊列から離れ始めた。
これを制止すべき立場の部隊長はいるのだが、その当人が家族の首を晒しものにされ、理性も立場も吹き飛ばして突進してしまったため、軍としての箍がゆるんでしまったのだ。
この辺りに、ルオ・リシタでは何度も王朝が亡びては興るを繰り返す原因があるのかもしれない。個々の意識が強すぎるのだ。
後方の状況がゲラルジーの元に上がってきたのは、軍の四分の一もの戦士がはぐれてしまってからだった。
「単細胞どもが!」
さすがのゲラルジーも自制心を失い、周囲の馬が足並みを乱すほどの大音声で苛立ちを吐き出す。
「引き返しますか?」
腹心の戦士がたずねてくる。
「ここで引き返せば、小うるさくまとわりついてきていたヴォオス貴族どもの兵に、合流する時間を与えることになる。そうなれば、我らが包囲される危険性がある。戦士が己の判断で俺の命令に逆らって打って出たのだ。生き残りたければ己の力で戻ってくればよい。勝手を働いたうえで助けが必要な腑抜けなど、ルーシの民でも戦士でもないわ!」
残忍な性質と、強い仲間意識という相反する性質を併せ持つルオ・リシタ人に、ゲラルジーの言葉は確かに響いた。ましてや戦士として部族全体から認められる以上、女子供のような泣き言は通らない。
勝手をした以上、それを正当化出来るだけの働きを示さなければ、仮にゲラルジーが許しても、配下の戦士たちが認めないだろう。
大幅に予定を狂わされたゲラルジーは、もはや脱落者に対する配慮など捨て去り、強硬策に出た。
ヴォオス人共の策は読めていた。ゲラルジーの軍を袋小路となる地点、もしくは伏兵を置ける地点に誘導する腹積もりなのだ。派手にやられる姿も、逃げ足の早さも、すべてはこちらの警戒心をゆるめるための策だということは見抜いていた。見抜いていながらみすみす乗せられてしまうルオ・リシタ人の気質に再びいら立ちがつのる。
策をかわしきれないのならば、乗るまでだ。勢いを抑えつけるのではなく、むしろ自分自身ですら止めることが出来ないほど加速させ、小賢しい包囲網を一直線にぶち抜いてしまえばいい。その勢いが向かう方向を、自分が正しく導いてみせればいいのだ。それすらも出来ないような無能者に、ルオ・リシタを統べることなど出来はしない。
「同胞たちよ! ヴォオス人共の逃げ回り続ける無様な策に付き合ってやるのはここまでだ! ルーシの民の戦士らしく、一大決戦を挑み粉々に粉砕してくれようぞ!」
ゲラルジーの言葉に、戦士たちの怒号のような咆哮が返ってくる。敵を粉々に粉砕することこそ、彼らルオ・リシタ戦士に共通する喜びなのだ。
ゲラルジーの頭の中には、決戦にふさわしい場所がすでに浮かんでいた。目を閉じれば自然と浮かび上がってくるほど繰り返し眺めた古代地図の上に、略奪のために縦横無人に駆け巡ったヴォオス西部地方の実際の地形が重なっている。
敵が策を弄せる場所はほぼ把握出来ていた。ヴォオス人共には自分たちで思っているような地の利はない。配下の戦士たちがその力をいかんなく発揮出来る場所――。
<フールメントの野>
この開けた荒野を、ゲラルジーは邪魔なヴォオス貴族どもを蹴散らすための決戦場に選んだのであった――。
◆
ゲラルジーが軍の向きを変えると、貴族連合軍の動きに慌ただしさが見られ始めた。それだけでゲラルジーは、自身の読みが正しかったと確信する。
予定通りの動きを見せていれば、敵もその動きを変えることはない。動きに変化が見られたということは、ゲラルジーの行動が相手の予定を狂わせたことを意味していた。
「イーラ! 俺の戦斧を持ってまいれ!」
ゲラルジーの命令に応え、体格こそ立派だが、まだ少年の幼さが残る顔立ちをした男が、まるで盾を棍棒の先に括りつけたかのように巨大な戦斧を背負って運んだ。
その背からゲラルジーは、片手で巨大戦斧をむしり取る。
痛みはあったはずだが、イーラと呼ばれた男は眉ひとつ動かすことなくゲラルジーの斜め後方に控える。 イーラの首にも、イヴァンと同様の鎖がかけられている。それはイーラがゲラルジーの専属奴隷であることを示していた。
「貴様の兄はどこで迷っておるのだ! こういう時に働けなくて、何のために貴様ら兄弟を生かしておると思っておるのだ。役立たずめが!」
「申し訳ありません。ゲラルジー様。兄の分も、私が働いてみせま……」
「貴様などに何が出来るか! 髭も生え揃わんひよっこが、一人前の口を利くでないわ!」
視線を馬のたてがみに固定させたままイーラが答えようとすると、それを遮ってゲラルジーが一喝する。
「てめえは黙ってろ!」
イーラの隣で馬を走られていた戦士が、言葉と共にイーラの口元を殴りつけた。
ルオ・リシタ人はヴォオス人ほど馬術に優れていないため、殴る拳にもたいして力はなかったが、それでも口の中を切ったイーラは、無意識に袖口で血を拭った。
左手首に彫り込まれた呪印が血に反応し、鎌首をもたげる。
イーラは慌てて左腕を振り回したが、腕に彫り込まれた刺青を振り払うことなど出来るはずがない。怒り狂った呪印が皮膚を這い回る不快感に、イーラは周囲の寒さにもかかわらず、脂汗を浮かべて耐えねばならなかった。
「イヴァンよりも先も死にたいのか? このうつけが!」
ゲラルジーが冷笑を浮かべながら吐き捨てると、周囲の戦士たちも声をそろえて大声で笑った。
「道化としては、いい働きだったな」
侮蔑の言葉を付け足すと、ゲラルジーはイーラなど存在しなかったかのように振る舞った。それは冷酷な性格だからでもなければ、ことさら悪意を込めてそうしているのではない。奴隷という存在など、ゲラルジーには心底どうでもいいのだ。
ゲラルジーの意識は、すでに至近に迫った新たなる敵兵の壁に集中していた。今度も家畜用の柵程度の歯ごたえしかなさそうな壁だ。
「俺よりも多く敵の首をはねた戦士には、金貨百枚の褒美を出すぞ!」
ゲラルジーのこの言葉に、戦士たちがそれぞれの武器を掲げて歓声を上げる。
「言っておくが、手加減などせんぞ! 俺は百人斬りを目指しておるのだからな!」
ゲラルジーにしては珍しい軽口に、さらなる歓声が上がる。
それぞれの戦士たちの顔に、獣のごとき獰猛な笑みが浮かぶ。
ゲラルジーはルオ・リシタの戦士を率いるのにもっとも適した指揮官であるだろう。
さらに勢いを増した巨漢の戦士の集団は、立ちふさがる貴族連合軍の兵士たちを楽々と薙ぎ払い、フールメントの野へと突入していった――。
◆
「なにっ!」
ゲラルジーは思わず驚きに声を上げていた。
敵の策を見抜き、裏をかいて選んだはずの戦場に約一万騎の敵兵力が布陣していたからだ。
(罠か?)
疑問が脳裏をよぎる。貴族連合軍の他に、まだ一万もの兵力が隠されていたことも驚きだが、この地でルオ・リシタ戦士と戦うという選択をヴォオス軍がしたことの方が何より意外だった。
敵もさすがにこちらの正体がルオ・リシタ人であることに気がついているはずである。正面からの力押しでは分が悪いことなど百も承知しているはずだ。何かあると考えるのが当たり前である。だが、このフールメントの野に兵を伏せておけるような場所はない。
その時、風になびいて真紅の旗がひるがえった。
ヴォオスの地固有の霊獣と言われる赤玲を意匠化した真紅の御旗――。
大陸中にその珍名をとどろかすヴォオス国王女、姫将軍リードリットの軍旗であった。
予想外の展開に馬足が鈍ったゲラルジー軍に、鬨の声をあげながら、リードリット王女の旗印が迫ってくる。ゲラルジーがもっとも予想していなかった、ヴォオス軍からの正面決戦であった。
「男勝りの大うつけ者とは聞いておったが、よもや正面から向かってこようとはな! どこから湧いたかは知らんが、女ごときに後れを取る我らではないわ!」
ゲラルジーは獰猛な笑みを浮かべると、一瞬の混乱に捕らわれた全軍の中から、一人飛び出した。
その手には流した血がそのまま凍りついた巨大戦斧が、死神の眼光のような鈍い光を放っている。
その背を追わない臆病者は、ルーシの民には一人もいない。一瞬の混乱を、見事に一瞬で終わらせたゲラルジーは、勇猛な戦士を従えて、リードリットの軍を迎え撃った。
後の世に、フールメント会戦と謳われることになる戦いの幕が切って落とされた――。