表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴォオス戦記  作者: 南波 四十一
ヴォオス戦記・乱
145/152

混乱の始まり

 今回は少し長めです。

 加えて同時進行で幾つかの事態を動かしているので、読みにくかったらすみません。


 それではヴォオス戦記の本編をどうぞ!

 ゾン東部軍が布陣する一角より、わずか十数騎の小隊が、夜の闇を衣にまとって抜け出した。

 もっとも、陣周辺の巡回部隊を装っての行動だったので、その意図のわりにはかなり堂々と軍から抜け出していた。


「本当にこのような危険な策に、ザバッシュ様が自ら加わる必要があったのでしょうか?」

 その部隊には、ゾン東部軍の盟主であるザバッシュが、一般兵に変装して加わっていた。

 中央軍と戦争状態にある状況で、その盟主がわずか十騎程度の供を連れただけで出歩くのは危険極まりない行動であった。

 従う騎士の一人が、主を想うあまり疑念を口にするのも無理もない状況だ。


「このまま何もせず、これまで通りに正面から当たり続けていれば、最終的には物量差で押し返されて終いだ。勝負をかけた策で、影武者を使って機会を逸したりしたらどうする。この俺に臆病者の死に方をしろとでも言うのか?」

 ザバッシュは疑念を口にした騎士を、ぎろりと睨みつけた。

 だがその口元は、不敵に笑っている。

 騎士の言葉に怒ったわけではなく、この状況下にあって軽口をたたいたのであった。

 主の相変わらずの胆力に、騎士はただただ恐れ入った。


「お前たちが俺を心配してくれるのは嬉しいが、この策が決まるか否かで、俺の進退も決まる。俺はあんな若造や、ヤズベッシュのような中央貴族共に敗れるつもりはない」

 先程の軽口とは一線を画す、強い決意に満ちた言葉に、従う騎士たちは表情を改めた。

「つまらぬことを申しました。そもそも我らがザバッシュ様に指一本触れさせなければ済む話でした。ただ、策の出どころが……」

 騎士は決意を新たにしつつ、言葉尻を濁した。


「確かにサルヒグレゲン殿下は異国人だ。この戦いに関する想いは我らと比べるまでもないだろう。だが逆に、思い入れがない分その判断は我らより冷静で、厳しい。策に関しては詳細にわたり確認し、俺自身が納得して殿下の策を採ったのだ。何と言っても俺自身の強さがあって初めて成し得る策というのがいい」

 そう言ってザバッシュは破顔した。

 武辺者であってもゾン人だ。基本調子に乗りやすい。

 隠密行動中でなければ、普段通りに豪快に笑っただろう。


 だから心配なのだと言いたい騎士たちであったが、さすがにそれは主の機嫌を損ねるとわかっているので口にはしなかった。

 戦いに絶対はない。

 どれ程強かろうが、一軍の大将が最前線に出るべきではない。

 そして、いくら他国の王族であろうと、一軍の大将を囮に使う様な策を用いる者を、仕えるべき騎士たちは認められなかった。


 そんな騎士たちの想いをよそに、ザバッシュの精神状態は程よい緊張と興奮により、近年では最も良い状態にあった。

 一軍を率いる大将の器を持ってはいるが、戦士としても一級の腕を持っている。従えるはビルゴン屈指の騎士たちだが、そんな彼らでも、一対一では実力で護衛対象のザバッシュには及ばない。

 安全な後方で指揮を執ることにも十分意義を感じてはいるが、それでもやはり一流の戦士の性か、こうして一歩間違えば死がちらつくような状況に、その士気は高揚していた。


「ザバッシュ様っ! 来ましたっ!」

 最後尾につけていた聴覚に優れた騎士が、前に出て来て報告する。

「規模はわかるか?」

 報告に対して、ザバッシュは何がとは問わない。

 この少人数での移動は、自らを餌として内側の敵を釣り出し、そこに寄生する中央貴族を動かすためのものだ。しっかりと釣れてくれなくては、以降の策が機能しなくなる。


「大隊規模です。ですが、二千はないと思われます」

 報告する騎士の言葉に、迷いはなかった。それだけ耳に自信があるのだ。

「であれば千五百といったところか。バルラスの手勢と一致する。お前は単騎でバルラスの動きを探れ。中央貴族からの援軍が加わるはずだ。万が一敵援軍が予定地点までにバルラス側に合流の動きがなくても作戦に変更はない。月明かりがあるとはいえ、今夜の策の成否はお主の耳に懸かっておる。頼むぞ」

「お任せください」

 ザバッシュから全幅の信頼を寄せられた騎士は、誇らしげにきびすを返すと、後方の闇の中に消えていった。


「わかってはいても、追われるのはいい気がしませんな」

 古参の騎士が軽口をたたく。

「すべてが予定通りに進めば、いい気がせんのは俺を罠に掛けたと思っている連中の方だがな」

「後悔できるまで生き延びられればの話ですな」

「まったくだっ!」

 ザバッシュは危うく大笑いするところで、慌てて笑いを呑み込んだ。


 今回サルヒグレゲンが立てた策は、東部貴族でありながらメティルイゼット王子派に属しているクシュユスフを起点として練られたもので、一応は中央軍として参戦しているが、メティルイゼット王子派であるため、中央貴族の私兵と中央貴族寄りのゾン軍が主力の中央軍ではかなり曖昧な立ち位置にいるクシュユスフを、東部及び中央の貴族たちの野心を煽るために利用していた。


 もちろんクシュユスフに利用されているなどという思いは微塵もない。

 むしろサルヒグレゲンの策略により、東部、中央の両貴族から、戦局を決定づける重要人物として扱われ、これまでの人生の中で味わったことのない高揚感に包まれていた。


 東部貴族の中で裏切りを考える者にとって、東部貴族内では屈指の大貴族であるクシュユスフは、中央権力との繋ぎとして無視出来ない存在である。同時に直接的な戦闘よりも、政治的駆け引きを得意とする中央貴族にとっても、東部貴族を寝返らせるための繋ぎとして、クシュユスフの存在は無視出来ないだけの存在感があった。

 そしてサルヒグレゲンの策において肝心なのが、クシュユスフの存在が無視出来ないものでありながら、真っ先に主軸に据えて策を練ろうと考える程の存在感ではない(、、、、、、、)ところにあった。


 大規模な動きはどうしても必要以上の人間に情報を与えてしまう。

 特にサルヒグレゲンが動かしたいのは中央貴族であり、これを東部貴族側に身を置きながら、東部貴族を通じて行わなくてはならないため、一つ一つの動きは小規模に納めなくてはならない。

 大岩を動かすのに、大岩自体を押すのは三流の策士がすることである。

 大岩を安定させている小石を動かすことで、最終的に大岩を動かすのが一流の策士のやり方であり、大きな成果とは、得てして小さな動きから始まるものであった。


 サルヒグレゲンは、カーシュナーがクシュユスフに施していた東部貴族と中央貴族の両方からの誘いによる揺さぶりを利用して、ザバッシュ暗殺へと意識誘導してみせた。

 この動きは事実であり、事実を餌にまず始めに中央貴族のベルカンを動かした。


 ベルカンはネジメティン派の貴族で、中央軍の前線にあって、東部貴族を寝返らせる役目をネジメティンから与えられていた。

 そして、このベルカンが交渉していた相手が東部貴族のバルラスであり、ベルカンからクシュユスフの計略を知らされたバルラスは、これを利用してザバッシュの首を取ることを考えた。


 バルラスからすれば中央貴族からもたらされた情報を基に、自分で判断して行動していると思っている。

 ベルカンにも独自の思惑があっての情報提供であったが、その思惑を見抜き、情報一つでベルカンの行動を操って見せたのはサルヒグレゲンだった。

 ザバッシュの首を狙っているバルラスは、その行動がザバッシュ本人の承認を得た策によって促された行動だとは夢にも思わないだろう。


 ここにザバッシュ暗殺を確実なものとするために、ベルカンも中央軍から秘密裏に兵を出し、合流を図っている。

 そして合流した兵力を、サルヒグレゲンはクシュユスフにぶつけようとしていた。

 だが実は、クシュユスフの兵力と、バルラス、ベルカンの兵力のぶつかり合いは、サルヒグレゲンにとって何の重要性もないものだった。


 重要なのは裏切りを下地とした実際の戦闘であり、ここにもう一人の中央貴族であるロクマーンを巻き込むことで、裏切りの連鎖を作り上げることにあった。

 実際にはロクマーンは誰も裏切らない。

 だがその性格から中央軍内で孤立しているという事実が、サルヒグレゲンの策を理解したカーシュナーの手により、その行動を裏切りへと捻じ曲げられてしまう。

 

 ここにバルラスの裏切りを知る東部貴族のトゥガイが、とどめとばかりに戦いに加わることで、東部軍と中央軍の戦いの前線は、修正不可能な混乱へと陥ることになる。

 裏切りの連鎖によって状況が動いたことで、ゾン中央に大きな疑心が生まれる。

 元々信頼関係など存在しない間柄ではあるが、損得勘定から一時的に手を結んできたこれまでのような関係は続けられなくなる。


 そこまで行ければもはや事態はサルヒグレゲンの手を離れ、カーシュナーの手へと渡る。

 混乱の起点とされたクシュユスフの結末に関しては、サルヒグレゲンもカーシュナーも、まったく考えていない。二人が見るここから先の戦局に対し、クシュユスフの存在は、いてもいなくても流れを変える可能性はないと見切っているからだ。

 状況を動かすためだけに利用されるクシュユスフは、いい面の皮である。


 いい面の皮という意味ではクシュユスフの対局で利用されるザバッシュも同様なのだが、クシュユスフと違うのは、ザバッシュには戦局を左右するだけの力があるところだ。

 この力に一定の方向を与えなくてはサルヒグレゲンの策は成立しない。

 そして今のところ、サルヒグレゲンはザバッシュの手綱をしっかりと握っていた。


 第一級の策士二人の思惑などまるで知らないザバッシュは、機を逃さないために神経を研ぎ澄ませる。

 先程までは釣りのための行動であったので軽口をたたくゆとりがあったが、目指す地点が近づくごとに、優秀な将としての部分が、音や臭いといった五感では拾うことが出来ない戦の潮目を見極めようと働き始めていた。


 不意に前方から一人の男が、闇から滑り出るように現れた。

 ゾン人の平均身長を大きく上回るその身体は、わずかな月明かりだけでも十分その内に秘める力を感じさせるものがあるが、闇の奥に沈むその鋭い眼光には及ばない。

 ザバッシュもこの男を知らなければ、ひどく動揺していたはずだ。


「ツァガーンロー殿か。驚かしてくれるな」

 不意の男の出現に、ザバッシュ以外の騎士たちは、思わず剣に手を掛けていた。泰然と構えていたのはザバッシュだけだ。

「月夜とはいえ、夜の闇。我が主サルヒグレゲンの命により、目の代わりとなるべく参上いたしました」

 騎士たちの反応を完全に無視して、サルヒグレゲンにただ一人付き従ったイェ・ソン人であるツァガーンローがザバッシュに頭を下げた。

 牧畜が主要産業であるイェ・ソン人は、広大な草原で羊を追うため、人種として視力に優れている。

 そんなイェ・ソン人の中で、牧畜ではなく狩猟によって生計を立てていたツァガーンローの一族は夜目にも優れており、当のツァガーンローは部族の中でも特に優れた狩人であった。


「替えの駱駝をこちらに用意してあります」

 そう言うとツァガーンローは再び闇の奥へと滑り込んだ。

 徒歩相手に見失う様な無様な真似は出来ないと、ザバッシュたちは慌ててツァガーンローの後に続いた。


 導かれて辿り着いたそこには、ザバッシュたちの人数分をはるかに上回る駱駝が、戦地の緊張感とは無縁のくつろぎを見せていた。

 逆に主の登場に、駱駝の番をしていたザバッシュ配下の兵士たちが緊張する。

 この場には、ザバッシュたちより一日先行して身を潜めていた工作部隊の兵士たちがいた。


「準備は出来ているな?」

 ザバッシュの問いに、兵士たちは無言で大きくうなずいた。

 夜は人の声が良く通る。兵士たちはそのことをよくわきまえていた。

「バルラスごときが気づくとは思えんが、変に警戒されて逃げ出されでもしたらたまらん。すぐに用意しろ」

 ザバッシュの命を受け、兵士たちはすぐに作業に取り掛かった。


 作業と言ってもそれ程複雑なことをするわけではない。

 兵士たちはザバッシュたちの人数分の駱駝に、同じ装備を纏わせた人形を固定していった。

 偽兵ぎへいである。


「よく出来ている。余程近くに寄らなければ、生きた人間と区別がつかんな」

 その出来栄えにザバッシュが感心する。

 釣り餌としてここまで来たザバッシュであるが、食いつかれるまで餌でいるつもりはない。

 そんな策であれば、いくらザバッシュに忠実な騎士たちでも、何が何でも主を止めていた。


「では、私が」

 準備が整うと、騎士の一人が進み出た。

 いくら良く出来た偽兵でも、導き手がいなくては機能しない。

 そして導き手は、単身でバルラスの部隊に追われることになる。

 生還率が極めて低い役目に、その騎士は自ら名乗り出たのだ。


 ザバッシュが一瞬顔をしかめる。

 その騎士を惜しんだのだ。

 もちろんカーシュナーのように情から惜しんだのではなく、その能力を高く評価するが故に惜しんだのだが、騎士にとってはむしろその方がはるかに嬉しい賛辞となった。


「お待ちを」

 ザバッシュがうなずきかけたその時、待ったをかけたのはツァガーンローだった。

 その言葉にザバッシュが怪訝な目を向ける。

 サルヒグレゲンの従者として働き、必要がなければまったく口を開かず、控えめを通り越して存在すら感じさせない日頃の姿を知るザバッシュとしては、ここでツァガーンローが口を挟んできたことが心底意外だったのだ。


「その役目、私が」

 そう言うとツァガーンローは一歩前に進み出た。

「気持ちはありがたいが、おぬしあるじであるサルヒグレゲン殿下は私の客人だ。客人の従者にこれほど危険な役目を任せるわけにはいかん。俺にももてなす側の面子めんつというものがある」

 これが中央貴族であれば諸手を上げてツァガーンローの申し出を受け入れただろうが、武辺者のザバッシュとしては、配下の騎士を惜しむ気持ちはあっても、面子を優先してしまう。


「仰ることはごもっとも。ですがこれは我が主サルヒグレゲンからの命なのです」

「殿下からの? そんな話は聞いておらんぞ?」

 策は動き出す前にすべての準備を整えておくものである。

 決死の任務である今回の囮の役目こそ現場での志願者に任せることにしていたが、それ以外の任務に割く人員の割り振りは、策を細かく練る段階でサルヒグレゲンと入念に打ち合わせている。

 サルヒグレゲンの智謀に全幅の信頼を寄せているザバッシュは、サルヒグレゲンが駒の一つであろうと伝え忘れることなどないと確信していた。


「ここから先は流動的な部分があります。その場での判断が必要であるため、我が主はザバッシュ様に危険な最前線をお任せしました。そもそもザバッシュ様がいなければ今回の策は成立しない。ザバッシュ様がおられるから採ることが出来た策と申しておりました」

 このことはサルヒグレゲン本人から幾度となく言われ、そのたびに気を良くしていたザバッシュは、改めて気分をよくする。


「主はこれから先の戦況において、最大の戦果を上げられる状況になった時、ザバッシュ様のお考えを過たず理解出来る騎士を、一人であっても欠いてはならないと考えました。そしてその戦果が、今後の展開を大きく左右する可能性が極めて高いとも見ております。故に我が主は私をこの場に派遣することにしたのです」

 ツァガーンローの言葉に、ザバッシュは大きくうなずいた。


 攻める時に攻め切る。

 勝てる時に勝ち切っておくということは非常に大事だ。

 優勢に驕り、勝機を見送り、後に一敗地に塗れた愚か者たちを、ザバッシュはその目で直に見て来た。

 その愚者の列に並ぶつもりは毛頭ない。

 何よりやサルヒグレゲンの見極めだ。つまらない面子で退け、クシュユスフ相手に遅れでも取ろうものなら東部貴族内での立場も危うくなる。


「殿下のお考えであるならば致し方ない。お主に任せよう。だが危険な任務だ。そのことを理解しているのであろうな」

 任せると言ったうえで敢えて問う。

 くどく聞こえるが、ザバッシュなりのサルヒグレゲンに対する配慮であった。


「昼日中であればお断りしました。ですがすべては夜の闇の中にて決します。私以上に夜目が利く者ばかりでクシュユスフやバルラスの部隊が編成されてでもいない限り、夜の戦場で私を追うことは不可能です」

 ツァガーンローは、驕ることなくただ事実だけを答えた。

 その言葉が真実であることを、この場に辿り着く道中でその挙動を目にしてきたザバッシュと騎士たちはよく理解していた。異論を口にする者は一人もいない。


「では、これにて」

 それだけ言うと、ツァガーンローは一頭だけ鞍が空いていた駱駝に乗った。

 ザバッシュが認めたのだ。これ以上の言葉のやり取りは不要であり、長く留まるとバルラスの斥候に発見される可能性もある。迅速に行動する必要があった。

 それに何より、ツァガーンロー自身がこれ以上の無駄話を続けたくなかったというのが素早い行動の本音であった。


「異国人一人に任せてよろしかったのでしょうか?」

 ツァガーンローと偽兵を乗せた駱駝たちが闇の中へと消えると、騎士の一人が不安を口にする。

 窮地に陥った際に、任務を放棄して逃げるのではないかと今更ながらに危惧を抱いたのだ。


「あの者のサルヒグレゲン殿下への忠誠は本物だ。逃げて主に恥をかかせるくらいなら、単騎でも一軍に突っ込んで行きかねない堅物だ」

 言葉としては揶揄しつつも、ザバッシュはツァガーンローの不器用さを好ましく思っていた。

 

「それよりも、これはある意味サルヒグレゲン殿下から大戦果を期待されたということになる。お主らこそ異国人の期待に応え損ねて俺に恥をかかせたりしてくれるなよ」

 ザバッシュは騎士たちに、どこか物騒な笑みを見せつつ軽口をたたいた。

 決死の任務から一転、ザバッシュと共に戦えることになった騎士は、ザバッシュの軽口に対して気合いに満ちた表情でうなずいた。


 その後ザバッシュも、時を置かずに移動した。

 これまでは追われる側であったが、ここからは追う側となる。

 ここからザバッシュの将としての能力が発揮されることになる――。









 砂交じりの強風に削られることで、人の手では表現が不可能な造形美を持つ奇岩地帯。

 熱砂の国ゾンでは、砂の砂漠以上に、こうした岩石砂漠や、粒の大きな石くれ等で覆われたれき砂漠が国土に広がっている。

 特に人を寄せ付けない過酷な環境地帯は領土の境界の役目を果たしており、ここ奇岩地帯はクシュユスフが領有するシヴァス領の境界線の役割を果たしている。


 今にも砕けて転げ落ちて来そうな不安定な形をした奇岩の群れの中を、十数頭の駱駝の群れが地響きを立てながら疾駆している。

 気配を隠そうとしていないその騒音に、クシュユスフが避暑地の外周部に伏せていた部隊の一部が気づき、放置するわけにもいかないので、駱駝の群れの進路を塞ぐように現れた。


「止まれっ! このような時刻に何事だっ! ここより先は東部大貴族のクシュユスフ様の領地。一歩たりとも侵入することは許さんっ!」

 部隊長と思しき騎士が誰何する。

 この部隊を含めた周辺に伏せられた兵士たちはザバッシュ暗殺のために配置された者たちだ。

 任務の重大さを十分に理解しており、その神経は張りつめられている。

 そのような状況下での侵入者に、部隊長は始めから殺気立っていた。


「止まれと言っているっ!」

 部隊長の怒声は確かに届いているはずだが、駱駝の背に乗る者たちは誰一人反応を見せない。

「かまわん。全員殺せっ!」

 警告を無視された部隊長が、迷わず命令を発する。

 自身が真っ先に突っ込んで行ったのは、この部隊の誰よりも頭に血が上っていたからに他ならない。


 侵入者と部隊が交差し、部隊長と配下の兵士たちが振り抜いた剣が、鞍上の者たちを斬り伏せる。

 そこで上がったのは驚愕の声。

 その手応えと、斬られて地に落ちた身体が、呆気なく五体バラバラになったことによるものであった。


「偽兵……だと?」

 頭に血が上っていた部隊長の怒気が一瞬で冷め、その声に混乱と不振の色が混じる。

「これはいったい、どうい……」

 言葉は最後まで続かなかった。

 それは背後から突き込まれた剣が、部隊長の肺を貫き言葉を奪ったからであった。


 部隊長を倒したのはツァガーンロー。

 偽兵を乗せた駱駝の腹部にしがみつき、部隊長の駱駝とすれ違いざま飛び移るという神業を、当たり前の様にこなしてみせたうえでのことであった。

 次の瞬間には部隊長の亡骸を鞍上から投げ捨て、まだ隊長の死を知らない残りの兵士たちに襲い掛かっていく。


「クシュユスフの暗殺計画などお見通しだ」

 ツァガーンローはそう言い放つと、圧倒的な実力差で兵士たちをほふっていく。

 不意を衝かれた衝撃と、隊長を失ったことによる指揮系統の混乱により、兵士たちはたった一人相手に、先に斬り伏せた偽兵のごとくただ無様に斬り倒されていった。


 混乱の中、恐怖から一人の兵士が逃げ出す。

 ツァガーンローはわざとその兵士を見逃す。

 その行動は当初の計画よりも一歩踏み込んだものだった。

 計画ではバルラスの部隊に追いつかせ、不意を衝く形でクシュユスフ配下の部隊にぶつけることになっていた。

 だがツァガーンローの行動により、クシュユスフの部隊は不意を衝かれることなく戦いに入ることになる。

 それは両陣営に、多くの出血を強いることになり、策略を仕掛けている側のザバッシュにも、より大きな負荷を強いることになる。


 務めを果たしたツァガーンローは、剣を一振りすると血を払い、闇の中に消えていった――。









「ど、どういうことだ!」

 思わず呟いたのは、中央貴族のベルカンだった。 

 あと一歩でザバッシュを捕捉出来るというところに来て、想定外のクシュユスフ部隊との遭遇となったからだ。


 ザバッシュを逃がさないために、ある程度の兵を領地の境に伏せているだろうとは考えていたが、暗殺自体は領内深くに引き入れてから行うと読んでいた。

 故にバルラスをけしかけ、クシュユスフの策を利用し、シヴァス領の境でザバッシュの首級を上げようと計画したのだが、このままではクシュユスフ部隊との戦闘になってしまう。


 態度を決めかねていたそこに、更に想定外の報告がもたらされる。

 バルラスの裏切りを知り、これを追跡してきた東部貴族のトゥガイの部隊を後方に確認したのだ。

 この報告にバルラスが動揺し、ベルカンは嫌な予感に脂汗を額に浮かべる。

 情報を制し、隙を衝き、完全に主導権を握って行動したはずなのに、現状は挟撃の一歩手前だ。

 ベルカンの頭は、どこで何を間違ったのかを必死に追った。


 一番ありそうなことは、バルラスの裏切りが東部貴族たちに漏れていたという可能性だが、仮にそうであっても、バルラスの裏切りは、浮足立ち始めていた東部貴族たちの間に疑心を生み、むしろその行動を制限するとベルカンは読んでいた。

 あの頭の固いトゥガイの単独による襲撃など、最もあり得ないことだった。


(まさか、バルラスにハメられたのか!)


 一瞬、利用しているはずのバルラスの二重の裏切りが脳裏をよぎる。

 だがベルカンは即座にその考えを捨てた。

 これが自分と立場を同じくする中央貴族であれば大いにあり得ることだが、東部貴族らしい無骨さと、それでいて最後まで意地を張り通すことが出来ないゾン貴族らしさを見せるバルラスごときに、自分がたばかられるなどあり得ないことだった。

 むしろこの程度の小物を読み違えているようでは、陰謀渦巻く中央貴族の中ではとうの昔に失脚して、この場にすらいなかっただろう。


「……今はこの状況を切り抜ける方が先だ」

 敢えて言葉にして思考を切り替える。

 事態の急変を察してからわずかな時間で自身を立て直したところに、ベルカンの優秀さがうかがえる。


「バルラス卿。トゥガイへの対応を任せる。私はクシュユスフの兵たちに当たる。東部貴族ではあるがクシュユスフは中央軍の一戦力として参戦している。上手く説き伏せることが出来れば、私とバルラス卿、そしてクシュユスフの三部隊でトゥガイを楽に討てる」

 瞬時に考え出した対応に、動揺していたバルラスも落ち着きを取り戻す。


「まだザバッシュの首を諦めるつもりはないが、最悪トゥガイの首だけでも取れば、東部貴族の強硬派の勢いを大きく削ぐことが出来る。この戦いに迷い始めている連中との間に楔を打ち込むことが出来れば、それはそれで対東部貴族戦における大きな戦功となる」

 まるでこちらの行動を見透かしているかのようなトゥガイの出現に慌てさせられたが、落ち着いて考えれば単体での敵との遭遇は、二部隊の戦力がそろっている現状では、各個撃破の格好の獲物が自分から出向いてくれたようなものだ。


 戦功を挙げたい気持ちはバルラスだけでなくベルカンも同様だ。

 トゥガイを討てばクシュユスフの部隊に対しても二部隊で当たることが出来る。

 そうなれば、そこから更にザバッシュの首を取り、ついでにメティルイゼット王子派のクシュユスフの首級までも上げてしまえば、ベルカンが属するネジメティン派の功績は絶大なものとなり、宰相ヤズベッシュ派との力関係も大きく変わってくるはずだ。

 状況の変化に呑まれるか、それとも利用するか。

 呑まれるだけの人間は消えて行き、変化を幸運として拾い上げることが出来る者だけが上へと昇って行く。

 ベルカンは、いずれネジメティンさえも超えて上り詰める自分の背中を幻視した。


 腹が決まればバルラスの行動も迅速だ。

 伊達に武辺者で鳴らす東部貴族の一員ではない。咄嗟の部隊展開でもたつくようなことはない。

 その動きから、どうやら最低限の防壁の役割くらいは果たしてくれそうだと安心したベルカンは、急ぎクシュユスフの部隊へと向かった。


 月明かりの元、夜目にも煌びやかなその装備は、ベルカンの存在自体は知らなくても、部隊の中でも特別重要な存在であることを示していた。

 中央貴族としての虚栄心が、暗殺計画の中にあっても自身の重要性を主張する日頃の習慣を貫かせていた。

 そしてその見栄が、ベルカンの寿命を一気に縮めることになる。


 ベルカンの耳が、矢羽根が夜気を振るわせるわずかな音を捉える。

 咄嗟に身を伏せたが遅かった。闇の中から飛来した矢は、鞍上のベルカンの側頭部を見事に捉え、勢いのままベルカンを地面に引きずり下ろした。


「ザバッシュの罠だっ! ザバッシュがクシュユスフ様を裏切ったぞっ!」

 直後に上がった叫び声に、身構えていたクシュユスフ部隊の兵士たちと、ベルカンに従っていた騎士たちの間に動揺が走る。

 だがそれも一瞬のことで、先に襲撃により一小隊を失っていたクシュユスフ部隊は、復讐心に背中を押され、自分たち目掛けて走り寄って来ていたベルカン配下の騎士たち目掛けて一気に駆け出した。


「呆気ないものだな」

 そう呟いたのは、ベルカンを一矢で射倒し、たった一声でクシュユスフ部隊を動かしてみせたツァガーンローであった。

 

 ツァガーンローは、イェ・ソンにあっては非主流派のサルヒグレゲン王子によって部族が庇護を受けていたこともあり、イェ・ソン軍でその実力に見合った役目を追うことはなかったが、その地位は将軍相当の権限を有していた。

 このような間者が果たすような役割は、ツァガーンローの実力からすれば役不足もいいところだった。


 ゾンの地ではその真の実力を知る者はたった一人しかいないが、故国を捨ててサルヒグレゲンに従った時点で、ツァガーンローは過去のすべてを捨てて来た。

 サルヒグレゲンの利となることであれば、泥でもすする覚悟でいたが、主が優秀過ぎるため、正直ツァガーンローがその実力を発揮するような場面はこれまで一度として訪れなかった。


 今回の役目は、サルヒグレゲンの真意に沿った状況を作り出すためのものであるため、ザバッシュ陣営の人間には任せられない面があったが、それでもサルヒグレゲンの知略をもってすれば、ツァガーンローが直接手を下すことなく同じ成果を上げることが出来たはずだ。


 つまり今回の役目は、戦場から離れ、従者としての役割のみの日々を過ごしているツァガーンローを気遣って、サルヒグレゲンが与えた役目だったのだ。

 仕えるべき主に気を使わせてしまったことが、ツァガーンローの気持ちを重くしていた。

 そんなちょっとした運動がわりに命を落としたベルカンや、サルヒグレゲンの思惑通りに踊ってしまっているクシュユスフ部隊兵士たちはいい面の皮であったが、ツァガーンローは彼らの心情などまったく考えていなかった。 


「あまりにも東部貴族たちが不甲斐なかったら、一人で片づけおいてくれ」

 主の冗談として聞き流していいのかわかりにくい言葉を思い出して、ツァガーンローは眉間にしわを寄せた。

「いざとなれば……」

 その呟きは誰の耳にも届くことなくゾンの夜気に消えていった――。









 バルラスを追ってきたトゥガイは、追いつくと同時にその背に襲い掛かった。

 古強者であるトゥガイは、同じ東部貴族だからと、裏切り者のバルラスを説き伏せ、帰順を促すような甘い真似はしない。

 その存在を敵として切り捨て、討つことに意識を集中していた。


 始めの接触でトゥガイの部隊はバルラスの部隊を押し込んだが、バルラスはよく耐え、即座にトゥガイの攻勢を押し止める。

 始めの勢いで押し切れなかったトゥガイは焦らず、自身が前線に立つことで兵士たちを鼓舞し、同時にバルラスを言葉で挑発する。


「中央の豚共に尻尾を振る犬畜生のバルラスっ! 恥を知るならここまで出て来て俺と戦えっ!」

 その割れ鐘のような声は、言葉は不鮮明だが、その意図は正しく戦場の夜気に響き渡らせた。

 この言葉にバルラスは額に青筋を浮かべながらもなんとか耐え、トゥガイの部隊の攻勢をしのぐことに専念する。

 ベルカンが現在の挟撃の形を崩してくれさえすれば、元々数的にはトゥガイの部隊に対して倍する戦力を有しているので、確実に仕留めることが出来るからだ。

 だがこのバルラスの我慢も、既にベルカンが死んでいるため無駄に終わるのだが、この時のバルラスはまだその事実を知ることが出来ない状況にあった。


 さすがにバルラスの忍耐も限界に達しかけた時、後方のベルカンの部隊が大きく崩れた。

 あまりにも突然過ぎたベルカンの死に、ベルカンの配下の部隊すらも状況の把握が出来ておらず、まとまりがないなりにクシュユスフの部隊の攻勢をしのいでいたが、いよいよ抗しきれなくなり、バルラスの部隊も巻き込んで崩れたのだ。


「何をしている。ベルカンっ!」

 既に死んでいるとも知らず、バルラスがベルカンに対して悪態をつく。

「何をしているか聞きたいのは俺の方だ」

 そこにかかった侮蔑を含んだ言葉に、バルラスは慌てて視線を向けた。

「なっ! き、貴様はっ!」

 そして、そこに予想外の人物を見出し、驚愕する。


「答えなくていいぞ、バルラス。貴様以上に俺の方が現状をよく理解しているからな」

 そう言ってバルラスを嘲笑ったのは、バルラスたちの追跡を回避して潜伏していたザバッシュだった。

 追っていたはずの人物の登場に、バルラスは混乱し、動揺を見せる。


「その程度か」

 戦場にあっては不測の事態などいくらでも起こりうる。

 その度に動揺し、一々対応を止めていては命などいくらあっても足りはしない。

 ザバッシュはそのことを、一度はその成長に期待した裏切り者の若い貴族に、自らの手で教えてやった。

 鞍上から斬り落とされたバルラスのもとにザバッシュ配下の騎士が駆け寄り、素早くその首級を上げると、槍先に突きさして高々と掲げる。


「我はビルゴン家が当主ザバッシュ。ここに裏切り者のバルラスを討ち取ったっ!」

 そして時を置かずに勝ち名乗りを上げる。

「速やかに我が軍門に下れば良し。あくまで抵抗するというのであれば、皆殺しにした上で、お前たちの故郷の家族を全員奴隷の身分に落とす。今すぐ選べっ!」

 そして深く考える間を与えずに、最後通牒を突き付ける。

 このあたりの流れる様な行動は、戦況と兵士の心理を知り抜いた歴戦の将の面目躍如といったところであった。

 バルラスの兵たちは、主を討たれた衝撃に麻痺していた思考が怒りに傾く前に、保身を考える方向に傾けられてしまう。


「従うというのであれば、向こうで慌てふためいている中央貴族の兵士共を討てっ! 働きが良い者は騎士にも取り立ててやるぞっ! この際だ。中央貴族の兵士たちから奪い取った戦利品は、そのままお前たちにくれてやるっ! 稼ぎを上げたければ、働けっ!」

 ここで恐怖で追い込むのではなく、利で釣るあたりがザバッシュの将としてのしたたかさであった。

 元々ザバッシュが治めるビルゴンは、東部屈指の富裕な土地で、兵士たちの実入りも他所の軍よりもいいことで有名だった。

 何よりザバッシュは、ゾン貴族としてはなかなかに気前がいいことで知られている。

 バルラスの敗残兵たちの心がザバッシュに傾くのに時間はかからなかった。


「お主、何故ここにいるっ!」

 そこに、ザバッシュを助けるために駆けつけたはずのトゥガイが、いかつい顔面を驚きに固めたまま駆けつけた。

「説明は後だ。俺の部隊も遠からず駆けつける。このままクシュユスフの部隊を討ち、ついでに自分は頭がいいと勘違いしている中央かぶれのクシュユスフの馬鹿に引導を渡してくれるわっ!」

 戦友の疑問などあっさりと退け、ザバッシュはたった今言いくるめたバルラスの部隊を率いて混乱するベルカンの部隊に襲い掛かった。

 置いていかれる形になってしまったトゥガイは釈然としないものを覚えつつも、勝機を見逃すような愚かな真似はしなかった。

 気持ちを切り替えるとザバッシュを追い抜き、不満をぶつけるようにベルカンの部隊に襲い掛かった。


 クシュユスフの部隊に追われているところに、いきなり鉾の向きを変えたバルラスの元部隊とトゥガイの部隊に襲い掛かられ、ベルカンの部隊はどうすることも出来すに壊滅する。

 そして事態を正確に把握出来ていないクシュユスフの部隊の対応が一拍遅れるところに、ザバッシュはベルカンの部隊を倒した勢いそのままに鋭く攻め込み、先程まで自分の命を狙っていたはずの兵士たちを使って一気に突破してクシュユスフの部隊を撃破してしまった。


 ここで報酬に釣られて行動していたバルラスの元部隊の足が止まる。

 戦利品に釣られて決断したのだから、略奪に足を止めるのは当然であり、ヴォオス軍のように厳格に統率が取れていないゾン軍では当たり前に起こる遅滞であった。


「おい、お前たち。俺はこの先のクシュユスフの避暑地を襲撃する。そこまでの戦利品は早い者勝ちでくれてやる。そんなボロボロの剣や盾よりも金目の物が欲しい奴はさっさとついてこい。トゥガイの部隊とも競争になるからな。いつまでも貧乏兵士でいたくなければ、真面目に走れよ!」

 ザバッシュはいうが早いか、高笑いを上げながら走り去った。

 ベルカンの部隊の装備品を漁っていた元バルラス兵たちは、走り去るザバッシュの背中を呆然と見送っていたが、一人が我に返って慌てて駱駝の背に跨ると、残る兵士たちも慌ててそれに続いた。


 クシュユスフが当主を務めるシヴァス領も、ザバッシュが治めるビルゴン領に劣らず裕福な土地だ。加えて中央寄りのクシュユスフは武辺者の他の東部貴族と違い贅沢志向でその屋敷は高価な調度で埋め尽くされていると噂されている。もっともその噂はクシュユスフが自ら広めたものなのだが、一兵士にとってはそんなことは知ったことではない。より価値の高い物が略奪出来るか出来ないかが重要なのだ。


 サルヒグレゲンの指示に従っただけとはいえ、ザバッシュは自身の兵力をほとんど使わないままシヴァス領の境を突破した。

 ゾン人の心理は、サルヒグレゲン以上に知り尽くしているザバッシュの手腕の見事さと言えた――。









 ベルカンが既に死んでいるなど知る由もないロクマーンは、ベルカンの寝返りを何とか思いとどまらせるべく、その部隊の行方を必死に捜索していた。

 戦歴の長いロクマーンは戦場における追跡能力も高く、星明りの下で蹄の跡の新旧を見分け、的確にベルカンの跡を追っていた。

 夜の闇の先に陣取る東部貴族を刺激しないために慎重に行動し、物音一つ立てずにここまで来たロクマーンは、中央軍方向から数部隊からなる蹄の音が近づいてくるのに気づいた。

 真面目なロクマーンはベルカンを追う前に、状況を中央軍本陣へと知らせる使いを出していた。

 この時ロクマーンは、本陣がロクマーンの意を酌み、増援部隊を寄越してくれたものと考えた。


「今少ししのんで来てもらいたいものだな。大事になり過ぎるとベルカンが引けなくなってしまう」

 無遠慮に駆け寄せてくる部隊に、ロクマーンは眉間にしわを寄せた。


 不意に一騎が別方向から駆け寄せてくる音に気づく。

 おそらく偵察兵あたりがロクマーンの部隊に気づき、確認のために向かってきているのだろう。

 ロクマーンは自身の部隊を止めると偵察兵の到着を待った。


「尋ねる。お主らはどこの部隊かっ!」

 いささか無礼な誰何の声に、ロクマーンは不満に感じつつも素直に姓名を応えてやった。

 夜間の最前線だ。

 隠密で行動していた敵部隊に遭遇してしまう可能性はけして低くない。

 その言動が殺気立つのは無理からぬことだと思ったからだ。

 しかし、ロクマーンの丁寧な対応に対し、偵察兵の反応はロクマーンの予想とはまったく異なるものだった。

 ロクマーンが名乗ると同時にクルリと背を向けると、全力で走り去って行ったのだ。


「ロクマーン発見っ! 裏切り者(、、、、)はここにいるぞっ!」

 夜気を切り裂き、偵察兵の声が響き渡る。

 驚き呆気に取られているロクマーンの耳が、近づきつつあった部隊の向きが変わったことを聞き取る。

 次いで全力で駆ける無数の蹄が地を打つ響きが、大地を伝わりロクマーンの全身に届く。


「皆の者、戦ってはならんっ! これは何かの間違いだっ!」

 正気に戻ったロクマーンは、自身の兵たちに大声で命じた。

 本陣に送った状況の説明の際に何らかの誤解が生じたに違いない。

 ベルカンに追いつくべく、本陣からの返事を待たずに動き出したことがあだになったのだ。


 ロクマーンはそう判断した。

 それは正しい状況判断であり、対応だったと言えた。

 だがそこに他者の思惑が絡んでいると、そうとも言えない。

 ロクマーンの善意や善行に関係なく、事態はただひたすらに悪化していく。


 その証拠に、ロクマーン討伐命令は、距離と、時間すら超えて、ヤズベッシュの決定を待たずして(、、、、、)中央軍に発せられ、中央軍は動いたのだ。

 ロクマーン裏切りの筋書きは、はるか以前にカーシュナーの脳内で書き上げられ、サルヒグレゲンの手によって幕が上げられた。

 そしてカーシュナーはゾン中央でヤズベッシュの思考を誘導しつつ、ヤズベッシュの筆跡を完璧に真似た指示書によって、ヤズベッシュ派の中央軍を動かしたのだ。

 仮に中央軍が指示を不審に思い、ヤズベッシュに対して内容の確認を行ったとしても、確認の問い合わせが届く時にはロクマーン討伐命令は下された後となり、時間的情報の矛盾は消えている。

 ロクマーンの部隊を発見した偵察兵もカーシュナーの仕込みに過ぎず、事態は一つ一つの違和感が認識され、修正される前にその期を外され、加速しながら回って行く。


 主演に抜擢されたロクマーンだけが、何一つ真実を知ることなく中央貴族同士の対立の始まりを演じることになる。

 彼の必死の言葉は、誰の耳にも届かなかった――。









「ザバッシュはどうしたっ! 何故来ぬっ! 攻め込まれているとは、どういうことだっ!」

 ザバッシュとトゥガイの部隊に敗れ去ったクシュユスフの部隊からの急報を受けたクシュユスフは、即座に報告の内容を理解することが出来ず、報告の内容をただ繰り返して絶叫した。

 策を弄し、自分が中心となって物事が推移していると考えていたクシュユスフは、その策すらも巧みに意識誘導されて講じたものであることなど想像することすら出来ず、ただただ戸惑うだけであった。


 戸惑うばかりで逃げることにすら思考が及ばないクシュユスフを、家臣たちが必死になだめ、何とかザバッシュとトゥガイの部隊が攻め込んでくる前に避暑地から避難させた。

 領地経営などでは優れた手腕を発揮するクシュユスフであるが、個人の将としての器は東部貴族に限らず、ゾン貴族全体から見ても極めて低い。

 それ故にザバッシュに対する根深い嫉妬を生み、何とか見返そうと思考を巡らしてメティルイゼット王子とのつながりまで築いたが、そのすべてがクシュユスフの首を絞めることになっていた。

 己を知り、出来ることに全力を注いでいれば、その人生は東部貴族屈指の大貴族として幕を閉じていただろうが、そんな人生とは全く色の異なる幕が、クシュユスフの背後に迫っていた。


 場所はクシュユスフの領地であるシヴァス領内である。

 ザバッシュ暗殺のために配備していた兵力は全軍の一部に過ぎず、クシュユスフには逆転の余地はまだいくらでもあった。

 だが、その余地を的確に使いこなす軍事的才能がクシュユスフには不足していた。

 暗殺を隠密裏に遂行するべく、奴隷兵ではなく、正規兵を領の境に配置し、これを討たれてしまったこともクシュユスフの不運であった。

 領内に兵力はあるが、正規兵の多くを失ったことにより、奴隷兵を統率指揮する指揮官が不足してしまい、領内に侵入したザバッシュたちを阻む動きが致命的なまでに遅れてしまった。

 そのため、ザバッシュたちを止めることが出来ず、領内深くに攻め込まれてしまった。

 結果として、クシュユスフは自身の領地内にいながら逃げ回る羽目に陥っていた。


 もっとも、この結果のすべてが、既にサルヒグレゲンが頭の中で描き終えていた図であり、その図を正確に描いてしまっているという現実を、クシュユスフは知らなかった。

 知ったところで理解することは出来なかったであろうし、知らないことがわずかな救いでもあった。


 逃げるしかないクシュユスフが頼れる先は、娘の夫であるメティルイゼット王子だけだった。

 中央貴族との確執から、メティルイゼット王子の布陣は主戦場から北に外れ、クシュユスフが治めるシヴァス領に近い位置だった。

 今回の中央軍が、ヤズベッシュとネジメティンを中心とした反メティルイゼット王子勢力が中心となって構成されていることもあるが、メティルイゼット王子自身の負傷の影響もあり、戦力としては基本蚊帳の外に置かれている。


 メティルイゼット王子を中央軍布陣の南側に配置し、クシュユスフと切り離すことも検討されたが、東部貴族勢力の中で唯一中央勢力側であることを明確にしているクシュユスフに対してあまり露骨な真似をすると、クシュユスフの離反を招きかねない上に、東部貴族たちの中央貴族に対する更なる反感を煽り、その結束をより強固にさせることになりかねないため取りやめになった経緯もあった。


 頼りになる味方の庇護を求めて、クシュユスフはわずかな手勢に守られながら、何とかメティルイゼット王子の陣が視認出来るところまで辿り着いた。

 だが騎手としては落第点のクシュユスフの移動は遅く、この時点でその背に、ザバッシュの追撃部隊に食らいつかれてしまった。


「クシュユスフ様、お早くっ! ここは我らで死守します故、メティルイゼット王子の陣へっ!」

 ここまで付き従ってきた騎士の決死の言葉に背中を押され、クシュユスフは下手くそなりに必死に駱駝の背にしがみつき、メティルイゼット王子の陣を目指した。


 背後に戦いの喧騒が響き出す。

 死の冷たい手をその背に感じ、クシュユスフは死に物狂いで駱駝を走らせた。

 陣を囲む柵が明確になり、その背後の天幕の群れもはっきりと視認出来るとこまで辿り着く。

 クシュユスフは最後に一度だけ背後を振り返った。

 ザバッシュの追手はまだ部下の騎士たちと戦っている。


 前を向き、開いたままの門扉を抜け、ついにメティルイゼット王子の陣へと駆け込んだ。

 どっと安堵が押し寄せる。

 そのまま陣の中央へと駆け抜け、そこでようやく異変に気がつく。


 誰もいない。


 気づいて周りを見渡すと、天幕は存在するが、それ以外の武器、糧食の類は見当たらず、必要最低限のものだけを持ち、急いで出て行った様子がはっきりと見て取れる。

 慌てて鞍から降りて近くの天幕を覗き込むが、中は当然もぬけの殻であった。


 助けも求めて駆け込んだ先で、クシュユスフはただ一人呆然と立ち尽くす。

 思考は停止し、抜け殻の景色をただ眺める。


 それがクシュユスフの瞳に焼き付いた、人生最後の景色だった。


 背後から蹄の音が迫り、クシュユスフを追い抜いていく。

 駆け抜ける蹄の音を追うように、クシュユスフの頭部が地面を打つ音が、鈍く、小さく響いた。


「これは、いったいどういうことだ……」

 クシュユスフの首を、一刀で斬り落としたザバッシュが呟く。


 敵陣の異変を、ザバッシュはクシュユスフを追いながらも見て取っていた。

 何らかの罠かと思い、クシュユスフを追うことを諦めようかとも考えたが、罠だとしたらあまりにも計画性がなく、運の要素が強過ぎることに気がついた。

 逃げるクシュユスフを囮に、追跡部隊を包囲網に誘込み、一網打尽にするという意図であれば、クシュユスフを囮として長く使い過ぎているのだ。

 クシュユスフ配下の足止めが功を奏したからいいようなものの、一騎でも追跡部隊の兵士が抜けていれば、クシュユスフは既に死んでいる。

 自陣にまで引き込まずとも、部隊を展開して待ち構え、一気に包囲してしまえばそれで済む話なのだ。

 自分ならそうするし、メティルイゼット王子であれば、もっと手前から仕掛けて来ても不思議はない。

 

 陣に生気をまったく感じないことから、ザバッシュは意を決してクシュユスフを追って門扉を抜け、陣内へと飛び込んだ。

 そして即座に無人であることを見抜く。

 後は呆然と立ち尽くす阿呆の首を落とすだけだった。


 そこに一足遅れでザバッシュ配下の騎士たちが飛び込んでくる。

 単独で先行した主に騎士たちが口々に苦言を呈するが、ザバッシュはそんな言葉にはとり合わず、騎士たちに陣内の調査を命じた。

 そしてすぐにこの陣が完全に無人であることを確認する。


「どこに行きおった。あのイカレ王子め」

 不審な思いを抱きつつも、戦う相手がいなくてはどうすることも出来ない状況に、ザバッシュは不満げに鼻息を吹き出した。


「火を放てっ! そしてメティルイゼット王子の陣を落としたと触れ回るのだっ! それで腰抜けの中央軍は更に腰が引けるわっ!」

 頭を切り替えたザバッシュは、想定外の状況を最大限に利用することにした。

 その目論見は正しく、中央軍のみならず、中央貴族全体の混乱に拍車をかけ、事態をより混沌としたものへと変えていくのであった――。









「何故いない……」

 事態を見届けるために、ここまで秘かにザバッシュの跡を追っていきたツァガーンローは、ザバッシュとは異なる角度からメティルイゼット王子の陣を見詰めつつ、一人呟いた。

 予定ではここで、メティルイゼット王子の軍と東部軍がぶつかることになっていた。

 だがメティルイゼット王子の軍は忽然とその姿を消し、予定されていた衝突は生まれなかった。


 サルヒグレゲンの想定外の事態が、一つ起きた。

 おそらく主はこれを悦ぶだろう。

 だがその身を守り、仕える者にとっては、愉しむようなことではない。

 ツァガーンローは可能な限りの情報を集めると、主に届けるべく戦場に背を向けた――。

 投稿が遅れて申し訳ありません。

 頑張ります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ