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ヴォオス戦記  作者: 南波 四十一
ヴォオス戦記・乱
141/152

シルヴァ傭兵団対カーシュナー私設船団!(その3)

 今回は時間のやりくりが上手くいき、早めにお届けすることが出来ました。

 文量は前回よりも多かったのですが、まとめの回でもあったおかげでテンポ良く書くことが出来、書いていて南波自身楽しかったです。


 それではヴォオス戦記の本編をどうぞ!

 強敵を前にしていながら、シルヴァは彼にしては極めて珍しいことに、戦いに集中出来ていなかった。


 戦力差は承知の上で戦っている。

 一兵ごとの地力の差も、想定外であったが既に頭に入れている。

 それでもこの展開はシルヴァの予測をはるかに上回っていた。

 周囲の配下の傭兵たちが、驚くべき速さで討ち取られてしまっているのだ。


 シルヴァはクリストヴァンと戦いながら、周囲にも圧力をかけていた。

 完全に背を向けられるような余裕はまったくないが、それでもシルヴァの圧力はそれなりに効果を発揮している。

 事実シルヴァの周囲で戦う部下たちはそれなりに応戦していた。

 だが数歩離れてしまうと途端にその効果は力を失ってしまっていた。

 今は波が引くように敵の勢いが弱まっているが、それは他の船に勢いの根源が向いているからであって、形勢を逆転出来ているわけではない。


 まだ確認出来ていないが、全体を指揮する優秀な敵がいるのは間違いない。


 不意にクリストヴァンの戦い方が変わる。

 間合いを半歩広げ、攻めの姿勢から守りの姿勢に転じる。

 シルヴァに恐れをなして腰が引けての守りであればいいのだが、クリストヴァンはシルヴァと同じように戦況を見て、シルヴァを確実に足止めし、一戦力以上の働きが出来ないように封じ込める作戦に出たのだ。

 一見奇行が目立つため身勝手な人間と思われることの多いクリストヴァンであるが、剣士であるのと同じくらい指揮官としての能力も高く、全体を見た戦いも出来るのだ。


 膠着しかけたその時、突き上げるような波が船体に襲い掛かり、甲板上の人間たちを瞬間宙に放り上げる。

 こればかりは慣性がものをいう。

 いかに体術に優れるシルヴァ、クリストヴァンの両人も、甲板に足の裏で張り付くことは出来ないので空中に放り出される。

 そこに横殴りの突風が吹き付け、宙に放り上げられた人々を更に翻弄する。

 風の流れに従い体勢を崩さずにいるシルヴァに対し、クリストヴァンは一瞬上体が風に煽られて体勢が乱される。

 周囲に注意を向けていても、シルヴァは勝敗を左右するこの情報を見逃してはいなかった。

 着地と同時にシルヴァが一気に踏み込む。


 これに対してクリストヴァンは乱れた姿勢で着地した。

 そのため態勢を整えるのに一拍遅れる。 

 シルヴァはそう見ていた。

 だが次のクリストヴァンの動きは、完全にシルヴァの虚を衝くものであった。


 体勢を崩したかに見えたクリストヴァンであったが、体勢を立て直すのではなくそのまま四つ足の獣のように沈み込み、踏み込んで来たシルヴァの勢いを上回る速度でシルヴァの懐に飛び込んだのだ。

 誘い込まれたことを悟ったシルヴァであったが、既に深く踏み込んでしまったため、引くことが出来ない。

 加えてシルヴァの斬撃に対して刺突のクリストヴァンでは、わずかではあるが攻撃速度で劣る。

 この場合のわずかな差は、勝敗を分けるほどに大きかった。


 どうやら焦っていたようだと気づいたときには遅かった。

 構えた細剣と一体となって飛び込んでくるクリストヴァンに対し、シルヴァは胴体をさらしてしまっている。

 シルヴァは一瞬で覚悟を決めると振りかぶっていた剣を捨て、素手でクリストヴァンの剣を取りに行った。


 まさかの白刃取りにクリストヴァンは虚を衝かれたが、動きに迷いは生まれない。

 白刃取りなど狙って出来るものではない。

 力量差があって初めて実現可能な技であり、やすやすと取らせるほどクリストヴァンは甘くない。


 シルヴァの身体の中心目掛けて繰り出された剣先をシルヴァの大きな手が包む。

 見事!

 クリストヴァンは、敢えて身をそらさず剣先を腹のど真ん中へと誘ったシルヴァの胆力に感嘆した。

 そして同時に勝利を確信する。

 剣先は見事に取られたが、そんなことで止まるほどクリストヴァンの一撃は軽くない。

 シルヴァの手のひらを削る様に抜けると、剣先がシルヴァの腹部へと滑り込んでいく。


 そのまま刺し貫くかと思われた刹那――。


 シルヴァは捕らえたクリストヴァンの剣を押し退けつつ、身体を大きく捻った。

 その動きは結果としてシルヴァに自分の腹を抉らせる結果となった。

 だがシルヴァの動きはそこで止まらなかった。

 腹を自ら切り裂きつつクリストヴァンの剣を手繰り、半回転して強烈な肘打ちを伸びきったクリストヴァンの右肩に叩き込んだのだ。

 飛び込んだ勢いのまま、クリストヴァンは甲板に倒れ込む。

 そこにシルヴァが追い打ちの踏み付けを叩き込んだが、クリストヴァンはかろうじてこれをかわし、転がりながら間合いを取った。


 シルヴァはクリストヴァンを深追いせず、持っていたさらしで腹の傷をきつく縛り付けた。

 それだけで腹部の傷からの出血が治まる。

 シルヴァはまさに腹の肉を致命傷にならないギリギリの深さで斬らせて、クリストヴァンの右肩を砕いたのだった。


「さすがは<海王>。持って(、、、)いる」

 顔面を苦痛で青ざめさせたクリストヴァンが、肩を砕かれながらも離さずにいた細剣を左手に持ち替えながら、見事に賭けに勝ったシルヴァを称賛する。

「先が長そうなんでな。無傷で切り抜けたかったんだが、そうもいかなかった」

「それは虫が良過ぎるというもの」

 決定的な劣勢を覆すことに成功したシルヴァは、不敵な笑みを浮かべつつ軽口をたたいた。

 これに対してクリストヴァンは、苦笑するしかなかった。


「退くなら止めねえぜ?」

 シルヴァが誘いをかける。

「ここで退くくらいなら、始めから出て来はしないさ」

 クリストヴァンは、負傷した右を後ろに下げ、左を前に出して半身の体勢になりながら、シルヴァの誘いに否で応えた。

「俺がやるには好きじゃあねえが、敵が見せる意地としちゃあ、結構好きだぜ」

「これは意地ではなく、見栄です」

 シルヴァの言葉に対して、クリストヴァンは胸をそらして言い返す。

 見栄と自ら言い切るクリストヴァンに、シルヴァは含むところのない笑い声をあげた。


「今日あんたとやり合えた俺は、付いていたぜ」

「私もそう思います」

 次の一撃で勝負が決まる。

 そしてその結果はシルヴァの勝利に終わる。

 二人は同じ結末を見ながら、好敵手を前に出来たことを素直に喜んでいた。


 結末を相手に委ねるつもりなどまったくないクリストヴァンが、シルヴァより先に踏み込むべく、身体に力を溜める。

 その力を解放して踏み込もうとした瞬間、目の前にスッと剣が差し出された。


「良いところを邪魔して申し訳ないが、ここであなたを死なせるわけにはいきません。交代です」

 クリストヴァンの踏み込みを阻止したのは、ダーンが差し出した長剣だった。

 その気配を察していなかったクリストヴァンが驚いてのけぞり、シルヴァは表情を強張らせつつ周囲の気配を探った。


「終わっちまったか」

 シルヴァが溜息とともに言葉を吐き出す。

「ええ。後はあなたともう一人だけです」

 ダーンがシルヴァの溜息を肯定する。

 シルヴァが長年率いて来た傭兵団が、たった今壊滅したのだ。


「なら、仇を討たねえといけねえな」

 そこに悲哀は存在しなかった。

 元々シルヴァと配下の傭兵たちとの間に、情によるつながりはなかった。

 傭兵たちには憧れを含む感情が存在していたかもしれないが、少なくともシルヴァ自身は情で縛られていたことはない。


 傭兵として名が売れたところで、敵と味方が集まりだした。

 傭兵団はそんな味方の集まりでしかなく、シルヴァが望んで結成したものではない。

 ただ、大きな戦でそれなりの待遇を期待する時、数はシルヴァにとって都合のいい条件を持ってきた。

 情はないが義理はある。

 何より目の前に現れた男に興味がある。

 シルヴァに引く理由はなかった。


「クリストヴァン。まだ休む暇はありませんよ。もう一人の傭兵の下へ向かってください」

「向こうは私以外の船長に、シーム殿が加わって戦っているのでしょう? 私はあまり集団で一人をいたぶるようなような戦いは好みではないのですが」

 ダーンの指示に、クリストヴァンが眉間にしわを寄せる。

 そもそもクリストヴァンにはまだシルヴァとの戦いを譲るつもりはなかった。

 たとえ負けが決まっているとしても。


「聞こえませんか? 戦いはまだ続いています。彼らをしてまだ終わっていない(、、、、、、、、、)のです」

 クリストヴァンは嵐を衝いて響く剣戟の音色が、たった一か所からのみ発せられいることに気がついた。

 それ以外のすべての場所には死の静けさが降り、それを嵐の喧騒が上書きしている。


「手負いのあなたが加わっても、討ち取るどころか抑えきれないかもしれません。ここは誰の死に場所でもない。私が向かうまで、誰も死なせないようにしてください」

 クリストヴァンは未練がましく一瞬だけシルヴァに視線を向けた。

 ここは誰の死に場所でもない。

 <海王>シルヴァは命を懸けるに値する相手だ。

 だがこの戦い全体の意義は、カーシュナーが目指すところからすれば低い。


 矜持と意義。


 この二つを秤に掛け、クリストヴァンは意義を選んだ。


「私の負けだ。<海王>シルヴァ。その二つ名は、永劫あなたのものだ」

 そう言うとクリストヴァンは深く頭を下げ、退いた。

「腕を固定してくれ。シーム殿たちの援護に向かう」

 頭を切り替えたクリストヴァンは部下に指示を出すと、次の戦場へと向かった。


 この場には部下を失ったシルヴァと、ダーンただ一人だけが残った――。









 それは紛れもなく戦いの舞であった。

 無駄な動きはなく、優雅とすら言える身の捌きで、イジドールは九つの死の刃の間を舞っていた。 

 ダーンに指揮されシルヴァ配下の傭兵たちを倒した船員たちだったが、船長たちを援護しようにも実力の差があり過ぎて戦いに介入する隙が見出せず、ただ戦いの周囲を取り巻くだけの傍観者に甘んじるしかなかった。


 それまでのイジドールも強かったが、船長たちに囲まれて以降のイジドールは、戦いに対する集中力が違った。

 独特の平静さが広い視野を確保し、多くの情報を処理することを可能にしていた。

 シルヴァからの指示もあり、他の傭兵たちの援護を考えなければならない状況では、イジドールの平静さは多くの役割をこなすのに非常に有用であったが、それは同時にイジドールに好奇心を優先させる余裕を与えてもいた。


 その余裕がイジドールに船長たちの集結を待たせるという行動を起こさせ、シーム側に最善の戦況を整える役割を果たした。

 状況的には追い込まれてしまったと言えるのだが、処理すべき情報も、好奇心の向く方向も整理されたことで、イジドールはその真価を発揮することになったのだ。


 始めにシームと船団一の巨漢であるバジリオが、イジドールの速度についていけず牽制役に回ることになった。

 速度に優れるルーシオとコルンバーノが主軸となって攻め込んだが、その見た目に反して力もあるイジドールの攻めに押し込まれ、優位を取ることが出来ない。

 ここにシルヴィーニョとメイントが左右から押し込むが、自分を囲もうとする船長たちの立ち位置を巧みに利用して挟撃を阻んでしまうイジドールの前に、二人はその力を十全に発揮することが出来ないでいた。

 そんな状況の中、エヴェルトンとギィが一点の隙を衝いて攻め込むが、イジドールはまるでその目が天上に存在するかのように攻撃を察知し、捌き、かわしてしまう。

 そんな船長たちを繋ぐようにドーラが動くことで何とかイジドールの反撃を防いでいるが、戦況は良くて五分。下手をすると呼吸の乱れ具合から見ると、わずかにだがイジドールの側に傾き始めていた。


(上手くないね……)


 まさかここまでとは想像していなかったドーラが、心の内で呟く。

 誰か一人でも今の動きを維持出来なくなればイジドールの反撃を生み、脱落者が出ればそのままなし崩し的に敗北する可能性すら見えて来た。


(誰も死なずに、なんて言ってられなくなってきたね)


 現状戦況は拮抗している。

 大きな一手を打つことが出来た側が勝利すると言ってもいいだろう。

 掛けられる命が一つしかないイジドールに対して、自分たちには九つある。

 始めに懸ける命を、他の誰かに求めるドーラではなかった。


 隙は生じていない。

 だからこそドーラは踏み込んだ。

 そうでもしないとイジドールの虚を衝くことは出来ない。


 隙ではないので当然イジドールは反応する。

 父親が何か叫んだが、ドーラの意識はその言葉を認識出来ない程目の前のイジドールに集中していた。

 鋭い刺突の連撃が三つ送り込まれてくる。

 これまでイジドールが多用してきた攻撃の一つだ。


(見切れるっ!)


 ほぼ同時に繰り出されたようにしか見えない刺突を、ドーラは三つすべて薄皮一枚斬らせるだけで捌き切って見せる。


(取ったっ!)


 反撃のために一歩踏み込み、お返しとばかりに鋭い突きを放つ。

 勝利を確信したその時、放った突きを潜り抜けるようにして、いきなり剣先がドーラの視界に飛び込んで来た。

 イジドールの攻撃は三連撃ではなく、四連撃だったのだ。

 しかも最後の一撃は、ドーラの反撃を読んだうえでその軌道上に滑り込ませるという周到さだった。


「……参ったね」


 ドーラが発したのはその一言だけだった。

 一瞬で死を受け入れ、迫るイジドールの剣先を無視し、自身の剣をイジドールに叩き込むことだけに集中する。

 その刹那の決断を正確に読み取ったイジドールは、思わず称賛に目を見張った。


 交差した両者の剣先は、しかしどちらの身体も捉えなかった。


 二人の間に割り込んだ人物によって、両者の剣が打ち払われたのだ。 


「無茶をする」

 割り込んだのはクリストヴァンであった。

 肩を砕かれ使い物にならない右腕は吊られた上で身体に巻き付けて固定してあり、顔色こそ悪いがその動きはまだ精彩さを保っている。


「シルヴァはどうしたんだい? 勝鬨かちどきは聞こえなかったけどさ」

 これに対してドーラは礼を言うのではなく皮肉を口にする。

「負けた。そしてダーン殿にお譲りした」

 その皮肉に対して、クリストヴァンは晴れやかに答えた。

「ここでも負けるつもりはない」

 そして表情を引き締める。


 この間にイジドールはちらりとだけシルヴァが乗る船の方に目を向けた。

 そこから発せられる百戦の気は、これまでイジドールが体感したことのない域に達していた。


「百戦不敗の気」

 イジドールは無意識のうちにその言葉を口にする。

 知識としては知っていたが、本当にそんなものが存在するかは疑問だった。

 あのシルヴァが発する百戦の気を体感した時も、そんな言葉は思い出しもしなかった。

 武勇伝を彩る創作でしかないというのが世間一般の意見でもある。

 今この瞬間まで忘れていた言葉が、不意に脳裏に浮かびあがった。

 イジドールはそういうことなのだと納得した。


「凄い人がいますね。これは急いであちらに行かなければなりませんね」

 それまでの集中から無言だったイジドールが、目の前の乱入者に話しかける。

「その必要はない。行かずともダーン殿はすぐにこちらに駆けつけられる。君は自分の心配をすることだ」

 シルヴァを想っての言葉と勘違いしたクリストヴァンが、イジドールの言葉に応えた。


「シルヴァさんはそんなに簡単ではないと思いますよ」

「知っている」

 イジドールの言葉に、クリストヴァンは自身の右腕に触れながら答えた。


「その上で断言する。君は自分の心配をするべきだ」

「説得力がありますね。ではご忠告に従い、皆さんに集中することにしましょう」

「素直でよろしい」 


 クリストヴァンを加えた一対十の戦いが始まった――。









(やけに息がし辛れえな)


 新たな敵を前にして、シルヴァが最初に感じたのがそれだった。


 嵐の到来と共に波は逆巻き、船は大きく揺れている。

 にもかかわらず、目の前の男は静かにそこにたたずんでいるように見える。


 静かで重い存在感。


 重圧が無意識にシルヴァの呼吸を浅くし、息苦しさを覚えさせていた。


(こんな感覚は、ガキの頃以来だな)


 自分が圧力で押し負けている。

 そう自覚したシルヴァは、満面に笑みを浮かべていた。

 口から大きく息を吸い、鼻から一気に吐き出す。

 ただそれだけで、シルヴァは自分を縛る圧力を撥ね退けてみせた。

 そして纏う空気が一気に変わる。


 これまでの人生で、負けを経験したことのない不敗の男は、過去最大級の重圧を前に覚醒する。

 纏う空気はダーンに並び、充実する気力が腹部の負傷を忘れさせる。

 そしてシルヴァは、真正面からダーンに斬り込んだ。


 渾身の一撃が固い感触を手の中に残して打ち払われる。

 驚きはない。

 自身に劣らぬその見事な体躯を持ちながら、自分をまともに打ち合えない方が逆に驚く。


 払われた剣を引き寄せる。

 間一髪。

 反撃の一撃を受け止める。

 重い一撃を間に挟みながら、視線を交える。


 静かな目だった。

 若干色味が薄いような気がするが、そんなことはどうでもよかった。

 怒りもなければ悲しみもない。

 戦いに対する高揚もなければ、圧倒的戦力差で蹂躙したことに対する愉悦もない。

 

 凪の海。仕事人の目だ。


 つい最近手を合わせたアデルラールとは異なる手応え。

 手が合うという意味では、シルヴァにとってはアデルラールの方が愉しめる相手と言える。

 だが身体の芯を振るわせる興奮は、目の前のダーンという男の方がはるかに上回っている。

 血が燃えだしたかのように士気が上がる。


 過去最高だっ!


 間違いなくこれまでの人生で最強の敵手に出会えたことに、シルヴァの心は歓喜していた。

 そして理屈ではなく悟る。

 アデルラールとの戦いは決着を見なかったが、この戦いは間違いなく生きるか死ぬかの答えが出る。

 強さを土台に生きて来た人生の意味にどんな答えが用意されているのか。

 今日その答えが得られると確信する。


 そんなシルヴァのたかぶりを完全に無視して、ダーンの前蹴りがシルヴァの腹部に襲い掛かった。

 そこは先程クリストヴァンの一撃を受けた場所だ。

 咄嗟に膝を上げて防ぐが、反応が一瞬遅れたため押し負けてしまう。

 開いた間合いに容赦なくダーンの斬撃が襲い掛かる。

 この一撃をシルヴァが力で払いのけると、ダーンはシルヴァの返しに対して透かすのではなく、真っ向から力で攻め返した。


 激しい剣戟が交差し、嵐を衝いて大気を振るわせる。

 ついには天が破れたかのような雨が降り出し、一瞬にしてすべてを水の膜に閉じ込めたが、二人が放つ剣戟の火花は、雨をも弾いて大気に咲き乱れた。


 もはや何合交わしたかもわからなくなったところで、シルヴァは更に圧力を加えた。

 これまで戦場でどれだけの敵を斬っても腕が重くなるなどということはなかったのに、一合交わすごとに腕だけでなく全身が重くなっていくのが感じられる。

 初めての感覚に、自分も一応人間だったのだなと、こんな時におかしな感想を抱く。

 普段は小枝でも振る様に扱う愛用の剣が、持っているのも苦痛に感じるくらい重い。


 だからこそ前に出た。


 疲労と苦痛にさいなまれる身体に喝を入れるために。

 割けた腹の痛みなど無視して、腹の底にすべての力を籠める。

 そして交差した剣を一気に押し込んだ。

 目の前の相手をはるか後方へ弾き飛ばすはずの攻撃は、しかし同質の力とぶつかり合い、その力をシルヴァ自身に弾き返した。


 そこに加わる力の量に反して微動だにしない両者は、至近距離で互いの瞳をのぞき込む。


(こいつ、俺の心を折りに掛かっていやがる)


 ダーンの瞳からその真意を読み取ったシルヴァは、それを侮辱とは受け取らず、ただ腹の底から笑った。


「お前みたいな奴がこの世にいたとはなっ! 傑作だっ!」

 一声吼えて再び笑う。

 それは獅子をも震え上がらせる力を秘めた笑いであったが、ダーンは取り合わなかった。

 波に揉まれる船体同士が衝突し合い、その力で両者の間合いが強引に開かれる。


(この俺を一つ下に見るとはな)


 面白かった。

 ただひたすらに面白いと感じる。

 限界まで力を振り絞ったのは、これが初めてだった。

 自分の力に自信は持っていたが、その限界を見たことはなかった。

 限界まで振り絞ってみて、自分自身で驚いた。

 ここまでの力が自分の中にあったのだと。


 だが目の前の男は、その力を受け止めてみせた。

 そして根競べで自分を負かそうとしていた。


 面白い。


 と同時に絶対に負けたくないという想いが増してくる。


 力の優劣を決めることは出来なかった。

 ならばこれまでの戦いで培った技術で優劣を決めればいい。

 結局は最後に立っていた者が勝者だ。

 これまでの人生がそうであったように、これからもそうあり続ける。


 シルヴァは目の前のダーンだけを見ながら踏み込んだ――。









 イジドールの舞は、ついに血の尾を引いていた。

 クリストヴァンが加わってなお、攻略の糸口は見出せず、イジドールの剣先が船長たちの肉体を捉え始めていた。

 クリストヴァンが万全の状態であれば結果は違ったかもしれないが、それを口にする者は一人もいない。

 誰もが血を流しながら、微塵も諦めずにイジドールに挑んでいる。


 イジドールに焦りはなかった。

 だが戦いの最中にあっても耳に届く、もう一つの戦場は気になっていた。

 それは集中の低下を意味するもので、さすがのイジドールもこれだけの相手を十人も前にしては、消耗とは無縁ではいられなかった。


 イジドールの剣は相手を捉えるようになっていた。

 だがそれは、イジドールの力が増したからではなく、相手が衰えたからでもなかった。 

 この状況で船長たちが、わずかではあるが間合いを詰めて来たからだ。

 イジドールの見切りは、それでも相手に反撃を許してはいない。

 しかしその見切りは、薄皮一枚を残すまでに追い込まれていた。


 その精度で見切りを行うイジドールが尋常ではないのだが、そこまでの見切りを見せつけられてなお、戦いを諦めない各船長たちの精神力は、イジドールの見切りに匹敵するものがあった。

 血を流しつつも連携はここにきて更に研ぎ澄まされ、イジドールに受けるために剣を使わせることで攻撃を封じることが多くなってきた。

 

 イジドールの息はまだ上がらない。

 それに対して船長たちの体力は、確実に限界に近付きつつある。

 だが、戦いの均衡はまだ揺れ動いている。

 傾き方はむしろシームたちへと向き始めている。

 集中力の落ちて来たイジドールが致命的な失敗をするのが先か、船長たちの誰か一人の体力が尽きるのが先か。

 勝負は状況を決する一歩手前にあった。


 この状況下で、シームは自分が均衡を崩す危険性が最も高いと見ていた。

 体力は未だに誰にも負けないと自負している。

 だが年齢による持久力の衰えは如何いかんともしがたかった。

 もともと敏捷性で劣っていた。

 上回っているのは純粋な力ぐらいで、それをぶつけさせてくれるような相手ではない。


 ここは誰の死に場所でもない。

 ダーンがそう口にしたとクリストヴァンから聞いた。

 この戦闘全体の意義から見れば、死ねば死んだだけ赤字になる。

 シームもカーシュナーの意を正確に酌み、犠牲を最小限に止めるべく戦っている。

 おそらくカーシュナーは、船長たちの誰かを失うくらいなら、不確定要素でしかなったイジドールは討ち取れなくても構わないと判断するだろう。

 シルヴァが主体となって動くことが、南部におけるファティマたちの行動に支障をきたす危険性が高かったのであって、目の前の純粋は剣士に策略家の危険は感じられない。


 シルヴァは必ずダーンが倒す。

 ここは手を引くことを考える場面と言える。

 船団の団長としてのシームが決断を迫る。

 だが同時に、戦士としてのシームが、ここで退くことの危険を訴えている。

 シームの選択は、その行動に現れた。


 踏み込んだのだ。


 ここまで守りのための牽制に徹していた。

 イジドールの間合いに踏み込めば、その速さに対応し切れず致命的な一撃を食らう可能性が高かったからだ。

 ダーンがシルヴァと戦っている間、イジドールに加勢に行かせないことが最重要となる。

 いかにダーンと言えども、シルヴァとイジドールの二人を相手にしては勝ち目がない。

 足止めは最低限の仕事であり、これをしくじることだけは出来ない。

 だからこそ、守りのための牽制に徹していたのだ。


 だが戦士としてのシームの本能が、一歩を踏み出させた。

 イジドールは戦略的な不安要素には成り得ない男だ。

 しかし、戦況がより絞られる戦術的状況下にあっては、その個人の武は間違いなく戦術的不安要素と成り得る。

 戦全体に勝っても、イジドールの個人的武勇によって万が一カーシュナーが討たれるようなことになれば、すべてが崩壊する。


 イジドールは味方にならない。


 そう判断した時、イジドールは将来的危険性から絶対に排除しなければならない存在と直感したのだ。


 シームの動きは独断だ。

 今この瞬間、危険を前にした本能が身体を動かしたのだから、他の船長たちと連携を打ち合わせるような時間は当然なかった。

 だがそのシームの動きに、実の娘は一瞬も遅れることなく対応した。


 背後から踏み込むシームに対して、イジドールの反応に遅れはない。

 だが同時に、シームに対して反応した真逆の位置からドーラが踏み込んでくる。

 これまでの攻防であれば、シームの牽制に対してイジドールも牽制を返し、踏み込んでくるドーラに即座に対応した。

 連携の時間差が大きければイジドールは即座に反撃し、その反撃を阻止するために他の船長たちが牽制ないし、次の踏み込みを行う。

 それを延々と繰り返してきた。


 だが、こんどのシームの踏み込みは深い。

 牽制でかわすことは出来ない。

 だがそれは同時に、その踏み込みに対して反撃する好機でもある。

 シームの踏み込みを危険と見て回避に専念するか、反撃の好機と捉えるかでこの後の流れが変わる。

 

 そしてイジドールが下した判断は、反撃だった。

 ドーラの動きも捉えている。

 シームにのみ対応していては、自分がドーラに討たれてしまう。

 ならば二人同時に相手をすればいい。


 イジドールはシームの一撃を捌きつつ、その前腕を刺し貫く。

 深く刺し過ぎて剣を奪われないように、わずかに突いたに過ぎないが、その腕が剣を持つことはもう出来ない。

 そして返す刀でドーラの斬撃を打ちかわすとその懐に飛び込み、体当たりで身体を浮かせ、その腿を貫いた。

 これも戦闘力を削ぐ程度の一撃に留め、イジドールは素早く離脱したが、脚を殺されたドーラは、もはやシーム以上に戦えない。


 ここしかない状況に陥ったことを悟ったクリストヴァンが踏み込み、その盾となるべく巨漢のバジリオが右に並んだが、イジドールは最後の集中力を発揮し、バジリオを無視するとクリストヴァンの渾身の踏み込みを掻い潜り、左肩を刺し貫く。

 そしてそのクリストヴァンの身体を盾にバジリオに接近し、左太腿を刺し貫く。


 だがそこに、バジリオの巨体を隠れ蓑にしてルーシオとコルンバーノが飛び込み、左右に分かれてイジドールを挟撃した。

 ルーシオはそれまで構えていた短剣の二刀の内一本を鞘に納め、手投げ剣を装備していた。

 その手投げ剣をイジドールの足を狙って投擲する。

 これを低く飛んでかわすイジドールに、コルンバーノが鋭い突きを放つ。

 低くとも宙に浮いた身体は自由が利かない。


 自身の喉元目掛けて突き進んでくる長剣に対してイジドールは自分の剣の腹を合わせると、これを力で押し退けるのではなく、逆に突きの勢いを支点にして上体をそらし、紙一重のところでコルンバーノの突きをかわして見せた。

 そして剣をそのまま滑らせて、浅くではあるがコルンバーノの身体を右肩から左脇にかけて斬り捨てた。

 その隙を衝いて懐深く飛び込んで来たルーシオに対しては、その長い脚で蹴るのではなく、踏み込んだその膝を台替わりにしてルーシオの短剣の間合いから逃れ、瞬時に身体を回転させ、弧の小さい回し蹴りでルーシオのこめかみを打ち抜いた。

 意識を刈り取られたルーシオが、死んだ魚のように甲板にその身体を投げ出す。


 船長たちの攻勢はこれで終わりではなかった。

 回し蹴りの着地を狙って踏み込んで来たシルヴィーニョに対し、イジドールは上半身だけの力で更にもう一回転することでシルヴィーニョの虚を衝き、二回転目の回し蹴りをシルヴィーニョの顎の先端に叩き込んで蹴り倒した。


 だがさすがにもう一回転は出来ずにいるところに、ギィが飛び込み、イジドールの胴を真っ二つにせんばかりの斬撃を叩き込んだ。

 回避のしようのないイジドールは剣を盾にこの一撃を受け、恐るべき勢いで甲板に叩きつけられた。

 受け身の取れない状態で叩きつけられたイジドールは、本来であれば肺の空気を叩き出され、一時的に全身の機能が麻痺するはずだった。

 だがイジドールは回避が不可能と判断するやいな、全身の筋肉を硬直させ、衝撃に備えていた。

 柔らかく受けなかったことで、その衝撃は内臓に達したが、全身の機能麻痺を力技で回避してみせたイジドールは、その優美な曲線を描く唇を血化粧で染めながら、下からギィの脇腹を刺し貫いた。


 甲板に倒れるイジドールに、最後に残ったエヴェルトンが恐るべき間合いから短槍を構えて飛び込んだ。

 それに合わせてギィが自身の腹を貫く剣を掴んでイジドールの反撃を阻止する。

 このたった一つの行動で、イジドールの行動は致命的な遅れをとった。

 飛び込んで来るエヴェルトンの短槍に対して、身を起こして回避する時間はなかった。


 エヴェルトンの短槍がイジドールの胸に飛び込む。

 だがその槍先は、甲板を深くえぐっただけだった。

 驚きに目を見開くエヴェルトンの顔のすぐ横に、イジドールの秀麗な顔が現れる。

 イジドールは腕、脚はおろか、腰、背中、首と、背面の力を総動員し、自身の身体を仰向けのまま一メートル以上も跳ね上げたのだ。


 エヴェルトンに反応するいとまを与えず、イジドールはその肘をエヴェルトンのこめかみに叩き込み、その勢いを使って最後の力を振り絞ってもう一撃イジドールに叩き込もうとしていたギィの顎を拳で打ち抜いた。

 腹にイジドールの剣を抱えたまま、ギィがぐらりと傾き倒れる。


 すべては一瞬の出来事であり、それまでの攻防のすべてを合わせても足りない程の濃度でもって戦いに幕を下ろした。


 ギィの顎を下から打ち抜いたその手は、まるで勝利を手にして振り上げられた拳の様に、嵐渦巻く黒天をさしていた。

 イジドールの意識が即座にシルヴァが戦う隣りの甲板へと向かう。


 その時――。


 天を指していたイジドールの腕を、一本のいしゆみの矢が刺し貫いた。


 それはここまで息を潜めて機会をうかがっていた最後の船長、ネスが放った決定的な一撃だった――。









 散る火の花は空中に咲き乱れ、乱舞する火花が散り落ちるように宙を流れていく。

 ダーンとシルヴァの二人は目まぐるしく立ち位置を変え、互いの剣を交差させていた。

 

 嵐の中で大粒の雨が顔を叩き、視界を塞ぐ。

 だが両者は、目を雨に打たれても瞬きすらせず、相手の一挙手一投足に集中していた。

 激しく揺れる足場は、本来立っていることすら難しい。

 にもかかわらず両者は、まったく体勢を崩すことなく戦っている。


 シルヴァはもはや何も考えていなかった。

 これまでの経験が培ってくれた肉体の反射にすべてを託し、時に受け、時に流し、そして剣を振るっている。

 もはや喜びすら感じない。

 それは心地よい無の境地。

 これまでただの一度も踏み込むことの出来なかった極限の戦いの舞台に、シルヴァは没頭していた。


 どれほど波が逆巻こうとも、どれほど風が唸ろうとも、シルヴァにとっては静かな時間だった。

 ただ剣を振るう。

 それだけに没頭出来ている。

 その静寂を邪魔するように、シルヴァの耳に歓声が飛び込んで来た。


(やられちまったか、イジドールのやつ)


 無の境地から現実に返る。

 

 付き合いでいえばこの船に乗った誰よりも短かった。

 思い入れを持つような長さではない。

 それでもこうして自分は目の前の敵からイジドールへと意識を向けてしまっている。


そういう趣味(、、、、、、)はなかったはずなんだがな)


 シルヴァは自分の唇が皮肉気に吊りあがったのを感じた。


(とうとう一人になっちまったか)


 今度はその唇が自嘲に歪むのを感じる。


(だが、まだ終わりじゃねえ)


(俺が全員殺せば、俺たちの(、、、、)勝利だ)


 無の中に欲が生まれた。

 それがシルヴァの踏み込みをわずかに深くする。

 大上段に掲げた長剣を、相手に叩きつける。

 これに対し、ダーンも手にした剣を大きく振りかぶり、シルヴァ目掛けて振り下ろす。


 両者の剣が目の前で交差し、互いの刃を食い合う。

 それまでの攻防よりもわずかだけ、シルヴァの剣には体重か乗っていた。

 無の中に勝利への欲が生まれたことで生じた踏み込みの力だ。

 これまでのように、力の均衡は生まれない。

 わずかな歪みが全体の均衡を崩し、すべてを変える。


 シルヴァは押した。

 微かな金属の悲鳴が耳につく。

 更に押す。

 悲鳴が更に大きくなる。

 崩れた均衡の歪みが一点に集中し、終わりを迎える。


 その瞬間シルヴァの剣は甲高い音を立てて折れ砕け、ダーンの一太刀がシルヴァを袈裟に斬り下ろした――。


「……ちっ」


 走馬燈とは異なる、この戦いに対するあらゆる感情が一瞬で巡り、意味はないとわかっていつつも、シルヴァは最後に何か一言残そうとした。

 だが割かれた肺に流れ込んだ血が邪魔をして言葉は生まれず、ただ舌打ちだけが残った。


 波のうねりに突き上げられた船体が大きく傾く。

 それまでどれほどの揺れであろうとも、平地に立つかの如く不動であったシルヴァの身体が大きく揺らぐ。

 傾きに足を取られ、まるで酔いどれのようにその身体は甲板の傾斜を下って行く。

 そのまま倒れないのは、死に体となった身体に残された不敗の男の本能だったのかもしれない。


 波が揺り返し、船体の傾きを変えたが、惰性のついたシルヴァの身体はそのまま船縁まで進み、波の突き上げにすくい上げられるように船縁を乗り越えた。

 その視線は自分を倒したダーンではなく、何故か短い付き合いの、だが相棒と呼ぶに値する見た目の良い男を探していた。

 瞬間その目は隣の甲板に膝をつくイジドールの姿を捉えたような気がした。

 だが次の瞬間には、その視界は暗い海の中に沈み込み、何を見たのかを曖昧にさせた。


 不敗の男は敗れ、そして海へと去った――。









「……見事です」

 右腕を貫いた太い弩の矢に目を落としながら、イジドールは呟いた。

 船は十隻。

 この場に十人が集っていたことで、イジドールはもう一人船長がいる可能性を失念していた。

 戦いの始めに女性の声が指揮する一隻に、商船から脱出した水夫たちが討たれたことを確認していたにもかかわらず、イジドールは極限まで追い込まれる戦いに没頭するあまり、ドーラ以外にもう一人、女性の船長が存在することを忘れてしまったのだ。


「仲間が次々と倒れ、追い込まれていく状況の中で、最後まで身を潜ませ続けた。見事としか言いようがありません」

 イジドールはもう一度、自分の腕を弩という大掛かりな装置で見事に射抜いた敵を称賛した。

 機会はこのただ一度だけだっただろう。

 これより早くても、これより遅くても、イジドールは弩による狙撃を回避出来たと確信している。

 難敵を倒した安堵、そこからシルヴァと、その敵である存在に対する興味に意識が隣りの船へと離れた。

 それは一瞬しか存在しなかったイジドールの油断であり、完璧と思える強さを誇ったイジドールに残された唯一の未熟さだった。


 まだ終わってはいない。

 シルヴァが勝ち、合流出来れば、どれ程傷が深かろうと、二人であればイジドールたちは勝てると確信していた。

 致命傷は負わせてはいないが、手強い船長たちは全員その戦闘力を大きく削いでいる。

 配下の船員たちも腕の立つ者が多いが、剣士としての格そのものが違う。

 自分とシルヴァの二人の前では敵ではない。


 逆転に向け、最後に残った船長を倒すべく、移動を開始しようと立ち上がりかけたその時、シルヴァの巨体が船縁を乗り越え、まるで折れた帆柱が海に落ちるように暗い水面に呑み込まれるのを見た。

 意思に反してその身体は、別の方向へと移動を始めていた。

 その目はシルヴァが沈んだ一点に固定され、周囲を見ようとしない。

 気づいたときには腕に刺さった弩の矢もそのままに、シルヴァ目掛けて甲板を走っていた。


 イジドールはそんな自分の行動を、まるで魂を身体から押し出されたかのように、客観的に眺めていた。

 こんな無防備に走っていたら、次の一矢をかわせないのにな。

 そう思う頭とは裏腹に、その身体は最短距離で甲板を走り抜け、海へと飛び込んでいた。

 飛び込む瞬間、イジドールは一瞬だけ射手の方に視線を向けることが出来た。

 弩は回頭され、無防備に空中に飛び出した自分の身体を真っ直ぐ捉えていた。


 これは駄目だ――。


 観念するしかなかった。

 この一撃は回避不能。

 間違いなく心臓を射抜かれ、即死だ。

 

 だが、イジドールを死へといざなう痛みは訪れず、次の瞬間には全身を海の冷たさが包み込んだ。


 見逃されちゃった――。


 情けを掛けられたことに対して自嘲の笑みを浮かべながら、イジドールの身体も海の暗がりに溶け込んでいった。

 

 戦いの結末は、ただ海だけが知るところとなった――。









「ネスッ! ようやったっ!」

 脚を負傷した娘に肩を貸しながら、シームはこの戦いの功労者である女船長に労いの言葉を送った。

「さっさと離脱する必要がある。指揮は執れるかい?」

 それに対して返って来たのは、ネスのどこまでも現実的な言葉だった。


「撤収しますっ! ネスは商船の鹵獲の指揮をっ! 各船は可能な限り人手を割き、海中に没した二人の捜索をするようにっ! それ以外の者は負傷者を回収の後この場から順次離脱っ!」

 そこにダーンの指示が飛ぶ。

 疲労困憊している上にイジドールの一撃を受けたシームと船長たちに、その後の指揮を執るだけの体力はなかった。

「任せとくれっ! 野郎共っ! もうひと踏ん張り頼むよっ!」

 指示に応えてネスが声を上げると、他船の船員たちも大声で応えた。


 撤収作業は迅速に進んだ。

 十隻の船団の後ろには、証拠を残さないために鹵獲したクロクスの武装商船三隻が続く。

 結局シルヴァも、イジドールも、どちらも海から引き上げることは出来なかった。

 まるで海が手に入れた宝物を奪われまいと荒れ狂い、ダーンたちの手からシルヴァとイジドールを隠してしまったかのようだった。


 陸までは、波がなくても泳ぎ切るのが難しい距離だ。

 それでなくとも大きく海が荒れている。

 最短で陸に近づいても岸には鋭い先端を持つ岩礁が並び、波に揉まれた人の身体など簡単に細切れにしてしまう。

 助かる術はなった。

 特にシルヴァは。


 ここに目的は果たされ、カーシュナー私設船団は帰還したのであった――。

 連休の初日に間に合って良かったです。


 本当はこだわりの17時台に投稿したかったのですが、生憎今日は土曜出勤だったため、誤字脱字の確認等が間に合いませんでした。


 次回もなるべく早くお届け出来るように頑張りますので、お付き合いいただければ幸いです。

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