アナベルの決意
ゾンにおける戦の基本は歩兵戦闘にある。
ヴォオスでは騎兵が主軸となるが、馬には過酷な環境であるゾンでは騎兵は少ない。
馬ではなく駱駝部隊が主な機動部隊となるが、その数はヴォオスの騎兵勢力には遠く及ばず、主軸ではなくあくまで遊撃戦力として用いられる。
それはゾン南部へと向かうゾン中央軍も変わらず、歩兵を主軸とした二万の軍勢は、ゆっくりとではあるが、確実に南部との境を超えた。
中央軍の指揮を任されたセリーム将軍は、ヤズベッシュに見出された反メティルイゼット勢力のゾン軍人で、なかなかに優秀な将軍だった。
中央の有力貴族の出身であったが、子宝に恵まれた過ぎた結果家からの支援はほぼなく、自力でゾン社会をのし上がらずを得なかった苦労人でもある。
平均的なゾン人よりも一回り大きなその身体は強靭であり、従う兵士たちの士気を引き上げるだけの説得力がある。
そのおかげか、セリームが率いる第一軍の足取りは軽かった。
「メティルイゼット王子が負傷したのは事実でしょうが、あのカーディル王子までが退けられたというのは本当でしょうか?」
参謀の一人がセリームに問いかけた。
士気の高さと気の緩みは別物なのだが、メティルイゼット王子の敗退という結果に怯えて黙り込むより、軍内の空気を軽くするくらいの軽口はむしろ行軍の足を速める効果があるだろうと判断し、セリームは副官の軽口を黙認した。
「どうかな? そもそもメティルイゼット王子の負傷も、十人にも満たない兵の特攻で負ったという噂だ。奴隷や平民の特攻が、メティルイゼット王子の精鋭部隊を本当に切り崩せると思うか? 大方南部攻略で油断し過ぎて、不名誉な理由で負傷されたのだろう。それを隠すためにカーディル王子も巻き込まれたに過ぎんのではないか? カーディル王子は腕は立つが頭の方はアレだからな」
自国の王子を評するにはあまりにも不敬な言葉だった。
だがその言葉を聞いた副官も、声をあげて笑う。
ヤズベッシュを筆頭とした中央貴族派に属する軍人ではあるが、彼らも中央貴族の出身だ。
メティルイゼット王子が有能であることは認めるが、その有能さの上から他人を見下すメティルイゼット王子の在り様は腹立たしく、見下される者の内心を一顧だにしない強さを、彼らは憎んでいる。
利益や忠誠心とはまた別の理由から、彼らはゾン軍にありながら、メティルイゼット王子ではなく宰相ヤズベッシュに従っていた。
セリームの軍は旧アブサラーの中心都市であったバルケシルへと向かった。
現在ではバルケシルは南部におけるゾン軍の軍事拠点と化している。
デニゾバ軍と中央貴族の部隊による破壊と略奪により、今でもバルケシルは廃墟然としており、この地に派遣されたゾン兵たちからは、野盗の隠れ家と揶揄されていた。
バルケシルに到着するとセリームはさっそく軍事会議を開いた。
この時点でゾン軍が得ていた情報はひどく曖昧なものだった。
先に兵を向けたメティルイゼット王子による調査報告が一応ゾン軍中枢に挙げられていたが、メティルイゼット王子自身も奴隷解放組織を甘く見ていたこともあり、その報告の内容はあまり役に立つものではなかった。
<神速>の異名を持つメティルイゼット王子の用兵は、敵に対応する暇を与えないことで圧倒することが基本となっている。
初動の早さも際立っており、即断即決で行動に移ることが多い。
多くの場合その早さで押し切ることが出来るのだが、今回のように戦いに敗れると、事前の諜報不足が浮き彫りになる。
ひとしきりメティルイゼット王子の不手際を罵ると、会議はようやく本題に入った。
「反乱を起こした奴隷たちが、旧デニゾバ領のファルダハンを攻め落としたという情報は確かなようだが、それ以降の情報が錯綜している。中には旧キャヴディル領の中心都市であったディスタスまで押さえられているという報告も入ったばかりだ」
セリームが馬鹿馬鹿しいとばかりに首を振る。
「ディスタスという情報は何かの間違いでしょう。南部との境に規模の大きな野盗団が出没するようになったことで、事態をすべて一つのように考えてしまっている者が多く見られます。嘆かわしいことですが、ゾン人は得てして物事を大きく膨らせてしまう悪癖があります。反乱と野盗はしっかりと分けて考え、まずは反乱被害の実態を正確に掴むべきかと思います」
参謀の一人が意見を口にし、他の参謀たちも大きくうなずいた。
「ではまず偵察部隊を編成して各地へ向かわせる。本隊は情報の真偽を確かめる意味でもディスタスまで進める。奴隷共に出来るのは奇襲くらいだが、それを侮ってメティルイゼット王子は大恥をかくことになった。兵を束ねるお主らはもちろん、配下の歩兵一人一人に至るまで、油断のないように徹底するように」
今後の方針をセリームが決める。
その後は参謀たちが偵察部隊の編制及び派遣経路を決め、翌日早朝に偵察部隊はゾン南部の各地へと散っていった。
そしてさらに日を置いてその三日後。セリーム率いるゾン中央軍はバルケシルを発った。
彼らは知らない。
偵察部隊が拠点を離れる前に、その動向を奴隷解放組織に知られてしまっていたことに。
腰を据えての戦いと考えているセリームが、装備と糧食をしっかり整え、将兵の疲れをとることに時間を費やしたのは間違いではない。
むしろ奴隷である歩兵の扱いが悪いゾン軍においては異例の処置とも言えた。
だが、その行動のすべてが遅かった。
メティルイゼット王子ですらその実態を掴み切れていない相手の実力を、セリームは低く見積もり過ぎていた。
彼はその代価を、これから多くの血で支払うことになる――。
◆
「いかがでしょうか?」
作戦会議の席で、ファティマはつい問いかけてしまった。
相手はリードリットだ。
「良いのではないか?」
問われたリードリットは何の含みも持たない答えを返したが、その背後に控えるアナベルから、視線で叱責を受けてしまった。
その意味を読み間違えるファティマではない。
自分でも問いかけてからしまったと反省していた。
ファティマはこの軍の大将であるだけでなく、奴隷解放組織全体の長だ。
意見を求め、それに耳を傾けるのはいいが、決断を他者に委ねてはいけない。
先程のファティマの問いは、意見を求めるというより、確認を取る意味合いが強かった。
かつてその背中から学んだ偉大な女王を前にし、ファティマは一瞬ではあるが赤玲騎士団員だったころの自分に戻っていた。
「地図も見事だが、その読み解き方は一流の軍師のそれだ。しばらく見ぬ間に育ったのは、その美貌だけではないようだな」
ファティマとアナベルの無言のやり取りにまったく気づかないリードリットが、男前の笑みを浮かべててファティマを褒めた。
見てくれだけが男前の男たちよりはるかに男前なリードリットの笑みとさりげない誉め言葉に、ファティマは思わず頬を赤らめてしまった。
その様子をセレンとエミーネが面白くなさそうに眺めている。
カーシュナーを助け、奴隷解放組織に合流したリードリットとアナベルを見て最も驚いたのは、二人の素性を知るファティマだった。
ここまで男の振りをして旅をしてきたリードリットとアナベルであったが、女性の地位向上を謳い、女戦士が主軸を務める奴隷解放組織にあって性別を偽るのは、彼女たちの志に対して嘘をつくに等しい。
さすがに身分を告げるわけにはいかないが、リードリットとアナベルは男装をやめ、リードリットは名をリーとし、アナベルはそのまま本名を使っている。
もっとも、先代ヴォオス国国王リードリットと、その側近であるアナベル将軍だと告げても誰も信じなかっただろう。
ファティマもそのあたりは心得ていて、二人に話を合わせているが、赤玲騎士団員だったころの癖が思いのほか身体に残っており、気をつけていても表に出てしまうのだ。
カーシュナーから事の顛末を聞き、力を貸してもらえると知ったとき、ファティマは柄にもなく感情を露に歓喜した。
冷静沈着で、常に周囲の精神的支柱であったファティマが見せた幼い少女のような喜びに、セレンやエミーネはもちろん、ボラやリュテたち三姉妹も驚いた。
それどころかあのカーシュナーが頭が上がらず、ダーンやミランたちまでが敬意をもって接している姿を見て、いったいどこの大人物かと思った。
「どこの誰かがそんなに大事か? それをお前たちが言うのか?」
素性を問われて返されたリードリットの言葉に、セレンたちはハッとさせられ、変にこだわり尋ねた自分たちを恥じた。
「ここで必要なのはお主らの思想を理解出来るかということと、腕っぷしだけであろう。私のことを知りたいというのなら、存分に教えてやる。剣を取るがいい」
そう言って差し出されたリードリットの手に、アナベルが自分の剣を渡す。
リードリット特製の剣が相手では、普通の長剣ではすぐに使いもにならなくなってしまう。アナベルが自分の剣を差し出したのはそのためだ。
剣を手にした直後、リードリットの纏う空気が変わる。
意識せずとも放たれる王者の威が、その場のすべての人間を圧する。
踵が地面を擦る音を聞き、ファティマは初めて自分が一歩退いていたことに気がついた。
そしていきなり空を仰ぐことになる。
いつの間にか背後に回り込んでいたカーシュナーに膝カックンをされたのだ。
「ビビっているのか?」
挑発の言葉は単純だった。
だがカーシュナーが口にすると、無性に腹が立つ。
言葉の矛先を向けられた内の一人であるセレンは、自分も無意識に一歩退いてしまっていた羞恥もあり、カーシュナーの挑発にあっさりとぶち切れ、剣を抜いた。
すかさずカーシュナーはリードリットとセレンの中間地点に立ち、
「始めっ!」
と言って片腕を振り上げた。
結果は語るまでもない。
体格的にほとんど差のない両者であったが、実力の差は大人と子供どころか、天と地ほどの開きがあった。
エミーネも挑むが結果は変わらない。
ダーンの指導を受け、さらにその実力を伸ばしたセレンとエミーネの二人であったが、ダーンとも異なるリードリットの強さの前に手も足も出なかった。
もっとも二人が実力をすべて発揮出来た上での結果ではない。
初めてさらされるリードリットの王者の威に身体が縮こまり、実力の半分も出せなかったのだ。
そのことを二人は言い訳にしなかった。
戦場では実力が出せなかったから負けたのだなどという言い訳は通らないことを理解しているからだ。
過程がどうであろうと、負ければ死ぬのが戦場だ。
死んでからでは言い訳を口にすることも出来ない。
「ずいぶんと腕を上げましたね」
カーシュナーが少し砕けた口調でリードリットを褒める。
元々立場を考えなければならないような場でない限りは不敬罪に問われかねないような言動を繰り返してきたカーシュナーだが、不思議と国王として立てなくてもよくなった今でも言葉使いにはどこか丁寧な部分が残っている。
それはカーシュナー自身意識していないことだが、リードリットの即位後の働きに対してそれまでなかった敬意を抱くようになったからだった。
「根性曲がりや仏頂面、モテ男にも稽古をつけてもらったからな」
「その三人ですか。俺はやりあいたくないですね」
名前を言わなくても誰のことを言っているか理解したカーシュナーが本気の苦笑いを浮かべる。
シヴァ、オリオン、レオフリードの三人は、甲乙つけがたい、ヴォオスきっての実力者だ。
カーシュナーをしてこの三人が大陸の上位三人であると考えている。
「この者たちもよく鍛錬しているのが見て取れるが、正直もの足りん。カーシュ、相手をしろ」
「おや、ご指名ですか」
話の向きが変わったことにファティマたちは気がついた。
ファティマたちが気がつくくらいだ。二人のおつきであるアナベルとダーンが気がつかないわけがない。
「はい、はい。今日はここまでです」
割って入ったアナベルが、言いつつリードリットの手から自分の剣を回収する。
「駄目です」
アナベルよりも直接的だったのはダーンだった。
「こらっ! 二人とも邪魔をするでない」
「久しぶりに会ったんだ。お互いの実力の確認のためにも、一戦くらいいいだろう?」
リードリットとカーシュナーの二人が抗議を口にするが、アナベルもダーンも頑として譲らない。
「間違いなく本気の喧嘩になるので駄目です」
「普段は冷静なのにリーが相手だとすぐムキになりますからね。お二人の喧嘩は止めるのが大変なんです。はっきり申し上げますが、迷惑なので自重してください」
これまでさんざんヴォオス王宮の練兵場でやらかしてきた実績があるだけに、リードリットもカーシュナーも反論出来なかった。
そんなこともあり、リードリットの存在は早くも奴隷解放組織の中で特別なものになっていた――。
「セダートとレジスはどうしようか?」
アナベルに微妙に叱られたファティマを気遣って、ラニがファティマに確認をする。
ちなみにセダートとレジスは都市での訓練で千人長となったゾン人と西方諸国出身の二人の若者のことだ。
カーシュナーはこの時既に奴隷解放組織を離れて自身の活動に戻っており、合わせてミランを筆頭とした兄弟子たちもこれに続いたため、戦術の立案はファティマとラニの二人が担っている。
「隣接させておいた方が良いでしょう。訓練でも彼らの隊は連携が取れていました。千の力を二つで運用するよりも、二千の一つの力として運用出来る方が戦局を大きく動かすことが出来ます。他の部隊とではそこまでの連携はまだ難しいはずですから」
千人の部隊をそれぞれに運用する利点はあるが、二千の連動する部隊が持つ攻撃力は千の部隊を二つ並べるよりもはるかに高い。
戦術に組み込めるだけの安定した攻撃力を敢えて割くことに利点はなかった。
「何か心配な点でもあるのですか?」
それでも難しい顔をしているラニに、ファティマが問いかける。
「二人の部隊の攻撃力はあたしも頼りにしているんだけど、ここまでの戦闘で、どうも焦りというか、功に逸るところが見られるんだよね」
ラニはこれまでの生産都市攻略戦を思い返しながら答えた。
「ここまでは戦略的に勝利条件を整えたうえでの都市攻略戦だったから、大きな問題にはならなかった。でも次の戦いは、正面からやりあう初めての大規模戦闘になる。そりゃあ情報戦を制している時点でうちらは相当優位に立っているし、負ける要素なんてないって言い切る自信がある」
ラニはそこでいったん言葉を切り、軍師としての顔をファティマに向ける。
「でも、戦術に組み込んでいる二千の部隊にコケられると危うくなる。向こうはこっちの位置や戦力を知らないから、第一軍の戦力のまま進行してくれているけれど、戦術が上手くハマらなくて、戦闘が万が一長期化することになれば、こっちの情報を得たゾン軍は無理をしてまで戦わず、撤退して戦力を整える可能性が出てくる。それで負けるとは思わないけど、よい大きな軍に腰を据えて戦われたら、こちらの被害も大きくなる。解放した都市の奴隷たちの戦闘訓練を行っているけど、人材の補給に関しては、奴隷を使い捨てに出来るゾン軍に対して、あたしたちは遠く及ばない。この戦は今後に大きく影響する。不安要素は極力排除したいんだよ」
ラニが不安に感じている点を理解したファティマは、ラニ同様判断に迷った。
「方針に口を挟むつもりはないが、協力しないと言っているわけではない。その二部隊に不安を感じているというのなら、私が後方で目を光らせてやろう」
迷う二人にアナベルが提案する。
「私たちだ」
そしてその提案をリードリットが修正する。
「リー。私一人で十分です」
「そうか? 一応あやつにこの軍の面倒を頼まれている手前、別行動をするのなら、私は私で好きにさせてもらうぞ?」
アナベルの言葉にリードリットがニヤリとしながら答える。
「そうですね。二部隊が分かれて窮地に陥る可能性もありますから、やはりリーにも同行していただきましょう」
一人で野放しにする危険性を察知したアナベルが、あっさりと前言を覆す。
アナベルだけでも十分のところに、個としての戦力においては奴隷解放組織の中でも飛びぬけているリードリットが戦況に目を光らせてくれるという状況を計算したラニは、当初の作戦通りに進める決心をした。
「くれぐれもお力を見せ過ぎないようご注意ください。ゾン人は基本怠け者です。大きな力がすぐそばにあれば、力を出し惜しみます。一人一人が目的意識をもって戦わねば、ゾンは結局変わりません。何より、まだあなたの存在をゾン軍に印象付けたくありません。この戦は、ゾンを変えるための戦いの一歩目に過ぎないのですから」
アナベルの提案を受け入れたファティマも、リードリットに対して釘をさすことは忘れない。
「安心なさい。私が目を光らせておきますから」
ファティマの言葉に、アナベルが笑みを浮かべて答える。
それだけでファティマとラニの中から不安は完全に消え去った――。
◆
「俺の部隊とお前の部隊で掛かれば、不意を衝かれたゾン軍なんて敵じゃねえよ」
これから戦が始まろうという時に、自信をみなぎらせて言い切ったのは、千人長のセダートだった。
ゾン人としては大柄なセダートは、これまで身体が大きいということもあって重労働に従事してきたが、そのおかげもあって身体の基礎が出来ており、奴隷解放組織に合流してからは短期間で一人前の戦士に成長していた。
その自信も、見る者に納得させるだけの説得力がその肉体にはある。
「僕たちの部隊は期待されているからね。しっかりと応えよう」
セダートの言葉にそう答えたのは、もう一人の千人長であるレジスだった。
レジスは西方諸国の出身で、奴隷の子として生まれ、奴隷の人生しか知らないまま奴隷解放組織に合流した。
国は違えど同じ境遇の中を生き延びたセダートとはすぐに意気投合した。
上背はあるが、栄養不足で線の細かったレジスは、何かと世話を焼いてくれるセダートを兄のように慕い、一歩前を行くセダートの背を追って必死に努力し、千人長にまで成長した。
無意識に緊張を忘れようと言葉を交わす二人を、アナベルは将軍の目で観察していた。
大戦は初めてでも、ここまで都市攻略戦を経験していたこともあり、極端な緊張がないのは良いことだった。
また、互いを信頼し合っていることがその横顔からでもわかる。
並べて運用するのは正しく、欲をかき過ぎさえしなければ用兵を誤ることもなさそうだった。
「思い通りにいかんのが戦場だ。そして、失敗してほしくない場所に限って間違いが起こる。戦場に絶対はない」
セダートとレジスを一瞥したきり軍全体に目を向けていたリードリットが、アナベルの懸念を見透かすように語る。
「戦闘経験はゾン軍の方がはるかに上です。また、奴隷の集まりであるこちらの戦闘経験が少ないことは、情報がなくても承知しているでしょう。揺さぶりに乗り、戦線を崩してしまう可能性は高いでしょうね」
これに対し、アナベルは既に起こるであろう事態を予測していた。
「向こうのセリーム将軍はそれなりに優秀と聞く。まずはお手並み拝見といったところだな」
ニヤリと笑うリードリットに対し、アナベルは笑みを浮かべぬまま無言でうなずいた――。
◆
「まずいっ! まずいっ! まずいぞっ!!」
焦りに満ちたセダートの声が戦場の喧騒に呑み込まれる。
「本隊の方向もわからなくなったっ!」
悲鳴のような声を上げたのはレジスだ。
二人の部隊はゾン軍の包囲の輪の中に、完全に閉じ込められていた――。
旧キャヴディル領のディスタスを目指していたゾン軍は、そのはるか手前で奴隷解放組織の部隊と遭遇し、予期せぬ形で戦いに突入することになった。
ゾン軍を率いたセリーム将軍には知る由もなかったが、ディスタス方面に出されていた偵察部隊には奴隷解放組織の密偵が含まれており、偵察部隊は既に捕らえられ、セリームには操作された情報が届けられていたのだ。
予想外の遭遇であったが、敵の軍勢はせいぜい五千といったところだった。
遭遇が予想外だったのは敵も同様で、ゾン軍の存在に気がつくと装備品や糧食を捨て、慌てて逃げ出した。
約五千もの部隊の存在を偵察部隊が報告しなかったことに不審なものを覚えたセリームであったが、算を乱して目の前を走る敵部隊を逃がすまいと、全軍に突撃を命じた。
五千の部隊の撤退ではなく、素人丸出しで逃げるその後ろ姿に、追うゾン兵は勢いを得て、全力でその背を負った。
装備類を捨てている分奴隷解放組織の足は軽い。
なかなか追いつかないが、気力で勝るゾン兵は少しずつその距離を詰め、一人一人が追いつけることを確信するまでに迫った。
それはもはや戦闘ではなく、ゾン軍得意の奴隷狩りの様相となっていた。
整備された街道筋から外れ、風に削られ風化した奇岩が並ぶ地帯に差し掛かる。
複雑な地形に逃げ込み振り切ろうと考えたのであろうが、そのためには五千という数字は大き過ぎた。
開けた地形であったおかげで出せていた速度が鈍り、最後尾の背中がはっきりと見分けられるまでに距離が縮まる。
セリームが敵指揮官の無能に対して嘲りをその頬に浮かべた時、奇岩の背後から奴隷解放組織の伏兵が姿を現した。
整然と追うのではなく、勢いに任せて走っていたゾン軍は、個々の能力差がそのまま形となり、長く伸びてしまっていた。
その側面を左右から挟み込むように、奴隷解放組織の伏兵左右合わせて一万の部隊が襲い掛かった。
ゾン軍はど真ん中で分断され、混乱の極に達する。
不幸は重なるもので、偶然にも軍中央を進んでいたセリーム将軍は、この混乱に巻き込まれることになった。
ここからの巻き返しは不可能。
軍の半数を捨ててでもこの窮地を脱し、陣容を立て直さねば反撃すらもままならない。
セリームは味方の歩兵をも薙ぎ倒し、必死で元来た道を引き返そうとした。
歩兵が主体のゾン軍にあって、士官は移動に駱駝を使っている。
おまけに虚栄心の塊のようなゾン人の将軍は、装備を飾ることが多い。
混乱するゾン軍にあってひときわ抜きん出たその存在に、挟撃部隊に配属されていたセダートは気がついた。
ここで敵大将を討てれば、一気に戦いが終わる。
そして敵大将はその顔かたちが見て取れるほどの距離にいる。
セダートはけして功名心に逸ったわけではなかった。
ここで勝ちを決めれば味方の被害を大幅に抑えることが出来るという考えが脳裏をよぎってしまったのだ。
「レジスッ! 敵の大将がいるっ! 追うぞっ!」
結果から見れば不幸であたのだが、この時即座に連携が出来るレジスが声の届く範囲にいたことを、セダートは幸運と捉えてしまった。
セリームを追うのに絶好の位置にいたこともその背を押した。本来であればゾン軍中央を分断し、包囲したゾン軍を殲滅することが任務であったが、両部隊は戦況が奴隷解放組織が圧倒していることを見て取ると、その場を離れて撤退する残りの半数のゾン軍を追った。
実際セダートとレジスの二部隊が抜けても当初の作戦は問題なく遂行され、ゾン軍の約半数は壊滅した。
撤退しつつもセリームの頭はしっかりと回転していた。
また、軍の後方にはセリームの幕僚たちが全員いたこともあり、罠にはまって敗れたうえでの撤退ではあったが、その指揮系統はしっかりと機能していた。
セリームは追撃を掛けて来た敵部隊が、自分を狙って追っていることを理解していた。
死の瀬戸際に追い込まれているという事実も理解していた。
その上で、セリームは焦らず自身を救う策をひねり出した。
撤退しつつの急場の策であったが、セリームの幕僚たちは良く応えてみせた。
わかりやすい目印になっているセリームは装備を解くようなことはせず、自らを囮としてセダートとレジスの意識を自分に集中させた。
その間にゾン軍の先頭は弧を描くように旋回し、犬が自分の尾を追うように、セダートとレジスの部隊後方に食らいついてみせた。
追っているはずがいつの間にか追われている。
本来視野の広い二人であったが、状況に対する思い込みと、敵大将であるセリームに集中し過ぎていたこともあり、撤退しつつも変化していたゾン軍の動きをまったく捉えることが出来なかったのだ。
セダートとレジスの部隊からすれば、いきなり敵が背後に湧いて出たように映った。
動揺と混乱が瞬く間に両部隊に広がる。
そしてそれを見逃すセリームではなかった。
急停止すると直ちに兵を返し、追ってきた奴隷解放組織の二部隊に襲い掛かった。
敗れて半数の兵力を失ったとはいえ、まだ一万の戦力が残っている。
二千の部隊を完全に包囲するには十分な数字だ。
五倍もの戦力に囲まれてしまったセダートとレジスの部隊に逃げ道はなかった。
罠に掛けられ敗れたゾン兵の復讐心が一気に燃え上がる。
必死に抵抗を続けるセダートとレジスの部隊であったが、復讐に燃えるゾン兵の士気は高く、包囲突破に糸口すらも見出せない。
「脱出は不可能だっ! せめて敵の大将首を上げて、仲間たちの助けになろうっ!」
覚悟を決めたレジスがセダートに呼びかける。
「俺の責任だっ! 敵の大将は俺が何とかするっ! お前の部隊だけでもここから脱出してくれっ!」
まさかこんな結末が待っていようとは想像すらしていなかったセダートが、叫び返す。
「一人でどうにかなるわけないだろっ!」
自責の念に押し潰されているセダートに、レジスが珍しく怒鳴り返す。
「一人が二人になろうが、何も変わらぬわっ!」
そこにゾン軍の部将が怒声を張り上げ現れる。
前に出ようとしていたセダートであったが、セリームの首を狙うどころか自分の首を守るのも危うい状況に追い込まれてしまった。
これを見たレジスが助けに入ろうとするが、レジス自身も手ごわいゾン軍の部将に阻まれ駆けつけることが出来ない。
状況は絶望的だった。
セダートもレジスも、両部隊の誰もが絶望に呑まれ諦めかけた時、包囲の外側に動揺が走った。
「敵は騎兵といえど千人にも満たない少数だっ! こいつら同様取り囲んでしまえっ!」
セダートとレジスが何事かと思うと同時にセリームの指示があたりに響き渡る。
その言葉に、一瞬湧きかけた希望がすぐに呑み込まれてしまう。
セダートとレジスの部隊を救出に現れたのは、わずか五百の駱駝部隊だった。
これを見たセリームの言葉は、状況と対処を的確に言い表していた。
自分たちの失態がさらに五百人もの仲間を死に追いやることになったと知り、セダートとレジスは絶望を深くする。
だがこの少数の敵を、ゾン軍は呑み込むことも、ただの一瞬も足止めすることが出来なかった。
先頭を走るのは、駱駝ではなく珍しい馬を駆る二人の騎士。
ゾン兵の誰一人として、この二騎を止めることが出来ない。
「諦めている場合かっ! 戦えっ!」
先頭を走っていたのはリードリットとアナベル。
そして怒号を上げたのはアナベルであった。
一軍を指揮する者の声には力がある。
セダートとレジスの部隊は、その声で尻を蹴り上げられたかのように気力を奮い立たせた。
愛剣を鞘に納め、珍しく槍を手にしているリードリットは、周囲に群がるゾン兵を、吼えるでも猛でもなく、無言無表情で突き殺していった。
アナベルから目立ち過ぎないように注意を受けていたため、本人的には目立たないようにしているのだが、その強さも相まって、不気味なことこの上ない。
「アナベル。お前がやれ」
セダートとレジスの部隊を救い出すにはゾン軍の包囲を崩さなくてはならない。
本隊は分断した敵戦力の壊滅にまだ時間がかかるので今すぐの救援は望めない。
この状況で可能な手段は一つしかない。
レジスが狙ったように、敵大将の首を取る以外にこの状況を覆す方法はなかった。
「お任せをっ!」
無理な注文を、アナベルは当たり前のように受け入れる。
リードリットを目立たせないようにするには、自分が前に出るしかない。
常に前線に身を置いてこそいたが、リードリットのわきを固め、背後を守ることを自分の職務としてきたアナベルが、個人の実力を前面に押し出す機会は少なかった。
リードリットに巻き込まれて武の道に進んだと勘違いしている者が多いが、リードリットに従い騎士となったことも、その後の戦場に従ったことも、すべては自らの意思で決めたことだった。
一人の男を追い、王位を捨て、王族としての身分も捨て、新たな道を進むと決めたリードリットについていくと決断した時、アナベルはこれまでのような、主に従うという姿勢を改める必要があると理解していた。
今ここにいるのは、自分がそうしたいと考えたからだ。
リードリットのためではなく、自分が自由のための戦いを望んだからだ。
命じられたからやるのではない。自分の意思で行うのだ。
アナベルはこの時初めて、守るため以外の目的でリードリットの前を走った。
女性としては極めて大柄なアナベルの身体は、この場で剣を持つ誰よりも大きかった。
加えてリードリットがカーシュナーから魃馬を奪い取ったことで、おまけとしてダーンから譲られた魃馬は駱駝などとは比べもにならない程の威圧感を放っている。
実際馬であるにもかかわらず雑食の魃馬には牙があり、その激しい気性も相まって、その背にあるアナベルに劣らぬ暴れ振りでゾン兵を屠っていた。
荒ぶる馬に跨った巨漢の戦士の突進を阻めるゾン兵は一人もおらず、ゾン軍の囲みは巨大な槍の一突きを受けたように切り裂かれていった。
その槍先が求めるのは大将セリームの首。
盾の役目を全く果たさない兵士たちを呆然と眺めていたセリームであったが、アナベルの鋭い眼光が見分けられまで近づくと、本能的な恐怖に駆られて逃げ出した。
「ただの一合も剣を交えず、兵を見捨てて逃げる大将がどこにいるっ!」
その背にアナベルの怒声が突き刺さる。
屈辱的な言葉を背に浴びせられても、セリームには跨る駱駝を返すつもりはなかった。
両者はゾン兵の囲いを突き抜け、無人の大地を駆け続ける。
だがそれはわずかな間のことでしかなかった。
駱駝と魃馬では脚が違い過ぎる。
瞬く間にアナベルがその距離を詰めると、セリームは恐怖に顔を引きつらせてようやく剣を抜いた。
「何もかもが遅いわっ!」
身を守るべく差し上げられたセリームの剣を叩き落とすと、アナベルは返す刀でその首を空高く斬り飛ばした。
その首を後に続いていたリードリットが槍先で器用に受け止め、高々と掲げる。
「貴様らの大将セリームは討ち取ったっ! 我らの勝利だっ!」
そして馬首を返したアナベルが、戦場全体に轟かんばかりの大音声で勝利を宣言する。
ゾン兵たちは一瞬静まり返ると武器を捨て、逃げ出し始めた。
セリームの幕僚たちがなんとか潰走する兵をまとめようとしたが、リードリットたちに従ってきた部隊に討たれ、統制の整っていた軍は、始めに奴隷解放組織が演じたような烏合の衆に成り下がった。
「助けていただき、ありがとうございます」
包囲が解かれたことでようやく自由に身動き出来るようになったレジスが、自分たちを救ってくれた二人の下に駆け寄り頭を下げる。
その後に肩を落とすセダートが続き、無言で頭を下げる。
「被害状況はどうか?」
二人の礼には答えず、アナベルはあくまで戦場に立つ者としての振る舞いで問いただした。
「……両部隊共に約半数を失いました。おおよそ千人の被害が出ております」
頭を下げたレジスは顔を上げることが出来ず、自分の不甲斐なさを噛み締めながら、地面の小石に視線を向けつつ報告した。
「俺の責任ですっ!」
そこにセダートが割って入る。
「戦いはまだ終わってはいない」
怒鳴りつけるような言葉ではなく、ただ事実を告げるだけの平板な言葉だったが、その裏に潜むアナベルの軍人としての厳しさに打たれた二人は、思わず顔を上げた。
「正規の軍人でなくとも、お前たちは奴隷解放組織の戦士だ。戦うということ、戦場にあるということをもっとしっかりと意識しろ。戦いも知らない女子供のような感傷に耳を貸している余裕はない。私たちはこのまま逃げ出したゾン兵の追撃を行う。二人は部隊をまとめ直し、負傷兵の救援と、この場に残ったゾン兵の捕縛に努めよ。賞罰に関してはすべてが処理されて後、首領であるファティマが行うことだ。隊を任された以上、お前たちに自分たちの判断を嘆いている時間などないと知れ。任された職務を全うせよ」
セダートとレジスは、無意識の内に姿勢を正し、アナベルの言葉を受けた。
「判断は悪くなかった。だが、すべてが正しかったわけでもない。一つの間違いが敗北を招く。だから全体の戦術があり、我らはその戦術に従う必要があるのだ。次に勝つために、肝に銘じておけ」
それだけ言うとアナベルはセダートとレジスに背を向けた。
「おおっ、そうであったっ! こいつを頼む。まだ戦っている本隊に届けてやってくれ。これが届けば決着が早い」
リードリットはそう言うと、セリームの首が刺さった槍をレジスに放り投げた。
慌ててレジスが受け取ったときに、アナベルとリードリットは率いて来た部隊に合流し、逃げ散るゾン兵の追撃にあたっていた。
一瞬呆気に取られるも、レジスはすぐに行動を開始した。
セダートに部隊を頼むと、自身はセリームの首を掲げて本隊が戦う戦場へと走り出した。
任されたセダートも遅れることなく自分の任務に戻る。
後にこの戦いはファティマとラニが立てた戦術の巧みさを伝える圧勝劇として語り継がれることになる。
そこにセダートとレジスの名が語られることはなく、ましてやアナベルとリードリットの名前が出てくることはない。
ただこの後、セダートとレジスの名は幾多の戦語りの中で見られるようになる。
奴隷解放組織の欠くことの出来ない指揮官として――。